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『箱男』《Cの場合》まで読んだところだが、この章の終わりに出てくる製薬会社のカレンダーに書き込まれた「自律神経失調のSEPTEMBER」という言葉に、あ、やっぱりコレまんま私の話だ・・・という思いを強くせざるを得ない(´-`) 長くかかっている精神科医は睡眠障害だの抑うつだの最近の胃の不調も含めた私の症状を総合的にそう判断しているらしく、まぁ小さい頃からの何かあるとすぐ嘔吐・下痢・ 自家中毒に酷い片頭痛、ストレスが溜まりすぎると謎の腰(尾骨?)痛で立つことすらできなくなる、というのはクッソめんどくさい鬱通り越した神経症状に他なりませんね! しかも年季の入りっぷりが尋常じゃなさすぎて既に打つ手なさそう(^ω^) 散歩とかラジオ体操にストレッチ、色々やってはみたんですよ? わざわざ憧れの土地の大学を志望しての一人暮らしも、自分にとっては凄く大きな挑戦だった。問題はソレ自体に気づかなかったこと。見て見ぬフリをしてきたこと。保育所の時から兆候は表れてたのに、ずっと何とかなる、何とかしてきた、とごまかし続けてきた。周りにどんだけ迷惑かけてフォローされてきたのかも知らないで、イヤ無視して、どこにも頼らずに一人でできる普通の人間なはず、と。高校3ヶ月近く休んで病院巡りしたことも、受験生時代毎朝トイレで吐いてたことも、金縛りも、いつまでも嫌な記憶が忘れられなくて接触恐怖症みたいになっていることも、全部「普通に」乗り越えられる問題だと信じていた。もっと早く自覚して対策を練るか、分に合った生き方を探す努力をすれば良かった。
あえて読み手を混乱させる実験的な構成というだけじゃなしに、読み進めるのがとてもつらいです。共感できる登場人物や言葉が出てくる作品はたくさんあっても、ここまで生々しく自分を、今の自分自身を写し取ったネガ・フィルムを見せつけられるような話には出会ったことない。「箱男(たち?)」と余りに心境が重なり過ぎて境界線が全く分からなくなる。見たいのに見られたくない、ニュース中毒(からの脱皮として私は今本に走っているが、歴オタ的興味から国際ニュースだけは相変わらず追わずにはいられない。それも平和を懸念するという理由じゃなしに)境界線に入ってこられたくない、溜まりたまった垢を落とした時の倦怠感、こんなはずじゃなかった、所持品の単純化と捨てられないもの、自分自身の死の計画書、狂った時間軸・・・書き出すのも嫌になるほど、私そのものだ。これに比べれば『ティモシー・アーチャー~』のエンジェルなんか全く綺麗でかけ離れている。アレは過去の、「京都の大学の思い出にしがみついていた自分」だけを表した経験の具象で、ある意味“理想”の自画像みたいなもの。せめてあの程度の「メタファーのジャンキー」で済ませられれば良かった、という。けれど「箱男」は、余りに今の自分に近過ぎる。人の醜い本性をありのままに映し出す鏡を覗きこんでいるみたい。
明日精神科の待合室で読むのはちょっと試練過ぎるかな? 花粉症なのか風邪なのかわかんないくらい喉も目鼻も頭痛も酷いし、社会復帰の相談もしなきゃだし・・・そこに到るまでの過程を説明すんのも面倒だな(-_-;) まず家族に吐かれた暴言を思い出すところから始め→その通り実行しようと考え→友人たちに「とりあえず家族と距離を置いた方が良い」と言われ→“今が底の底”という現実を思い知ったのでどっちに働くにしろ気力を奮い起こすためにも動くことにした、という状況をどこまで具体的に上手く泣かずに話せるか分からんが、がんばらねば。あーメンドクサ@本当ダメ人間の見本だよ!(´д`)
箱が蛹だって例えとかマジ傑作だな。その部分読む前にここで書いてた自分の虫けら分類と同じじゃん(笑)違うのは私が箱の中身にすらなれてないと感じてるとこだけど。ホントよく公房さんこんな話書けちゃう心理状態を理解しながらあの時代を生きられたよ・・・。次から次へと生み出されていく作品が、書くことがニシケンさんのように彼の吐け口で欲望で執着、生き甲斐だったのかな。手段が目的化した、彼の話の中の多くの登場人物たちのように。あー、つらい。キツイ。残り読んだらすぐにでも次ポチろうと考えてたけど、一回時間置いてからの方良いかな(*_*;
あえて読み手を混乱させる実験的な構成というだけじゃなしに、読み進めるのがとてもつらいです。共感できる登場人物や言葉が出てくる作品はたくさんあっても、ここまで生々しく自分を、今の自分自身を写し取ったネガ・フィルムを見せつけられるような話には出会ったことない。「箱男(たち?)」と余りに心境が重なり過ぎて境界線が全く分からなくなる。見たいのに見られたくない、ニュース中毒(からの脱皮として私は今本に走っているが、歴オタ的興味から国際ニュースだけは相変わらず追わずにはいられない。それも平和を懸念するという理由じゃなしに)境界線に入ってこられたくない、溜まりたまった垢を落とした時の倦怠感、こんなはずじゃなかった、所持品の単純化と捨てられないもの、自分自身の死の計画書、狂った時間軸・・・書き出すのも嫌になるほど、私そのものだ。これに比べれば『ティモシー・アーチャー~』のエンジェルなんか全く綺麗でかけ離れている。アレは過去の、「京都の大学の思い出にしがみついていた自分」だけを表した経験の具象で、ある意味“理想”の自画像みたいなもの。せめてあの程度の「メタファーのジャンキー」で済ませられれば良かった、という。けれど「箱男」は、余りに今の自分に近過ぎる。人の醜い本性をありのままに映し出す鏡を覗きこんでいるみたい。
明日精神科の待合室で読むのはちょっと試練過ぎるかな? 花粉症なのか風邪なのかわかんないくらい喉も目鼻も頭痛も酷いし、社会復帰の相談もしなきゃだし・・・そこに到るまでの過程を説明すんのも面倒だな(-_-;) まず家族に吐かれた暴言を思い出すところから始め→その通り実行しようと考え→友人たちに「とりあえず家族と距離を置いた方が良い」と言われ→“今が底の底”という現実を思い知ったのでどっちに働くにしろ気力を奮い起こすためにも動くことにした、という状況をどこまで具体的に上手く泣かずに話せるか分からんが、がんばらねば。あーメンドクサ@本当ダメ人間の見本だよ!(´д`)
箱が蛹だって例えとかマジ傑作だな。その部分読む前にここで書いてた自分の虫けら分類と同じじゃん(笑)違うのは私が箱の中身にすらなれてないと感じてるとこだけど。ホントよく公房さんこんな話書けちゃう心理状態を理解しながらあの時代を生きられたよ・・・。次から次へと生み出されていく作品が、書くことがニシケンさんのように彼の吐け口で欲望で執着、生き甲斐だったのかな。手段が目的化した、彼の話の中の多くの登場人物たちのように。あー、つらい。キツイ。残り読んだらすぐにでも次ポチろうと考えてたけど、一回時間置いてからの方良いかな(*_*;
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典型的な英/国文学が読者を追い詰めて追い詰めてぶっ刺して終わる話だとしたら、何故か犯人(作者)が傷口にヨードチンキ塗って去っていくような不思議なやさしさが余韻に纏わるの。刺された傷の深さはどうしようもなく、ヨードチンキは沁みるんだけど、その沁みる痛みがいたわりだと分かってる。あー、もう何て言えば良いのか・・・例えば非キ○スト教文化圏と見なされている、ip○細胞の研究に異を唱える勢力が存在しない国がルーツの作家でなかったら、こういう作品は英語圏で受け入れられなかったかもしれない。電気羊のように、思いっきりSFチックな架空の近未来を舞台にする、という手段を用いなければ、その親族や所属するコミュニュティからハブられたり、時には生命の危険が及んだかも。けれど彼は日.本と言う国をバックグラウンドに持つことで、ある意味自由に、“現代”のイギリ○で臓器移植のためだけに生み出されるクローンが当たり前に存在する世界、という物語を描けたのではないか。具体的な時代・国・そして文化に基づいていながら非現実的な、けれど完全に“あり得ないことでもないかもしれない”と思わせてしまう衝撃的な作品を。
前半だけ読めば普通のありがちな学園物ですよね、恩田陸の『三月~』シリーズに登場するようなのと何ら変わらない、特殊な事情を持つ子供たちだけが集められた閉鎖的な場所における、子供らしい喜びや葛藤や好奇心に満ち溢れた、何ということのない当たり前の幼年~思春期にかけての成長物語。けれど度々登場する「提供」という言葉、そしてルーシー先生の一件が不吉な予感を漂わせる。まぁ最初から全てを終えた、あるいは終えようとしている主人公がネタばらしをしているわけですが(笑)
ドラマ版の劇中歌DLしたんですけど、「Never let me go~」の後に「Never let you go~」と続く箇所があって、何か「提供者」の側とソレを欲する側(の身内)の両方の気持ちで聴いてしまうんですよ。私、「○○ちゃんを救う会」とかにどちらかと言うと否定的で寄付もしないタイプですが(その何千万、何億あったらただの飢餓で死んでいく子供たちを何人救えるか分からないのに、たった数年の寿命を、子供自身にとっては苦しみかもしれない時間を親のエゴイズムで引き延ばすためだけに大金かけて海外まで行ってその国の子供の死を待つ、という行為に抵抗を感じざるを得なくて(-_-;))、恐らく移植を待つ患者の家族の立場からすれば「あなたを連れて行かないで」と必死なんだな、って。邦訳タイトル『わたしを離さないで』ですが、「わたしを行かせないで」とも訳せるし、meがyouになったらますます「行かせないで」と、“わたし”でも“あなた”でもない、第三者に対する懇願の形式になりますよね。それを病という死神と捉えれば良いのか、クローンを生み出し消費する一般的な人間たちと捉えれば良いのか、あるいは彼らの悲痛を知りつつも敗北した先生やマダムたちに向けてのものと捉えれば良いのか、その全てなのかは分からないけれど・・・「提供者」となるべく生み出されてしまったクローンの側にも、親しい人の回復を懸命に願う人間の側にも同情し過ぎてしまって境界線がわからなくなった。
どうしてこんなことになったんだろう?こんなことが許される社会に。試験管で臓器だけって作れなかったの?i○s細胞みたいにさ!だから、真実を知らされたトミーの「ルーシー先生は正しかった」って癇癪を起こす心情は心から理解できた。だって、いずれどうにもならないことなら、猶予も何ももらえずに死んでいくだけの命なら、それが運命なら、感情なんていらなかっただろう。誰かを愛しいと思う気持ち、もっと生きたいと願う欲望、好きな人に格好の悪い最期の姿をさらしたくないというプライドも、それでも傍にいてほしい、少しでも長く一緒にいたいと祈る矛盾した本音も。自分を表現する喜びも、目的も、達成感も、スポーツの楽しさも、妄想にふける秘密の時間も。世間から人間ではないものとして見られ、扱われていることさえ知らずに、彼らは人として育ち、人として気持ちが揺れ動くこと、それを伝えること、悲しみ、喜び、愛することを知り、それ故にこそ苦しんで、もがいて・・・でも彼らが誰よりも信頼していた先生とマダムは「彼らがそれを知ったことこそが、“人間”らしく生き、成長したことこそが最大の功績」だと語る。そんな理不尽なことってあるか、結局計画が失敗に終わり意気消沈しつつ、これから本当に失われゆく“命”(脳があって心臓が動いているなら、クローンだってそれは立派な命に違いない)に向かって何て残酷な自己満足をぶつけるのだろう。この辺私もトミーと同じくらい胸を掻きむしりたくなりました。彼女たちにとっては、それが精いっぱいだったのだろうけれど。
作者は――キャシーは、それでも彼女たちによって彼らが“人間”らしくなれた、ただのクローンではなく、間違いなく一人の“人間”として生きることができたのだ、とその意義を最後には肯定的に描いているように感じたけれど。私だったら、何も知らず人形のように育てられ、死への恐怖や自身の存在意義を疑うことなく提供の日を待つ方がよっぽど気が楽になると思う。でもそうしたら、投げやりで無気力で自分の身体を大切にすることさえしなくなるかもしれない、と考えるとエミリ先生の方針が正しい、と言えるかもしれないし、彼女も「より健全な肉体から臓器を受け取るために」その方が理に適う、という方向で社会を説得すれば良かったのかもしれない。
「ルースと知り得た真実を分かち合いたかった」と話すキャシーに「ルースは知りたがりやの俺たちとは違って信じたがりやだから、知らない方が良かった」と答えるトミーに、あぁ、何だかんだ言ってコッチはコッチで通じ合っているところも確かにあったんだな、と納得。だからルースはあんなに必死に虚勢を張り、“本当のことは何も知らない=知り得たことの何もかもが嘘かもしれない”世界を懸命に否定していたんだ(゜Д゜)ピコーン! それでも、彼女とソレを分かち合えたら、と願わずにはいられないキャシーに、やはりルースは彼女にとってトミーとは違った意味で魂の片割れ、重荷を半分背負ってくれるはずの大切な存在だったのだ、と改めて切り離せない三人の関係にしんみりする。「提供者になったことがないからわからない」と言われた際にルースの名前を出されてキャシーが愕然とするくだりもそうですよね。「二人に置いて行かれた」って。
でもトミーはそういうことが言いたかったんじゃなくて、彼のキャシーへの恋心を察していたルースなら臨終の見っともない苦しみとどうしようもない別れの辛さを、愛する彼女の前でさらけ出したくない、という気持ちを汲み取ってくれただろう、という意味で告げた言葉だったのに(´;ω;`)ブワッ ソウルメイトの同性の親友とは訳が違うもん、苦しみも情けなさも悲しみも何もかもを分かち合うような関係ではなく、最後まで綺麗な想い出にしておきたかったんだよ、トミーは。それほどに愛していた、大切だった、と。何かルースの時とは違った方向の、やっぱり確かな絆が、愛がうかがい知れてここもガン泣きするシーンだったな。・゜・(ノД`)・゜・。三年よりはるかに短くても、確かに愛し合えた“猶予”の時間が二人には存在したんじゃないか、それは他の「提供者」が望んでも中々得られることのない、長い長い真実の愛を、まごうかたなき人間である証を二人が立てられた、それを知れただけで十分に幸せな人生を得られたと言っても良いんじゃないか、と考えてしまうのは“人間”側の奢りだろうか?とか、トミーの別れ際のセリフに色々グルグル考えさせられてしまった。少なくとも私よりは、二人の方がよっぽど人間らしくマトモに生きてるよ(笑)
そして最後のキャシーの、穏やかな独白の締めくくりが、これまでの生き方に何の後悔もない、ただひたすらに二人を失った寂しさだけが存在するけど、二人と出会えたこと、過ごしたこと、そして喪う悲しみを味わえた自分自身に満足しているように感じたんです。だから、個人的に「生徒たち」の立場で考えれば肯定はできなかったけれどエミリ先生の理想は正しかったのだ、と。作者もそれを強調したくて、語り手を誰よりも冷静に周囲を見渡す能力がありながら、同時に感受性の強さも持ち合わせたキャシーという女性に託し、人間、ひいては命というものの全てを肯定し、改めて考えさせるストーリーに持って行ったのではないか、と。そう、否定がないんです!それだ傷口にヨードチンキ、っつーかイギ○ス感が薄れるラスト!各々のキャラに様々な見方・主張を代弁させた上でどれが正しいという答えを提示せず、曖昧模糊として読み手側に自由に受け止めさせる結末なんですよ。痛いのに、苦しいのに、悩んでいるのにその手法によってどこかホッとさせられてしまう(´Д`;)=3 「皆さん、この出来事について善か悪か、あるいはこの場面でどうすべきだったのか考えてみましょう!」と議論を促す感じじゃなくて、各自が考えたことを白黒付けずありのままに心に秘めてて良いんだよ、ただずっと覚えていて、忘れないで考えてね、って心の中で静かに囁かれたような。
「ヘールシャムは私の頭の中に安全に保存されている」このくだりに、作者さんが小説を書き始めたきっかけが「幼い頃のおぼろ気に覚えている思い出の中の日/本」を保存しておくため、と何かの講演で語っていたエピソードを思い出した。ドンドン変わっていく世界の中で、彼にとってのキーワードは“記憶の保存”。その後書きたいテーマさえ決まっていれば好きに場所や時代を動かせることに気づいてしまい、逆にそれを絞るのに難儀するようになった、という話も面白かったけど。そうかもしれない、“書く”という行為の原初的な目的は、日々蓄積され脳みその容量からはみ出していく膨大な情報の中から、どうしても忘れたくないもの、忘れてはいけないものを残すための手段だったんだ、と。たぶん名前だけは海外系のサイトでしょっちゅう見かけて気になっていたカズオ・イシグロに初めて興味を抱いたのはあの番組を観てのことだったかな? だから、答えを出さない作者の写し身がキャシーなんだ、と性別は違うけど感じたのかな。単に一人称だったからかもしれないけど(・・;)
いや次は『箱男』に行く予定なんだけど、全然違ったノリらしい『日の名残り』も楽しみやなー(´∀`)♪
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色々改変されてるんやなー、とかやっぱり舞台を日/本に置き換えると不自然、とか思いつつも、号泣したよね(^∀^)゜σヒャーハッハッハ・・・ハ・・・ブワッ。・゜・(ノД`)・゜・。ビエエエーン! いやあの、原作では割とアッサリ目?というか淡々とした文体で(えげつないストーリーや主人公のキャラクター設定に不必要な感傷を織り込ませないためにちょうど良いバランスだとは思う。イギ○スらしい表現方法とも言えるし。でも決して主人公キャシー@ドラマ版:キョウコが冷たい人間ではなく、必死に激しい感情を押し込めるため、彼女の最も大事なものとの想い出を語ることによって人としての尊厳を保つべく独白しているのだ、という空気が出だしからずっと行間に漂い続けているように感じるから。)描かれるルース@ドラマ版:ミワとの別れが、ドラマVer.では真に迫るものになっていてすごく泣けた(´;ω;`) やり過ぎと捉える人もいるかもしれないけど、私がずっと本の中でルースについて感じていたことをよりハッキリと分かりやすく表す演出・脚本に仕上がっているのではないか、と。(前回ラスト10分+今回観た限り)ただ学園の設定や現在の生徒たちとの遭遇シーンなんかはちょっとアレな予感がしなくもないけど、そこはお国柄という事情もあるんでしょうしね。(今日出てきた回想見た感じセック○やお付き合いについての表現や在り方もそうかな? 寄宿舎付きの閉鎖的な学校とかこっちじゃあんまり無いしねー。イギリ○にはモデルに出来そうなパブリック・スクールなんかもあるけど)
ドラマの中で「キョウコになりたかった。でもなれないから、キョウコが欲しかった。だからトモ@原作版:トミーとの仲を裂いた」と他ならぬキョウコに対し打ち明けるミワのセリフからの「キョウコがいれば強くなれた。何でもできる気がした。私には宝箱なんていらなかった。だって私の宝物(=キョウコ)は箱になんか入らないものだから」そして最後の最後に、「わたしを離さないで!」とキョウコにミワが叫びすがりながら手術台に乗せられる場面は実に秀逸。この作品はキャシーとトミーの恋愛?の顛末がもちろん一つの主軸となる縦糸ではあるけど、絶対に欠かすことができないキャシーとルースの、何て言えば良いんだろう?友情と言うには深すぎる、けれど決して同性愛の域でもない、一番綺麗で同時に醜くて、互いが互いの鏡で片割れで、何で男の作者さんに女同士のここまで微妙な関係を描けたのか謎なくらい理解できてしまう自分が不気味なんだけど、そういうテーマがもう一つの横糸を成してもいるわけですよね。作者さんは特別な環境で育てられた、家族のいない子供たちが無意識にソレに近い存在を求めた時どう動くのか、って考えて編み出したキャラクターなのかもしれないけれど(・・;)
正直、私も幼なじみとの関係がちょっと特殊な方向に濃い、とここでもぶっちゃけて来ているので・・・何か物凄くシンクロしてしまうんですよ。キョウコだったりミワだったり、どっちかというとミワ寄りの扱いにくい子だったかな?私の方が。偉そうに仕切ったり知ったかぶりする一方で素直で優しい彼女に憧れ、こんな女の子になりたいな、って服のアドバイスとかもらったり化粧品のことも相談するし。私は一人っ子期間が長くて親が共働きだったので、何かあって親がどうしても仕事を休めず保育所も閉まっていたり行けない状態の時、大概預けられるのは彼女の家で。だから実の妹弟よりずっと長く一緒にいて、ある意味で家族より私のことを何でもわかっている相手なんじゃないかと。(この話もしつこくしてしまっていると思うけど)だから、ミワの気持ちが解りすぎて(つД`) 我ながらホント重いなー、と感じるんだけどね(^^;あともし私がキョウコの立場なら、男取られようが何しようが絶対に相手を憎みきることなんかできないし(もちろん小さい頃からケンカも沢山しましたが)、犯罪犯しても何してでもミワのこと連れ出して逃がすのに、とも感じた。例え残されている時間が少なくても、むしろ彼女とトモのために猶予を願い出ても良い、代わりに自分の臓器使ってくれ、って。何が「天使」だクソ食らえこのヤロー!><と施設に殴り込みかける勢いで(笑)
あっ、別にだからと言って彼女を所有したいとかいう願望はなくて、旦那にも全然嫉妬感じないし(そりゃ嫁に行かれる時は物理的距離も生じるわけだし寂しかったけど、新幹線と電話とネットがある現代社会なんで・・・ぶっちゃけ特に何も変わってないかなー、と(;・ω・) アチラには多少迷惑なことかもしれませんが。笑)、子供は自分の子のように可愛いんですけどね。(だから性自認について打ち明けた後、彼女がお子さんに向かって「ケイトは二人目のママみたいなもんだからね」と言ってくれたことが泣きそうなほど嬉しかった)前にもどっかで書いたけど、早生まれの子が大体周りに対して感じるという焦りを誕生日十日と離れていない彼女と一緒にいたことでそれほど感じずに済んだこと、お互いに引っ越して本当に幼い頃からの思い出を共有できる相手がお互いしかいなくなってしまったこと、その後も習い事で毎週顔合わせていたり、学校はずっと別々でも共通の友達がいた環境、親同士の縁が続いてきたことが何だかんだと不思議に今までうちらを繋いできたんだとは思うけど、途中からホント馬鹿みたいに話の中の二人に自分たちを重ねてしまって(-_-;) もちろん一人の男を争った経験なんて無いし、同じ学校でもなかったわけだから作中の二人と比べられるほど濃ゆい関係ではないんだけど、執着というか依存の形態が(私の側だけかもしれないけど)若干似てるように感じてしまったんだよね。たぶんミワにとってキョウコに代わる存在はどこにもいなくて、キョウコだけが彼女をこの世に繋ぎ止めてくれるたった一人の人、例えいつか失われる命でも、まだ生きて地に足を付けているんだ、という実感を持たせてくれる唯一の存在だったんだろうなぁ、とか。あーもうホント気持ち悪いっすね自分!\(^O^)/
だから、最後の最後にミワはキョウコの幸せを願ったんだよね。原作では死に行く者のキリ○ト教的懺悔と償いの意味だったのかもしれないけれど。あと原作におけるキャシーとトミーの関係性、ルースが恋愛やセッ○スといった介入によって引き裂いたつもりでいても決して途切れなかった心の触れ合いというか絆は、彼女にとって、イヤ彼女たちのように生まれてきた存在全てにとっての希望のように、まさに眩く映っていたんじゃないかな、と。トミーを馬鹿にしていたルースが彼と付き合い出したのは、確かにキャシーが理由で間違いはないと思う。ただ、ドラマのようにキャシーを手に入れたいという子供じみた願望よりも、本当にこうした「邪魔」をすることによって絆は断ち切られないのか、心から通じ合った者たちの間に変化は起きないのか、という実験がしたい、という少し意地悪めいた、けれども純粋な好奇心や羨ましさ(やっかみや嫉妬と呼ぶには綺麗すぎるもの)といった動機があったようにも見える。そして実際にそうなってからもキャシーとトミーは何かあれば話し合い、大事なことは打ち明け分かち合ってきた。他のことでルースと気まずくなったり苛立っても、キャシーはトミーとの交際に対する嫉妬だけは親友に決して見せず、普通に他のBFやセ○レを見繕う始末。一方でトミーの方はルースと付き合ってやることやっときながら、実際にはいつも他に「最も気にかかる大事なこと」があり、それを相談するのはキャシーだった。「一番頼りになるのはキャス」ルースもその言葉に同意していたからこそ、何だかんだ言ってトミーと長く付き合っていられたのかもしれない。たぶんドラマ版では同じ相手を愛し、原作では少なくとも必要としていたからこそ。
介護人としての評価も高いキャシーは、恐らく人の心に寄りそい、スルリと滑り込むのがとても上手な女性なのだと感じる。よく人を観察し、見分け、その場で求められる空気が読める。(この辺、あえて口に出して互いを刺激し合い、複雑な心理ゲームを楽しむ文化のイギリ○と、よくよく考えて自分の中で折り合いを付けてからやっと相手に対して言葉を発する文化の日.本、両方のルーツを持つ作者さんならではの性格付けと言えるかもしれない)だから、そんなキャシーをプライドの高い仕切屋ルースは常に傍に置き従えていたかったのだろうし、癇癪持ちの問題児トミーは自らの理解者として彼女との繋がりを欲し続けたのだと思う。
今は一気に読み進めたのとドラマ版の衝撃でグチャグチャになってるので、読み終えたらマトモな感想まとめたいと思いますm(__)m
ドラマの中で「キョウコになりたかった。でもなれないから、キョウコが欲しかった。だからトモ@原作版:トミーとの仲を裂いた」と他ならぬキョウコに対し打ち明けるミワのセリフからの「キョウコがいれば強くなれた。何でもできる気がした。私には宝箱なんていらなかった。だって私の宝物(=キョウコ)は箱になんか入らないものだから」そして最後の最後に、「わたしを離さないで!」とキョウコにミワが叫びすがりながら手術台に乗せられる場面は実に秀逸。この作品はキャシーとトミーの恋愛?の顛末がもちろん一つの主軸となる縦糸ではあるけど、絶対に欠かすことができないキャシーとルースの、何て言えば良いんだろう?友情と言うには深すぎる、けれど決して同性愛の域でもない、一番綺麗で同時に醜くて、互いが互いの鏡で片割れで、何で男の作者さんに女同士のここまで微妙な関係を描けたのか謎なくらい理解できてしまう自分が不気味なんだけど、そういうテーマがもう一つの横糸を成してもいるわけですよね。作者さんは特別な環境で育てられた、家族のいない子供たちが無意識にソレに近い存在を求めた時どう動くのか、って考えて編み出したキャラクターなのかもしれないけれど(・・;)
正直、私も幼なじみとの関係がちょっと特殊な方向に濃い、とここでもぶっちゃけて来ているので・・・何か物凄くシンクロしてしまうんですよ。キョウコだったりミワだったり、どっちかというとミワ寄りの扱いにくい子だったかな?私の方が。偉そうに仕切ったり知ったかぶりする一方で素直で優しい彼女に憧れ、こんな女の子になりたいな、って服のアドバイスとかもらったり化粧品のことも相談するし。私は一人っ子期間が長くて親が共働きだったので、何かあって親がどうしても仕事を休めず保育所も閉まっていたり行けない状態の時、大概預けられるのは彼女の家で。だから実の妹弟よりずっと長く一緒にいて、ある意味で家族より私のことを何でもわかっている相手なんじゃないかと。(この話もしつこくしてしまっていると思うけど)だから、ミワの気持ちが解りすぎて(つД`) 我ながらホント重いなー、と感じるんだけどね(^^;あともし私がキョウコの立場なら、男取られようが何しようが絶対に相手を憎みきることなんかできないし(もちろん小さい頃からケンカも沢山しましたが)、犯罪犯しても何してでもミワのこと連れ出して逃がすのに、とも感じた。例え残されている時間が少なくても、むしろ彼女とトモのために猶予を願い出ても良い、代わりに自分の臓器使ってくれ、って。何が「天使」だクソ食らえこのヤロー!><と施設に殴り込みかける勢いで(笑)
あっ、別にだからと言って彼女を所有したいとかいう願望はなくて、旦那にも全然嫉妬感じないし(そりゃ嫁に行かれる時は物理的距離も生じるわけだし寂しかったけど、新幹線と電話とネットがある現代社会なんで・・・ぶっちゃけ特に何も変わってないかなー、と(;・ω・) アチラには多少迷惑なことかもしれませんが。笑)、子供は自分の子のように可愛いんですけどね。(だから性自認について打ち明けた後、彼女がお子さんに向かって「ケイトは二人目のママみたいなもんだからね」と言ってくれたことが泣きそうなほど嬉しかった)前にもどっかで書いたけど、早生まれの子が大体周りに対して感じるという焦りを誕生日十日と離れていない彼女と一緒にいたことでそれほど感じずに済んだこと、お互いに引っ越して本当に幼い頃からの思い出を共有できる相手がお互いしかいなくなってしまったこと、その後も習い事で毎週顔合わせていたり、学校はずっと別々でも共通の友達がいた環境、親同士の縁が続いてきたことが何だかんだと不思議に今までうちらを繋いできたんだとは思うけど、途中からホント馬鹿みたいに話の中の二人に自分たちを重ねてしまって(-_-;) もちろん一人の男を争った経験なんて無いし、同じ学校でもなかったわけだから作中の二人と比べられるほど濃ゆい関係ではないんだけど、執着というか依存の形態が(私の側だけかもしれないけど)若干似てるように感じてしまったんだよね。たぶんミワにとってキョウコに代わる存在はどこにもいなくて、キョウコだけが彼女をこの世に繋ぎ止めてくれるたった一人の人、例えいつか失われる命でも、まだ生きて地に足を付けているんだ、という実感を持たせてくれる唯一の存在だったんだろうなぁ、とか。あーもうホント気持ち悪いっすね自分!\(^O^)/
だから、最後の最後にミワはキョウコの幸せを願ったんだよね。原作では死に行く者のキリ○ト教的懺悔と償いの意味だったのかもしれないけれど。あと原作におけるキャシーとトミーの関係性、ルースが恋愛やセッ○スといった介入によって引き裂いたつもりでいても決して途切れなかった心の触れ合いというか絆は、彼女にとって、イヤ彼女たちのように生まれてきた存在全てにとっての希望のように、まさに眩く映っていたんじゃないかな、と。トミーを馬鹿にしていたルースが彼と付き合い出したのは、確かにキャシーが理由で間違いはないと思う。ただ、ドラマのようにキャシーを手に入れたいという子供じみた願望よりも、本当にこうした「邪魔」をすることによって絆は断ち切られないのか、心から通じ合った者たちの間に変化は起きないのか、という実験がしたい、という少し意地悪めいた、けれども純粋な好奇心や羨ましさ(やっかみや嫉妬と呼ぶには綺麗すぎるもの)といった動機があったようにも見える。そして実際にそうなってからもキャシーとトミーは何かあれば話し合い、大事なことは打ち明け分かち合ってきた。他のことでルースと気まずくなったり苛立っても、キャシーはトミーとの交際に対する嫉妬だけは親友に決して見せず、普通に他のBFやセ○レを見繕う始末。一方でトミーの方はルースと付き合ってやることやっときながら、実際にはいつも他に「最も気にかかる大事なこと」があり、それを相談するのはキャシーだった。「一番頼りになるのはキャス」ルースもその言葉に同意していたからこそ、何だかんだ言ってトミーと長く付き合っていられたのかもしれない。たぶんドラマ版では同じ相手を愛し、原作では少なくとも必要としていたからこそ。
介護人としての評価も高いキャシーは、恐らく人の心に寄りそい、スルリと滑り込むのがとても上手な女性なのだと感じる。よく人を観察し、見分け、その場で求められる空気が読める。(この辺、あえて口に出して互いを刺激し合い、複雑な心理ゲームを楽しむ文化のイギリ○と、よくよく考えて自分の中で折り合いを付けてからやっと相手に対して言葉を発する文化の日.本、両方のルーツを持つ作者さんならではの性格付けと言えるかもしれない)だから、そんなキャシーをプライドの高い仕切屋ルースは常に傍に置き従えていたかったのだろうし、癇癪持ちの問題児トミーは自らの理解者として彼女との繋がりを欲し続けたのだと思う。
今は一気に読み進めたのとドラマ版の衝撃でグチャグチャになってるので、読み終えたらマトモな感想まとめたいと思いますm(__)m
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えーえー早速『箱男』ポチりましたけど何かー?(゜Д゜) アイツにあんなこと言われなければもっと早く手ぇ出してたっつの悔しい!><(という責任転嫁。笑)解説がキーン先生とかもマジやばい、私が感想書くまでもなく線引いたセリフ残らず登場する上に的確かつ共感できる分析すぎて\(^O^)/ うおおコレ何て捉えれば良いの?何小説?ジャンルは? ホラーのようなサスペンスのような心理劇のような古典のような。何だこりゃ@今更。そしてもっといけないのは、最終的に男の気持ちも女の気持ちも双方理解できてしまうように感じるとこ・・・マーサー教の共感ボックスに接触したみたいに。当初男が教師という職業や妻との関係に感じていた鬱屈や、結果として虫や砂にのめり込むようになった心理についても納得するし(砂と時間と現実を重ね合わせ、生活というものの意義を定着と流動の関係性に見出していく、という)、その土地・生き方しか知らない女が砂に埋もれ行く家に執着し、そこでの生活にこそ全てを、彼女の仕合せも人生も何もかも見出している、という事実にも何故だか非常に同情めいた思いを抱いてしまう。
「砂のがわに立てば、形あるものは、すべて虚しい。確実なのは、ただ、一切の形を否定する砂の流動だけである。」と取りつかれたように砂丘をさまよっていた男が部落の罠にかけられ、逃げ出せぬ穴の中に落とし込まれたのだと気づいた時の絶望と憤りと驚愕の叫び。「ここはもう、砂に浸食されて、日常の約束事など通用しなくなった、特別の世界なのかもしれない」自分の静止が世界の動きも止めてしまったのだと、断ち切られ切り離された日常に拘泥し、女のことを「昨日も明日もない点のような心」の持ち主、部落の住民たちのことを「現代の一角にこれほどの野蛮が巣食っていようとは、夢にも思わなかった」と初め男は確かにそう捉えていた。
夜の方が生き生きと息づく部落の姿に、仮病作戦は失敗。男は余りポジティヴとはいえない教師生活のことを思い出す。「教師くらい妬みの虫に取りつかれた存在も珍しい……川の水のように彼らを乗りこえ、流れ去っていく生徒たちに対して、流れの底で深く埋もれた石のようにいつも取り残されていなければならない教師たち。希望は他人に語るものであっても、自分で夢見るものではなく、彼らは自分をぼろ屑のように感じ自虐趣味におちいるか、他人の無軌道を告発しつづける疑い深い有徳の士になりはてる。勝手な行動にあこがれるあまりに、勝手な行動を憎まずにいられなくなるのだ。」あっ、自分が基本的に教師嫌いな理由なんとなく解った気がします(´∀`)bグッ 言ってることと滲み出る本音が矛盾しまくってんだよねー。せめて生徒の前では隠せよ(笑)ってツッコんじゃう事例どんだけ目撃したことか。まぁ家教とかやって教えんのも大変なんやな、って学んだけど、彼ら志望して面倒な課程取りまくって試験受けて安定した公務員になったわけでしょ? 甘えんな(特に生徒に)、とブチのめしたくなっても(以下略)イヤ部活での過労死とかもあって本当若い先生は苦労なさってると思いますよ? でもな、そういう労働環境含め上の人間の意識というか教育界全体の雰囲気が変わらないといけない時期にいい加減さしかかってんじゃねーの?とトラウマそのいくつかを彼らに背負わされたと感じている人間としては思うわけですよ(´-`)=3
で、思い出から外の世界との繋がりを求め新聞を所望する男。「風景がなければ、せめて風景画でも見たいというのが、人情というものだろう。だから、風景画は自然の稀薄な地方で発達し(ん、パ/リのこと?)、新聞は、人間のつながりが薄くなった産業地帯で発達した(ロ○ドンですね分かります^^)」表に出たってすることがない、と言う女に思わず「歩けばいい!」と声を荒げる男。それに対して「歩きましたよ……本当に、さんざん……ここに来るまで……子供をかかえて、ながいこと……もうほとほと歩きくだびれてしまいました。」と応じる女に、初めて彼女の本心、ここでの生活に心からの安らぎを覚えているほど底知れぬ苦労の果てにたどり着いたのがこの家なのだ、という大事なポイントが見えた気がした。男はその答えに面喰い、なるほど確かに人類は「歩かないですむ自由」を求めて狂奔してきたが、今は果たして「歩かないですむ自由」に食傷した、と言えるのだろうか?と己自身に問いかける。「砂の限りない流動は、歩かないですむ自由にしがみついているネガ・フィルムの中の、裏返しになった自画像」という言葉が(((゜Д゜;)))思わず鳥肌立つっちゃうわ!
肝心の新聞を読みながら「欠けて困るものなど、何一つありはしない。幻の煉瓦を隙間だらけにつみあげた、幻の塔だ。もっとも、欠けて困るようなものばかりだったら、現実はうっかり手もふれられない、あぶなっかしいガラス細工になってしまう……だから誰もが、無意味を承知で、わが家にコンパスの中心をすえる」ってなんちゅう美しい真理の表現や。「……誰もがそんなことは百も承知でいながら、ただ自分を詐欺にかかった愚かものにしたくないばっかりに、灰色のキャンバスにせっせと幻の祭典のまねごとを塗りたくるのだ。……他人の太陽にたいする、いじらしいほどのあせりと妬み」ホントよくこの作者さん世間の現実そこまで見切っておきながら、若い時に絶望してとっとと自殺しなかったな。
同僚の組合員()教師との会話で「人生によりどころがあるという教育の仕方は、無いものをあるように思いこませる幻想教育」というのも心から同意だし(ソレで勘違いして突っ走って挫折した子、あるいはそのよりどころが見つけられない自分に絶望しちゃう子はどうすりゃ良いんだ?って話)、「けっきょく世界は砂みたいなものじゃないか……砂ってやつは、静止している状態じゃ、なかなかその本質はつかめない……砂が流動しているのではなく、実は流動そのものが砂なのだ」「自分自身が砂になる……砂の眼でもって物をみる……」この辺フラグ立ってますね(^ω^) 最終的に「生徒も砂のようなもの」と思っている時点で私の中では多分比較的波長の合う教師だったんだろうなー、と想像すると彼の“失踪”は非常に残念ですが(笑)
妻に対しては「情熱を失ったというよりは、むしろ情熱を理想化しすぎたあげくに、凍りつかせてしまった」という表現や性生活のくだりに、当時の夫婦観や家庭観、役割や周囲から求められるプレッシャーといったものを何となく感じられて二人が上手くいかなくなった理由も察せられるような。16章のラスト、主人公の心に響く声には作者の強烈な自己批判を含むのかな、と。「(教師として生徒に対し)自分が何者であるかに、目覚めさせてやるだけでも、立派な創造じゃありませんか?……おかげで、新しい苦痛を味わうための、新しい感覚を、むりやり身につけさせられる……希望だってあります!……その希望が本物かどうか、その先までは責任を持たずにね(オウオウそんなもん負ってなんかほしくないとも、ほっといてくれ!と一生徒の立場では毎度思ってましたけどね^^)……いずれ教師には、そんな悪徳なんぞ、許されちゃいないんだから……悪徳?作者のことですよ。作者になりたいっていうのは、要するに、人形使いになって、自分を人形どもから区別したいという、エゴイズムにすぎないんだ。・・・たしかに、作者と、書くこととは、ある程度区別すべきかもしれませんね……でしょう? だからこそ、ぼくは、作者になってみたかったんですよ。作者になれないのなら、べつに書く必要なんかありゃしないんだ!」
幾度も脱出を試みては失敗する主人公の「漂流者が飢えや渇きで倒れるのは、生理的な欠乏そのものよりも、むしろ欠乏にたいする恐怖のせいだという。負けたと思ったときから、敗北が始まるのだ。」という強い決意。現実にうんざりしながら部落の監視に対しても「仮に義務ってやつが人間のパスポートだとしても、なぜこんな連中からまで査証をうけなきゃならないんだ!……人生はそんな、ばらばらな紙切れなんかではないはずだ」って表現、上手いしヒシヒシ心情が伝わってくるなー(´;ω;`) 性欲についてのくだりで「そもそも飢えきった者にとっては、食物全般があるだけで、一応満腹することが保証されてから、はじめて個々の味覚も意味をもってくる。・・・純粋な性関係などというものは、おそらく死に向って牙をむきだす時にしか必要のないものだ」なるほどー、と思っちゃった(^^;
けど死の危険から逃れることのできた人間は季節的な発情からも自由になり、秩序というものがやって来て、自然のかわりに牙や爪や性の管理権を手に入れた結果、性関係も列車の回数券のような扱いになって、それが本物であるかどうかの確認がややこしく、性は証文のマントにすっぽり埋まってしまった、と。「男も女も相手が手を抜いているのではないかと暗い猜疑のとりこになり、潔白を示すために、むりして新しい証文を思いつく……どこに最後の一枚があるのか、誰にも分からない……証文は、けっきょく、無限にあるらしい」から。現代、っつーか戦後日.本人が草食系に陥ってしまっている理由が端的に表れている章ですね!(^∀^) 面倒くさすぎんの、ソコに辿り着くまでに捧げないといけない時間と金と労力。そして結婚というゴールに到り、互いによって吸い尽くされてしまう愛情。かつての獣の情欲、番をいたわる気持ちや生殖という本来の目的なんぞどこにも見えなくなってんだよ、最後には。
同僚に誘われて組合の集会に出た時の講演者のセリフがウケる(ノ∀`)「労働を越える道は、労働を通じて以外にはありません。労働自体に価値があるのではなく、労働によって労働を乗り越える……その自己否定のエネルギーこそ、真の労働の価値なのです。」戦後の教職員組合がガチでこんなソ/連配下としか思えない『1984』的思想を説く場と化していたとか、心から想像するだに怖ろしいな(((-_-;)))gkbr 右.翼様がギャーギャー騒ぐのも理解できる(笑)しかも主人公がソレを思い出したのが水を得るために約束させられた砂掘りをさほど苦じゃなくなってきた、と感じている時に「たしかに労働には、行先の当てなしにでも、なお逃げ去っていく時間を耐えさせる、人間のよりどころのようなものがあるようだ」と考えた末の話だなんて!
片道切符と往復切符の例えも切なくて上手い><「片道切符とは、昨日と今日が、今日と明日が、つながりをなくして、ばらばらになってしまった生活だ。そんな傷だらけの片道切符を鼻歌まじりにしたりできるのは、いずれがっちり往復切符をにぎった人間だけにきまっている。」そして二回目の逃亡実行に当たり「下を見るな、下を見てはいけない!・・・下に気を取られたときが、そのまま破滅のときなのだ。」ようやく上に出た主人公は初めてこの部落の美しさを目にする。「一体この美しさの正体は何なのだろう?……自然のもつ物理的な規律や正確さのためか、それとも逆に、あくまでも人間の理解を拒み続けようとするその無慈悲さのせいなのか? ・・・美しい風景が人間に寛容である必要など、どこにもありはしないのだ。けっきょく砂を定着の拒絶だと考えた、おれの出発点にさして狂いはなかったことになる。・・・状態がそのまま存在である世界……この美しさは、とりもなおさず、死の領土に属するものなのだ。巨大な破壊力や、廃墟の荘厳に通ずる、死の美しさなのだ。・・・切符はもともと片道だけのものと思い込んでいれば、砂にへばりついてやろうなどという無駄な試みもせずにすむ。」逃げ道を探しながら女がラジオと鏡を欲しがっていたことを思い出し、「なるほどラジオも鏡も、他人とのあいだを結ぶ通路という点では、似通った性格をもっている。あるいは人間存在の根本にかかわる欲望なのかもしれない。」という分析、何か胸に刺さるわー(´Д`;)
結局部落の人々に見つかって必死に逃げる主人公の心情「瞬間というものは、いますぐ捕まえなければ間に合わない……次の瞬間に便乗して後を追いかけるなどというわけにはいかないものだ!」ってコレもなぁ。私、何回その瞬間を逃して来たかわかんねーわ、ってな(´∀`)ハハッ で、最終的には沼にハマって身動き取れなくなった主人公が追跡者たちに「助けてくれえ!」と叫びながら「決まり文句で結構……死にぎわに個性なんぞが何んの役に立つ。型で抜いた駄菓子の生き方でいいから、とにかく生きたいんだ!」ここで完全に彼の人生のオチが決まってしまったように見えた。戻って来た男をいたわる女のみじめなやさしさに、互いに傷口を舐め合うのもいいが、永久になおらない傷を永久に舐めあっていたら、しまいに舌が磨滅してしまいはしないだろうか?と感じる男。「いずれ人生なんて納得ずくで行くものじゃないだろうが……あの生活やこの生活があって、向うの方がちょっぴりましに見えたりする……このまま暮していって、それで何うなるんだと思うのが一番たまらないんだな……どこの生活だろうと、そんなこと分りっこないに決まっているんだけどね……すこしでも気をまぎらせてくれるものの多い方が、なんとなくいいような気がしてしまうんだ……」と女に逃亡の理由を打ち明ける男の言葉に、既に折れている心の変化と奇妙な共感を同時に覚える。たぶん世の中に生きている大半の人間が、自身の人生に対して納得させようと言い聞かせている言葉、あるいはそこからの逃亡を図ろうとしている理由の全てを言い表したセリフなのかもしれない。
二度目の逃亡失敗後に新聞を欲さなくなった男「孤独とは幻を求めて満たされない渇きのこと」と悟りの境地に入って来る(ノ∀`) 「反復にささやかな充足を感じていたとしても、かならずしも自虐的とばかり言いきれず、そうした快癒のしかたがあってもべつに不思議はない」と。うーん、でもだいぶ諦めに近づいちゃってるなー、と思ったら不意に届いた漫画本に爆笑してその事実に男は気づく。「恥を知るがいい。現実との馴れ合いにも限りというものがある。それはあくまでも手段であって、目的などではなかったはずだ。」でもこの両者をたやすく入れ替えてしまう、区別がつかなくなってしまうのもまた人間の特性なんだよね(´-`) ウチの野党の野合っぷり、半島の最早ご本人が亡くなって“遺族”様とやら(そんだけ痛めつけられて普通に子供を持てたなんて、素晴らしく頑健なお身体をお持ちだったんですね。笑)に補償対象が移りつつある、70年以上前の件に関しての延々と終わらない賠償騒ぎ・・・。利用団体側にもフィクション製作陣にも誰も当時の真実を知る人はいないはずなのに、醜悪なイメージのみが一人歩きして海まで越えて行くあの狂気に、同じく当時を生きておらず彼らのことをただの“外国”の一つとしか意識できないウチらが付いていけなくなるのは当然だ、と誰か早く気づかせたって?
「百人に一人、という異常者の割合を積み重ねていけば、最終的には人間は百パーセント異常だということが統計的に証明できる」という脳内弁護人の声に「正常という規律がなけりゃ、異常だって成り立ちっこないじゃないか!」とやり返す主人公。「世間には色変りの毛虫を救う義務がないと同様、それを裁く権利もない」とこの辺のやりとり、最近自分について思い悩んできたことと被り過ぎて泣きそうになる(;_;) 主人公が考える砂掘りを日課とするよりもっとましな存在理由、「それを拒否したからこそわざわざこんな所にまでやってきて……」と言う弁護人に、あ、もうコイツ負けたな、と(笑)烏を捕まえるために仕掛けた罠を確認しに行き、獲物のなさに落胆しながら「忍耐そのものはべつに敗北ではないのだ……むしろ忍耐を敗北だと感じたときが真の敗北の始まりなのだろう。」初期に比べて随分言い訳じみてきてますもん。
部落の経済事情について女に問うた男が、塩っけのある砂をコンクリ屋に売ってるという怖ろしい話を聞き、ソレあかんやろ、とダメ出しした際に女が思いっきりぶちまける「かまいやしないじゃないですか、そんな他人のことなんか、どうだって!」キーン先生と同じく私もこのセリフに胸打たれた。女をとおしてむき出しになった部落の顔。「それまで部落は一方的に刑の執行者のはずだった。意志をもたない食肉植物であり、男はたまたまそれにひっかかった哀れな犠牲者にすぎなかったはずなのだ。しかし、部落の側から言わせれば、見捨てられているのはむしろ自分たちの方だということになるのだろう。」こんな風に行政から、秩序から放り出された小さな集落が戦後、いや近代化の流れの中でどれほどあったことだろう。イヤ5年前の件一つ取ったって、そう感じている地区や被災者がどれだけいるかしれない、と正直思う。あーダメだ、この辺ホント痛い・・・orz しかし「私たちなんかこれでずいぶんよくしてもらっている方なんですよ……本当に、不公平はありませんね」って女のセリフに漂う共.産主義の香りにガクブル(((>_<;))) ロ○アも厳しい土地だからあの方向に走ったのかなー?この女とのやりとりで「はっきり敵と味方に塗り分けられていたはずの作戦地図が、あいまいな中間色で判じ絵みたいなわけの分らないものにぼかされてしまった。」男の敗北の瞬間ですね。欲しい木の種類を問われて「逃げようとしても幹につながれて逃げられず、ひらひら身もだえている葉っぱの群」を思い浮かべているあたり。
けれど男は未だこの穴の底の状況に耐え切れず、心身に異常をきたし出す。「地上への嫉妬が内部に穴をあけ、彼をコンロの上の空鍋同様にしてしまったのかもしれない。空鍋の温度は急激に上昇する。やがてその熱に耐えられなくなり、自分で自分をほうりだしてしまわないとも限らないのだ。(青酸カリ持ってるからね(^^;)希望を云々するまえに、この瞬間をのりきれるかどうかが、まず問題だった。」で、新鮮な空気欲しさに公開エッ○しろ、と言われて嫌がる女に、彼女との意識の差異を初めて認識する男。「ここまで踏みつけにされた後で、いまさら体面などがなんの役に立つだろう?……見られることと、見ることとをそれほど区別して考える必要はない……多少のちがいはあるにしても、おれが消えるためのほんのちょっとした儀式だと考えればすむことだ……それに、代償として得られるもののことも考えてみてほしい……自由に歩きまわれる地上なのだ!……おれは、この腐った水面に顔を出して、たっぷり息がしたいのだ!」彼の最後の、地上への激しい憧れの発露ですね。結局女の強固な抵抗によって叶わず、彼女の中に融け込み、賽の瓦の小石も同然になっていく己を自覚して終わっちゃうけど(*_*;
烏捕獲用に仕掛けた「希望」の仕組みで砂から水を汲み出せるかもしれない、と気づき小躍りする主人公。「砂の変化は、同時に彼の変化でもあった。彼は、砂の中から、水といっしょにもう一人の自分をひろい出してきたのかもしれなかった。」あー、完全に現状を受け入れてしまったフラグやな(´Д`;) 女とずっと欲しがってきたラジオを手に入れ、彼女が妊娠しそれが失敗に終わり(イヤな言い方ですがm(__)m)、病院に運ばれていく女のために降ろされた縄梯子。そのままそこに残していかれたソレを使い、ようやくあれほど焦れた地上に出た彼は、以前「見てはいけない!」と必死に言い聞かせていたはずの下の様子をうかがう。そしてやっと完成しつつある溜水装置の故障に気づき、穴の中へと引き返す・・・そしてその装置のことを誰かに話したい、話すとなればここの部落のもの以上の聞き手はありえまい、と逃亡のことを一旦脇に置いてしまう(フリをする)。「いま、彼の手のなかの往復切符には、行先も戻る場所も、本人の自由に書きこめる余白になって空いている。」何という哀しい自己欺瞞の言い訳、イヤこれこそが最終的に彼が辿り着いた人生の答え、真実の居場所なのだろうか。ラストに失踪届と死亡宣告が載っているというのが、また何とも出だしからの秀逸な収斂(-m-;)パチパチパチパチ もう全力で拍手するしかないっすわ。
むしろ何でこの人ノーベ○賞獲ってないの? 川端先生より国際的な普遍性を感じるし、O江氏よりよっぽど(以下略)キーン先生は最初に選考委員会から推薦の相談を受けた時「谷崎、川端、三島を推しました」とおっしゃっていて、谷崎氏はその直後に亡くなられてしまったので日/本人最初の受賞者が川端御大になり、三島は早々に割腹してしまった、と語られていましたが・・・何故、なぜ解説でベタ褒めしながら公房さんを推薦しなかったんや!?o(´Д`;)グッ せっかく日.本人に獲らせるならトコトン日/本にしかない、日.本的な世界観やテーマを描く作家を、って意図だったのかな?(キーン先生の考えか選考委員会のリクエストかは分からんけど)二人の後はちょっと他に回さな、という面や日/本語の翻訳者に限りがあることとかもあって色々厳しかったのかな? え、でもこんな各国語に翻訳されてる云々書いてあるのに!
ハルキなんかよりよっぽど評価されてほしいよ!狐狸庵先生も含めてな!>< あんなうっすいどこにでもあるまさに「安酒」(ご自身がナショナリズムについて語ってた言葉をお借りさせていただきますよ、ちゃんと記事全文読んだ上でソレを政治的利用しまくってる隣国の本質無視して何言ってんだこいつ、ウヘァとしか感じなかったもので^^)を更に水で薄めまくった、ホント清らかでも何でもない水に近い何ものか(笑)に日.本文学の代表面してほしくないもんでね。ニシケンさんや酒見氏や、いっそ宮部や東野の方がはーるーかーに人間を、ちゃんと生きてる人間の本質を描いてると思うよ、世界的に評価される素材やレベルではないにしろね。あぁ、昔の作家ってやっぱ凄かったな。ネットもテレビもなく、発表する場や手段も限られていただけに凝縮された妄想・積もり積もった心の澱を一気に吐き出さんとするかのような情熱と緻密さと執念を感じる。日/本語ネイティヴで良かった!って思える作品に久々に出会えた。大好き!
「砂のがわに立てば、形あるものは、すべて虚しい。確実なのは、ただ、一切の形を否定する砂の流動だけである。」と取りつかれたように砂丘をさまよっていた男が部落の罠にかけられ、逃げ出せぬ穴の中に落とし込まれたのだと気づいた時の絶望と憤りと驚愕の叫び。「ここはもう、砂に浸食されて、日常の約束事など通用しなくなった、特別の世界なのかもしれない」自分の静止が世界の動きも止めてしまったのだと、断ち切られ切り離された日常に拘泥し、女のことを「昨日も明日もない点のような心」の持ち主、部落の住民たちのことを「現代の一角にこれほどの野蛮が巣食っていようとは、夢にも思わなかった」と初め男は確かにそう捉えていた。
夜の方が生き生きと息づく部落の姿に、仮病作戦は失敗。男は余りポジティヴとはいえない教師生活のことを思い出す。「教師くらい妬みの虫に取りつかれた存在も珍しい……川の水のように彼らを乗りこえ、流れ去っていく生徒たちに対して、流れの底で深く埋もれた石のようにいつも取り残されていなければならない教師たち。希望は他人に語るものであっても、自分で夢見るものではなく、彼らは自分をぼろ屑のように感じ自虐趣味におちいるか、他人の無軌道を告発しつづける疑い深い有徳の士になりはてる。勝手な行動にあこがれるあまりに、勝手な行動を憎まずにいられなくなるのだ。」あっ、自分が基本的に教師嫌いな理由なんとなく解った気がします(´∀`)bグッ 言ってることと滲み出る本音が矛盾しまくってんだよねー。せめて生徒の前では隠せよ(笑)ってツッコんじゃう事例どんだけ目撃したことか。まぁ家教とかやって教えんのも大変なんやな、って学んだけど、彼ら志望して面倒な課程取りまくって試験受けて安定した公務員になったわけでしょ? 甘えんな(特に生徒に)、とブチのめしたくなっても(以下略)イヤ部活での過労死とかもあって本当若い先生は苦労なさってると思いますよ? でもな、そういう労働環境含め上の人間の意識というか教育界全体の雰囲気が変わらないといけない時期にいい加減さしかかってんじゃねーの?とトラウマそのいくつかを彼らに背負わされたと感じている人間としては思うわけですよ(´-`)=3
で、思い出から外の世界との繋がりを求め新聞を所望する男。「風景がなければ、せめて風景画でも見たいというのが、人情というものだろう。だから、風景画は自然の稀薄な地方で発達し(ん、パ/リのこと?)、新聞は、人間のつながりが薄くなった産業地帯で発達した(ロ○ドンですね分かります^^)」表に出たってすることがない、と言う女に思わず「歩けばいい!」と声を荒げる男。それに対して「歩きましたよ……本当に、さんざん……ここに来るまで……子供をかかえて、ながいこと……もうほとほと歩きくだびれてしまいました。」と応じる女に、初めて彼女の本心、ここでの生活に心からの安らぎを覚えているほど底知れぬ苦労の果てにたどり着いたのがこの家なのだ、という大事なポイントが見えた気がした。男はその答えに面喰い、なるほど確かに人類は「歩かないですむ自由」を求めて狂奔してきたが、今は果たして「歩かないですむ自由」に食傷した、と言えるのだろうか?と己自身に問いかける。「砂の限りない流動は、歩かないですむ自由にしがみついているネガ・フィルムの中の、裏返しになった自画像」という言葉が(((゜Д゜;)))思わず鳥肌立つっちゃうわ!
肝心の新聞を読みながら「欠けて困るものなど、何一つありはしない。幻の煉瓦を隙間だらけにつみあげた、幻の塔だ。もっとも、欠けて困るようなものばかりだったら、現実はうっかり手もふれられない、あぶなっかしいガラス細工になってしまう……だから誰もが、無意味を承知で、わが家にコンパスの中心をすえる」ってなんちゅう美しい真理の表現や。「……誰もがそんなことは百も承知でいながら、ただ自分を詐欺にかかった愚かものにしたくないばっかりに、灰色のキャンバスにせっせと幻の祭典のまねごとを塗りたくるのだ。……他人の太陽にたいする、いじらしいほどのあせりと妬み」ホントよくこの作者さん世間の現実そこまで見切っておきながら、若い時に絶望してとっとと自殺しなかったな。
同僚の組合員()教師との会話で「人生によりどころがあるという教育の仕方は、無いものをあるように思いこませる幻想教育」というのも心から同意だし(ソレで勘違いして突っ走って挫折した子、あるいはそのよりどころが見つけられない自分に絶望しちゃう子はどうすりゃ良いんだ?って話)、「けっきょく世界は砂みたいなものじゃないか……砂ってやつは、静止している状態じゃ、なかなかその本質はつかめない……砂が流動しているのではなく、実は流動そのものが砂なのだ」「自分自身が砂になる……砂の眼でもって物をみる……」この辺フラグ立ってますね(^ω^) 最終的に「生徒も砂のようなもの」と思っている時点で私の中では多分比較的波長の合う教師だったんだろうなー、と想像すると彼の“失踪”は非常に残念ですが(笑)
妻に対しては「情熱を失ったというよりは、むしろ情熱を理想化しすぎたあげくに、凍りつかせてしまった」という表現や性生活のくだりに、当時の夫婦観や家庭観、役割や周囲から求められるプレッシャーといったものを何となく感じられて二人が上手くいかなくなった理由も察せられるような。16章のラスト、主人公の心に響く声には作者の強烈な自己批判を含むのかな、と。「(教師として生徒に対し)自分が何者であるかに、目覚めさせてやるだけでも、立派な創造じゃありませんか?……おかげで、新しい苦痛を味わうための、新しい感覚を、むりやり身につけさせられる……希望だってあります!……その希望が本物かどうか、その先までは責任を持たずにね(オウオウそんなもん負ってなんかほしくないとも、ほっといてくれ!と一生徒の立場では毎度思ってましたけどね^^)……いずれ教師には、そんな悪徳なんぞ、許されちゃいないんだから……悪徳?作者のことですよ。作者になりたいっていうのは、要するに、人形使いになって、自分を人形どもから区別したいという、エゴイズムにすぎないんだ。・・・たしかに、作者と、書くこととは、ある程度区別すべきかもしれませんね……でしょう? だからこそ、ぼくは、作者になってみたかったんですよ。作者になれないのなら、べつに書く必要なんかありゃしないんだ!」
幾度も脱出を試みては失敗する主人公の「漂流者が飢えや渇きで倒れるのは、生理的な欠乏そのものよりも、むしろ欠乏にたいする恐怖のせいだという。負けたと思ったときから、敗北が始まるのだ。」という強い決意。現実にうんざりしながら部落の監視に対しても「仮に義務ってやつが人間のパスポートだとしても、なぜこんな連中からまで査証をうけなきゃならないんだ!……人生はそんな、ばらばらな紙切れなんかではないはずだ」って表現、上手いしヒシヒシ心情が伝わってくるなー(´;ω;`) 性欲についてのくだりで「そもそも飢えきった者にとっては、食物全般があるだけで、一応満腹することが保証されてから、はじめて個々の味覚も意味をもってくる。・・・純粋な性関係などというものは、おそらく死に向って牙をむきだす時にしか必要のないものだ」なるほどー、と思っちゃった(^^;
けど死の危険から逃れることのできた人間は季節的な発情からも自由になり、秩序というものがやって来て、自然のかわりに牙や爪や性の管理権を手に入れた結果、性関係も列車の回数券のような扱いになって、それが本物であるかどうかの確認がややこしく、性は証文のマントにすっぽり埋まってしまった、と。「男も女も相手が手を抜いているのではないかと暗い猜疑のとりこになり、潔白を示すために、むりして新しい証文を思いつく……どこに最後の一枚があるのか、誰にも分からない……証文は、けっきょく、無限にあるらしい」から。現代、っつーか戦後日.本人が草食系に陥ってしまっている理由が端的に表れている章ですね!(^∀^) 面倒くさすぎんの、ソコに辿り着くまでに捧げないといけない時間と金と労力。そして結婚というゴールに到り、互いによって吸い尽くされてしまう愛情。かつての獣の情欲、番をいたわる気持ちや生殖という本来の目的なんぞどこにも見えなくなってんだよ、最後には。
同僚に誘われて組合の集会に出た時の講演者のセリフがウケる(ノ∀`)「労働を越える道は、労働を通じて以外にはありません。労働自体に価値があるのではなく、労働によって労働を乗り越える……その自己否定のエネルギーこそ、真の労働の価値なのです。」戦後の教職員組合がガチでこんなソ/連配下としか思えない『1984』的思想を説く場と化していたとか、心から想像するだに怖ろしいな(((-_-;)))gkbr 右.翼様がギャーギャー騒ぐのも理解できる(笑)しかも主人公がソレを思い出したのが水を得るために約束させられた砂掘りをさほど苦じゃなくなってきた、と感じている時に「たしかに労働には、行先の当てなしにでも、なお逃げ去っていく時間を耐えさせる、人間のよりどころのようなものがあるようだ」と考えた末の話だなんて!
片道切符と往復切符の例えも切なくて上手い><「片道切符とは、昨日と今日が、今日と明日が、つながりをなくして、ばらばらになってしまった生活だ。そんな傷だらけの片道切符を鼻歌まじりにしたりできるのは、いずれがっちり往復切符をにぎった人間だけにきまっている。」そして二回目の逃亡実行に当たり「下を見るな、下を見てはいけない!・・・下に気を取られたときが、そのまま破滅のときなのだ。」ようやく上に出た主人公は初めてこの部落の美しさを目にする。「一体この美しさの正体は何なのだろう?……自然のもつ物理的な規律や正確さのためか、それとも逆に、あくまでも人間の理解を拒み続けようとするその無慈悲さのせいなのか? ・・・美しい風景が人間に寛容である必要など、どこにもありはしないのだ。けっきょく砂を定着の拒絶だと考えた、おれの出発点にさして狂いはなかったことになる。・・・状態がそのまま存在である世界……この美しさは、とりもなおさず、死の領土に属するものなのだ。巨大な破壊力や、廃墟の荘厳に通ずる、死の美しさなのだ。・・・切符はもともと片道だけのものと思い込んでいれば、砂にへばりついてやろうなどという無駄な試みもせずにすむ。」逃げ道を探しながら女がラジオと鏡を欲しがっていたことを思い出し、「なるほどラジオも鏡も、他人とのあいだを結ぶ通路という点では、似通った性格をもっている。あるいは人間存在の根本にかかわる欲望なのかもしれない。」という分析、何か胸に刺さるわー(´Д`;)
結局部落の人々に見つかって必死に逃げる主人公の心情「瞬間というものは、いますぐ捕まえなければ間に合わない……次の瞬間に便乗して後を追いかけるなどというわけにはいかないものだ!」ってコレもなぁ。私、何回その瞬間を逃して来たかわかんねーわ、ってな(´∀`)ハハッ で、最終的には沼にハマって身動き取れなくなった主人公が追跡者たちに「助けてくれえ!」と叫びながら「決まり文句で結構……死にぎわに個性なんぞが何んの役に立つ。型で抜いた駄菓子の生き方でいいから、とにかく生きたいんだ!」ここで完全に彼の人生のオチが決まってしまったように見えた。戻って来た男をいたわる女のみじめなやさしさに、互いに傷口を舐め合うのもいいが、永久になおらない傷を永久に舐めあっていたら、しまいに舌が磨滅してしまいはしないだろうか?と感じる男。「いずれ人生なんて納得ずくで行くものじゃないだろうが……あの生活やこの生活があって、向うの方がちょっぴりましに見えたりする……このまま暮していって、それで何うなるんだと思うのが一番たまらないんだな……どこの生活だろうと、そんなこと分りっこないに決まっているんだけどね……すこしでも気をまぎらせてくれるものの多い方が、なんとなくいいような気がしてしまうんだ……」と女に逃亡の理由を打ち明ける男の言葉に、既に折れている心の変化と奇妙な共感を同時に覚える。たぶん世の中に生きている大半の人間が、自身の人生に対して納得させようと言い聞かせている言葉、あるいはそこからの逃亡を図ろうとしている理由の全てを言い表したセリフなのかもしれない。
二度目の逃亡失敗後に新聞を欲さなくなった男「孤独とは幻を求めて満たされない渇きのこと」と悟りの境地に入って来る(ノ∀`) 「反復にささやかな充足を感じていたとしても、かならずしも自虐的とばかり言いきれず、そうした快癒のしかたがあってもべつに不思議はない」と。うーん、でもだいぶ諦めに近づいちゃってるなー、と思ったら不意に届いた漫画本に爆笑してその事実に男は気づく。「恥を知るがいい。現実との馴れ合いにも限りというものがある。それはあくまでも手段であって、目的などではなかったはずだ。」でもこの両者をたやすく入れ替えてしまう、区別がつかなくなってしまうのもまた人間の特性なんだよね(´-`) ウチの野党の野合っぷり、半島の最早ご本人が亡くなって“遺族”様とやら(そんだけ痛めつけられて普通に子供を持てたなんて、素晴らしく頑健なお身体をお持ちだったんですね。笑)に補償対象が移りつつある、70年以上前の件に関しての延々と終わらない賠償騒ぎ・・・。利用団体側にもフィクション製作陣にも誰も当時の真実を知る人はいないはずなのに、醜悪なイメージのみが一人歩きして海まで越えて行くあの狂気に、同じく当時を生きておらず彼らのことをただの“外国”の一つとしか意識できないウチらが付いていけなくなるのは当然だ、と誰か早く気づかせたって?
「百人に一人、という異常者の割合を積み重ねていけば、最終的には人間は百パーセント異常だということが統計的に証明できる」という脳内弁護人の声に「正常という規律がなけりゃ、異常だって成り立ちっこないじゃないか!」とやり返す主人公。「世間には色変りの毛虫を救う義務がないと同様、それを裁く権利もない」とこの辺のやりとり、最近自分について思い悩んできたことと被り過ぎて泣きそうになる(;_;) 主人公が考える砂掘りを日課とするよりもっとましな存在理由、「それを拒否したからこそわざわざこんな所にまでやってきて……」と言う弁護人に、あ、もうコイツ負けたな、と(笑)烏を捕まえるために仕掛けた罠を確認しに行き、獲物のなさに落胆しながら「忍耐そのものはべつに敗北ではないのだ……むしろ忍耐を敗北だと感じたときが真の敗北の始まりなのだろう。」初期に比べて随分言い訳じみてきてますもん。
部落の経済事情について女に問うた男が、塩っけのある砂をコンクリ屋に売ってるという怖ろしい話を聞き、ソレあかんやろ、とダメ出しした際に女が思いっきりぶちまける「かまいやしないじゃないですか、そんな他人のことなんか、どうだって!」キーン先生と同じく私もこのセリフに胸打たれた。女をとおしてむき出しになった部落の顔。「それまで部落は一方的に刑の執行者のはずだった。意志をもたない食肉植物であり、男はたまたまそれにひっかかった哀れな犠牲者にすぎなかったはずなのだ。しかし、部落の側から言わせれば、見捨てられているのはむしろ自分たちの方だということになるのだろう。」こんな風に行政から、秩序から放り出された小さな集落が戦後、いや近代化の流れの中でどれほどあったことだろう。イヤ5年前の件一つ取ったって、そう感じている地区や被災者がどれだけいるかしれない、と正直思う。あーダメだ、この辺ホント痛い・・・orz しかし「私たちなんかこれでずいぶんよくしてもらっている方なんですよ……本当に、不公平はありませんね」って女のセリフに漂う共.産主義の香りにガクブル(((>_<;))) ロ○アも厳しい土地だからあの方向に走ったのかなー?この女とのやりとりで「はっきり敵と味方に塗り分けられていたはずの作戦地図が、あいまいな中間色で判じ絵みたいなわけの分らないものにぼかされてしまった。」男の敗北の瞬間ですね。欲しい木の種類を問われて「逃げようとしても幹につながれて逃げられず、ひらひら身もだえている葉っぱの群」を思い浮かべているあたり。
けれど男は未だこの穴の底の状況に耐え切れず、心身に異常をきたし出す。「地上への嫉妬が内部に穴をあけ、彼をコンロの上の空鍋同様にしてしまったのかもしれない。空鍋の温度は急激に上昇する。やがてその熱に耐えられなくなり、自分で自分をほうりだしてしまわないとも限らないのだ。(青酸カリ持ってるからね(^^;)希望を云々するまえに、この瞬間をのりきれるかどうかが、まず問題だった。」で、新鮮な空気欲しさに公開エッ○しろ、と言われて嫌がる女に、彼女との意識の差異を初めて認識する男。「ここまで踏みつけにされた後で、いまさら体面などがなんの役に立つだろう?……見られることと、見ることとをそれほど区別して考える必要はない……多少のちがいはあるにしても、おれが消えるためのほんのちょっとした儀式だと考えればすむことだ……それに、代償として得られるもののことも考えてみてほしい……自由に歩きまわれる地上なのだ!……おれは、この腐った水面に顔を出して、たっぷり息がしたいのだ!」彼の最後の、地上への激しい憧れの発露ですね。結局女の強固な抵抗によって叶わず、彼女の中に融け込み、賽の瓦の小石も同然になっていく己を自覚して終わっちゃうけど(*_*;
烏捕獲用に仕掛けた「希望」の仕組みで砂から水を汲み出せるかもしれない、と気づき小躍りする主人公。「砂の変化は、同時に彼の変化でもあった。彼は、砂の中から、水といっしょにもう一人の自分をひろい出してきたのかもしれなかった。」あー、完全に現状を受け入れてしまったフラグやな(´Д`;) 女とずっと欲しがってきたラジオを手に入れ、彼女が妊娠しそれが失敗に終わり(イヤな言い方ですがm(__)m)、病院に運ばれていく女のために降ろされた縄梯子。そのままそこに残していかれたソレを使い、ようやくあれほど焦れた地上に出た彼は、以前「見てはいけない!」と必死に言い聞かせていたはずの下の様子をうかがう。そしてやっと完成しつつある溜水装置の故障に気づき、穴の中へと引き返す・・・そしてその装置のことを誰かに話したい、話すとなればここの部落のもの以上の聞き手はありえまい、と逃亡のことを一旦脇に置いてしまう(フリをする)。「いま、彼の手のなかの往復切符には、行先も戻る場所も、本人の自由に書きこめる余白になって空いている。」何という哀しい自己欺瞞の言い訳、イヤこれこそが最終的に彼が辿り着いた人生の答え、真実の居場所なのだろうか。ラストに失踪届と死亡宣告が載っているというのが、また何とも出だしからの秀逸な収斂(-m-;)パチパチパチパチ もう全力で拍手するしかないっすわ。
むしろ何でこの人ノーベ○賞獲ってないの? 川端先生より国際的な普遍性を感じるし、O江氏よりよっぽど(以下略)キーン先生は最初に選考委員会から推薦の相談を受けた時「谷崎、川端、三島を推しました」とおっしゃっていて、谷崎氏はその直後に亡くなられてしまったので日/本人最初の受賞者が川端御大になり、三島は早々に割腹してしまった、と語られていましたが・・・何故、なぜ解説でベタ褒めしながら公房さんを推薦しなかったんや!?o(´Д`;)グッ せっかく日.本人に獲らせるならトコトン日/本にしかない、日.本的な世界観やテーマを描く作家を、って意図だったのかな?(キーン先生の考えか選考委員会のリクエストかは分からんけど)二人の後はちょっと他に回さな、という面や日/本語の翻訳者に限りがあることとかもあって色々厳しかったのかな? え、でもこんな各国語に翻訳されてる云々書いてあるのに!
ハルキなんかよりよっぽど評価されてほしいよ!狐狸庵先生も含めてな!>< あんなうっすいどこにでもあるまさに「安酒」(ご自身がナショナリズムについて語ってた言葉をお借りさせていただきますよ、ちゃんと記事全文読んだ上でソレを政治的利用しまくってる隣国の本質無視して何言ってんだこいつ、ウヘァとしか感じなかったもので^^)を更に水で薄めまくった、ホント清らかでも何でもない水に近い何ものか(笑)に日.本文学の代表面してほしくないもんでね。ニシケンさんや酒見氏や、いっそ宮部や東野の方がはーるーかーに人間を、ちゃんと生きてる人間の本質を描いてると思うよ、世界的に評価される素材やレベルではないにしろね。あぁ、昔の作家ってやっぱ凄かったな。ネットもテレビもなく、発表する場や手段も限られていただけに凝縮された妄想・積もり積もった心の澱を一気に吐き出さんとするかのような情熱と緻密さと執念を感じる。日/本語ネイティヴで良かった!って思える作品に久々に出会えた。大好き!
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レオ様、とうとうオスカーゲットおめでとう><20年近くハラハラドキドキ見守ってきたファンとしてとても嬉しいです。昨日予告編観た限り、彼の弱点とされてきた甘いマスクの童顔系ビジュアルを全力で打ち消す努力をしてるような(笑)役っぽかったしな!ケイトとの夫婦愛憎ものの演技も良かったし、元々彼が俳優業で本当に目指してきたこととイメージとのギャップに長年苦しんできたんだろーな、とは出会った頃から思ってたから、ようやくちゃんと「演技」が評価されたのだと、ファンの贔屓目全開で祝福します。わーん良かったねえぇ~!(つд`)
で、ベイマックス観たんだけどアナ雪よりはるかに深くて定番デ○ズニー要素も含んだ秀作じゃね? 私が日/本人で、日.本要素の強い作品からそう感じてしまうのか? イヤでもむしろ「ソレはお隣っぽい文化・・・」とか「戦うロボットと混み合う電車とオタク」ってのがアメリ○におけるウチのイメージなんですか、そうですか(´-`) というツッコミの方がその件については先立ってしまうけどな! 兄を見殺しにされ、一度は我を忘れて怒り狂ったヒロ(Heroとかけてあるのが良いですね☆)が、仲間やベイマックスからの愛情や説得によって己を取り戻し、復讐を否定する、というストーリーが素晴らしいと思う。まさに頭の固い大人にはできない、その繊細さと脆さゆえにとても傷つきやすいけれども、同時に回復力と柔軟性ゆえに正しい答えを導き出せる、“少年”にしか辿り着けない選択ですよ。自分の発明品を勝手に使って生き残って道具にして、他ならぬ兄を見殺しにした相手に向かって必死に復讐の愚かさを解くヒロの姿は涙を誘った(´;ω;`) ベイマックスももちろん可愛いし、最後はパンツの子の父ちゃん帰ってきたとこも含めて(笑)あー、良かったなぁ、って大団円。正体不明の力を操る悪役と戦う、こちらも普段は至って普通の生活を送るヒーローたち、そして「優しい/救いを残す」かたちでの勧善懲悪。いかにもマーベ○なアメ○カらしさと日.本らしさ、そこにキャラクターを生き生きと輝かせるディズ○ー要素が上手くミックスされた一本と言えるのではないでしょうか?
・・・やっぱり、何と言われようとアニメーションは基本的に子供のもので、特にディズ○ーの作品は彼らを主たる対象として制作されたものであってほしい、と考えているので、アナ雪・風立ちぬ・ベイマックスの中からどれを子供たちに見てほしいか、って聞かれたら私の中ではコレ一択ですよ。どんなに辛い状況に陥っても、タダシのような優しさとヒロのような強い意志を持ち合わせた子に育ってほしいし、本当に良い友人や仲間を得ることの大切さに気がついてほしい。確かに二次元でしか表現できない世界があることは認めるし、大人向けの作品で好きなアニメーションも沢山あります。でも、このネットでちょちょいと検索すれば簡単に無料の違法動画にアクセスできてしまう時代に、いくら少子化とはいえ「子供の領域」を余り侵し過ぎないでほしいな、と。そういう意味で彼らがオスカーを獲ったことは当然だし、そうであってくれて良かった、と改めて感じてしまいました(^-^;
・・・やっぱり、何と言われようとアニメーションは基本的に子供のもので、特にディズ○ーの作品は彼らを主たる対象として制作されたものであってほしい、と考えているので、アナ雪・風立ちぬ・ベイマックスの中からどれを子供たちに見てほしいか、って聞かれたら私の中ではコレ一択ですよ。どんなに辛い状況に陥っても、タダシのような優しさとヒロのような強い意志を持ち合わせた子に育ってほしいし、本当に良い友人や仲間を得ることの大切さに気がついてほしい。確かに二次元でしか表現できない世界があることは認めるし、大人向けの作品で好きなアニメーションも沢山あります。でも、このネットでちょちょいと検索すれば簡単に無料の違法動画にアクセスできてしまう時代に、いくら少子化とはいえ「子供の領域」を余り侵し過ぎないでほしいな、と。そういう意味で彼らがオスカーを獲ったことは当然だし、そうであってくれて良かった、と改めて感じてしまいました(^-^;
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