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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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長くなってしまったので分けます。本当は『花に砂』と対で書きたかった・・・orz

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週に一度、砂の一族の女たちは一堂に会す。族長夫人(ハトン)であるサキを囲み、時には皆で糸を紡ぎ、時には粉を引き、時には髪結いや化粧の仕方について年長の者が若い娘に指導する機会もある。女たちにとって数少ない楽しみは、同時に子女の縁談や小規模の商談が取りまとめられる貴重な社交の場でもあった。男たちは日々野に繰り出し、羊を追い獣を狩るが、里の中のことを決める役割は実のところ女たちに大きな権限があった。
メイもその集まりに招かれてはいたものの、“余所者”であることとハーンの実弟であるカサルの預かりになったことへのやっかみも相まって水に浮いた油のように周囲の者からは敬遠され、一人隅に腰掛けて黙々と針を刺していた。そんな彼女に声をかけたのは、やはり自らも“余所者”であったハトン・サキだった。人の輪を掻き分けてメイの前に進み出たサキは、その手元を覗きこんで一瞬目を見開くと、にこりと笑ってこう告げた。
 
「メイさんは刺繍がお上手ね。この鮮やかな花の文様、とても懐かしい……」
 
メイは驚いてサキを見た。
 
「とんでもない、ハトンこそ、先ほどから遠目にも分かるほど鮮やかなお召し物(デール)を縫われておいでのご様子でしたが……」
 
慌てて応えたメイに、サキは少し寂しそうに微笑んだ。
 
「わたしも、初めはこんな服の作り方なんて知らなかったわ。わたしは元々華の国の生まれだから……でも今は、その文様の刺し方を忘れてしまった」
 
若く雄々しきハーンに愛され、明るく華やいだ印象を持つ彼女の放った言葉が意外で、メイは布地に落としていた顔を上げた。
 
「ねぇ、メイさん。この文様の刺し方をわたしに教えて下さらないかしら? 代わりにわたしは、あなたにデールのことを色々と教えてさしあげることができると思うの。どうかしら? 御迷惑でなければ……」
 
サキの提案に、メイはハッとして彼女の瞳を見返す。ハトンは気づいていたのだ、メイが一族の女たちに爪はじきにされ、所在なげに佇んでいたことを。
 
「はい、ハトン。願っても無いお申し出、ありがたく存じます……」
 
頬を染めながらメイが頷けば、サキの顔には花のような笑みが広がった。
 
それから、メイは毎日のようにハトンから家(オルド)に招かれるようになった。翠の国の人質だったメイと、華の国から売られてきたサキ。互いの立場への共感が、絆となって二人を繋いだ。サキは初めて出来た気兼ねなく付き合える同世代の友人に喜んだし、メイは自分と同じような辛酸を嘗めながら素直さを失わないサキを貴重な存在に感じていた。
 
サキと親しくなればなるほど、メイと共に暮らすカサルとの関係も少しずつ変わっていった。サキの元で新しい料理を覚えて帰れば、それまでは「飯炊き女のようなことをするな」と拒んできた食事をメイと共に食べてくれる。サキから教わった方法で新しいデールを縫いあげてみれば、「気を回すな」と言いながらもそれを身に付けて馬に跨る。初めのころは事務連絡程度だった会話も一つ増え、二つ増え、遂には帰宅の際に「ただいま」の挨拶が帰ってくるまでになったのである。
まるで作り物のように美しい造作の持ち主だが、余り変わることの無い表情が人間的な魅力を損なっている――そんな印象を受ける彼にも、些細な瞳の動きや仕草から心の機微が窺えることにこの頃のメイは気づき、それを好ましく感じるようになっていた。流れ流れてこの地に来たが、自分はどうにか“居場所”を見つけられたのではないか――
そんな風に考えていた矢先のことだった。メイが、それまで目にしたことの無かったカサルの笑顔を見つけてしまったのは。
 
 
~~~
 
 
「……だろう? サキは」
 
「まぁ、嫌ねカサルったら。まだ早いわよ、わたしは……」
 
楽しそうな笑い声に、メイは聞きなれた響きを感じて足を向けた。そこは遥か華の国を臨む小さな丘の上。カサルは笑っていた。メイが一度も目にしたことの無い、朗らかで明るい表情(かお)で。
 
「そういえばカサル、メイさんとはどうなの? もう半年も経って……そろそろ、あの方もきちんとした立場をお望みではないかしら?」
 
ハトンの唇から洩れた己が名に、物陰に佇んでいたメイは思わずどくどくと高鳴る胸を押さえた。
 
「……彼女がそう思っているなら……兄上に頼んで、どこか良い嫁ぎ先を探してやれば良いだろう。一族にも大分馴染んだ……料理や裁縫の腕も、随分上がっているようだし」
 
一瞬、先ほどまで激しく脈打っていたはずの心臓が鼓動を止めてしまったかのような錯覚を感じた。カサルの言葉が氷塊となってメイの全身を包み、全ての動きを凍らせたのだ。
 
「そんな言い方って酷いわ、カサル! メイさんが何のために、誰のために里に馴染み、必死になって私の元に通っていたか……知らないわけではないでしょう!」
 
顔を歪めて叫ぶサキに、カサルは何も応えず俯くだけだった。
 
「もう良いわ、メイさんのことはあなたの言う通りもう一度エルベク様に相談してみます。……あなたは、それで良いのね?」
 
そんな彼に向かい、吐き捨てるようにそれだけを告げてサキが踵を返す様を、メイは微動だにできず見守っていた。
 
「サキ……」
 
囁くようにこぼれたカサルの声。そして、去っていくサキの背中に注がれた切ない眼差し――メイは確信せざるを得なかった。
何故今まで気づかなかったのだろう、彼のハトンへの想いに。彼は、メイ自身に好意をもって料理を食べてくれたわけではない、袖を通してくれたわけではない。その後ろにサキの姿を見たからだ。挨拶を交わしてくれるようになったのも、ゲルに留まる時間が長くなったのも――全て、全て彼女がハトンの元で砂の一族のことを学んでいたからだ。大切な兄の妻であるサキ、決して自分のものにはならない彼女の影を、彼は自分の中に見ていたに過ぎない!
だから彼は自分を正式な家族とする気は無いのだ。その場所には、例え義理の姉と言う形であれ、大切な彼女がいるのだから。偽物は、影は必要ないのだ。メイは一人俯き、頬に手を触れた。冷たい雫が頬を伝っていた。それが翠の国を離れてから何年も流すことの無かった己の涙であることに、彼女は驚き、そして嗤った。
 
「わたくしはまだ、泣くことができたのですね……幹(かん)様」
 
こぼれた名前は、彼女の初恋の男のもの。彼故に、自分は華の国の皇帝に身を許すまいと誓ったのではなかったか。それ故に、この果ての地まで流浪することになったのではなかったか。それを、今更……。メイは静かに泣き続けた。丘の向こうに太陽が沈み、忘れえぬ苦渋でもって彼女を苛む彼の国が、夕闇に姿を消してしまうまで。
 
 
~~~
 
 
「メイさん、あなたにお話があるの」
 
メイがサキからそんな風に声をかけられたのは、その翌日のことだった。前日、夕飯の支度もせずとっぷりと日も暮れてから帰宅したメイを、カサルは叱らなかった。一瞬戸惑うような眼差しを向けた後
 
『今日は、遅かったのだな……』
 
とだけ呟いた彼に、メイは改めて彼と自分の間にあるものの不確かさを思わざるを得なかった。彼と自分は対等な人間である――当初彼が望んだように。けれど今の彼女には、例え主と使用人という関係すら羨ましく思えた。心配してほしいとまでは言わない、ただ、怒りでも失望でも良い、自分の存在に対して何か確かな感情を抱いてほしい。名前が欲しい、自分と彼を繋ぐ確かな証として、この、関係に――
けれど彼の方はそれを望んでいないのだ。自分たちは別個の存在であり、それがたまたま同じ居に暮らしてというだけ。いつでも切り離せる“対等”なその関係に、名前などあろうはずもない。
 
「何でしょうか、ハトン?」
 
メイは顔を上げた。ハトンが今日もたらす報せが何であるか、メイには既に分かっていた。
 
「塵(じん)の里(アイマク)に、先年奥様を亡くされた気の毒な方がいらっしゃるの。奥様の残された赤ん坊を、お一人で育てようと頑張っておいでなのだけど……どうにも、男手一つではね。そこで誰か良い方がいらっしゃれば、お子様の母親代わりに迎えたい、とおっしゃっておいでなのだけど……」
 
「それは……大変なことでしょうね。でも、本当に立派な方ですわ。お子様を一人で育てるなど……」
 
愁いがちなサキにメイがそう応じると、その大きな黒い瞳が真っ直ぐにメイを射抜いた。
 
「そう思ってくださるなら、どうかしら、メイさん? あなたがその方を助けて差し上げては?」
 
来る時が来た――メイは瞼を閉じた。いつかこういう日が来ると分かっていた。予想外だったのは、育った想いと、自らの欲深さだ。凍らせていたはずの心が溶けだした。この地のおかげで、カサルのために。それならば、これ以上想いが深まり、彼の重荷となってしまわぬように。
 
「ハトン、わたくしは砂の一族の人間ではございませんし、元宮女です。それでも、その方はかまわないとおっしゃるのでしょうか?」
 
メイの深い、絶望も諦念も、全てを通り越して前を見据える眼差しに、サキの胸に思わず熱いものがこみ上げた。
 
「……ええ、メイさん。それにあなたはもう十分に、砂の一族の人間ですわ」
 
己の手を握りしめてくるサキの手の温もりに、メイは瞳を潤ませる。この心優しい友人、それだけでメイにとってこの里がもたらした幸福は余りに大き過ぎるように思われた。
 
 
~~~
 
 
「……塵の里に行く、とは本当か?」
 
その日の夜遅く、いつになく険悪な表情で問うてきたカサルに、メイは静かに頷いた。
 
「ハトンが、わざわざご縁を結んで下さったのです。わたくしのような女を必要として下さる方がおいでになるとは、望外の喜びと……」
 
「何故私に一言の断りも入れなかった!? 私のゲルに起居している身でありながら、何故勝手にハトンからの申し出を受けたのか!?」
 
これまで一度も声を荒げたことの無いカサルの激昂に、メイはきょとんとして彼を見つめた。
 
「……カサル様は、ご承知のことと思っておりました。申し訳ございません」
 
メイの言葉に、カサルは目を見開いた。メイの縁談について――正確には、カサルがメイをどう思っているか、という話をサキとしたのはつい先日のことだ。あの時、メイがその場に居合わせていたとしたら……そう考えてしまうのは道理だ。確かに自分は、サキにメイを他の男に嫁がせるよう告げたのだから。それが今、この事態になって何故自分の了解を取らずに話を進めた、と責めるのは筋違いだ。分かっている、だが苛立ちは止められない。これは違う、これは、サキに向けていたような淡く優しい感情ではない。
 
「私はあなたを……あなたに……その、上手く言えないが対等な人間でいたいと言った。けれど今は違うのだ。あなたが目の届かない場所に行くのが嫌だし、私の知らないところで里に馴染んでいくのも嫌だった。そんな自分が恐ろしかった。あなたを召使どころか奴隷のように縛りつけようとする自分が。私は奢っていたのだ。この地であなたの孤独を理解できるのも……癒せるのも、己だけだと思っていた」
 
吐き出してしまった心の恐ろしさに、カサルは口を手で覆った。目の前のメイは彼の言葉に瞳を瞬かせ、そうして、震える声でこう告げた。
 
「わたくしは……わたくしは名前をいただきとうございました。それがこの身を縛るものであっても、わたくし自身の個を損なうものであってもかまいません。“翠の国の贄”でも“華の国の宮女”でもなくわたくしだけの名が、わたくしを、わたくしだけを受け入れてくれる居場所が……」
 
カサルは思わずメイの細い体を抱き寄せる。後から後から涙が溢れる。抱き合いながら二人は泣いた。濡れた頬を拭い、唇を寄せた。長い孤独の果て、乾いた砂の大地に、緑は確かに根を張ったのだった。





後書き
 


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花に砂』続編。カサルとメイ。中央アジア風。

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メイの記憶にある故郷は緑に満ちていた。壮麗な宮殿でも、絢爛な調度で飾り立てられた局でもない。水は清く澄み渡り、穏やかな木漏れ日が家々の窓に柔らかな光をもたらす。悪意に満ちた嘲笑も、冷たい眼差しもそこには存在しなかった。
メイが故郷を離れたのは五年も前のことだった。少しばかり王族の血を受け継いでしまった少女は、許婚と引き裂かれ人質として華の国へ差し出されることになった。祖国のため、家族のため、許婚のため――と訪れた彼の地で待っていたのは、苦すぎる現実だった。あの頃の彼女は幼さ故に、意地になっていたのかもしれない。最下級の妃として込められた後宮で、何としても皇帝の閨にだけは侍るものかと必死だった。
 
『あなたったら、馬鹿ね。陛下はその美貌に随分と興味を示しておいでだったのに、笑わず、泣かず、目つきばっかり鋭くて。陰気を装って侍女たちとさえ口を利こうとしない。そんなことでは女ばかりのこの場所で、いつか困ったことになってよ』
 
同じ時期に後宮に入り、いち早く皇帝の寵を受けた女はそう言って笑った。皇帝の傍らで送り出される自分に物言いたげな視線を投げかけてきた彼女の顔を思い出し、メイは目を細めた。彼女は先年皇女を生み参らせ、今や皇帝の寵は揺らぐことなくその一身に注がれていると聞く。あの鮮やかな女性には似合いの生き方だ。自分とは、違って――
メイは揺れる馬車の内から、外をそっと覗き見た。視界に映るのは果てしなく広がる草原。どうやら彼女が鈍色の青春を捧げた華の国はもう抜けたようだ。そしてこれから、更なる艱難の待つ場所へ、自分は赴こうとしている。メイの口からは、既に自嘲すらこぼれなかった。
 
 
~~~
 
 
砂の一族族長(ハーン)の実弟であり、その片腕と呼ばれるカサルは焦っていた。長きに渡り領土の境目を巡って小競り合いを続けていた華の国との先日の戦――実際には、無謀な侵攻をしかけてきた一地方領主を兄の命を受けたカサルが牽制しただけのことだが――に敗れた華の国が、詫びとして宮女を遣わす、との書面が届いたのだ。
その意味することは唯一つ。その女をハーンに妾として差し出す代わりに今度(こたび)のことは不問に処せ、ということだ。ハーン・エルベクは妻(ハトン)を娶ったばかりだ。そしてその兄嫁・サキのことを、カサルはとても大切に思っていた。
カサルは元々、砂の一族の人間では無い。カサルの母が砂の一族先々代ハーンであったエルベクの父と死に別れて後、再嫁した別の里(アイマク)で生まれたのがカサルだった。母は一人残してしまった兄のことをとても案じていた。
 
『エルベクと仲良くするのよ。あなたがお兄様を支えてあげて』
 
そんな言葉を託されて、幼いカサルは砂の里へと送り出されたのだ。サキが里へやって来たのは、それから二年ばかりが過ぎたころのことであったか。エルベクとカサルの育ての親とも言える先代ハーン夫妻の養女となった彼女は、彼にとって初めての孤独を分かち合える存在だった。カサルがサキに惹かれたのは当然のことであったのかもしれない。
だが彼女を真に振り向かせることができたのは彼の兄・エルベクだった。今在る場所に背を向け、故郷を見つめ続ける彼女と同じ方向を見ることはできても、その眼差しを己に向けさせることは、カサルにはついに叶わなかったのだ。
それでも、彼は故郷を臨むその場所にたった一人佇み続けた。これで良いのだ、自分はこの場所から時たま背後を振り返り、兄とサキが並んで微笑んでいる様を確かめるだけで満たされるのだから、と。そう己に言い聞かせながら日々を過ごしてきたカサルにとって、華の国からの申し出は迷惑極まりない出来事だった。
 
「きちんと断りの文を出したはずだろう! 何故三日後に女が着くというのだ!?」
 
「それが……あちらは我々が遠慮していると考えたらしく強引に……その、宮廷内での権力闘争も絡んでいるようです」
 
声を荒げるカサルに、華の国へ遣いとして出されていた青年はおどおどと応じた。青年の言葉を聞いたカサルは苦虫を噛み潰したような顔になると、深い溜息を吐きだした。
 
「……全く、人間とは醜いものだな」
 
己の利益を害するもの、それが積極的にしろ消極的にしろ――自らの栄達の邪魔になるものは敵を利用してでも排除する。今回彼らは利用されたのだ。そして彼らの元に掃き捨てられた駒がその宮女。カサルはふとその女を哀れに思ってしまった。大切なサキのためには何としてでも排除しなければならないその女に、本心から嫌悪を感じることはできない……彼は元来が、優しすぎる性格だった。
 
 
~~~
 
 
「メイ、と申します」
 
そう告げて頭を下げた女は、美女三千人と謳われる華の国後宮の名にふさわしく匂い立つような色香と憂いを秘めた美貌の持ち主だった。エルベクの傍らに座す新妻・サキも大きな瞳が愛らしい魅力的な女性だが、二人を比べれば百合と花車(ガーベラ)のように異なる趣が漂った。そのサキは不安げな様子で表情を固くし、カサルは緊張の面持ちで兄の言葉を待った。
 
「遠路はるばるよく参られた。書簡は受け取った故、暫し休まれて後はお国に帰られよ……と言いたいところだが、あなたはそうすることができぬ身なのだろうな」
 
ひれ伏すメイに対しエルベクは笑いながら声をかけた。メイの髪に刺さる銀の簪が微かに揺れ、顔の前に掲げられた腕を包み込む金糸の袖がふるりと震えた。
 
「とはいえ、私には先日ようやく迎えたばかりの妻がいてな……何せ口説き落とすまで十年かかったのだ。あなたもこの地で暮らすならいずれとくと聞かせてやろうと思うが……」
 
「エルベク様! やめてくださいっ!」
 
突然見当違いの惚気を始めたハーンに、ハトンは顔を真っ赤にして手を伸ばした。
 
「と、言う訳で当分他の女は目に入らぬ。皇帝の意向は伝わったが、私はあなたをどうするつもりも無い。どうしても我が一族に縁づきたいというのであれば……そうだな、カサル」
 
唐突に呼ばれた己が名に、ハラハラと事の成り行きを見守っていたカサルは驚いて返事をした。
 
「はい、兄上」
 
エルベクは端正な面ざしを持つ繊細な青年へと成長した弟と、目の前にひれ伏す美しい女とを見比べた。
 
「メイ殿、ここにいるカサルは私の異父弟で優秀な補佐役でもあり、成人を迎えた身でありながら妻がいない。どうだ、メイ殿、このカサルの元で暮らしてみては?」
 
「兄上!」
 
兄の口から紡がれた言葉に、カサルは声を上げて抗議の眼差しを送った。
 
「カサル、おまえもそろそろ身を固めるべきだ。見ての通りこれほど美しい女人を、華の国は砂の一族のためにわざわざ“下さった”のだ。応えねば失礼にあたろう?」
 
どこか面白がるような兄の声音に、カサルは唇を噛んだ。一座を見渡せば羨むような、嘲るような下卑た好奇の視線が、自分とメイとを交互に舐め回しているのが分かる。カサルは心配そうにこちらを見つめるサキに気づき、次いで小さく身を震わせている哀れな女を見やって、一つ息を吐きだした。
 
「……わかりました、兄上。彼女のことは私が引き取りましょう。けれど、面倒を見るというだけです。妻として娶ることも、妾として扱うこともしないでしょう」
 
カサルの言葉に、メイは涼やかな目もとを微かに瞬かせた。
 
「良いだろう、カサル。では彼女の身柄はおまえに預ける。メイ殿、あなたもそれで良いな?」
 
「わたくしに……わたくしに否やはございませぬ」
 
掠れたような声が、メイの唇からこぼれた。蛮賊として恐れられてきた砂の一族の慰み者となるために彼女は送り込まれたのだ。粗野な男たちに嬲り殺されるかもしれぬ、という覚悟は精悍な顔立ちと澄んだ黒い瞳を持つハーンに会った瞬間霧消した。そしてその傍らに佇む美しい青年――憂いを帯びた瞳に藍色に輝く髪、これほど整った容姿の持ち主を、故国でも華でもメイは見たことが無かった。
ハーンを挟んで、青年の反対側に座す愛らしく華やかな輝きを放つ女性を見た時、彼女の中の蛮賊像はついに音を立てて崩れ去ったのだ。張りつめていた糸が途切れて初めて、彼女は自嘲することができた。自分は、ここでも必要とされぬ存在なのだ、と。
 
「何分私も最近居を移したばかりで……まだ手入れが行き届いているとは言い難いのだが」
 
そう呟きながら自らのゲルを案内するカサルの横顔を、メイはじっと見つめた。
 
「わたくしにできることは何でもおっしゃってください。精一杯、旦那様にお仕えさせていただきます」
 
深く頭を下げたメイに、カサルは困ったように溜息を吐いた。
 
「そういうのは止めてくれないか。私は……個人的に嫌なんだ。人間の立場が明確に分かたれてしまうのが。だから君が誰かの妾や奴隷に……従属物になるのも見たくないし、対等の立場でいてほしい。特別なことはできないけれど、君のここでの暮らしに不利益ができないように最大限努力する」
 
「旦那様は……カサル様、は不思議な方ですね」
 
新しい同居人の言葉に、カサルは面食らったような表情で黙り込んだ。メイはその様子に、故郷を離れて以来初めて唇がほころびかけている己に気づいた。そんな風にして、二人の暮らしは始まった。





後編


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花と緑』同一世界観。(単品でも読めます)中央アジア風。

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サキの記憶にある故郷は花に溢れていた。ヒュウヒュウと風の吹きすさぶ荒野ではない、小さな家々がひしめくように並び、猥雑な市場からは喧騒が絶えない。獣の咆哮も、乾いた砂塵もそこには存在しなかった。ここに来たのは何時のことであったか、思いだせないほどの時が経ったように思う。どこまでも広がる荒野。蛮賊と呼ばれる砂の一族の治める地。サキは今、そこで暮らしていた。さらりとこぼれゆく砂が、サキの手を離れた。立ち上がり、砂が舞う方角を見やる。その先には、確かに彼女の故郷がある。
 
砂の一族の長(ハーン)には子が無い。世継ぎには先代の子である甥エルベクがいたが、その妻(ハトン)は養女(むすめ)を育てることを執拗に望んだ。困り果てたハーンは華の国から一人の娘を買うことにした――それがサキである。サキの生まれは老舗の商家だったが、父親の代には没落し、多額の負債を抱えていた。そんな中、役人の目を逃れて密かに物流のやりとりをしていた砂の一族――しかもハーンに小金をちらつかされては断るべくもない。幼いサキは初めて跨る馬の感触に怯えながら、遠ざかる故郷に別れを告げた。ハトンは嬉々として娘を迎え、自らの後のハトンを受け継がせるべく丁寧に躾たが、彼女はこの地の暮らしにも人々にも馴染めず歳月を過ごした。そして今、彼女はここに佇んでいる。
 
 
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砂の一族ハーンの世継ぎであるエルベクには毎日定められた務めがあった。誰よりも早く起きて鍛錬に励むこと、馬を駆けて領土の端々を見回ること、叔父であるハーンの講義を受けること、そのついでにサキをハーン夫妻の住居(オルド)まで送り届けること――
華の国から買われてきた少女は形式上ハーン夫妻の養女で、彼の許婚と目されていた。必定、エルベクの務めは二人の距離を近づけようと意図されたハトンからの提案だった。異郷での暮らしに大きな目を見開き、たゆたわせるばかりの少女は、ハトン直々に料理の作り方から裁縫まで……一族の女になるためのあらゆることを学ばせられるのだ。エルベクにはそれが哀れでもあったし、一方で継子を迎えざるを得なかった義叔母の気持ちを慮り、何とかしてその恩に報いたい、と考える節もあった。
とにもかくにも、自分がこの少女を大切にしなければ――
大人しく抱かれるサキを見やり、彼は手綱を握る腕に力を込めた。
 
「さあ、着いたな。おば上ー! サキを連れて参りました!」
 
サキのゲルとオルドはそう距離があるわけではない。その短い間にわざわざ世継ぎの君を寄こすのは、ハトンの執念と言うべきか。エルベクとサキの間に会話らしい会話は無いし、サキをオルドに送り届けるとすぐに、エルベクは羊を追いに馬を駆けて出かけてしまう。いつも物寂しい思いで彼の背を見送る日々を、サキは悶々とした思いで過ごしていた。
 
「まぁサキ、上達したじゃない! それでこそ次代のハトンも務まろうというもの!」
 
「……ありがとうございます、ハトン」
 
三十を過ぎてなお艶やかな脂粉を撒き散らすこの義母を、サキは決して嫌いではない。けれど彼女の我儘のせいで己が家族から、郷里から引き離されたことを思えば、どうしてもハーン夫妻に対する感情にはわだかまりが残ってしまうのは仕方のないことだった。
 
「サキ、あなたは最近カサルと親しくしているらしいけれど……幼い頃ならいざ知らず、そろそろあなたもご自分の立場を自覚していただかなくてはね」
 
「そんな……ハトンにご心配いただくようなことは」
 
俯いて首を振るサキを、ハトンは軽い溜息を吐いて眺めていた。
カサルとはエルベクの異父弟で、エルベクやサキと共にハーン家族の子として育てられている少年。エルベクの母が先代ハーンと死別して後、再嫁した里(アイマク)で生まれたのが彼だ。たった一人砂の一族に残した息子を案じた母は、せめてもの慰めにとその弟を砂の里に送り出したのだった。結局、今に至るまでハーン夫妻に実子は生まれていない。先代のハトンが生んだ二人の子と、サキをかろうじて養子に迎えているだけ。先代ハトンと現ハトンとはとても親しい間柄であり、だからこそ子どもを相手に託すということも可能だったのであろうが……実際のハトンの心中はいかばかりであろうか。片方は夫の兄である先代ハーンの血を引く世継ぎとはいえ、いま一人は何の縁も無い他の一族(アイマク)の子なのだから。カサルと実兄エルベクとの仲は良好だったが、砂の一族における彼の地位の不確かさは部外者であるサキにもひしひしと感じられた。
そのカサルに、次代のハトンとして大事に育ててきた義娘(むすめ)を取られては――
早すぎる杞憂に、ハトンの心は焦れていた。サキは未だ、恋を知らない。
 
 
~~~
 
 
「サキ、またここにいたの?」
 
草原の彼方を見つめてうずくまるサキに、声をかけてきたのは件の少年――カサルだった。
 
「カサル……」
 
元々砂の一族の血を引いていない彼もまた、サキと同じようにこの土地に疎外感を覚えている風情であった。サキは異質の者に対する好奇や害意を感じさせないカサルの眼差しに安らいでいたし、カサルの方も初めて出来た年少の“仲間”の存在に寂しさを振り払うことが出来た。
 
「サキ、寂しいんだね。僕もそうだった。兄上も、ハーンもハトンも優しいけれど……でも、よく里の母様の夢を見た。当たり前のことだよ、里が恋しいのも、寂しいのも……」
 
「でも、ハトンはお叱りになるわ! 早く忘れなきゃ駄目だ、って。砂の一族の女にならなきゃ駄目だ、って!」
 
泣き伏すサキの頭を、カサルは優しく撫でた。
 
「ハトンはそのお立場上、自らのお役目をきっちり果たそうとされる余りつい厳しくなってしまうんだよ。君はそのハトンに後継にと望まれているんだ。君が大事だからこそ、望むものが大きくなってしまうんだよ……」
 
「そんなの、無理だわ……。大体、エルベク様がわたしなんか選ぶわけないじゃない!」
 
俯くサキをカサルが更に慰めようとした時、二人の背後から馬のいななきが聞こえた。
 
「おまえたち、何してるんだ二人で! 先ほどからハトンがお呼びだぞ」
 
馬上からまっすぐにこちらを見据える強い眼差しは、二人の話題の中心人物・エルベクその人のものだった。
 
「……ほらサキ、乗れ」
 
有無を言わさずサキの腕を捉え、馬上に引き上げる兄の姿にカサルの胸は軋んだ。
 
「カサル、おまえは自分で来れるな?」
 
「……はい、兄上」
 
二頭の馬が草原を駆ける。それぞれの背に、それぞれの想いを乗せて。
 
 
~~~
 
 
「サキ、カサル、また二人で出歩いていたのですね。全く……! サキはエルベクの元へ嫁ぎ、私の次のハトンとなる大事なお役目を背負った身。いくらカサルとはいえ、うかつに親しくし過ぎていてはあらぬ誤解を招きますよ」
 
帰って来た三人の前で、奥方は溜息混じりの小言を吐く。
 
「はい、ハトン。今後は気を付けます」
 
黙り込んだサキの代わりに、返事をしたのはカサルだった。カサルはいつもサキに優しい。サキはいつものように己を庇うカサルの背から、ハトンの顔を窺うだけだった。
 
「……サキ、だめじゃないか。君は兄上が好きなんだろう?」
 
「わたし……今はもう、わからない。エルベク様が好きなのか、この土地で生きなければならないからそう思い込もうとしていたのか」
 
「……帰りたい、のかい?」
 
カサルの問いかけに、サキは涙を拭ってコクリと首を振った。
 
 
~~~
 
 
「食糧は五日分ある。何とか草原の領土を抜ければ翠の国に行ける。そこから街道を辿って華の国まで、長い道のりだけど君がどうしても行きたいなら……サキ、僕はいつでも、君の幸せを祈ってる」
 
旅装束に身を包み、今まさに馬上の人となったサキに、カサルは手を差し出した。
 
「ありがとうカサル。わたし、何とか頑張ってみせるわ。本当に本当に、ありがとう……」
 
自らの頬に優しく触れたカサルの手に、サキは、もう一度自分の手を重ねて握りしめた。カサルは気づいていた、この日、どんなかたちにせよ自らの育んでいた淡い恋が終わりを迎えることを。彼女は巣立っていった。草原を、ただひたすらに故郷を目指して――
 
 
~~~
 
 
ウオーン
ワオーン
 
走り進めて間もないうちに、草原に狼の鳴き声が轟いた。今は一人、周囲には隠れる場所も無い。サキは一人立ちすくみ、震える。華の国までの道のりは遠い。出奔の身で砂の一族の里へは引き返せない。
 
「逃げなくちゃ……!」
 
ふるふると震える身体で、サキは必死に馬を引くが、丘の上では既に狼の群れがこちらを見下ろしていた。
 
「……っ、誰か、父様、母様……カサル……エルベク様っ!」
 
最初の一匹が襲いかからんとしたまさにその時、サキは叫ぶ。そしてその言葉に呼応するかのように、背後から放たれた弓が狼の頭に命中していた。
 
「サキっ! 無事か!?」
 
颯爽と現れたのはエルベクであった。次から次へと遅い来る獣たちをなぎ倒し、呆然としたままのサキの元へ近寄ってくると、その旅装束を見て小さな溜息を吐いた。
 
「エルベク……様、どうして?」
 
「どうしてだと!? 自分の許婚がこんな時間に一人で馬に乗って出て行った、と聞いたら平静でいられるものか! どれほど心配したと思ってるんだ……!」
 
サキの不在を知るや否や馬に跨ったエルベクは、不慣れな苛立ちと寂寞に襲われながら小さな足跡を追い続けた。若い娘の一人旅、もし盗賊が現れたら、獣に襲われたら、そう考えると居ても立ってもいられぬ心地がした。何故、自分に黙ってカサルなどを頼ったのか、この砂の地に骨を埋めることは、彼の妻となることはそれほどにあの少女に苦痛をもたらすものなのだろうか――そう考えると胸が痛んだ。その胸の痛みを無視できるほどエルベクは大人では無かったし、その痛みの理由が分からぬほど幼くもなかった。故に、丘の下に立ちすくむ少女の姿を認めた瞬間、安堵と喜びと、そして憤りがないまぜになって、彼は大声で怒鳴ってしまったのだった。
 
「も、申し訳……ありません。エルベク様にも、ハトンにも恥をかかせるような真似をして」
 
俯いた少女に、エルベクは首を振った。
 
「違う、そうではない。サキ……おまえは、砂の里が嫌いか? ……俺のことが、嫌いか?」
 
少し傷ついたように伏せられたエルベクの瞳に、サキは目を瞠った。いつも威風堂々とした世継ぎの君のこのような姿を目にするのは初めてだった。
 
「エルベク様は……わたしが許婚でよろしいのですか? 元々、ハトンが勝手に申されたことでございましょう。……砂の民にはわたしよりハトンにふさわしい方がいらっしゃいます。わたしより優れた方も、わたしよりエルベク様と親しい方も、わたしより……」
 
少女の言葉を遮るように、エルベクはその細い身体を強く抱きしめた。黒目がちのサキの瞳が、一層大きく見開かれる。
 
「他人のことは関係ない。俺は、俺の意思でおまえを拒まなかった。これがどういう意味か、おまえに分かるか?」
 
「わかりません……わかりません、エルベク様。だってわたしは、あなたのことを知らな過ぎる」
 
熱い腕の中で、サキは涙をこぼしていた。
自分は知ろうとしていなかった、夫になるはずの相手のことを。そもそも今まで砂の一族の人々を、同じ人間として見ていたと言えるだろうか? 自分が心を閉ざしていたから、何も見えていなかっただけなのかもしれない。
 
「おまえが故郷を恋しく思う気持ちも、弟を慕わしく感じていることも知っている。それでも、知ってほしい、見てほしい。砂の一族の人間でも、許婚でも、家族でもない俺のことを。……そして考えてほしい、おまえが、俺の名を呼んだ理由(わけ)を」
 
一本の矢のように真っ直ぐなエルベクの眼差しがサキの瞳を見つめ、その鼓動を高鳴らせた。
 
「はい……はい、エルベク様。わたしは、知りたい」
 
サキは頷き、エルベクの背中に腕を回した。草原を一陣の風が吹き抜ける。風は花を散らし砂を巻き上げる。そうして美しい嵐を、いつかどこかの大地にもたらす――
 




砂に緑(カサル編)


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花と緑』・『砂に緑』番外編SSS。

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「華の国はどうかしている! 七年前は芽(めい)を人質として差し出させ……今度は王女を妃にだと!?」
 
一目で歴戦の雄と分かる、凛々しき武官は足音も荒く現れるなり卓子に拳を打ち付けた。
 
「幹(かん)、落ち着け。確かに彼の国の帝は酷い。しかし……今、華に逆らえる者は存在しない」
 
傍らの椅子に座す端正な顔立ちをした青年が友を諌める。だがその表情(かお)も、憂いを帯びて硬い。翠の国の貴族として、将として責任を背負い、国を守り抜く矜持を持った若者たちにとって、余りにも惨い彼の国の仕打ち。そしてそれは同時に、彼らに忘れ得ぬ苦い思い出を蘇らせる。
 
「それでなくても、華の国に対しては芽のことがあった! 葉(よう)、おまえの妹にして私の許嫁だった芽は、王家の血筋を引いているという理由のみで彼の国に差し出され……だが彼の国の皇帝は、彼女の声を聞くことすらなく蛮賊の元へ追いやった! 今では生死すらもわからない……」
 
「幹……それは」
 
沈痛な空気が辺りを支配し、朗らかに微笑む彼の少女の姿が彼らの脳裏を過ぎった。
 
『お兄様、幹様、わたくしは平気です。喜んで両国の礎となりましょう……』
 
わざと明るい声で紡がれたその言葉に身を震わせたのが、つい昨日のことのように思われる。
 
「王女、羽樹(はじゅ)様にしてもそうだ。お生まれになったその時から……芽を奪われたあの日からはまして、彼女を、彼女こそは守り抜こうとお仕えしてきた只一人のお方だ。何故また華の国に奪われねばならない? 芽を奪った彼の国に……。何故だ、何故だ!?」
 
涙を流し激昂する友を、葉は憐れみと同情を込めて見つめた。
 
「幹……。羽樹様はおまえに想いを寄せておられる。おまえがそんな様子では、嫁がれる殿下がいかに辛く思われることか」
 
幹は俯いて首を振った。
 
「解っている、解っているのだ。私とて彼女が可愛い。妹のように慈しんできた、大切な女性(ひと)だ。そして芽のことは……何よりも、誰よりも愛していた」
 
友の心からの叫びに、葉は目を閉じて天を仰ぐ。
 
「幹……。芽は美しい娘だったな。聡明で、気高く、だからこそ贄に選ばれた。華の国で皇帝の寵を受けなかったのもそのためだろう。きっと芽は、おまえに操を捧げ通すつもりでいたに違いない。それがまさか、あんなかたちで仇となるとは……!」
 
封じてきたはずの悲しみが、憤りが、やるせなさが葉の胸に込み上げる。愛しい妹、大切な家族。彼の国はそれを理不尽に奪ったのだ。
 
「芽は誰よりも美しく聡い。あれほど素晴らしい女に惚れなかった皇帝は馬鹿だ。王女をそんな男の元へなど、あるまじき暴挙だ!」
 
憤怒にかられる友に、葉は危ういものを感じて腕を掴んだ。
 
「気持ちは解るが、幹。我が国の国王陛下が、既に頷かれてしまったことを……」
 
「ならば私の憎しみはどこへ向かえば良い!? 羽樹様の悲しみは、芽の苦しみは!」
 
曇りの無い瞳だった。ただ純粋に悲憤を湛えるその瞳に、葉は息を飲んだ。
 
「私は決めた、乱を起こす。この身がどうなろうと、この国がどう変わろうと、何としても羽樹様をお逃がしする」
 
「本気か、幹! そんなことをすれば、おまえはこの国の主に背くだけではない……。裏切りの果ては大国の軍勢でもって踏みにじられたこの地と、隷奴に貶しめられた数多の民草の怨嗟に満ちた地獄かもしれぬのだ! それでも……それでも、おまえは」
 
瞠目し叫んだ葉に、幹は意外なほど穏やかな声で告げた。
 
「そうとも、もう決めた。俺は地獄に落ちる。国を裏切り、民を捨てる……止めたいならば私を斬れ。斬らずに他の者に密告する気なら、私がこの場でおまえを斬る。さぁ葉……俺を、斬ってくれ」
 
友の顔から剛毅な武人の表情は消え、両眼はついぞ見ることの無かった熱い雫を湛えていた。葉は項垂れ、己が友を止める術を持たぬことに絶望した。
 
「……私も行こう。おまえと、共に」
 
その時、彼の閉じた瞼の裏に懐かしい妹の姿が浮かんだ。今から思えば国を裏切るという行為を正当化するための幻想に過ぎなかったのかもしれないが、微かに――微かに彼女が、自分に向かって微笑んだように葉には思われた。
 
「葉……感謝する」
 
幹は万感の思いを込めて友の手を握った。それから間もなく、二人の男の悲壮な決意は現実となり、美しき翠の国を戦火に包む――
 
 
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少年は知らなかった。己の国が何故大国の軍勢に滅ぼされたのか。皆が敬い慕った将軍の犯した罪を。焼け落ちる城から逃げ延びた、たった一人の少女のことを。何も知らず、家を、親を、街を失った彼は――それから数年の後、憎しみを携えて華へと上る。







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花と緑』番外編。元女官・憂から紅華へ送る手紙。

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前略 紅華様
 
早いものであれから五年の月日が経ちました。
華の国……いいえ、彼の国があった地は戦後の混乱がようやく終息し、
花に例えれば種をまくための土を耕し終わったような状況にあります。
わたしと夫はそのために、微力ではあるものの精一杯の力を尽くしているところです。
それが、わたしたち二人に出来るたった一つの償いであると思うのです。
 
紅華様もご存じのことと思いますが、わたしは華の国の上級役人であった父と、
その邸に奴隷として仕えていた母との間に生まれました。
いいえ、わたし自身も奴隷でした。
わたしは己が十五の年を迎えるまで、父親が誰であるかということすら知らぬ、
ただの賎、ただの奴隷であったのです。
幼き日より母と共に朝から晩まで働かされ、水仕事から畑仕事、
肥え溜めの処理に至るまで、毎日を汗と埃と泥に塗れて過ごしておりました。
そんなわたしに転機が訪れたのは、わたしより一つ年上であった正妻腹の姉が
下級役人と共に駆け落ちをしてしまった後のことにございます。

ある日、わたしは突然邸の主に呼ばれたのです。
 
『おまえは私の娘であるから、今日よりは奥に習い、
きちんとした格好(なり)をして礼儀作法を学ぶように』
 
主の言葉に、わたしは驚いて奴隷の部屋に駆け込み、母に真実を問いました。
母はわたしが主に伝えられた言葉を聞くと眼を見開いて首肯し、
次に涙を流して喜んだのでございます。
 
『良かったねぇ、ユウ。お前は旦那様の、お役人様のお嬢様になれるんだ!
もう賎なんかじゃない、奴隷の仕事もしなくて良い。
ああ、何て素晴らしいことだろう!』
 
余りにも母が喜ぶので、わたしはそれ以上何も言えなくなりました。
それが、わたしが見た最後の母の姿でございます。
おそらくは口封じのために、何処か人知れぬ場所で殺されたのでしょう。
そしてあの時わたしの幸運を喜んでいた母は、己が運命すら分かっていたはずです。
わたしは母の涙を忘れられず、次第に父を、役人を、皇族を、
華の国を憎むようになりました。

そうして、父の正妻に苛めとも言える酷い躾を受けながら何とか令嬢の仮面を
被れるようになった頃、わたしは侵華宮の噂を聞いたのでございます。
皇帝の第七公主、気まぐれで変わり者の紅華様が、
父帝に強請り新たに設けた悪趣味な離宮の話を。
許せない、と思いました。
賎の意匠を凝らし、賎を集めた宮に“侵華宮”という名を付けるなど!
何と傲慢で残酷な公主か、と思い、わたしは顔も知らぬあなたを憎みました。
父から女官の話がもたらされたとき、わたしが二つ返事で承諾致しましたのも、
ただひたすらに例の公主の顔が見られる、上手くいけば復讐すら
可能な距離に近づけるかもしれない、と考えてのことでございました。
皇帝が寵愛する美しい公主、と評判のあなたの顔に熱湯でもかけてやることが
出来れば、それはわたしにとって十分な復讐でございました。
その結果皇帝の不興を被った父が失脚すればまさに一石二鳥、
そんな浅薄なことを考えて、わたしはあの宮に参ったのでございます。
 
わたしが正式に女官として侵華宮に仕え出したのはもう八年も昔、
わたしが十八で、紅華様が十四のお年を迎えられる頃のことでございましたね。
目通りした公主の余りの艶やかさ、華やかさに、彼女の顔に酷い火傷を
負わせることばかり考えていたわたしは、ただただ圧倒されました。
奥方から叩きこまれた挨拶の仕方も忘れて、ぼんやりと
口を開けたままのわたしに、あなたは笑ってこう告げられました。
 
『そなた、面白いのう。気に入った。良いか、麗。
この者は今日よりわらわの“友”じゃ。下女たちと同じに考えるでないぞ』
 
傍らの乳姉妹を振り返られておっしゃられた言葉の揶揄するような響きに、
わたしは己の憎しみを取り戻しました。
後から考えれば、あのとき既にあなたはわたしが賎の娘だとご存じの上で
ご自分の宮にお迎えになっていたのですね。
麗様が全てお調べになられて、あなたの元にご報告に上がったことを伺いました。
 
『初めは賎の血を引く娘なんて、と心配したけれど、あなたは見目も良いし
行儀もきちんとしているし、何より気が利いて助かるわ。
本当に、公主(ひめ)様のおっしゃった通りね』
 
“貴族の娘”と初めは嫌悪の眼差しで見ていたあの方は、
本当にお優しい、そして賢くさっぱりしたご気性の、素敵なお方でございました。
わたしは知りませんでした。あの方が目の前で仲間たちに斬られるまで、
反乱を起こすとはどういうことか、皇族を、この国を滅ぼすとはどういうことか。
 
『憂……お願い……公主様を守って。あなたなら、守れる、でしょう……?』
 
麗様の最期の言葉が、今もわたしの胸を悲痛な後悔と共に締めつけます。
あの方は知っておられたのでしょう。
あなたのことを誰よりも知り、誰よりも慈しんでおられたあの方は、
あなたのお考えも、わたしや奴隷たちがやろうとしていたことも。
その上でわたしを咎めることなく周囲の女官たちと同じように
親しく接して下さった。あなたを、守ろうとしておいでだった。
わたしはそんな麗様の、ただ一つの願いにすら応えることができませんでした。
紅華様、わたしはあなたを守れなかった。

いつぞや、あなたはおっしゃいました。
わたし一人を従えられて庭を散策されていた時のことであったかと思います。
 
『憂、そなた、わらわが何故この宮を“侵華宮”と名付けたか知っているか?』
 
庭に咲く牡丹の花を一輪手にされたあなたは、わたしに向かってこう問われました。
 
『……わたくしには答えかねます』
 
わたしは苛立ちを隠しきれずに申しました。
賤の血を引くわたしに、何と残酷な問いをなさるのか、と腹が立ったのです。
そんなわたしに、あなたは一瞬苦笑を浮かべ、すぐに表情を消して呟かれました。
 
『この侵華宮は華に侵された宮ではない。華を侵すための宮なのだ』
 
と。白く細い指先に握りつぶされた牡丹の花に、わたしは戸惑いました。
何故ならわたしはそのとき、既に反乱軍の一員であったのです。
その一方で、存じ上げてもおりました。
侵華宮の奴隷たちの、奴隷とは思えぬ待遇の良さ。
公主が“趣味”と称して集められた、数多の武器や弾薬の在り処。
そしてあなたと――常にお傍に侍る、茎が共にある時の表情(かお)を。
 
紅華様、ご存じでしたか? 反乱軍の中心であった茎は、
仲間たちの前でもほとんど表情を変えぬ少年でありました。
常に冷たく無表情な茎に、『まるで能面でも身に付けているかのようだ』
と陰口をたたく者もおりました。
そんな茎が、あなたのお傍にある時だけ、些細な変化を見せるのです。
それは例えば、翠の国から来た奴隷が奏でる楽をあなたが耳にされている時。
あなたの傍らに侍る茎の顔は、初め怒りで僅かに歪んでいます。
おそらくは、自分を、故国を馬鹿にされたように感じていたのでしょう。
ところが、しばらく経つとその強張った顔が少しずつ和らぎ、
楽の音に安らぎを感じているような様子さえ見せ始めるのです。
そしてそんな彼を、嬉しそうに窺うあなたの控え目な眼差し。
わたしは衝撃を受けました。

茎があなたの愛人である、との噂は聞き知っておりましたし、
実際に二人が恋人同士のように身を寄せ合っているところも目にしておりました。
あなたも茎も、決してそれを否定することがなかったことも。
それでも当時のわたしは、反乱の首謀者である彼が
あなたを利用しているだけだと信じていたのです。
故に移りゆく茎の表情を見た瞬間、わたしはどこか裏切られたような気持ちに
なり、次にあなたの表情を見て驚きと戸惑いを感じたのです。
何だ、これは? この二人は心から想い合っているではないか――と。
茎を見つめるあなたは気まぐれで悪趣味な公主などではない、
ただ純粋に愛する男のために彼の故郷に近づけた宮を造らせ、
彼の故郷の賤たちを集めた、愚かな少女のように見えたのです。
そして茎もまた、仇である公主を相手にその憎しみを忘れ、怒りを忘れ、
愛する女の傍で心からくつろいだ顔を見せる、ただの愚かな少年に見えました。
 
わたしはどうして、あなた方の結末を止められなかったのでしょう。
知っていながら、気づいていながら見て見ぬふりをした。
それはわたしの永遠の罪です。
茎が反乱を起こすこと、彼によって殺されること。
それが、あなたの望みであったことは知っています。
あなたが決してわたしたちを恨んではおられないであろうことも。
それでもわたしは、自分を責めずにはいられません。
 
わたしはあなたが好きでした。茎が好きでした。
当初あれほど苛立ちと戸惑いを覚えた、お二人が共にある様を
大切に思っていたことに、わたしは今更ながら気づいたのです。
全てはもう後の祭り、今はただ、あなた方の来世での幸せをお祈りするのみ。
そうしてわたしたちの手で滅ぼしたこの地に、新たな花を咲かせることをもって
己が心を偽ったわたし自身とお二人への贖いとするのみでございます。
 
紅華様、あなたはわたしを『友』とおっしゃって下さいました。
次の世では、わたしたちは本当に“友”となることが叶いますでしょうか?
あなたはわたしを、お許しになって下さいますでしょうか?
遠き来世に思いを馳せ、身勝手な願いを天に送らせていただきとうございます。
 
憂 草々




 


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