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初めはただの諦めだった。
泥沼となっていた戦の終わり、敵国の兵に襲い掛かられ、殴られ、蹴られ最早これまでかと思っていた時――その男が、女の前に現れた。
父が戦場から戻らぬこと、病と飢えの中死んでいった母のこと、目の前で焼け落ちた家とその中にいたはずの弟や妹のこと、都の荒廃、少しでも使えるものがないかと忍び込んだ邸のがらんどうに愕然としたこと、そこで襲われたこと。全てが恐ろしく惨めで哀しかったはずなのに、同時に霞がかかったように遠い記憶のようにも感じる。目を開けた時、そこにいたのは彼だった。あの残虐な攻撃の司令官、敵国の王族。その男に、彼女は命を救われたのだ。どうして、抵抗などできようか。自分は全てを失ったのに。
「指のヤケドは治らぬか」
「指のヤケドは治らぬか」
品定めをするように女の全身を改めて、男はわずかに眉を顰めた。彼が彼女の元を訪うのも、抱くことですら彼にとっては道具の確認、検査のようなものではないかと思っている。
「いいえ、これは元々あったものなのです。私の父は薬師をしておりまして、幼い頃その手伝いでし損じてしまったものなのです」
「ほう、薬師? かの国の薬草は名の高いものだと聞くが」
興味深そうに尋ねる男に、女はかすかに、以前の暮らしを思い出して頬をゆるめた。
「ええ、我が家でも使う草は全て、自ら育てておりました」
懐かしい、今はもう戻らぬ日々を。
それから彼が、庭付きの館を与えると言い出した時――彼女は戦慄と共に悟った。己は試されているのだ、失敗するか、機会を掴むか。女は必死だった、男の役に立とうと、必要とされようと。それは全て、生きることに繋がるから。
「この薬を作れるか? あと五日ほどで用意してほしい」
「まぁ……ええ、やってみます。ご期待に添えるかはわかりませんが」
例えそれが毒の精製であったとしても、女は決して断らなかった。
「そう言って、できなかったことは一度も無いな。おまえがいて本当に良かった」
背後から彼女を抱きしめ、髪に唇を寄せる男の温もりにいつの間にか慣れ切ってしまった。これは何だろう? 彼は自分を利用し、己は彼に自分を利用できる存在だと誇示し――生きるために、必要なことだろうか、本当に? 今でも時たま、死んでいった家族の顔が、滅んでしまった故国の姿が脳裏をよぎる時がある。その度に、これはただの、ただの裏切りではないのか、と彼女の心は千々に乱れる。張り裂けそうな胸の痛みを気取られぬように、女は強く、男の腕を握りしめた。
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「王宮に来い、外の連中は説得する」
告げた男の目はいつになく不安に揺れ動いていた。彼は寂しいのだ、苦しいのだ、疲れているのだ。今に、この関係に、これからの全てに。けれど女を求めざるを得ない。そして彼女は、彼に抗えない――王位を得るまでの命をかけた権謀術数。利用するための駒を、いつしか切り捨てられなくなったこと。気づいた時には二人とも、血塗れの道に浸っていたこと。せっかく初めに、綺麗にしたのに。綺麗にしたから、自分のものだと思ったのに。ならば一言でも、この口から言葉を出せば。願いをかたちにしたとすれば、心は軽くなるだろうか。この男が一人で背負い込んでしまったものを、女に与えてはくれなかったものを、分け与える気になるだろうか。望んだわけではない、けれど受け入れることを、いつだって心から拒みはしなかった。してこなかったのだ――ようやく今、認められた。
「確かにあなたと、この国の方々に尽くしましょう。けれど私は私自身にしかなれません。ですから、どうか」
我が国を――
我が国を――
この願いに重ねられた想いが、いつかあなたに伝わると良い。女はまたあの日と同じ、哀しい瞳で笑みを浮かべた。
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初めは、ただの気まぐれだった。
既に大勝を決めた戦の終わり。焼け落ちた邸の中で、女の上に馬乗りになり殴りかかる兵士を見た。将として、王族として見逃すことなどできない光景。
「クズが、我が国の名を汚すな」
ドウッと倒れた体の下で、女は虫の息だった。棒切れのように痩せ細った手足は黒く汚れ、顔は痣だらけ、起き上がることさえできない様子の女を、彼は乱暴に抱え上げた。万が一、他人の粗探しをするしか能の無い小うるさい輩に見つかって――彼や、国自身が非難を受けるのは避けたかったから。この国は粘りすぎたのだ。若い男たちが次々戦いに斃れていっても、女子供の食うものがなくなってもなお、剣を降ろすことを拒み続けた。そもそもが我が大国に、勝てるわけなどなかったのに。
「……臭いな、肉の焦げるニオイがする」
舌打ちと共に、男は唾を吐き捨てた。
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彼の連れ帰った女は、それから三日経っても目を覚まさなかった。否、目を開けられなかったという方が正しいか。腫れ上がった瞼をピクリと震えさせてはすぐに力を失くし、夢と現の狭間を行き来するような有様であった。
「治療しろ、ただこのことは外に漏らすな。知らぬ存ぜぬを貫き通せ」
腕の立つ医師を囲い込み、宮の者にきつく言いつけて彼は彼女を閉じ込めた。戦の処理が終われば跡目争いは激しさを増す。駒が駒として活きる前に、足を引っ張る因果になることは避けたかったのだ。
「あなたが、私を助けて下さったのですか……」
酷く掠れた声が耳に届いた時、男は冷めた目でじっと女を見下ろしていた。さぁ、やっとだ。これをどう利用する――?
動けない女は従順に彼の話に耳を傾け、決して反論したりしない。かつての敵、国の仇であることは、嫌と言うほど思い知っているだろうに。
「いや、当たり前だろう? 俺が助けた、俺がここまで面倒を見てやったんだ……」
だからあれは、自分のものだ。
彼女がやっと寝台から起き上がることができるようになったその日、彼は初めてその身を犯した。何故と問う言葉も、抵抗の一つもなしに彼女はそれを受け入れた。ただ、哀しそうな瞳だけを、その傷だらけの身体に宿して。
女が動けるようになってからも、男は彼女を軟禁状態に置いた。二人の間に恋や愛などといった甘やかな情が芽生えたものとは、誰の目にも見えなかった。王族である男は名家の娘と婚約間近とされており、女は敵であった亡国の傷を負った民だ。せいぜい飼い殺されるだけの慰み者――表に出すことすらも憚られる、哀れな。時たま気まぐれに女の匿われる部屋を訪れては、嬲るように彼女を抱いて去っていく主の姿は仕える者たちにすら同情を抱かせた。それでも女は、嫌がる素振りも嘆く様子も見せなかった。何も感じないのか? 生きられればそれで良いのか? 誇りを持たぬ娼婦のような性根の持ち主なのだろうか? 女に対する嫌悪や軽蔑も、じわりと染みのように広がった。
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「館をやろう、塀の外には出してやれぬが、小さな庭も用意する」
寝物語に男が告げた時、女はわずかに顔を上げ、その藍の目を輝かせた。艶を取り戻した女の髪をサラリと撫ぜて、男は笑った。
「以前は薬草を育てていた、と……おまえにはそろそろ、役に立ってもらわねばな」
女は、賜った館の片隅で小さな畑を作り始めた。男に頼んで手配した種や苗を育て、葉を集め、調合して、それまで彼の国には無かった様々な薬を作り出した。特に秘密にする様子もなく、彼女は惜しげなくその栽培や調合の知恵を教えた。それによって救われた者、或いは弑することのできた邪魔者がどれほどの数に上るか。男は足しげく女の元へ通うようになった。
「今少し時間がかかります、お待ちください」
訪れた男にそう告げて去っていく女は、温めたミルクと素朴な味の焼き菓子を男の前にコトリと置いた。順調に王位に近づきつつある彼はこの頃、王宮で毒見後の冷めた食事ばかりを摂っていた。この離宮の中の小さな館、清らかに整えられた部屋、壁には季節の花を挿した一輪挿しが、ソファの脇には縫いかけの刺繍。女の元を訪れる時間が、新たな謀略のための道具を得るための一時が皮肉なことに彼の心を安らがせていた。
「少し、こうしていてくれないか」
戻ってきた女の手を握り、男はその身を引き寄せる。痩せぎすだった身体は少しだけ柔らかな丸みを帯び、臭いニオイはどこにも無い。百合の花の香り、土の匂い、芳しいミルクの香り。愛しいと、遠ざかってしまった感情を、取り戻せたというのだろうか。
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「王宮に来い、外の連中は説得する」
その言葉を告げた時、女は丸く目を見開いて呆然と男を見た。
「けれど……けれど私は」
「おまえは十分に成果を出した。今の今までただ一度とて、俺とこの国を裏切らなかった」
女はうつむき、唇を噛みしめたようだった。当たり前だ、一度でも彼女が抵抗すれば、期待を裏切ればその身はここにあっただろうか。他にどの道が選べたというのだろうか。それでも、それがわかっていても男は女を求めずにはいられない。既に必要不可欠なのだ、彼女を隣に並べることが――傍に、縛っておくことが。
「……わかりました。けれど殿下、いえ陛下、これだけは忘れないで下さい。私はかの国の民です。確かにあなたと、この国の方々に尽くしましょう。けれど私は私自身にしかなれません。ですから、どうか」
我が国を――女が初めて口にした願いに、彼は頷いた。それが新たな王となる男として正しいことであったのか……未だ判別はつかぬけれども。
→後編(女視点)
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『マクシム・ヴァーノン氏 日本人令嬢と婚約』
『ヴァーノン商会 東洋への販路を大幅に拡大』
『真の国際調和に向けて――名家の新たな一歩 ミサキ・ヴァーノン夫人』
フェルナンが幾度となく握りしめ、破り捨てようとして思いとどまってきた新聞記事に並ぶ見出しは酷く大仰でわざとらしいものだ。急拡大する貿易額と移住者たちのコミュニティに対する警戒がささやかれる中、あえてこんな記事を一斉に載せ出した新聞社には、何らかの働きかけがあったと考えるしかない……我が兄ながら、全く卑劣ではないか。パサリとそれを投げ捨てて、フェルナンは爪を噛んだ。脇腹ではあれ、ヴァーノン家の邸宅に育ち男振りも良い彼を、周りの女性たちが放っておくことはもちろん無かった。適度に火遊びのようなことを仕掛けられたりもしてきたけれど、あの家で唯一自分を気にかけてくれた“家族”に、自ら紹介したのは海咲一人だけだ。その意味を、兄が察しなかったはずはないのに――何故今その彼女が、兄の腕の中で赤ん坊を抱いて微笑んでいる写真を見る羽目になったのか。
『近頃の世の中は東洋人への反発が増しているようだな……うちの商売にも、そのうち影響が出るかもしれない』
その言葉をマクシムの口から聴いたのは彼女を引き合わせた直後。誰よりも愛情と援助を受けてきたと信じる兄にそんな反応を返されれば、フェルナンは三日に一度訪れていた海咲の家へ足を向けることに呵責を感じざるを得なかった。初めは、こちらの言葉を教えてほしいと言われて――フェルナンによって少しずつこの地に馴染み、段々ときちんとした会話が成り立つようになっていく様が嬉しかった。いつも一族の味噌っかすで、教えられる立場、庇護される側だった彼が、ようやく導き守るものを得たような――加えて屋敷の主は異国人で、この地独特の重苦しい伝統やしがらみにも、彼女は縛られていなかったから。少女の傍は青年にとって、初めて感じる居心地の良い場所だったのだ。いつか己が兄に迷惑をかけずとも済むほど独り立ちできる日が来れば、そのころには兄もわかってくれるだろう。将来はあの丘の上に、きっと彼女を迎えに行きたい。だからそれまでは精一杯、家に、マクシムに尽くすのだ。いや増す忙しなさに目の回る日々を送りながら、フェルナンはこれまでの人生で最も真面目に兄を手伝い、ヴァーノンの仕事に精を出した。突然命じられた支社の開拓も、その夢への大きな一歩になるだろう、と……成功させれば一度くらい、訪うことを許されるだろう、と。そう信じて帰って来たのに。その時、故郷は名士と東洋人の結婚、公平なる実業家の合理的な決断に沸いていた。
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『フェルナン・ギルモア氏 兄の商業主義を批判“彼は伝統ある一族の当主としての誇りを忘れている”』
『経済の東洋依存偏重を危惧――ギルモア社社長 実家に苦言か』
マクシムは開いていた新聞を閉じ、横で心配そうにこちらを見つめる妻に向かって微笑みかけた。酷く穏やかで品の良い、いつも彼女に対して作り上げるその顔を。
「大丈夫だ、ミサキ。あいつは幼いだけだ……いつか、くだらないことだと気付くさ」
彼がそう声をかければ、彼女はホッとしたように息を吐き出し、ゆるりと顔をほころばせた。ちょうどゆりかごの赤ん坊が小さく泣き声をあげ、慌ててそちらへ駆け寄っていく背は、未だ細く頼りない。その光景にこみ上げるのは、深い満足と優越感――本当に愚かだ、我が弟は。
マクシムが海咲との婚約を新聞に大きく書かせたのは、誰の目にも明らかなよう誇示するためだ。もう彼女は自分のものだと。それによって得る利益、神の御前での婚姻の契約、物理的にも精神的にも、もう離さないし、逃げられないのだと知らせるために。上流階級でありながら人種への蔑視を捨てた、として一部市民への人気は高まり、彼女を通じてアジアの国々へのコネクションが増えたことは確かだが、彼にとってそれはほんの副産物に過ぎない。周囲がそれを取り上げれば取り上げるほど、必然的にマクシムと海咲の結婚後、末席の成金ギルモア家に婿入りしたフェルナンとの亀裂は深まっていった。貴族の名を金で買ったギルモアは今やヴァーノンの商売上の敵となり、公明正大な取引・実利的販路の拡大を目指すヴァーノン商会とは対照的に、ギルモア社は人種による優遇制度・従来の価値観を守り抜く姿勢で逆に愛顧する客を掴みつつある。
フェルナンの妻・ギルモア家の一人娘はマクシムと結婚式のただ一度顔を合わせたことしかないが、肌が白いことと目の色の鮮やかさしか褒める箇所を見出せない、太ったトドのような女だった。昔から“本物”に囲まれてきた弟が、決して愛するはずがない――きっと彼は、心を残しているはずだ、今や兄の妻となった海咲に。マクシムは口端を上げた。証拠に、フェルナンはあの日以来一度も彼らの屋敷に顔を出しはしないではないか。マクシムと海咲が結ばれた日の、あの感情を一切排した茫洋たる虚無の瞳。おしゃべりな唇を引き結んで、賑やかな身振りすら全く見せない弟の姿を見るのは新鮮だった。おかしくてたまらず、同時に酷く興奮した。それはまるで、海咲と共にする褥の中で味わう快楽のように。彼女に対して普段は紳士的に仮面を張り付け続けるマクシムも、閨の中ではどうも本性に還ってしまうのだ。真っ赤に染まった目じりから潤んでこぼれ落ちる雫が肌を濡らした時、そして絹を裂くような声が、ぽたりと熱い紅色の狭間から鳴り響けば――酷く泣かせてしまいたくなる。そんな彼に、妻は時折怯えているのかもしれない。
自らが商売戦略のための道具と言われることをとても気に病んでいる海咲。フェルナンとの対立の原因を誤解し、自らを犠牲にしてでも兄弟の仲を修復させようと彼女は日々必死のようだ。ああ、こんなにもけなげで愛しいおまえを、私は決して手放すものか。たとえ何が起きようと、おまえは、おまえたちはこの手に繋ぎ続けよう。
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海咲がその男と突然の再会を果たしたのは、夫マクシムが彼女の故国へと旅立ったすぐ次の日の出来事だった。
「今日、君たちの婚姻を無効だと訴える裁判を起こしてきたよ」
応接間に現れるなり、まるで天気の話でもするかのように何気ない調子で告げた彼の瞳を、海咲は信じられない思いでじっと見つめた。
「フェルナン、どうして……? そんな酷いこと」
かつての友人、今は義弟となったはずの、苦い初恋の思い出。遠ざかってからも一体なぜ、彼は苦しめ続けるのか。
「酷いのはどっちだ!」
いつも明るく影を見せなかった青年の震える声に、彼女は目を見開いた。
「君はどうして、マクシムなんか選んだんだ!? あいつは君のことを道具としか思っちゃいない、アジアのことだって、商売上の狩り場としか見ていないんだ! 何故……どうして、よりによって」
俺の兄を――小さな呟きに、女はそれまで浮かべていた怯えを拭い去って不思議と凪いだ表情を浮かべた。
「いいえ、それは違う……。マクシムは私を想っている、あなたを弟として愛するのと同じくらい確かに。それに、……フェルナン、彼はあなたのお兄様だから」
一度言葉を区切った海咲を見つめる彼の瞳に、驚愕の色が乗る。
「あなたより私を、上手に愛せると思ったのよ」
海咲は告げて、底知れぬ深い眼差しをまっすぐに男へ向けた。マクシムは胸の内で下層の者や異人種・己と違うものを蔑みながら、それを気品という鎧で上手く覆い隠し、或いは時たまその隙間から覗く目で睨めつけることで、あえて見せつけるタイプの男だ。その上で“海咲だけ”にその鋼の手を取ることを許し、彼女に己を特別な存在だと感じさせてくれる。ところがフェルナンは、誰に対しても己の本心を隠さない。差別も偏見も全てをさらけ出しながら、露わになっているが故に“海咲自身”への好意を素直に受け入れてはくれなかった。海咲の方にもそんな彼の手を取ることへの抵抗が少なからず生まれてしまった。彼女は確かに東洋の血を継いでいるにも関わらず、異国での暮らしが長くなるに連れ、それを誇りに思う気持ちと嫌悪する気持ちの両方を育んできてしまったから。自分を失いたくない、自分ではないものになりたい、侮辱されると許せない、けれど特別に扱ってほしい。そんな彼女の我がままを、マクシムは上手に拾い上げた、ただそれだけのこと。
「……っ、クク、あはははは!」
彼女の話を黙って聞いていたフェルナンは唐突に身をかがめ、やがて激しく笑い出した。
「馬鹿だな、ミサキ。君は本当に愚かだ! ナンセンス、茶番だよ……だって俺は、あの人に育てられたんだ」
“上手に愛せる”人間が、今の俺のような男を生むと、君は本当に信じているの?――言われた言葉を、伸ばされた手を、海咲は拒むことができなかった。
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「ねえ、ミサキ。今は髪の毛一本あれば、本当の父親がわかるんだって。その赤ん坊にそれをやったら、俺の起こした訴訟は必ずや有利になると思わない?」
過ぎた歳月は一年に満たない。世界を飛び回る主人の屋敷で、産声を上げた二人目の子供は人形のように整った顔をしていた。
「自らの立場と引き換えにして、やる価値があるとお思いなの?」
眠る子供を見つめたまま、彼女は義弟に返事を返した。
「そうだよ、それでも良い。俺はそれくらい、どうしても君が欲しい。……そしてあいつに、復讐したい」
ギラギラと燃える青年の瞳を、海咲は悲しく見つめるだけ。
「……あなたはやっぱり、上手に愛してはくれないのね」
己に似たところの無い、月足らずで生まれてきたはずの赤ん坊のふくよかな姿にマクシムは何も言わなかった。クルクルと巻かれた髪が“誰か”を思い起こさせても、長男への態度と変わらず次男にも良き父親であった。あまつさえ幼いころから有無を言わさず母国の名門校へと送り込んだ長男とは対照的に、次男には自由を与える寛容さを見せた。今、彼が通っている学校はギルモア家の近くにある。息子を訪ねるという名目で海咲が度々その小さなアパルトマンを訪っているのを、マクシムは確かに知っているはずだ。けれど、彼は何も言わない――ただあの優しい笑みを浮かべて、柔らかな棘を突き刺す微笑で、静かに妻を送り出すのだ。海咲は酷く苦しくなる、そして恐ろしいと、それでも彼女は止められない。捕らえられ、その策に乗った己と彼らの過ち――否、一体何が間違いだというのだろう、これは私たちの、誰もが満たされる正しい蜜の味ではないのか。そう思わせることこそがきっと、彼の“上手な愛し方”。陰湿でほの暗いその罠に、一度嵌ってしまったならば――誰も、どこへも脱け出せはしない。
→後書き
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「紹介するよ、ミス・ミサキ・トヨダ。新しい……友人だ。港の近くの丘の上の屋敷に住んでいて、こちらの言葉を学んでいるところなんだ」
常には過ぎるほど自信をみなぎらせて言葉を途切れさせることなど決して無い、向こう見ずな若々しさを具現化したような弟が、珍しく言葉を選ぶように口を淀ませながら視線を送る先は華奢な黒髪の少女だった。丘の上の古い屋敷が得体の知れぬ東洋の成金に買われたらしい、と耳にしてはいたが――よりによってフェルナンが、何故こんな小娘に。地域の名士たる兄として、彼女に引き合わされたマクシムが初めに抱いた感想はそれだった。
「フェルナンの兄、マクシムだ。お会いできて光栄です、レディ」
小さな手を取って口づけると、指先が戸惑うようにピクリと震えた。普段から男も女もなく、些か乱暴なスキンシップの多い青年の“友人”だというのに、おかしなこともあるものだ。思わずこぼれそうになる嘲笑を堪えて顔を上げれば、聞きなれない響きの名を持つ女は小作りの顔を赤く染めて、もごもごと唇を動かした。
「常世田海咲と申します。こちらこそお会いできて嬉しいです、ミスター・ヴァーノン。……フェルナン様には、本当にお世話になっていて」
少し気恥ずかしそうに弟をうかがう表情(かお)は、いかにも恋する乙女のそれ。熱のこもった眼差しを受け止めるフェルナンの照れるような、それでいてどこか誇らしげな様は彼の心の柔らかな部分を酷く刺激した。幼い頃から見知っている腹違いの弟のこんな姿は、実質的な後見人として彼をずっと庇護してきたマクシムとて一度も見たことが無いものだ。甘くとろけたこの場の空気も、初対面の黄色い女も、弟のふぬけたその眼差しも――ああ、全てが苛立たしい。
「いや、フェルナンは中々の問題児でね。きっと君に迷惑をかけることの方が多いだろう? ミス……ミサキ、と呼んでも?」
紳士然とした兄の問いかけにフェルナンは一瞬片眉を持ち上げたが、海咲はホッとしたように強張っていた頬をゆるめた。好意を寄せている相手の家族に、ひとまずは受け入れてもらえたようだ――純粋にそう感じている表情。
「もちろんですわ。……よろしくお願い致します、ミスター」
名を呼ばせるのは、まだ早い。ふわりと匂った花の香りに、彼女の持つ色彩でミサキを認識していたマクシムは目を見張った。よくよく聞けば耳に届いた声もまた、高く透きとおる不思議な響き。細い指には見た目からは意外なタコ――それも所謂武術をたしなむもののそれがある。おそらくは何年もかけて皮膚に染みついたものだろう。東洋の女性は屋敷の奥深くに押し込められ、ろくな運動もせずに育つ、という噂とは少し違っているようだ。一方で綺麗に切り揃えられた桜色の爪は、海咲がその手入れを怠っているわけではないことを確かに物語っていた。
……判断が付きかねる。海咲を送っていく、と言って馬車に乗り込んだ弟の背を見送り、マクシムは顎に手をかけた。わずかな時間に随分と膨れ上がってしまったものだ。それは興味か、はたまた欲か――フェルナンの? それとも自身の? 踵を返して自らの書斎に腰を下ろし、マクシムは自嘲と共に首を振った。フェルナンはあの指にどれほど触れたというのだろう? 白く滑らかな肌を好み、その下の苦しみを看過しないはずの、愛すべき甘ったれである弟は。突如、ひらめいた考えにマクシムは口端を持ち上げて立ち上がった。向かう先は電話台。彼の脳裏には先ほど別れたばかりの二人の姿が浮かんでいた。父の気に入りの愛人だった母親によく似た、鮮やかな巻き毛に彫刻のように整った造作の弟。丸い目、小さな鼻、ふっくらした唇に艶やかな黒い髪の少女。二人が見つめ合い、微笑む様は酷く可愛らしいものだ。あの細い腕はどれほどの柔らかさを秘めているのだろうか、抱きかかえるのも容易だろうあの身体はどれほど敏感に震えるのだろう、底知れぬ深い瞳の瞬きはどれほどの高揚をもたらすのだろう? 口づけ一つで身じろぎしたあの指、あの手を、自分が握ったとすれば――その時、弟は。考えれば考えるほどゾクゾクと、マクシムの背筋をおぞましさと一体の愉悦が走り抜けていく。危うい想像はどうしても止まない――止められない、欲しくなってしまったのだ。彼女が、そして己の知らない弟の姿が。
マクシムは躊躇しない男である。ビジネスや社交において、彼のその態度を潔いと褒める者もいれば、余りに惨いと非難する者もいる。一見すれば極端なまでの二面性、だが彼自身にとっては、実に合理的な判断に基づくもの――“己はそれを望むか”ただそれだけが行動基準だ。彼の次の獲物となったフェルナンと海咲の間には、未だいくつもの小さな越えられぬ溝があった。その数を数えることすらできぬから、二人は今も“友人”のまま。国の違い、人種の違い、何より彼らが異なる人間であるという事実を、フェルナンと海咲はそれぞれ見て見ぬふりをしていた。相手に嫌われなくなかったから、遠ざかりたくなかったから。少しでも、近くに在りたかったから。見せないようにしていたのだ、そして知ろうともしていなかった。そんな二人が、どうして真実手を取り合える? マクシムはもどかしいその距離に付け入る隙を見出した。淡く幼い恋の芽を、摘み取るでもなくじわじわ枯らしてしまう術を。
フェルナンはマクシムの弟ではあるが脇腹であり、父が亡くなった今となっては当主マクシムの裁量なしには自由に身動きも取れぬ身だ。東洋人を家に入れれば商売上のリスクが大きい……育てた恩を仇で返すつもりか――いくらでも言い様はあったのだ。彼が丘の上の邸宅を訪う機会は、当主の意を汲んだ使用人たちの渋い顔もあって段々と減っていかざるを得なかった。そのことに沈み込んでいく海咲の元を、港で雇った馬車を使って密かに訪っていたのは兄のマクシムその人だ。買い付け先の物珍しい土産、あるいは季節の花や短い手紙、時に名を馳せた職人の手による菓子といった様々な心づかいを繰り返すマクシムに、海咲は心を開いていった。不慣れな環境と言葉に戸惑い、親しい友人からも距離を置かれた異国の少女を、丁寧に労わる名家の主――誰がどう見ても、完璧な構図だったのだ。
西に新たな支社を構えることを口実に、とうとうフェルナンをそちらに追いやり気兼ねなく丘の上の屋敷を訪ねるようになったマクシムは、海咲の前でいつも酷く優しげな、品の良い笑みを浮かべていた。彼女は“友人”と遠ざかった真の理由を知りはしない。大人になったフェルナンが、自分のような娘にかまけていたことを恥と気づいて去っていったのだ、と信じている。そして身内が傷つけたであろうものを哀れんで――そんなくだらない理由で、マクシムが細やかな気配りを見せるのだと。本当に愚かな女だ。愚か、故に愛しい。彼はますます笑みを深めた。素直で従順な女。馬鹿ではないがでしゃばらない、余計なことをしない女――更に言えば、誰より可愛いフェルナンの心を、恐らく初めて掴んだ女だ。それだけで付加価値は他の何倍にもはね上がる。こんなにも愛すべき存在が、果たして他にいるだろうか?
「結婚してほしい、ミサキ……あなたが好きだ」
隣に並んで花を愛でていた庭で彼が彼女に囁いた時、海咲は何かをためらうように、手の平を固く握りしめた。
「確かに私と君は、フェルナンを介して知り合った。……けれど今はもう、そんなことは関係ない。私自身が愛しているから、今までこうして」
言葉を区切ったマクシムを、じっと見上げたつぶらな瞳――束の間見開かれた後、そこからはみるみる雫が溢れ出した。すがるように背に回された手が彼のシャツをそっと掴み、細い首が頷く気配を見せた時、屋敷の中で唯一主の故郷を思わせる玉砂利がジャリ、と踏まれる音がした。手にしていた鞄を取り落として呆然と佇むフェルナンの姿に、こみ上げそうになる笑いを堪えてマクシムは身を震わせる。本能で予感してしまったのか……何て間の悪い、いや絶妙だ。何が『関係ない』? 大嘘だ。そんなこと、あるわけがない。弟が連れてこなければ興味を持つことはなかったし、彼のあんな顔を見なければきっと惹かれることもなかった。必然なのだ、彼と、彼女とあの出会いが――海咲自身は確かに欲しい、愛している――けれどこうなった今、“もし”なんて問いは成り立たない。
「すまない、フェルナン……」
口から滑り出た言葉と共に、胸の内で密やかに囁かれた本心を、彼はごくりと飲み込んだ。ありがとう――それは極上の蜜の味。
→後編:『For The Destiny』
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緑の瞳には魔が宿るのだと言う。それを教えてくれたのは、いったい誰の声音であったか――
パチリと目を見開いた赤子に手を伸ばそうとしたレスターのこめかみに、一瞬鋭い痛みが走る。
「何だ……?」
音と色と光の洪水、怒涛のように押し寄せる記憶と感情の波。
「あなた、どうかして?」
心配そうに彼の腕に触れた妻を
「大丈夫だ」
と振り返ろうとして――レスターは気づいてしまった。妻の瞳は青だ、緑ではない、彼が愛した、この赤子と同じ色を持つ瞳の主は。
「レスター! クレア! よく来てくれたね、嬉しいよ」
ドクン、ドクン、心臓が酷く脈打ち鼓動が増す。明るく笑いながらこちらへ手を差し出す男ぶりの良い青年は無二の親友、そして彼は今日その赤ん坊の誕生祝いのために屋敷を訪れたのだ。何故ならば――
「義兄さま、姉さま、わざわざ足をお運びいただきありがとうございます。この子も、お二人にお会いできてとても喜んでいると思いますわ」
緑の瞳、艶やかなブルネットの髪を流して、レスターを義兄(あに)と呼んだ彼女こそが、彼の愛する人のはずだった。本当に心から、二人は愛し合っていたはずだった――何故だ? ヴァイオラ? レスターの目に込められた必死の問いに、彼女はわずかに目を瞠り、ふと赤子に視線を逸らして息を吐いた。魔法が、解けてしまったのね――その後に向けられた苦笑のような表情(かお)に、レスターは絶望しながら黙りこまざるを得なかった。
クレアとヴァイオラの姉妹の実家であるメルヴィル家とレスターのリヴァーモア家はかねてより深い付き合いがあった。物心ついた時には両家の子女を結婚させようという計画があり、年の近いリヴァーモアの跡取りレスターとメルヴィルの長女クレアの婚約が暗黙の了解のごとく進んでいた。けれど人の心とはうまく行かないもので――年に幾度か互いの家を訪ね、社交界にデビューを果たして夜会で顔を合わせる内、レスターは姉のクレアではなく妹のヴァイオラの方に惹かれるようになってしまった。クレアより二つ年下のヴァイオラの反応も満更ではなく、やがて彼女はレスターの気持ちに応えるようになった。晴天の空のような美しい金の巻き毛に鮮やかな青の瞳を持つ姉とは違い、深すぎるブルネットに緑の瞳を持つ彼女のことを、暗い森の沼と揶揄する輩も周囲にはいた。思ったことをハッキリと口にし、年かさのレスターにも物怖じせずに振る舞う姉を羨んでいた彼女だからこそ、憧れの幼なじみ、姉と想い合うはずのレスターが自身を選んでくれたことに歓喜したのだ。
『私は分かりにくいでしょう? 目立たないし、いつも上手く自分の気持ちを伝えられないの……。大事にしようと思うほど、どの立場に立てば良いのか、どうすればお互いを傷つけずに済むか悩んでしまうのよ』
『それはおまえが優しいからだ、ほかの人間には無いヴァイオラのそういうところが、私は好きだ』
触れる唇の熱が愛しく、肩に回る柔らかな腕と甘い匂いに目もくらみそうなほど――彼らは想い合っていた、深く、確かに。
『ヴァイオラ、私と結婚してくれ。クレアと私の婚約は親同士の取り決めだ、おまえだってメルヴィルの娘だろう? 変更して不都合なことは無いはずだ』
『レスター、待って。あなたと姉さまは、幼い頃から……長い間、ずっとフィアンセとして過ごしてきたわ。時間が要ると思うの、余り急いて事を荒立てては……』
早期にクレアとの婚約解消とヴァイオラとの結婚を望むレスターに対し、ヴァイオラは曖昧に言葉を濁しながら、頑なに二人の仲を周囲に打ち明けることを拒み続けた。彼女は知っていた――気位の高い姉が、いつも憎まれ口ばかり叩く婚約者を本当は好ましく思っていることを。姉と似ても似つかない自分の実母が本当は当主の妹で、屋敷の下男と駆け落ちの挙句うらぶれた街で命と引き換えに産み落とした赤子が己なのだということを。家の体面のためだけに引き取られた立場のヴァイオラと、大事な取引相手であるリヴァーモア家の縁など誰も喜びはすまい。そしてまたその複雑な立場で育まれたいささか自虐的な歪んだ不信を、彼女は恋人に対しても向けてしまっていたのだ。
『一つ、約束をしましょう。レスター、あなたは私を好きだと言うわ。姉さまよりも愛していると。私といることが幸せだと。でもそれが本当かどうか……試してみたいの』
あれは彼とクレアの婚約披露の夜だった。辛抱の限界に達したレスターは人目につかない薔薇の茂みにヴァイオラを引き込み、この機会に彼女との関係と新たな婚約を公にしたいと強く恋人に訴えた。すると彼女は困ったように微笑んで人差し指をレスターの唇にあて
『私の目を見て、レスター。あなたは今から、私とのこと、私を愛したことも、愛されたことも全ての記憶を忘れるわ。……思い出すのは、そうね、あなたが本当に“私”を忘れてしまった時、私と過ごすのではないこの先の世界で、幸せを感じた瞬間にきっとすべてを思い出すのよ』
それは彼女の賭け、祈り、呪い。己のいない時間の中で彼が幸せになれるはずがない――なってほしくない。猜疑と執着の果て、ヴァイオラは深く澄んだ瞳で男を見た。
『何を……言っているんだヴァイオラ?』
『緑の瞳には魔が宿るのよ……だからこれは魔法。お願い、レスター、私の魔法にかけられて?』
深く暗い沼の底に突き落とされるように、レスターの記憶は沈んだ。ほどなく彼とクレアの婚約は正式に披露目され、翌年二人は結婚する。今では立派な跡取りさえ生まれているのだ、レスターは
「とうさま、ぼくもごあいさつ!」
と駆けてくる幼い子供の身体を受け止めながら震えそうになる腕を必死に止めた。
一体どこで間違ったのか――ヴァイオラに最後まで自分の気持ちを、認めさせることができなかったから? 妻が己に向ける慕情のこもった眼差しを、無視しきることが叶わなかったからだろうか? ヴァイオラ、ヴァイオラ、緑の魔女よ――おまえは何を、望んでいた?
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キースがヴァイオラと初めて出会ったのは親友の婚約披露の席だった。華やかな宴のテーブルから離れた薔薇の茂みの中で、彼女は一人うつむいて涙を流しているように彼の目には見えた。
『どうしたの? 君、大丈夫?』
慌てて駆け寄ったキースに彼女は首を振って
『ちょっと……失恋しちゃったの』
と懸命に微笑んでみせた。その潤んだ緑の瞳に、彼は一目で恋に落ちた。親友レスターの婚約者、クレアの妹であるヴァイオラに。大学で知り合ったレスターは名家の出でありながら気取ったところがなく、貧しい育ちのキースとも対等に向き合ってくれた。自ら事業を起こしそれなりに豊かになった今でも、気兼ねない付き合いのできる大切な親友で尊敬する男。彼女が泣いたのが彼の婚約に対してなら、悔しいが納得できる、とキースは思った。濃い栗色の髪、理知的な瞳、整った鼻梁――どこから見ても文句のつけようがない魅力的な男だ。それも彼女の姉が相手だというのなら、幼い頃からそう見られてきた二人だというのなら余計にどうしようもないだろう。キースは彼女を慰めようと必死に手紙を書き、忙しい日程を調整してはささやかな土産を携えて彼女の家を訪ねるようになった。
『お優しいのね、ラムゼイさん。もう大丈夫だと言っているのに……』
『キースって呼んでくれよ。それにこれは、優しさなんかじゃなくて……』
大きく見開かれた緑の瞳に、そっと上からキスを落として。真っ赤に染まった滑らかな頬に、彼はもう一度唇で触れた。嫌がられはしなかった。そのことが、キースに大きな自信を与えた。二人の交際にヴァイオラの家族から強く反対されることは無かったし、キースは根なし草も同然、親友の恋をヴァイオラの義兄となったレスターもまた苦笑まじりに見守ってくれていたように思う。かくて二人は先年結ばれ、初めての子宝に恵まれて、祝福の中幸せの絶頂にあるはずなのだが――
「レスター?」
目の前の親友から漂う、この酷く重い、澱んだ空気は何だろう? 強い怒りを孕んだような、何かを激しく責め立てるような――混乱と慟哭、そして燃える嫉妬の眼差しが、キースと家族に向けられていた。
「……ご気分がお悪いのでしたら、木陰でお休みになられては?」
そんな空気を意に介する素振りもなくニコリと微笑む妻の顔にもどこか禍々しいものを感じ、彼の背にじわりと冷たい汗が滲んだ。まさか、自分は間違っていたというのだろうか――? レスター夫妻が初めから愛し合っていたように見えたのも、彼女の恋が片思いに終わったというのも、どうして、どうしてこの緑――穏やかな木漏れ日の影が眩い反射光へ姿を変える瞬間に、惹かれぬ者がいるだろうか。……それでももう、後戻りはできなかった。
「いや、レスターは薔薇の香りに酔ったんじゃないか? 返って日のあたらない家の中に入った方が良いかもしれない」
妻の腰を強く抱き寄せて、キースはじっとレスターを見すえる。かつて向けられたことが無いほど飢えた憎しみの眼差しでこちらを射抜く親友からは、確かに同種の想いを感じた。そしてその傍らに立つ彼の妻は、すがるように不安げな目で夫を見ている。彼女は知っていたのかもしれない、夫と妹と“魔法”のことを。それ故に恐れているのか、だからこそ縛れるのか。しがらみに囚われた彼らの魔法は、そう簡単に解けはしない。解かせはしないだろう――きっと自分が、そうはさせない。
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