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哀しみに果てはないのだろうか。
屋敷の裏手に位置する小さな湖の畔で、アインスは小石を蹴飛ばしながらチラと考えた。向かいの岸には緑の木々に隠れるように、白い屋根の小さな家が立っている。そこに住まうどこか儚げな風情をまとった貴婦人は、アインスの父のかつての主だった先代の領主の娘、アインスの母の従姉にあたる女性である。男児に恵まれなかった先代の領主は騎士として忠実に仕えた父を信頼し、遠戚の女性を嫁して跡を継がせ、生まれたのがアインスだ。実の娘がいるのだから、跡取りにはそちらを縁づければ良かったのではないか――? 先代の領主がそうできなかった理由についての噂は、母が必死に遠ざけようとしてもなお彼の耳にこぼれ落ちてくる。かの女性――湖畔の家の主はそう、あの“うすのろ王”の愛妾だったのだ。
うすのろ王、と忌名される先王のことを、少年アインスはよく知らない。彼が生まれる前に崩じた暗君。屋敷に使える馬丁にまで『あのうすのろ』と蔑まれる、長寿を全うした幸せな愚者。国政を執り行う力が皆無だったにも関わらず、長く在位したため腐った貴族の勢力を助長させ、現在の混乱の源を生み出した――年若い現国王が真実先王の血を引いておらず、王位にふさわしくないと主張する王族の一派と、彼を傀儡のように操る王太后とその親族との対立は日ましに激しいものとなり、アインスが生まれてからこの方ずっと、国には不穏な空気が漂い続けている。そんな中で火種となるかもしれぬ“先王の妾”を抱えて、父はこの地を受け継いだ。
己の立場を敏感に感じ取ってか、かの家の住人は親族間の集まりであっても賑やかな場に姿を現すことは滅多になく、朝な夕なこの湖の淵をぐるりと巡って野草を摘み、時に鳥や魚に餌をまいてはその場に佇み、じっと景色を見つめる姿を見かけるくらいだ。世捨て人も同然の暮らしをする彼女は未だ四十を迎えていまい。恐らく少年の母といくらも変わらないだろう。それでも彼女に子はなく、これから先一生、母のように他の夫人から午後の茶会に招かれることも、夫に腕を取られて華やかな夜会に赴くこともないのだ。
「何とかしてさしあげたいけれど……こればっかりは、本当にお気の毒ね」
暖かな暖炉の内で火のはぜる音が響く居間の窓越しに、湖を見やって呟く母の瞳は同情と憂いに満ち、しかして声にはかすかな優越が滲んでいた。整った顔立ちに涼やかな物腰、そしてたくましい身体つきをした父の姿を思い描く。この静かな田舎にあって、騎士としての父はどれほど眩しく若い娘たちの目を惹きつけたことか。そして彼の仕える家には娘が一人――騎士号を得ようと懸命に努める彼の姿に、彼に目をかけ厚遇するその主に、誰もが思ったに違いない、主は騎士に娘を聚せ跡を継がせる気なのだと。彼は彼女のものだと。母もそうして父を諦めようとした娘の内の一人だったのだろう。けれど思わぬ天啓が、都から降って来た……そうして“天”から降り注いだ槍が、あのたおやかな女性を貫いたのだ。
「ツェーン様、何かお困りのことはございませんか? 不都合がございましたらいつでもおっしゃって下さい。冬の間だけでも、こちらにいらしていただいて構わないのですよ? ……何せ元々は、あなたのお屋敷なのですから」
食事に招いた彼女を送る道すがら、父が宝物を守る騎士のように――確かに彼は騎士なのだが、まるで主に対するように――有り体に言えば、領主としての威厳など消え失せた、騎士になりたての少年のように頬を染め、穏やかに微笑んで彼女に手を差し出している様をアインスは見た。見てしまった、と言った方が正しい。正直に打ち明ければ、彼は見たくなかったのだ。息子や妻の前で何が起ころうとも常に表情を変えず泰然としている父の姿は、少年の誇りだったから。
「ありがとう、タウゼント……そんなに気を遣わなくても良いのよ? 領主はあなたで、私はここに住まわせてもらっている身なのだから」
目元をゆるめて笑った彼女の背を見送る父の瞳――その眼差しの切なさに、アインスは思わず視線を逸らしてしまった。母ですら呼び捨てたことが無いであろう父の名を、いとも簡単に口にした彼女の声。そしてその目はきっと……父が、欲しかったものは。彼が何のために騎士号を得ようと努力し、主の信頼を得たのか。気づいてしまった、だからこそこんなにも、小さな胸は痛むのか。引き裂かれてしまった絆は二度と戻らないと言うのだろうか。もし、この先父が地位を退き、アインスが後を継いで主となることが叶った日には……母には申し訳なく思うが、己の力で、せめて二人に今より近しい距離を与えてあげられる方法はないだろうか? この湖に差し掛かる度、白い屋根を目にする度に、少年はそんなことを考えるようになっていた。
哀しみに果てがないなんて――あの優しげな女性と敬愛する父が、永遠に癒されぬ傷を抱えて生きなければいけないなんて。彼が憤りとやるせなさにうつむけていた顔を上げた時、ちょうど視線の片隅に、今しがた思い描いていたかの人の影がよぎった。手の中に何やら小さな紙の束と筆記用具を抱えているらしい彼女は、キョロキョロと辺りを見渡し、手ごろな切り株を見つけると手巾を敷いて座り込んだ。
「蝶々……種類は何かしら? 後で調べてみないとね」
飛んできた蝶を見つめて、歌うように呟いた彼女の声が少年の鼓膜を揺らす。
「この花はタンポポよ、それから、白いのはシロツメクサ……クローバーよ。これは三つだけど、葉が四枚あるのは珍しくて、見つければ幸福になれるって言われてるの。ふふ、あなたは見たことがあったかしら? ゼクス……」
愛しげに紡がれたその名前。その名前は、少年の父のものではなかった。それどころか、――思い至ったその可能性に、アインスは目を見開いた。
「まさか……」
ゼクス、先王の名前。誰も呼ばない、うすのろ王の名前。その名を呼んで誰もいない空間に語りかける彼女の表情(かお)は、柔らかに輝いていた。
「あぁ、あぁ、見つけたわ……! ほら、あなた見えるかしら? 四枚よ、四葉のクローバー! あなたのところにも、届くと良いわね」
白い指先を土で汚して草をかき分けていた彼女が、微笑んで掲げた手の先にあるものは、少し離れたアインスの位置からとても確認できないが。その声が、いつも彼の屋敷を訪れる時とはまるで違う、弾んだものであることは、確かに耳で感じられた。切り株に置かれたその小さなものを、手にした帳面に移し取っているのであろう、サラサラと鉛筆のこすれる音が聞こえ、アインスは静かに瞳を閉じた。
ああ、自分が何かするまでもなく、彼女は既に“しあわせ”なのだ。たった一つの愛を見つけ、たった一つの愛と共に今もきっと生きている。そしてその幸せを、想い人の愛を見守る父もまた、きっと満たされているのであろう。彼らは出会えたのだ、たった一人に。知ることができたのだ……愛することの喜びを。
いつか己もまた真実愛する存在に出会えたら、彼女の家を訪ねてみよう。そうして見せてもらうのだ、彼女の愛と生の証を。かの人と共に在った時も、彼と離れてからの時間も全て伝えることができるよう、丁寧に紡がれた言の葉の束を。そこには彼女の哀しみも、怒りも、喜びも全て込められているはずだ――おしまいの無い、彼と彼女の想いの全てが。哀しみに果ては無いだろう、けれど愛に終わりが無い以上、そこに幸せも在るのだと、彼女の姿が教えてくれた。
湖に背を向け静かに歩き出した少年の口元には、凪いだ湖面のように澄み切った笑みが浮かんでいた。
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あるところにたくましい青年と美しい娘がいました。
仲の良い幼なじみとして育った二人はやがて恋をし、結ばれて幸せに暮らしました――
「嘘の中に真実が一つ。真実の中に嘘が一つ。全てが本当。全てが偽り。私たちはどれかしら……」
本を閉じて、ミレイユは窓辺に置かれた揺り椅子から立ち上がった。綿菓子のように甘く、ふわりと掴みどころの無い恋愛小説。めでたしめでたしのその先は描かれない、理想的なおとぎ話。ミレイユは視線を鳩時計に移した。蝋燭の火に照らし出された文字盤に頷くと、くるりと踵を返して扉へと向かう。重厚な扉を押し開けば冷たい空気が肌へと刺さる。
廊下へ一歩踏み出せば、若い娘の愛らしい顔が冷徹な女主人のものへと変わる。カツカツカツ……回廊に高く靴音を響かせて、彼女は進む。幾度となく繰り返された戯曲の中で、与えられた役を演じるために。書斎の西隣、書庫となっているはずの部屋の前で立ち止まり息を詰めると、彼女は音を立てて扉を開いた。
「きゃあっ、奥様!」
「何事だ!? ……ミレイユ」
ミレイユの眼前に広がったのは予定調和の光景。ソファの上に裸で抱き合う男女――男の方は彼女の夫であるアンペール伯クロード――生々しい熱気がミレイユの鼻をつく。
「また新しい娘に手を出したのね。先日私の小間使いを辞めさせたばかりだというのに」
割れた硝子の切っ先のような鋭い眼差しと冷えた声音は、先ほど窓辺で恋物語を読みふけっていた少女の呟きとは思えない。
「仕方ないだろう。僕の楽しみを邪魔しないでくれ」
端正な顔立ちを歪めながら、クロードは罰が悪そうに妻から顔を逸らして服の前を合わせ始めた。ミレイユは溜息を吐きながら、女に向かって告げた。
「……あなたも呆けていないで出て行きなさい。その服はもう着なくて結構よ。それは身もちの正しい優秀な使用人にのみ与えられる服ですから」
女は一瞬瞳を潤ませて主人を睨みつけ、逃げるように部屋の外へと駆け出して行った。その背を見送りながら、ミレイユはそっと夫に歩み寄る。
「あーぁ、何も着ずに行ってしまったじゃないか。あの娘とは一度しか寝ていないのに」
どこかあどけなさの残る声音で悪態をつくクロードの傍に腰掛けようとして、触れたソファに残る温もりにミレイユは顔を顰めた。
「伯爵家の当主ともあろう方が、こんなことばかり繰り返していては頭が痛うございます」
そんな彼女に向かい視線を彷徨わせたクロードは、ミレイユの固く握りしめられた手を掴んで無理やりソファの上に引き寄せた。
「だって君は……僕を愛してくれないだろう?」
ソファの上に倒れ込んだミレイユの濃い茶色の瞳を、クロードの鮮やかな青の瞳が射抜く。青の輝きが底知れぬ淵に沈む様を覗きこむ瞬間が、彼女には何より恐ろしい。淵の底にあるものを、ミレイユだけが知っているから。
「だってあなたは……お義姉様を愛している」
淵に向かって投げ込まれた小石。蝋燭の灯と共に青の水面もまた、ゆらりと揺れた。
「……それは言わない約束じゃないか」
掠れた声で吐かれた言葉に、ミレイユはふっと笑いながら視線を逸らした。
「そうね……そうだったわね、クロード。私は全てを知った上であなたに嫁いだ。古くから親交のある同格の家、仲の良い幼なじみ、誰もが私たちの結婚を望んでいたわ。私の両親も、あなたの両親も、そしてお義姉様も……だから、だからあなたは」
滔々と語り続けるミレイユの顎を捉え、クロードはその顔を持ちあげて言葉を続けた。
「君に求婚した、僕の妻になってほしいと。全てを知った上で、僕の妻としての役割を果たしてほしいと。美しい伯爵夫人、厳格な女主人、そして優しい母親……」
「無理だわ、勝手すぎる。私は……私は、あなたの子どもなんて生みたくない!」
クロードの手を振り払って、ミレイユは叫ぶ。
「ならば他にどんな方法があった? この家を守り、姉上を安堵させる方法。君だって僕と結婚しなければあのぼんくらを誑しこみでもしない限り、伯爵夫人を名乗ることはできなかっただろうに」
「そんな言い方ってないわ! 私は伯爵夫人になりたかったわけじゃない。どうして、どうしてわかってくれないの……!」
嗚咽を漏らしたミレイユに、クロードは口を噤んだ。一つ息を吸うと先ほどまでの虚無と冷たさの混じる表情を一変させ、穏やかで柔和な“夫”の顔を作り上げて年若い妻に呼びかけた。
「悪かった、ミレイユ……もう興奮するな。お腹の子に、障るだろう?」
ミレイユは絶句する。いつもこうだ、彼女の言葉を、夫は聞かない。クロードはミレイユの“真実”を必要としていないのだ! 膨らみかけた腹を優しく撫でる手の温もりに、ミレイユは深い絶望を噛みしめていた。
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クロードの実姉――ロジーヌは、既にルクレール侯爵の元へ嫁している。社交界の花と謳われた艶やかな美貌と天真爛漫な気性が魅力的な彼女に、惹かれぬ者はいなかった。幼なじみとして傍らにいつも彼女を仰ぎ見てきたミレイユにとっても、彼女は眩い憧れの存在だったのだ。
「姉上から便りがあった。あちらでは今ユリの花が見頃らしい」
夕食の席で白い封筒を取り出し、愛しげに見やるクロードにミレイユは顔を俯けた。そんな彼女に、クロードの異母弟にあたるファビアンが暗い眼差しを注ぐ。
「それで、姉上はお元気そうなご様子ですか? 兄上」
兄の方に向き直ったファビアンは、一転して脇腹の道化らしく朗らかに異母姉の様子を問うた。
「ああ……五月には二人目の子どもも生まれるらしい」
どこか苦い響きをもって紡がれた言葉に、ファビアンは明るい声を上げる。
「ということは、兄上の御子と同い年になりますね。二重にめでたい!」
その言葉と同時に、ミレイユは口元を押さえおもむろに立ち上がった。
「気分が悪いので……失礼させていただきますわ」
「大事な身体だ。きちんと休みなさい」
真っ青な顔色の妻に向けられた夫の笑顔は、陶器の仮面のように固く冷たい。足早に食堂を去ったミレイユは寝室に辿りつくなり、寝台にもたれてうつ伏せる。泣こうとしても泣けない、氷のような陶器の面が己の顔にもまた貼り付けられていることに、ミレイユは無意識の内に気づいていた。
そうして、どのくらいの時が経った頃だったろう。コンコン、と部屋の扉を叩く音にミレイユが身体を起こすと、扉の隙間から仄かな明りが差し込んでいる。
「……どなた?」
「私です、義姉上」
誰何の声に答えると同時にスルリと部屋に入り込んできたのは不肖の庶子ファビアン。不敵な笑みを浮かべながら近づく彼にミレイユが後ずさると、ファビアンは強い力で彼女の手を掴み、無理やりその身体を引き寄せた。
「可哀想なミレイユ……俺と結婚していれば決してこんな目には合わなかったのに」
「やめて、離して!」
ファビアン――ロジーヌ・クロード姉弟と母親を異にする彼は、十年前にアンペール家に引き取られた。年の近いミレイユはその頃寄宿学校に入っていたクロードや花嫁修業の最中だったロジーヌに代わり、よく屋敷にやってきては彼の面倒を見るよう頼まれていたのだ。それ故か、この歪んだ野心を内に秘めた伯爵家の火種は、彼女が自らの許婚であると勘違いしてしまったらしい。クロードとミレイユの婚約が決まった時から、ファビアンはことあるごとに彼女に迫り、こうして執拗な誘惑を繰り返してきたのだった。
「……私と結婚すればこの家が手に入るとでも思ってるの? 残念ね、お義父様はあなたに爵位を譲る気なんて端からお持ちでなかったわ」
掴まれた手を払いのけて叫ぶと、ファビアンの整った顔が怒りに歪み、白い頬は赤く染まった。
「チッ……あんな変態のどこが伯爵にふさわしいってんだ! おまえも物好きな女だな、絶対に自分を愛さない男を選ぶなんて。そうまでして伯爵夫人の座が欲しいのか?」
嘲笑うように吐き捨てるファビアンに、ミレイユは自嘲した。まさかクロードその人にも同じ台詞を言われたとは、さすがの彼も信じまい。
「私が欲しいのは地位とは別のもの……けれどクロードと結婚することでしか手に入らないものよ。結婚するまで気づかなかった……いいえ、そうよ、今の今まで気づけなかった! それでもこれだけは言える。あなたには決して、与えることのできないものだと」
「このアマ……!」
ミレイユの強い眼差しに、激昂したファビアンが襲いかかる。咄嗟に掴んだ枕を盾に、彼女は大声で叫んだ。
「出ていって……出ていってよ!」
気配に気づいた使用人が廊下の向こうでざわめき出す物音が聞こえ、ファビアンは舌打ちをして掲げていた手を下げた。
「俺は諦めないからな……絶対にあいつから奪ってやる。何もかもを……」
憎しみを込めた呪詛を残して去るファビアンの背を見送り、ミレイユはその場にへたり込んだ。
「わかっていても……どうにもならないことはあるの」
扉の向こうに向かって洩れた呟きは彼女の内にじわりと広がり、目尻から一滴の涙が滑り落ちた。クロードは来ない。妻が寝室に籠っても、弟が食堂から姿を消しても――彼は知らないし、知ろうともしないのだ、ミレイユの想いも、ファビアンの野心も、二人の関係も――知っていたところで、きっと……
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ゼクス王が死んだ。知恵遅れに生まれつき、満足に国政を執り行えず、佞臣に利権を貪らせ、民を飢えさせ、国を傾けた王だった。王族は疎み、貴族たちは嗤い、民たちは憎んだ王だった。本当の名を覚えている者は誰もいない。人は彼をこう呼んだ。嘲弄を秘め、怨嗟を込めて――「うすのろ王」と。
王の一人目の妃は異国の姫。聡明な知を誇った彼女は白痴の夫を受け入れず、半年と経ずに帰路に着いた。二人目の妃は王の従妹。穏やかな優しさを備えた彼女は嫁いでから数年の後、初めての子と共に冥土に渡った。三人目の妃は公爵の娘。艶やかな美貌を謳われた彼女は夫を捨て、愛人と共に離宮に籠った。
心は幼子のまま、身体ばかりが老いてゆく王に佞臣たちは困り果てた。悪知恵の限りを尽くして彼らは閃く――王に妾をあてがうことを。家柄は良いが決して裕福では無い貴族の、見目良く心映え優れた娘たちを、彼らは片端から吟味した。そうして最後に王の居城に招かれたのが私。瑞々しい果実の輝きに満ちた十年を、私は枯れ枝も同然の王の傍らで過ごし、その最期を看取ったのだ。
王の死を知るやいなや愛人との子を諸手に抱えて城に帰還した王妃により、妾であった私は城を追われることになった。馬車いっぱいに荷物を詰め込み去りゆく私に、王妃はこれ見よがしに眉を顰めた。
「まぁ、嫌だ。陛下にどれほどおねだりなさったというのかしら。卑しい立場に甘んじる方の考えることは、わたくしには想像もつきませんわ」
そんな王妃に小さく会釈をし、私は馬車に乗り込んだ――懐かしい故郷に向けて。
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「ツェーンお嬢様、長のお勤め、御苦労さまでございました……再びこのお屋敷でお仕えできる日が来るとは、感無量でございます」
玄関ホールで私を出迎えたタウゼント――我が家の騎士が、青い瞳いっぱいに涙を溜めて眼前に跪く。淡い金色の髪は記憶の中のそれよりも長く背へと流され、体つきもたくましく眩しいほどの精悍さを身に帯びた彼は、私が城に召された時、誰よりも憤り、最後まで反対してくれた幼馴染の青年だった。ほのかな、色づく前の苺ほどに淡い恋心を抱いた相手でもある。けれど今の私には彼の何もかもが明る過ぎ、その姿に、言葉に、暗く沈んだ心の澱が一層濃くなる気配を見せた。
「お嬢様が城へ呼ばれた時は胸が潰れる思いも致しましたが……本当に、ようやくあの“うすのろ王”から解き放たれてよろしゅうございました。この日をどれほどお待ちしたことか……」
馬車の荷を降ろしながら続けられた言葉に、私の中に張られていた細く固い糸が、ぷつりと音を立てて切れる。
「お黙りなさい!」
そう叫んだ瞬間、タウゼントは驚いて抱えていた箱を取り落としてしまった――そうして、土の上に広がったのは。
「……絵のカード……? いや、裏に言葉も書いてある……これは」
呆然とするタウゼントの前にしゃがみこんで、私は散らばったカードを必死にかき集めた。拙い鳥の絵、上手に描けた花の絵、得意としていた海の絵……小さな紙きれの一つ一つに、大切な思い出が秘められている。馬車いっぱいに詰め込まれた、荷物の正体。
「ゼクス王はね……あの方はコマドリも知らなかったのよ。コマドリがどんな色をしているのか、ツグミがどんな声で鳴くのか、スミレがとても小さな花だということも、バラの茎に棘があることも知らなかった。私がコマドリの絵を描けば、あの方は目を輝かせて私を見たわ。私がツグミの真似をすれば、あの方は瞳を閉じて耳をすませた。スミレを摘んできた時は侍女に捨てられてしまったし、届けられたバラの茎には棘が無かった。でも……それでも、あの方は笑うのよ。楽しそうに、嬉しそうに、『ありがとう、ツェーン』と」
熱を持った身体が小刻みに震え出し、喉の奥から嗚咽が漏れる。彼は無垢だった――余りにも、悲しいほどに。
「お嬢様……あなたはもしや」
目を見開いた彼の表情(かお)に、衝撃と悲憤を認め、私は哀しく微笑んだ。
「あの方の……ゼクス王のことを、侮辱しないで」
ようやく拾い終えたカードを抱えて、私は用意された自室へと引きこもる。タウゼントは正式な騎士号を得ながら未だ独り身だと聞く。私を“うすのろ王”に差し出したことに負い目を感じる両親は、もしかしたら彼と私を結婚させるつもりでいたのかもしれない。その唯一の希望を、私は自ら断ち切ったのだ。
埃は払われているものの、少し黴臭いにおいの残る久方ぶりの自室の机にカードを広げ、かかった土を払いのける。何も知らない王のために、一枚、一枚描き出したカード。いつの間にかその作業には王も加わり、覚えたものの名前を書き記し始めた。たどたどしい文字と間違いの混じる綴りを丁寧に確かめながら、二人で築き上げた六万枚の言の葉の束。最後の一枚は、あの日、あの部屋で、初めて彼一人で完成させたものだったはず。恥ずかしがる彼が最後まで手放そうとしなかったそのカードを、私は未だ見ていない。
「おしまいなんて……寂しいわ。寂しいもの」
張り裂けそうな胸の痛みに思わず机の上に伏したその時、小さなノックの音が聞こえた。続けて扉の外から聞こえてきた声は、予想通りの騎士のもの。
「お嬢様、ツェーン様……あなたが、ゼクス王に同情する気持ちもわかります。けれど王はあなたの青春を犠牲にしたのです。あなたはもう自由なのです。どうか、余り思い詰めることなきよう……」
「誰が、私を犠牲だと言ったのです!?」
私は今度こそ叫んでいた。頬をしたたる涙をぬぐい、扉に向かって声を荒げる。
「私が犠牲になったと、自由を欲していたと誰が言ったというのです? 私は、私の心は自由でした。ゼクス王の傍で……私は、私は」
扉に駆け寄って手を這わせると、その向こうでタウゼントの息を飲む音が聞こえた。
「後悔、していないのですか? 四十も年の離れた、白痴の王の元で過ごした日々を」
深い絶望と戸惑いを含んだ声だった。偽ることはできない、例え期待を裏切ろうとも――私は覚悟を決めて扉を開く。
「……していません。私にとっては、何より実り多き年月(としつき)でした」
真っすぐにタウゼントを見すえて告げれば、その目に一瞬激しい嵐が宿り――底の見えぬ群青へと変化した瞳が、ただ静かに天を仰いだ。深い深い溜息が、私の頭上に降り注ぐ。
「ツェーンお嬢様……あなたを攫えなかった己を、私は呪いたい。それでも、あなたが望まれた道ならば……」
「タウゼント……長の年月、私などよりあなたに、苦しい思いをさせてしまいました。申し訳なく思います」
交差した眼差しが果てのない切なさを宿して潤み、遠く隔たった二人の時間(とき)と想いを駆ける。
「謝らないで下さい、お嬢様……私にはまだ、これからの生があるのですから」
儚い微笑みに、私は俯いた。彼は気づいている。私が、先を“生きる”意志の無いことを。終わってしまったあの方の生と同様に、私の生もまたこの先には存在しない、消え去る覚悟でいることを。
踵を返した彼を見送り机の上に目を移すと、乱雑に広げられたカードの中に一通、白い封筒が混じっていることに気づいた。記憶の糸を手繰り寄せれば、唇に人差し指をあてて悪戯めいた笑みを浮かべる王の姿。自分のいないところで開けろ、と暗に伝える彼の仕草に、苦笑しながら受け取った封筒。そう、あれはゼクス王が死の床に就く間際――彼は知っていた。皆が、自分の死を待ち望んでいることを。
『ツェーン、いいんだよ、おこらないで。ツェーンがそばにいればそれでいい』
『ツェーン、わらって』
『なかないで、おはなしして、ねむるまで……』
そうだ、この封筒の中身こそ、六万枚目の最後のカード。彼がたった一人で完成させた、最初にして最後のカード。
「……開けて、おしまいにする?」
一人でに漏れた言葉に唇を抑える。結局そんなこと、できるわけないがない。例え全てのカードを作り終えてしまっても、この想いは終わらないのだから。私は震える手で鋏を掴み、封筒の淵に滑らせた。
「え……わた、し?」
文字を書くのは覚束なかったはずの彼が鉛筆一本で描いたであろう小さな人物画は、それが誰だかはっきりと分かるほど優れた出来栄えのものだった。そういえば彼に手伝ってもらったバラの絵は、棘は描かれておらずとも見事な一枚に仕上がっていた。
「見たことがないから描けなかっただけで、本当は、あなたはこんなに……」
カードの裏、意味を表す文字を記した面に目をやった瞬間、私は言葉を失った。
『ツェーン――愛』
とめどなく溢れる涙が、カードの上にこぼれ落ちる。大切な最後の一枚がふやけていく様を見ても、私は涙を止めることができなかった。立ちつくしたまま、後から後から込み上げる嗚咽を堪え切れずに声を上げた。
手入れの悪い白髪、皺だらけの顔、手に握られた重厚な樫の杖――初めは、何もかもが恐ろしかった。白亜の王宮を抜け出して、この家に逃げ帰ろうと、両親に、タウゼントに会いたいと、何度思ったことだろう。
『なにをしているの? ツェーン』
『し、刺繍をしておりますの』
『なんのししゅうをしているの?』
『コマドリですわ、陛下』
『こまどり……コマドリって、なんだい?』
あの日、無邪気に問うてきた老人の幼子のように澄んだ瞳。たったそれだけの言の葉が、私の全てを変えてしまった。
「私は、あなたに……愛を教えてあげられましたの? ゼクス……」
誰に受け入れられずとも、解されずとも良い。“うすのろ王”を愛した女が、誰もに嘲られ誰もに憎まれた男を愛する女がいることを、私だけが知っている。それで良い。それが、良い――私は顔を上げて微笑んだ。
「違うわ、タウゼント……まだおしまいじゃ、なかったのよ」
六万枚の言の葉に、愛は確かに生きて在るから。
→後書き
番外編:果てなき一葉(タウゼントの息子視点)
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「見て、レイチェル。私のお人形なの」
そう告げたエリザベスの言葉に覗きこんだ棺のような箱の中には、見たことがないほど美しい青年が横たわっていた。角度によっては青にも赤にも染まる、不思議な光沢を帯びた髪に白磁の肌、閉じられた瞼の下の長い睫毛が、作り物めいた美貌を冷たく彩る。私は思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。冗談ではない、“彼”は本当に人形なのだ。町一番のお金持ち・メイフィールド家の一人娘であるエリザベスは、珍しいものを沢山持っている。朝も夜も歌い続けるカナリア、咲く度に色を変える薔薇、波も船も生き生きと動き回る港の絵、いくら食べても決して中身の減らないボンボニエール……きっとこの“人形”もそのうちの一つ。
「……とっても、綺麗ね」
彼から視線を逸らせぬまま呟いた私に満足そうに微笑むと、エリザベスは人形に向かって甘い声音で呼びかけた。
「さぁ目を開けて、フランシス。私があなたのマスターよ」
その呼び名に、青年の長い睫毛がふるふると震え、ゆっくりと持ち上げられた瞼の下から、黒曜石のように煌めく漆黒の双眸が現れた。優雅な仕草で身を起こした彼は、エリザベスの前に跪くとうやうやしくその手を取り、指先に口づけた。
「はじめまして、マスター。僕はフランシス、あなたの人形」
まるで一幅の絵のようなその光景に、心の奥がちりりと焼ける。彼は人形――ふんわりと巻かれた金の髪と、眩いほどの輝きを秘めた大きな青い瞳を持つ、我儘で奔放な私の親友・エリザベスのもの! 自分で自分に言い聞かせるような思いで、私はその儀式を見守っていた。
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その後、私は何度かフランシスを見かけた。エリザベスが仲間内でのパーティーに彼を伴うこともあったし、彼女の屋敷に招待されて彼にもてなされることもあった。彼の振る舞いはいつも人形らしく淡々としていたものの、会うたびに言葉は増え、美しすぎるが故にナイフのような鋭さを漂わせていた眼差しは少しずつ人間らしい柔らかさな光を放つことを覚え、他の“人間”への態度もまた“人形”らしからぬ気遣いを見せることができるようになっていた。
そんなある日のことだった。午後のお茶に呼ばれたメイフィールド家の庭先で、私が偶然その場面に居合わせてしまったのは。
「……人形の分際で、何をするの!」
甲高く叫ぶ彼女の声と、パシンと響き渡る破裂音。パタパタと走り去る足音を追って私が茂みを覗きこむと、そこには頬を押さえたフランシスが呆然と立ちすくんでいた。
「どうしたの……フランシス?」
初めて見る彼の“無”以外の表情が珍しくて思わず声をかけると、彼は常と変わらぬ氷の眼差しでこちらを見やり、呟いた。
「マスターに叱られた……トラヴィスと同じことをしただけなのに」
その答えに、私は何が起きたか得心せざるを得なかった。トラヴィスはエリザベスのボディガードの役についている屈強な青年で、エリザベスとは主と使用人の関係にありながら密やかな恋を育んでいる関係でもあった。そのトラヴィスが彼女にしていたこととすれば――
「トラヴィスにキスをされて、マスターはとても幸せそうに笑っていたんだ。どうして、僕のキスは駄目なんだろう。僕もマスターの笑った顔が見たいのに……」
余りにも哀しそうなフランシスの呟きに、私は思わず目を見開いた。
「フランシス、あなた……“心”を持ってしまったのね」
口に出した言葉が、無数の針となって心を突き刺す。フランシスの冷たい手に触れ、私は俯いた。嬉しいのか悲しいのか、己でも判別のつかぬ気持ちが例えようの無い切なさと共に胸を焦がした。
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「……駆け落ち、ですって?」
「しっ、レイチェル。声が大きいわ」
耳元でこっそりと囁かれたエリザベスの言葉に驚いて声を上げると、彼女は人差し指を唇の先に当てて悪戯めいた笑みを浮かべた。
「私とトラヴィスは身分違い。このままでは絶対に結ばれることはできないわ。だからね、今度……次の満月の夜、二人で屋敷を抜け出すの。遠い遠いところで……私たち、きっと幸せになるわ」
親友を祝福したい気持ちと、愛する人と共に逃げることの叶う彼女を妬ましく思う気持ちと、フランシスへの同情と、彼女が彼を選ぶことのない安堵感で私の心は千々に乱れた。そしてそんな自分自身への嫌悪が募る。
「ねぇレイチェル、誰にも言わないでね。私たちがいついなくなるのかも、どこへ行くのかも……」
妖しく響いたその言葉が、私の心に悪魔の囁きを吹き込んだ。可哀想な彼、彼女の大切な、美しいあのお人形。エリザベス、あなたはそれを棄てていくの? あんなにも一途にあなただけを想い続けている、あなたが“人間”にしてしまった彼を。
家に帰ると、私は一枚の便箋を取り出した。
『来る満月の夜、トラヴィス・マーフィーがメイフィールド家の令嬢をかどわかすつもりです』
綴った言葉はその一行。封をしたその手紙を、私はメイフィールドの屋敷へ投げ込んだ。
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「何かの間違いよ、お父様! 知っているでしょう? トラヴィスがいかに誠実に私に仕えてくれているか! 彼をあんなところに閉じ込めるのは止めてちょうだい、お願いよ!」
満月の日、私はメイフィールド家へ呼ばれた。エリザベスの見張り役として。泣き叫びながら取り縋る娘を、父親は苦々しげな顔つきで見やっていた。きっと彼も気づいていたのだろう。護衛として雇っていた“使用人風情”と娘の関係に。
あの手紙が屋敷に届いて後、トラヴィスは手酷い仕置きを受け地下へ籠められているらしい。涙に濡れうな垂れる親友の表情(かお)に罪悪感を覚えつつ、きょろきょろと辺りを見回して彼を探す。彼はどう思っただろうか。彼女の駆け落ちに、それが阻止されたことに安堵しただろうか、喜んだだろうか、あの美しい人形は――
あの手紙が屋敷に届いて後、トラヴィスは手酷い仕置きを受け地下へ籠められているらしい。涙に濡れうな垂れる親友の表情(かお)に罪悪感を覚えつつ、きょろきょろと辺りを見回して彼を探す。彼はどう思っただろうか。彼女の駆け落ちに、それが阻止されたことに安堵しただろうか、喜んだだろうか、あの美しい人形は――
と、その時、部屋の外がにわかにざわめきを増した。バタバタと駆ける足音、銃声、悲鳴。そして、勢いよく部屋の扉が開かれる。
「……エリザベス!」
果たして開かれた扉の先にいたのは、閉じ込められていたはずのトラヴィスと――フランシス! 銃を掲げ、痩せこけたトラヴィスを支えるように佇む彼の瞳には、強い意志が宿っていた。彼はもう、美しいだけの人形では無い。確かな生命(いのち)の息吹を内に宿す、苛烈な炎がその目の奥に燃えていた。
「ここは僕が食い止めます。マスター……あなたは、あなたの望みのままに」
決然と放たれた言葉に、私は項垂れた。彼は、彼は“人間”だった。私などより余程人間らしい、私などより余程美しい。
「何を言う、フランシス! プログラムを違えたか。誰か、誰かエリザベスを止めろ!」
彼女は走り出した。愛しい男の手をとって。決して後ろを振り返ることなく。私はただ、震えていた。二人が消えた扉の前に立ちふさがるフランシスと、彼に向けられた沢山の銃口を眺めながら。
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動かなくなったフランシスの体は、屋敷の片隅に打ち捨てられた。至るところに穴が空き、色とりどりの紐がはみ出したその体を、私は当主に願い出てもらい受けた。気味が悪そうに私を見ていた彼もまた、愛娘の失踪に憔悴しきっている様子だった。金切り声を上げる家族を尻目に、フランシスの体を部屋へと運び、寝台の上に横たえる。ずっと触れたいと思っていた、作り物の白い顔にそっと手を伸ばすも、開いたままの黒い瞳に私が吸い込まれそうだと感じたあの輝きは宿っていない。
「ごめんね、ごめんね、フランシス……」
人間の欲望によって生みだされ、人間に恋をして心を得、そのために人間に“殺された”哀れな人形。
「あなたが“人間”に恋したように、“人形”に恋をした人間がここにいること、忘れないで……」
薄い唇に己のそれを寄せる。冷たさに、涙が頬を伝う。動いていたところで、“生きて”いたところでこの唇は冷たいのだ。冷たかったはずなのだ。私は、それすらも知らないまま、彼をこんなかたちで失ってしまった! 黒い瞳に映る己の顔を直視できずに、私は手をかざした。
「フランシス、フランシス、もういいの……おやすみなさい、瞳(め)を閉じて」
手を滑らせて瞼を閉ざす。初めて会った時と変わらないはずの彼の寝顔には、あの時とは異なる確かな安らぎと幸福が宿っていた。
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「さぁ、目を開けてフランシス。私があなたのマスターよ」
甘い囁きに瞼をゆっくりと持ちあげれば、大きな丸い青色の瞳がこちらを見下ろしていた。柔らかなウェーブを描く金色の髪の毛先が頬をくすぐる。鈴を転がしたような声で紡がれたキーワードを認識し、僕はゆっくりと身体を起こした。ボックスから出て立ち上がると、主人となるべき人が己の肩ほどの高さにも満たぬ華奢な少女であることが分かる。僕はプログラム通り彼女の眼前に跪き、その白く柔らかな手を取った。
「はじめましてマスター。僕はフランシス。あなたの人形」
微かな温もりを宿す指先に口づけ、契約完了の儀式を終えると、少女――マスターはにっこりと微笑んで僕を見つめた。僕の世界はここから始まる。この世で一番可愛らしい、お嬢様の人形(ドール)として“生きる”世界が。
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町一番のお金持ちの娘であるマスターは、僕の他にも沢山の人形を持っていた。ガーディアンドールのトラヴィス、フレンドドールのレイチェル、それからガヴァネスドールにメイドドール……強いもの、綺麗なもの、博識なもの、器用なもの……各々が何かしらの特色を持ち、それを活かしてマスターに仕える。でも僕は、特殊なプログラム等組み込まれていない“ただの”人形。手もち無沙汰にマスターの隣に佇む僕に、マスターは困ったように微笑ってこう告げた。
「わからないことがあればトラヴィスに聞くのよ。彼は一番長く私の傍にいて、何でも知っているのだもの。是非お手本になさい」
「わかりました、マスター」
マスターの言葉に、“生まれ立て”の僕は従順に頷いた。いつもトラヴィスの姿を目で追い、彼のすることの真似をした。短い髪に鋭い眼光を湛えたトラヴィスはマスターにお仕えするドールたちの中では確かに一番の古株で、リーダー的な存在。他のドールたちのように積極的にマスターの話し相手になることはないものの、その視線は少し離れたところからでも常にマスターから逸れることは無く、彼女をじっと見守っている。
だから僕も彼に習い、いつもマスターの傍で、マスターの一挙一動を見逃すことなく見つめるようになったのだ。拗ねた顔、怒った顔、笑った顔、泣く間際の顔……マスターは様々に表情を変える。美しい青の瞳が夏の日差しを浴びた湖面のように輝く時もあれば、嵐の前の海のように不気味な静けさを湛える時もあることを知り、僕は不思議に思った。鏡に映る自分の瞳は、いつ見ても硝子のように味気ない光を放つだけなのに――これが“人間”と人形(ドール)の違いだろうか? 僕はどうすれば人間に近づけるのだろうか? マスターのような“人”に、少しでも近い存在になりたい――
そんなことを考えるようになった矢先だった。トラヴィスが、マスターの桃色の唇にそっと口づけているところを目にしたのは。トラヴィスの口づけを受けたマスターは、頬を赤く染め、僕がそれまで見たことが無いような表情(かお)で微笑んでいた。僕もマスターの笑顔が見たい。僕の口づけでも、マスターは喜んでくれるだろうか? 決まっている、僕にトラヴィスを手本にするよう勧めたのは他ならぬマスター自身なのだから。
だから僕も彼に習い、いつもマスターの傍で、マスターの一挙一動を見逃すことなく見つめるようになったのだ。拗ねた顔、怒った顔、笑った顔、泣く間際の顔……マスターは様々に表情を変える。美しい青の瞳が夏の日差しを浴びた湖面のように輝く時もあれば、嵐の前の海のように不気味な静けさを湛える時もあることを知り、僕は不思議に思った。鏡に映る自分の瞳は、いつ見ても硝子のように味気ない光を放つだけなのに――これが“人間”と人形(ドール)の違いだろうか? 僕はどうすれば人間に近づけるのだろうか? マスターのような“人”に、少しでも近い存在になりたい――
そんなことを考えるようになった矢先だった。トラヴィスが、マスターの桃色の唇にそっと口づけているところを目にしたのは。トラヴィスの口づけを受けたマスターは、頬を赤く染め、僕がそれまで見たことが無いような表情(かお)で微笑んでいた。僕もマスターの笑顔が見たい。僕の口づけでも、マスターは喜んでくれるだろうか? 決まっている、僕にトラヴィスを手本にするよう勧めたのは他ならぬマスター自身なのだから。
「マスター」
「まぁフランシス、どうかして?」
パタパタと扇を仰ぐ白い手を掴み、僕は無言でマスターの顔に己の顔を近づけた。きょとん、とこちらを見上げる丸い瞳が愛らしくて、作り物の心臓に、ほんの少し血のように暖かいものが流れた気がした。柔らかな唇は熱かった。僕の、赤いくせに一筋の血潮も通わない薄い唇とは違って。口づけの後、マスターは一瞬何が起きたかわからないような表情(かお)で動きを止め、次いで眉根を寄せて顔を逸らし僕の頬を打った。
「……人形の分際で、何をするの!」
金切り声で叫ばれた言葉に、今度は僕の方が驚いてしまった。目の前のマスターの瞳は悲しそうに潤み、頬は怒りのために赤く染まっている。呆然とする僕を残したまま、マスターはその場から走り去ってしまった。
「どうしたの……フランシス?」
背後から耳馴染みのある声が響いて振り向けば、そこにはフレンドドール・レイチェルがこちらを窺うような表情を浮かべて立っていた。真っ直ぐに伸びた栗色の髪に、同じ色のつぶらな瞳を持つレイチェルは、マスターのお気に入りの人形(ドール)だ。
「マスターに叱られた……トラヴィスと同じことをしただけなのに」
俯いたまま答えた僕に、レイチェルは何かを悟ったような顔をして、こちらにそっと近づいてくる。
「トラヴィスにキスをされて、マスターはとても幸せそうに笑っていたんだ。どうして、僕のキスは駄目なんだろう。僕もマスターの笑った顔が見たいのに……」
僕が呟くと、何故だかレイチェルの方が哀しそうな目をして僕に手を伸ばしてきた。
「フランシス、あなた……“心”を持ってしまったのね」
僕の手に触れたレイチェルのマスターよりも少し長い指先が、人形(ドール)には無いはずの温もりを帯びていることを、その時の僕は気づかないふりをした。プログラムには組み込まれていないはずの“感情”が胸の内で急速に育まれていくのを、僕はどうすることもできなかったのだ。
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それから、マスターは僕を余りお傍に寄せなくなった。僕を見ると視線を逸らし、ドレスの裾を翻して去っていくその小さな背中を、僕は遠くから見つめ続ける。この頃マスターは、いつもトラヴィスと二人、何やらこそこそと人目につかぬ場所で会っているようだった。そうして時たまレイチェルをお茶会に招き、頬を染めて楽しそうにこちらも内緒の会話を続ける。レイチェルの少し尖った耳に寄せられるマスターの桃色の唇にあの日の熱を思い出し、無いはずの“心”が少し疼くような気がした。
僕はどうしてしまったのだろう。何故、主の秘密を覗き見たいと思うのか、マスターの心の中を知りたいという欲望が僕の中から消えないのはどうしてなんだろう? 教えてほしいレイチェル、“心”を持ったら、そう思うのは普通のこと――?
僕はどうしてしまったのだろう。何故、主の秘密を覗き見たいと思うのか、マスターの心の中を知りたいという欲望が僕の中から消えないのはどうしてなんだろう? 教えてほしいレイチェル、“心”を持ったら、そう思うのは普通のこと――?
「トラヴィス! この不埒者め! 貴様ごときにエリザベスはやれるものか! エリザベスはさる貴族様の家に嫁ぐことが決まっているのだ、貴様はクビだ、満月の日まで閉じ籠っていろ!」
突然の出来事だった。屈強な男たちを従えた“旦那様”がトラヴィスを殴り、蹴り飛ばし、どこかへ引きずって行ってしまったのは。マスターは青い瞳からポロポロと涙をこぼし、悲しい声で叫び続けた。
「待って、お父様! トラヴィスは悪くないの、そんなことはやめて、お願いだから、彼を放して……!」
僕の目から決して流れることの無いその雫はどんな宝石よりも美しかったけれど、何故だか僕の“心”は痛みを覚えた。いつの間にか、“心”と共に在ることが当たり前になってしまった僕だった。
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~~~
僕の体に備えられた赤外線サーモグラフィーで、トラヴィスの居場所はすぐに知れた。鉄の腕で見張りの脳髄を叩き割り、地下のワインセラーをこじ開けると、満身創痍のトラヴィスがぐるぐるに縛られた状態で床に転がされていた。
「フランシス……おまえ、何で」
助け起こしたトラヴィスの言葉に、僕は静かに微笑みを返す。
「僕は“マスター”の人形だから」
トラヴィスはハッとした表情で僕を見た。
「立てるか? トラヴィス、マスターは旦那様の部屋だ」
彼はすぐにいつもの鋭い眼光を取り戻すと僕に頷き、よろよろと歩き出す。そんな彼に肩を貸し、僕もゆっくりと歩き出す。“生きる”ために、僕の“心”を守るために。
「エリザベス!」
現れたトラヴィスを見て、泣きすぎて腫れてしまったマスターの青い瞳は一層潤んだ。けれどそれはもう悲しい涙ではない。僕は少し微笑って、そして叫んだ。
「ここは僕が食い止めます。マスター……あなたは、あなたの望みのままに」
僕の目を見て、僕の声を聞いて、マスターは酷く驚いたような、戸惑うような顔をした。そんな彼女の手を、トラヴィスが掴む。マスターの瞳は僕から逸らされて、彼の背中を追った。
「何を言う、フランシス! プログラムを違えたか。誰か、誰かエリザベスを止めろ!」
目の前で怒鳴り散らす“旦那様”の声が、遥か遠くに聞こえる。僕の耳には、去りゆく足音だけが響いていた。扉の前に立ちふさがると、いくつもの銃口がこちらを向いた。僕は耳を澄ます。いつも寂しい思いで聞いていた遠ざかる足音が、何故だか堪らなく愛しくて、幸せだった。
→瞳を閉じて(レイチェル視点)
→瞳を閉じて(レイチェル視点)
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