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録画してた映画見て、志賀短編集1/3くらい読んだよー。食い合わせがカオスでも気にしない☆つか志賀さん石巻生れだったんか!@今更。それで伊達騒動ネタが出てくんのね。登場人物の名づけにフイタ(ノ∀`) おいしそうってか、長谷川町子臭メッチャする感じですね。(※相変わらず時事や歴史に触れたり重めの自分語り含みますm(__)m)
『V FOR~』議長の発言や振る舞いがト○ンプとめっちゃ被りすぎワロタ(^ω^) ヒ○ラーやス○ーリン意識してんのかもしれないけど、最終的にただの俗悪な小物なんだもん(笑)ナタリー・ポートマンはエマ・ワトソンと並んで成功した子役出身女優の代表格やな。フリーハウスで成長したミシェル双子がどんな演技してんのかも気になってますが、ジョーイおじさんの件に気を取られ過ぎてね・・・(´ー`) 私常々本当の美人は坊主頭か着物の似合う人、と考えてるんですがナタリーはそれを実証してくれて良かった。ミラ・ジョヴォヴィッチはジャンヌ・ダルクか何かの時にスッカリ「苦手な顔」になってしまったから。(ファンの方すみませんm(__)m)イヴィーちゃん、少しも笑わないのに健気で綺麗でかっわええ!>< そりゃ肉体を改造されて憎しみに囚われ、人の心を忘れてしまった怪人Vが恋に落ちちゃうわけも分かるわ。
社会的風刺やナ.チやソ/連を思わせる残酷な収容所や拷問・監視体制、自らの国への批判やウチの地下鉄サ○ン事件を思わせるシリアスな描写を交えつつも、『岩くつ王』やシェイクスピア、『オペラ座の怪人』へのオマージュが含まれていたり、Vの音楽への傾倒や束の間の切ないダンスシーンにイギ○スらしい皮肉の利いたコメディショーなど、芸術・娯楽的な側面も盛り込まれていたり、結果的には「みんな」というヒーローによる勧善懲悪物語としてエンタメの範疇に収まる仕上がりになっていて上手いなー、と感じました((-_-)ウンウン ていうかラスト、スクリーンに赤字のVが描かれつつまさかのストーンズ『Street Fighting Man』が流れるという演出に大歓喜!o(≧∇≦)o だってVやイヴィ―が劇中で流してたのって隠喩的なクラシックかレトロ系の曲ばっかだったからさー。意外だけどメッセージとしてはどれも用いられた背景や歌詞のテーマだったりが共通してるというか合ってるんだな、と。舞台がイギリ○なわけですし、恐らくこの曲も禁止されていた文化の一部だったんだろう。あぁもうこんな好みが凝縮された作品をずっと気になりつつ見逃してやがった自分にツッコみたい気分(^^;
まぁ正直『1984』を読んだキッカケも、今猛然と読書ブームに励んでいるのも(笑)、昨今の世の中がドンドンこっちの方向に流れていってる気がしてね・・・。考え過ぎなのかもしれないし、何だかんだ言ってウチの国で気をつけるべきは「集団心理」、行きすぎた「自重」であって世界がどう動こうと根本的な部分は変わらないんじゃないか、と歴オタとしては信じてるんだけど、コンピューターや交通手段の発達で世界は余りに狭くなりすぎたから(´・ω・`) 犯罪も監視も容易すぎる。ので、どこかで何かが起こった際のバタフライ・エフェクトがいつ我が身にふりかからないとは考えられないじゃないですか。だから読める内、見られる内にタヒぬまでの暇潰しとして、何かを残そうとか伝えようとした人々の価値観や意志に触れておくのは意味のあることなんじゃないか、と。その結果が、こんな虫けらでも愛する人間様方のお役に立てる何かをもたらせるかもしれないし!とかいうお約束のちょっと歪んだ思考がどうしても顔を覗かせてしまいますが( ´∀`;)
格闘シーンの超人V()は堪らなく格好良いし、壁の向こうから届く「真実の声=希望」という名のエドモン・ダンテスとファリス司祭の絆を思わせる表現、Vとイヴィーにそれを与えた過去の女優と恋人の想い出を象徴する薔薇の花をVが自らの印として残すという演出がとても美しくて哀しい。更に説明しがたいマイノリティに属する私は、彼女たちやゴードンの結末には涙せずにはいられなかった。そして同時にどうしようもなくいつもの羨みを覚えた。
(※ここから自分語り→てか今ぶっちゃけ知人からお見合い的なものを匂わされてて・・・カムアウトの瀬戸際かもしれない状況だったりするんですよねー\(^o^)/ 何でそうなったか、っていうと小さい頃から色々とお世話になってるその方が兼ねがね「ウチの息子に(以下略)」みたいなことを冗談交じりに話題にされてて、昨年父が倒れた時ICUの待合室でとにかく自分一人だけでも片付けなきゃ、とか家や父の職場の始末を考えて、「もしこんなんでも良いって言ってくれる人がいるなら考える」って母にペロッと口走った結果なんですorz ぶっちゃけそこの家が地価上昇中の土地持ちだということを考慮に入れた上でそういう意味の発言もしました。我ながら最低だという自覚はありますm(__)m その時は必死で何でもしなきゃ、できる気がしていたんだけれど、いざ父が回復し、具体的な夫婦生活というものについて考えた結果「オエェー(汚)」と自覚せざるを得ない状態になって今に到るという事情をどう説明して良いものか。親は「金づる失って働かなきゃいかないと思ったからそうなってるんでしょ!」って食べられなくなったことについて罵声を浴びせてきたけど、実はそれが一番大きな原因でした、なんて打ち明けられるかっつの。ずっと子供を生むことにこだわってきた自分だって、それこそ今もマトモに食えないくらいショックだったのに。精神科の先生には「いつまでも隠してはいられないよ」と言われたけど・・・最後に挑戦して諦めたのは何年も前だし、もし何とか克服できて頼れる親戚が増えるなら、せめて私という重荷が減るだけでも家族にとっては良いことづくめだよなぁ、とか考えちゃうし。長いこと引きこもって心配かけた娘の子どもの顔見られるだけでも、親にとってそれに勝る喜びはないんだろうな、とも思うし。あー今からでもホルモン治療でも何でも使って誰かマトモにしてくれないかな。せめて吐いたり発作起こさずに子作り~出産までこなせるように何とかなれないかな。せめて堂々と、それこそ「パートナーのいるL G B Tです!」って言える方向の性癖だったり、もっと早く認めて一人で生きられる強さを備えられれば良かったのに。とりあえず何かを察したらしい(あるいはせっかく就活する気になったんだから、と考えたのか)親に「今はソレを口実に断っておくね」とは言われたんだけど・・・ちょっと今後のこと考えるとどうして良いかわからない。自業自得なんだけど、なるべくタヒぬまで黙っておくか、とにかく何とか距離をおいて生活できるようになる頃には妹弟のどちらかに子どもが生まれて、私の方はそういうもんとして諦めてもらう希望的予定しかなかったので)
最期に愛によって復讐の苦しみから解き放たれるVの姿は、ますます彼の憧れていたモンテ・クリスト伯が重なりますね。「復讐を優先させるなんて、メルセデスが可哀想」というイヴィーのセリフがフラグだったんか、と振り返ると・゜・(つД`)・゜・
でもって映画の中で性的マイノリティが置かれた状況に深い同情と共感を寄せつつ上の件の話題になって(まぁ昨日から知ってはいたんですけど)かなり動揺する精神を志賀御大の短編集がちょっと慰めてくれた(;_;) ウワーン、日/本の景色って美しいよぅ!生の躍動感、動のあるものではなく、穏やかな静けさや死の中にこそ命というものの意味や儚さや重み、この世の美と真実を見出す彼の文章はどこまでもその穏やかさ、静けさを纏って優しい。例え残酷でも、滑稽でも、悲劇でも。リアルなのに過酷で突き刺さるような生々しさは感じさせない。ただちょっと人の心の隅を針でつつく。誰しもが抱える感情、誰もが接したことのあるような登場人物、誰もがウッカリやってしまうような些細な言動と、それが周囲に及ぼす、こちらも些細な、けれど取り返しのつかない波紋のような結末。皆が人生という小さな動乱の中で、少しずつ各々の後悔や痛みを抱えながら生きている。だからこそその動きが止まる時、死の静けさの中にこそ安らぎを見出し、一方でついさっきまで動にあったものが停止する瞬間を極端に恐れもする。『城の崎にて』『十一月三日午後の事』『雪の日』は情景描写の巧みさも相まって不思議と胸に沁み入った。つーか打たれた。不意のイタズラで「イモリを殺してしまった」『城の崎~』の主人公と「殺すつもりで買った鴨を殺せなかった」『十一月~』の主人公は、先に蜂や兵隊たちの姿を持ってくる効果的な演出の点といい、対を成す作品とも捉えられるのではないだろうか。
『雪の日』は素直に作品の美しさに感動した。あとやっぱり日.本人はアジアを軽んじてなどいなかった、近隣諸国の歴史や文化を開国前と同じように敬い、自国のそれと同時に世界へと広めることを願っていた、とこの作品読むだけで察してもらえはしないだろうか?(・・;) 当時既に半島を支配下に置いていたから、自国の良いものアピールしたかっただけだって?だったら何故わざわざ「朝/鮮」という名を持ち出し、現地への訪問を勧めたりするんだよ、同盟も終わりかけてた頃の英.国人相手にさ!中/韓は「日.本が文化財を略奪した」と広く喧伝して憤るけど、自分たちの手でその価値に気づき保護し伝えることができたのか、当時国すら危うくする有様で、と長い歴史と文化を育んできたアジアの一員という事実に誇りを持っている日/本人としては訴えたいね。彼らの文化を何よりも尊び、その価値を知っていたのはウチらだって、ちょっと日.本史学んで同時代の東洋史比較すれば断言しても過言じゃないと思うから。「唐渡り・舶来物」が古来からどれほど貴重品扱いされてきたか、捕虜として連行された陶工にどれほどの待遇を与え、その芸術を花開かせる下地を作ったか、画家たちの描いた墨絵や庭園の作りでさえ、古代の大陸文化への憧れや思想の影響が垣間見えないものは無い。どんなに西洋の学問を学んでそちらの思想に感銘を受けたエリート層でも、漢詩や大陸の古典に関する知識は長く必須の教養として当たり前に染みついているものだったんですよ。だから未だにセンター「国語」の1/4を漢文が占めてるんだっつの。頼むからウチの大陸への想いを、断ち切れない絆を現代に生きる双方の国の人間にどうか理解してほしい、とそればっか祈ってしまうわ最近。宗教かよ、ってくらいおかしな方向にエスカレートする一方の半島両国の皆さんに対してもね(´Д`;) ちょっとはマトモにフィルター外して朝/鮮人陶工の話や通信使の日記調べてみんかい!と。
社会的風刺やナ.チやソ/連を思わせる残酷な収容所や拷問・監視体制、自らの国への批判やウチの地下鉄サ○ン事件を思わせるシリアスな描写を交えつつも、『岩くつ王』やシェイクスピア、『オペラ座の怪人』へのオマージュが含まれていたり、Vの音楽への傾倒や束の間の切ないダンスシーンにイギ○スらしい皮肉の利いたコメディショーなど、芸術・娯楽的な側面も盛り込まれていたり、結果的には「みんな」というヒーローによる勧善懲悪物語としてエンタメの範疇に収まる仕上がりになっていて上手いなー、と感じました((-_-)ウンウン ていうかラスト、スクリーンに赤字のVが描かれつつまさかのストーンズ『Street Fighting Man』が流れるという演出に大歓喜!o(≧∇≦)o だってVやイヴィ―が劇中で流してたのって隠喩的なクラシックかレトロ系の曲ばっかだったからさー。意外だけどメッセージとしてはどれも用いられた背景や歌詞のテーマだったりが共通してるというか合ってるんだな、と。舞台がイギリ○なわけですし、恐らくこの曲も禁止されていた文化の一部だったんだろう。あぁもうこんな好みが凝縮された作品をずっと気になりつつ見逃してやがった自分にツッコみたい気分(^^;
まぁ正直『1984』を読んだキッカケも、今猛然と読書ブームに励んでいるのも(笑)、昨今の世の中がドンドンこっちの方向に流れていってる気がしてね・・・。考え過ぎなのかもしれないし、何だかんだ言ってウチの国で気をつけるべきは「集団心理」、行きすぎた「自重」であって世界がどう動こうと根本的な部分は変わらないんじゃないか、と歴オタとしては信じてるんだけど、コンピューターや交通手段の発達で世界は余りに狭くなりすぎたから(´・ω・`) 犯罪も監視も容易すぎる。ので、どこかで何かが起こった際のバタフライ・エフェクトがいつ我が身にふりかからないとは考えられないじゃないですか。だから読める内、見られる内にタヒぬまでの暇潰しとして、何かを残そうとか伝えようとした人々の価値観や意志に触れておくのは意味のあることなんじゃないか、と。その結果が、こんな虫けらでも愛する人間様方のお役に立てる何かをもたらせるかもしれないし!とかいうお約束のちょっと歪んだ思考がどうしても顔を覗かせてしまいますが( ´∀`;)
格闘シーンの超人V()は堪らなく格好良いし、壁の向こうから届く「真実の声=希望」という名のエドモン・ダンテスとファリス司祭の絆を思わせる表現、Vとイヴィーにそれを与えた過去の女優と恋人の想い出を象徴する薔薇の花をVが自らの印として残すという演出がとても美しくて哀しい。更に説明しがたいマイノリティに属する私は、彼女たちやゴードンの結末には涙せずにはいられなかった。そして同時にどうしようもなくいつもの羨みを覚えた。
(※ここから自分語り→てか今ぶっちゃけ知人からお見合い的なものを匂わされてて・・・カムアウトの瀬戸際かもしれない状況だったりするんですよねー\(^o^)/ 何でそうなったか、っていうと小さい頃から色々とお世話になってるその方が兼ねがね「ウチの息子に(以下略)」みたいなことを冗談交じりに話題にされてて、昨年父が倒れた時ICUの待合室でとにかく自分一人だけでも片付けなきゃ、とか家や父の職場の始末を考えて、「もしこんなんでも良いって言ってくれる人がいるなら考える」って母にペロッと口走った結果なんですorz ぶっちゃけそこの家が地価上昇中の土地持ちだということを考慮に入れた上でそういう意味の発言もしました。我ながら最低だという自覚はありますm(__)m その時は必死で何でもしなきゃ、できる気がしていたんだけれど、いざ父が回復し、具体的な夫婦生活というものについて考えた結果「オエェー(汚)」と自覚せざるを得ない状態になって今に到るという事情をどう説明して良いものか。親は「金づる失って働かなきゃいかないと思ったからそうなってるんでしょ!」って食べられなくなったことについて罵声を浴びせてきたけど、実はそれが一番大きな原因でした、なんて打ち明けられるかっつの。ずっと子供を生むことにこだわってきた自分だって、それこそ今もマトモに食えないくらいショックだったのに。精神科の先生には「いつまでも隠してはいられないよ」と言われたけど・・・最後に挑戦して諦めたのは何年も前だし、もし何とか克服できて頼れる親戚が増えるなら、せめて私という重荷が減るだけでも家族にとっては良いことづくめだよなぁ、とか考えちゃうし。長いこと引きこもって心配かけた娘の子どもの顔見られるだけでも、親にとってそれに勝る喜びはないんだろうな、とも思うし。あー今からでもホルモン治療でも何でも使って誰かマトモにしてくれないかな。せめて吐いたり発作起こさずに子作り~出産までこなせるように何とかなれないかな。せめて堂々と、それこそ「パートナーのいるL G B Tです!」って言える方向の性癖だったり、もっと早く認めて一人で生きられる強さを備えられれば良かったのに。とりあえず何かを察したらしい(あるいはせっかく就活する気になったんだから、と考えたのか)親に「今はソレを口実に断っておくね」とは言われたんだけど・・・ちょっと今後のこと考えるとどうして良いかわからない。自業自得なんだけど、なるべくタヒぬまで黙っておくか、とにかく何とか距離をおいて生活できるようになる頃には妹弟のどちらかに子どもが生まれて、私の方はそういうもんとして諦めてもらう希望的予定しかなかったので)
最期に愛によって復讐の苦しみから解き放たれるVの姿は、ますます彼の憧れていたモンテ・クリスト伯が重なりますね。「復讐を優先させるなんて、メルセデスが可哀想」というイヴィーのセリフがフラグだったんか、と振り返ると・゜・(つД`)・゜・
でもって映画の中で性的マイノリティが置かれた状況に深い同情と共感を寄せつつ上の件の話題になって(まぁ昨日から知ってはいたんですけど)かなり動揺する精神を志賀御大の短編集がちょっと慰めてくれた(;_;) ウワーン、日/本の景色って美しいよぅ!生の躍動感、動のあるものではなく、穏やかな静けさや死の中にこそ命というものの意味や儚さや重み、この世の美と真実を見出す彼の文章はどこまでもその穏やかさ、静けさを纏って優しい。例え残酷でも、滑稽でも、悲劇でも。リアルなのに過酷で突き刺さるような生々しさは感じさせない。ただちょっと人の心の隅を針でつつく。誰しもが抱える感情、誰もが接したことのあるような登場人物、誰もがウッカリやってしまうような些細な言動と、それが周囲に及ぼす、こちらも些細な、けれど取り返しのつかない波紋のような結末。皆が人生という小さな動乱の中で、少しずつ各々の後悔や痛みを抱えながら生きている。だからこそその動きが止まる時、死の静けさの中にこそ安らぎを見出し、一方でついさっきまで動にあったものが停止する瞬間を極端に恐れもする。『城の崎にて』『十一月三日午後の事』『雪の日』は情景描写の巧みさも相まって不思議と胸に沁み入った。つーか打たれた。不意のイタズラで「イモリを殺してしまった」『城の崎~』の主人公と「殺すつもりで買った鴨を殺せなかった」『十一月~』の主人公は、先に蜂や兵隊たちの姿を持ってくる効果的な演出の点といい、対を成す作品とも捉えられるのではないだろうか。
『雪の日』は素直に作品の美しさに感動した。あとやっぱり日.本人はアジアを軽んじてなどいなかった、近隣諸国の歴史や文化を開国前と同じように敬い、自国のそれと同時に世界へと広めることを願っていた、とこの作品読むだけで察してもらえはしないだろうか?(・・;) 当時既に半島を支配下に置いていたから、自国の良いものアピールしたかっただけだって?だったら何故わざわざ「朝/鮮」という名を持ち出し、現地への訪問を勧めたりするんだよ、同盟も終わりかけてた頃の英.国人相手にさ!中/韓は「日.本が文化財を略奪した」と広く喧伝して憤るけど、自分たちの手でその価値に気づき保護し伝えることができたのか、当時国すら危うくする有様で、と長い歴史と文化を育んできたアジアの一員という事実に誇りを持っている日/本人としては訴えたいね。彼らの文化を何よりも尊び、その価値を知っていたのはウチらだって、ちょっと日.本史学んで同時代の東洋史比較すれば断言しても過言じゃないと思うから。「唐渡り・舶来物」が古来からどれほど貴重品扱いされてきたか、捕虜として連行された陶工にどれほどの待遇を与え、その芸術を花開かせる下地を作ったか、画家たちの描いた墨絵や庭園の作りでさえ、古代の大陸文化への憧れや思想の影響が垣間見えないものは無い。どんなに西洋の学問を学んでそちらの思想に感銘を受けたエリート層でも、漢詩や大陸の古典に関する知識は長く必須の教養として当たり前に染みついているものだったんですよ。だから未だにセンター「国語」の1/4を漢文が占めてるんだっつの。頼むからウチの大陸への想いを、断ち切れない絆を現代に生きる双方の国の人間にどうか理解してほしい、とそればっか祈ってしまうわ最近。宗教かよ、ってくらいおかしな方向にエスカレートする一方の半島両国の皆さんに対してもね(´Д`;) ちょっとはマトモにフィルター外して朝/鮮人陶工の話や通信使の日記調べてみんかい!と。
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社会的風刺やナ.チやソ/連を思わせる残酷な収容所や拷問・監視体制、自らの国への批判やウチの地下鉄サ○ン事件を思わせるシリアスな描写を交えつつも、『岩くつ王』やシェイクスピア、『オペラ座の怪人』へのオマージュが含まれていたり、Vの音楽への傾倒や束の間の切ないダンスシーンにイギ○スらしい皮肉の利いたコメディショーなど、芸術・娯楽的な側面も盛り込まれていたり、結果的には「みんな」というヒーローによる勧善懲悪物語としてエンタメの範疇に収まる仕上がりになっていて上手いなー、と感じました((-_-)ウンウン ていうかラスト、スクリーンに赤字のVが描かれつつまさかのストーンズ『Street Fighting Man』が流れるという演出に大歓喜!o(≧∇≦)o だってVやイヴィ―が劇中で流してたのって隠喩的なクラシックかレトロ系の曲ばっかだったからさー。意外だけどメッセージとしてはどれも用いられた背景や歌詞のテーマだったりが共通してるというか合ってるんだな、と。舞台がイギリ○なわけですし、恐らくこの曲も禁止されていた文化の一部だったんだろう。あぁもうこんな好みが凝縮された作品をずっと気になりつつ見逃してやがった自分にツッコみたい気分(^^;
まぁ正直『1984』を読んだキッカケも、今猛然と読書ブームに励んでいるのも(笑)、昨今の世の中がドンドンこっちの方向に流れていってる気がしてね・・・。考え過ぎなのかもしれないし、何だかんだ言ってウチの国で気をつけるべきは「集団心理」、行きすぎた「自重」であって世界がどう動こうと根本的な部分は変わらないんじゃないか、と歴オタとしては信じてるんだけど、コンピューターや交通手段の発達で世界は余りに狭くなりすぎたから(´・ω・`) 犯罪も監視も容易すぎる。ので、どこかで何かが起こった際のバタフライ・エフェクトがいつ我が身にふりかからないとは考えられないじゃないですか。だから読める内、見られる内にタヒぬまでの暇潰しとして、何かを残そうとか伝えようとした人々の価値観や意志に触れておくのは意味のあることなんじゃないか、と。その結果が、こんな虫けらでも愛する人間様方のお役に立てる何かをもたらせるかもしれないし!とかいうお約束のちょっと歪んだ思考がどうしても顔を覗かせてしまいますが( ´∀`;)
格闘シーンの超人V()は堪らなく格好良いし、壁の向こうから届く「真実の声=希望」という名のエドモン・ダンテスとファリス司祭の絆を思わせる表現、Vとイヴィーにそれを与えた過去の女優と恋人の想い出を象徴する薔薇の花をVが自らの印として残すという演出がとても美しくて哀しい。更に説明しがたいマイノリティに属する私は、彼女たちやゴードンの結末には涙せずにはいられなかった。そして同時にどうしようもなくいつもの羨みを覚えた。
(※ここから自分語り→てか今ぶっちゃけ知人からお見合い的なものを匂わされてて・・・カムアウトの瀬戸際かもしれない状況だったりするんですよねー\(^o^)/ 何でそうなったか、っていうと小さい頃から色々とお世話になってるその方が兼ねがね「ウチの息子に(以下略)」みたいなことを冗談交じりに話題にされてて、昨年父が倒れた時ICUの待合室でとにかく自分一人だけでも片付けなきゃ、とか家や父の職場の始末を考えて、「もしこんなんでも良いって言ってくれる人がいるなら考える」って母にペロッと口走った結果なんですorz ぶっちゃけそこの家が地価上昇中の土地持ちだということを考慮に入れた上でそういう意味の発言もしました。我ながら最低だという自覚はありますm(__)m その時は必死で何でもしなきゃ、できる気がしていたんだけれど、いざ父が回復し、具体的な夫婦生活というものについて考えた結果「オエェー(汚)」と自覚せざるを得ない状態になって今に到るという事情をどう説明して良いものか。親は「金づる失って働かなきゃいかないと思ったからそうなってるんでしょ!」って食べられなくなったことについて罵声を浴びせてきたけど、実はそれが一番大きな原因でした、なんて打ち明けられるかっつの。ずっと子供を生むことにこだわってきた自分だって、それこそ今もマトモに食えないくらいショックだったのに。精神科の先生には「いつまでも隠してはいられないよ」と言われたけど・・・最後に挑戦して諦めたのは何年も前だし、もし何とか克服できて頼れる親戚が増えるなら、せめて私という重荷が減るだけでも家族にとっては良いことづくめだよなぁ、とか考えちゃうし。長いこと引きこもって心配かけた娘の子どもの顔見られるだけでも、親にとってそれに勝る喜びはないんだろうな、とも思うし。あー今からでもホルモン治療でも何でも使って誰かマトモにしてくれないかな。せめて吐いたり発作起こさずに子作り~出産までこなせるように何とかなれないかな。せめて堂々と、それこそ「パートナーのいるL G B Tです!」って言える方向の性癖だったり、もっと早く認めて一人で生きられる強さを備えられれば良かったのに。とりあえず何かを察したらしい(あるいはせっかく就活する気になったんだから、と考えたのか)親に「今はソレを口実に断っておくね」とは言われたんだけど・・・ちょっと今後のこと考えるとどうして良いかわからない。自業自得なんだけど、なるべくタヒぬまで黙っておくか、とにかく何とか距離をおいて生活できるようになる頃には妹弟のどちらかに子どもが生まれて、私の方はそういうもんとして諦めてもらう希望的予定しかなかったので)
最期に愛によって復讐の苦しみから解き放たれるVの姿は、ますます彼の憧れていたモンテ・クリスト伯が重なりますね。「復讐を優先させるなんて、メルセデスが可哀想」というイヴィーのセリフがフラグだったんか、と振り返ると・゜・(つД`)・゜・
でもって映画の中で性的マイノリティが置かれた状況に深い同情と共感を寄せつつ上の件の話題になって(まぁ昨日から知ってはいたんですけど)かなり動揺する精神を志賀御大の短編集がちょっと慰めてくれた(;_;) ウワーン、日/本の景色って美しいよぅ!生の躍動感、動のあるものではなく、穏やかな静けさや死の中にこそ命というものの意味や儚さや重み、この世の美と真実を見出す彼の文章はどこまでもその穏やかさ、静けさを纏って優しい。例え残酷でも、滑稽でも、悲劇でも。リアルなのに過酷で突き刺さるような生々しさは感じさせない。ただちょっと人の心の隅を針でつつく。誰しもが抱える感情、誰もが接したことのあるような登場人物、誰もがウッカリやってしまうような些細な言動と、それが周囲に及ぼす、こちらも些細な、けれど取り返しのつかない波紋のような結末。皆が人生という小さな動乱の中で、少しずつ各々の後悔や痛みを抱えながら生きている。だからこそその動きが止まる時、死の静けさの中にこそ安らぎを見出し、一方でついさっきまで動にあったものが停止する瞬間を極端に恐れもする。『城の崎にて』『十一月三日午後の事』『雪の日』は情景描写の巧みさも相まって不思議と胸に沁み入った。つーか打たれた。不意のイタズラで「イモリを殺してしまった」『城の崎~』の主人公と「殺すつもりで買った鴨を殺せなかった」『十一月~』の主人公は、先に蜂や兵隊たちの姿を持ってくる効果的な演出の点といい、対を成す作品とも捉えられるのではないだろうか。
『雪の日』は素直に作品の美しさに感動した。あとやっぱり日.本人はアジアを軽んじてなどいなかった、近隣諸国の歴史や文化を開国前と同じように敬い、自国のそれと同時に世界へと広めることを願っていた、とこの作品読むだけで察してもらえはしないだろうか?(・・;) 当時既に半島を支配下に置いていたから、自国の良いものアピールしたかっただけだって?だったら何故わざわざ「朝/鮮」という名を持ち出し、現地への訪問を勧めたりするんだよ、同盟も終わりかけてた頃の英.国人相手にさ!中/韓は「日.本が文化財を略奪した」と広く喧伝して憤るけど、自分たちの手でその価値に気づき保護し伝えることができたのか、当時国すら危うくする有様で、と長い歴史と文化を育んできたアジアの一員という事実に誇りを持っている日/本人としては訴えたいね。彼らの文化を何よりも尊び、その価値を知っていたのはウチらだって、ちょっと日.本史学んで同時代の東洋史比較すれば断言しても過言じゃないと思うから。「唐渡り・舶来物」が古来からどれほど貴重品扱いされてきたか、捕虜として連行された陶工にどれほどの待遇を与え、その芸術を花開かせる下地を作ったか、画家たちの描いた墨絵や庭園の作りでさえ、古代の大陸文化への憧れや思想の影響が垣間見えないものは無い。どんなに西洋の学問を学んでそちらの思想に感銘を受けたエリート層でも、漢詩や大陸の古典に関する知識は長く必須の教養として当たり前に染みついているものだったんですよ。だから未だにセンター「国語」の1/4を漢文が占めてるんだっつの。頼むからウチの大陸への想いを、断ち切れない絆を現代に生きる双方の国の人間にどうか理解してほしい、とそればっか祈ってしまうわ最近。宗教かよ、ってくらいおかしな方向にエスカレートする一方の半島両国の皆さんに対してもね(´Д`;) ちょっとはマトモにフィルター外して朝/鮮人陶工の話や通信使の日記調べてみんかい!と。
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