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『花の宴』を中.華圏の方にご覧いただけると正直うれしいです。ぶっちゃけ私の日/中萌えをブチ込んだヤツなので(そんなカムアウトいらないから^^)いや日.本では桜推しだけど中/華圏では梅推しだって聞いてさー。メイン二人はどっちがどっちでも良いや。(名前は桜と梅って分けるように付けはしたけど、正しく真ん中に在ったはずがドンドン病んでいっちゃった方と、やり方を違えたコミュニティの異端・秩序の破壊者、って歴史を通して見れば両国共に当てはまる点だと思うから)まぁ「一つ」にはなりたくないし、なれないだろうけど、良く似た見た目、少しずつ違うけれども近しい文化を以て、いつか互いの距離が平和的な形で今よりももっと縮められれば良いな、と思っています。
で、紅茶とコーヒーがぶ飲みしたら緑茶に帰りたくなったので今日は梶井基次郎『檸檬』収録の掌編をちょっとずつ(^-^;
※いつものごとく(笑)病み要素ありですm(__)m
で、紅茶とコーヒーがぶ飲みしたら緑茶に帰りたくなったので今日は梶井基次郎『檸檬』収録の掌編をちょっとずつ(^-^;
※いつものごとく(笑)病み要素ありですm(__)m
ヤベー久々に翻訳ものじゃないの読むと沁みる・・・!(´;ω;`) 特にカジモッティは三島とか川端氏系の過度な華や毒がなく、(病に侵されていたせいか、子規の歌や句に近い)透明で憂いを帯びた絶望ゆえの美と言いますか。まさに濃い玉露や甘過ぎ・ぬる過ぎな新茶の味ではなく、普段何気なく飲んでいる煎茶に茶柱が立っているのを見つけた時のような! あるいは久々に他人(私お茶入れるのクッソ下手なので\(^o^)/)が淹れてくれたお茶飲んだ時に「あ~、美味しい」とふと感じた瞬間のような、帰ってきた感や自然や情景の描かれ方にも共感の念が増幅されてやっぱ泣けるよね、母国語の純文学は(つд`)
彼がウチの祖父が侵されていたのと同じ病で、今の自分に近い(イヤもっと若い時期からか)年頃で常に「死」というものを意識していた、というところからして、もう一々美しい表現や物事の捉え方、心の機微が胸に突き刺さる。西洋のフィクションにおいて自然は常にストーリーを彩り、補佐するもので暗示的に使われるけど、日本ではあえて真逆の比喩にそれを用いる伝統が和歌や俳句から始まっていて・・・例えば死や絶望といった身体的・精神的にネガティブな状態に近づけば近づくほど、日々の暮らしや当たり前に存在する自然が美しく輝いて愛しむべきものとして表される、あるいはそのことに気づかされる、という描き方がとても多い。
『冬の日』の一節、「希望を持てないものが、どうして追憶を慈むことができよう」、だからこそ今目の前に在るものが眩く映るのだ、と。この考え方、儚さの中にこそ生の躍動や真実の美を見出だす表裏一体的な思考はウチ(あるいは東洋の陰陽思想にも通じるのかな?)独特のものなのかもしれない、と感じた。あと当時の銀座の夜の描写、「アスファルトは鉛筆で光らせたように凍てはじめた」が個人的に度肝抜かれるくらいフィットしてて好き!屋根瓦に降りた霜や、その上をコロコロ転がっていく霰の描写も(^^)b
友人の折田との会話のなかで「冷静」について語るくだりもグッと来た。彼は病気という実際に追い詰められる理由があったから全く事情が異なるけど、完全に頭がイッちゃえれば楽なのにな、と何度思ったか知れないし、「冷静になって自分の肉体や生活が滅びていくのを見ることが苦痛」という点がまさに今の自分か、と(^ω^) それが終わって実際に生活が壊れれば本当の冷静が来るだろう、って言葉にも共感し過ぎてヤベェ・・・orz
『器楽的幻想』は子供の頃の悪戯のうるさい場所で耳を塞いだり開けたりを繰り返す、とか、その感覚を思い出すオーケストラ聴きながら石化、っていう状態があるある、と感じた。てか正直人と喋ったり買い物してる時でもしょっちゅうなるというか、自分の意識が身体の一歩後ろにいて口や手だけ動いてる感覚に襲われることが結構あります(・・;) だからボーッとしてるとか話覚えてない、とか言われるのかな? ここにいるけどいない、みたいな違和感なんだけど、絶対ストンと肉体に収まって一体化しようとしてもできないんだよね、そういう時って。ハイハイ病んでるー\(^o^)/
『蒼穹』の雲のくだりも、同じことよくやっては同様の感覚に囚われてたな、と。雲の変化と星の光ほど人の心を捉えて揺り動かすものはないと思う。その大きさや己の小ささに安らぎと漠然とした不安を同時に感じて心臓がドキドキしてくる。余りにも大きくて広くて遠い。そのことに安心するけど潰されてしまいそうで怖い。星なんて今の地球からどんなに綺麗に輝いて見えているものであったとしても、何万光年も離れていてもうとっくに死んでいるかもしれない存在の光だと考えると一気に震えが来ませんか? (((-_-;)))gkbr
『筧の話』ラストの「永遠の退屈を課せられ、生の幻影が絶望と重なっている」という宿命についての言葉は例の現代版ブッダ嬢(笑)の悟りを思わせる気がしたよ。彼女は絶対にカジモッティ読まなさそうなタイプだけど(;・ω・)
この後は続きの短編を読むか中島敦の『李陵』、あるいは現代に戻って西村賢太の短編でもチマチマ読もうかなー、と思います。『高い城~』が面白すぎて今まで全く興味なかった(SFというジャンル自体に)電気羊も注文してしまったので、届いたらソッコー読み始めちゃうかもしれないけど(笑)
とにかく今は一度閉じた世界に浸ることで考えてみた方が良いのかな、と。相変わらずの逃避癖が酷くなっただけなのかもしれないですけど(・・;) ネット社会や人を通じて入る情報は忙しなく、現実の自分が置かれている立場に焦ってしまって、結局より酷い状態(鬱や胃の症状の悪化)に陥ったりを繰り返してきた状況で、本当に向き合わないといけないものや自分が考えていることを、生きた時代や国籍・立場も異なる他者の視点で描かれたフィクションを通じて見つけていける可能性もあるんじゃないかなー、とここ2ヶ月チビチビと原点回帰(趣味=読書と書き続けて2○年。笑)してみて思ったので。あるいは実を言えば、明日も「読みたい」から生きてよう、って気持ちになれるかな、という理由もあったり・・・本当いきなり病んでてスミマセンm(__)m
時間的制約や夢中になって深夜まで読みふけったりで更に不健康な状態になっているんじゃ?という感じでもありますが、安定剤服用時は正直いつも昼間眠くなったり、朝起きにくくなったりどっちみち睡眠に関しては不安定になりがちだし(でも飲まないとぶっちゃけ胃がやっていけない)、逆に夜「寝ること」について考え過ぎるとドンドンうつ思考が増していってヤバい状態になるので返ってマシかも、と開き直ることに・・・いや症状改善のためにもなるべく安定した生活リズムはキープしたいけどさ(-_-;)
そんな感じでちょっと長々とネタバレ有りまくりの(しかも今更な本ばかりの)感想記事が続くかもしれませんが、読み飛ばしていただいて構わないのでご容赦のほどよろしくお願いいたしますm(__)m
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ヤベー久々に翻訳ものじゃないの読むと沁みる・・・!(´;ω;`) 特にカジモッティは三島とか川端氏系の過度な華や毒がなく、(病に侵されていたせいか、子規の歌や句に近い)透明で憂いを帯びた絶望ゆえの美と言いますか。まさに濃い玉露や甘過ぎ・ぬる過ぎな新茶の味ではなく、普段何気なく飲んでいる煎茶に茶柱が立っているのを見つけた時のような! あるいは久々に他人(私お茶入れるのクッソ下手なので\(^o^)/)が淹れてくれたお茶飲んだ時に「あ~、美味しい」とふと感じた瞬間のような、帰ってきた感や自然や情景の描かれ方にも共感の念が増幅されてやっぱ泣けるよね、母国語の純文学は(つд`)
彼がウチの祖父が侵されていたのと同じ病で、今の自分に近い(イヤもっと若い時期からか)年頃で常に「死」というものを意識していた、というところからして、もう一々美しい表現や物事の捉え方、心の機微が胸に突き刺さる。西洋のフィクションにおいて自然は常にストーリーを彩り、補佐するもので暗示的に使われるけど、日本ではあえて真逆の比喩にそれを用いる伝統が和歌や俳句から始まっていて・・・例えば死や絶望といった身体的・精神的にネガティブな状態に近づけば近づくほど、日々の暮らしや当たり前に存在する自然が美しく輝いて愛しむべきものとして表される、あるいはそのことに気づかされる、という描き方がとても多い。
『冬の日』の一節、「希望を持てないものが、どうして追憶を慈むことができよう」、だからこそ今目の前に在るものが眩く映るのだ、と。この考え方、儚さの中にこそ生の躍動や真実の美を見出だす表裏一体的な思考はウチ(あるいは東洋の陰陽思想にも通じるのかな?)独特のものなのかもしれない、と感じた。あと当時の銀座の夜の描写、「アスファルトは鉛筆で光らせたように凍てはじめた」が個人的に度肝抜かれるくらいフィットしてて好き!屋根瓦に降りた霜や、その上をコロコロ転がっていく霰の描写も(^^)b
友人の折田との会話のなかで「冷静」について語るくだりもグッと来た。彼は病気という実際に追い詰められる理由があったから全く事情が異なるけど、完全に頭がイッちゃえれば楽なのにな、と何度思ったか知れないし、「冷静になって自分の肉体や生活が滅びていくのを見ることが苦痛」という点がまさに今の自分か、と(^ω^) それが終わって実際に生活が壊れれば本当の冷静が来るだろう、って言葉にも共感し過ぎてヤベェ・・・orz
『器楽的幻想』は子供の頃の悪戯のうるさい場所で耳を塞いだり開けたりを繰り返す、とか、その感覚を思い出すオーケストラ聴きながら石化、っていう状態があるある、と感じた。てか正直人と喋ったり買い物してる時でもしょっちゅうなるというか、自分の意識が身体の一歩後ろにいて口や手だけ動いてる感覚に襲われることが結構あります(・・;) だからボーッとしてるとか話覚えてない、とか言われるのかな? ここにいるけどいない、みたいな違和感なんだけど、絶対ストンと肉体に収まって一体化しようとしてもできないんだよね、そういう時って。ハイハイ病んでるー\(^o^)/
『蒼穹』の雲のくだりも、同じことよくやっては同様の感覚に囚われてたな、と。雲の変化と星の光ほど人の心を捉えて揺り動かすものはないと思う。その大きさや己の小ささに安らぎと漠然とした不安を同時に感じて心臓がドキドキしてくる。余りにも大きくて広くて遠い。そのことに安心するけど潰されてしまいそうで怖い。星なんて今の地球からどんなに綺麗に輝いて見えているものであったとしても、何万光年も離れていてもうとっくに死んでいるかもしれない存在の光だと考えると一気に震えが来ませんか? (((-_-;)))gkbr
『筧の話』ラストの「永遠の退屈を課せられ、生の幻影が絶望と重なっている」という宿命についての言葉は例の現代版ブッダ嬢(笑)の悟りを思わせる気がしたよ。彼女は絶対にカジモッティ読まなさそうなタイプだけど(;・ω・)
この後は続きの短編を読むか中島敦の『李陵』、あるいは現代に戻って西村賢太の短編でもチマチマ読もうかなー、と思います。『高い城~』が面白すぎて今まで全く興味なかった(SFというジャンル自体に)電気羊も注文してしまったので、届いたらソッコー読み始めちゃうかもしれないけど(笑)
とにかく今は一度閉じた世界に浸ることで考えてみた方が良いのかな、と。相変わらずの逃避癖が酷くなっただけなのかもしれないですけど(・・;) ネット社会や人を通じて入る情報は忙しなく、現実の自分が置かれている立場に焦ってしまって、結局より酷い状態(鬱や胃の症状の悪化)に陥ったりを繰り返してきた状況で、本当に向き合わないといけないものや自分が考えていることを、生きた時代や国籍・立場も異なる他者の視点で描かれたフィクションを通じて見つけていける可能性もあるんじゃないかなー、とここ2ヶ月チビチビと原点回帰(趣味=読書と書き続けて2○年。笑)してみて思ったので。あるいは実を言えば、明日も「読みたい」から生きてよう、って気持ちになれるかな、という理由もあったり・・・本当いきなり病んでてスミマセンm(__)m
時間的制約や夢中になって深夜まで読みふけったりで更に不健康な状態になっているんじゃ?という感じでもありますが、安定剤服用時は正直いつも昼間眠くなったり、朝起きにくくなったりどっちみち睡眠に関しては不安定になりがちだし(でも飲まないとぶっちゃけ胃がやっていけない)、逆に夜「寝ること」について考え過ぎるとドンドンうつ思考が増していってヤバい状態になるので返ってマシかも、と開き直ることに・・・いや症状改善のためにもなるべく安定した生活リズムはキープしたいけどさ(-_-;)
そんな感じでちょっと長々とネタバレ有りまくりの(しかも今更な本ばかりの)感想記事が続くかもしれませんが、読み飛ばしていただいて構わないのでご容赦のほどよろしくお願いいたしますm(__)m
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