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ちょうどドラマの今日やってたシーンまで読み終わったとこ。(※ディ―プかもしれない自分語り含みますm(__)m)
色々改変されてるんやなー、とかやっぱり舞台を日/本に置き換えると不自然、とか思いつつも、号泣したよね(^∀^)゜σヒャーハッハッハ・・・ハ・・・ブワッ。・゜・(ノД`)・゜・。ビエエエーン! いやあの、原作では割とアッサリ目?というか淡々とした文体で(えげつないストーリーや主人公のキャラクター設定に不必要な感傷を織り込ませないためにちょうど良いバランスだとは思う。イギ○スらしい表現方法とも言えるし。でも決して主人公キャシー@ドラマ版:キョウコが冷たい人間ではなく、必死に激しい感情を押し込めるため、彼女の最も大事なものとの想い出を語ることによって人としての尊厳を保つべく独白しているのだ、という空気が出だしからずっと行間に漂い続けているように感じるから。)描かれるルース@ドラマ版:ミワとの別れが、ドラマVer.では真に迫るものになっていてすごく泣けた(´;ω;`) やり過ぎと捉える人もいるかもしれないけど、私がずっと本の中でルースについて感じていたことをよりハッキリと分かりやすく表す演出・脚本に仕上がっているのではないか、と。(前回ラスト10分+今回観た限り)ただ学園の設定や現在の生徒たちとの遭遇シーンなんかはちょっとアレな予感がしなくもないけど、そこはお国柄という事情もあるんでしょうしね。(今日出てきた回想見た感じセック○やお付き合いについての表現や在り方もそうかな? 寄宿舎付きの閉鎖的な学校とかこっちじゃあんまり無いしねー。イギリ○にはモデルに出来そうなパブリック・スクールなんかもあるけど)
ドラマの中で「キョウコになりたかった。でもなれないから、キョウコが欲しかった。だからトモ@原作版:トミーとの仲を裂いた」と他ならぬキョウコに対し打ち明けるミワのセリフからの「キョウコがいれば強くなれた。何でもできる気がした。私には宝箱なんていらなかった。だって私の宝物(=キョウコ)は箱になんか入らないものだから」そして最後の最後に、「わたしを離さないで!」とキョウコにミワが叫びすがりながら手術台に乗せられる場面は実に秀逸。この作品はキャシーとトミーの恋愛?の顛末がもちろん一つの主軸となる縦糸ではあるけど、絶対に欠かすことができないキャシーとルースの、何て言えば良いんだろう?友情と言うには深すぎる、けれど決して同性愛の域でもない、一番綺麗で同時に醜くて、互いが互いの鏡で片割れで、何で男の作者さんに女同士のここまで微妙な関係を描けたのか謎なくらい理解できてしまう自分が不気味なんだけど、そういうテーマがもう一つの横糸を成してもいるわけですよね。作者さんは特別な環境で育てられた、家族のいない子供たちが無意識にソレに近い存在を求めた時どう動くのか、って考えて編み出したキャラクターなのかもしれないけれど(・・;)
正直、私も幼なじみとの関係がちょっと特殊な方向に濃い、とここでもぶっちゃけて来ているので・・・何か物凄くシンクロしてしまうんですよ。キョウコだったりミワだったり、どっちかというとミワ寄りの扱いにくい子だったかな?私の方が。偉そうに仕切ったり知ったかぶりする一方で素直で優しい彼女に憧れ、こんな女の子になりたいな、って服のアドバイスとかもらったり化粧品のことも相談するし。私は一人っ子期間が長くて親が共働きだったので、何かあって親がどうしても仕事を休めず保育所も閉まっていたり行けない状態の時、大概預けられるのは彼女の家で。だから実の妹弟よりずっと長く一緒にいて、ある意味で家族より私のことを何でもわかっている相手なんじゃないかと。(この話もしつこくしてしまっていると思うけど)だから、ミワの気持ちが解りすぎて(つД`) 我ながらホント重いなー、と感じるんだけどね(^^;あともし私がキョウコの立場なら、男取られようが何しようが絶対に相手を憎みきることなんかできないし(もちろん小さい頃からケンカも沢山しましたが)、犯罪犯しても何してでもミワのこと連れ出して逃がすのに、とも感じた。例え残されている時間が少なくても、むしろ彼女とトモのために猶予を願い出ても良い、代わりに自分の臓器使ってくれ、って。何が「天使」だクソ食らえこのヤロー!><と施設に殴り込みかける勢いで(笑)
あっ、別にだからと言って彼女を所有したいとかいう願望はなくて、旦那にも全然嫉妬感じないし(そりゃ嫁に行かれる時は物理的距離も生じるわけだし寂しかったけど、新幹線と電話とネットがある現代社会なんで・・・ぶっちゃけ特に何も変わってないかなー、と(;・ω・) アチラには多少迷惑なことかもしれませんが。笑)、子供は自分の子のように可愛いんですけどね。(だから性自認について打ち明けた後、彼女がお子さんに向かって「ケイトは二人目のママみたいなもんだからね」と言ってくれたことが泣きそうなほど嬉しかった)前にもどっかで書いたけど、早生まれの子が大体周りに対して感じるという焦りを誕生日十日と離れていない彼女と一緒にいたことでそれほど感じずに済んだこと、お互いに引っ越して本当に幼い頃からの思い出を共有できる相手がお互いしかいなくなってしまったこと、その後も習い事で毎週顔合わせていたり、学校はずっと別々でも共通の友達がいた環境、親同士の縁が続いてきたことが何だかんだと不思議に今までうちらを繋いできたんだとは思うけど、途中からホント馬鹿みたいに話の中の二人に自分たちを重ねてしまって(-_-;) もちろん一人の男を争った経験なんて無いし、同じ学校でもなかったわけだから作中の二人と比べられるほど濃ゆい関係ではないんだけど、執着というか依存の形態が(私の側だけかもしれないけど)若干似てるように感じてしまったんだよね。たぶんミワにとってキョウコに代わる存在はどこにもいなくて、キョウコだけが彼女をこの世に繋ぎ止めてくれるたった一人の人、例えいつか失われる命でも、まだ生きて地に足を付けているんだ、という実感を持たせてくれる唯一の存在だったんだろうなぁ、とか。あーもうホント気持ち悪いっすね自分!\(^O^)/
だから、最後の最後にミワはキョウコの幸せを願ったんだよね。原作では死に行く者のキリ○ト教的懺悔と償いの意味だったのかもしれないけれど。あと原作におけるキャシーとトミーの関係性、ルースが恋愛やセッ○スといった介入によって引き裂いたつもりでいても決して途切れなかった心の触れ合いというか絆は、彼女にとって、イヤ彼女たちのように生まれてきた存在全てにとっての希望のように、まさに眩く映っていたんじゃないかな、と。トミーを馬鹿にしていたルースが彼と付き合い出したのは、確かにキャシーが理由で間違いはないと思う。ただ、ドラマのようにキャシーを手に入れたいという子供じみた願望よりも、本当にこうした「邪魔」をすることによって絆は断ち切られないのか、心から通じ合った者たちの間に変化は起きないのか、という実験がしたい、という少し意地悪めいた、けれども純粋な好奇心や羨ましさ(やっかみや嫉妬と呼ぶには綺麗すぎるもの)といった動機があったようにも見える。そして実際にそうなってからもキャシーとトミーは何かあれば話し合い、大事なことは打ち明け分かち合ってきた。他のことでルースと気まずくなったり苛立っても、キャシーはトミーとの交際に対する嫉妬だけは親友に決して見せず、普通に他のBFやセ○レを見繕う始末。一方でトミーの方はルースと付き合ってやることやっときながら、実際にはいつも他に「最も気にかかる大事なこと」があり、それを相談するのはキャシーだった。「一番頼りになるのはキャス」ルースもその言葉に同意していたからこそ、何だかんだ言ってトミーと長く付き合っていられたのかもしれない。たぶんドラマ版では同じ相手を愛し、原作では少なくとも必要としていたからこそ。
介護人としての評価も高いキャシーは、恐らく人の心に寄りそい、スルリと滑り込むのがとても上手な女性なのだと感じる。よく人を観察し、見分け、その場で求められる空気が読める。(この辺、あえて口に出して互いを刺激し合い、複雑な心理ゲームを楽しむ文化のイギリ○と、よくよく考えて自分の中で折り合いを付けてからやっと相手に対して言葉を発する文化の日.本、両方のルーツを持つ作者さんならではの性格付けと言えるかもしれない)だから、そんなキャシーをプライドの高い仕切屋ルースは常に傍に置き従えていたかったのだろうし、癇癪持ちの問題児トミーは自らの理解者として彼女との繋がりを欲し続けたのだと思う。
今は一気に読み進めたのとドラマ版の衝撃でグチャグチャになってるので、読み終えたらマトモな感想まとめたいと思いますm(__)m
ドラマの中で「キョウコになりたかった。でもなれないから、キョウコが欲しかった。だからトモ@原作版:トミーとの仲を裂いた」と他ならぬキョウコに対し打ち明けるミワのセリフからの「キョウコがいれば強くなれた。何でもできる気がした。私には宝箱なんていらなかった。だって私の宝物(=キョウコ)は箱になんか入らないものだから」そして最後の最後に、「わたしを離さないで!」とキョウコにミワが叫びすがりながら手術台に乗せられる場面は実に秀逸。この作品はキャシーとトミーの恋愛?の顛末がもちろん一つの主軸となる縦糸ではあるけど、絶対に欠かすことができないキャシーとルースの、何て言えば良いんだろう?友情と言うには深すぎる、けれど決して同性愛の域でもない、一番綺麗で同時に醜くて、互いが互いの鏡で片割れで、何で男の作者さんに女同士のここまで微妙な関係を描けたのか謎なくらい理解できてしまう自分が不気味なんだけど、そういうテーマがもう一つの横糸を成してもいるわけですよね。作者さんは特別な環境で育てられた、家族のいない子供たちが無意識にソレに近い存在を求めた時どう動くのか、って考えて編み出したキャラクターなのかもしれないけれど(・・;)
正直、私も幼なじみとの関係がちょっと特殊な方向に濃い、とここでもぶっちゃけて来ているので・・・何か物凄くシンクロしてしまうんですよ。キョウコだったりミワだったり、どっちかというとミワ寄りの扱いにくい子だったかな?私の方が。偉そうに仕切ったり知ったかぶりする一方で素直で優しい彼女に憧れ、こんな女の子になりたいな、って服のアドバイスとかもらったり化粧品のことも相談するし。私は一人っ子期間が長くて親が共働きだったので、何かあって親がどうしても仕事を休めず保育所も閉まっていたり行けない状態の時、大概預けられるのは彼女の家で。だから実の妹弟よりずっと長く一緒にいて、ある意味で家族より私のことを何でもわかっている相手なんじゃないかと。(この話もしつこくしてしまっていると思うけど)だから、ミワの気持ちが解りすぎて(つД`) 我ながらホント重いなー、と感じるんだけどね(^^;あともし私がキョウコの立場なら、男取られようが何しようが絶対に相手を憎みきることなんかできないし(もちろん小さい頃からケンカも沢山しましたが)、犯罪犯しても何してでもミワのこと連れ出して逃がすのに、とも感じた。例え残されている時間が少なくても、むしろ彼女とトモのために猶予を願い出ても良い、代わりに自分の臓器使ってくれ、って。何が「天使」だクソ食らえこのヤロー!><と施設に殴り込みかける勢いで(笑)
あっ、別にだからと言って彼女を所有したいとかいう願望はなくて、旦那にも全然嫉妬感じないし(そりゃ嫁に行かれる時は物理的距離も生じるわけだし寂しかったけど、新幹線と電話とネットがある現代社会なんで・・・ぶっちゃけ特に何も変わってないかなー、と(;・ω・) アチラには多少迷惑なことかもしれませんが。笑)、子供は自分の子のように可愛いんですけどね。(だから性自認について打ち明けた後、彼女がお子さんに向かって「ケイトは二人目のママみたいなもんだからね」と言ってくれたことが泣きそうなほど嬉しかった)前にもどっかで書いたけど、早生まれの子が大体周りに対して感じるという焦りを誕生日十日と離れていない彼女と一緒にいたことでそれほど感じずに済んだこと、お互いに引っ越して本当に幼い頃からの思い出を共有できる相手がお互いしかいなくなってしまったこと、その後も習い事で毎週顔合わせていたり、学校はずっと別々でも共通の友達がいた環境、親同士の縁が続いてきたことが何だかんだと不思議に今までうちらを繋いできたんだとは思うけど、途中からホント馬鹿みたいに話の中の二人に自分たちを重ねてしまって(-_-;) もちろん一人の男を争った経験なんて無いし、同じ学校でもなかったわけだから作中の二人と比べられるほど濃ゆい関係ではないんだけど、執着というか依存の形態が(私の側だけかもしれないけど)若干似てるように感じてしまったんだよね。たぶんミワにとってキョウコに代わる存在はどこにもいなくて、キョウコだけが彼女をこの世に繋ぎ止めてくれるたった一人の人、例えいつか失われる命でも、まだ生きて地に足を付けているんだ、という実感を持たせてくれる唯一の存在だったんだろうなぁ、とか。あーもうホント気持ち悪いっすね自分!\(^O^)/
だから、最後の最後にミワはキョウコの幸せを願ったんだよね。原作では死に行く者のキリ○ト教的懺悔と償いの意味だったのかもしれないけれど。あと原作におけるキャシーとトミーの関係性、ルースが恋愛やセッ○スといった介入によって引き裂いたつもりでいても決して途切れなかった心の触れ合いというか絆は、彼女にとって、イヤ彼女たちのように生まれてきた存在全てにとっての希望のように、まさに眩く映っていたんじゃないかな、と。トミーを馬鹿にしていたルースが彼と付き合い出したのは、確かにキャシーが理由で間違いはないと思う。ただ、ドラマのようにキャシーを手に入れたいという子供じみた願望よりも、本当にこうした「邪魔」をすることによって絆は断ち切られないのか、心から通じ合った者たちの間に変化は起きないのか、という実験がしたい、という少し意地悪めいた、けれども純粋な好奇心や羨ましさ(やっかみや嫉妬と呼ぶには綺麗すぎるもの)といった動機があったようにも見える。そして実際にそうなってからもキャシーとトミーは何かあれば話し合い、大事なことは打ち明け分かち合ってきた。他のことでルースと気まずくなったり苛立っても、キャシーはトミーとの交際に対する嫉妬だけは親友に決して見せず、普通に他のBFやセ○レを見繕う始末。一方でトミーの方はルースと付き合ってやることやっときながら、実際にはいつも他に「最も気にかかる大事なこと」があり、それを相談するのはキャシーだった。「一番頼りになるのはキャス」ルースもその言葉に同意していたからこそ、何だかんだ言ってトミーと長く付き合っていられたのかもしれない。たぶんドラマ版では同じ相手を愛し、原作では少なくとも必要としていたからこそ。
介護人としての評価も高いキャシーは、恐らく人の心に寄りそい、スルリと滑り込むのがとても上手な女性なのだと感じる。よく人を観察し、見分け、その場で求められる空気が読める。(この辺、あえて口に出して互いを刺激し合い、複雑な心理ゲームを楽しむ文化のイギリ○と、よくよく考えて自分の中で折り合いを付けてからやっと相手に対して言葉を発する文化の日.本、両方のルーツを持つ作者さんならではの性格付けと言えるかもしれない)だから、そんなキャシーをプライドの高い仕切屋ルースは常に傍に置き従えていたかったのだろうし、癇癪持ちの問題児トミーは自らの理解者として彼女との繋がりを欲し続けたのだと思う。
今は一気に読み進めたのとドラマ版の衝撃でグチャグチャになってるので、読み終えたらマトモな感想まとめたいと思いますm(__)m
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ドラマの中で「キョウコになりたかった。でもなれないから、キョウコが欲しかった。だからトモ@原作版:トミーとの仲を裂いた」と他ならぬキョウコに対し打ち明けるミワのセリフからの「キョウコがいれば強くなれた。何でもできる気がした。私には宝箱なんていらなかった。だって私の宝物(=キョウコ)は箱になんか入らないものだから」そして最後の最後に、「わたしを離さないで!」とキョウコにミワが叫びすがりながら手術台に乗せられる場面は実に秀逸。この作品はキャシーとトミーの恋愛?の顛末がもちろん一つの主軸となる縦糸ではあるけど、絶対に欠かすことができないキャシーとルースの、何て言えば良いんだろう?友情と言うには深すぎる、けれど決して同性愛の域でもない、一番綺麗で同時に醜くて、互いが互いの鏡で片割れで、何で男の作者さんに女同士のここまで微妙な関係を描けたのか謎なくらい理解できてしまう自分が不気味なんだけど、そういうテーマがもう一つの横糸を成してもいるわけですよね。作者さんは特別な環境で育てられた、家族のいない子供たちが無意識にソレに近い存在を求めた時どう動くのか、って考えて編み出したキャラクターなのかもしれないけれど(・・;)
正直、私も幼なじみとの関係がちょっと特殊な方向に濃い、とここでもぶっちゃけて来ているので・・・何か物凄くシンクロしてしまうんですよ。キョウコだったりミワだったり、どっちかというとミワ寄りの扱いにくい子だったかな?私の方が。偉そうに仕切ったり知ったかぶりする一方で素直で優しい彼女に憧れ、こんな女の子になりたいな、って服のアドバイスとかもらったり化粧品のことも相談するし。私は一人っ子期間が長くて親が共働きだったので、何かあって親がどうしても仕事を休めず保育所も閉まっていたり行けない状態の時、大概預けられるのは彼女の家で。だから実の妹弟よりずっと長く一緒にいて、ある意味で家族より私のことを何でもわかっている相手なんじゃないかと。(この話もしつこくしてしまっていると思うけど)だから、ミワの気持ちが解りすぎて(つД`) 我ながらホント重いなー、と感じるんだけどね(^^;あともし私がキョウコの立場なら、男取られようが何しようが絶対に相手を憎みきることなんかできないし(もちろん小さい頃からケンカも沢山しましたが)、犯罪犯しても何してでもミワのこと連れ出して逃がすのに、とも感じた。例え残されている時間が少なくても、むしろ彼女とトモのために猶予を願い出ても良い、代わりに自分の臓器使ってくれ、って。何が「天使」だクソ食らえこのヤロー!><と施設に殴り込みかける勢いで(笑)
あっ、別にだからと言って彼女を所有したいとかいう願望はなくて、旦那にも全然嫉妬感じないし(そりゃ嫁に行かれる時は物理的距離も生じるわけだし寂しかったけど、新幹線と電話とネットがある現代社会なんで・・・ぶっちゃけ特に何も変わってないかなー、と(;・ω・) アチラには多少迷惑なことかもしれませんが。笑)、子供は自分の子のように可愛いんですけどね。(だから性自認について打ち明けた後、彼女がお子さんに向かって「ケイトは二人目のママみたいなもんだからね」と言ってくれたことが泣きそうなほど嬉しかった)前にもどっかで書いたけど、早生まれの子が大体周りに対して感じるという焦りを誕生日十日と離れていない彼女と一緒にいたことでそれほど感じずに済んだこと、お互いに引っ越して本当に幼い頃からの思い出を共有できる相手がお互いしかいなくなってしまったこと、その後も習い事で毎週顔合わせていたり、学校はずっと別々でも共通の友達がいた環境、親同士の縁が続いてきたことが何だかんだと不思議に今までうちらを繋いできたんだとは思うけど、途中からホント馬鹿みたいに話の中の二人に自分たちを重ねてしまって(-_-;) もちろん一人の男を争った経験なんて無いし、同じ学校でもなかったわけだから作中の二人と比べられるほど濃ゆい関係ではないんだけど、執着というか依存の形態が(私の側だけかもしれないけど)若干似てるように感じてしまったんだよね。たぶんミワにとってキョウコに代わる存在はどこにもいなくて、キョウコだけが彼女をこの世に繋ぎ止めてくれるたった一人の人、例えいつか失われる命でも、まだ生きて地に足を付けているんだ、という実感を持たせてくれる唯一の存在だったんだろうなぁ、とか。あーもうホント気持ち悪いっすね自分!\(^O^)/
だから、最後の最後にミワはキョウコの幸せを願ったんだよね。原作では死に行く者のキリ○ト教的懺悔と償いの意味だったのかもしれないけれど。あと原作におけるキャシーとトミーの関係性、ルースが恋愛やセッ○スといった介入によって引き裂いたつもりでいても決して途切れなかった心の触れ合いというか絆は、彼女にとって、イヤ彼女たちのように生まれてきた存在全てにとっての希望のように、まさに眩く映っていたんじゃないかな、と。トミーを馬鹿にしていたルースが彼と付き合い出したのは、確かにキャシーが理由で間違いはないと思う。ただ、ドラマのようにキャシーを手に入れたいという子供じみた願望よりも、本当にこうした「邪魔」をすることによって絆は断ち切られないのか、心から通じ合った者たちの間に変化は起きないのか、という実験がしたい、という少し意地悪めいた、けれども純粋な好奇心や羨ましさ(やっかみや嫉妬と呼ぶには綺麗すぎるもの)といった動機があったようにも見える。そして実際にそうなってからもキャシーとトミーは何かあれば話し合い、大事なことは打ち明け分かち合ってきた。他のことでルースと気まずくなったり苛立っても、キャシーはトミーとの交際に対する嫉妬だけは親友に決して見せず、普通に他のBFやセ○レを見繕う始末。一方でトミーの方はルースと付き合ってやることやっときながら、実際にはいつも他に「最も気にかかる大事なこと」があり、それを相談するのはキャシーだった。「一番頼りになるのはキャス」ルースもその言葉に同意していたからこそ、何だかんだ言ってトミーと長く付き合っていられたのかもしれない。たぶんドラマ版では同じ相手を愛し、原作では少なくとも必要としていたからこそ。
介護人としての評価も高いキャシーは、恐らく人の心に寄りそい、スルリと滑り込むのがとても上手な女性なのだと感じる。よく人を観察し、見分け、その場で求められる空気が読める。(この辺、あえて口に出して互いを刺激し合い、複雑な心理ゲームを楽しむ文化のイギリ○と、よくよく考えて自分の中で折り合いを付けてからやっと相手に対して言葉を発する文化の日.本、両方のルーツを持つ作者さんならではの性格付けと言えるかもしれない)だから、そんなキャシーをプライドの高い仕切屋ルースは常に傍に置き従えていたかったのだろうし、癇癪持ちの問題児トミーは自らの理解者として彼女との繋がりを欲し続けたのだと思う。
今は一気に読み進めたのとドラマ版の衝撃でグチャグチャになってるので、読み終えたらマトモな感想まとめたいと思いますm(__)m
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