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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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結局カジモッティ読んじゃうことにした@今日も元気に尾骨が痛い!>< 折れてないって言われたけどいつ治んのコレ・・・寝返り打つのもキツいんだけど。

『冬の蠅』私が一番共感できる彼の作品かもしれない。哀しさや慈しみや執着、病んでいく自己と美しく輝いている自然、世界への愛しさ、そういうものへの共感が全てこの一編の中に込められている気がした。虫が好きで、孤独の中にそれらが存在していることに安堵する。鬱陶しく思いながら春夏と比べて衰えていくそれらを心配する気持ち、けれど決して積極的に助けようとも排除しようとも思わない。先日(恐らく取り込んだ洗濯物にくっついていた)秋の名残の蜂の亡骸を窓の外に放り投げた時、また別の機会に部屋の隅にいた蚊トンボを潰さないように、とティッシュで触れた瞬間に潰れてしまった際に感じた気持ちととても良く似ているように感じた。9月頃の蜂は、本当に危険で遠くからスプレーをしまくってサッと身を隠し、ジタバタ床に落ちたのを確認してから処理しないといけないけど、初冬まで一匹生き残ってしまったヤツにはそんな力はなくて、何もしなくても身動きが取れなくなって勝手に死んで行ってしまう。蚊トンボもそう、夏はあっちこっちに湧いて結構厄介なのに(※ウチは山です。笑)、冬はあっさり捕まって、少しの力で潰れてしまう。そんな状況でも必死に「生きんとする意思」を見せる彼らに、いつか来る終わりを知り、その日を待ちわびながら「生きるため・症状を改善するための」日光浴を続ける己を投影して、だからこそ太陽の光を憎むという感情に共感できすぎてヤベェ\(^O^)/ 私も紫外線アレルギーとその悪化が判明するまでは「不眠症には日光を浴びることが大事」と聞いて頑張ってベランダで読書とかしてました(笑)肌がボロボロになって目だの口だの粘膜という粘膜がやられる結果に終わったけどな!@不健康すぎる(^ω^)  
結果、主人公がその状況に耐えきれなくなって自分で自分の体を苛めに寒い冬の山道をさすらう、というのもぶっちゃけ経験が(以下略※ウチが山なんで!)でも結局いくら歩いても、問題は何も解決しないんだよね。何を見ても、雄大でのどかな自然の姿に感動し、人間の営みに慕わしさを感じたところで、またそこから離れて一人さまよってみても、そこに己が身を置けぬ孤独というものは解消されない。そうして最後、部屋に帰り着いた主人公が姿を消した蠅たちの存在に、どうしても孤独にはなりきれぬ、こんなにも心情的には孤独であり、またそれを憂いつつ求めてもいながら決して解放され得ぬ、生まれ出でてしまった生命の業のようなものを感じて慄く、というラストがもう。・゜・(ノД`)・゜・。

『ある崖上の感情』は『裏窓』を彷彿とさせたんだけど、時代的に先だよなー。生島の話の中でウィーンで窓を開け放したまま奔放な姿をさらしている男女の話が出てきたけど、高層ビルの少なかった当時は世界中でそういう生活を窓の向こうにさらしてもOK的な発想があって、またソレを覗きたいという嗜好も共通して広がっていたのかな? まぁ日.本は現代でもスッカリ覗きフェチ大国の地位を確立してる感あるけどね!

『交尾』は、『冬の蠅』とは逆に私が最も嫌悪してしまう行為を(夜中にサカってる猫の鳴き声とか聞くと石投げたくなるし、神社の参道の真ん中でおっ始めたの見かけた時は蹴り飛ばしてやろうかと思った^^)、これほどまでに美しく面白く捉えられるのか、という視点にハッとさせられた。生き物を愛し、人間に対する興味が尽きない作家的視点、人間の業というか。特にカジカのくだりは本当に感動するくらい。ウチの山ちょっと行くと小川も確かにあってカジカも山ほどいたんですけど(最近は更に宅地開発が進んで震災後水の流れも変わってしまったので今はどうか分からない)、その鳴き声や交尾にじっと注意を払ったことなんて無かったから。原始的な「生き物」としての求愛の行為は、そこから始まった「声」はそれほどに神聖で美しい響きを帯びたものなのだろうか、と改めて聴きに行きたくなった。

『のんきな患者』は、ウチの祖父が彼の死とそう遠くない年代に同じ病に侵されながら孫の顔まで見られたのはある意味奇跡というか、その「上流階級」に混じれた故であるのだろうか、とか色々考えさせられた。文中にT理教勧誘オバサンが出てくるじゃないですか。彼の場合は真逆で、T理教の貧しい家庭に生まれて結核にかかり、兵役不合格となり出征していく同級生を見送らざるを得ず、戦後キリ○ト教に改宗して祖母と結婚、祖母の親族には医療従事者がおりましたので何とか片肺を切除する手術を行うことができ、障○者手帳をもらって仕事を続けつつ天寿を全う・・・という。二度の幸運があったわけですね。教会で祖母と出会えたということはT理教オバサンの言うところの「信心」故でもあったのかもしれません(笑)結果として二度の屈辱(兵役不合格=当時の日/本男児として失格の烙印を押されたも同然、また改宗によって祖父の親族からキツい仕打ちを受けたというようなことも祖母は度々こぼしていたようなので)や劣等感のようなものを背負ったとしても、最後はそれなりに名誉ある役職や立場を得て、戦争を経た世代の中では幸せな生涯を遅れたのではないかと思います。それでも彼なりに悔やんでいることや諦めたこと、挑戦したかったことや憧れた道があったのだろうことは、彼が引退後にいそしんだ様々な趣味や放○大学を必死に卒業した事実、残した本などからうかがい知れる面もあって、狐里庵先生とは違った方向から対比的に重ねて見てしまいます。基次郎と祖父との違いはどこにあったのだろうか。
日.本が無理やり西洋化し、揺り戻しのように軍国主義に神/道の要素を取り入れて戦争に突き進んでいこうとしていた時代に、「先進的な」西洋のものや思想にドンドン被れていったある種エリート層にあったはずのインテリ。(市井の生活をあれほど生き生きと羨むように描いていた基次郎、貧困層の9割が死ぬが上流階級は生存率が高い、と肺病について根拠も怪しいデータを提示していた彼はそう言われることを厭うだろうけど、正直言って当時落第を繰り返しても諸々の学校を転々とし、最終的には東大に入って、療養のために温泉地に身を落ち着けられるような人間がそうでなかったはずはない)未だに「蝦夷地」という呼び名が通じる時代のその地で貧しい子だくさん家庭に生まれ、親子ほど歳の離れた長兄からして上の学校に進むことを諦めざるを得なかった祖父。(それでいて芸術への憧れや造形は深く、長兄は造園技師に、祖父も絵画や彫刻、プラモ系はとても得意でした。画集も沢山持っていたし)藤村を愛読し、キリ○ト教思想に触れる機会があったことも同じ。狂う対象が異なったことが差を生んだ要因だろうか。
私は信仰=ある種の狂気としか捉えられない人間なので、祖父の場合はそちらの狂気に逃れることでマトモな人間としての生活を保つ目標というか甲斐ができ、生きながらえることができたのではないか、と。一方で最後まで孤独と葛藤に向き合い続けざるを得なかった基次郎は、文学の内に全てを注ぎ込み、そうして己を擦り減らして死んでいった。それが彼の望みでもあったのだろうから、彼が不幸だったとも思わないけれど。ある意味で祖父のような人間は彼のように狂えたら、究極の人間らしさを極めたまま死んでいけたら、と羨む部分があったのかもしれない、とも晩年のスッカリ呆けて家族や看護師やお医者さんの手を散々煩わせて亡くなっていった姿を見て感じてしまったりもしました。あの時代の日/本の「芸術」に携わる人々は極端な狂気や破壊衝動・あるいは政治的思想に取りつかれていた方が多かったけれど、祖父は信仰の面で親族を裏切ったこと以外は本当に忠実に道を踏み外さないよう、常識人を貫く真面目な生き方をしてきた人だったので、最後に呆けてあんな晩年を送るくらいなら、ってもし若い時の彼が老いた自分の姿を見たら考えてしまったんじゃないかな、って。祖母を心から愛していて、その祖母も病がちだったことや、祖母の親族への(コレは私の推測に過ぎないかもしれないけど)恩として彼女と家庭を守る責務や、戦地で悲惨な目に遭ったり、亡くなってしまった同世代の若者への贖いのような感情もあるいはあったのかもしれないけれど。

かつての日.本、いえ世界中に「不治の病」として蔓延していたこの病気について考える時、私にとって真っ先に思い浮かぶのが祖父と、彼が一度だけ見せてくれた障○者手帳のこと、戦争と彼の職業について語る時、「病気だったから」と説明してくれた彼の何とも言えない表情が忘れられないです。何故もっときちんと話を聞いておかなかったんだろう、彼のコンプレックスも改宗の理由も、人生における最も大きな節目というか影響を及ぼした原因は恐らくその病が始まりだったんだろうに、と後から気づいても遅いんですよね・・・と後悔しきりorz あー何か読書記録が途中からただの身内語りになってしまってスミマセンでしたm(__)m

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『冬の蠅』私が一番共感できる彼の作品かもしれない。哀しさや慈しみや執着、病んでいく自己と美しく輝いている自然、世界への愛しさ、そういうものへの共感が全てこの一編の中に込められている気がした。虫が好きで、孤独の中にそれらが存在していることに安堵する。鬱陶しく思いながら春夏と比べて衰えていくそれらを心配する気持ち、けれど決して積極的に助けようとも排除しようとも思わない。先日(恐らく取り込んだ洗濯物にくっついていた)秋の名残の蜂の亡骸を窓の外に放り投げた時、また別の機会に部屋の隅にいた蚊トンボを潰さないように、とティッシュで触れた瞬間に潰れてしまった際に感じた気持ちととても良く似ているように感じた。9月頃の蜂は、本当に危険で遠くからスプレーをしまくってサッと身を隠し、ジタバタ床に落ちたのを確認してから処理しないといけないけど、初冬まで一匹生き残ってしまったヤツにはそんな力はなくて、何もしなくても身動きが取れなくなって勝手に死んで行ってしまう。蚊トンボもそう、夏はあっちこっちに湧いて結構厄介なのに(※ウチは山です。笑)、冬はあっさり捕まって、少しの力で潰れてしまう。そんな状況でも必死に「生きんとする意思」を見せる彼らに、いつか来る終わりを知り、その日を待ちわびながら「生きるため・症状を改善するための」日光浴を続ける己を投影して、だからこそ太陽の光を憎むという感情に共感できすぎてヤベェ\(^O^)/ 私も紫外線アレルギーとその悪化が判明するまでは「不眠症には日光を浴びることが大事」と聞いて頑張ってベランダで読書とかしてました(笑)肌がボロボロになって目だの口だの粘膜という粘膜がやられる結果に終わったけどな!@不健康すぎる(^ω^)  
結果、主人公がその状況に耐えきれなくなって自分で自分の体を苛めに寒い冬の山道をさすらう、というのもぶっちゃけ経験が(以下略※ウチが山なんで!)でも結局いくら歩いても、問題は何も解決しないんだよね。何を見ても、雄大でのどかな自然の姿に感動し、人間の営みに慕わしさを感じたところで、またそこから離れて一人さまよってみても、そこに己が身を置けぬ孤独というものは解消されない。そうして最後、部屋に帰り着いた主人公が姿を消した蠅たちの存在に、どうしても孤独にはなりきれぬ、こんなにも心情的には孤独であり、またそれを憂いつつ求めてもいながら決して解放され得ぬ、生まれ出でてしまった生命の業のようなものを感じて慄く、というラストがもう。・゜・(ノД`)・゜・。

『ある崖上の感情』は『裏窓』を彷彿とさせたんだけど、時代的に先だよなー。生島の話の中でウィーンで窓を開け放したまま奔放な姿をさらしている男女の話が出てきたけど、高層ビルの少なかった当時は世界中でそういう生活を窓の向こうにさらしてもOK的な発想があって、またソレを覗きたいという嗜好も共通して広がっていたのかな? まぁ日.本は現代でもスッカリ覗きフェチ大国の地位を確立してる感あるけどね!

『交尾』は、『冬の蠅』とは逆に私が最も嫌悪してしまう行為を(夜中にサカってる猫の鳴き声とか聞くと石投げたくなるし、神社の参道の真ん中でおっ始めたの見かけた時は蹴り飛ばしてやろうかと思った^^)、これほどまでに美しく面白く捉えられるのか、という視点にハッとさせられた。生き物を愛し、人間に対する興味が尽きない作家的視点、人間の業というか。特にカジカのくだりは本当に感動するくらい。ウチの山ちょっと行くと小川も確かにあってカジカも山ほどいたんですけど(最近は更に宅地開発が進んで震災後水の流れも変わってしまったので今はどうか分からない)、その鳴き声や交尾にじっと注意を払ったことなんて無かったから。原始的な「生き物」としての求愛の行為は、そこから始まった「声」はそれほどに神聖で美しい響きを帯びたものなのだろうか、と改めて聴きに行きたくなった。

『のんきな患者』は、ウチの祖父が彼の死とそう遠くない年代に同じ病に侵されながら孫の顔まで見られたのはある意味奇跡というか、その「上流階級」に混じれた故であるのだろうか、とか色々考えさせられた。文中にT理教勧誘オバサンが出てくるじゃないですか。彼の場合は真逆で、T理教の貧しい家庭に生まれて結核にかかり、兵役不合格となり出征していく同級生を見送らざるを得ず、戦後キリ○ト教に改宗して祖母と結婚、祖母の親族には医療従事者がおりましたので何とか片肺を切除する手術を行うことができ、障○者手帳をもらって仕事を続けつつ天寿を全う・・・という。二度の幸運があったわけですね。教会で祖母と出会えたということはT理教オバサンの言うところの「信心」故でもあったのかもしれません(笑)結果として二度の屈辱(兵役不合格=当時の日/本男児として失格の烙印を押されたも同然、また改宗によって祖父の親族からキツい仕打ちを受けたというようなことも祖母は度々こぼしていたようなので)や劣等感のようなものを背負ったとしても、最後はそれなりに名誉ある役職や立場を得て、戦争を経た世代の中では幸せな生涯を遅れたのではないかと思います。それでも彼なりに悔やんでいることや諦めたこと、挑戦したかったことや憧れた道があったのだろうことは、彼が引退後にいそしんだ様々な趣味や放○大学を必死に卒業した事実、残した本などからうかがい知れる面もあって、狐里庵先生とは違った方向から対比的に重ねて見てしまいます。基次郎と祖父との違いはどこにあったのだろうか。
日.本が無理やり西洋化し、揺り戻しのように軍国主義に神/道の要素を取り入れて戦争に突き進んでいこうとしていた時代に、「先進的な」西洋のものや思想にドンドン被れていったある種エリート層にあったはずのインテリ。(市井の生活をあれほど生き生きと羨むように描いていた基次郎、貧困層の9割が死ぬが上流階級は生存率が高い、と肺病について根拠も怪しいデータを提示していた彼はそう言われることを厭うだろうけど、正直言って当時落第を繰り返しても諸々の学校を転々とし、最終的には東大に入って、療養のために温泉地に身を落ち着けられるような人間がそうでなかったはずはない)未だに「蝦夷地」という呼び名が通じる時代のその地で貧しい子だくさん家庭に生まれ、親子ほど歳の離れた長兄からして上の学校に進むことを諦めざるを得なかった祖父。(それでいて芸術への憧れや造形は深く、長兄は造園技師に、祖父も絵画や彫刻、プラモ系はとても得意でした。画集も沢山持っていたし)藤村を愛読し、キリ○ト教思想に触れる機会があったことも同じ。狂う対象が異なったことが差を生んだ要因だろうか。
私は信仰=ある種の狂気としか捉えられない人間なので、祖父の場合はそちらの狂気に逃れることでマトモな人間としての生活を保つ目標というか甲斐ができ、生きながらえることができたのではないか、と。一方で最後まで孤独と葛藤に向き合い続けざるを得なかった基次郎は、文学の内に全てを注ぎ込み、そうして己を擦り減らして死んでいった。それが彼の望みでもあったのだろうから、彼が不幸だったとも思わないけれど。ある意味で祖父のような人間は彼のように狂えたら、究極の人間らしさを極めたまま死んでいけたら、と羨む部分があったのかもしれない、とも晩年のスッカリ呆けて家族や看護師やお医者さんの手を散々煩わせて亡くなっていった姿を見て感じてしまったりもしました。あの時代の日/本の「芸術」に携わる人々は極端な狂気や破壊衝動・あるいは政治的思想に取りつかれていた方が多かったけれど、祖父は信仰の面で親族を裏切ったこと以外は本当に忠実に道を踏み外さないよう、常識人を貫く真面目な生き方をしてきた人だったので、最後に呆けてあんな晩年を送るくらいなら、ってもし若い時の彼が老いた自分の姿を見たら考えてしまったんじゃないかな、って。祖母を心から愛していて、その祖母も病がちだったことや、祖母の親族への(コレは私の推測に過ぎないかもしれないけど)恩として彼女と家庭を守る責務や、戦地で悲惨な目に遭ったり、亡くなってしまった同世代の若者への贖いのような感情もあるいはあったのかもしれないけれど。

かつての日.本、いえ世界中に「不治の病」として蔓延していたこの病気について考える時、私にとって真っ先に思い浮かぶのが祖父と、彼が一度だけ見せてくれた障○者手帳のこと、戦争と彼の職業について語る時、「病気だったから」と説明してくれた彼の何とも言えない表情が忘れられないです。何故もっときちんと話を聞いておかなかったんだろう、彼のコンプレックスも改宗の理由も、人生における最も大きな節目というか影響を及ぼした原因は恐らくその病が始まりだったんだろうに、と後から気づいても遅いんですよね・・・と後悔しきりorz あー何か読書記録が途中からただの身内語りになってしまってスミマセンでしたm(__)m

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