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時刻は深夜二時を回っていた。
ベッドの上に横たわる彼に背を向けて、ココアを片手に頁を繰る。
私の大好きな時間。しかも今日は激しい雨音に暴風というオマケ付きだ。
決めた。明日も、行かない。
ベッドの上に横たわる彼に背を向けて、ココアを片手に頁を繰る。
私の大好きな時間。しかも今日は激しい雨音に暴風というオマケ付きだ。
決めた。明日も、行かない。
「嵐とかって、この世に一人きりな気分になれて好き」
私の呟きに、トオルは体の半分を毛布に埋めた状態でこちらを振り向いた。
「は? 何言ってんのおまえ。俺は大嫌い。
大体、『この世に一人きり』なんて考えただけで怖いじゃん」
不満げに唇を尖らせる彼に、私は少しいびつな微笑みを向けた。
「全てを無視していーんだよ、って言われてるみたいじゃない。
何も考えなくていーんだよ、って」
轟音は雑音を遮断してくれる。
降りしきる雫のカーテンは、見たくないものを覆い隠してくれる。
だから、激しい風雨が好き。
「束の間だから、そう思えるんだよ」
彼は相変わらず憮然としてこう呟いた。
「そうかも、しれないね」
明るいお日様の下が似合う彼は、昔から外で遊べないような天気の日は不機嫌だった。
ずっと一緒にいたはずなのに、どうして何もかもがこんなにも異なってしまったのだろう?
「おまえ、明日はちゃんと学校行けよ?」
ポンポン、と頭を撫でる幼馴染の骨ばった手。私だけじゃない。
彼は、沢山の人にその手の温もりを分け与えることが出来る。
他人に触れることを恐れている私とは違って。
「風、止まなければいいのに」
小さな呟きに、トオルの瞳が少し哀しげに曇る。
「私ね、ヒトを眺めるのは凄く好きだけど、直接ヒトと関わるのは凄く怖いの」
そんな私の言葉を、彼は黙って受け止めてくれる。
「小学校に入ったばっかりの頃、ちょっとしたイジメにあったことがあったじゃない?
首謀者はクラスの人気者で、優等生で、誰も彼がそんなことを指示したなんて信じなかった」
首謀者はクラスの人気者で、優等生で、誰も彼がそんなことを指示したなんて信じなかった」
「ああ……コウヘイ、だっけ?」
ペットボトルの炭酸飲料を啜りながら、彼はぼんやりと記憶の糸を手繰るように答える。
「車通りの激しい交差点で信号待ちをしているときに、後ろから車道に
向かって突き飛ばされたり、ランドセルの中身を道端にばら撒かれたり。
それも全部自分の手は下さないんだよ?
取り巻きたちが指示通りに動いているのを、彼は笑って見てるだけ」
向かって突き飛ばされたり、ランドセルの中身を道端にばら撒かれたり。
それも全部自分の手は下さないんだよ?
取り巻きたちが指示通りに動いているのを、彼は笑って見てるだけ」
あの頃の自分を思い出し、苦笑が漏れる。
誰にも、言えなかった。言ってしまったら彼らに屈してしまうような気がして。
悔しくて、悲しくて、涙を流すことすら出来なかった。
そしてとうとう、我慢の限界が訪れたある日、
傷だらけになってボロボロの教科書を手に帰宅した私を、母が問い詰めた。
「ママから連絡を受けた先生がコウヘイ君を呼び出して、
私にそんなことをした理由を聞いたら、彼、何て答えたと思う?」
私にそんなことをした理由を聞いたら、彼、何て答えたと思う?」
悪戯に微笑んで問うてみると、トオルは大して興味もなさそうに
「さあ?」
と呟いた。
「私のことが好きだったから、だって! 私に自分を見てほしくて、
取り巻きを使ってクダラナイ嫌がらせを続けてた、って白状したんだって」
取り巻きを使ってクダラナイ嫌がらせを続けてた、って白状したんだって」
幼かった私は、彼をどうしても許せなかった。
“好き”という気持ちは、果たして免罪符になる得るのだろうか?
同じ“好意”の名の元に、傷を受けたヤエと二人、よくそんな話をしたことを思い出した。
運動神経も良く、頭も良い『コウヘイくん』はその後も女の子たちによくモテた。
つまりは隠蔽されたのだ、彼が私にしたことも、私が彼に対して負った傷も。
それから私は、人の好意を怖れるようになった。
それから私は、人の好意を怖れるようになった。
私を好きだ、と伝えてくれた人が、翌日には「無神経」と私を詰る。
怖かった、人と関わることが。
好意も、悪意も、誰かの“感情”が自分に向けられることが、とにかく怖くて仕方がないのだ。
嵐の日は良い。人と会わずに済む。
激しい風が、人の想いも、私の気持ちも、全てを攫って行ってくれる。
唸るような風音が、全てを覆い隠してくれる。
風が凪いでしまえば、丸裸でたった独り、“世界”に弾き出されてしまう。
それが不安で不安で堪らないのだと、彼は気づいているのだろうか?
風が凪いでしまえば、丸裸でたった独り、“世界”に弾き出されてしまう。
それが不安で不安で堪らないのだと、彼は気づいているのだろうか?
嵐の度にずぶ濡れでここを訪れ、何をするでもなく淡々と話をし、
本を読みふける私を、どう感じているのだろうか。
本を読みふける私を、どう感じているのだろうか。
「……いいから黙って、おまえはもう寝ろ。
明日は俺が一緒に、学校まで送ってやるから」
明日は俺が一緒に、学校まで送ってやるから」
どこか苦しそうな瞳で私を見つめると、彼はそっと私の身体を自分の傍へと引き寄せた。
交わることの無い温もりが、憂鬱な気分を少しだけ安らがせてくれる不思議。
彼はきっと、嵐ではなくそよ風だ。
いつだって明るい世界に私を誘ってくれる、太陽の下に吹く木々を揺らす風。
彼が一緒にいてくれるならば、明日こそは行けるだろうか。
沢山のヒトの待つ、大きな、大きな広い世界に……。
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「うん……うん、だから今日は帰れないってば。サユリんちに泊めてもらうから。
……いいよ、迎えに来ないで」
濡れた髪を拭いながら、携帯を耳元に当てた彼女の背中をそっと見やる。
貸したTシャツの襟ぐりの少し上、隠れるか、隠れないかの絶妙な位置に、その痕はあった。
以前、彼女が必死に隠そうとしていたもの。私が見てみぬフリをしてきたもの。
今日一日で、それが壊れる予感を、私は感じていた。
以前、彼女が必死に隠そうとしていたもの。私が見てみぬフリをしてきたもの。
今日一日で、それが壊れる予感を、私は感じていた。
「おうち、大丈夫そう?」
フゥ、と溜め息を吐いて携帯を手放した彼女に、努めて自然な調子で話しかける。
「うん。……たぶん」
彼女は少し困ったように笑って、頷いた。
外は雷雨。雨は、一晩中止まないと天気予報が告げていた。
「……気持ち悪いって、思わないの?」
静かに問いかける、彼女の声。あの日も、激しい雨が降っていた。
「さっきの電話の相手……弟さん?」
知っていて、知らないフリ。彼女を、傷つけたくなかった。
「うん、そうだよ」
彼女はすっと立ち上がった。窓の外を見つめる視線が遠くを彷徨う。
真っ直ぐで、強い瞳だった。
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『あの、ナオミは、うちの姉はどこにいますか!?』
校門で、傘を手にしたずぶ濡れの少年に話しかけられたとき、
私も、一緒にいた幼馴染も驚きを隠せなかった。
私も、一緒にいた幼馴染も驚きを隠せなかった。
『さあ、わかんない……ナオミちゃんは、もう帰ったんじゃないかなぁ?』
『そんな……っ!』
慌てて答えた私に彼は焦ったように舌打ちをして、その後すぐに頭を下げた。
『すいません、どうもありがとうございましたっ!』
告げるや否や、再び雨の中に駆け出していった思春期の少年の背中。
思えばそれが、始まりの時だったのかもしれない。
『何だぁ、アレ?』
『さぁ……ナオミちゃんの弟さんかなぁ?』
呆然と呟いて、少年を見送った翌日。
『昨日、弟さんみたいな子が探しに来てたよ。ちゃんと濡れずに家帰れた?』
と話しかけた私に、ナオミは一瞬顔を強張らせて、次に頬を染め、
溜め息とも吐息とも付かぬ息を吐き出しながらこう答えた。
溜め息とも吐息とも付かぬ息を吐き出しながらこう答えた。
『うん……ごめんね』
気の強いナオミが初めて見せた、安堵のような、哀しみのような表情に、
思わず目を見開く。
思わず目を見開く。
『弟さん、ナオミちゃんのこと大好きなんだね。あんな必死になって……』
『やめて!』
話を誤魔化すようにからかう私の言葉を、常に無い強い口調で彼女は遮った。
『そんなことない……お母さんに、頼まれただけだから』
いつも冷静な彼女の綻び。
それがどこから生じるものか、日を追うごとに気づいていかざるを得なかった。
それがどこから生じるものか、日を追うごとに気づいていかざるを得なかった。
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時たま顔を合わせると無表情に会釈をする。
背も伸び、体つきもたくましくなった彼女の弟。
背も伸び、体つきもたくましくなった彼女の弟。
あの雨の日から変わることなく、姉を見つめる目はどこまでも優しく……深い。
そして彼女も、また。
「彼氏がいない」と公言し、またその素振りを見せたことがない彼女が、
最初に隙を見せたのは共に訪れた下着売り場でのことだった。
最初に隙を見せたのは共に訪れた下着売り場でのことだった。
カーテンの向こうの、狭い更衣室。彼女は店員の採寸を断った。
ブラウスの隙間から、うっすらと覗くそれに、気づかないふりをしてきた私。
その私に、彼女がハッキリとした言葉で伝えた瞬間だった。
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『気持ち悪いでしょ?』の続きを、私は確かに知っている。
彼女の期待する答え。私の思う答え。そうして暫しの沈黙……
正確に言えば、窓の外からひっきりなしに轟く雷鳴の音が響いてはいたが。
正確に言えば、窓の外からひっきりなしに轟く雷鳴の音が響いてはいたが。
逡巡を経た後、私は静かに口を開いた。
「私はさ、善悪の定義なんて場所とか、時代とか、人によってコロコロ変わるもんだ、
って思ってるし、“今”何が正しくて何が悪いかなんてわかんないよ。決めらんない。
……ただ、それが“イケナイ”って言われてる世の中だって解ってても
そうしたい、って覚悟決めてるなら、私はそれでいいと思う。
文句とか、批判とかは言わないし、言えないよ」
って思ってるし、“今”何が正しくて何が悪いかなんてわかんないよ。決めらんない。
……ただ、それが“イケナイ”って言われてる世の中だって解ってても
そうしたい、って覚悟決めてるなら、私はそれでいいと思う。
文句とか、批判とかは言わないし、言えないよ」
本当は、止めるべきだったのかもしれない。
それは間違ってるんだよ、お互いの“シアワセ”を考えるなら早くやめなよ、と。
そう告げなかった私は、冷たくて酷い友達なのかもしれない。
それは間違ってるんだよ、お互いの“シアワセ”を考えるなら早くやめなよ、と。
そう告げなかった私は、冷たくて酷い友達なのかもしれない。
でも言わなかった。言えなかった。だって。
「あんたたちが“イケナイ” なら、私だって……」
“男”を呪い、“女”を憎み、同性に叶わない気持ちを抱いた。
何が違うというのだろう? ただ、正常な命のリレーから外れたもの同士。
何かが崩れ落ちるように泣き出した彼女に向かって呟いた私の囁きは
轟音に溶けゆき、闇の中へと消えて行った。
何かが崩れ落ちるように泣き出した彼女に向かって呟いた私の囁きは
轟音に溶けゆき、闇の中へと消えて行った。
→『暴風ときどき引きこもり』
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雨が降っている。
部活動も中止となり、ほとんど人の気配のしない放課後の教室に、私と彼女はいた。
中学校以来の同級生の彼女は、数少ない“私”を知っている人間だ。
「初めて“性行為”ってやつを経験したのは、多分4歳のとき」
オレンジジュースの入った紙パックに刺さったストローを吸う彼女の唇は紅い。
ルージュもグロスも、一切付けてはいないはずなのに。
「相手? 同い年の男の子。同じクラスのね」
少し乾いた茶色の髪をかき上げて、彼女は淡々と続けた。
「保育所の昼寝の時間だった。
あんたは幼稚園育ちだから知らないかもしれないけど、
保育所には必ずお昼の後に“おひるねのじかん”てのがあってね。
ホールに布団を敷き詰めて全員で昼寝するんだけど」
一旦言葉を切ってストローを口から遠ざけた彼女の手が、少し震えている。
「あいつは隣に寝てた。気がついたら私の布団に潜り込んできた。
『あっちに行ってよ』って言っても、聞いてくれなくて……」
彼女は苦しそうに瞳を閉じた。
「からだ中をまさぐられたわ。胸も、大事なところも全部触られて、舐められた。
もちろん子どもよ? 濡れるわけないし、とにかく怖かった。
怖くて、怖くて……声も出せなかった。相手が同じ4歳児でもね」
吐き棄てるように、彼女は言った。
「“おひるねのじかん”が恐怖だった。毎日毎日どうやって彼の隣を避けるか、
そればっかり考えてた。でも、運悪く隣になると、同じことをされた。
あの時の私には、“それ”がどんな意味を持つのか分からなかった。
私の処女膜が破かれなかったのは偏に彼に精通がなかったおかげだと思う」
「ヤエ……」
かけられた声に、彼女は嗤った。
「彼だけじゃない。保育所の庭で“トモダチ”の女の子に足を広げられて
木の枝で大事な部分を弄られたこともある。
体に噛み付かれて消えない痕を残されたことも、何度もある。
私がいたのは、そういう場所だった」
彼女の虚ろな瞳は、最早何も映してはいない。
「そのうち、時が経って、あの子達のしていたことが何を真似ていたのか
分かるようになって……AVを見てたんだか生のセックスを見てたんだか
分からないけど? 何とか、理解しようと思った。
人間誰もがいずれすることなら、好きになろうと思った。
だから、そういう本を読み漁ったし、
周りの友達にも積極的にそういう話題を振るようになった」
そう、だから彼女は、周りから“そういう目”で見られている。
『エッチのことはヤエに聞けばいい』と。
「でも、ダメだった。頭では完璧に分かっているはずなのに。キスすら出来ない。
他人の唇が、唾液が自分のどこかに付着するって、
それだけで気持ち悪くて堪らないのよ。吐き気がして止まらなくなる。
思い出すのよ、怖くて怖くて、どうしようもなかったあの感覚を。
そんな風になる自分が怖くて、気持ち悪くて、恥ずかしくて堪らないの。
あれから何年も経ってるのに、周りの子がとっくに“ハジメテ”を経験してるのに……。
ねえ、笑えるでしょう? 男の子にはAVを回して、女の子にはゴムを配る私が、
本当はセックスなんて一生しなくていいと思ってるなんてね?」
『経験豊富』と囁かれるヤエに、彼氏がいるという噂はついぞ聞いたことがない。
学校のみんなは『年上の社会人と付き合ってる』とか、『他校にセフレがいる』とか
囁くけれど、八重にそんな相手がいないことは私が一番よく知っている。
「彼氏のいる子が、羨ましくないわけじゃない。好きな人だってちゃんといた。
でも、ダメなの。一人じゃないと、ダメなの。だって今でも、本当はみんなが怖い。
触れてくる手が、恐くて、怖くて堪らないんだもの」
壊れそうに微笑う彼女の手に、そっと触れようとして。
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「最近のブラジャーって、最初からみんなパットが入ってるじゃない?」
マニキュアを塗ったばかりの爪と睨めっこをしながら、彼女が呟く。
「だから、みんなの言うAカップとかBカップとかの感覚って、
パットを装着した上でのサイズなわけよね」
ああ、それで。
何となく納得したような表情を浮かべた私に、彼女は微笑んで見せた。
「AからCまでの子は、大抵パットを付けたままブラをするわ。
E以上の子は、パットを外して使う。
だから、パットをしてないEカップの子はDくらいに見えるし、
パットを付けたCの子とそう変わらない大きさに見えるかもしれない」
「ふうん」
気のない相槌を打つ私を気にする風でもなく、彼女は言葉を続けた。
「一番難しいのは、Dくらいの子ね。パットを付けたり付けなかったり。判断に困るわ」
乾きかけた爪に向かい、ふう、と息を吹きかける横顔は、息を呑むほど美しい。
「どうして、マユミさんはそんなに女の子の胸のサイズを知りたがるの?」
「あら、だって私好きなのよ。おっきいオッパイ」
私の問いかけに、ケロリと答えて見せた彼女は、いわゆる“同性愛者”というやつだ。
どっちつかずの私にとって、憧れのひと。
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『男のセックスは、部品を嵌め込むセックスよ。
男と女はその部品がぴったり嵌まるけど、男と男は少しいびつな形になるから
ちょっと痛いのよね。でもね、女のセックスは違うわ。嵌め込むんじゃなくて、
溶け合うの。身体と身体がこれ以上ないくらいくっついて、一つになるの。
サユリちゃんの好きなカタツムリの交尾に近いわね。
私は部品を嵌め込むより溶け合う方が好き。だから、女の子が好きよ』
以前彼女が言っていた同性を愛する理由が、私には眩しく映った。
彼女とならば一つになってみたい。
そんな、漠然とした憧れを抱いていたあの頃。
女の身体を、ようやく愛しいと思えるかも知れないと淡い期待を感じていたあの頃。
~~~
「でもE以上って、中々かわいい下着ないじゃない。マユミさんはどうしてるの?」
大きい胸が好きだという彼女は、自身もまた豊満な肉体の持ち主だ。
「海外から取り寄せてるの。ちょっと高いけど」
ウィンクをして見せた目許は、いつも濡れるような輝きを放っている。
「いいなぁ。いいなぁ。マユミさんは、何でも持ってていいなぁ」
八つ当たりなのか、独り言なのか分からない本音。
彼女は困ったように笑って、私の頬を撫でた。
「……ねえ、マユミさん。“レンアイ”ってどうやってするの?」
男にも女にもなれない。自分で自分が分からない。
そんな私が、“レンアイ”なんてできるのだろうか。
彼女自身に、彼女への想いを否定されてから。
ずっと私は迷っている。自分はどこか欠けた人間なのではないかと。
「さあ……ねえ?」
こればっかりは私にも分からない、と呟いて顔を背けた彼女は、
いそいそと化粧を終えて、カバンに財布と携帯を入れた。
きっとこれから、恋人との逢瀬に出かけるのだろう。
「……マユミさん」
ローファーに足を通し、玄関のドアノブに手をかけたまま、私は振り向く。
「なあに? サユリちゃん」
ルージュを塗り終えた彼女が、鏡台の前から私を見る。
「また、来てもいい?」
縋るように問いかけた私に、彼女はまた少し寂し気な、
どこか困ったような微笑を浮かべた。
「いいわよ。いつでも」
私はようやく安心して、アパートを去る。
夕暮れが目に沁みる。彼の顔が、心に浮かんだ。
→『雨ときどきセックス嫌悪』
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時々、乳房というものをどうしようもなく鬱陶しく感じて、
切り落としたくなるような衝動に駆られる。
切り落としたくなるような衝動に駆られる。
むしろ、女としての自分の身体を切り裂いて棄ててしまいたい、そんな衝動。
何だか酷く、苛々する。
「普段そんな格好ばっかしてるのに?」
Eカップの胸元を強調するピッタリとしたキャミソールにミニスカート、
薄いカーディガンを羽織っただけの私を指差し、彼は嗤う。
薄いカーディガンを羽織っただけの私を指差し、彼は嗤う。
「……この前ママにも言われたわ。一緒に買い物に行ったデパートで、
襟ぐりの開いたサマーセーターを見てママったら、
『わあ、この服サユリっぽい!』って」
襟ぐりの開いたサマーセーターを見てママったら、
『わあ、この服サユリっぽい!』って」
「おまえ、親にまで乳キャラ扱いされてんのかよ!」
私の言葉に、彼はクックッと声を立てて笑った。
「だって、他にアピールできるとこが無いんだから仕方ないじゃない」
憮然として呟けば、彼はポリポリと頭を掻きながら首を傾げて見せた。
「わっかんねーなぁ。コンプレックスの源なのに、アピールポイントなんだ?」
「……あのね、トオル」
彼の問いかけに、私は口を開く。
「ん、何?」
彼は興味深げに私の顔を覗き込む。
「私ね、女でいたいの。女としての私にとっては、おっきな胸は嬉しいの」
「はあ?」
先ほどまで女の身体を切り裂きたい、とまで言っていた私の言葉を、
まるで理解できないというように彼は眉を顰めた。
まるで理解できないというように彼は眉を顰めた。
「でも、女でいたくないの。男になりたいの。でも、男になりたくないの」
彼はますます怪訝な表情で、こちらを見る。
「あのね、時々、手術受けようかなぁ、って思うの」
「……はぁ」
「でも、いざ切り取ったらきっと後で物凄く後悔するんだ、私」
「……そう」
「だって、女としての私には、必要なんだもん、これが」
「……うん」
「でも、時々凄く邪魔になるの。取り外し可能だったらいいのにね?」
「オイ!」
笑いながら言うと、呆けたように私の言葉に耳を傾けていた彼から、
ようやくまともなツッコミが入った。
ようやくまともなツッコミが入った。
「女でいたくなくなるの。嫌なの。女でいるのも、男になるのも。
どっちにもなりたいし、どっちにもなりたくない。
どうして、人間には性別なんかあるんだろう?
カタツムリみたく、両方持ってればいいと思わない?」
どっちにもなりたいし、どっちにもなりたくない。
どうして、人間には性別なんかあるんだろう?
カタツムリみたく、両方持ってればいいと思わない?」
そう言って彼を見上げれば、彼は困ったようにため息を吐いた。
「カタツムリって、おまえなぁ……」
「カタツムリの交尾、昔トオルも一緒に見たでしょ?
二匹がピッタリくっついて、隙間からニョロニョロ卵が流れてきて。
あれ、面白かったじゃない。人間もそうやって子作りすればいいよ」
二匹がピッタリくっついて、隙間からニョロニョロ卵が流れてきて。
あれ、面白かったじゃない。人間もそうやって子作りすればいいよ」
私はカタツムリが好きだった。
雨の季節は毎年カタツムリを取りに行って、産卵を終えるまで育てていた。
雨の季節は毎年カタツムリを取りに行って、産卵を終えるまで育てていた。
「そんなグロイ話、思い出させんなよ」
彼はそう言って私の頭を小突く。
「うちのパパ、ママのヒモじゃない?」
「……まあな」
「いっつもね、困るんだ。
『お父さんは何のお仕事をしてるんですか?』って聞かれると」
『お父さんは何のお仕事をしてるんですか?』って聞かれると」
「そうだな」
彼は頬杖をつきながら、私の言葉に時たま相槌を打つ。
その、ゴツゴツと節くれだった手の甲が、愛しくて憎らしい。
「あとね、ママ時々言われるの。
『旦那さんと子供さんを養われるなんて、大変でしょう?』って。
『そんなテーサイの悪いこと、そろそろやめなさい』って。
口で直接言うんじゃなくて、色んなとこで」
『旦那さんと子供さんを養われるなんて、大変でしょう?』って。
『そんなテーサイの悪いこと、そろそろやめなさい』って。
口で直接言うんじゃなくて、色んなとこで」
「おま、それ……」
「私、よくママの会社顔出してたじゃない?
何回も通ってると、子供だって気づくよ」
何回も通ってると、子供だって気づくよ」
思い出したくない記憶に、ふっと苦い笑みがこぼれる。
いつも優しい微笑を絶やさない母の、笑顔が途切れた瞬間。
いつも優しい微笑を絶やさない母の、笑顔が途切れた瞬間。
「男とか女とか大っ嫌いなのに、その境目を誰よりも気にしてんのは私なの」
「ジェンダーコンプレックスのカタマリだもんな、おまえ」
「……そうだね」
そっと、手のひらを自分の乳房に当ててみる。
さっきまであんなにも引き千切りたい衝動に駆られていた乳房が、
今度は何だかとても、愛しいものに思えた。
さっきまであんなにも引き千切りたい衝動に駆られていた乳房が、
今度は何だかとても、愛しいものに思えた。
→『曇り時々レズビアン』
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