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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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カズオ・イシグロは間違いなく“日系”イギリ○人だ、と感じてしまう、美しくて哀しい一編だった。

典型的な英/国文学が読者を追い詰めて追い詰めてぶっ刺して終わる話だとしたら、何故か犯人(作者)が傷口にヨードチンキ塗って去っていくような不思議なやさしさが余韻に纏わるの。刺された傷の深さはどうしようもなく、ヨードチンキは沁みるんだけど、その沁みる痛みがいたわりだと分かってる。あー、もう何て言えば良いのか・・・例えば非キ○スト教文化圏と見なされている、ip○細胞の研究に異を唱える勢力が存在しない国がルーツの作家でなかったら、こういう作品は英語圏で受け入れられなかったかもしれない。電気羊のように、思いっきりSFチックな架空の近未来を舞台にする、という手段を用いなければ、その親族や所属するコミュニュティからハブられたり、時には生命の危険が及んだかも。けれど彼は日.本と言う国をバックグラウンドに持つことで、ある意味自由に、“現代”のイギリ○で臓器移植のためだけに生み出されるクローンが当たり前に存在する世界、という物語を描けたのではないか。具体的な時代・国・そして文化に基づいていながら非現実的な、けれど完全に“あり得ないことでもないかもしれない”と思わせてしまう衝撃的な作品を。

前半だけ読めば普通のありがちな学園物ですよね、恩田陸の『三月~』シリーズに登場するようなのと何ら変わらない、特殊な事情を持つ子供たちだけが集められた閉鎖的な場所における、子供らしい喜びや葛藤や好奇心に満ち溢れた、何ということのない当たり前の幼年~思春期にかけての成長物語。けれど度々登場する「提供」という言葉、そしてルーシー先生の一件が不吉な予感を漂わせる。まぁ最初から全てを終えた、あるいは終えようとしている主人公がネタばらしをしているわけですが(笑)
ドラマ版の劇中歌DLしたんですけど、「Never let me go~」の後に「Never let you go~」と続く箇所があって、何か「提供者」の側とソレを欲する側(の身内)の両方の気持ちで聴いてしまうんですよ。私、「○○ちゃんを救う会」とかにどちらかと言うと否定的で寄付もしないタイプですが(その何千万、何億あったらただの飢餓で死んでいく子供たちを何人救えるか分からないのに、たった数年の寿命を、子供自身にとっては苦しみかもしれない時間を親のエゴイズムで引き延ばすためだけに大金かけて海外まで行ってその国の子供の死を待つ、という行為に抵抗を感じざるを得なくて(-_-;))、恐らく移植を待つ患者の家族の立場からすれば「あなたを連れて行かないで」と必死なんだな、って。邦訳タイトル『わたしを離さないで』ですが、「わたしを行かせないで」とも訳せるし、meがyouになったらますます「行かせないで」と、“わたし”でも“あなた”でもない、第三者に対する懇願の形式になりますよね。それを病という死神と捉えれば良いのか、クローンを生み出し消費する一般的な人間たちと捉えれば良いのか、あるいは彼らの悲痛を知りつつも敗北した先生やマダムたちに向けてのものと捉えれば良いのか、その全てなのかは分からないけれど・・・「提供者」となるべく生み出されてしまったクローンの側にも、親しい人の回復を懸命に願う人間の側にも同情し過ぎてしまって境界線がわからなくなった。

どうしてこんなことになったんだろう?こんなことが許される社会に。試験管で臓器だけって作れなかったの?i○s細胞みたいにさ!だから、真実を知らされたトミーの「ルーシー先生は正しかった」って癇癪を起こす心情は心から理解できた。だって、いずれどうにもならないことなら、猶予も何ももらえずに死んでいくだけの命なら、それが運命なら、感情なんていらなかっただろう。誰かを愛しいと思う気持ち、もっと生きたいと願う欲望、好きな人に格好の悪い最期の姿をさらしたくないというプライドも、それでも傍にいてほしい、少しでも長く一緒にいたいと祈る矛盾した本音も。自分を表現する喜びも、目的も、達成感も、スポーツの楽しさも、妄想にふける秘密の時間も。世間から人間ではないものとして見られ、扱われていることさえ知らずに、彼らは人として育ち、人として気持ちが揺れ動くこと、それを伝えること、悲しみ、喜び、愛することを知り、それ故にこそ苦しんで、もがいて・・・でも彼らが誰よりも信頼していた先生とマダムは「彼らがそれを知ったことこそが、“人間”らしく生き、成長したことこそが最大の功績」だと語る。そんな理不尽なことってあるか、結局計画が失敗に終わり意気消沈しつつ、これから本当に失われゆく“命”(脳があって心臓が動いているなら、クローンだってそれは立派な命に違いない)に向かって何て残酷な自己満足をぶつけるのだろう。この辺私もトミーと同じくらい胸を掻きむしりたくなりました。彼女たちにとっては、それが精いっぱいだったのだろうけれど。
作者は――キャシーは、それでも彼女たちによって彼らが“人間”らしくなれた、ただのクローンではなく、間違いなく一人の“人間”として生きることができたのだ、とその意義を最後には肯定的に描いているように感じたけれど。私だったら、何も知らず人形のように育てられ、死への恐怖や自身の存在意義を疑うことなく提供の日を待つ方がよっぽど気が楽になると思う。でもそうしたら、投げやりで無気力で自分の身体を大切にすることさえしなくなるかもしれない、と考えるとエミリ先生の方針が正しい、と言えるかもしれないし、彼女も「より健全な肉体から臓器を受け取るために」その方が理に適う、という方向で社会を説得すれば良かったのかもしれない。

「ルースと知り得た真実を分かち合いたかった」と話すキャシーに「ルースは知りたがりやの俺たちとは違って信じたがりやだから、知らない方が良かった」と答えるトミーに、あぁ、何だかんだ言ってコッチはコッチで通じ合っているところも確かにあったんだな、と納得。だからルースはあんなに必死に虚勢を張り、“本当のことは何も知らない=知り得たことの何もかもが嘘かもしれない”世界を懸命に否定していたんだ(゜Д゜)ピコーン! それでも、彼女とソレを分かち合えたら、と願わずにはいられないキャシーに、やはりルースは彼女にとってトミーとは違った意味で魂の片割れ、重荷を半分背負ってくれるはずの大切な存在だったのだ、と改めて切り離せない三人の関係にしんみりする。「提供者になったことがないからわからない」と言われた際にルースの名前を出されてキャシーが愕然とするくだりもそうですよね。「二人に置いて行かれた」って。
でもトミーはそういうことが言いたかったんじゃなくて、彼のキャシーへの恋心を察していたルースなら臨終の見っともない苦しみとどうしようもない別れの辛さを、愛する彼女の前でさらけ出したくない、という気持ちを汲み取ってくれただろう、という意味で告げた言葉だったのに(´;ω;`)ブワッ ソウルメイトの同性の親友とは訳が違うもん、苦しみも情けなさも悲しみも何もかもを分かち合うような関係ではなく、最後まで綺麗な想い出にしておきたかったんだよ、トミーは。それほどに愛していた、大切だった、と。何かルースの時とは違った方向の、やっぱり確かな絆が、愛がうかがい知れてここもガン泣きするシーンだったな。・゜・(ノД`)・゜・。三年よりはるかに短くても、確かに愛し合えた“猶予”の時間が二人には存在したんじゃないか、それは他の「提供者」が望んでも中々得られることのない、長い長い真実の愛を、まごうかたなき人間である証を二人が立てられた、それを知れただけで十分に幸せな人生を得られたと言っても良いんじゃないか、と考えてしまうのは“人間”側の奢りだろうか?とか、トミーの別れ際のセリフに色々グルグル考えさせられてしまった。少なくとも私よりは、二人の方がよっぽど人間らしくマトモに生きてるよ(笑)

そして最後のキャシーの、穏やかな独白の締めくくりが、これまでの生き方に何の後悔もない、ただひたすらに二人を失った寂しさだけが存在するけど、二人と出会えたこと、過ごしたこと、そして喪う悲しみを味わえた自分自身に満足しているように感じたんです。だから、個人的に「生徒たち」の立場で考えれば肯定はできなかったけれどエミリ先生の理想は正しかったのだ、と。作者もそれを強調したくて、語り手を誰よりも冷静に周囲を見渡す能力がありながら、同時に感受性の強さも持ち合わせたキャシーという女性に託し、人間、ひいては命というものの全てを肯定し、改めて考えさせるストーリーに持って行ったのではないか、と。そう、否定がないんです!それだ傷口にヨードチンキ、っつーかイギ○ス感が薄れるラスト!各々のキャラに様々な見方・主張を代弁させた上でどれが正しいという答えを提示せず、曖昧模糊として読み手側に自由に受け止めさせる結末なんですよ。痛いのに、苦しいのに、悩んでいるのにその手法によってどこかホッとさせられてしまう(´Д`;)=3 「皆さん、この出来事について善か悪か、あるいはこの場面でどうすべきだったのか考えてみましょう!」と議論を促す感じじゃなくて、各自が考えたことを白黒付けずありのままに心に秘めてて良いんだよ、ただずっと覚えていて、忘れないで考えてね、って心の中で静かに囁かれたような。
「ヘールシャムは私の頭の中に安全に保存されている」このくだりに、作者さんが小説を書き始めたきっかけが「幼い頃のおぼろ気に覚えている思い出の中の日/本」を保存しておくため、と何かの講演で語っていたエピソードを思い出した。ドンドン変わっていく世界の中で、彼にとってのキーワードは“記憶の保存”。その後書きたいテーマさえ決まっていれば好きに場所や時代を動かせることに気づいてしまい、逆にそれを絞るのに難儀するようになった、という話も面白かったけど。そうかもしれない、“書く”という行為の原初的な目的は、日々蓄積され脳みその容量からはみ出していく膨大な情報の中から、どうしても忘れたくないもの、忘れてはいけないものを残すための手段だったんだ、と。たぶん名前だけは海外系のサイトでしょっちゅう見かけて気になっていたカズオ・イシグロに初めて興味を抱いたのはあの番組を観てのことだったかな? だから、答えを出さない作者の写し身がキャシーなんだ、と性別は違うけど感じたのかな。単に一人称だったからかもしれないけど(・・;)

いや次は『箱男』に行く予定なんだけど、全然違ったノリらしい『日の名残り』も楽しみやなー(´∀`)♪

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典型的な英/国文学が読者を追い詰めて追い詰めてぶっ刺して終わる話だとしたら、何故か犯人(作者)が傷口にヨードチンキ塗って去っていくような不思議なやさしさが余韻に纏わるの。刺された傷の深さはどうしようもなく、ヨードチンキは沁みるんだけど、その沁みる痛みがいたわりだと分かってる。あー、もう何て言えば良いのか・・・例えば非キ○スト教文化圏と見なされている、ip○細胞の研究に異を唱える勢力が存在しない国がルーツの作家でなかったら、こういう作品は英語圏で受け入れられなかったかもしれない。電気羊のように、思いっきりSFチックな架空の近未来を舞台にする、という手段を用いなければ、その親族や所属するコミュニュティからハブられたり、時には生命の危険が及んだかも。けれど彼は日.本と言う国をバックグラウンドに持つことで、ある意味自由に、“現代”のイギリ○で臓器移植のためだけに生み出されるクローンが当たり前に存在する世界、という物語を描けたのではないか。具体的な時代・国・そして文化に基づいていながら非現実的な、けれど完全に“あり得ないことでもないかもしれない”と思わせてしまう衝撃的な作品を。

前半だけ読めば普通のありがちな学園物ですよね、恩田陸の『三月~』シリーズに登場するようなのと何ら変わらない、特殊な事情を持つ子供たちだけが集められた閉鎖的な場所における、子供らしい喜びや葛藤や好奇心に満ち溢れた、何ということのない当たり前の幼年~思春期にかけての成長物語。けれど度々登場する「提供」という言葉、そしてルーシー先生の一件が不吉な予感を漂わせる。まぁ最初から全てを終えた、あるいは終えようとしている主人公がネタばらしをしているわけですが(笑)
ドラマ版の劇中歌DLしたんですけど、「Never let me go~」の後に「Never let you go~」と続く箇所があって、何か「提供者」の側とソレを欲する側(の身内)の両方の気持ちで聴いてしまうんですよ。私、「○○ちゃんを救う会」とかにどちらかと言うと否定的で寄付もしないタイプですが(その何千万、何億あったらただの飢餓で死んでいく子供たちを何人救えるか分からないのに、たった数年の寿命を、子供自身にとっては苦しみかもしれない時間を親のエゴイズムで引き延ばすためだけに大金かけて海外まで行ってその国の子供の死を待つ、という行為に抵抗を感じざるを得なくて(-_-;))、恐らく移植を待つ患者の家族の立場からすれば「あなたを連れて行かないで」と必死なんだな、って。邦訳タイトル『わたしを離さないで』ですが、「わたしを行かせないで」とも訳せるし、meがyouになったらますます「行かせないで」と、“わたし”でも“あなた”でもない、第三者に対する懇願の形式になりますよね。それを病という死神と捉えれば良いのか、クローンを生み出し消費する一般的な人間たちと捉えれば良いのか、あるいは彼らの悲痛を知りつつも敗北した先生やマダムたちに向けてのものと捉えれば良いのか、その全てなのかは分からないけれど・・・「提供者」となるべく生み出されてしまったクローンの側にも、親しい人の回復を懸命に願う人間の側にも同情し過ぎてしまって境界線がわからなくなった。

どうしてこんなことになったんだろう?こんなことが許される社会に。試験管で臓器だけって作れなかったの?i○s細胞みたいにさ!だから、真実を知らされたトミーの「ルーシー先生は正しかった」って癇癪を起こす心情は心から理解できた。だって、いずれどうにもならないことなら、猶予も何ももらえずに死んでいくだけの命なら、それが運命なら、感情なんていらなかっただろう。誰かを愛しいと思う気持ち、もっと生きたいと願う欲望、好きな人に格好の悪い最期の姿をさらしたくないというプライドも、それでも傍にいてほしい、少しでも長く一緒にいたいと祈る矛盾した本音も。自分を表現する喜びも、目的も、達成感も、スポーツの楽しさも、妄想にふける秘密の時間も。世間から人間ではないものとして見られ、扱われていることさえ知らずに、彼らは人として育ち、人として気持ちが揺れ動くこと、それを伝えること、悲しみ、喜び、愛することを知り、それ故にこそ苦しんで、もがいて・・・でも彼らが誰よりも信頼していた先生とマダムは「彼らがそれを知ったことこそが、“人間”らしく生き、成長したことこそが最大の功績」だと語る。そんな理不尽なことってあるか、結局計画が失敗に終わり意気消沈しつつ、これから本当に失われゆく“命”(脳があって心臓が動いているなら、クローンだってそれは立派な命に違いない)に向かって何て残酷な自己満足をぶつけるのだろう。この辺私もトミーと同じくらい胸を掻きむしりたくなりました。彼女たちにとっては、それが精いっぱいだったのだろうけれど。
作者は――キャシーは、それでも彼女たちによって彼らが“人間”らしくなれた、ただのクローンではなく、間違いなく一人の“人間”として生きることができたのだ、とその意義を最後には肯定的に描いているように感じたけれど。私だったら、何も知らず人形のように育てられ、死への恐怖や自身の存在意義を疑うことなく提供の日を待つ方がよっぽど気が楽になると思う。でもそうしたら、投げやりで無気力で自分の身体を大切にすることさえしなくなるかもしれない、と考えるとエミリ先生の方針が正しい、と言えるかもしれないし、彼女も「より健全な肉体から臓器を受け取るために」その方が理に適う、という方向で社会を説得すれば良かったのかもしれない。

「ルースと知り得た真実を分かち合いたかった」と話すキャシーに「ルースは知りたがりやの俺たちとは違って信じたがりやだから、知らない方が良かった」と答えるトミーに、あぁ、何だかんだ言ってコッチはコッチで通じ合っているところも確かにあったんだな、と納得。だからルースはあんなに必死に虚勢を張り、“本当のことは何も知らない=知り得たことの何もかもが嘘かもしれない”世界を懸命に否定していたんだ(゜Д゜)ピコーン! それでも、彼女とソレを分かち合えたら、と願わずにはいられないキャシーに、やはりルースは彼女にとってトミーとは違った意味で魂の片割れ、重荷を半分背負ってくれるはずの大切な存在だったのだ、と改めて切り離せない三人の関係にしんみりする。「提供者になったことがないからわからない」と言われた際にルースの名前を出されてキャシーが愕然とするくだりもそうですよね。「二人に置いて行かれた」って。
でもトミーはそういうことが言いたかったんじゃなくて、彼のキャシーへの恋心を察していたルースなら臨終の見っともない苦しみとどうしようもない別れの辛さを、愛する彼女の前でさらけ出したくない、という気持ちを汲み取ってくれただろう、という意味で告げた言葉だったのに(´;ω;`)ブワッ ソウルメイトの同性の親友とは訳が違うもん、苦しみも情けなさも悲しみも何もかもを分かち合うような関係ではなく、最後まで綺麗な想い出にしておきたかったんだよ、トミーは。それほどに愛していた、大切だった、と。何かルースの時とは違った方向の、やっぱり確かな絆が、愛がうかがい知れてここもガン泣きするシーンだったな。・゜・(ノД`)・゜・。三年よりはるかに短くても、確かに愛し合えた“猶予”の時間が二人には存在したんじゃないか、それは他の「提供者」が望んでも中々得られることのない、長い長い真実の愛を、まごうかたなき人間である証を二人が立てられた、それを知れただけで十分に幸せな人生を得られたと言っても良いんじゃないか、と考えてしまうのは“人間”側の奢りだろうか?とか、トミーの別れ際のセリフに色々グルグル考えさせられてしまった。少なくとも私よりは、二人の方がよっぽど人間らしくマトモに生きてるよ(笑)

そして最後のキャシーの、穏やかな独白の締めくくりが、これまでの生き方に何の後悔もない、ただひたすらに二人を失った寂しさだけが存在するけど、二人と出会えたこと、過ごしたこと、そして喪う悲しみを味わえた自分自身に満足しているように感じたんです。だから、個人的に「生徒たち」の立場で考えれば肯定はできなかったけれどエミリ先生の理想は正しかったのだ、と。作者もそれを強調したくて、語り手を誰よりも冷静に周囲を見渡す能力がありながら、同時に感受性の強さも持ち合わせたキャシーという女性に託し、人間、ひいては命というものの全てを肯定し、改めて考えさせるストーリーに持って行ったのではないか、と。そう、否定がないんです!それだ傷口にヨードチンキ、っつーかイギ○ス感が薄れるラスト!各々のキャラに様々な見方・主張を代弁させた上でどれが正しいという答えを提示せず、曖昧模糊として読み手側に自由に受け止めさせる結末なんですよ。痛いのに、苦しいのに、悩んでいるのにその手法によってどこかホッとさせられてしまう(´Д`;)=3 「皆さん、この出来事について善か悪か、あるいはこの場面でどうすべきだったのか考えてみましょう!」と議論を促す感じじゃなくて、各自が考えたことを白黒付けずありのままに心に秘めてて良いんだよ、ただずっと覚えていて、忘れないで考えてね、って心の中で静かに囁かれたような。
「ヘールシャムは私の頭の中に安全に保存されている」このくだりに、作者さんが小説を書き始めたきっかけが「幼い頃のおぼろ気に覚えている思い出の中の日/本」を保存しておくため、と何かの講演で語っていたエピソードを思い出した。ドンドン変わっていく世界の中で、彼にとってのキーワードは“記憶の保存”。その後書きたいテーマさえ決まっていれば好きに場所や時代を動かせることに気づいてしまい、逆にそれを絞るのに難儀するようになった、という話も面白かったけど。そうかもしれない、“書く”という行為の原初的な目的は、日々蓄積され脳みその容量からはみ出していく膨大な情報の中から、どうしても忘れたくないもの、忘れてはいけないものを残すための手段だったんだ、と。たぶん名前だけは海外系のサイトでしょっちゅう見かけて気になっていたカズオ・イシグロに初めて興味を抱いたのはあの番組を観てのことだったかな? だから、答えを出さない作者の写し身がキャシーなんだ、と性別は違うけど感じたのかな。単に一人称だったからかもしれないけど(・・;)

いや次は『箱男』に行く予定なんだけど、全然違ったノリらしい『日の名残り』も楽しみやなー(´∀`)♪

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