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『生まれいずる悩み』
詩人だ。つーか文章の画家だ。自然の捉え方や表現が海外モノっぽい・・・と思ってたら解説で触れられてましたか(^ω^;) 谷崎さんはお耽美トーン、三島はパッション、川端は透明な美学の枠、志賀さんは淡々としたありのままのテンションを一定に保って、日.本の純文は余り激しい文章(展開ではなく文章ね)の起伏というか強弱が付かない印象なんだけど、コレは作中にpianissimoだのAllegroだのといった言葉が登場する、まさにその通りの絵画的であり音楽的でもある極めて珍しい、当時の日/本の文壇においては相当挑戦的な作品だったんだろうなー、と(@_@;) 二人称で非恋愛物な点といい。
「君」の在る世界の過酷さ、荒れ狂う海やどこまでも神秘的で美しい生を感じさせる山の描写、そうしたものに向ける情熱を、東京に越し、文学で食べていく道を選んだ主人公側の生活や視点には感じさせない。動と静の対比。淡々とした都会の芸術家として生きる己の生活を恥じてさえいるように、主人公の筆致は想像上の「君」の仕事や芸術、彼の生きる町や自然の有り様を描き出す時にこそ冴え渡り迸るような力強さを込めて同情と共感と悲しみをすら引き起こす。不思議だ・・・。
芸術家として生きることも、漁夫として貧しくもたくましく地に足を付けて生きることも選べずに思い悩む「君」、そしてそんな彼に答えを与えてあげられない主人公。それが人間の真実ではないのか、私も散々依存している幼なじみに「どんなにキツくても、結局は自分一人で乗り越えるしかないから」と言われたことを思い出した。ちっとも見捨てられたとは考えなかったし、素直にその通りだと感じた。荒れ狂う海の中の生と死の狭間で「君」が見出だした生への欲求も、陸に帰りつき、愛する山の景色に捨てきれない芸術への執着によって誘われた死への思いも確かにどちらも彼自身の紛れもない本心の一部なのだろう。「人間というものは生きるためにはいやでも死に近づき、生の一片をひったくって逃げなければならない。人間はその奪った生をたしなみしゃぶるが、ほどなくその生は尽きていくから、また死の方に近寄って行く」この捉え方は、大多数の現代日.本人には通用しないかもしれないけど私には衝撃的なほど納得できた。人類の長い歴史上大体がこうやって何とか日々を繋いできたはず。今でもそうやって暮らしている人たちの方が圧倒的に多いはず。我が家というか私の心理状態もぶっちゃけその瀬戸際だし(^^;「なぜそうまでして生きようとしなければならないのだろう。ほんとうに生は死よりも不思議だ。」全くその通り((-_-)ウンウン
でもって芸術に寄せる思いを周囲の誰もに理解されない孤独の境地にあって、「君」がそれを彼にとっての芸術の主題である故郷の自然にぶつける描写が(´;ω;`) 人間より自然の方が通じ合える、その時だけ不安も不幸も何もかも忘れて無心になれる、って感情が理解でき過ぎてしょうがない。自然には「力」があるから、時には恐ろしく時には温かく、見る度姿や印象を変える。それが切なくて、美しくて、どうしようもなくありのままの「生」を感じさせて触れる者を堪らない気持ちにさせるんだ、と。私も地元の山歩くの好きだけど元々神社あるせいか不安定な状態の時行くと引っ張られそうになるから(溜まりやすい?場所があるんですよねー、またオカルトネタで申し訳ないけど><;)、ちょっと最近は一人だと怖くて行けてないです。しかし彼の孤独とどうしようもない寂しさと捨てきれぬ芸術への想いが積み重なったスケッチと手紙によって、主人公は芸術と生、「地球が生きて呼吸をし、同時に日々彼のようにその内に隠れて生まれ出ようとする者の悩み」を感じとっていたく感激し、芸術家の一端を担う己の使命すら間近に取り戻したような結末が何とも爽やかで前向き。「君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。正しく、力強く、永久の春がほほえめよかし・・・僕はただそう心から祈る。」。・゜゜(ノД`)ウワアァン! 教会と縁切ったって言ってたやんけー!(そこ!?)
実はこの作品に入れ込んでしまったのは、例の亡くなった祖父の姿を思わず重ねてしまったせいもあります。北海道の貧しい子沢山の家、しかも結核で兵役にも行けず、画家になりたいなんて、絵の学校に行きたいとすら当然言える立場になかった祖父と。病気のせいで「君」のような厳しい体力仕事にこそ従事しなかったものの、これも何回も語ってますが彼の集めてきた画集やプラモやレリーフ彫りの趣味、時々描いてくれた家族の絵の見事さ(身内の欲目でしょうが私にはそう見えます)を思い返すとグッとくるものが(/_;) しかもクリスチャンだったしさー。何だかんだ言って少なくともこの時点での有島氏は神を棄てきれてないように私は作中で感じたよ。
『小さき者へ』
子を思う親の赤裸々な感情に胸打たれると同時に、子供たちの存在によって、また彼らに母の死を、命を、生の意味を伝えようとするこの文章を書くことによって作者自身が妻を喪った悲しみの痛手を必死に癒そうとしているのだ、という気持ちが切々と伝わってきた。そしてまた結核・・・うちのじーちゃんはT理教から逃れることで奇跡を起こせたのだろうか(^^;妻との出会いとその喪失によって、作者が己の弱さに力を見出だし始めた、というところにジーンと来ちゃった。「世間に数多い悲しみの内の一つに過ぎないことを引きずっていると嘲笑われても、それを恥じてはならない、恥ずべきことじゃない。そのありがちな悲しみがあってこそ私たちは人生のさびしさに深くぶつかってみることができる。小さなことが小さなことではなく、大きなことが大きなことではない。それは心一つだ。」「この悲しみがお前たちと私とにどれほどの強みであるか。私たちはこの損失のおかげで生活に一段と深入りしたのだ。人生を生きる以上人生に深入りしないものは災いである。」幼き子供たちを遺された父親として、妻を亡くした夫として溢れんばかりの切実な想いがここから痛ましいほどに生々しく伝わってきませんか?(;_;)ブワッ そして最後の「小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。しかし恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。」ゲーテっぽいド○ツ的なこの一文が、父が子に贈る言葉、もしくは先逹が後進に残すものとして何という素晴らしい名句だろう、と今更ながらに感じ入らせてもらいましたm(__)m この組み合わせが一冊になっていて良かった。
詩人だ。つーか文章の画家だ。自然の捉え方や表現が海外モノっぽい・・・と思ってたら解説で触れられてましたか(^ω^;) 谷崎さんはお耽美トーン、三島はパッション、川端は透明な美学の枠、志賀さんは淡々としたありのままのテンションを一定に保って、日.本の純文は余り激しい文章(展開ではなく文章ね)の起伏というか強弱が付かない印象なんだけど、コレは作中にpianissimoだのAllegroだのといった言葉が登場する、まさにその通りの絵画的であり音楽的でもある極めて珍しい、当時の日/本の文壇においては相当挑戦的な作品だったんだろうなー、と(@_@;) 二人称で非恋愛物な点といい。
「君」の在る世界の過酷さ、荒れ狂う海やどこまでも神秘的で美しい生を感じさせる山の描写、そうしたものに向ける情熱を、東京に越し、文学で食べていく道を選んだ主人公側の生活や視点には感じさせない。動と静の対比。淡々とした都会の芸術家として生きる己の生活を恥じてさえいるように、主人公の筆致は想像上の「君」の仕事や芸術、彼の生きる町や自然の有り様を描き出す時にこそ冴え渡り迸るような力強さを込めて同情と共感と悲しみをすら引き起こす。不思議だ・・・。
芸術家として生きることも、漁夫として貧しくもたくましく地に足を付けて生きることも選べずに思い悩む「君」、そしてそんな彼に答えを与えてあげられない主人公。それが人間の真実ではないのか、私も散々依存している幼なじみに「どんなにキツくても、結局は自分一人で乗り越えるしかないから」と言われたことを思い出した。ちっとも見捨てられたとは考えなかったし、素直にその通りだと感じた。荒れ狂う海の中の生と死の狭間で「君」が見出だした生への欲求も、陸に帰りつき、愛する山の景色に捨てきれない芸術への執着によって誘われた死への思いも確かにどちらも彼自身の紛れもない本心の一部なのだろう。「人間というものは生きるためにはいやでも死に近づき、生の一片をひったくって逃げなければならない。人間はその奪った生をたしなみしゃぶるが、ほどなくその生は尽きていくから、また死の方に近寄って行く」この捉え方は、大多数の現代日.本人には通用しないかもしれないけど私には衝撃的なほど納得できた。人類の長い歴史上大体がこうやって何とか日々を繋いできたはず。今でもそうやって暮らしている人たちの方が圧倒的に多いはず。我が家というか私の心理状態もぶっちゃけその瀬戸際だし(^^;「なぜそうまでして生きようとしなければならないのだろう。ほんとうに生は死よりも不思議だ。」全くその通り((-_-)ウンウン
でもって芸術に寄せる思いを周囲の誰もに理解されない孤独の境地にあって、「君」がそれを彼にとっての芸術の主題である故郷の自然にぶつける描写が(´;ω;`) 人間より自然の方が通じ合える、その時だけ不安も不幸も何もかも忘れて無心になれる、って感情が理解でき過ぎてしょうがない。自然には「力」があるから、時には恐ろしく時には温かく、見る度姿や印象を変える。それが切なくて、美しくて、どうしようもなくありのままの「生」を感じさせて触れる者を堪らない気持ちにさせるんだ、と。私も地元の山歩くの好きだけど元々神社あるせいか不安定な状態の時行くと引っ張られそうになるから(溜まりやすい?場所があるんですよねー、またオカルトネタで申し訳ないけど><;)、ちょっと最近は一人だと怖くて行けてないです。しかし彼の孤独とどうしようもない寂しさと捨てきれぬ芸術への想いが積み重なったスケッチと手紙によって、主人公は芸術と生、「地球が生きて呼吸をし、同時に日々彼のようにその内に隠れて生まれ出ようとする者の悩み」を感じとっていたく感激し、芸術家の一端を担う己の使命すら間近に取り戻したような結末が何とも爽やかで前向き。「君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。正しく、力強く、永久の春がほほえめよかし・・・僕はただそう心から祈る。」。・゜゜(ノД`)ウワアァン! 教会と縁切ったって言ってたやんけー!(そこ!?)
実はこの作品に入れ込んでしまったのは、例の亡くなった祖父の姿を思わず重ねてしまったせいもあります。北海道の貧しい子沢山の家、しかも結核で兵役にも行けず、画家になりたいなんて、絵の学校に行きたいとすら当然言える立場になかった祖父と。病気のせいで「君」のような厳しい体力仕事にこそ従事しなかったものの、これも何回も語ってますが彼の集めてきた画集やプラモやレリーフ彫りの趣味、時々描いてくれた家族の絵の見事さ(身内の欲目でしょうが私にはそう見えます)を思い返すとグッとくるものが(/_;) しかもクリスチャンだったしさー。何だかんだ言って少なくともこの時点での有島氏は神を棄てきれてないように私は作中で感じたよ。
『小さき者へ』
子を思う親の赤裸々な感情に胸打たれると同時に、子供たちの存在によって、また彼らに母の死を、命を、生の意味を伝えようとするこの文章を書くことによって作者自身が妻を喪った悲しみの痛手を必死に癒そうとしているのだ、という気持ちが切々と伝わってきた。そしてまた結核・・・うちのじーちゃんはT理教から逃れることで奇跡を起こせたのだろうか(^^;妻との出会いとその喪失によって、作者が己の弱さに力を見出だし始めた、というところにジーンと来ちゃった。「世間に数多い悲しみの内の一つに過ぎないことを引きずっていると嘲笑われても、それを恥じてはならない、恥ずべきことじゃない。そのありがちな悲しみがあってこそ私たちは人生のさびしさに深くぶつかってみることができる。小さなことが小さなことではなく、大きなことが大きなことではない。それは心一つだ。」「この悲しみがお前たちと私とにどれほどの強みであるか。私たちはこの損失のおかげで生活に一段と深入りしたのだ。人生を生きる以上人生に深入りしないものは災いである。」幼き子供たちを遺された父親として、妻を亡くした夫として溢れんばかりの切実な想いがここから痛ましいほどに生々しく伝わってきませんか?(;_;)ブワッ そして最後の「小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。しかし恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。」ゲーテっぽいド○ツ的なこの一文が、父が子に贈る言葉、もしくは先逹が後進に残すものとして何という素晴らしい名句だろう、と今更ながらに感じ入らせてもらいましたm(__)m この組み合わせが一冊になっていて良かった。
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短編集読み終わったよー。一連の夫婦ものや浮気作品(笑)に、彼がどれほど奥さんを大切に想っていたか、てかどんだけ可愛げと健気さと良妻賢母ぶりと愛情を兼ね備えた素晴らしい奥さんだったのか、ということと女性に対する彼の歪みも身勝手もありのまま、けれど決して嘘のない感情が伝わってきて何故かいっそ清々しい読後感(;゜∀゜) お清の気持ちへの勝手な決めつけ(そう思ってれば自分が楽、という)や、商売だからこそ一人確実に金払ってくれるある程度顔の売れた客を失うことの切実さとか全く考えてないよね。「割が悪い」まさにその通り!父と不和を抱えて金銭面ではともかく、一般的な家庭というものに余り恵まれたとは言えなかった志賀さんにとって、理想的な家庭を与えてくれた奥さんがいかに貴重で愛しい存在であったか、その家庭を壊してしまうことをどれだけ怖れていたか伝わってくる点が太宰なんかとは違ってとても良い人間味だな、と思いました。
あと『冬の往来』切ねぇ!(つд`) 薫さん魔性やなー。でも当時の女の人が置かれていた立場の限界や、貴婦人のヨロメキ萌えみたいなものも感じる。最終的に口に出すことすらできなかった初恋を抱えたまま、「人間はそれでいいのだと思う。」「好きは好きでも、それ以上に自分で高じさせないのが人間の運命に対する智慧なのだ。」という中津の気持ちにとても共感した。というか安心した。先日の就活講座でジョハリの窓紹介されてモヤモヤしていたくだり、無理に開放の窓を広げ過ぎなくても良いんだよね、秘密は秘密として自分の中だけに大事にしまっておいても良いんだ、と。
解説の部分ではやっぱり文学というものに対して分析や分類や学究的理解を試みようとするのは馬鹿げた行為としか考えられないし、何より作家本人が望んでいないことなんじゃねーの?としか感じられない自分としては表現がそのまま過ぎてアホらしく小難しい解釈当てはめようとする連中を煙に巻く志賀さんGJ!(^^)b と思っちゃったなー(笑)比べるのもおこがましいけど、自分もそのタイプだし。プロット?何それ?ってあらかじめ粗筋作ろうもんならソレで満足して終わるか、途中でイライラしちゃって絶対余計なエピ入れたくなって話逸れたり気づくと結末変わってんの(ノ∀`) だから長編には向かないんですね! 架空世界舞台にすることが多いのもそう。現実からできるだけ切り離したい、というのと現実という縛りに囚われたくないから。ガーッと気の向くままに書いたものの方が自分でもスッキリするし読み返した時「あ、うん私のだ((-_-)」と思える話になる。漱石とか鴎外苦手なのはこの辺の理由もあるかも。端的に言うと凝りすぎ?というか。次ちょっと有島読んでから『青い眼~』か『天使と悪魔』行こうと思うよ!
以下昼間の病み吐き出しですm(__)m
あと『冬の往来』切ねぇ!(つд`) 薫さん魔性やなー。でも当時の女の人が置かれていた立場の限界や、貴婦人のヨロメキ萌えみたいなものも感じる。最終的に口に出すことすらできなかった初恋を抱えたまま、「人間はそれでいいのだと思う。」「好きは好きでも、それ以上に自分で高じさせないのが人間の運命に対する智慧なのだ。」という中津の気持ちにとても共感した。というか安心した。先日の就活講座でジョハリの窓紹介されてモヤモヤしていたくだり、無理に開放の窓を広げ過ぎなくても良いんだよね、秘密は秘密として自分の中だけに大事にしまっておいても良いんだ、と。
解説の部分ではやっぱり文学というものに対して分析や分類や学究的理解を試みようとするのは馬鹿げた行為としか考えられないし、何より作家本人が望んでいないことなんじゃねーの?としか感じられない自分としては表現がそのまま過ぎてアホらしく小難しい解釈当てはめようとする連中を煙に巻く志賀さんGJ!(^^)b と思っちゃったなー(笑)比べるのもおこがましいけど、自分もそのタイプだし。プロット?何それ?ってあらかじめ粗筋作ろうもんならソレで満足して終わるか、途中でイライラしちゃって絶対余計なエピ入れたくなって話逸れたり気づくと結末変わってんの(ノ∀`) だから長編には向かないんですね! 架空世界舞台にすることが多いのもそう。現実からできるだけ切り離したい、というのと現実という縛りに囚われたくないから。ガーッと気の向くままに書いたものの方が自分でもスッキリするし読み返した時「あ、うん私のだ((-_-)」と思える話になる。漱石とか鴎外苦手なのはこの辺の理由もあるかも。端的に言うと凝りすぎ?というか。次ちょっと有島読んでから『青い眼~』か『天使と悪魔』行こうと思うよ!
以下昼間の病み吐き出しですm(__)m
食事の前にテーブルを拭くのは常識ではないのだろうか・・・(´―`) 明らかに自分の食事(しかも伸びやすい麺類)が先に出来上がるのが分かっていて布巾も放置、掃除やアイロン掛け終えて下に降りて来た私が慌てて拭いて支度して、ってやってる中でずっとリビングに座ってるだけだった親に「アレ取ってコレ取って」言われたらブチッと来ても仕方ないと思いませんか。どうして食卓を拭いていてくれないのか、と言ったら「俺はそんなこと全く気にならないんだから、おまえの常識を他人に押し付けるな!」ですよ・・・常識以前に衛生観念の問題だと思うのだが、やっぱり私が神経質過ぎるのか? 「コッチは今までずっと上でおたくの部屋の掃除やYシャツのアイロン掛けとかしてたんだよ?」と言ったら「誰が頼んだって言うんだ!誰もしてくれなんて頼んでない!」と来たもんだ\(^o^)/結婚してから1度も自分で掛けたことない人間が(笑)私がやらない→母の負担増でソレはOKなのね? 確かに私頭おかしいからキレ方が尋常じゃない(あ、暴力とか凶器持ち出したりはもちろんしません。言葉や態度って意味で)面はあるんだろう。特に一日出たら一日ヒキりたい自分が、今週は小さなことや行楽でも1週間割と出ずっぱりで最初の就活講座があったりでかなり溜まってたし、アレ前というのもあって頭も腰も痛いしかなり気が立っているせいもあったかも。そういう時は家族相手だと尚更コントロールが利かなくなる、みたいなことを言ったら「開き直るな、出て行け!」ですよ、自分だって鬱で処理未遂経験×複数アリの癖に、やっと必死で這いずり始めた人間もどきをいくらムカついたからって追い込むようなこと言わないでほしいっつーか、正直2ヶ月前に妹と揉めた時みたいに言われたまますぐやっちゃいそうになるからさ。でもそうしたらどうやってもタヒ体は帰ってきちゃって葬式免れないし、無縁仏にテキトーに入れてもらうとかも叶わないだろうし、失敗したら怒られまくるし(-_-;) やっぱ親が先立つまでは何とか踏みとどまらないと、と紙袋吸いながら必死(笑)ホント早く実際に出ていける算段整えないとダメですね。家族も私もお互い追いつめられてドンドンおかしくなってしまう。
追記を閉じる▲
録画してた映画見て、志賀短編集1/3くらい読んだよー。食い合わせがカオスでも気にしない☆つか志賀さん石巻生れだったんか!@今更。それで伊達騒動ネタが出てくんのね。登場人物の名づけにフイタ(ノ∀`) おいしそうってか、長谷川町子臭メッチャする感じですね。(※相変わらず時事や歴史に触れたり重めの自分語り含みますm(__)m)
『V FOR~』議長の発言や振る舞いがト○ンプとめっちゃ被りすぎワロタ(^ω^) ヒ○ラーやス○ーリン意識してんのかもしれないけど、最終的にただの俗悪な小物なんだもん(笑)ナタリー・ポートマンはエマ・ワトソンと並んで成功した子役出身女優の代表格やな。フリーハウスで成長したミシェル双子がどんな演技してんのかも気になってますが、ジョーイおじさんの件に気を取られ過ぎてね・・・(´ー`) 私常々本当の美人は坊主頭か着物の似合う人、と考えてるんですがナタリーはそれを実証してくれて良かった。ミラ・ジョヴォヴィッチはジャンヌ・ダルクか何かの時にスッカリ「苦手な顔」になってしまったから。(ファンの方すみませんm(__)m)イヴィーちゃん、少しも笑わないのに健気で綺麗でかっわええ!>< そりゃ肉体を改造されて憎しみに囚われ、人の心を忘れてしまった怪人Vが恋に落ちちゃうわけも分かるわ。
社会的風刺やナ.チやソ/連を思わせる残酷な収容所や拷問・監視体制、自らの国への批判やウチの地下鉄サ○ン事件を思わせるシリアスな描写を交えつつも、『岩くつ王』やシェイクスピア、『オペラ座の怪人』へのオマージュが含まれていたり、Vの音楽への傾倒や束の間の切ないダンスシーンにイギ○スらしい皮肉の利いたコメディショーなど、芸術・娯楽的な側面も盛り込まれていたり、結果的には「みんな」というヒーローによる勧善懲悪物語としてエンタメの範疇に収まる仕上がりになっていて上手いなー、と感じました((-_-)ウンウン ていうかラスト、スクリーンに赤字のVが描かれつつまさかのストーンズ『Street Fighting Man』が流れるという演出に大歓喜!o(≧∇≦)o だってVやイヴィ―が劇中で流してたのって隠喩的なクラシックかレトロ系の曲ばっかだったからさー。意外だけどメッセージとしてはどれも用いられた背景や歌詞のテーマだったりが共通してるというか合ってるんだな、と。舞台がイギリ○なわけですし、恐らくこの曲も禁止されていた文化の一部だったんだろう。あぁもうこんな好みが凝縮された作品をずっと気になりつつ見逃してやがった自分にツッコみたい気分(^^;
まぁ正直『1984』を読んだキッカケも、今猛然と読書ブームに励んでいるのも(笑)、昨今の世の中がドンドンこっちの方向に流れていってる気がしてね・・・。考え過ぎなのかもしれないし、何だかんだ言ってウチの国で気をつけるべきは「集団心理」、行きすぎた「自重」であって世界がどう動こうと根本的な部分は変わらないんじゃないか、と歴オタとしては信じてるんだけど、コンピューターや交通手段の発達で世界は余りに狭くなりすぎたから(´・ω・`) 犯罪も監視も容易すぎる。ので、どこかで何かが起こった際のバタフライ・エフェクトがいつ我が身にふりかからないとは考えられないじゃないですか。だから読める内、見られる内にタヒぬまでの暇潰しとして、何かを残そうとか伝えようとした人々の価値観や意志に触れておくのは意味のあることなんじゃないか、と。その結果が、こんな虫けらでも愛する人間様方のお役に立てる何かをもたらせるかもしれないし!とかいうお約束のちょっと歪んだ思考がどうしても顔を覗かせてしまいますが( ´∀`;)
格闘シーンの超人V()は堪らなく格好良いし、壁の向こうから届く「真実の声=希望」という名のエドモン・ダンテスとファリス司祭の絆を思わせる表現、Vとイヴィーにそれを与えた過去の女優と恋人の想い出を象徴する薔薇の花をVが自らの印として残すという演出がとても美しくて哀しい。更に説明しがたいマイノリティに属する私は、彼女たちやゴードンの結末には涙せずにはいられなかった。そして同時にどうしようもなくいつもの羨みを覚えた。
(※ここから自分語り→てか今ぶっちゃけ知人からお見合い的なものを匂わされてて・・・カムアウトの瀬戸際かもしれない状況だったりするんですよねー\(^o^)/ 何でそうなったか、っていうと小さい頃から色々とお世話になってるその方が兼ねがね「ウチの息子に(以下略)」みたいなことを冗談交じりに話題にされてて、昨年父が倒れた時ICUの待合室でとにかく自分一人だけでも片付けなきゃ、とか家や父の職場の始末を考えて、「もしこんなんでも良いって言ってくれる人がいるなら考える」って母にペロッと口走った結果なんですorz ぶっちゃけそこの家が地価上昇中の土地持ちだということを考慮に入れた上でそういう意味の発言もしました。我ながら最低だという自覚はありますm(__)m その時は必死で何でもしなきゃ、できる気がしていたんだけれど、いざ父が回復し、具体的な夫婦生活というものについて考えた結果「オエェー(汚)」と自覚せざるを得ない状態になって今に到るという事情をどう説明して良いものか。親は「金づる失って働かなきゃいかないと思ったからそうなってるんでしょ!」って食べられなくなったことについて罵声を浴びせてきたけど、実はそれが一番大きな原因でした、なんて打ち明けられるかっつの。ずっと子供を生むことにこだわってきた自分だって、それこそ今もマトモに食えないくらいショックだったのに。精神科の先生には「いつまでも隠してはいられないよ」と言われたけど・・・最後に挑戦して諦めたのは何年も前だし、もし何とか克服できて頼れる親戚が増えるなら、せめて私という重荷が減るだけでも家族にとっては良いことづくめだよなぁ、とか考えちゃうし。長いこと引きこもって心配かけた娘の子どもの顔見られるだけでも、親にとってそれに勝る喜びはないんだろうな、とも思うし。あー今からでもホルモン治療でも何でも使って誰かマトモにしてくれないかな。せめて吐いたり発作起こさずに子作り~出産までこなせるように何とかなれないかな。せめて堂々と、それこそ「パートナーのいるL G B Tです!」って言える方向の性癖だったり、もっと早く認めて一人で生きられる強さを備えられれば良かったのに。とりあえず何かを察したらしい(あるいはせっかく就活する気になったんだから、と考えたのか)親に「今はソレを口実に断っておくね」とは言われたんだけど・・・ちょっと今後のこと考えるとどうして良いかわからない。自業自得なんだけど、なるべくタヒぬまで黙っておくか、とにかく何とか距離をおいて生活できるようになる頃には妹弟のどちらかに子どもが生まれて、私の方はそういうもんとして諦めてもらう希望的予定しかなかったので)
最期に愛によって復讐の苦しみから解き放たれるVの姿は、ますます彼の憧れていたモンテ・クリスト伯が重なりますね。「復讐を優先させるなんて、メルセデスが可哀想」というイヴィーのセリフがフラグだったんか、と振り返ると・゜・(つД`)・゜・
でもって映画の中で性的マイノリティが置かれた状況に深い同情と共感を寄せつつ上の件の話題になって(まぁ昨日から知ってはいたんですけど)かなり動揺する精神を志賀御大の短編集がちょっと慰めてくれた(;_;) ウワーン、日/本の景色って美しいよぅ!生の躍動感、動のあるものではなく、穏やかな静けさや死の中にこそ命というものの意味や儚さや重み、この世の美と真実を見出す彼の文章はどこまでもその穏やかさ、静けさを纏って優しい。例え残酷でも、滑稽でも、悲劇でも。リアルなのに過酷で突き刺さるような生々しさは感じさせない。ただちょっと人の心の隅を針でつつく。誰しもが抱える感情、誰もが接したことのあるような登場人物、誰もがウッカリやってしまうような些細な言動と、それが周囲に及ぼす、こちらも些細な、けれど取り返しのつかない波紋のような結末。皆が人生という小さな動乱の中で、少しずつ各々の後悔や痛みを抱えながら生きている。だからこそその動きが止まる時、死の静けさの中にこそ安らぎを見出し、一方でついさっきまで動にあったものが停止する瞬間を極端に恐れもする。『城の崎にて』『十一月三日午後の事』『雪の日』は情景描写の巧みさも相まって不思議と胸に沁み入った。つーか打たれた。不意のイタズラで「イモリを殺してしまった」『城の崎~』の主人公と「殺すつもりで買った鴨を殺せなかった」『十一月~』の主人公は、先に蜂や兵隊たちの姿を持ってくる効果的な演出の点といい、対を成す作品とも捉えられるのではないだろうか。
『雪の日』は素直に作品の美しさに感動した。あとやっぱり日.本人はアジアを軽んじてなどいなかった、近隣諸国の歴史や文化を開国前と同じように敬い、自国のそれと同時に世界へと広めることを願っていた、とこの作品読むだけで察してもらえはしないだろうか?(・・;) 当時既に半島を支配下に置いていたから、自国の良いものアピールしたかっただけだって?だったら何故わざわざ「朝/鮮」という名を持ち出し、現地への訪問を勧めたりするんだよ、同盟も終わりかけてた頃の英.国人相手にさ!中/韓は「日.本が文化財を略奪した」と広く喧伝して憤るけど、自分たちの手でその価値に気づき保護し伝えることができたのか、当時国すら危うくする有様で、と長い歴史と文化を育んできたアジアの一員という事実に誇りを持っている日/本人としては訴えたいね。彼らの文化を何よりも尊び、その価値を知っていたのはウチらだって、ちょっと日.本史学んで同時代の東洋史比較すれば断言しても過言じゃないと思うから。「唐渡り・舶来物」が古来からどれほど貴重品扱いされてきたか、捕虜として連行された陶工にどれほどの待遇を与え、その芸術を花開かせる下地を作ったか、画家たちの描いた墨絵や庭園の作りでさえ、古代の大陸文化への憧れや思想の影響が垣間見えないものは無い。どんなに西洋の学問を学んでそちらの思想に感銘を受けたエリート層でも、漢詩や大陸の古典に関する知識は長く必須の教養として当たり前に染みついているものだったんですよ。だから未だにセンター「国語」の1/4を漢文が占めてるんだっつの。頼むからウチの大陸への想いを、断ち切れない絆を現代に生きる双方の国の人間にどうか理解してほしい、とそればっか祈ってしまうわ最近。宗教かよ、ってくらいおかしな方向にエスカレートする一方の半島両国の皆さんに対してもね(´Д`;) ちょっとはマトモにフィルター外して朝/鮮人陶工の話や通信使の日記調べてみんかい!と。
社会的風刺やナ.チやソ/連を思わせる残酷な収容所や拷問・監視体制、自らの国への批判やウチの地下鉄サ○ン事件を思わせるシリアスな描写を交えつつも、『岩くつ王』やシェイクスピア、『オペラ座の怪人』へのオマージュが含まれていたり、Vの音楽への傾倒や束の間の切ないダンスシーンにイギ○スらしい皮肉の利いたコメディショーなど、芸術・娯楽的な側面も盛り込まれていたり、結果的には「みんな」というヒーローによる勧善懲悪物語としてエンタメの範疇に収まる仕上がりになっていて上手いなー、と感じました((-_-)ウンウン ていうかラスト、スクリーンに赤字のVが描かれつつまさかのストーンズ『Street Fighting Man』が流れるという演出に大歓喜!o(≧∇≦)o だってVやイヴィ―が劇中で流してたのって隠喩的なクラシックかレトロ系の曲ばっかだったからさー。意外だけどメッセージとしてはどれも用いられた背景や歌詞のテーマだったりが共通してるというか合ってるんだな、と。舞台がイギリ○なわけですし、恐らくこの曲も禁止されていた文化の一部だったんだろう。あぁもうこんな好みが凝縮された作品をずっと気になりつつ見逃してやがった自分にツッコみたい気分(^^;
まぁ正直『1984』を読んだキッカケも、今猛然と読書ブームに励んでいるのも(笑)、昨今の世の中がドンドンこっちの方向に流れていってる気がしてね・・・。考え過ぎなのかもしれないし、何だかんだ言ってウチの国で気をつけるべきは「集団心理」、行きすぎた「自重」であって世界がどう動こうと根本的な部分は変わらないんじゃないか、と歴オタとしては信じてるんだけど、コンピューターや交通手段の発達で世界は余りに狭くなりすぎたから(´・ω・`) 犯罪も監視も容易すぎる。ので、どこかで何かが起こった際のバタフライ・エフェクトがいつ我が身にふりかからないとは考えられないじゃないですか。だから読める内、見られる内にタヒぬまでの暇潰しとして、何かを残そうとか伝えようとした人々の価値観や意志に触れておくのは意味のあることなんじゃないか、と。その結果が、こんな虫けらでも愛する人間様方のお役に立てる何かをもたらせるかもしれないし!とかいうお約束のちょっと歪んだ思考がどうしても顔を覗かせてしまいますが( ´∀`;)
格闘シーンの超人V()は堪らなく格好良いし、壁の向こうから届く「真実の声=希望」という名のエドモン・ダンテスとファリス司祭の絆を思わせる表現、Vとイヴィーにそれを与えた過去の女優と恋人の想い出を象徴する薔薇の花をVが自らの印として残すという演出がとても美しくて哀しい。更に説明しがたいマイノリティに属する私は、彼女たちやゴードンの結末には涙せずにはいられなかった。そして同時にどうしようもなくいつもの羨みを覚えた。
(※ここから自分語り→てか今ぶっちゃけ知人からお見合い的なものを匂わされてて・・・カムアウトの瀬戸際かもしれない状況だったりするんですよねー\(^o^)/ 何でそうなったか、っていうと小さい頃から色々とお世話になってるその方が兼ねがね「ウチの息子に(以下略)」みたいなことを冗談交じりに話題にされてて、昨年父が倒れた時ICUの待合室でとにかく自分一人だけでも片付けなきゃ、とか家や父の職場の始末を考えて、「もしこんなんでも良いって言ってくれる人がいるなら考える」って母にペロッと口走った結果なんですorz ぶっちゃけそこの家が地価上昇中の土地持ちだということを考慮に入れた上でそういう意味の発言もしました。我ながら最低だという自覚はありますm(__)m その時は必死で何でもしなきゃ、できる気がしていたんだけれど、いざ父が回復し、具体的な夫婦生活というものについて考えた結果「オエェー(汚)」と自覚せざるを得ない状態になって今に到るという事情をどう説明して良いものか。親は「金づる失って働かなきゃいかないと思ったからそうなってるんでしょ!」って食べられなくなったことについて罵声を浴びせてきたけど、実はそれが一番大きな原因でした、なんて打ち明けられるかっつの。ずっと子供を生むことにこだわってきた自分だって、それこそ今もマトモに食えないくらいショックだったのに。精神科の先生には「いつまでも隠してはいられないよ」と言われたけど・・・最後に挑戦して諦めたのは何年も前だし、もし何とか克服できて頼れる親戚が増えるなら、せめて私という重荷が減るだけでも家族にとっては良いことづくめだよなぁ、とか考えちゃうし。長いこと引きこもって心配かけた娘の子どもの顔見られるだけでも、親にとってそれに勝る喜びはないんだろうな、とも思うし。あー今からでもホルモン治療でも何でも使って誰かマトモにしてくれないかな。せめて吐いたり発作起こさずに子作り~出産までこなせるように何とかなれないかな。せめて堂々と、それこそ「パートナーのいるL G B Tです!」って言える方向の性癖だったり、もっと早く認めて一人で生きられる強さを備えられれば良かったのに。とりあえず何かを察したらしい(あるいはせっかく就活する気になったんだから、と考えたのか)親に「今はソレを口実に断っておくね」とは言われたんだけど・・・ちょっと今後のこと考えるとどうして良いかわからない。自業自得なんだけど、なるべくタヒぬまで黙っておくか、とにかく何とか距離をおいて生活できるようになる頃には妹弟のどちらかに子どもが生まれて、私の方はそういうもんとして諦めてもらう希望的予定しかなかったので)
最期に愛によって復讐の苦しみから解き放たれるVの姿は、ますます彼の憧れていたモンテ・クリスト伯が重なりますね。「復讐を優先させるなんて、メルセデスが可哀想」というイヴィーのセリフがフラグだったんか、と振り返ると・゜・(つД`)・゜・
でもって映画の中で性的マイノリティが置かれた状況に深い同情と共感を寄せつつ上の件の話題になって(まぁ昨日から知ってはいたんですけど)かなり動揺する精神を志賀御大の短編集がちょっと慰めてくれた(;_;) ウワーン、日/本の景色って美しいよぅ!生の躍動感、動のあるものではなく、穏やかな静けさや死の中にこそ命というものの意味や儚さや重み、この世の美と真実を見出す彼の文章はどこまでもその穏やかさ、静けさを纏って優しい。例え残酷でも、滑稽でも、悲劇でも。リアルなのに過酷で突き刺さるような生々しさは感じさせない。ただちょっと人の心の隅を針でつつく。誰しもが抱える感情、誰もが接したことのあるような登場人物、誰もがウッカリやってしまうような些細な言動と、それが周囲に及ぼす、こちらも些細な、けれど取り返しのつかない波紋のような結末。皆が人生という小さな動乱の中で、少しずつ各々の後悔や痛みを抱えながら生きている。だからこそその動きが止まる時、死の静けさの中にこそ安らぎを見出し、一方でついさっきまで動にあったものが停止する瞬間を極端に恐れもする。『城の崎にて』『十一月三日午後の事』『雪の日』は情景描写の巧みさも相まって不思議と胸に沁み入った。つーか打たれた。不意のイタズラで「イモリを殺してしまった」『城の崎~』の主人公と「殺すつもりで買った鴨を殺せなかった」『十一月~』の主人公は、先に蜂や兵隊たちの姿を持ってくる効果的な演出の点といい、対を成す作品とも捉えられるのではないだろうか。
『雪の日』は素直に作品の美しさに感動した。あとやっぱり日.本人はアジアを軽んじてなどいなかった、近隣諸国の歴史や文化を開国前と同じように敬い、自国のそれと同時に世界へと広めることを願っていた、とこの作品読むだけで察してもらえはしないだろうか?(・・;) 当時既に半島を支配下に置いていたから、自国の良いものアピールしたかっただけだって?だったら何故わざわざ「朝/鮮」という名を持ち出し、現地への訪問を勧めたりするんだよ、同盟も終わりかけてた頃の英.国人相手にさ!中/韓は「日.本が文化財を略奪した」と広く喧伝して憤るけど、自分たちの手でその価値に気づき保護し伝えることができたのか、当時国すら危うくする有様で、と長い歴史と文化を育んできたアジアの一員という事実に誇りを持っている日/本人としては訴えたいね。彼らの文化を何よりも尊び、その価値を知っていたのはウチらだって、ちょっと日.本史学んで同時代の東洋史比較すれば断言しても過言じゃないと思うから。「唐渡り・舶来物」が古来からどれほど貴重品扱いされてきたか、捕虜として連行された陶工にどれほどの待遇を与え、その芸術を花開かせる下地を作ったか、画家たちの描いた墨絵や庭園の作りでさえ、古代の大陸文化への憧れや思想の影響が垣間見えないものは無い。どんなに西洋の学問を学んでそちらの思想に感銘を受けたエリート層でも、漢詩や大陸の古典に関する知識は長く必須の教養として当たり前に染みついているものだったんですよ。だから未だにセンター「国語」の1/4を漢文が占めてるんだっつの。頼むからウチの大陸への想いを、断ち切れない絆を現代に生きる双方の国の人間にどうか理解してほしい、とそればっか祈ってしまうわ最近。宗教かよ、ってくらいおかしな方向にエスカレートする一方の半島両国の皆さんに対してもね(´Д`;) ちょっとはマトモにフィルター外して朝/鮮人陶工の話や通信使の日記調べてみんかい!と。
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そういえば一昨日行った白石の某旧家(もう住んでなくて公開中)に不自然に継ぎ足された洋館部分があって、床下の格子が五芒星模様だったのには吹いたなー(;゜∀゜) 個人的にタイムリー!と思って。そういう知識がある建築家の設計だったのか、よく分からんけど異国のモチーフ使いたかったのか、家主が陰陽道を篤く信仰していて頼みこんだのかはわからないけど(笑)
以下、自分語り含む辛めかもしれない感想ですm(__)m
以下、自分語り含む辛めかもしれない感想ですm(__)m
上巻が普通に展開読みづらくて面白かっただけに、ニュートンもルーブルも早い段階で予想つきすぎてつまんなかったんだが、上下に分かれてるミステリーって後半加速するからこんなもんかな? 暗号もいい加減しつこくて飽きるし、ぶっちゃけ結局意味なかったし(*_*; あと正直シオン修道会の思想や在り方がクソうざい。昔自分の小話の中で「神は人を惑わす蜃気楼で追うだけ虚しい」みたいなこと書いたけど、まさにソレじゃん。存在葬って匂わせることすら止めれば無駄に命が失われずに済むんだよ、いい加減にしろっつのバカじゃねーの?^^#ビキビキ 大人の思惑で「守る」とか言って(そもそも彼らがそこまで重視して血統だのの変な圧力をかけず、野に放って自由な交配()を許しておけば特定することすらできないほど子孫が広がってたかもしれなかったのに)引き離されちゃった姉弟も、多感な年頃に祖父のアレな儀式シーンを目撃しちゃったソフィーなんか、本当に哀れそのものじゃん。私Aセクだからあの行為を神聖視するの絶対無理。生物としてこれ以上なく崇拝にふさわしい不可欠な豊穣や生命力の象徴というのは理解できるんだけどね。ソレを通じて「神に触れる」という精神的な意義を見出す思想には納得できない。人間だけを特別扱いしてんじゃねーよ、獣や虫と同じただの子作り手段だろうが、ってこの辺大きな思想の隔たりを覚える・・・orz
暗号のくだりといい、余りに残酷で人を振り回すにもほどがあり馬鹿げているとしか思えない。話の結末から言えば、テンプル騎士団が13日の金曜日に壊滅させられた時点でシオン修道会も解散して聖杯なんかうっちゃってしまえば良かったんだよ。昔の信仰が何? 教会がマグダラのマリアを貶めて女性を蔑視したって? だから何、その捏造を受け入れたのは紛れもないその時代の人々の選択の結果じゃん。必要とされなかったものだから滅びた、あるいは弱くて負けたから消えていった、自然の摂理によって淘汰された歴史上の真実が人間のソレの中でどんだけあるか。もしシオン修道会というものが生き残らず聖杯の存在が朽ち果て忘れ去られていたなら、「サー」の称号を持つ知的な人物が狂った悪魔に変わり果てることはなかったはず。かけがえの無い今を生きる複数の命も失われずに済んだし(まぁその内の5人くらいは紛れもなく修道会絡みだったので自業自得ザマミロ、としか感じませんけど、その「罪」にどうしようもない痛みを覚えていたシラスの気持ちを考えるとね(´;ω;`))、ソフィーやラングドンがあれほどの苦しみや恐怖を味わう必要も無かった。ソフィーの弟が故郷から遠く離れた地で、家族の生存も知らず寂しく育つこともなかった。本当アホらしくてムカつくよ!
やっぱりマトモなキレ者はフラ○ス警察の人間だけでしたね。レミーも哀れだったし、私はぶっちゃけ歴オタ兼「信仰は永遠に持てないでござる(´-`)」人間なのでどっちかというとティービング側に近いタイプなんだけど、作中で最も同情して泣けたのが彼に利用されたオプス・デイの二人の絆と悲しさに対してだった。私は真実が知りたいし、未だかつて「神」という架空の創造物・人間が生み出した概念を欠片も信じる気になれたこともない。(オカルトネタのとこでぶっちゃけた、時々感じる多分原始的なアニミズムでそういう風に祀られてたのかなー、系の物理的に存在しない?何て表現すれば良いか分からないけど触れられる実体を持たなかったり動物や人間のように自ら動いて誰にでも聞こえる声を発さないものは総称して「力」と呼ぶことにしている。つかむしろ昔からそういう捉え方だったから既存の体系化された宗教へのツッコミが止まらないというか、自分には無理です、となるんだよね><; 都市にある大きめの教会や寺社仏閣にソレが備わっているのは、正直何百年、何万人、何億回と必死に祈りを捧げてきた人々の「念(時々残ってしまうのは霊魂じゃなくてコッチだ、とオカルト話でも書きましたが)」が籠っているからですよ。本当に最初から「力」があって祀られる対象になった場所、例えば日.本なら山伏の修験場として名高い山にでも登ってみたら良い。出羽三山なんかちょっとでも敏感な人間は圧倒されて気持ち悪くなるくらい凄まじいから。)それでも、登場人物中最も愚かで純粋で高潔だった彼らの魂に、どうか彼らの信じる「主」というものが存在し、天国あるいは地獄という死後の世界の救いがどうか与えられますように、と祈りたい気持ちになってしまった・゜・(つД`)・゜・
しつこく繰り返しますが、例え自分が信仰を持てなくても、それによって救われる多数の人々の存在や、長く続いてきたシステムとしての有用性や意義を否定する気はこれっぽっちもないんです(・・;) 私の家族だって、間違いなくそれに助けられきて、その様を目の当たりにしてきたから。それでも祖父の最期は堪えられないくらい虚しくて辛くて宗教に対して「もう無理だ」と感じざるを得ないキッカケの一つとなってしまったけど・・・。その祖父の死を祖母が乗り越えられたのは教会と「主の教え」と牧師様や信徒仲間の慰めだったことも確かだとわかってる。何か色々複雑な気分になってくるのでこの辺で止めますが\(^o^)/ まぁ少なくとも金も人間関係も全てを台無しにして奪っていく某党よりは、祖母の所属している教会の方がはるかにマシな組織だとは考えてるよ!
あと全編通してウッザかったのは、とにかく露骨な女性&ユダ○人の悲劇アピールからの異様な持ち上げっぷり。いやイエ○がユダ○人ってのは知ってるし、そうだね王族の系譜だと色々辻褄が会うよネ☆ってことになっているのも知っている。けどさー、現代に残っている聖/書が丸っきりの捏造と嘘だけ、ということもないと思うんですよ・・・(;´д`) つまり何故マグダラのマリアを他の弟子が否定的に見ていたかというと(以下略)ってことなんじゃないっすかね? 正直現代の読者に媚びるため、あるいは意識高い系の世界的潮流()としてのフェミニズムフィルター、アング○にとって最大のスポンサーでありW W 2で究極の「正義の味方」というイメージを決定付けてくれた○ダヤ様への配慮がかーなーり透けて見える感じが日.本人女性としてイライラして仕方ない(^ω^#)ウッフフ
例えば「原始女性は太陽であった」のに「男子にしか皇位継承権を認めない典範は改正すべき」と最近エライさん()から叱られたウチの例を見てみよう。
①山の神が嫉妬するため、神聖な山は女人厳禁→比/叡山にケーブルカー使わずに登った経験上、整備されている今ですらこんなにキツイなら昔は獣や追い剥ぎも出ただろうし、女性にとって登山自体がどんだけ危険なことだったのか思い知る。
②祭りの準備は男の仕事。女性は「穢れている」ため神輿に触れてはいけない→とある祭りを手伝わせてもらった際、その「準備」がどれだけ大変な力と時間を使うものか学んだ。今より家事や子育てが大変だったであろう時代、女性たちに更なる負担を担わせることはできなかっただろうし、神輿を担ぐのも、神事自体も危険な力仕事を伴う場合が多い。
③女性天.皇廃止→日/本の歴史上「自ら望んで積極的に」即位した女性皇.族がいたとは考えがたい。次代までの繋ぎ、あるいは周囲の政治的意図によってその地位に「仕方なく就かざるを得なかった」例ばかり。寡婦以外は伴侶も望めず、正直言って娘がいる親の立場なら間違いなく就かせたくない職業1,2を争う部類に入ると思う(´-`)
つまり何が言いたいかというと、「女性蔑視」と捉えられがちな風習もある面では女性を保護するためのものであり、男女双方のプライドを守るために「神聖さを損なう」だなんだって方便を取り繕い、社会が暗黙の了解としてソレを受け入れてきたわけ。昔の女性の立場を明けすけに代弁させてもらうとしたら、男性に対して「大変な仕事押し付けちゃうから、建前上は一段下の位置に回ってアンタたちの顔立ててやるね」って感覚?(^^; 私は少ない事例かもしれないけど体験したり文献漁って大体その結論に行き着いたかなぁ、元はU野先生読むようなフェミ系だったんだけど!(爆笑)結局はただの身体特性的向き不向きによる役割分担で、特に日/本では家計の管理だの家の中のことは女性が絶対的な権力を長く保持してきたわけだし、「女房に頭が上がらない男の話」も古代から山と残ってる。(個人的に好きなのは『落窪物語』の阿漕と帯刀カップル(ノ∀`))だから「一億総活躍社会」なんて掲げてる今でも日.本女性の憧れの職業は何だかんだ言って「専業主婦」なんじゃんねー。
機械化が進み、誰でも高度な教育を受けることが可能になり、コンピューター使用の力を必要としない仕事が増えた今、かつてほど身体能力や特性の差で割り振られてきた男女の役割を分担する必要性がなくなりつつあることは認めます。けれどソレが確かに生物としての人間の歴史の一端を成してきたものであり、「同権」の名の元に全否定、あるいはそれこそバチ○ンが「異教」に対してそうしたように完全に根絶する、というようなことも間違っているように感じるんです。確かにイス○ム教の戒律が厳しい一部の地域の女性の待遇や権利に問題があることは明白だし、イ○ドのカースト外結婚などで凄惨な行為が為されているのも深刻に憂慮されるべき事態だと思う。でも、何もかも現代の、それも己の属する社会のフィルターだけを通して物事を捉えてしまうのはとても不公平だし、誠実ではない印象を受けるんだよなぁ(-_-;)
微妙な読後感&一周回って期待値が大きすぎたのか?という気分になってしまったので、ちょっと純文さまよってからこのシリーズに戻ろうかな。やっぱり向こうの人たちって常に何かしらの社会的観念(Missionを求める思考といいますか)に縛られていて中々そこから脱け出せないんですかね?(;・ω・) たまにはメソメソ社会的な問題や視点なんか忘れて、ひたすら自分のことだけ、自分の心の内と対話して吐き出すような作品書けば良いのに。日.本の純文なんか時代的な思想や社会風刺を含みつつも結局はソコに終始する主人公ばっか、というかそう見せるのが上手いですよね(@_@;) あくまでオハナシの背景・小道具としてそういう面を主要なテーマではないんですけど、って形で織り込んじゃうの。そういうやり方の方が、ハッキリ直球で押し付けがましく重いのぶっぱなす小難しく見せかけて一度読んだらもう良いや、となる長ったらしい癖に薄い話より好きだなぁ。私が日/本人だからそう思ってしまうんだろうか?(-_-;)
暗号のくだりといい、余りに残酷で人を振り回すにもほどがあり馬鹿げているとしか思えない。話の結末から言えば、テンプル騎士団が13日の金曜日に壊滅させられた時点でシオン修道会も解散して聖杯なんかうっちゃってしまえば良かったんだよ。昔の信仰が何? 教会がマグダラのマリアを貶めて女性を蔑視したって? だから何、その捏造を受け入れたのは紛れもないその時代の人々の選択の結果じゃん。必要とされなかったものだから滅びた、あるいは弱くて負けたから消えていった、自然の摂理によって淘汰された歴史上の真実が人間のソレの中でどんだけあるか。もしシオン修道会というものが生き残らず聖杯の存在が朽ち果て忘れ去られていたなら、「サー」の称号を持つ知的な人物が狂った悪魔に変わり果てることはなかったはず。かけがえの無い今を生きる複数の命も失われずに済んだし(まぁその内の5人くらいは紛れもなく修道会絡みだったので自業自得ザマミロ、としか感じませんけど、その「罪」にどうしようもない痛みを覚えていたシラスの気持ちを考えるとね(´;ω;`))、ソフィーやラングドンがあれほどの苦しみや恐怖を味わう必要も無かった。ソフィーの弟が故郷から遠く離れた地で、家族の生存も知らず寂しく育つこともなかった。本当アホらしくてムカつくよ!
やっぱりマトモなキレ者はフラ○ス警察の人間だけでしたね。レミーも哀れだったし、私はぶっちゃけ歴オタ兼「信仰は永遠に持てないでござる(´-`)」人間なのでどっちかというとティービング側に近いタイプなんだけど、作中で最も同情して泣けたのが彼に利用されたオプス・デイの二人の絆と悲しさに対してだった。私は真実が知りたいし、未だかつて「神」という架空の創造物・人間が生み出した概念を欠片も信じる気になれたこともない。(オカルトネタのとこでぶっちゃけた、時々感じる多分原始的なアニミズムでそういう風に祀られてたのかなー、系の物理的に存在しない?何て表現すれば良いか分からないけど触れられる実体を持たなかったり動物や人間のように自ら動いて誰にでも聞こえる声を発さないものは総称して「力」と呼ぶことにしている。つかむしろ昔からそういう捉え方だったから既存の体系化された宗教へのツッコミが止まらないというか、自分には無理です、となるんだよね><; 都市にある大きめの教会や寺社仏閣にソレが備わっているのは、正直何百年、何万人、何億回と必死に祈りを捧げてきた人々の「念(時々残ってしまうのは霊魂じゃなくてコッチだ、とオカルト話でも書きましたが)」が籠っているからですよ。本当に最初から「力」があって祀られる対象になった場所、例えば日.本なら山伏の修験場として名高い山にでも登ってみたら良い。出羽三山なんかちょっとでも敏感な人間は圧倒されて気持ち悪くなるくらい凄まじいから。)それでも、登場人物中最も愚かで純粋で高潔だった彼らの魂に、どうか彼らの信じる「主」というものが存在し、天国あるいは地獄という死後の世界の救いがどうか与えられますように、と祈りたい気持ちになってしまった・゜・(つД`)・゜・
しつこく繰り返しますが、例え自分が信仰を持てなくても、それによって救われる多数の人々の存在や、長く続いてきたシステムとしての有用性や意義を否定する気はこれっぽっちもないんです(・・;) 私の家族だって、間違いなくそれに助けられきて、その様を目の当たりにしてきたから。それでも祖父の最期は堪えられないくらい虚しくて辛くて宗教に対して「もう無理だ」と感じざるを得ないキッカケの一つとなってしまったけど・・・。その祖父の死を祖母が乗り越えられたのは教会と「主の教え」と牧師様や信徒仲間の慰めだったことも確かだとわかってる。何か色々複雑な気分になってくるのでこの辺で止めますが\(^o^)/ まぁ少なくとも金も人間関係も全てを台無しにして奪っていく某党よりは、祖母の所属している教会の方がはるかにマシな組織だとは考えてるよ!
あと全編通してウッザかったのは、とにかく露骨な女性&ユダ○人の悲劇アピールからの異様な持ち上げっぷり。いやイエ○がユダ○人ってのは知ってるし、そうだね王族の系譜だと色々辻褄が会うよネ☆ってことになっているのも知っている。けどさー、現代に残っている聖/書が丸っきりの捏造と嘘だけ、ということもないと思うんですよ・・・(;´д`) つまり何故マグダラのマリアを他の弟子が否定的に見ていたかというと(以下略)ってことなんじゃないっすかね? 正直現代の読者に媚びるため、あるいは意識高い系の世界的潮流()としてのフェミニズムフィルター、アング○にとって最大のスポンサーでありW W 2で究極の「正義の味方」というイメージを決定付けてくれた○ダヤ様への配慮がかーなーり透けて見える感じが日.本人女性としてイライラして仕方ない(^ω^#)ウッフフ
例えば「原始女性は太陽であった」のに「男子にしか皇位継承権を認めない典範は改正すべき」と最近エライさん()から叱られたウチの例を見てみよう。
①山の神が嫉妬するため、神聖な山は女人厳禁→比/叡山にケーブルカー使わずに登った経験上、整備されている今ですらこんなにキツイなら昔は獣や追い剥ぎも出ただろうし、女性にとって登山自体がどんだけ危険なことだったのか思い知る。
②祭りの準備は男の仕事。女性は「穢れている」ため神輿に触れてはいけない→とある祭りを手伝わせてもらった際、その「準備」がどれだけ大変な力と時間を使うものか学んだ。今より家事や子育てが大変だったであろう時代、女性たちに更なる負担を担わせることはできなかっただろうし、神輿を担ぐのも、神事自体も危険な力仕事を伴う場合が多い。
③女性天.皇廃止→日/本の歴史上「自ら望んで積極的に」即位した女性皇.族がいたとは考えがたい。次代までの繋ぎ、あるいは周囲の政治的意図によってその地位に「仕方なく就かざるを得なかった」例ばかり。寡婦以外は伴侶も望めず、正直言って娘がいる親の立場なら間違いなく就かせたくない職業1,2を争う部類に入ると思う(´-`)
つまり何が言いたいかというと、「女性蔑視」と捉えられがちな風習もある面では女性を保護するためのものであり、男女双方のプライドを守るために「神聖さを損なう」だなんだって方便を取り繕い、社会が暗黙の了解としてソレを受け入れてきたわけ。昔の女性の立場を明けすけに代弁させてもらうとしたら、男性に対して「大変な仕事押し付けちゃうから、建前上は一段下の位置に回ってアンタたちの顔立ててやるね」って感覚?(^^; 私は少ない事例かもしれないけど体験したり文献漁って大体その結論に行き着いたかなぁ、元はU野先生読むようなフェミ系だったんだけど!(爆笑)結局はただの身体特性的向き不向きによる役割分担で、特に日/本では家計の管理だの家の中のことは女性が絶対的な権力を長く保持してきたわけだし、「女房に頭が上がらない男の話」も古代から山と残ってる。(個人的に好きなのは『落窪物語』の阿漕と帯刀カップル(ノ∀`))だから「一億総活躍社会」なんて掲げてる今でも日.本女性の憧れの職業は何だかんだ言って「専業主婦」なんじゃんねー。
機械化が進み、誰でも高度な教育を受けることが可能になり、コンピューター使用の力を必要としない仕事が増えた今、かつてほど身体能力や特性の差で割り振られてきた男女の役割を分担する必要性がなくなりつつあることは認めます。けれどソレが確かに生物としての人間の歴史の一端を成してきたものであり、「同権」の名の元に全否定、あるいはそれこそバチ○ンが「異教」に対してそうしたように完全に根絶する、というようなことも間違っているように感じるんです。確かにイス○ム教の戒律が厳しい一部の地域の女性の待遇や権利に問題があることは明白だし、イ○ドのカースト外結婚などで凄惨な行為が為されているのも深刻に憂慮されるべき事態だと思う。でも、何もかも現代の、それも己の属する社会のフィルターだけを通して物事を捉えてしまうのはとても不公平だし、誠実ではない印象を受けるんだよなぁ(-_-;)
微妙な読後感&一周回って期待値が大きすぎたのか?という気分になってしまったので、ちょっと純文さまよってからこのシリーズに戻ろうかな。やっぱり向こうの人たちって常に何かしらの社会的観念(Missionを求める思考といいますか)に縛られていて中々そこから脱け出せないんですかね?(;・ω・) たまにはメソメソ社会的な問題や視点なんか忘れて、ひたすら自分のことだけ、自分の心の内と対話して吐き出すような作品書けば良いのに。日.本の純文なんか時代的な思想や社会風刺を含みつつも結局はソコに終始する主人公ばっか、というかそう見せるのが上手いですよね(@_@;) あくまでオハナシの背景・小道具としてそういう面を主要なテーマではないんですけど、って形で織り込んじゃうの。そういうやり方の方が、ハッキリ直球で押し付けがましく重いのぶっぱなす小難しく見せかけて一度読んだらもう良いや、となる長ったらしい癖に薄い話より好きだなぁ。私が日/本人だからそう思ってしまうんだろうか?(-_-;)
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本売りに行ったら就活講座代がカバーできたぜ(^^)b 帯はなるべく取っておくべき、と学んだ・・・。
スー・○ーさん想像以上に(元)似非活動家臭漂いまくりのネオ独裁者になる予感しかしないな、今のとこ。ロヒ○ギャの件といい「国家顧問」ポスト創設といい、外交一発目が中/国とか(^ω^;) いやミャ○マーにとって欠かすことのできない歴史的に大事な相手なのはわかるけど、彼女が高らかと理想に掲げていたはずの「人権」とやらはただ己の名を上げるための道具に過ぎなかったのだろうか?(´-`)
あとパ○マ文書、面白こっええ!早速個人的な最後の楽園と信じていたアイ○ランドのトップが辞任とか、マジかΣ(゜Д゜;) 北欧は世界で最も政治的透明性・報道の公平性が高い地域なんじゃなかったのー? こっちもただのヨーロッパイメージ補正ってやつでしたか・・・。あのくらいの規模の国で堂々と不正できちゃうとか、世間なんてもう何も信用できないなorz
以下、上巻読了の感想だよ!
スー・○ーさん想像以上に(元)似非活動家臭漂いまくりのネオ独裁者になる予感しかしないな、今のとこ。ロヒ○ギャの件といい「国家顧問」ポスト創設といい、外交一発目が中/国とか(^ω^;) いやミャ○マーにとって欠かすことのできない歴史的に大事な相手なのはわかるけど、彼女が高らかと理想に掲げていたはずの「人権」とやらはただ己の名を上げるための道具に過ぎなかったのだろうか?(´-`)
あとパ○マ文書、面白こっええ!早速個人的な最後の楽園と信じていたアイ○ランドのトップが辞任とか、マジかΣ(゜Д゜;) 北欧は世界で最も政治的透明性・報道の公平性が高い地域なんじゃなかったのー? こっちもただのヨーロッパイメージ補正ってやつでしたか・・・。あのくらいの規模の国で堂々と不正できちゃうとか、世間なんてもう何も信用できないなorz
以下、上巻読了の感想だよ!
まだ半分なんだけど、小さい頃からキリス○教や聖.書についてツッコんだり感じてきたモヤモヤの全てを作中で明確な言葉として説明してくれているようで何かスッキリ(笑)でもって、そんなこと何百年も、それこそ何万人単位の人が真剣にずっと考え調べ続けてきたことがバカらしいというか、余りに広く行き届き過ぎた一神教社会の哀れさだな、とも正直なところ思っちゃった(´・ω・`)
うちらってぶっちゃけ一国だけの行き止まりの島国だから、神仏習合にしたって大陸の文書と大.和朝.廷・Tenno家が権力を握っていく過程についても何も隠す必要ないじゃないですか。「だから何?」という当たり前の話で、一つの文化に属する国民・民族として共有し受け入れることができる。そんな事実で国の歴史や民衆の感情やTennoの権威は揺らがず、統治形態に支障をきたすことはない。けれどローマは領土を拡げすぎた。土地も習俗も信仰もバラッバラな諸民族を、一つの帝国の名の元にまとめ上げなければならなかった。そのために歴史を創作し、宗教を利用せざるを得なかった。彼らが一つになれるように、その意志が自動的に集約される絶対的な権威を生み出す必要があった。大学で習ったヨーロッパ史は主に経済・貿易・戦争が中心でしたが、キ○スト教史(ホント日/本史専攻でどんだけ余計な授業取ってたんだか(^ω^))で「キリ○ト教は封建体制確立のための最高の民衆統治システム」という話が出たのを思い出したなぁ。私はその時「え、階級制の根拠となる輪廻転生思想のヒ○ドゥー・仏.教系のが酷くね?(´-`)」と思ったんですが、あそこまで強力かつ組織的、大規模な洗脳・捏造・弾圧による古来の思想や信仰の根絶、そして今日に到るまで自由な学究的意見を表明することすら憚られるほどの社会的影響力の大きさ、トップの一挙手一投足がニュースになり、一国家という立場を得た後でも他国への政治的介入と受け取られかねない発言すら許容される事実に(イヤU N総長とかならまだわかるんだけどさ(・・;))、正直言ってうすら寒いものを感じざるを得ない。
ウチのTennoもそれに近い扱いなのかもしれませんけど、確かに今.上やその直接的なお身内への揶揄や非礼に当たるようなネタがタブー扱いされているのは確かだが、学術界で古代~近世のTennoに関するスキャンダラスな真実の追求が行えないなんてことはなく、大陸の史書とウチの“神話”を照らし合わせたりするのも普通に認められてるじゃん?(・ω・)「御/陵」認定食らっちゃった古墳が宮.内庁管轄になって入るのがめんどくさくなるくらいで。
マジでガチのクリ○チャン社会の人ってこんな面倒な心理抱えて生きてんのかー。信仰ってそんな大事なもんなの? 所詮人間が生み出した物語・ただの仕掛けに過ぎないのに? 歴史上当たり前に「必要とされた処置」であった事実を隠蔽するためにそこまで頑張らなきゃいけないといけないとか、バ○カンも可哀想やなぁ(@_@;) だってブッダなんかはそこまで人としての側面を隠していないというか・・・ルーツに関しても○ンドゥー元ネタでこの菩薩がこの神様と習合したよ!って一覧表が作れるくらいだからなぁ。まぁ宗教としての発想からして異なるみたいだから何とも言えないけど。あ、分かった仏.教で言えばシオン修道会とバチカ○の対立はブッダが涅槃に入った後の大乗と小乗の揉め事に似てるんだ(゜ロ゜)ピコーン! 真の教えに忠実な者が少数派となって虐げられ、より大衆的な分かりやすい形に曲げられた教えの方が広がって力を増していく。そして本来の「教祖」の意図はどこにも残らず伝わらない。
聖.書読んでて矛盾だらけの都合良い説教しやすいエピソードの寄せ集め、と感じたのも、三/位一/体という思想がどうしても理解できなかったのも、何故あの賢く見えて頑固だった祖父がその日.本人からすれば「異教」の教えに改宗できたのかも何となく見えてきたような・・・?(-_-;) イヤでもやっぱり信仰を持つという行為自体が私にはどうしても解りかねるし、向こうの社会で何故その秘密とやらが、その程度の内容がそこまで人類の歴史上の大問題とまで化してしまうのか(『ティモシー・アーチャー~』のアノキ探ししかり) 、あるいはソフィーが家族の信仰にそこまでショックを受ける感覚なんかも個人的にちょっと受け入れがたい。
あと関係ないかもですが最近のカト○ックの少年への性/的虐/待事件についても、ぶっちゃけ何を今さら一大スキャンダル扱いして騒いでんの?という印象なんだよね(-_-;) O武さんの件にしろ、障害があろうが修行積んだ聖職者だろうが、人間である以上本能から逃れられるはずはないのに、みんな今までどうやって処理してきたと思ってんの? 昔の日/本の仏.教だってそうだった。キリ○ト教だけが例外だったはずないだろ。妻帯や女.犯が禁止されたら、どこかに抜け道を見出すようになってんですよシムテム上、いや本能的にギリギリのラインを探し当てる嗅覚によってと言えば良いのか? 刑務所・軍隊・男子校、みんな同じ理屈じゃん。特に女性よりソッチの欲が強く、生存本能が刺激されるような場面に遭遇しやすい男性ならなおのこと。傷ついた少年たちがいると言うなら、いつまでも表面上の厳格な教義に囚われて上手い処理方法を生み出すこともなく隠蔽してきた教会、あるいはこういう歴史が恐らくは何百年と続いてきたはずで氷山の一角ですらあると推測できるのに、発覚が21Cの今頃まで遅れた上に信じがたいことでもあるかのように大騒ぎしている自分たちを、信者の側も反省するべき。盲目と無知は忠実なる信仰と紙一重なのかもしれないけれど、真に敬虔な信者だと言うなら尚更責任と監視の放棄は恥に他ならないことだと思う。長いカ○リックの禁欲的()な歴史の中には、薄々そういった行為や犯罪が行われていることを感じとりながら見て見ぬふりをしてきた人たちも少なからずいたはず。もしくは「司教様がそんなことなさるはずないだろ!」と被害者の訴えを叱り飛ばすような大人がいた時代や地域もあったかもね><; 性についてのトラウマ持ちAセクだからこそこういう問題については歴オタ的にも真剣に考えてしまうし、その結果「至極当たり前のネタを衝撃的なニュースとして今さら騒ぐとか、みんな何てバカなんだろう(;´д`)」と感じてしまうこともあってだな・・・。
まぁ宗教絡みは特に私は文化の終着点(笑)生まれの日/本人だし、クリスチャンとコミュニストの同居する家庭で育ち、、どうしようもなく日.本的なものに憧れる感情を抑えきれずに京都まで行った歴オタなので、我ながら妙な方向にカオスに歪んでいる自覚はあるんだけどさ( ´∀`;) でも一方でそれこそキリス○教に片足突っ込みつつずっと理解できずに悩んできた面もあるから、登場人物たちの真面目で深刻な気持ちをある程度推し量ることはできるし、歴オタとして真実に近づきたいという欲望や、それを見出しかけた時の高揚する気分も理解できます。けど、「だから何? それはそんな命かけたり組織ぐるみで守ったり追ったりしないといけないほどの情報なの?」ってどっちの側に対してもアホらしく感じてしまうんだよな(´д`)=3 唯一フツーに共感できるのは分かりやすく犯人と思われる外国人の逮捕に血道を上げるファーシュやコレ、フラ○ス警察の行動くらいかな。
あ、ダ・ヴィンチが誰よりも「神」に忠実であろうとした人物、というのは作者さんと同じ捉え方でホッとした(笑)あとイ○スへの同情と共感を抱いていたんじゃないかという点は・・・勝手な解釈かな?(^^; コンスタンティヌス、ヤマザキ○リさんのにもヘタ○アにも出てくるけど、チェーザレだけじゃなくて彼も若干信長と被る部分があるんだな、とちっとも信仰してないキ○スト教を利用した、とティービングが熱弁するくだりで思った。より壮大なスケールで実行できた人物なわけだけど。本能寺がなかったら日.本がどんな風に形を変えた国になっていたのか、妄想は尽きませんね☆
うちらってぶっちゃけ一国だけの行き止まりの島国だから、神仏習合にしたって大陸の文書と大.和朝.廷・Tenno家が権力を握っていく過程についても何も隠す必要ないじゃないですか。「だから何?」という当たり前の話で、一つの文化に属する国民・民族として共有し受け入れることができる。そんな事実で国の歴史や民衆の感情やTennoの権威は揺らがず、統治形態に支障をきたすことはない。けれどローマは領土を拡げすぎた。土地も習俗も信仰もバラッバラな諸民族を、一つの帝国の名の元にまとめ上げなければならなかった。そのために歴史を創作し、宗教を利用せざるを得なかった。彼らが一つになれるように、その意志が自動的に集約される絶対的な権威を生み出す必要があった。大学で習ったヨーロッパ史は主に経済・貿易・戦争が中心でしたが、キ○スト教史(ホント日/本史専攻でどんだけ余計な授業取ってたんだか(^ω^))で「キリ○ト教は封建体制確立のための最高の民衆統治システム」という話が出たのを思い出したなぁ。私はその時「え、階級制の根拠となる輪廻転生思想のヒ○ドゥー・仏.教系のが酷くね?(´-`)」と思ったんですが、あそこまで強力かつ組織的、大規模な洗脳・捏造・弾圧による古来の思想や信仰の根絶、そして今日に到るまで自由な学究的意見を表明することすら憚られるほどの社会的影響力の大きさ、トップの一挙手一投足がニュースになり、一国家という立場を得た後でも他国への政治的介入と受け取られかねない発言すら許容される事実に(イヤU N総長とかならまだわかるんだけどさ(・・;))、正直言ってうすら寒いものを感じざるを得ない。
ウチのTennoもそれに近い扱いなのかもしれませんけど、確かに今.上やその直接的なお身内への揶揄や非礼に当たるようなネタがタブー扱いされているのは確かだが、学術界で古代~近世のTennoに関するスキャンダラスな真実の追求が行えないなんてことはなく、大陸の史書とウチの“神話”を照らし合わせたりするのも普通に認められてるじゃん?(・ω・)「御/陵」認定食らっちゃった古墳が宮.内庁管轄になって入るのがめんどくさくなるくらいで。
マジでガチのクリ○チャン社会の人ってこんな面倒な心理抱えて生きてんのかー。信仰ってそんな大事なもんなの? 所詮人間が生み出した物語・ただの仕掛けに過ぎないのに? 歴史上当たり前に「必要とされた処置」であった事実を隠蔽するためにそこまで頑張らなきゃいけないといけないとか、バ○カンも可哀想やなぁ(@_@;) だってブッダなんかはそこまで人としての側面を隠していないというか・・・ルーツに関しても○ンドゥー元ネタでこの菩薩がこの神様と習合したよ!って一覧表が作れるくらいだからなぁ。まぁ宗教としての発想からして異なるみたいだから何とも言えないけど。あ、分かった仏.教で言えばシオン修道会とバチカ○の対立はブッダが涅槃に入った後の大乗と小乗の揉め事に似てるんだ(゜ロ゜)ピコーン! 真の教えに忠実な者が少数派となって虐げられ、より大衆的な分かりやすい形に曲げられた教えの方が広がって力を増していく。そして本来の「教祖」の意図はどこにも残らず伝わらない。
聖.書読んでて矛盾だらけの都合良い説教しやすいエピソードの寄せ集め、と感じたのも、三/位一/体という思想がどうしても理解できなかったのも、何故あの賢く見えて頑固だった祖父がその日.本人からすれば「異教」の教えに改宗できたのかも何となく見えてきたような・・・?(-_-;) イヤでもやっぱり信仰を持つという行為自体が私にはどうしても解りかねるし、向こうの社会で何故その秘密とやらが、その程度の内容がそこまで人類の歴史上の大問題とまで化してしまうのか(『ティモシー・アーチャー~』のアノキ探ししかり) 、あるいはソフィーが家族の信仰にそこまでショックを受ける感覚なんかも個人的にちょっと受け入れがたい。
あと関係ないかもですが最近のカト○ックの少年への性/的虐/待事件についても、ぶっちゃけ何を今さら一大スキャンダル扱いして騒いでんの?という印象なんだよね(-_-;) O武さんの件にしろ、障害があろうが修行積んだ聖職者だろうが、人間である以上本能から逃れられるはずはないのに、みんな今までどうやって処理してきたと思ってんの? 昔の日/本の仏.教だってそうだった。キリ○ト教だけが例外だったはずないだろ。妻帯や女.犯が禁止されたら、どこかに抜け道を見出すようになってんですよシムテム上、いや本能的にギリギリのラインを探し当てる嗅覚によってと言えば良いのか? 刑務所・軍隊・男子校、みんな同じ理屈じゃん。特に女性よりソッチの欲が強く、生存本能が刺激されるような場面に遭遇しやすい男性ならなおのこと。傷ついた少年たちがいると言うなら、いつまでも表面上の厳格な教義に囚われて上手い処理方法を生み出すこともなく隠蔽してきた教会、あるいはこういう歴史が恐らくは何百年と続いてきたはずで氷山の一角ですらあると推測できるのに、発覚が21Cの今頃まで遅れた上に信じがたいことでもあるかのように大騒ぎしている自分たちを、信者の側も反省するべき。盲目と無知は忠実なる信仰と紙一重なのかもしれないけれど、真に敬虔な信者だと言うなら尚更責任と監視の放棄は恥に他ならないことだと思う。長いカ○リックの禁欲的()な歴史の中には、薄々そういった行為や犯罪が行われていることを感じとりながら見て見ぬふりをしてきた人たちも少なからずいたはず。もしくは「司教様がそんなことなさるはずないだろ!」と被害者の訴えを叱り飛ばすような大人がいた時代や地域もあったかもね><; 性についてのトラウマ持ちAセクだからこそこういう問題については歴オタ的にも真剣に考えてしまうし、その結果「至極当たり前のネタを衝撃的なニュースとして今さら騒ぐとか、みんな何てバカなんだろう(;´д`)」と感じてしまうこともあってだな・・・。
まぁ宗教絡みは特に私は文化の終着点(笑)生まれの日/本人だし、クリスチャンとコミュニストの同居する家庭で育ち、、どうしようもなく日.本的なものに憧れる感情を抑えきれずに京都まで行った歴オタなので、我ながら妙な方向にカオスに歪んでいる自覚はあるんだけどさ( ´∀`;) でも一方でそれこそキリス○教に片足突っ込みつつずっと理解できずに悩んできた面もあるから、登場人物たちの真面目で深刻な気持ちをある程度推し量ることはできるし、歴オタとして真実に近づきたいという欲望や、それを見出しかけた時の高揚する気分も理解できます。けど、「だから何? それはそんな命かけたり組織ぐるみで守ったり追ったりしないといけないほどの情報なの?」ってどっちの側に対してもアホらしく感じてしまうんだよな(´д`)=3 唯一フツーに共感できるのは分かりやすく犯人と思われる外国人の逮捕に血道を上げるファーシュやコレ、フラ○ス警察の行動くらいかな。
あ、ダ・ヴィンチが誰よりも「神」に忠実であろうとした人物、というのは作者さんと同じ捉え方でホッとした(笑)あとイ○スへの同情と共感を抱いていたんじゃないかという点は・・・勝手な解釈かな?(^^; コンスタンティヌス、ヤマザキ○リさんのにもヘタ○アにも出てくるけど、チェーザレだけじゃなくて彼も若干信長と被る部分があるんだな、とちっとも信仰してないキ○スト教を利用した、とティービングが熱弁するくだりで思った。より壮大なスケールで実行できた人物なわけだけど。本能寺がなかったら日.本がどんな風に形を変えた国になっていたのか、妄想は尽きませんね☆
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