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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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砂嵐ちゃん勝ち越し幕内復帰ワーイヽ(´∀`)ノ

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母に『わたしを離さないで』「ちっとも理解も共感もできないし、意味不明でモヤモヤして嫌いだった」と突っ返されたわけだが(^ω^) 『斜陽』もそうだったらしい。つーか津軽の人のT島家への憎しみは本物(D宰の人格・作品否定はもちろんのこと、娘二人の書いたものまで読んだ上でどっちも大嫌い、と切り捨ててくる。笑)なので、ファンの方うっかり地元訪問♪気分で現地の人間相手にその意図を前面に出していかない方が良いですよ!イヤしかし親と共感の感情を分かち合えないのって、よくあることだけど地味にショックやなー。まぁ私も流行りの医療系だの時代劇だののシリーズもの手に取る気にもなれなかったり、サスペンス・ミステリー系に興味なくて申し訳ない部分はお互い様かもしれないんだけどさ。私はこういう話のこういう人物、こんな結末に感動する人間なんだ、っていうのを一番わかってほしいという甘えが働くのが身内だからなんでしょうね。
子供を持てないこと、真っ当な人間にはなれないこと、世の中が不条理に満ちたものだと思っていること、それでもその全てをありのままに受け入れられたらという願望。どうしようもない弱さを抱えるが故に強くなり得る人間という存在と、世界の営みを愛おしむ気持ち。伝わらないんだな、って。イシグロ氏とD宰がダメって言うなら、公房さんなんか何じゃこりゃ?状態ですよね(^^; 気取っているつもりはないけれど、何か哀しい・・・ひたすら哀しい。彼の作品の全てに私が、私の理想と現実が込められている気がするのに。『壁』第二部まで読んで、あっそういえば『神曲』読まなきゃ、と思い出した(´-`) でも次はとりあえず『人間失格』行っときたいし、なるべく早くブクオフ行ってホームズ見繕いたい気持ちが今は強いんですけどね(笑)せめてちょっと施設と復帰の方法の目処が立つくらいまで・・・わぁいダメ人間!ヽ(・∀・)ノ
こうなるから、読書はやっぱり孤独な対話の世界と捉えないとやってけないのかも。SNSやゲームが充実すればするほど進む読書離れ、出版不況、唯一儲けが出そうなのはメディアミックス可能なお手軽ミステリー・医療・時代劇シリーズやラノベだけ・・・いわゆる「文学」カテゴリーはコアな趣味の範囲の大衆に理解されない「芸術」のような扱いになってしまっているのかもしれない(´・ω・`) そりゃ作家さんだって育たないはず、真面目に書きたいもの追求してたらその道で食べていけないんだもん。シリーズ系の出版スピード見ると正直言って恐ろしいですよね。自分が作品の中で伝えたいことや表現したいキャラ造詣について考える暇すらないんじゃない? 編集や「ファン」の意向で与えられたテンプレート通りこなせば良いから苦ではないのかもしれないけど、物書きとして虚しくならないのかな?って(-_-;) 決して高尚な世界に浸りきっているとか見下しているわけではないんだけど、目の疲れや費やすお金・時間のことを考えると、どうせなら読む本はできる限り吟味したいんだよね。だからポケットマスターピースのあのザマにもすっかり凹んでしまっているわけで>< どこまでもいつまでも一人で、一人っきりで本だけの海に沈んでいられたらなぁ。


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第一部読了。※現代文学への辛口含みますm(__)m

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クッソやべぇ(笑)昔のA川賞って最高だな!(ノ∀`) 後の『砂の女』や『箱男』に通じる物質や存在の不確かさ、W W 2の前後に世界中を席巻した(ということが最近立て続けに読んだこの時代舞台の小説によって改めて思い知らされた)「革命」的社.会主義思想への鋭い考察や批判をも含む、カオスな中に彼自身の主義主張や意見が垣間見えるようでいて、やっぱりそういうものは単なる洞察に過ぎない、読み手を振り回す楽しい実験的お遊びにこちらが付き合わされているような不思議な感覚。だが決して不快ではない。面白い!えー、このレベルの作家さん、どっかにまた現れてくれないかなぁ? 何で日/本の純文つーか某賞のレベルあそこまで退化しちゃったの? M吉に業界ネタ以外の話書けると思う? 所詮ハルキを崇めているようななんちゃって読書家の域を出ないのに?(;´д`) 台.湾出身の方のヤツはルーツ含め面白そうだから文庫化したら読んでみたいと思ってるけどさ。

I川氏による壁についての序文から始まり、名前をなくした主人公という一見何の関係もなさそうな奇妙な出だし、この時点でワクワクが止まらないのだが、一転主人公の胸のどうしようもない虚無感「空っぽ」のもの寂しさが、人生通してずっと自分が自分に対して感じてきた思いと重なり過ぎてつい込み上げてくるものが(´;ω;`) 名前を奪った犯人は他ならぬ「名刺」でつまり名前自らに逃げ出されてしまったのだ、という事実に愕然とする主人公。名前をなくしたことによって心が空っぽになる、じゃあ私も名前をなくせば存在を消せるのだろうか、とか色々病んだ方向に考えてしまった(^^; イヤこの現代社会で名前を持たないことがどんな重大な意味を持つかはよく分かっておりますが・・・。
病院の待合室の雑誌に写った曠野の風景に、『砂の女』の砂丘の原型を見たような。どこまでも絶対的な不動の塊である壁と、流動する物質である砂との対比、あるいはどちらにせよソレに閉じ込められ、運命を支配される人間の物悲しさに変わりはない、とかそういうことを一連の作品で表現したかったのかな(・・;) 名前を忘れ「十五番さん」と呼ばれて喜ぶ主人公はマイナ○バー制度の良い広告塔になりそうだな!(笑)私もこの番号制好き。食堂とか、公共の場で名前知られたくないし管理する方も便利じゃん。親しい関係の相手でもない限り個を認識されたくないんですよ、その他大勢に埋もれていたいから。空っぽ過ぎて何でも吸い込んでしまうほどの「ぼく」の胸の陰圧を「許容すべきでない非科学的な事実」「市民社会の秩序を乱す実証精神に対する侮辱」と言うドクトル。「異常ではないとは認めがたい。」との診断で窓から突き落とされた主人公は並木の下の画家に問う、「描かないで何を待っているのか?」と。「何を待っているか、それが分るくらいなら、誰も待ったりはしません。」この答え、深いっつーか何故か共感した。私も動かずにただ待ってるだけ。審判かもしれないし、ただの終わりかもしれないし、救い出してくれる何かかもしれない。でもいつまでも待っている余裕は現実の世界には存在しないんだよね・・・(´-`)

動物園に行き、彼が胸の中に吸いとってしまった曠野に惹かれて寄ってくる動物たち、取り分け美しい瞳のラクダを吸いとりたい誘惑に「ぼく」は必死に抗う。「あくまでも自分自身でありたい」という最後の人間としてのプライドのために。けれどそこから事態は急転直下、彼は「被告」として知人だらけの裁判の席に立たされることに。胸の陰圧によって見たもの全てを吸いとってしまう主人公は有罪か無罪か? 喚問された証人の中で彼を無罪だと庇ってくれたのは会社のタイピストY子ただ一人。「ぼく」の中で急激に大きくなっていくその存在と彼女への想い。「白黒がハッキリしないなら裁判の意味がない」とか抜かしやがる法学者()に哲学者が睡そうに告げる言葉の矛盾がヒャーッハッハ!(^∀^)σ「もし裁判がなかったら被告というものもなく、被告というものがなくなれば犯罪も不可能になる。犯罪が不可能ということは、物を盗りたいと思うものがあっても盗り得ないということ。従って物を盗りたいものが自由に物を盗れるためにこそ、裁判が必要とされる」「この裁判が行われている事実は被告が有罪を望んでいる証拠」な ん と い う(呆)
「そんな馬鹿な理屈があるものですか!」と当然激昂する常識人Y子を「理屈が馬鹿なものであることは昔から決っている」と切り捨て・・・意義深いがカオス極まりない問答が続いた末に何と第八の証人・食堂の少女が登場し、ようやく「被告が名前をどこかに落とした」という可能性が提言される。が、結局下された審判は名前を持たず法が適用されない状態の彼は「有罪でも無罪でもなく、またどちらでもある」よって永久に裁判が続き法廷は彼を追い続ける、というものだった(((゜ロ゜;)))gkbr 暗いトンネルを脱け出してY子と共に元の動物園に戻った彼は、今度はY子を空っぽの胸の内に吸収してしまいたいという誘惑に襲われる・・・何か段々主人公の気持ちに同調してきちゃうから怖いわ>< 名前が帰ってきて元の彼に戻るまで、目覆をしていない「ぼく」に近づく知り合いはいないのだろうか、と考え「自由をうばわれた孤独、それは独房の孤独」と表現する主人公にようやく壁と格闘する囚人・エドモンのような姿が見えてタイトルに近づいてきたような印象。

『箱男』貝殻草の夢のような情景の中で、無機物たちによる革命の決起を目撃する主人公。全ては逃げ出した「名刺」を主導者とする身の回り品の反乱に端を発するものだった、というおとぎ話のような展開に(笑)「死んだ有機物から生きている無機物へ!」矛盾極まりないスローガンを掲げた闘争はこの時代の若者たちを覆い尽くしていたイデオロギーと学生運動への容赦ない皮肉が覗いているような(-_-;) あるのか無いのか分からない革命歌に意味もなく歌声喫茶で繰り広げられる熱狂を、敵意を持たれることもなく道具として正しく愛用され続けながらその「搾取」に耐えられないとして持ち主への革命を起こそうとする姿に、大学という当時誰もが進めたわけではない高等教育の場で学ぶ権利を与えられながらその意味すら真面目に考えることもしなかった学生たちへの醒めた視線を、そして何より高尚な言葉で彩りながら無意味に相手を敵視する主義主張の空虚さが浮き彫りになって虚しくなる。一方で九十九神という発想がある日.本人ならではの、面白い暗喩・「革命」、搾取者が被搾取者を打倒するという構図の一定の正当性をも認めているのではないか、と考えられる部分もチラホラ。本当、掴めなくて不思議な作家さんや・・・(@_@;)  
一連の不可思議かつ不条理な出来事について思い起こしながら「ぼくは理性は人間を不自由にするものだと考えてきたけれど、こんな具合に理性が役立たなくなり自由がなくなると、必然と偶然のけじめがまるでなくなって時間はただ壁のようにぼくの行手をふさぐだけ。たとえすべてが想像だとしても、それがみんなに共通の想像であれば同じこと。現実からこのおかしな想像をマイナスすればいったい何が残るというのでしょう。」と考える。段々異常な状態に慣れすぎて感覚が麻痺していく主人公が切ない(つд`)

翌朝、現れた「パパ」に助けを求めてすがろうとする「ぼく」を彼は冷たく振りきろうとする。この「パパ」の正体は何だったのか、ちょっと最後までよく分からなかったでござる・・・orz 結局身の回り品の抵抗にあってY子との約束の時間に著しく遅れてしまった主人公。サラリーマン生活の虚しい描写は『砂の女』にも出てきたな。公房さん残酷で鋭すぎる!(*_*; そーしーて、何と発見した名刺と語り合うY子もまた人間を敵視する無機物・初恋のマネキンでした\(^o^)/ 「人間ってやつは悪をなさんと欲して善をなし、いや善をなさんとして悪を・・・下らないことに変りはない。やっかいな人間どもは堕落も異常も悪いことは全部おれたちになすりつけようとする。こうしたことは全部人間の卑劣な責任回避の口実にすぎない。・・・」この名刺の哲学の全てが私たちに突き付けられた強烈な現実への皮肉、当時ヒッピーが流行り物質社会や資本主義叩きが横行していた中で、結局必要最低限の物質に頼らずには生活ができないことや、批判が向けられる側の物質自体の立ち位置は私たち人間というものがこの世に現れ、彼ら「道具」を生み出した瞬間から使役され、搾取されるという意味では「革命」を求める労働者や若者たちと何も変わらないのだということ、色々考えさせられてしまいますね(・・;)

その後、かつてY子のマネキンと並んで立っていた男のマネキンに事態の解決法を示唆される「ぼく」。このマネキンの言う「検事も裁判官も何もかも委員たちが兼ねていて、歴史に記載されたすべての裁判があなたに関係しあなたの責任であるという論告になっている。なぜならそのどれにもあなたの名前が記載されていないから」「あなたの名前がないのだから、否認する根拠はない。あなたが名前を取戻すまで、そのあいだに起ったすべての事件がことごとくあなたの罪状として加えられてゆくわけですから、あなたが名前を取戻せば、まず死刑はまぬがれない」どこの共/産国家だよ!?(((゜ロ゜;)))gkbr
そしてマネキンは主人公が名前を取戻す可能性を否定し、名前がない彼には永久に法律の保護がなく裁判は不利になる一方だから、二重の苦難から逃れるために「世界の果」への逃亡を勧める。マネキンの語る「人権というのもつまりは名前に関するもの」というセリフは真理かもしれない。だからこそ他人の名前を汚すことが罪になるんや・・・ウンウン(-_-)) で、マネキンからビラと切符をもらって世界の果に関する講演会に向かう「ぼく」、もう異常を認識する気力もないみたい。講演を行う奇妙なせむし男が見せたのは例の曠野。そして世界の果の入口は自分の部屋の壁にあることに安堵する主人公。「かつて天動説が支配的だった時代、はるか遠くにあると考えられていた果は現代、地球が球体になって四方八方から追いつめられ、ほとんど一点に凝縮してしまった。それを想う人たちにとって、もっとも身近なものに変化した。みなさん自身の部屋が世界の果で、壁はそれを限定する地平線。真に今日的な旅行くものは、よろしく壁を凝視しながら、おのれの部屋に出発すべき」この演説には正直ゾッとさせられた。カフカ読んで以来、こんな天才がこの世にいるのか?と。生きてて辛くなかったんだろうか、世の中の正体がこんな風に余りに残酷にありのまま眼前にさらけ出されてしまっていた公房氏は。イヤ普通に日曜の父ちゃんたちの悲哀描けてる辺り、凡人の感覚を理解する能力も持ち合わせていたんだろうけど・・・ソレに、人間という生き物にずっと興味を持ち続けられたから生きて書き続けられたのか?

そして遂に「ぼく」はスクリーンの中に突き飛ばされ、劇中の「彼」と化してしまいました(/_;) 彼は自分の部屋の中の壁の存在に歓喜する。古い人間のいとなみ、実証精神と懐疑精神の母体としてソレに郷愁を覚える一方で、一度消えて帰ってきた壁に見出したものは耐えがたい重圧。「おれが刑務所と要塞で一番発達したのもおまえの責任」初めて壁が発した言葉が、まさしく人類全体のカルマを背負わされた彼の運命を暗示させる。そして遂に彼は壁を見つめ続け吸収する。「おまえの中で、もう何ものからも呼ばれないただの石になって、よみがえろう」という壁の最後のセリフと共に彼はようやく世界の果にたどり着く。そこでは吸いとった壁がぐんぐん成長しそびえ立っていった。壁のドアを開けた先の階段を降りて現れた酒場にかかってきたのは「成長する壁、生命のある壁」に興奮する調査団からの電話。「敵」の作り出した「壁」の存在が、図らずも無機物たちのスローガン通りの「革命」をなし得た証左をもたらしたのかもしれないと思うと皮肉ですね>< 電話を終えた彼の後ろにいたのは肖像画だったはずの、半分がマネキンで半分がタイピストのY子。「愛することができたにちがいない唯一の人」と告げると同時にマネキンから本物になったY子の悲しい拒絶。そこに訪れた「調査団」の「ドクトル」と「パパ=ユルバン教授」の狂気。「彼」の胸に解剖刀が突き刺さろうという瞬間に歌いだしたY子の悲しい歌。「不幸な私  不幸なあなた」対してマネキンY子は明るい調子の唄を歌い、二人の調査団は揉め始める。ここでの本物のY子と思われる側の想いが何とも切ない。その隙に「彼」は調査団を説得し、解剖から逃れることに成功する。Y子との「最後の別れ」という表現に。・゜゜(ノД`)ウワアァカルマさーん!
ドアを開けるとそこは何と元の彼の部屋で曠野も成長する壁もない。そこで事態はますます狂気的な方向に。「科学(この状況でまだこの言葉出てくんのが物凄い矛盾だけど^^)を投げ捨て、神の恩寵によってその限界に迫る、矛盾のない信仰の世界が開ける」と言ったユルバン教授の考えは聖.書の通りラクダを「彼」の目の中に送り込むことでした\(^o^)/ 二人にとって「彼」はもう被告でも患者でも息子でもなく、ただの「被験物」でしかない模様。ラクダに乗って教授が目の中冒険するくだりなんかひっどいカオス、何じゃこりゃ(爆笑)ミイラになったノアさんとボロボロに朽ちた方舟とか出てくるし、ホントやべぇとしか言い様がないな!@夜中なのに興奮最高潮(((^∀^)))↑ そりゃ息子としては泣きたくもなるっつの。結局鼻汁(汚ねぇ!笑)と一緒に出てきて去っていった二人に残された「彼」はとうとう胸の中の壁で体がいっぱいになってしまう。「見渡すかぎりの曠野、その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです。」やっと「ぼく」に戻ったのに・・・(´;ω;`)ブワッ


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『バスカヴィル家の犬』、○十年ぶりに読んだらすっごく懐かしかった!あのステッキのくだり、よく覚えてる( ´∀`))ホームズにハマるキッカケのシーン。当時はワトソンくんがスゲーまぬけな凡人に見えたけど、大多数の人間は実際にはもっと気が利かなくて厄介で、変人かつ天才ホームズの助手が務まるのは軍医の経歴と観察能力、忍耐強さに正義感、そして何より多少融通がきかなくても情に篤いワトソンくんだけなんだな、って改めて思えた。これはギャッツビーの語り手役の友人にも通じることかもしれない。普通の人間はもっと詮索好きで、あるいは自己中心的で無関心。他人のことなんか気にも止めないし、ヘビースモーカー兼ヤク中の恐怖ばっかり呼び込んでくる「天才」なんかと同居の友人なんてとても続けていられない。まぁ小学生ですから分かりやすい天才の方がヒーローに見えてしまうのは仕方ないですが(-_-;)
あと昔は遺産相続・お金の話や男女関係、殺人犯の逃亡とソレを匿う使用人の是非、といった「大人の問題」についてカーテンの影からコッソリ盗み見ているような、後ろめたさと優越感を同時に覚える特別な感覚があったんですが(借りる時に司書さんから注意を受けたせいもあったのかもしれない)、実際大人になってから読むともっと切実に登場人物に感情移入ができてしまって何か色々歳取ったなぁ、と(笑)ヘンリー卿かわいそう(´・ω・`)とか、女性陣に同情したり、チャールズ卿の恐怖がヒシヒシと生々しく伝わって来たり、同じ話読んでるはずなのに受け取る印象が全く違って不思議なもんですね。何かまたブームというか読み返したい熱が高まっているので、次にブクオフ行った時、あったら長編と『まだらの紐』入ってるヤツは買いたいなぁ。ルパンは全集あるんですけど・・・(寄付しちゃダメ!って頼んどいた(^^)b)『緋色の研究』『四つの署名』あたりが今読んだらどう感じるのか読み直してみたいでござる。

あとチェーホフの『桜の園』だっけな? 戯曲でよくやる登場人物によって見方が変わるヤツ読みたいからリスト追加。安部公房薦めてきた先輩に同時に薦められた『暗夜行路』も追加(^ω^) ちなみに今日は『人間失格』と『第四間氷期』が届きました・・・あぁ、やっちまったとも、つーかポチらずにはいられなかったの、『斜陽』の解説読んだら!>< 来月になったら地元最大級のブクオフと普通の本屋(でかめ)×2がある駅前で漁れるだけ漁ろうと思ってるんだ・・・そこで無かったら諦めて何とか稼げるようになってから徐々にゲットしていく方向で・・・というか出来ればキンド○を手に入れたい欲望が増すばかりです昨今(´-`) 著作権切れはタダで読めるし、英語の原文もかさばらない非ペーパーバックで気軽に手に入る訳だし、辞書・しおり機能もついてる上に履歴も見られるとか神か。あとはブルーライト遮断メガネを買えば完璧じゃね? そのためにも早く今の状態を脱さねば、マジで家計やばいし\(^o^)/ でも本と音楽が生きる(処理可能になるまでですけど)糧すぎて、面接等へのモチベーションや相変わらずキッツい食事や、発作だの情緒不安定になりかけそうな自分を落ち着かせる逃避手段という意味でもソッチに関してはどうしても自重できない@言い訳orz 今は『壁』読み始めたとこですがのっけからバシバシ公房ワールドというか、『砂の女』に繋がるフラグも立ちまくりで面白いです!

以下、病み含む『わたしを離さないで』ドラマ版最終回などの感想と個人的な話。

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やっぱり納得できない箇所がちょこちょこあったけど泣けたな。たぶん原作のルーシー先生?の人が言った「生まれてきてくれて、ありがとう」にトモが「世界って、やっぱり広いんですね」って応じるセリフとか。トモがキョウコを抱きしめて「キョウコと出会えて良かった、キョウコが傍にいてくれて良かった、キョウコが生まれてきてくれて、生まれてきて幸せ(※ニュアンス)」と告げる場面とか。日/本のドラマらしい分かりやすい演出・物語にしたんだなー、って。というかやっぱり恋愛とは全く違うけどドラマ版の陽光・クローン同士の絆が自分と幼なじみの関係に被り過ぎて泣ける(´;ω;`)←キモい。去年の最初に性自認して食べられなくなって虫けらだしタヒんだ方が良い、って打ち明けた時もそうだし、先日互いの誕生日があって交わしたメールや電話で話したこともそうだし。何か人生において相手がいない時間が考えられない存在なんだよね、重い言い方をすれば。だって一歳なるかならないかからの親友?(何て表現すれば良いのか適切な言葉がいつも見つからないんだけど(-_-;))なので。
で、ラストの海岸のシーンが日.本版としては秀逸かな、と。エミコ先生との宝箱についてのやりとりといい、出来すぎなサッカーボールが流れてくる描写といい。A瀬はるかの涙の流し方、原作のキャシーと異なり、一人で運命に立ち向かう、いや受け入れるだけの強さはキョウコには無かった。けれどトモが、宝箱に思い出を残してくれた「みんな」の存在が彼女を踏みとどまらせ、この世へ、残酷な世界の現実に最後まで身を浸し生き抜く覚悟を与えてくれた、って何とも日/本らしい結末じゃないですか? まぁ向こうはキリ○ト教規範の国で基本的に(特に絶対に苦しい入水という)自殺文化が薄い国、という事情もあるんでしょうけど。原作の方が深みと強さと光がある。けれど日.本のドラマ版は作者が作品を通して考えさせたかった、訴えかけたかったことを改めて伝えるキッカケ、導入としてはある程度良い作品と言えたのではないか、と最後三話しか見てないですが思いました@上から目線^^
イヤあの挿入歌の「Never let you go」の部分聴けただけで大満足というか物語の捉え方が全く変わった。母は「こんな話あり得ない、許せない、こんなモヤモヤする終わり方は納得できない」と怒ってましたが(ちなみに原作は私が褒め称えたため(^^;「海外ものって登場人物の思考にちっとも共感できなくてイライラする~!」と騒ぎながら少しずつ読んでいるところ)、世の中は不条理でどうにもならないことの連続や寄せ集めで、幸せだと感じる瞬間ですら誰かの、何かの犠牲の上に成り立っている。『日の名残り』のスティーブンスじゃないけれど、ずっと栄光や幸せの瞬間だけに留まることは、どんなに恵まれた人であっても生き続ける以上絶対に不可能。だからドラマ版最後のキョウコのセリフのように、それでも「生きる」ということ、生まれてきたこと、恐らく「モノ」として扱われるクローンという存在の彼女たちが誰よりも感じられるのであろう「魂」を持つ意味を、噛み締めて、受け止めて、その上で自分の人生を、命をその人なりに全うするやり方をそれぞれが真剣に模索していくべきなんだ、って。カズオ氏はそういうメッセージをこの残酷な設定の作品に託したのではないか、と。命とは何か、魂とは何か、生きるとはどういうことか。人とは、人生とは。
長寿に疲れきって移植を断る人が増えている、というエミコ先生の発言に超高齢社会を迎え、増える老老介護の末の悲惨な事件や高齢者の貧困問題・犯罪率の増加、被災地でも先を見失った自殺を含む高齢者の死亡率がはね上がっている日/本社会の現実を見て切なくなりました(´・ω・`) それでもip○細胞の実用化を必死の思いで待つ小さい子供の親御さんや、若い働き盛りの患者さんたちだっているだろうし・・・本当に、ご家族にしてみれば「Never let you go」ですよね。私、今自己処理したがってる身で本当に申し訳ないんですけど、移植ではないけれどここでも再三書いているように震災の前年、福島の某病院で輸血を受けまして。あの時献血して下さった方、もしくはそのご家族が被災されていたら取り返しがつかない、心から申し訳ない、代われるものなら代わりたい、ってどうしようもないことは分かっていてもずっとその考えが消えないんです。だからあのサッカー場にいたヒロキくんのお父さんの気持ち、その言葉に救われた先生の「勝手な自己満足」、移植を受ける患者の思いなどが、他人事とは思えずに動揺してしまった。原作は終始「提供」の犠牲となるクローン側の視点で進んでいくから、ドラマ版を見て、あの劇中歌の歌詞を改めて聴いて、そしてちょいちょい出てくる「人間」側の視点、自分も他人のこと言えないじゃんか、しかもそれをありがたがって有効活用するでもなく、あの悲劇の後もずっとダメ人間としてのうのうとただ存在し続けてしまって、どうにもマトモになれない・なる方法が分からないという現実に押し潰されて今にも消えてしまいたくなるorz

あと妹の遠方?転勤が決まって家族お通夜状態なんですけど、彼女としては今の彼氏と離れがたいらしく、総合職の出世捨ててまで来年には帰ってきたい、と言っていてまぁつまり結婚も視野に入れているらしいんですね。で、親が「ソレ(せっかく得た総合職を棒に振ること)はもったいないし、向こうの家業的にあの子には無理だからアンタが代わりに嫁いだら?」 みたいな冗談を(少なくとも先に結婚してほしい、という部分は間違いなく本音なんだと思う)言ってくるわけですが・・・少なくとも今は子作りできそうにありません、というカムアウトをやっぱりしておいた方が良いのかな? でももうこの歳だしな(・・;) 私が友達の子を可愛がっていると「生むなら若い内だよ~」とかやたら言ってくるし。でもAセクという言葉すら知らないだろう親はショック死するんじゃないかな。最近の余りの経済状況と妹の転勤の件で吐いて寝込みそうだし今(;´д`)←酒が入ったせい&風邪の流行&ここ最近のアレルギーと寒暖の激しさのせいもあるかと思いますが。私も色々試みようとはしたけど、こっちも吐くほど嫌なんだ接触が・・・つーか好意の時点で(以下略)なんてやっぱり伝えられないよなぁ。


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このタイミングで英/独証取合併とか、金融界が全力でBr exit対策に本気すぎて逆に実現可能性についての恐怖を感じざるを得ない(((゜Д゜;)))gkbr ウチの増税延期提言してくれた学者さんたちはGJやったで(^^)b それでこそノーベ○賞の権威も活きるってもん!(日.本人権威に弱いから。笑)個人的に平/和賞の次に意味なくね?と考えている賞なんで、こういう時にこそ役に立ってもらわなきゃネ☆
あと米のミニ超火曜日、ルビ○たんが遂に・・・!(つд`) せめてもうちょっと粘ることはできなかったんか? 政界引退したりはしないよね? トラ○プにSuper powerのトップ担える器があるとは思えないし、ヒ○リーさんは年齢が年齢だから次狙って頑張ってホスィ(´・ω・`) しっかし米.国民がこんなにアホというか二極化状態に追い詰められているとは(@_@;) 欧州ほど経済や難民問題が深刻化しているようには見えないのに。正直言って何も無いとこに火つけて騒ぎ立てるマッチポンプメディアと、それに群がって儲ける連中の罪によるところが多きいんじゃないか? デフォルトがー、にしてもオバ○ケアの必要以上の叩きっぷりとか、戦争についての倦怠感にしたってそうですよ。確かにブッ○ュは軍需企業と癒着したクソ野郎だったのかもしれないけど、アメ○カという国が軍事力によって現代の世界秩序を維持する役割を担ってきたのは動かしがたい事実で、一度でもその道を自分たちが選択した過去がある以上、今すぐにその重荷を投げ出したいからと言ってそんな無責任なことは実質的に叶わない、変えられない。いきなりそんなんやっちまったら世界中、ひいてはアメリ○の経済や社会においても余計に混乱と望まない泥沼の悪影響をもたらしてしまう。あー、もう色々複雑だけど何とかヒラ○ーに盛り返してもらうしかないな!ウチにとって最良ではないかもしれないけれど、正直もう他にマトモな選択肢がないっつーか(-_-;) 本番頼むわ、アメリ○の皆さん!

以下、一気読みした太宰デビュー感想。(※かなりの病みを孕んだ自分語り、他国や歴史への不快ともとれる表現を含みますm(__)m)

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何で『日の名残り』の後にコレ読んじゃったんだろう・・・。ゾッとするほどの類似。東西の鏡写し。貴族と使用人の裏表。私があの国に対して複雑な感情を抱いてしまうのは、同属嫌悪に近い気持ちが働くからなのかもしれない。でも価値観や社会形態は似ていても、アプローチの方法が違う。彼らは言葉で説明できるよう、例え納得できない無理な論理を用いてでも分析し常に議論の俎上に載せられるように“思考する”のに対して、私たちはこの作品の主人公姉弟が母親の仕草や振る舞いに見出すような、感性で以てソレを理解しようとする。この辺はたぶんフ○ンスっぽい部分かな? 私、お恥ずかしい話ですが単位落としまくった分だけ自分の専攻には直接関係がない授業も受けまくりました。その時学んだ内のヨーロッパ史で、日.本は全体を通してミニヨーロッパみたいだ、一つの国・一つの島にヨーロッパの全てを縮小して詰め込んだら、恐らく日/本という国の歴史や文化に近いものが出来上がるのではないか、と感じたことを思い出した。海賊を兼ねた水軍の存在、名目上は教皇に近いTennoの下にありながら政治のトップは将軍と定められ、それすら形骸化し実権を巡って争う諸国の大名や藩主たち、社会に強い影響力を有し武力まで備えた寺院勢力のせめぎ合い・・・形や枠組みを少しずつ変えつつも、長く続いてきた封建システムとその急激な崩壊の帰着から目指した帝国主義などなど。
何故、最も距離が近く文化的影響を受けたはずの大陸・半島とはここまで制度や考え方が隔たってしまったのか。科挙を導入せず、仏教や儒学にも自己流のアレンジを加え、古来から崇められてきた神道と矛盾を来さないように同化させてしまった。ただ日.本海の荒波や基本的に「来る者拒まず去る者追わず」な朝貢システムを取っていたアジアの特殊な事情の問題だけではないように思うんです。だから私はTenno制を否定することはこの国のこれまでの歩み全てを否定することになってしまうような気がするし、その家に生まれたから、という理由だけで特権階級としての生き方を強いられ、民衆の憎しみを、あるいは勝手な憧れや非難を受ける立場になってしまう人々に同情する。そしてまた日/本の中でも特に貧しく、余裕のない暮らしをする人々が多く住まう地域で数少ない優雅な生活を送れた身の上で、所謂「ノーブル・オブリゲーション」というものも果たさずに文学と放蕩に溺れ、散々に恥をさらした上で死んでいった彼と、のうのうと「著名な作家の親族」として後を継ぐように文筆の道に進んだり、実質故郷を捨てたも同然の身でありながら議員になったりしている彼の家の人々に反発する地元の方々の心情もよく解る。作中に登場する「西山さんのお嫁さん」の気持ち、「百姓の息子」上原の感傷。だから私は母や、その郷里の人々の彼やその作品自体に対する抵抗を否定する気にはなれない。けれど、今この表面的にはほぼ満たされた日.本の中で、ぶっちゃけ今色々と生活の瀬戸際にあり、直治と同じようなことばっかり考えてしまう自身のことを思った時、やはり深い同情と理解を、少なくともこの作品には寄せざるを得ないわー。・゜・(ノД`)・゜・。ウワアアーン

主人公姉弟にとって余りにも大きな存在だった母親。その完璧な気品と愛情こそが逆に彼らを苛み、破滅の道(主人公かず子にとっては幸福に違いなかったのかもしれないけど)に追い込んでしまったのではないか、と感じるほど。父の死に際して現れた蛇の暗喩のフラグ立てが、日/本ならではの薄暗い不気味さをスルスルと、それこそまるで蛇の這いよる音のように感じさせますね。(次は『バスカヴィル~』に行こう、と何故かここで決意。『まだらの紐』じゃねぇのかよ!(ノ∀`))かず子との年齢の近さと子供が無いという共通点に、また彼女の心情への奇妙な同調を覚えてしまう。かず子が人形のハンカチイフを作ったりすることが好きだ、という母に「子供がいないからよ」って答えるくだり、凄くよくわかる。私も人形に靴下履かせたり、小さいイスやソファ見つけるとぬいぐるみ用に買ったりしちゃうから。友達の子供の誕生日にカード用意したり、何でもしてあげたいと思ってしまう。三十前後の、所謂かず子も出戻りニート状態なわけですから、子供という唯一の女性の持つ特権への執着は痛いほどわかる。(まぁ私の場合は今後も持ち得る可能性が無いわけだけど)
そして夫に先立たれ、子供たち二人のためにお金を使い果たして家まで売らなくてはいけなかった「ほんものの」貴婦人である母の初めて見せた嘆き。彼女が本物の貴婦人ではなかったら、「意地悪でケチケチして子供たちを叱り、こっそり自分だけのお金を増やすような人だったら、どんなに世の中が変っても、死にたくなるような気持になる事はなかったろうに」という娘の同情、そして「ああ、お金が無くなるという事は、なんというおそろしい、みじめな、救いの無い地獄だろう」とお嬢様として育ってきた彼女がはじめて気がつく告白は、今の私の状態に余りにも近すぎて胸に突き刺さってしまった。
ウチの両親はエリートでも何でもないけれど、ある程度安定した家庭で育ってきたことは確か。どちらも田舎の公務員家庭でしたから、祖父母も堅実だったし生活に困るということは無い暮らし・価値観の持ち主で・・・進学先も坊ちゃん高だったりお嬢様大学だったり。で、所謂金券ショップやリサイクルショップなんかは利用しようと考えたこともないみたい。私がブクオフ行くだけで顔しかめて自分は足も踏み入れない。物を処分する時も、「捨てる」か「知人にあげる」発想しかない。見知らぬ他人が触れたものに触るのも、見知らぬ他人に自分が使ってきたものをお金で譲り渡すという行為も嫌みたい。彼ら自身は「世間知らずの温室育ちではない」と懸命に言い張るけど、私の目から見ればそう。というか私自身も、親の職業の名ばかりのイメージのせいか、そういう両親に育てられたせいかどちらかと言えば“そういう目”で見られてきた。この歳まで引きこもって「世間知らず」の本物ぶりには確かに磨きがかかってしまっただろうけど(^^; だから、親が上手い金策も容赦ない取り立てもできずに困り果てているここ2~3か月の状況と、いい加減ウチからの用立て伺いにウンザリ来ている親戚という作中の一家の構図が余りにも当てはまり過ぎるんですよ。早く自己処理しなきゃ、あるいは家族から離れて自立しなきゃ、と焦っているのもぶっちゃけそのせい。もう私の欲望は本にしか向かないから、ブクオフがあればそれで良いし、それが唯一のワガママで「タヒぬまで生きる」ための安定剤みたいなもん。麻薬よりマシだろ、と(笑)
旧華族として「みじめな死に方」をするわけにはいかない、「華麗にほろびたい」というプライドを捨てられずにいるかず子。「戦争なんて、つまらないものだった。」に続く三行の詩に、太宰が執筆のほんの2~3年前まで繰り広げられていた、今に到るまで深い遺恨を残す“大戦”について言いたかったことが、日.本人の実際的な本音が表れているのではないか、と感じた。大げさな悲劇も美しい物語も、そこには何もありはしなかった。少なくとも大多数の私たち、日/本人にとっては。降って湧いた災害と同じ、ずっとずっと厳しい自然にさらされてきた島国の人間にとっては。ある日軍部が実権を握り、アジアの解放が何やかやと騒ぎ立て、戦争に行かされ、それなりの地獄を見て、殺し、殺されて、傷を負って帰って来た兵士を何もかも破壊されて同じく傷を負った人々が出迎える・・・「何も無かった。」いつもと同じ。いつもやって来る地震や台風や津波の後と同じ。帰ってくる人もいれば来ない人もいる。それだけ。傷ついた人もいれば無傷の人もいて、壊れた街は復興され、また当たり前に営みは続いていく。それだけ。前にもどこかで書いたけど、だから私たちには、その記憶をいつまでも引きずる、という感覚が永遠に理解できないのかもしれない。

一つ、私たちの、日/本とイギ○ス、いや世界をあの大戦の前後に決定的に破壊し変えてしまったのはアメリ○の台頭と社.会主義の登場だ、とこの点は間違いなく言えるな、と『日の名残り』に続けてこの作品を読んで感じた。だから私は歴オタとして社/会主義への嫌悪を隠しきれずにいられないのかもしれない。長く続いた歴史を、愛する人間の営みをほんの数十年で全否定する方向に失わせてしまったんだもん。直治の言う「人間はみな同じ」という言葉の否定、あの遺書に全てが表れているのでは?「人をいやしめると同時にみずからをもいやしめ、何のプライドも無くあらゆる努力を放棄せしめるような卑屈な言葉。・・・なぜ優れている、と言えないのか。奴隷根性の復讐。」自分を弱い、重大な欠陥のある草に例え、生きる意味が分からない、周りの真っ当に生きられるだけの生命力を持った強い草と同じになれるように努力はしてみたけれどそうなれなかった、と打ち明ける直治。「人間には生きる権利があると同様に死ぬ権利もある筈だ。「母」の生きている間はその死が「母」をも殺してしまう事になるから留保されなければならないけれど、その母が逝った今なら、あなたたちは僕の死を知って泣くだろうが、僕の生きている苦しみと、そのイヤな生から完全に解放されるよろこびを思い出せばその悲しみは次第に打ち消されて行くだろう」という遺書の内容が、何もかも自分の気持ちと重なり過ぎて(´;ω;`) あ、ちなみに先月妹と揉めた際「親が生きてる内はタヒねないでしょ!」と言ったら「じゃあそれまで寄生するつもり!?」と返されたことも、実行早めようと思ったり結果友達に説得されて止めたり、今の状態から全力で脱け出そうともがき始めたことの要因の一つだったりします☆ホント精神の病って厄介だよね((-_-)ウンウン
姉弟揃って叶わぬ恋に身を焦がしていたことに、彼らの執着と愛情が帰結するもう一つの対象だった病床の「お母さま」はどれくらい気づいていたことだろうか。思い浮かべもしなかったのかな? 娘が「古い道徳」を破壊する「革命」のための恋に、生々しく激しく情熱を迸らせていたことを。生きる糧を、直治の「下品になる」行為のように、麻薬のように、それのみにかず子が見出していたことを。その激しい生き甲斐を託されてしまった上原も、また「間違った行為」に溺れていた。良き妻・家庭に留まれず、夜な夜な仲間と酒に溺れて借金を背負い込み、女遊びにふけり・・・「こうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。人はこの世に生れて来た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちの生き切るための姿も、憎むべきではないかも知れぬ。生きている事。生きている事。ああ、それは何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。」一言一句同意(;_;)
何で普通に生きるってだけでこんなにしんどいんだろう、って昨日も思い知らされた。あの、おそらく親から施設にぶっこまれて毎日一見楽しそうだけど、ある意味限りなく無為に過ごしているように見える若者たちの姿。これからどうするんだろう、どうなるんだろう。他人のこと言えない身だけど、せめて学生時代の楽しい思い出や、道を示してくれる友人たちに恵まれた自分は本当に幸せ者のはずなんだ、と強く感じてしまった。年金と保険、生活費だけでマトモに勤めていない人間からは月々どんだけすっ飛んで行くか。それでもって払い終えた時返って来るのは、月々の家賃さえ支払うことができないような額だという。そこまで苦労して、毎日吐いてトイレ駆け込んで紙袋吸って、頑張って口開けて大きな声出して喋って帰ったら痛みで顔動かすことも出来なくなる状態で○十年とか、ホントもうゾッとするし生き続ける意味が見出せないです。

「だめだ。・・・僕は、もっと早く死ぬべきだった。・・・僕には、希望の地盤が無いんです。」本当は何をしても楽しくなかった、貴族に生まれた「」から逃れるために遊びまわり、家族に迷惑をかけ、下品になろうとしてなりきれなかった、「僕は貴族です。」何て悲しい、そして余りに共感できる心情だろう。何にハマったって、それは一時的な逃避に他ならないと解っているのに、必死にハマっている“フリ”をして無駄にお金を費やしてきた。そのお金が今ここにあれば、と思わずにはいられないのに、その「ブクオフへの出入りすらしない」親の思考が沁みこみ過ぎて売れそうなものですら手放せずにいる。結局帰って来たのは本だった。本しかなかった。対話できるのも、共感できるのも、ケチ付けられるのも、それを活力に変えられるのも。本当に好きだと言える趣味は歴史巡り(ソレが高じてのニュース中毒も含む)と読書だけなのかもしれない。
スケートも舞台もアイドルのコンサートも、一瞬で消えちゃう幻みたいなもんだからね(^^; だから安心してハマれたとも言える。今ブーム()の相撲にも引退というシステムがある。退団、引退、同性同士の、絶対嘘っこのコンビ制。理想的な一瞬の麻薬でした、私にとっては。好きな選手の国の言語を学んで熱心に現地に足を運ぶまでに至らない私には、まさに“その程度のもの”で偉そうにファンだと語る資格なんかない、と“本物”の方を見ていて思う。最近聞いたヅカが原因で離婚した親の依頼者の件もそうだけど。あそこまで破滅的にハマってこそ“本物”で、私のはまさに直治の麻薬や遊興と同じただの逃避に他ならないんだな、って。だから本当は、確かに親がタヒんだらいつタヒんでも良いけど、今のご時世それまでの時間が長すぎるだろうし、長子で下の二人を困らせるわけにもいかないから、何とか早く家離れなきゃ、ってその気持ちだけで焦ってる。早く一人で処理できる場所を見つけたい。本当はその思いだけ。私が遺書を残すとしたら、宛名はきっと友人の誰かになるだろうな・・・幼なじみかな。一番厄介な迷惑ごとを人生で最も打ち明け押し付けてきてしまった。そういう相手が沢山いすぎて本当に申し訳ないけれどm(__)m

あーでも聖.書のくだりだけはマジむかつき過ぎて耐えられない、全体的に。今日も教会からイースター行事の知らせが届いたとかで祖母から分厚い手紙が届いてましたけど。本当イライラするから止めてほしい・・・とか思ってても「御言葉」とか啓示とか家に飾ってあるヤツ外せずにいるんですけどネ☆あ、一応よくあるカルト系ではなく、到って普通の米本山?のプ○テスタント系のトコですが。信者の方もいかにもお育ちが良さそう~、な、話聞いてても「まぁ、また海外に?」とか「わざわざ個人輸入で取り寄せてるんですのよ」系の方が多くて(´-`) あっ、ここも「貴族」的共通点になっちゃうか(笑)その両親の信仰(と北の大地の不便さ)故に、それぞれお嬢様・お坊ちゃま学校の寮に高校から送り込まれたんだもんね父と伯母は。何で日/本の上流階級?(政治家とか)ってクリ○チャン多いの?基本Tenno信者なのにさ。誰か教えてくれ>< その方が欧米の皆さんに擦り寄りやすいから?^^
でも祖父の死ぬ間際は「アメ○カが攻めてくる!」って飛行機にめっちゃ怯えてたんだよな。ホントあの言葉聞いた瞬間と、その後アメリ○本山の教会で、ハリ○ッド映画『タイタ○ック』で繰り返し聴いて覚えた葬式の賛美歌をリアルに歌わなきゃいけなかった私の気持ちが、お分かりいただけるだろうか?(´∀`)ニッコニコニコ 船が沈む最中に最後まで楽団が演奏していたあの曲ですよ、「主よ、御許に近づかん。昇る道は十字架に」あの日から私は一度も教会に行ってないです。妹は顔を出していたけれど。とても耐えられない。受け入れられない。酷い矛盾。やっぱりアメリ○は、イギ○スと日/本の何もかもを奪い、破壊し、「解放」した国なのだ、と実感せざるを得ない。昭和22年、この小説が書かれた年!かず子の年齢設定と過去、「お母さま」と直治の歩んできたであろう道、時代。『日の名残り』と丸っきり被るじゃんか、書かれた時代が後年であり、資料からの推測を元に練り上げた作品と実体験から迸る感情を詰め込んだ作品という違いだけ。
もっとタチの悪いことは、何と百円コーナーでゲットしたこの文庫本が私の生まれた年に出版された本で、私とこの本の年齢は最初に言ったように主人公の歳と限りなく近い。「女は三十で処女の香りを失う」それなのに、女の人生はその後も続いていくのだ、とかず子は語る。「三十になってから恋をしないと不幸になる」と十九の主人公に告げたのが英.国人の女教師、というのも三十四、五で恋を諦めて結婚に逃げ去って行ったミス・ケントンを彷彿とさせて切なくなる。限りなく似ているのに、少しずつ違う。まさに鏡像、二つの海とアメリカという大きすぎる鏡越しに見つめる東西の島国の姿ですよ。向こうにしてみたら比較の対象にされること自体が甚だ不本意極まりないことかもしれないですけどね(笑)機会があれば、ぜひセットで読み比べてみると興味深い二作品。

それにしても長年ス○ェーデン王室の支配下にあり、ロ○アに蹂躙されW W 2では枢軸側に付いて独立を勝ち取った、特殊な立ち位置の共和国・フィ○ランドからやって来た少年が何を思ってこの作品を手に取り、どこまで理解が及んだのかちょっと想像し難いなぁ。貴族が存在しなかった国で貴族の苦しみって理解できんのか?(-_-;) 戦後の日/本が外国とその思想や文化をどう受け止め、どこまで浸透していたのか、という点に興味を抱いたのかな?でもかず子や直治・上原の例を見る限り、やっぱり私たちには私たちの見方しかできない、経済学も社.会主義も魔改造して本来の主張を逸脱した奇妙な捉え方・視点しか持てないのだ、ということが明らかにされているだけで逆に絶望しそうな気がするけど。(私もいくら勉強してもその範疇は脱け出せないだろう、と正直諦めている部分があります。理想として夢を見たリベ○リズムに対してもね!^^)日/本人の誰もが唯一共通して受け入れ、理解できる価値観は恐らく作中にも登場する「調和」の一語に集約されているだろうから、喧々諤々の議論を重ねた上でようやく成り立つ○○主義・革命の文化は恐らくウチの社会には根付かない。それを承知で旧華族・かず子は「古い道徳」に挑戦状を叩きつけた。「小さな革命」、調和した社会に一滴の波紋をもたらすことしかできないであろう、そして渦に呑まれて消えてしまうかもしれない、自ら水に落ち行く葉っぱみたいな生き方を選ぶ彼女の強さに、直治に近い弱さを抱えた私はいっそ憧れる。


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※古今東西内外問わず強烈な毒吐きを含みますm(__)m

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解説で丸谷氏は馬鹿な男の悲劇、とこの作品の登場人物たちを切り捨て、作者が川端ではなくディケンズに学んでくれて良かった、と語っていたけれど、私はそうは感じなかった。最後の最後で、この小説の作者には間違いなく日.本人の血が流れているのだ、と強く感じた。日/本の純文作家の特質とも言える美学、文学における美という枠をはみ出さないために、時に愚かさや醜さ、過ちすら過度に美化してしまうような側面は無い、そこは確かにイギ○ス的。けれどディケンズ他に見られるようなナイフでぶっ刺して傷口抉ったまま放置、という冷徹さもまた存在しない。『わたしを離さないで』でも感じた傷口にヨードチンキの奇妙な優しさが、ここでは桟橋の場面に集約されている。そしてエミリ先生から語られた「ヘールシャムに託した理想」とその思い出を胸に、決して明るい未来が待ち受けているわけではないにも関わらずその“運命”を受け入れ、生き抜くことに穏やかな納得を見出したかに見えたキャシーと同じように、この作品の主人公スティーブンスもまた新しい主人のために「人間同士の心を温かさで結びつけるジョーク」の研究に励むことを、屋敷に戻るにあたり誓うんですよ。これは悲劇ではない、間違いなく。この程度の人生を送っている人間なんか、世の中山といるはずだ。過酷な現実を生々しく描きながら、極めて優しく前向きな話だ、と私は思う。そしてそれは間違いなく日系人作家ゆえになし得たことだ、と。

四日目朝のモスクムからの出立に当たってのカーライル先生とのやりとりで、やっと自分の身分を偽る必要がなくなり圧倒的な解放感を得るスティーブンス(^ω^)「スミスの言うことは支離滅裂」って、やっぱどこの田舎者も変わらんのやな(笑)その後に続く「みんな政治意識や意見を持っていないわけではないが、静かな生活がほしい。例えその騒ぎのおかげで自分の生活がよい方向に変わるんだとしても、村人は誰も騒ぎを望まない。あの問題やこの問題で悩ませないでほしい。それだけ」というセリフも真理だな、って。だから母親なんかはヒキってる私が政治とか国際ニュースネタに触れると怒り出すんだよね。・・・ぶっちゃけ純粋な歴オタ的好奇心からのことで、ヅカの次のトップが誰かとかいう話題と全く変わらないノリなんだけどこっちは。(リアルに苦しまれている方がいるような話をそのような感覚で捉えてしまうことは本当に申し訳なく思っていますm(__)m 正直言って震災以後ソッチ方面の倫理観が弱まってしまった。だって何しててもしてなくてもある日突然何もかも壊れるし失うし、必要とされていたはずの人間が未来を奪われて、そうじゃない人間がのうのうと生き延びてる。虚しくもなりますよ。神様なんか絶対信じないし、善悪とか、正しく生きたって何の意味もないんだ、ってあの時投げやりに思っちゃった。戦争も単なる手段で、攻められる側にとっちゃ要は災害と同じだろ、と。やりたがってる連中がいるならそれに備えるしかない、それだけ。こっちが起こさないとか起きないで、といくら願っても、どうしても避けられないことが目の前で起こってしまったんだから。政治的な見方まで変えて家族にネト○ヨ扱いまでされるようになったキッカケがあの震災だ、っつったら驚く人はいるのかな? “あの”W田氏がO田氏を破った選挙結果見たら、そういう変化を遂げたのは私だけじゃなかったように思うけど)
カーライル先生は社.会主義者だったんですね。イギリ○ってホント二極化が進みやすい社会なんだな、とダウントン見てても感じる(@_@;) 上の方はナ/チに親しみを、下の方は共.産世界に理想を。「すべての国民に医療が行き届く品格と尊厳を」実際の紅く染まった国々は建前だけで真逆の道を歩むことになってしまいましたが・・・彼がスミスを嫌悪するのはある意味当然。こっちの田舎も同じ。J民支持かK産党か。互いをバカにし合うけど、盲信とも言える支持・投票の強制っぷりは正直どっちも呆れ返らざるを得ない。ちゃんと新聞の公約見比べて、候補者個人の人となりをチェックしたりしてる?と聞きたくなるよ(;´д`)

次のスティーブンスが振り返る思い出の一夜には、レジナルドくんとミス・ケントンに代わって彼の頬をぶん殴ってやりたくなるわ!^^#ビキビキ 知人から結婚の申し込みを受けたことをスティーブンスに伝えるミス・ケントンの健気なまでの必死さ。それなのに、彼の頭の中には今夜の来客をさばくこと――ひたすら主人の意向に執事として最大限応えるという任務が最優先で、その意味を考えてみる素振りも見せない。感情を直接的に伝えることができないイギリ○人の礼儀というかもどかしさも覚えるけど、それは日/本人にだけは言われたくない点かと思うので(以下略)いやでもミス・ケントンは精いっぱい頑張ったよ!(´;ω;`) 「あなたの口調の物真似では、私はもう名人クラス」ってセリフ、それだけスティーブンスのことを、ずっと懸命に見つめてきたんだな、と切なくなった。
本人がそれと自認することなく、無意識にすっかりナ.チの傀儡と化してしまったダーリントン卿を何とか救おうとするレジナルドくんの必死さ(つд`) 彼を敬愛する同志として、スティーブンスに協力、あるいは共感、危惧を分かち合うことを求めたレジナルドくんを、スティーブンスは盲目的に主を信じ従うことが執事の品格を成す義務だとして、忠誠心ゆえに拒絶する。彼の絶望の深さはどれほどのものだったことか!父親を亡くし、同じだけの親しみを覚えるダーリントン卿を愛する「友人」がその職務と頑なさ故に卿を救うこと、あるいは救おうする彼の努力を忖度することすらしてくれないとは(  TДT)しかも昨日例に出した通り、彼ら貴族が忠誠を捧げるべき国王までナ/チに心酔している始末だったんですから、当時の多少ものが見えていた英.国知識階級の暗澹たるや・・・。「卿は高潔な英/国紳士としての本能、それゆえの宿命を利用された。アメリ○のルース議員が卿をさして言っていた、わけもわからんのに、でしゃばりたがって困るアマチュアだ、ということは冷厳な事実だ。やつら(ナ.チ)は高貴なるものを操って自分たちの汚い目的のために利用できるものにねじ曲げた。今日の世界は高貴な本能を大切にしてくれるような場所じゃない」コレはね、正直お ま い う(^ω^)という気持ちにならざるを得ない、この時点までの大.英.帝国様が世界中でやってきたことを考えると。ねぇねぇ、おたくらが過去“植民地”にしてきた地域の人々に欠片もそういう本能が宿っていなかったと思ってる? その国・民族・土地と言っても良い、の「高貴なる本能」を歪めて利用してきたのは自分達だって同じじゃないのか? 数枚舌の差別主義者の元締めが何言ってやがる、とバリバリの英/国節に納得はしつつも苛立ちを覚えざるを得ないのは有色人種の一人としてお許し願いたいm(__)m この後のレジナルドくんとミス・ケントンの心情を顧みることなく勝利感と高揚に酔うスティーブンスにもマジむかっ腹(# ゜Д゜)カーッ! ばっかじゃねーの、だから大.英.帝国は衰退したんだっての良い気味ザマーミロ!勝手にBr exitでも何でもして滅びろ欧州!と叫ばざるを得ないくだりね
ウチらのあがきなんか、この程度のことだったんですよ、欧州の皆さんから見れば・・・舐めくさられていたからこそ、一気に進撃することもできた。こんだけ舐めくさっていた地域取られたくらいで、一応最終的な勝利者の席に座ったはずの連中に負けた側のウチらがあれほどコテンパンに、今に到るまで貶められ続けないといけないというのは一体どうしたわけでしょう? と一日/本人としてイギリ○にもオ○ンダにも小一時間問いつめたいくらい、戦後の諸々と作中で語られている「紳士の理屈」とやらを照らし合わせると、正直どうしても不条理を感じざるを得ない。“野蛮”な有色人種だからなの? 中.国とか東南アジアの方に言われるのはまだ分かるんですけど・・・バターンなんか盛りプロパガンダも良いとこじゃない? 南洋の生存兵の話とか聞いてると日/本軍的には全く普通の行軍の感覚だっただろ。何せ彼ら自体に食糧が足りてなかった&“根性論”重視の文化的差異の問題ではないか、と。もちろん長期的な戦略が不十分なまま戦線を広げ捕虜を取った判断が一番悪い、と解ってはいるけどさ。ホント馬鹿だったよウチの国は。まさに「高貴なる本能」を集団で悪用することを、止める人間が誰も存在しなかった、そしてアジアで孤軍奮闘せざるを得なかった・・・。せめてアメリ○ともうちょっと協調的な関係を築けていたら、イヤ三国同盟組んだ時点でヨーロッパ戦線への呼び水にウチを使うことは確定されてただろうから無理だな(-_-;) あとは本当しつこいけど中/国さんがマトモだったら!アジアの覇権なんか彼ら中心で良かったですよ、自国民の人権と他の国の主権を尊重し、欧米にもの申せるだけの位置に地域を発展させるリーダーシップを取ってくれるような国になって下さっていれば!叶わぬ夢だったな。この先もそうなのかな?・゜・(つД`)・゜・ブワッ

六日目夜、ミス・ケントン――ミセス・ベンとの再会を振り返るスティーブンス。彼女を生き生きとした多感な人間にしていた内面のきらめきを感じられなくなり、時折垣間見える悲しみの表情に、彼は確実に二人が隔たってきた月日の長さ、重ねた年齢を感じざるを得ない。お屋敷のことを思い出し幸せそうな表情になるミセス・ベンとの語りから、ダーリントン卿が結局レジナルドの危惧していた沼に落ちてしまったこと、紳士ゆえに陥ったその哀れな晩年と汚された名誉のことが、ようやくここで明らかにされる。レジナルドくんも戦死しちゃったのか(/_;)
バス停での別れ際、いよいよスティーブンスは二人の関係の核心に触れる――彼女の手紙に度々表れる「不幸」の要因について。そこでようやくミセス・ベン――ミス・ケントンは、彼女がかつてスティーブンスに抱いていた想い、結婚して誠実な夫に恵まれ、娘が生まれてもなお消すことができないほど深かった彼への愛情を打ち明ける。「けれど今は確かに夫を愛している。時計をあともどりさせることはできないから、架空のことをいつまでも考え続けるわけにはいかない。人並、あるいはそれ以上かもしれない幸せがあることに早く気づいて感謝すべきだった」というセリフがもう( ノД`)…ビエェーン それを聞いて張り裂けんばかりに心を痛めながら、最後まで笑顔で、一瞬たりとも、一言たりとも自分の本心を決して告げないスティーブンス。この頑固野郎!でもそれが、彼女を一番に選べなかった彼なりの償い、愛情の表現なんだな、って最後にはその余りの愚直さ、不器用さに愛しささえ覚えるというのは、やっぱり日.本の時代小説に出てくる武士の姿と重なるところがあるんじゃないかな?(T^T)

でもってウェイマスの桟橋で行き合わせた老人に、初めて己の後悔を、主人に仕える執事としての職責においても彼自身の人生においても、品格なんかどこにもない、いや持っていても役に立たない虚しいもので、自分で選択を行うことを放棄した彼にそんなものを考える資格すらないのではないか、と疑う本心を吐露するくだり、泣けたなー(´;ω;`) スティーブンスもちゃんと私たちの理解の及ぶ範囲のところで悩み苦しむ普通の人間だったんだ、って改めて染み入るように感じられる。ツッコミどころ満載の葛藤はそれまでにも何回も登場してるわけだけどさ(笑)それに応える老人の「いつも後ろを振り向いていちゃいかんのだ。後ろばかり向いているから気が滅入る。昔ほどうまく仕事ができない?みんな同じさ。いつかは休むときが来るんだよ。・・・あんたもわしももう若いとは言えんが、それでも前を向きつづけなくちゃいかん」「人生、楽しまなくちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。」ってすごく素敵な言葉。てかここではないけど、ある場所で似たようなことを自分で書いたことを思い出した(^^;“明け方は静かで何の音もしないから寂しいけど、夕方は「またね」や「ただいま」や「いただきます」とか、にぎやかな声が溢れているから好き”って。一日の仕事を終えて、ホッとした人々が沈む日に安らぎを覚える時間。電気が普及してからはなおのこと、“その後”の時間を楽しみにする人たちが増えたんだろうな、って。タイトルの意味を実感してゾクゾクーッとくるシーンですね((( ´∀`)))
だがしかしスティーブンスはいつの間にかまた元の、そもそも後悔の元凶となった思想に回帰してやがる^^# 何て頭が硬いんだろう、キリ○ト信者の大嫌いな考えと同じ。思考の放棄、責任の押し付け。自分の価値を自分以外の存在に仮託して測ろうとする。いくら己を卑小と思い込む階級制社会で、仕える立場の者の子として育ちその職を全うした父に憧れていたからと言って、戦後主人が変わり社会が変わってもなおそのままの考えを維持し続けるとか確かにいっそ滑稽で憐れ。けれど同時にそうとしか生きられないスティーブンスの一本気さに確かな品格を、羨ましさに近い感情まで覚えるのが日/本人ではないだろうか? イギ○ス人もそう感じたからこそこの作品がブッカー賞の栄誉に輝いたのだとしたら、確かに私たちはこの点に関して、おそらく大陸や“新世界”の人々には決して理解し得ないであろう共通した価値観を持っていると言えるのかもしれない。散々毒も吐きましたが、最終的に(未だ複雑な感情は消えないけれど)イギリ○への親しみとその文化や歴史への興味・理解が多少増したように思います。日.本人なら『わたしを~』より絶対に読んどいて損はない英/国文学の一つと言えるのではないでしょうか? ちなみにディケンズだと『大いなる遺産』が好き。理由?ヒロインが堪らないから!@綺麗で残酷な女の子大好き(*´д`)ハァハァ


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