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年明け一気に二千円くらい下がってんじゃないの?(ノ∀`)勘弁して下さいよ中.国さん・・・凍死投資家の皆さん、ご愁傷さまです@合掌(-人-)
あ、昨日手術のグチっぽいこと書いちゃったけど、治療を受けたこと自体は(コスパ的にこんな死にたがりに金かけさせて家族に対して申し訳ないとは思っているけど)後悔してないです。そりゃ傷は広範囲で寒いと引きつるし、説明が面倒だったりぶっちゃけ怖くて美容院変えられない状態になってたり、髪型も一々気になったりはするけど今は髪も伸びて本当に上手いことやってもらえたと思ってる。というか、視力の低下がピタッと止まったんですよ。術後「いやー開けてみたら思ったより広い範囲で視神経に癒着してて大変だった(´∀`;)」という話を先生から聞いたので、あっぶねえぇー!(((゜Д゜;)))と。まぁあんまり関係ないのかもしれないですが、微妙に悪い方の目が腫瘍があった側だったことと、PCや携帯(スマホになってからは特にいじってる時間増えたはずなのに)の使用時間や、活字読む量はほぼ変わってないのに度が進まなくなったのって摘出したおかげなのかな、と。心の病気はやっぱ心の病気でしたけどねー(^^; イヤだから皆さん、健康診断って大事ですよ!(というよく分からないオチ。笑)
以下、鴎外とは対照的でマジ安心した読感記録(´-`)b
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あ、昨日手術のグチっぽいこと書いちゃったけど、治療を受けたこと自体は(コスパ的にこんな死にたがりに金かけさせて家族に対して申し訳ないとは思っているけど)後悔してないです。そりゃ傷は広範囲で寒いと引きつるし、説明が面倒だったりぶっちゃけ怖くて美容院変えられない状態になってたり、髪型も一々気になったりはするけど今は髪も伸びて本当に上手いことやってもらえたと思ってる。というか、視力の低下がピタッと止まったんですよ。術後「いやー開けてみたら思ったより広い範囲で視神経に癒着してて大変だった(´∀`;)」という話を先生から聞いたので、あっぶねえぇー!(((゜Д゜;)))と。まぁあんまり関係ないのかもしれないですが、微妙に悪い方の目が腫瘍があった側だったことと、PCや携帯(スマホになってからは特にいじってる時間増えたはずなのに)の使用時間や、活字読む量はほぼ変わってないのに度が進まなくなったのって摘出したおかげなのかな、と。心の病気はやっぱ心の病気でしたけどねー(^^; イヤだから皆さん、健康診断って大事ですよ!(というよく分からないオチ。笑)
以下、鴎外とは対照的でマジ安心した読感記録(´-`)b
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日.本の「知識層」みんなが厨二病だったわけじゃないんだな、ってことが分かっただけで良かったー(;∀;) 最初なんで李陵を主役にしたんだろう、と思ったけど、司馬遷や蘇武のエピソードを織り混ぜることでまさに「スペシャル・スノーフレーク」という発想自体の否定、人は誰もが他者から褒め称えられるような特別な存在ではなく、埋もれて行く者・背信する者・おもねる者・不条理に堪える者、それぞれの生き方があり、それこそが人間の個性で、例え雪の結晶のような眩い輝きを伴わずとも各々の地や意思や方法で懸命に生涯を貫いたなら、それは誰に認められずとも、記録や記憶に残らずとも堂々と人間らしい尊ぶべき「人生」ではないのか、と訴えかけている話のように感じました。モチベーション0の死にたがりにとっては特にね!(毎度いきなり病み入ってスミマセンm(__)m)
なので、作者もよっぽどネタとして活きそうな司馬遷や蘇武ではなく李陵を主人公に据え、彼によって残りの二人を引き立たせるのみならず、大方の人にとって「絶対的な真理」など存在しないこと、「立派な生き方」をしなくても、「名を成す英雄」になんかならなくても、人は生の中で苦しみもがき、それでも人として生きていく、それだけで、その選択を選べただけで偉大だということを伝えたかったからなんじゃないのかなー、と。恐らく大半の方が教科書で習われたであろう『山月記』、アレもまさにスペシャル・スノーフレーク症候群にかかってしまった人間の醜さや悲哀、それでもプライドや詩作への執着を棄てきれず、獣に姿を変えてなお生き続ける人の業への慈しみ、愛しさが込められた「やさしい」作品なんじゃないか、と私は感じたんです・・・。
だから、中島さんが李陵を主題として、彼の立場なら当然感じるであろう祖国への憤りや、胡族への親しみの一方で逃れ得ぬ郷愁、蘇武への後ろめたさと畏敬の念、そして「正しいこと」を述べたが故に「刑」に処されて後、全ての感情を打ち捨てて半ば歴史に消えていった無数の「魂」に憑かれたかのように『史記』を完成させた司馬遷の姿に共感と哀しさと、人間というものの真の在り方とは何か、という答えを見出したかったのではないか、と。だって正直、私は武帝の死に慟哭して血まで吐いた蘇武には少しも共感できなかったもん。辱しめ(あるいは更なる苦痛)を免れるために自殺する、ここまでは日/本でもよくあったことだし理解できる。でも何年も助けに来ない上に身内がどうでも良いことで殺されて、そんな王朝に愛着を抱けるなんてどうかしているとしか思えない。まだ本人の意地ゆえに単宇に下ることを良しとしなかった、って理屈の方が納得できるわ正直(@_@;)
・・・申し訳ないが私ホント日.本とその歴史・習俗・文化は愛してるけど、戦争になった時もし「生きたい」って気持ちが欠片でも湧いたらソッコー逃げ出すタイプだと思うからさー。今は別にどうなっても良い、っていうかむしろ早く(以下略)という気持ちだから、明日ミサイル降ってきても「コッチに来ても良いけど大事な人たちのとこには落ちないでねー」くらいにしか感じないけど。あ、もちろん自分以外の、特に民間人の子供とかが人為的手段で殺されるような目に遭ったら怒り狂いますよ? でもぶっちゃけ震災でどうにもならないし怒りのぶつけようがないことってあるんだな、と悟ってしまったというか・・・だって、自然は憎めないし殺せないじゃん? なので、よく考えたら戦争もそれと同じかな、相手も必死で生存のために戦っているのだと考えれば、という風にも思えてきて。だから、繰り返し災害に見舞われてきたウチらが何だかんだ言って(切実な安保や経済の事情もあるけれど)あれほどガチンコやらかしたアメリ○とも戦後なぁなぁで何とか上手くやってきて、中.韓の根深い恨みをイマイチ忖度できないのはそういう根本的な深層心理というか、思想面が異なるせいもあるのかな、と考えたりもしました(;´_ゝ`)
あとは、「礼儀の国(今のかの地から来たりし人々の評判を考えると爆笑ものだが^^)」漢から「蛮族」呼ばわりされる胡族の単宇と李陵の問答が胸を打つ。歌舞伎の『ヤマトタケル』でヘタルベが大和の人々の振る舞いに対して叫んだ嘆きに近いものがある。「上辺だけを優美に取り繕って、内実は己が益を貪り色を好み互いの足を引っ張り合う、欲望・嫉み・醜い人の姿があるだけなのに、我々と何が違うというのか?漢人は虚飾を知り、我々はそれを知らぬ、それだけのことではないのか?」みたいな。もし中島先生が現代に生きてらっしゃって、某元横綱と語り合うことができたなら・・・!まさにそれだよ、そのせいだよ彼が角界から追われたのは!(つд`)と、経緯とか呟きウォッチャーとして心から思ってしまった。最近叩かれがちなハクホーさんの素直な態度や語り口と言い、昨今の相撲ファンとしてもグッと来るものがありますな、このやりとり。
それでもまだ日/本を目指してくれる少年たちや帰化して下さる関取さんたち、あんな形で追い出されながら、それでも未だに心底角界の今後やこの国を憂えてくれている元横綱、そんな関係を元.寇やノモ○ハンや何やかんやありつつ、かの国の人々と築けていることが嬉しいしありがたいよね(´;ω;`)ブワッ んHKアナも往年の相撲ファンも「日/本人横綱ガー」ばっか言ってんじゃないよ、情けない取り口ばっか見せる自国力士の弱さが悪いんだから!ドルジさんやハクホーさんの取り組み見て興奮した挙げ句「ボクも相撲やりたい!」って競技人口やファン増える方がよっぽど大事なことだろうが!o(`△´)=3・・・また無関係な相撲トークに脱線してしまったことを心よりお詫び申し上げますm(__)m
いやーしかし光輝御大の『三.国志』読み返したくなっちゃったなー。(そっちかよ!)やっぱ大陸の歴史大好き(*´∀`) あっ、中島先生に続く現代の大陸歴史ネタ鉄板作家は酒見氏だと思ってるよ!『墨攻』大好き、いつか陋巷も揃えて読みたい!・・・と思ってたら既に中島敦記念賞(存在自体知らなかったサーセン><)もらってたんだ@wikiでググった(笑)たった一回の賞とか(゜Д゜;)ゴクリ みんなもっと大陸ネタ書こう? んー、向こうの歴オタは多くてもゲームとか萌え化の方が正直熱いし、中高年には半分ファンタジーのキャラアレンジ無茶苦茶な時代小説がウケる時代(つまり若い子のゲーム・ラノベ好きと変わらない^^)、正統派歴史小説(かつ純文系の問いや重めのテーマを含む)で勝負は出版不況の中、やっぱり難しいのかなぁ。淡々と史実に基づきつつ実在の人物の生き方や当時のその土地の在り様を描いている、という点で凄く好きな作家さん方なんですけどね。あー、やっぱ『大地』ももう一回読もう!そして魯迅を買ってこよう・・・。(何で本土の人のが最後なの?っつーか持ってないのかよ仙台生まれで、という恥ずかしい話(∩///∩))
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女手一つで良い学校に行かせてもらい、公費で留学までさせてもらって?「自分は今まで他人の敷いたレールを歩く器械で人間として自らの意思で考える自由を知らなかった」だと? そこまで行き着けずに死んでいった、そんなこと考える余裕もなく日々の暮らしに必死だった(まさに日.本でエリス一家のような生活を送っていた人々のことだよ豊太郎くん!)貧乏な母国の人々、彼らから徴収された税金によって建てられた学校、官費、彼らの生活を少しでも改善するために異国にまで来たのだ、って志をわずかでも思い起こすことは出来なかったんですかねー?(´・ω・`)
しかもエリスを引っかけた言い訳も酷ければ(父親の葬式代出してやったんだからなつくのも当然→初めは師弟関係(笑)でやましいところはなかった云々^^)、棄てる理由まで親友のせいにしてやがる@爆笑( ノ∀`) 自分は流されやすい性質で? とにかく上の者からの命には反射的に抗えず頷いてしまうと? エリスとの貧しくとも穏やかな日々が幸せだったって書いてたのは嘘だったんかコノヤロー!(ノ`△´)ノ~┻━┻タヒね!
・・・結局彼は日/本人エリートとしてのプライドが捨てきれなかっただけだったんですよね、純粋な愛とか人としての情とか狂った恋人への憐れみよりも。だって冒頭からスペシャル・スノーフレーク症候群全開じゃん(;´_ゝ`) 「他の留学生はド○ツの新聞なんか読もうとせずに遊興に繰り出すけどボクは違う!この素晴らしく自由で高尚な議論の有り様を正しく理解してモノにできるのはボクだけ」みたいな(笑) あー、鴎外が熱烈なドイ○信者だった訳がよく分かるよ・・・。
あ、ついでに『うたかたの記』も読んだけど、何つーか蝶々夫人だけじゃなしに異国の見目や風習が違う女性に妙な幻影や理想をおっかぶせちゃうのはドコの男でも同じなんだな、って。あと、昨日おりんの感想で当時の日.本はまだまだ西洋化できてなかった、って書いたけど、そもそも西洋が今に至るまで基本的にバリバリの格差社会だったことをスルーしてましたサーセンm(__)mと思った。栗や菫を売る子供たちの切なさ、(上流階級にとっては差別の対象だが確実に一国のエリート層で一定の金があることは明白な)東洋人なんぞに媚びを売らなければならなかった貧しい女性たちの悲哀。大体海外に出た日/本人の現地妻?ポジって、その国で見下されがちな場末のパブや劇場の歌手や踊り子、確か英世の奥さんもぶっちゃけ娼.婦上がりでしたよねー(´-`) その点は正直「らしゃめん」云々言えないかな、って・・・日/本なんか当初外国人との正式な結婚も認めてなかったくらいだし。
あーぁ、文章が美しいだけに余計こにくったらしいよね!何回読み返しても舞台とか色々見てもさ!古典の男どもは身勝手やなー(´д`)と感じてもそうムカつかないのは元祖色男源氏の作者が女性で、色々情念感じさせる部分もフルに作中にぶちこんでる上に手ぇ出した女性たちに対して最終的な責任は取らせ、最後の最後に女三の宮と柏木のくだりから紫の上を先に死なせるという復讐めいた結末を用意したり、他の作品にも大体因果応報的なえげつない不幸要素が入るからだろうか。鴎外なんか生涯エリート官僚コースと文壇の重鎮ポジ全うして終わったじゃん!それに引き換え,最近見つかったらしいエリスさんの元ネタ?の人の生涯ときたら(つд`) まぁ結婚はできたらしいのでその旦那が豊太郎よりは人として少しでもマシであれば幸せだった、のかな、と・・・。
ああぁイサム・ノグチ母の件とか考えても、こんな面倒で訳わかんない国にまで来て下さったのに本当ウチの男どもが申し訳ないorzと顔真っ赤にして土下座したくなるわ(∩///∩) マッサンとか奇跡なんじゃねーの? あとよく見させていただいているYou Tub○rさんカップルの旦那さんたちとか。日.本人男性、日/本で暮らすことを前提に考えれば明らかに国際結婚に向かない人多すぎだもん。家事どころかお中元やお歳暮、冠婚葬祭含むご近所や親戚付き合い、風習知らない外国人女性にはかなりキツい暗黙の了解的な人付き合い、結婚したら基本的に全部奥さんに投げっぱなし。仕事が忙しくて教える暇もない、っていうか多分そもそも知らないでしょ? 女性同士の付き合い方の微妙な機微や、贈り物の値段・品物の配慮やタイミングとか。よっぽどの日.本オタか在住歴長い人じゃない限り、いきなり連れて来られても耐えられないって。(それで心を病んでしまった外国人妻の方を知っています・・・)
まぁ総じて嫌悪が増してしまったので少なくとも己が「スペシャル」ではないという自覚に行き着いた?中島さんの方に移りたいと思います(^^)/
しかもエリスを引っかけた言い訳も酷ければ(父親の葬式代出してやったんだからなつくのも当然→初めは師弟関係(笑)でやましいところはなかった云々^^)、棄てる理由まで親友のせいにしてやがる@爆笑( ノ∀`) 自分は流されやすい性質で? とにかく上の者からの命には反射的に抗えず頷いてしまうと? エリスとの貧しくとも穏やかな日々が幸せだったって書いてたのは嘘だったんかコノヤロー!(ノ`△´)ノ~┻━┻タヒね!
・・・結局彼は日/本人エリートとしてのプライドが捨てきれなかっただけだったんですよね、純粋な愛とか人としての情とか狂った恋人への憐れみよりも。だって冒頭からスペシャル・スノーフレーク症候群全開じゃん(;´_ゝ`) 「他の留学生はド○ツの新聞なんか読もうとせずに遊興に繰り出すけどボクは違う!この素晴らしく自由で高尚な議論の有り様を正しく理解してモノにできるのはボクだけ」みたいな(笑) あー、鴎外が熱烈なドイ○信者だった訳がよく分かるよ・・・。
あ、ついでに『うたかたの記』も読んだけど、何つーか蝶々夫人だけじゃなしに異国の見目や風習が違う女性に妙な幻影や理想をおっかぶせちゃうのはドコの男でも同じなんだな、って。あと、昨日おりんの感想で当時の日.本はまだまだ西洋化できてなかった、って書いたけど、そもそも西洋が今に至るまで基本的にバリバリの格差社会だったことをスルーしてましたサーセンm(__)mと思った。栗や菫を売る子供たちの切なさ、(上流階級にとっては差別の対象だが確実に一国のエリート層で一定の金があることは明白な)東洋人なんぞに媚びを売らなければならなかった貧しい女性たちの悲哀。大体海外に出た日/本人の現地妻?ポジって、その国で見下されがちな場末のパブや劇場の歌手や踊り子、確か英世の奥さんもぶっちゃけ娼.婦上がりでしたよねー(´-`) その点は正直「らしゃめん」云々言えないかな、って・・・日/本なんか当初外国人との正式な結婚も認めてなかったくらいだし。
あーぁ、文章が美しいだけに余計こにくったらしいよね!何回読み返しても舞台とか色々見てもさ!古典の男どもは身勝手やなー(´д`)と感じてもそうムカつかないのは元祖色男源氏の作者が女性で、色々情念感じさせる部分もフルに作中にぶちこんでる上に手ぇ出した女性たちに対して最終的な責任は取らせ、最後の最後に女三の宮と柏木のくだりから紫の上を先に死なせるという復讐めいた結末を用意したり、他の作品にも大体因果応報的なえげつない不幸要素が入るからだろうか。鴎外なんか生涯エリート官僚コースと文壇の重鎮ポジ全うして終わったじゃん!それに引き換え,最近見つかったらしいエリスさんの元ネタ?の人の生涯ときたら(つд`) まぁ結婚はできたらしいのでその旦那が豊太郎よりは人として少しでもマシであれば幸せだった、のかな、と・・・。
ああぁイサム・ノグチ母の件とか考えても、こんな面倒で訳わかんない国にまで来て下さったのに本当ウチの男どもが申し訳ないorzと顔真っ赤にして土下座したくなるわ(∩///∩) マッサンとか奇跡なんじゃねーの? あとよく見させていただいているYou Tub○rさんカップルの旦那さんたちとか。日.本人男性、日/本で暮らすことを前提に考えれば明らかに国際結婚に向かない人多すぎだもん。家事どころかお中元やお歳暮、冠婚葬祭含むご近所や親戚付き合い、風習知らない外国人女性にはかなりキツい暗黙の了解的な人付き合い、結婚したら基本的に全部奥さんに投げっぱなし。仕事が忙しくて教える暇もない、っていうか多分そもそも知らないでしょ? 女性同士の付き合い方の微妙な機微や、贈り物の値段・品物の配慮やタイミングとか。よっぽどの日.本オタか在住歴長い人じゃない限り、いきなり連れて来られても耐えられないって。(それで心を病んでしまった外国人妻の方を知っています・・・)
まぁ総じて嫌悪が増してしまったので少なくとも己が「スペシャル」ではないという自覚に行き着いた?中島さんの方に移りたいと思います(^^)/
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確か大学の授業か何かで薦められて買ったものの、『金閣炎上』と『五番町夕霧楼』でMy水上勉値が満足してしまい積ん読してたんだよねー。(ホントおまえの本棚どうなってんの、とよく言われるけど気にしないよ!)
いやーしかし、泣けた(´;ω;`)ウッ,ブワッ 三島とか司馬遼が途中まで資料集めるんだけど放り出して「やーめた、俺は自分のインスピレーションと妄想を大事に書きたいんだよ!」と全力で事実無視して突っ走る、圧倒的な情熱と文学的美学?に彩られた「ストーリー」ありきで創作しちゃうのに比べると、水上さんはトコトンまで取材して現地に足を運び、諸々の証言や史実を掘り下げてまずは登場人物の心情や造形を最優先に、丁寧に描き出す。結果として物語の始まりと終わり、流れが決まる、という描き方。とてもやさしくて儚く、そしてどこまでも現実に近いが故の哀しさを帯びた話を書かれる作家さんだな、と感じます。
日.本がまさに虚勢を張り、西欧列強に挑まんと、自らの身に直接牙が届く位置にある半島だけは何とか守りきろうと必死だった日/露戦争の頃、まだまだ長く続いた封建社会の育んだ格差の中に取り残された貧しい地方の人々がどんな境遇に置かれていたか、瞽女たちの掟の厳しさや戦争孤児となった盲目の孫と無理心中した老婆の話、そして脱走兵・平太郎の心根の真っすぐさと取り調べ中の必死の叫びに、切々としたものを感じます。どんなに努力して、エリートが一丸となって頑張っても、勤勉で耐える国民性でもあんな短期間に近代化・西洋化を国中の隅々まで行き届かせるなんてことは土台無理な話だった。それなのに時代の流れは待ってはくれず、日.清に続いて日/露、そしてW W 1と次から次へと戦わなければ、あっという間にふるい落とされいつ植民地にされてもおかしくないアジアの小国に転落してしまうという強迫観念が、最終的にはあれほどバカげた恐ろしい道にウチらを向かわせてしまったのだろう、と本当にどうしようもない、やるせない気持ちになりますね(´・_・`)
おりんと平太郎の関係性は、正直私が最も憧れる絆のかたちなのかもしれない、と思った。逃亡に疲れ切った平太郎にとって盲の宿命を背負いながら純粋で明るいおりんの存在はどれほどの救いで、喜びで、眩く輝いて見えたことだろう。その彼女を汚したことが許せずに別所を殺してしまったのも、仕方がないというか察するに余りある同情を覚えてしまった。実の親も知らず、育ててもらった親方から瞽女の座を追放されて、長く孤独にさすらってきたおりんが、人の温もりを得るためには体を交わすという手段しか知らなかったおりんが、初めて心と心の触れ合いがもたらすあたたかみを知ることができた、教えてくれた平太郎に依存していく気持ちも本当に手に取るように分かるよ(つД`) 兄と妹のように、本当の家族のように、あるいは恋人のように、夫婦のように、けれどその全てを超える繋がりが確かに二人の間にはあって。束の間でも一生消えない、少なくとも彼らは出会えただけで一生分の幸せを手にすることができたのではないか、と羨ましくなりました。やっぱり人間って哀しくて愛しいな・・・。
いやーしかし、泣けた(´;ω;`)ウッ,ブワッ 三島とか司馬遼が途中まで資料集めるんだけど放り出して「やーめた、俺は自分のインスピレーションと妄想を大事に書きたいんだよ!」と全力で事実無視して突っ走る、圧倒的な情熱と文学的美学?に彩られた「ストーリー」ありきで創作しちゃうのに比べると、水上さんはトコトンまで取材して現地に足を運び、諸々の証言や史実を掘り下げてまずは登場人物の心情や造形を最優先に、丁寧に描き出す。結果として物語の始まりと終わり、流れが決まる、という描き方。とてもやさしくて儚く、そしてどこまでも現実に近いが故の哀しさを帯びた話を書かれる作家さんだな、と感じます。
日.本がまさに虚勢を張り、西欧列強に挑まんと、自らの身に直接牙が届く位置にある半島だけは何とか守りきろうと必死だった日/露戦争の頃、まだまだ長く続いた封建社会の育んだ格差の中に取り残された貧しい地方の人々がどんな境遇に置かれていたか、瞽女たちの掟の厳しさや戦争孤児となった盲目の孫と無理心中した老婆の話、そして脱走兵・平太郎の心根の真っすぐさと取り調べ中の必死の叫びに、切々としたものを感じます。どんなに努力して、エリートが一丸となって頑張っても、勤勉で耐える国民性でもあんな短期間に近代化・西洋化を国中の隅々まで行き届かせるなんてことは土台無理な話だった。それなのに時代の流れは待ってはくれず、日.清に続いて日/露、そしてW W 1と次から次へと戦わなければ、あっという間にふるい落とされいつ植民地にされてもおかしくないアジアの小国に転落してしまうという強迫観念が、最終的にはあれほどバカげた恐ろしい道にウチらを向かわせてしまったのだろう、と本当にどうしようもない、やるせない気持ちになりますね(´・_・`)
おりんと平太郎の関係性は、正直私が最も憧れる絆のかたちなのかもしれない、と思った。逃亡に疲れ切った平太郎にとって盲の宿命を背負いながら純粋で明るいおりんの存在はどれほどの救いで、喜びで、眩く輝いて見えたことだろう。その彼女を汚したことが許せずに別所を殺してしまったのも、仕方がないというか察するに余りある同情を覚えてしまった。実の親も知らず、育ててもらった親方から瞽女の座を追放されて、長く孤独にさすらってきたおりんが、人の温もりを得るためには体を交わすという手段しか知らなかったおりんが、初めて心と心の触れ合いがもたらすあたたかみを知ることができた、教えてくれた平太郎に依存していく気持ちも本当に手に取るように分かるよ(つД`) 兄と妹のように、本当の家族のように、あるいは恋人のように、夫婦のように、けれどその全てを超える繋がりが確かに二人の間にはあって。束の間でも一生消えない、少なくとも彼らは出会えただけで一生分の幸せを手にすることができたのではないか、と羨ましくなりました。やっぱり人間って哀しくて愛しいな・・・。
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『冬の蠅』私が一番共感できる彼の作品かもしれない。哀しさや慈しみや執着、病んでいく自己と美しく輝いている自然、世界への愛しさ、そういうものへの共感が全てこの一編の中に込められている気がした。虫が好きで、孤独の中にそれらが存在していることに安堵する。鬱陶しく思いながら春夏と比べて衰えていくそれらを心配する気持ち、けれど決して積極的に助けようとも排除しようとも思わない。先日(恐らく取り込んだ洗濯物にくっついていた)秋の名残の蜂の亡骸を窓の外に放り投げた時、また別の機会に部屋の隅にいた蚊トンボを潰さないように、とティッシュで触れた瞬間に潰れてしまった際に感じた気持ちととても良く似ているように感じた。9月頃の蜂は、本当に危険で遠くからスプレーをしまくってサッと身を隠し、ジタバタ床に落ちたのを確認してから処理しないといけないけど、初冬まで一匹生き残ってしまったヤツにはそんな力はなくて、何もしなくても身動きが取れなくなって勝手に死んで行ってしまう。蚊トンボもそう、夏はあっちこっちに湧いて結構厄介なのに(※ウチは山です。笑)、冬はあっさり捕まって、少しの力で潰れてしまう。そんな状況でも必死に「生きんとする意思」を見せる彼らに、いつか来る終わりを知り、その日を待ちわびながら「生きるため・症状を改善するための」日光浴を続ける己を投影して、だからこそ太陽の光を憎むという感情に共感できすぎてヤベェ\(^O^)/ 私も紫外線アレルギーとその悪化が判明するまでは「不眠症には日光を浴びることが大事」と聞いて頑張ってベランダで読書とかしてました(笑)肌がボロボロになって目だの口だの粘膜という粘膜がやられる結果に終わったけどな!@不健康すぎる(^ω^)
結果、主人公がその状況に耐えきれなくなって自分で自分の体を苛めに寒い冬の山道をさすらう、というのもぶっちゃけ経験が(以下略※ウチが山なんで!)でも結局いくら歩いても、問題は何も解決しないんだよね。何を見ても、雄大でのどかな自然の姿に感動し、人間の営みに慕わしさを感じたところで、またそこから離れて一人さまよってみても、そこに己が身を置けぬ孤独というものは解消されない。そうして最後、部屋に帰り着いた主人公が姿を消した蠅たちの存在に、どうしても孤独にはなりきれぬ、こんなにも心情的には孤独であり、またそれを憂いつつ求めてもいながら決して解放され得ぬ、生まれ出でてしまった生命の業のようなものを感じて慄く、というラストがもう。・゜・(ノД`)・゜・。
『ある崖上の感情』は『裏窓』を彷彿とさせたんだけど、時代的に先だよなー。生島の話の中でウィーンで窓を開け放したまま奔放な姿をさらしている男女の話が出てきたけど、高層ビルの少なかった当時は世界中でそういう生活を窓の向こうにさらしてもOK的な発想があって、またソレを覗きたいという嗜好も共通して広がっていたのかな? まぁ日.本は現代でもスッカリ覗きフェチ大国の地位を確立してる感あるけどね!
『交尾』は、『冬の蠅』とは逆に私が最も嫌悪してしまう行為を(夜中にサカってる猫の鳴き声とか聞くと石投げたくなるし、神社の参道の真ん中でおっ始めたの見かけた時は蹴り飛ばしてやろうかと思った^^)、これほどまでに美しく面白く捉えられるのか、という視点にハッとさせられた。生き物を愛し、人間に対する興味が尽きない作家的視点、人間の業というか。特にカジカのくだりは本当に感動するくらい。ウチの山ちょっと行くと小川も確かにあってカジカも山ほどいたんですけど(最近は更に宅地開発が進んで震災後水の流れも変わってしまったので今はどうか分からない)、その鳴き声や交尾にじっと注意を払ったことなんて無かったから。原始的な「生き物」としての求愛の行為は、そこから始まった「声」はそれほどに神聖で美しい響きを帯びたものなのだろうか、と改めて聴きに行きたくなった。
『のんきな患者』は、ウチの祖父が彼の死とそう遠くない年代に同じ病に侵されながら孫の顔まで見られたのはある意味奇跡というか、その「上流階級」に混じれた故であるのだろうか、とか色々考えさせられた。文中にT理教勧誘オバサンが出てくるじゃないですか。彼の場合は真逆で、T理教の貧しい家庭に生まれて結核にかかり、兵役不合格となり出征していく同級生を見送らざるを得ず、戦後キリ○ト教に改宗して祖母と結婚、祖母の親族には医療従事者がおりましたので何とか片肺を切除する手術を行うことができ、障○者手帳をもらって仕事を続けつつ天寿を全う・・・という。二度の幸運があったわけですね。教会で祖母と出会えたということはT理教オバサンの言うところの「信心」故でもあったのかもしれません(笑)結果として二度の屈辱(兵役不合格=当時の日/本男児として失格の烙印を押されたも同然、また改宗によって祖父の親族からキツい仕打ちを受けたというようなことも祖母は度々こぼしていたようなので)や劣等感のようなものを背負ったとしても、最後はそれなりに名誉ある役職や立場を得て、戦争を経た世代の中では幸せな生涯を遅れたのではないかと思います。それでも彼なりに悔やんでいることや諦めたこと、挑戦したかったことや憧れた道があったのだろうことは、彼が引退後にいそしんだ様々な趣味や放○大学を必死に卒業した事実、残した本などからうかがい知れる面もあって、狐里庵先生とは違った方向から対比的に重ねて見てしまいます。基次郎と祖父との違いはどこにあったのだろうか。
日.本が無理やり西洋化し、揺り戻しのように軍国主義に神/道の要素を取り入れて戦争に突き進んでいこうとしていた時代に、「先進的な」西洋のものや思想にドンドン被れていったある種エリート層にあったはずのインテリ。(市井の生活をあれほど生き生きと羨むように描いていた基次郎、貧困層の9割が死ぬが上流階級は生存率が高い、と肺病について根拠も怪しいデータを提示していた彼はそう言われることを厭うだろうけど、正直言って当時落第を繰り返しても諸々の学校を転々とし、最終的には東大に入って、療養のために温泉地に身を落ち着けられるような人間がそうでなかったはずはない)未だに「蝦夷地」という呼び名が通じる時代のその地で貧しい子だくさん家庭に生まれ、親子ほど歳の離れた長兄からして上の学校に進むことを諦めざるを得なかった祖父。(それでいて芸術への憧れや造形は深く、長兄は造園技師に、祖父も絵画や彫刻、プラモ系はとても得意でした。画集も沢山持っていたし)藤村を愛読し、キリ○ト教思想に触れる機会があったことも同じ。狂う対象が異なったことが差を生んだ要因だろうか。
私は信仰=ある種の狂気としか捉えられない人間なので、祖父の場合はそちらの狂気に逃れることでマトモな人間としての生活を保つ目標というか甲斐ができ、生きながらえることができたのではないか、と。一方で最後まで孤独と葛藤に向き合い続けざるを得なかった基次郎は、文学の内に全てを注ぎ込み、そうして己を擦り減らして死んでいった。それが彼の望みでもあったのだろうから、彼が不幸だったとも思わないけれど。ある意味で祖父のような人間は彼のように狂えたら、究極の人間らしさを極めたまま死んでいけたら、と羨む部分があったのかもしれない、とも晩年のスッカリ呆けて家族や看護師やお医者さんの手を散々煩わせて亡くなっていった姿を見て感じてしまったりもしました。あの時代の日/本の「芸術」に携わる人々は極端な狂気や破壊衝動・あるいは政治的思想に取りつかれていた方が多かったけれど、祖父は信仰の面で親族を裏切ったこと以外は本当に忠実に道を踏み外さないよう、常識人を貫く真面目な生き方をしてきた人だったので、最後に呆けてあんな晩年を送るくらいなら、ってもし若い時の彼が老いた自分の姿を見たら考えてしまったんじゃないかな、って。祖母を心から愛していて、その祖母も病がちだったことや、祖母の親族への(コレは私の推測に過ぎないかもしれないけど)恩として彼女と家庭を守る責務や、戦地で悲惨な目に遭ったり、亡くなってしまった同世代の若者への贖いのような感情もあるいはあったのかもしれないけれど。
かつての日.本、いえ世界中に「不治の病」として蔓延していたこの病気について考える時、私にとって真っ先に思い浮かぶのが祖父と、彼が一度だけ見せてくれた障○者手帳のこと、戦争と彼の職業について語る時、「病気だったから」と説明してくれた彼の何とも言えない表情が忘れられないです。何故もっときちんと話を聞いておかなかったんだろう、彼のコンプレックスも改宗の理由も、人生における最も大きな節目というか影響を及ぼした原因は恐らくその病が始まりだったんだろうに、と後から気づいても遅いんですよね・・・と後悔しきりorz あー何か読書記録が途中からただの身内語りになってしまってスミマセンでしたm(__)m
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『花の宴』を中.華圏の方にご覧いただけると正直うれしいです。ぶっちゃけ私の日/中萌えをブチ込んだヤツなので(そんなカムアウトいらないから^^)いや日.本では桜推しだけど中/華圏では梅推しだって聞いてさー。メイン二人はどっちがどっちでも良いや。(名前は桜と梅って分けるように付けはしたけど、正しく真ん中に在ったはずがドンドン病んでいっちゃった方と、やり方を違えたコミュニティの異端・秩序の破壊者、って歴史を通して見れば両国共に当てはまる点だと思うから)まぁ「一つ」にはなりたくないし、なれないだろうけど、良く似た見た目、少しずつ違うけれども近しい文化を以て、いつか互いの距離が平和的な形で今よりももっと縮められれば良いな、と思っています。
で、紅茶とコーヒーがぶ飲みしたら緑茶に帰りたくなったので今日は梶井基次郎『檸檬』収録の掌編をちょっとずつ(^-^;
※いつものごとく(笑)病み要素ありですm(__)m
で、紅茶とコーヒーがぶ飲みしたら緑茶に帰りたくなったので今日は梶井基次郎『檸檬』収録の掌編をちょっとずつ(^-^;
※いつものごとく(笑)病み要素ありですm(__)m
ヤベー久々に翻訳ものじゃないの読むと沁みる・・・!(´;ω;`) 特にカジモッティは三島とか川端氏系の過度な華や毒がなく、(病に侵されていたせいか、子規の歌や句に近い)透明で憂いを帯びた絶望ゆえの美と言いますか。まさに濃い玉露や甘過ぎ・ぬる過ぎな新茶の味ではなく、普段何気なく飲んでいる煎茶に茶柱が立っているのを見つけた時のような! あるいは久々に他人(私お茶入れるのクッソ下手なので\(^o^)/)が淹れてくれたお茶飲んだ時に「あ~、美味しい」とふと感じた瞬間のような、帰ってきた感や自然や情景の描かれ方にも共感の念が増幅されてやっぱ泣けるよね、母国語の純文学は(つд`)
彼がウチの祖父が侵されていたのと同じ病で、今の自分に近い(イヤもっと若い時期からか)年頃で常に「死」というものを意識していた、というところからして、もう一々美しい表現や物事の捉え方、心の機微が胸に突き刺さる。西洋のフィクションにおいて自然は常にストーリーを彩り、補佐するもので暗示的に使われるけど、日本ではあえて真逆の比喩にそれを用いる伝統が和歌や俳句から始まっていて・・・例えば死や絶望といった身体的・精神的にネガティブな状態に近づけば近づくほど、日々の暮らしや当たり前に存在する自然が美しく輝いて愛しむべきものとして表される、あるいはそのことに気づかされる、という描き方がとても多い。
『冬の日』の一節、「希望を持てないものが、どうして追憶を慈むことができよう」、だからこそ今目の前に在るものが眩く映るのだ、と。この考え方、儚さの中にこそ生の躍動や真実の美を見出だす表裏一体的な思考はウチ(あるいは東洋の陰陽思想にも通じるのかな?)独特のものなのかもしれない、と感じた。あと当時の銀座の夜の描写、「アスファルトは鉛筆で光らせたように凍てはじめた」が個人的に度肝抜かれるくらいフィットしてて好き!屋根瓦に降りた霜や、その上をコロコロ転がっていく霰の描写も(^^)b
友人の折田との会話のなかで「冷静」について語るくだりもグッと来た。彼は病気という実際に追い詰められる理由があったから全く事情が異なるけど、完全に頭がイッちゃえれば楽なのにな、と何度思ったか知れないし、「冷静になって自分の肉体や生活が滅びていくのを見ることが苦痛」という点がまさに今の自分か、と(^ω^) それが終わって実際に生活が壊れれば本当の冷静が来るだろう、って言葉にも共感し過ぎてヤベェ・・・orz
『器楽的幻想』は子供の頃の悪戯のうるさい場所で耳を塞いだり開けたりを繰り返す、とか、その感覚を思い出すオーケストラ聴きながら石化、っていう状態があるある、と感じた。てか正直人と喋ったり買い物してる時でもしょっちゅうなるというか、自分の意識が身体の一歩後ろにいて口や手だけ動いてる感覚に襲われることが結構あります(・・;) だからボーッとしてるとか話覚えてない、とか言われるのかな? ここにいるけどいない、みたいな違和感なんだけど、絶対ストンと肉体に収まって一体化しようとしてもできないんだよね、そういう時って。ハイハイ病んでるー\(^o^)/
『蒼穹』の雲のくだりも、同じことよくやっては同様の感覚に囚われてたな、と。雲の変化と星の光ほど人の心を捉えて揺り動かすものはないと思う。その大きさや己の小ささに安らぎと漠然とした不安を同時に感じて心臓がドキドキしてくる。余りにも大きくて広くて遠い。そのことに安心するけど潰されてしまいそうで怖い。星なんて今の地球からどんなに綺麗に輝いて見えているものであったとしても、何万光年も離れていてもうとっくに死んでいるかもしれない存在の光だと考えると一気に震えが来ませんか? (((-_-;)))gkbr
『筧の話』ラストの「永遠の退屈を課せられ、生の幻影が絶望と重なっている」という宿命についての言葉は例の現代版ブッダ嬢(笑)の悟りを思わせる気がしたよ。彼女は絶対にカジモッティ読まなさそうなタイプだけど(;・ω・)
この後は続きの短編を読むか中島敦の『李陵』、あるいは現代に戻って西村賢太の短編でもチマチマ読もうかなー、と思います。『高い城~』が面白すぎて今まで全く興味なかった(SFというジャンル自体に)電気羊も注文してしまったので、届いたらソッコー読み始めちゃうかもしれないけど(笑)
とにかく今は一度閉じた世界に浸ることで考えてみた方が良いのかな、と。相変わらずの逃避癖が酷くなっただけなのかもしれないですけど(・・;) ネット社会や人を通じて入る情報は忙しなく、現実の自分が置かれている立場に焦ってしまって、結局より酷い状態(鬱や胃の症状の悪化)に陥ったりを繰り返してきた状況で、本当に向き合わないといけないものや自分が考えていることを、生きた時代や国籍・立場も異なる他者の視点で描かれたフィクションを通じて見つけていける可能性もあるんじゃないかなー、とここ2ヶ月チビチビと原点回帰(趣味=読書と書き続けて2○年。笑)してみて思ったので。あるいは実を言えば、明日も「読みたい」から生きてよう、って気持ちになれるかな、という理由もあったり・・・本当いきなり病んでてスミマセンm(__)m
時間的制約や夢中になって深夜まで読みふけったりで更に不健康な状態になっているんじゃ?という感じでもありますが、安定剤服用時は正直いつも昼間眠くなったり、朝起きにくくなったりどっちみち睡眠に関しては不安定になりがちだし(でも飲まないとぶっちゃけ胃がやっていけない)、逆に夜「寝ること」について考え過ぎるとドンドンうつ思考が増していってヤバい状態になるので返ってマシかも、と開き直ることに・・・いや症状改善のためにもなるべく安定した生活リズムはキープしたいけどさ(-_-;)
そんな感じでちょっと長々とネタバレ有りまくりの(しかも今更な本ばかりの)感想記事が続くかもしれませんが、読み飛ばしていただいて構わないのでご容赦のほどよろしくお願いいたしますm(__)m
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