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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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体内年齢が大学生どころか高校生なんだが、運動してなくても体重減る→筋肉の分、って分かるけど体脂肪率は何で減るんだろ・・・?え、今までの体操とかストレッチ全部意味なかったのか?(´Д`;) アレの出血が長引いてるせいかな?(シモな話題すみませんm(__)m)一応最近は一口は肉食べるようにしたり、塩トマトやめてココナッツオイル(いただきものだけどオリーブオイルよりはるかにアッサリしてて食べられる)と塩をサラダに使用したりもしてるんだけど。もうね、これ以上は胃が限界なんだよね。全く食べてない訳じゃないし、出るものもちゃんと出てるのにどうしたら良いんだろうorz てか今の自分でこの判定なら世の中の芸能人・モデルさんとか大丈夫なわけ? 街中歩いてる人ももっと薄い&ほっそい人見かけるし、皆よく体力持つな!Σ(゜Д゜;) でも修行僧みたいなガリガリ皺々にはなりたくない・・・いい加減そろそろ戻さないと、あーでも米と肉と油マジきつい→以下無限ループを繰り返して三か月\(^O^)/

第二部5章まで読んだよー。(※自分語り&病み要素多分に含みますm(__)m)

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主人公クッソめんどくせえええええ!(>_<;) 自分も相当めんどくさいヤツだと思ってるけど、ここまで積極的に他者にガッツリぶつかるほどの気力は無いわ(笑)自意識の強さがコッチの方面に発揮されちゃったかー。コレは確かに語りたくない黒歴史。私とは逆で皆<自分と考えていながら「ちゃんとした“賢い”人間はすべて臆病者で奴隷である」という自己正当化をしちゃうタイプの人なのか(@_@:) 私は自分<他の全ての人間様と考えているために、いつ「コイツ人の皮被った虫けら以下だ」って見破られるかビクビクしているタイプだなぁ。あ、でも幼年~青年期に「誰ひとり自分に似ている者がなく、自分自身も他の誰にも似ていない」という事実に苦しんでいた、という点は近いかな。たぶん多かれ少なかれ皆一度はそういう感情を思春期に味わったことがあるのでは・・・? 特に学校とかは、浮かないように「周りの流行りに合わせる」のが大事な場だから「ホントはこんなの(スポーツとかアイドルとかテレビ系)どうでも良いけど、分かってないと話についていけないから見る」みたいな。フリをしないといけないじゃないですか、どういう本読んでるかやどんな音楽聴いてるか、とかも決まった友達としか話せない。そしてその「全て」を共有できる相手がいない、ということに軽く絶望するんだよね。そりゃそうだ、他者は決して自分と同一のものじゃないんだから。自分のコピーなんか欲したって意味が無い、と気づくまでの多感な時期独特の悩み(ノ∀`)
ロシ○独特のロマンチシズムについて語るくだりは「おおっ!」と来たな。「ロ○アの地には馬鹿がいない、そこにこそ他のヨーロッパ諸国との相違点がある」で、例にド○ツ(思い浮かぶ限りでゲーテとかか? かなりブラックな方向のロマンチシズムだと思うけど。笑)が出されているんですが、確かに余りにも厳しい風土・体制下で長年暮らしてきたロ○アでは、人々が完全に地面から足を離して現実から遠ざかることは難しいのかもしれない。「ヨーロッパ流の物指など、物の役にも立ちはしないのだ」と言い切っているところにロシ○人としての気概すら感じるし。・・・でも、やっぱり私の目には結構近いと思うわドイ○とロシ○(と日.本(^^;) つべの政治動画やニュース、露系Vlogerさんのコメ欄とか自動翻訳で見てみると、被害者意識とかナショナリズムの方向性が不思議なほど日/本人と似てるんですよ! 中.国系の分かりやすい「脳残」やゴモー系とはまた違った、純粋に自分の考えでソコに行き着いた、またある意味で「あーうん、まぁ気持ちも分からなくはないかな」と感じてしまう方向の長ったらしい主張とか。まぁ一言で言うとアングロ憎し、という共通点にまとまるかな?)「ぼく」の言うところのロ○ア的ロマンチストの特色、「すべてを明晰に見通し、妥協せず、さからわず、如才なく振る舞いつつも熱狂の中に目的を見失うことなく、自分自身をも宝石を真綿でくるんでしまうように無傷で保存する」って、コレまさに初期日/本の純文作家の目指していたところじゃないですかー(笑)あ、ドイ○帰りの鴎外さんとかまさに地で行かれてる感じですかね?(´ω`) まさに呆れ返るペテン師!共感いたします。
あ、でも「札付きの卑劣漢が同時に崇高なほど潔白な心の持ち主というのはロ○アでのみ起こり得る現象」という点にも心から同意(以下略)。スター○ンといい、プー○ンといい、ロシ○人の持つ人格の「幅の広さは舌を巻くほどのものであり、状況の変化に応じてどう変わっていくか、いかに仕上げられていくか、将来我々に何をもたらすかは神のみぞ知るとしか言いようがない」という一文には鳥肌すら立ったよ(((゜Д゜;)))gkbr 「とにかく出来が違う」同じロ○ア人にもそう思わせちゃうような存在を育む土壌が昔からあったんか、恐ろしい・・・。ラスプー○ンにプガチョ○(彼はタタールだからスラヴメインのロ○ア括りにするのは違うかもしれないけど)中々凄まじい人物多いもんなロシ○史。アレ、でも某女帝はド○ツ人やんね?(´・ω・`) やっぱロシ○とドイ○近くね?

私も話逸れたので内容の感想に戻ると、家にいる時は大体内部の鬱屈を外的刺激で紛らわせるために読書に逃げてる、ってのも自分と似てるなー、と感じた。あと彼とは微妙に方向性が異なるかもしれないけど、昔から心の内側に地下室をかかえていた、というのも。しかし将校のくだりは全く共感ができなかったかな。何て痛くて惨めで憐れな人なんだろう、としか(ノ∀`) 自分を誰よりも知的で高尚だと思っているのに一匹の蠅に過ぎないとか、どうしてそうなんの?(笑)最初から蠅どころか生物として生まれてきてしまってスミマセン状態の自分には、ちょっと彼の行動力と知力があればもっと人生どうにかなったんじゃねーの?としか思えない無駄な労力使ったな、というエピソードでした(´-`) でもね、後半に出てくる「ぼくには中間はなかった」って言葉には物凄くズドンと胸の真ん中を撃ち抜かれた。「賢すぎて」英雄かどぶ泥か、凡人になれないが故の苦しみ。そのために空想の世界に逃げる。そっか、そういう人間もこの世には確かに存在したかもしれないんだ、って色々考えさせられた。

スヴェルコフのくだりになってくると、学校時代の話も含めもうひたすら主人公が哀れで(つД`) でも面倒臭いのにまとわりつかれちゃった友人の皆さんにも同情するし。(似たような境遇で何故か「ハブ主犯」みたいな車座つるし上げを学級会議で食らった経験もあるしな! KYでどうしてもクラスから浮いちゃう、というか皆が避けがちな子に行き着かれたウチのグループが相当参ってしまって、どこが嫌とかダメという点をハッキリ指摘しただけなんだけど。今の日/本の教育って相当面倒な方向に歪んでるで!先生の身内と繋がりあったから後でコッソリ謝られたけど、「ウチの子いじめられてるんですー><」的な文句言ってくる親御さんの手前、ああいう対策(話し合い?)を取りましたパフォーマンスやらざるを得ないらしい。うっかりクラス一同の前で公開つるし上げ食らったウチらの方が不登校になるとこだったと思うわ正直^^)
でも人一倍敏感で傷つきやすく自尊心の殻に閉じこもってしまった「ぼく」の目から見た、恐らく当時のロ○アにおいて、一定の地位がある階級に属していた子弟の集まる学校に通う少年たちの残酷さはリアルだな、と。「彼らは世間的な成功だけに目がくらみ、たとえ正義であっても、辱められ、虐げられているものに対しては冷酷な嘲笑を浴びせた」というくだり。革命後の彼らやその子孫がどうなったか、いづこに亡命し何を呪って恨みながら死んでいったか、あるいは主人公のような諦観と絶望と自棄の境地に至り彼を理解することができたのか、フィクション中の人物とはいえちょっと興味深く妄想しちゃいますね。あと親友が欲しくなった「ぼく」が相手を無制限に自分の思うままにしようとした、ってのもやられたこともやったこともあるような、思い当たる節にギクリとしてしまった(-_-;) 上で書いたように最後は「あ、求めているのはもう一人の自分じゃなくて多様な価値観を教えてくれたり鏡になってくれる他者だ」ということに気づくんですが、思春期にありがちなボーダレス症候群ってやつですね・・・。
成長後のスヴェルコフ壮行会のエピソードは、何かドコに行っても逃れられない社会的階級の悲哀みたいなものが(特にこの時代のロ○ア、恐らくは日.本においても)、ここまで主人公を更に歪ませてしまったのかな、と(・・;) 私、あんまり相手をランク付けしたり上下比べる感覚が理解できなくて・・・自分がカーストの数にも入らない虫とかチェンジリング的な間違った存在だと思ってるからかもしれないけど。(繰り返しますが本当に病んでてスミマセンm(__)m)全ての人が自分よりよっぽど優れて輝いてマトモに見えるからさー。仮に吉○小百合と宮沢○えと北川景○が目の前に並んでたとしたら、特に誰が一番とか思わないでしょ? 皆それぞれ歳相応の美しさ、素晴らしさがあって、凡人の目からしたらどの方でも写真をお願いしてサインもらう対象。それと同じ理屈が大体適用されるというか・・・例え多少すれ違った相手に迷惑をかけられようと、こっちの方が生きてるだけで数倍世間様の不利益になってるしな、としか考えられないから最終的には「まぁ良いか、人間様って本当に素晴らしい」という結論に毎回到り、人混みに出ると大抵家に帰ってやっぱりダメ過ぎる自分に落ち込むのだった・・・(´-`)@我ながら「ぼく」と真逆の方向にめんどくせぇ!
あ、主人公がスヴェルコフたちに毒づく中で「おまえらなんか将棋の歩!」って例えてるとこ、原文はチェスのポーンですかね? S44初版の訳者さん頑張ったな!「お役所」じゃなくて「ご役所」ってくだりも面白い(^∀^)b 「自分がどんな感情や思想を持ち、知的に発達した人間かを思い知らせてやることができたら!」という独白は現代SNS(所謂バカッターや炎上ニ/コ生など)で問題になっている、若者の強すぎる承認欲求に近いものが昔から存在したことの証左ですね。ネットで悪目立ち・ニュース化するようになっただけで、以前から万引き自慢やわざと悪ぶる子、やっちゃいけないことをあえてそういう場でする子たちはいた。ホント学者って今更な段階になってから変に気取った名前付けて「研究」化する厄介な生き物だわ、とつくづく思う(-_-;) 日本の純文作家にもかなりこの手の人多いのが分かるけどなー。『檸檬』とか、今なら写メってツイ投稿→本屋から大目玉の流れやろ確実に(笑)

この後はいよいよ恋愛編?に入るみたいで楽しみです!しかし娼婦に「ド○ツ人?」って、当時のドイ○の認識(∩Д∩) おフラ○スは貴族社会の憧れで会話も仏語だったんですよね? 統一してなかったからロシ○まで流れてきちゃう貧しいゲルマン系も多かったんか・・・。メル○ルがロシ○語ペラペラなのエカチェ○ーナと被るイメージで見てましたけど、彼女東独生まれのポーラ○ド系と考えると当たり前か、と。(宿敵関係でも民族は同じスラヴで言語も近いですもんね)ド○ツはもう他国出身者に国のトップ任せんの止めた方が良いと思う(・ω・;) いくら世代重ねて「ドイ○文化・価値観」に馴染んでるように見えても、某オースト○ア人(いやコチラは同じ民族で後に併合してたけど)の件といい、もう縁起が悪すぎる。差別と言われようが今後は絶対避けた方が良いって!いや本当メルケ○女史には同情の余地もあるけど、実際国民に被害が及び、結果的に欧州全体の右傾化・保守化進めちゃった以上はさすがにもうしょうがないかな、と(;´Д`) 民族大移動経験者のフィ○ランドでまで「自警団」登場するとか、もうよっぽど心理的に追い詰められちゃってるじゃないですかヨーロッパの皆さん・・・。今後がどうなるのか本当に心配です。(そして国.連様、お願いだからコッチだけは見ないでね!@自己中と言われようが今の日/本じゃ絶対ムリ)


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まだ第一部までしか読んでないけど色々語りたくなったので。(※病み要素含みますm(__)m)

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これさ、フィクションってなってるけど思いっきり作者の心情こもった激白だよね?とやっぱり思っちゃう。てか母に「アレすげぇな、山も谷も起承転結の欠片もなくひたすらぶっ通し独白なんだけど、何で薦めたの?」と聞いたら「好きだから!」とスッパリ言い切られて「トルストイとかは着地点が予想できるとこに落ち着き過ぎでつまんないのよ!ドストエフスキーの本質は『地下室~』にあるの!」とマシンガントークをかまされ、「あ、やっぱ紛れもなく血が繋がった親だこの人・・・(^ω^)」と思いました。彼女も文頭のフィクションアピール凄まじいけど、コレ残らず作者本人の本音ぶっちゃけ作品だよね?という点に間違いなく同意してた(笑)カラ○ーゾフは長男・三男よりも次男のイワンと例の隠し子が思いっきり自己投影されたキャラだったんだなぁ、とか。「あんたの好きなカフカとも被るでしょ!? ヘミングウェイとかアッチ系もダメなの、ちゃんと世の中の不条理とか綺麗なオチが着かない話じゃなきゃ!><」と力説された・・・見抜かれておる(((゜Д゜;)))gkbr でも母はドSなので「アレは健康な状態の時に読んで歯痛なのに歯医者行かずに痛みに快楽覚えるとかwwwプギャーm9(^Д^)って読むものであって、リアルに痛いとこがある時に読んではいけない」みたいな忠告も受けたけど、正直もう手遅れだよね。読み終わったら今度もう鬱を極めるためにハムレットに向かおうかと思ってるし(´∀`)エッヘヘ

てか日.本人が最も共感できる外国語文学はドイ○語圏とロ○ア語圏だ、というのをしみじみ感じるなぁ。英語圏は・・・何つーか、感情が真っ直ぐ過ぎるんだ、「恐怖」はあくまで心の底からの恐怖で可能な限り決して自らの傍に寄せ付けたくないもの、として描かれる。けど、ド○ツ・ロシ○圏では恐れつつもどこかでその恐怖から逃れられないことへの悟り、恐怖の渦中に浸りきる自分、という想像が具体的に成り立っている。この辺民族的特性というか、島だったりほぼ自らが勢力下に置いた大陸でしか生きたことがないアングロ系の人たちと、大陸で常に国境を巡る争いが絶えない状況下で生きてきた、あるいは他民族からの屈辱的な支配を受けた経験を持つ人々との発想の違いなのかな?(日/本も島国だが、災害の多さとドーヴァー海峡なんてもんじゃない日.本海の荒波+果ての見えない太平洋という逃れようのない孤立が大陸ヨーロッパに近い諦観の念を育んだのかもしれない(-_-;))
科学の萌芽がアチコチで発達した19世紀、人々がソレに期待を寄せ過ぎていたことと、同時に全ての「真理」が解明され、「科学的正しさ」によって人間や社会といった存在が完全に支配されてしまうことをいかに恐れていたか、ということがうかがえて複雑な気持ちになった(´・ω・`) 今、科学はますます進歩し人は宇宙や生命の神秘にすら当時よりよっぽど近づきつつあるけれど、同時にその科学から最も縁遠いものであるはずの宗教を名分にした過激派が台頭し争いは決して終わらない、そして科学はその戦争の道具としての前進も続けている。そんな未来を、「ぼく」は予言さえしているかのようだ。
主人公にあり得ないくらい共感するのは、「自身が何者にも、虫けらにさえなり得なかった」と独白している点。だからこそヒキってひねくれた吐き出しにわずかな刺激を見出だしている、ってまさに私か!/(^o^)\ まぁ私は賢くは無いし、彼が馬鹿正直な「活動家」を嘲りつつも実は心から憧れ羨んでいる気持ちも分かるけどね(笑)思いっきり壁にぶち当たって砕け散る気力すら湧かない状態なんだから。憤怒や恋情や憎しみすら、全ては退屈から無理やりひねり出した産物であって、本源的要因が見つからないと分かった途端に霧消する、という考えにも思い当たる節が有り過ぎて( ノ∀`) もうホントどうして良いか分かんないよね。傍から見たらただの怠惰、なまけ者と変わらないという自己認識は確かにあるんだけど。(あ、「ぼく」は40まで役所勤めして遺産を得て今後の生活の心配がない、という点で私とはまるで状況が違いますが)
ボックルさん読んだことないけど、イギ○ス人は「(自分たちの基準による)文明化によって戦争が減る」という理屈に基づいてあんなに冷酷極まりない植民地支配・文化の押し付けを次々と行うことができたんですかー^^ ソレを端から具体的事例を示しつつ否定する「ぼく」、カッコ良すぎる・・・!まさにそう、残虐行為の主役として個人の名が際立つことは減っても、今に至るまで原/爆だの無人機だの、文明や科学の発展は人間をより惨たらしい行為に駆り立て、またその自覚を薄れさせてしまっておりますとも、と(;´_ゝ`) 水晶宮(コチラも『何をなすべきか?』未読の無知でスミマセンが)に対する批判も、結局後にロ○アが辿ることになった道を考えると興味深い。「退屈まぎれ」に完璧なはずのシステムの管理者=つまり絶大な権力を握ることになった連中が何をしたか。ロシ○人は思索の末に「ぼく」のような懸念と葛藤を覚える人々を打ち負かし、「真理」を信奉する余りあの道へと走ってしまったのだろうか? まぁ例の革命には日.露戦争との関わりも大きいので日/本人としては何ともコメントしづらい面もありますが(・・;)
8,9章では電気羊の内容にも通じる人間の最も人間らしいところ、人間とは何か、どういう生き物か、という科学的側面からは推し量れない「真理」が語られている印象を受けますね。自分にとって何の利益にもならない無駄なことをしちゃうのが人間(笑)自我を主張する、ただの社会の歯車・機械ではないと証明するためだけに、世界を呪ったり「2×2=4」という「真理」を否定する意志を抱くのは人間だけに可能な心情であり行動だ、という点には同意せざるを得ない(^-^;) では何故人間はそのような愚かな真似をしてしまうのか? それは「人が道を切りひらく使命を負っているからこそ、道がどこまでも続くようにしなければならないから」というフレーズに思わずハッとさせられたΣ(゜Д゜) 「人間が破壊と混沌を愛するのは本当のところ目的を達成すること、完成を恐れているから」って、まさにウチのわび・さび・ZENの思想じゃないっすかー! 目的に達する経緯だけを好み、目的そのものはどうでも良いとか、え、なに主人公もしかして日.本人・・・? あ、でも日/本人はプロセスとしての「生」よりゴール地点の「死」にこだわるからなぁ。この辺大きな矛盾かも。ヤバい、外国文学のおかげで自国の文化がますます理解できなくなるという矛盾がこれで何度目かorz
でも、9章最後に出てきた「自意識は人間にとって最大の不幸だが人間がそれを愛しており、ある意味それこそが最も高尚な人間を人間足らしめる所以だ」(※ニュアンス)みたいなことが書いてあって少しホッとしちゃった。私大体いつも親に悩みとか打ち明けると「自意識過剰」って言われまくって終わるからさ(^^; イヤ誰もコッチのことなんぞ気にしてないの分かってるけど、石ころ帽子被って誰の目にも触れない存在になりたい気持ちを理解してもらえない・・・。逃れようもない、目に見える、戸籍にも登録された人間として存在していないといけないこと自体が苦痛でござる(´・ω・`)という、恐らく強すぎる自意識ゆえの苦しみをね!肯定してもらえたような気がして。科学どころか歴史学でももちろん決して許されない、「2×2=5」を愛する生き方も良いじゃない、って言葉に何か勝手に救われたような気持ちになりました。

追記:第一部読み終わったので追記。
それまでの10章分のクドクドした愚痴を一転してこきおろす11章(笑)「真実はあっても純真さに欠ける、心は淫蕩に汚されていて嘘ばかりだ!」そうそう、こんな風に叱って欲しかったっつーかツッコんでる自分がいるんだよね、現在の状況に((´-`)ウンウン、とココも病み共感。でも何でこんな恥ずかしいこと、極端なこと、ひねくれた考えを書き起こして世間様の目に触れるような前提で語っちゃってるのか、という理由の説明がまた・・・「誰にも、親友にも打ち明けられないような、省みる行為に堪えられないようなことを、せめて自分自身に対してくらい裸になりきれないものか、真実を恐れずにいられるものか試してみたい」あー、ソレ私がブログ始めた時の心情に近いな、と思っちゃった(*_*; んで実際に書き(打ち)始めてみると、確かに自分の気持ちを整理してより客観的・批判的になれたり気持ちが軽くなる、ってのも同じ。あとどんなに思い出したくないようなことでも、一回外に吐き出してみればソレから逃れられるような気がする、というのも。本当に救いようがないし申し訳ないですね、読者の方に対してorz(最近隠しきれてないけど、私の場合は細切れに創作の中にもそういう要素を入れちゃってたので)


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尾骨痛で動けないのも手伝って一気に読んでしまった\(^O^)/
※病みトーク含みます。

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何というか、主人公と同じように物凄く疲れて絶望して、けれど同時にやはり人間という生き物へのかすかな希望にすがりたいような読後感。作者がこのSF小説の中で語りたかったのは、ありがちなハチャメチャ近未来的な世界観の中で本当に伝えたかったメッセージは『高い城~』と同じく、機械のことでも核のもたらす破滅の話でも宇宙への移住ネタでもなくて、人間とは何かというテーマなんだ、と。ある意味それは何よりも普遍的な純文学で求められてきた問いに近い、人間らしさとは、人間の在り方とはどうあるべきか、ってことを彼は作中でずっと追い続け、探し求め、語っている。マーサーの正体が何者であっても、人々の心の中から恐らく永遠にその面影、共感ボックスの取っ手を握る行為があの世界で消えることはないだろう。そしてソレを「すっぱ抜いた」アンドロイドのコメディアンが、そうした人間たちの行為を理解することはきっと不可能。結果として彼は逆に正体が露見し、彼を「使用」してきた人間たちに駆逐される羽目になるのかもしれない。
何て絶望的で哀しい世界だろう。感情をコントロールする装置、人間のために生み出された機械が「自由」を求めて脱走しつつ、「人間」になりきれずに処分されていく、同胞の「破壊」に同情すら感じない彼らに対し、彼らの「始末」に胸を痛め、彼らの存在に愛着を覚えてしまう人間というものの虚しさ・脆さ・哀しさ。けれどだからこそ人はある意味で「強い」のだろうか? 彼ら(機械)に勝る唯一の長所がその「情」というものなんだろうか? だとしたら「自分は人間だ」という偽の記憶を植え付けられたフィルやレイチェルはどうだろう? 彼らの恐怖・葛藤・矛盾の全てが淡々とした筆致ゆえに胸に迫って締め付けられる。特に屋上から山羊を突き落としたレイチェルの行動は、究極的に「人間らしい」嫉妬と羨望の表れなのでは? 寿命があと二年のアンドロイド、信じていた自分を全て否定され、同型種の存在とその破壊を「愛していた・くれた」男の手によって行うことまで知らされて。アンドロイドに感情に近い回路(と記憶)を埋め込むという行為は何て残酷なものだろう、と思わず感じてしまいました(つД`) どれほど人間に憧れ、近づこうとした「彼ら」がいたことか。そしてそんな「彼ら」に惹かれてしまう、心を寄せる人間たちがいたことか!
欧米・一神教徒がロボット研究の発展を恐れる理由が少し分かったような気がします。彼らはそうなること(無機物を愛する、という神の教えに抗うこと。獣.姦や同/性愛に対しての考え方も同じかな? 彼らの「規範」を表すものの象徴が、作中世界では彼らを「彼ら」にしか持ちえない「感情」を共有する、という行為・絶対的な絆で繋ぐことによって「人間」という存在に留めてくれるマーサーという存在なのだと思う)を何よりも怖れていて、だからこそ多神教徒、無機物を崇めたり愛することに何の抵抗も感じないウチらがロボット開発にこだわる理由が理解できない。すぐ兵器とかセク○ロイドというネガティヴな方向に発想が向いてしまう。「共感」こそが人間を人間たらしめる所以、という点には同意するけど、全ての感情を共有したり賛同するのは異なる人間である以上不可能だし、各々の背景が違う以上必ずしも「共感」を強制する必要は存在しないとも考えるから(例えば父親を殺された娘が犯人の気持ちに同情すべきか? あるいは裁判員が双方の感情に入り込み過ぎて法に基づく正しい判断を下せなくなってしまったら?)、やはりマーサー教、そして共感ボックスの存在には、私はアンドロイド側の立場に立たざるを得ないかな(´・ω・`) でもちょっと情調オルガンは欲しいというか、あったら薬も飲まなくて良いし少しはマトモになれるのかな、という気も・・・(本当病んでてすみま(以下略)m(__)m)最近も順調に?体内年齢が若返ってしまい(ついに十代回帰^^)運動しなくて寝てるだけでも何故か痩せることって可能なんだ、と学んだわー(笑)一応体脂肪率もBMIもまだ標準範囲内ではあるんですが、このトシで実年齢と十歳以上差が出るのはそろそろマズいかと思い、今日は頑張って鶏肉一口とパリパリに焼いた皮一切れ食べてみましたが、既に気持ち悪くてヤバイorz
この作品における田上ポジションはイジドアですね。切ねぇ・・・(;_;) 初恋のアンドロイドが、彼が久々に目にした「生きた蜘蛛」の足を、止めてくれという懇願も聞かずに一本一本切り落としていく。そして彼女と、初めて得た「友人」たちが残らず「処分」され、ただ一人取り残されて。特殊者・ピンボケであるというだけで汚染の進んだ地球に留まることを余儀なくされ、伴侶を得る権利も持たぬ彼が、更には信仰を通り越して依存していたとも言って良いマーサーの虚構まで暴露されてしまった彼が(それでも肝心な時に彼の前に「マーサー」は現れ、新たな、そして完全な(機械であるかもしれなくても)蜘蛛を与えたことによって恐らく信仰は揺らがないのだろう、という推測は成り立つけど)、どうやってこれからの途方も無い孤独を灰の中で長い歳月過ごして行くのだろうか、と考えると陰鬱な気分になりますね(゜_゜;)

散々映画好き言っといてブレード○ンナー観たこと無いんだけど、見るべきかな?(今更)まぁ良いや、私の中の偏ったSF観を良い感じに変えていただけたことに感謝したい。てか謝りますm(__)m 「時代の洗礼を受けた小説」ハルキの作中に出てくる言葉を受け入れるのに抵抗はあるけど(どんだけ嫌いなんだよ(^^;)確かにそれはそうだな、と。ホント今更で恥ずかしいですが、心から読めて良かったと思います。あ、次何読もっかなー、と本棚漁ってたら『刺青/秘密』出て来ちゃった(∩///∩) あとコチラも持ってねぇだろ、と思ってたはずの芥川氏も、『地獄変』表紙買いしたヤツが。あの人気漫画家に表紙描かせるシリーズ結構引っかかったんだよなー。『舞姫』もクラ○プ画のヤツですもん。図書室で一回読んで「カーッ(`Д´#)=3 許せん!」となったのに「大人になって読んだらまた違う印象受けるかもよ?」という悪魔の囁きが、あの表紙に・・・(∩Д∩) 積ん読は色々たまってるんだけど、まだ現代に帰りたくない気持ち(笑)なので、近代日本の純文短編さまようか(中・長編はちょっと今日のでお腹いっぱい)取っておきカフカに行ってしまうかで迷い中。


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※7章まで読了。前半時事ネタ、後半から相変わらずかなりの病みが混じった感想に入りますm(__)m

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ト○コもイ○ドネシアも、イ○ラム教が主流の国の中では比較的世俗派・穏健派だったはず。だから観光客だって集まったし、それを貴重な資源にしてきた。それが、ネット駆使したI Sの影響一つでここまで突き崩されちゃうものなのか。この間のタ.イの事件だってそう。誰も憎んでいなかったのに、植民地支配も戦争も乗り越えて、独立して前に進もうとしていた彼らを、どうしてこんな同じ宗教を信仰する人たちを追い込もうとするのか? いやトル○の件はシ○ア難民、タ/イの件はウイグ○族という複雑な事情も、自分たちを助けてくれない他者・社会・世界を恨むに足る動機は存在したのかもしれない。でも、全世界の追いつめられたムス○ムに向かって(少なくとも現在の彼らがそうなっている状況は半分以上I Sの責任が大きいにも関わらず。残りは彼らを育てたとも言えるアメ○カな(´-`))、「戦わなければ罪」だなんて。そんな意識を、憎しみを植え付けるなんて間違っている。生まれ育った国や、自身に対して何の危害も加えていない相手を攻撃しろ、だって? 何十年も前のことについて、むしろ今の自分たちは相互に利益を互換し合う間柄だろうに謝罪や賠償や復讐を求めて叫ぶどっかの隣国みたいで吐き気がする。人間ってどうしてそんなバカなの? 理解し合えないのか? 私は歴史が好きだけど、それが現代と繋がるものであることは解っているけど、そのことを利用しようとする連中は心底軽蔑するし許せない。
今アメ○カにイラついてるのは中途半端な安保政策態度とぶっちゃけ金の問題だし、中/国を警戒するのはその不透明な金の動きと影響力の拡大ぶり、軍事的にどこまで覇権を伸ばすつもりなのか、また実質的にそれが可能なのか、ということが隣国として気になるから。半島はどっちもホントにもう困ったもんだ、でロ○アはどうせ島返す気なくて経済的にも追いつめられてるのに交渉する意味あんのかな、って感じだし(とりあえず中.国に寄り過ぎないでね、って目的なのは分かるけど彼らもうソコしか頼りどこ無いんだから無駄じゃね? まぁ米にも裏で話通した上で「ポチじゃなくて独自外交してます」パフォーマンス、定型の国○省警告までセットのプロレスなのかもしれないけどさ(-_-;))、台/湾は選挙後もバランス取って上手くやってほしい、とかそんな現代の視点しかなくて、たまに感情的になることはあるけど過去は過去であって自分がやられたわけでも無いことに表舞台に出てまで騒ぐ気持ちは欠片も忖度できない。宗教や民族主義という信仰やイデオロギー(身内見てる限りぶっちゃけ区別つかないんだけどさ。笑)ってそこまで根深く「自分に関係ない」仲間の痛みまで背負わなきゃいけない、そういう感情や義務感を養っちゃうもんなの?

電気羊読み始めたんだけど、私にはフォークト=カンプフ検査をクリアできそうにないし、マーサー教の共感ボックスも全く役に立たなそうだな、と。てか人形供養の文化やどんと祭でのお焚き上げ(私も昔何体かお世話になったぬいぐるみやオモチャを持っていきました)、ロボットのペットが売れたり、スマホと会話して遊んだり、自動掃除機に名前を付けて可愛がる人が出てきちゃう日.本人は全員「特殊者」認定で地球外惑星への移住は認められないかも(笑)と思った。残酷だと感じる基準も、許せないことも、愛情や執着の観点も余りに違いすぎる。『高い城~』で東洋ごちゃ混ぜ解釈に戸惑いつつも確かに感じられた「同じ人間なんだ」という共感が、少なくとも電気羊の序盤ではことごとく裏切られているようで泣きそうになる。
何か(特に年明けの初詣鬱トークから、尾骨打って動けなくなり、更に初めて精神科医にトラウマについてぶっちゃけるというイベントが続いたために)情緒不安定が酷くなっているからかもしれないけど。マジで初期トラウマを打ち明けた時の反応が皆同じで笑えるんだけど( ノ∀`)「えっ、保育士さんに?」とかって(笑)皆さんどれだけ子供が無垢だと思ってんの? だからこそタチ悪いんだよ、もし性的倒錯者の大人にやられてたらこんなに引きずってないよ。ソイツを憎んで責めれば済む話だもん。ただ大人の真似事をしてみたかった子供のイタズラの範疇だって分かってるから、余計に誰を恨むことも責めることもできずに感情の行き場がなくてずっと膿み続けてるんだっつの。何か大晦日のド○ツ女性が「難民」にされたことの具体例聞いたら、成長してからの諸々も含め自分のこと思い出し過ぎて吐き気してくる。大勢の、大人の男に囲まれて持ち物も奪われながら、とか考えると・・・泣けるとかそんなもんじゃなくて痛くて気持ち悪くてしょうがないんだよ、心臓とか胃とか体中と頭や心の中身が。作中に登場する名句「死は確かなもの、生は不確かなもの」、コレまさに私に当てはまるんじゃね?と感じた(^-^; 何で生きてるのか分からない、ずっと死んでるも同然の状態だと思うもん。確実に心臓が止まろうとする瞬間に、あー生きてたのか、って実感がやっと得られる気がする。(ホント病み100%でスミマセンm(__)m)
しかし電気羊と『高い城~』両方読んでると、勝者の側、そしてアメリ○でもいかに放射能・核に対する怯えが広がっていたのか、ということがうかがえて少し暗澹としてしまうような、一方で日/本人として胸がすくような複雑な気持ちになる。冷戦下ということもあっただろうけど、あれほど後世にまで害を及ぼす、非人道的な代物を開発し実際に人間が暮らす都市に落とすという行為をし出かしておいて、それをやった国の人間が何も感じないとか、それこそアンドロイド(機械)と同じ、感情を持たない無機物の狂気じゃないですか? そう考えると70年経った今に至っても、あそこまでアメ○カ人・アングロ側が日.本人の感情を刺激するほど過度に原.爆の正当化・「落としていなかったらより多くの命が失われていた」説を熱心に主張する訳も理解できる。(一日/本人としては決して認められないし、最終的に降伏という決断に結び付いたのは中立条約を結び、和平交渉を願い出ていたはずのソ.連の裏切り的な参戦が最も大きかったと考えている派ですけど)
アメ○カが戦後日/本の経済や安保面での支援を(同時に搾取や利用もありましたが、国際社会の非情さを考えればソコはお互い様の面もあるかと)行ってくれたのは、確かに大陸の共.産化と冷戦という切実な状況に迫られたという理由ももちろん大きかったのだろうけれど、もしかしたら罪悪感を払拭するための贖いの意味も込められていたのかもしれないし、自分たちがされたら決して許せない絶望的な憎しみに囚われるレベルの事柄だと自覚した上で、こちらの恨みを和らげる目的もあったのかもしれない。そう考えると、やっぱり人間は人間なのかな。当時日/本兵を同じ人間だと見なさずに(そうすることができずに)残酷なことを平気で出来た米.兵もいれば、「同じ人間」としての痛みを汲み取って政策を打ち立てた偉いさんや、後の時代に恐怖に打ち震えたアメリ○人もいた。そのことに、事実に私はやっぱり希望を見出だしたいな、と改めて考えさせられました。いつかI Sに洗脳された人々の心にも、そういう「人間としての共感の感情」がちゃんと届くと良いんだけど(´・ω・`)


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『苦役列車』同時収録のやつ。

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うおお、寛多が「書くこと」に執着しておる・・・!(゜Д゜;) というのが『苦役列車』『汚れなき酒のへど』辺りの頃から考えるとかなり大きな進歩なんじゃないか、とまずビックリした。藤澤淸造に出会い、彼を師とも父とも慕い、その足跡を追い続けた果てに始めた文筆業が、彼をその道へと誘った。文学を通して新たな欲望、つまり生き甲斐を得た訳ですよね。投げやりに日銭を稼いでた若い時や、とにかく共に暮らせる女性の存在を求めることにこだわっていた頃に比べると、より野心的で前向きな生き生きとした方向に舵を切れたことは、例え生来の僻み癖が抜けなくても、同時に惨めな自覚と共に抱えるスペシャル・スノーフレーク症候群によって他者を見下す姿勢(彼はそれが己の弱さと劣等感の裏返しだと誰よりもよく知り、傲慢な態度を取る一方で文中に赤裸々な怯えもまた綴っている)を変えられずとも、間違いなく人生の坂を登りつつある過程にようやく到達できたのではないか、と感じました。少なくとも15歳?から何とか一人で生きてきた訳だし、いくら本が好きでもそこまで特定の作家や作品といった対象を追いかける情熱は無く、彼のように書くことへの欲も思いっきり奮い起こすことが不可能だった私よりは少なくともずっとマシだわ(^^)b
今ホント尾骨痛くて寝たきり状態も作品中の彼と被って一々共感しながら読んでたんだけどさー。(しかし男性は羨ましいな!女だしアレ中だから張ってでもトイレ@ウォッシュレット付きに向かわざるを得ないもん。前と後ろで痛さ倍増だし。下な話題でスミマセンm(__)m)腰はホント何故か精神状態がダイレクトに反映されちゃう部位だよなぁ。神経が集まってるからだっけ? 表裏の関係だからか胃とも思いっきり連動するし(;´_ゝ`)
でもやっぱりニシケンさんは凄いわ。野間賞取って物書きの端っこに名を連ねたところで何も変わらない、取り囲む人間が倉庫会社の社員から編集者たちに変わっても、出世の概念が倉庫番を任されることから文芸賞の受賞に変わっても、それらに向ける欲と、同時に存在するそういう欲に対して厭世的な、全てをぶっ壊したいという衝動を抱く刹那的な態度や心情の在り様が何も変わらない。それってある意味すごいこと。欲しがってるのに欲しくない、イヤそういうフリをする。どこかで見ている「師匠」に失望されたくないから、これまで「負け犬」であり続けた自分が見下し続けてきた、当たり前の出世や名声を求める「エリート・成功者」なぞになりたくないから。一方で文芸家として憐れな顛末を辿った堀木の本に奇妙な同情と恐怖を抱き、文芸者としての己の今後を悲観し出す、というのも相変わらずの矛盾溢れる人間味で( ノ∀`)
でも、一つ安心したのは彼が堀木のようになるかもしれない、と心配している理由が「根は小説を書くことが何よりも好き」だから、という点に私は心底感動した。きっと彼は、今後どんな栄華を掴んで没落したり裏切られたり人並みになれたり、どんな道に進もうと、どんな目に遭ったとしても絶望も絶筆もしないだろう、と。いつもどこか高みから自分を見下ろして「ネタ」として客観視できる、そんな私小説をこの忙しなくモノと情報が溢れて止まらない現代社会において立ち止まって冷静に(かつすこぶる主観的な情熱も込めて。笑)描き出すことのできる貴重な作家さんだな、と改めて思った。だから、これからの作品も楽しみにできるo(^o^)o

いやー、しかし彼は中卒コンプの塊だけど、絶対その辺の文学部生より近代文学への造詣は深いんじゃないか? 堀木克三なんて正直聞いたこともなかったもん。私が否定的な近代日本文学の分類と系統、歴史についてもシッカリ把握しているし、語彙の豊富さや用い方と言い、ハルキや人気エンタメ作家(それらインテリの皆様はあえて現代読者向けに難しすぎる言葉は使わない方針を貫かれてらっしゃるだけなのかもしれないませんが^^)さんたちより、よっぽど古くて味のある日本語を使いこなしてらっしゃる。まぁぶっちゃけ遊んでても何とかなる大学生は置いといて、中学の国語教師が地名の読み間違えてたことも、高校の国語教師が古典の基本的な知識すら誤解したまま授業を進めていて呆れ返った事実も個人的に忘れられずにいるので、それらの人々に比べたらよっぽど彼の方が「先生」と呼ばれるにふさわしい(少なくとも国語・文学分野においては)教養を備えていると言えるんじゃないかな、と。しかも彼はそれらの知識を必要に迫られて詰め込んだ訳ではなく、純粋に「好きだから」自然と身に付けたというところが素晴らしくないですか? 頭の固い学者に支配され、すっかり一般社会からは隔絶されてしまった印象を覚えて久しい近代日本文学の世界でだよ?(マジでこの方面は日本の文系学問の中でも特に硬直している分野としか(以下略)私は文学専攻じゃなかったし、ソッチ系で仲良かった友達も古典分野メインにやってる子だったから、昨今の研究事情について偉そうなこと言える立場じゃないけどさー)

あと巻末の解説某元都知事でクッソ吹いた( ノ∀`) ニシケンさんがずっと憎んできた、彼とは真逆の所謂エリート層・ボンボン作家?に書かせるとか! ニシケンさんよく許したなー。てか『落ちぶれて~』読む限りS潮社担当の復讐?(笑)でもA川賞の受賞から一気に華やかな表舞台に引き上げられたことで、ニシケンさんが彼の私小説の根幹を成していた貧困から脱け出し、裕福という障害を負った以後の作品の変質に興味が湧く、という一種のイヤミとも受け取れる意地の悪い言葉にはちょっぴり共感してしまった(^-^; 上に書いたようにどんな状況でも己を客観視した末の破壊衝動が抑えきれずに100%は満たされないまま、その鬱屈を書いて発散させるタイプの方だと思うのでそう心配はしていないのですが・・・。(イヤ決してニシケンさんに幸せになってほしくない訳じゃないんだけど(-_-;))とにかく、正しく純文学的な世界で勝負できる作家さんが現代にもいること、ニシケンさんと酒見さんが同時代に健在な事実(つまり新作を読める、その作家の人生観や心情の変遷を生で追えるということ)が嬉しい。いくら出版不況だ娯楽の多様化だラノベしかない、とか言われても、日本「文学」の世界はまだ死者だけのものではないんだ、と確認できたので、安心して翻訳モノ・電気羊に戻っていけるわー(´∀`)
ホント色々ぶちぶち言ってても、外の世界を知るには相手の側で流行ったり評価された出版物や創作物を見ることが一番だと考えているので(特にフィクションにおいては登場人物の思考パターンや心情ね。全く別の文化や異なる外見をしていても結局同じ人間なんだ、ってことが理解できる最も重要なポイントだと思う)、まずはトコトン「翻訳する」という努力をしてくれた近代化の先達の皆様には本当に感謝したいですm(__)m


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