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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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一度出して引っ込めたご時世的にアレなネタだけど登録とかしなければ良いかな、って。

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『しかして、真に地球市民(コスモポリタン)の地位を勝ち得た我々に理想の自由は訪れなかった。一つの巨大な政府の前に、逃れる“他国”を失った自由主義者(リベラリスト)は死んだのである。彼らの生み出した混沌の中、無政府主義者(アナーキスト)はとうの昔に忌むべき遺物となり果てた』

3000年 ワン・ワールド連合樹立。世界平和宣言――真に一つの世界を築き平和を実現するために我々は人種・宗教・思想の壁を乗り越えなければならない。すべての人々は混じり合い“融和”すべきである。故に、特例として認められるべき不測の事態を除き、同人種間での婚姻・出産は禁じることを理想的原則とす。

3005年 婚姻法制定――男女間の婚姻、または養子縁組の取り決めは旧出身国の異なる者同士で行われることを推奨する。三年の期間を経て推奨より義務化。

3015年 婚姻法改正――ヨーロッパ/中東/アフリカ/東南アジア/南アジア/東アジアの「地域区分」が確定。同一地域内での婚姻が制限されるが、アメリカ・オセアニア地区のみ既に「融和」が進んでいる地域として例外措置を受ける。

3026年 戸籍法制定――出生届提出時、両親の出身地域、三代前までの祖先の人種・母語・宗教が明確に異なることを証明することが義務付けられる。

『ワン・ワールドはやり遂げた! 法治の元に、むべなるかな、差別主義(レイシスト)の純血主義者たち! さらば、さらば高らかに!』


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全ては、西の海の端で上げられた一つの政党の産声から始まる。ワン・ワールド、多文化社会の確立と差別の撤廃を掲げて立ったこの党は“グローバル”という時代の潮流に乗り世界中に支持を広げ、やがて彼らの理想とする一つの世界――ワン・ワールド連合の樹立を達成する。与党、つまり連合中央政府の主な取り決めを行う立場になった彼らは悲願としてきた法の制定を26年の歳月をかけて成し遂げたのだった――だから(・・・)、俺はこんな風に生きなきゃならない。

フェルスは頭に巻きつけていたターバンを目深に下げ、うつむいたまま足早に市場を脱けた。黒ずくめの大きなマントに、極力肌の露出を避けるための手袋と長いブーツ。それでもわずかに覗いてしまう首や手首には土と草を混ぜて作った茶色の塗料を塗りつけていた。この服装も、はるか昔の世界ではどこかの宗教の慣習として大切にされていたものだったらしい。彼らは自分のような肌の色をした人たちと信仰を巡って争った、と聞いたこともある。全てが混じり合ってしまった現在では、それぞれが持っていたはずの宗教や信仰なんて残っていないし、ただ前時代の名残として“それを着用する権利”が認められているというだけのものだ。今日は久々にジャガイモと少しの砂糖、それに小麦粉が手に入った。父と二人、裏のルートで回ってきた難解な機械の修理を何とかやり終え、二束三文と言っても無いよりはずっとマシな臨時収入を得た甲斐があった。バターが無いのは残念だが、いつものパンとは違う味の、甘いクッキーかケーキを食べられるかもしれない――とは言え、匂いで居場所が気取られては大変だから、とフェルスの母はわざわざ余所で焼いてきた冷たいパンを持って帰ってくるのが常なのだが。
とその時、背に背負った袋の中身に思いを巡らせていた少年のターバンが、急に激しく引っ張られた。

「おい見ろ、こいつやっぱり“純血(ユニ)”だ!」

乱暴にむしり取られた布の内から現れた明るい色の髪と、ごまかしようのないフェルスの鮮やかな瞳を指さしてはやし立てるごろつき共に呼応するように、市場の周囲は騒然となった。

「へぇ、近親相姦の犯罪者野郎、何しにのこのこ出てきやがった?」

「一発殴らせろ、捕まえてやる!」

獰猛な唸り声を上げる人々から逃れようと走り出したフェルスに向かってくるのは鼻白む目、ささやかれる侮蔑の言葉、激しい憎悪。今さっき手に入れたばかりの食糧が、少年の肩に酷く重たく肩に食い込んだ。まずい、このままでは……!

「こっち!」

甲高い声と共に細い路地へと少年を引き込んだ手は白かった。彼が驚いて見上げれば、その持ち主は彼以上に厳重な、目だけを出した装束で顔をすっかり覆った姿。カンカンと音の鳴る錆びた階段を駆け上がる。昇り切った先、古いアパートの屋上で彼女はようやくヴェールを外した。

「久しぶりね、フェルス」

「おまえ……エミュー?」

明るい榛色の瞳。にこりと笑う表情の中に、フェルスは懐かしい面差しを見出す。今よりもっと幼い頃、彼が生まれた“隔離地区(ゲットー)”でいつも遊んでいた女の子。子供たちには自分たちのように苦しい日々を送ってほしくない、という親心からそこに住まう“純血”の人々はどんどん数を減らしてゆき、知り合った時近所に同じくらいの年の子供はほとんど二人だけであったと思う。必然的に、彼らはいつも一緒にいたし、誰よりも親しい存在だったと言えるだろう。

「今この近くに隠れてるのよ、ゲットーが閉鎖されてから色々あってね……。今はとある親切な方(・・・・・・・)の屋根裏を貸してもらっているの」

言葉の裏に込められた皮肉に、フェルスは苦い笑みを返した。彼の家族だって似たようなものだ。ゲットー……懐かしい場所。一度そこに追いやられたはずの彼らは、法に背く存在に衣食住を与えるなど税金の無駄遣いではないか、“ユニ”同士で暮らしていたらまた新たなユニが増える危機が増す、との世論の高まりによって集団での居住が禁じられた。一部の女性たちは強制的に他人種や“融和者(ハイブリッド)”との婚姻を強いられたりもしたという。純血の人々は各自治体に何人までと制限を設けられた上で分散され、それきりフェルスとエミューも離れ離れになってしまった。地方に行けば行くほど悪目立ちし迫害される彼らの中には住民の私刑を受けて命を落とした者もいれば、生きるためにその地を逃げ出して都会の闇に身をやつす者たちもいる。フェルスの家族も、そうやってこの街に逃げてきた。ただでさえ法に抗う存在だ。社会のシステムから外れてしまえば戸籍すら無い、まともな仕事など得られない。ひっそりと息を殺すように、母の内職と“一つの世界”であっても未だわずかに存在する父の翻訳の仕事、フェルスがゴミ拾いや靴磨きで稼ぐ駄賃によって、あるいはごくたまに回ってくる、後ろ暗い裏の仕事――たとえば、“知られてはいけない”現場の処理や道具の手入れなどで、どうにか日銭を稼ぐ暮らしだ。不法移住者を取り締まる警察の目も厳しい。

「全く、酷い話よね。私たちの送られたところは豊かな村で、父は牧場の下働きに就かせてもらったしゲットーより飢えるってことは無いくらいだったの。……でも、でもね」

言葉を区切って、エミューは喉を震わせる。

「私、乱暴されそうになったの。その牧場の主の息子が、『このまま“ユニ”なんかでいるより良いだろう』って。ご主人だって良い人だったのに、その息子の言い訳を当然だろう、って聞いてるのよ? 『何なら正式に結婚できるよう役場にかけあってやっても良い』なんて!」

それが現実だ。いくら、当時まだ十代半ばの少女が“ハイブリッド”――正しく融和した国民に乱暴され身ごもったところで彼らは決して罰せられない。むしろユニという宿業から彼女を救った存在として称えられるのだ。ハイブリッドの子供を産めば、女性はその母として同等の権利を得られる。過ちから目覚めた市民として。

「本当に、バカにしてやがる。おまえの家族もさすがにキレたんだな、だからここに……」

怒りを露わにしたフェルスに、エミューは口元を奇妙に歪ませて泣き伏した。

「お父さんは、怒ってくれたわ。ふざけるな、って。もうこんなところでは働けない、って。でも……でもお母さんは」

フェルスは目を見開いて彼女を見た。

「そうした方が幸せになれる、って。私が彼と結婚して子供を産めばお父さんだって仕事を失くさないし、みんなが飢えずに済む、って。とっても良い話だ、って」

エミューは涙を拭って起き上がる。

「そのことでお父さんとお母さんは毎日ケンカばかりしていたわ……それで、ある日言われたの。おまえが言うことを聞かなければ今すぐユニ嫌いの連中を焚き付けて一家もろとも焼き討ちしてやる、って例の息子にね。それでお母さんも震え上がって、一見親切な村でもあっという間にこんなことになるならハイブリッドは信用できない、って逃げてきたのよ。ああ嫌い、本当にもう二度とこりごりだわ。嫌いよ、嫌い、思い上がった混ざり者の奴らなんて大嫌い!」

叫んだ彼女の瞳は鋭く、激しい憤りが滲んでいた。

「エミュー……つらかった、つらかったな」

思わず、小さな頭を抱き寄せて癖のある金の髪をそっと撫でる。声を上げて泣きじゃくる幼なじみは下卑た奴らにそんな欲望を抱かせるほど美しい少女に成長していたのだ。それなのに、彼女が送らなければならない青春は、彼らの今は何と残酷でほの暗いものか。俺たちはまだ、こんなにも若いのに――幼いのに、知らないのに、分からないはず(・・・・・・・)なのに。どうしてこんなにも憎いんだろう。たった一つの、いやたくさんの(・・・・・)誰かを殺したいと、消し去りたいと願う気持ちを抱く羽目になんかなったんだろう。





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続きは少し書いてるけど現実の諸々とかで迷ってるので未定。


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アジア風。近親同性愛要素あり。

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「兄上」
 
その呼び名を聞いたのは、何年ぶりのことだろう。
 
「髪を、切ったのですか」
 
闖入者は、皇帝の震える声に微笑みで応えた。
 
 
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桜雷は記憶の片隅にほのかに甘い梅の香が匂っていたことを覚えている。風に流れる長い黒髪の艶やかさに、幼心にもこれほど見事な髪の持ち主には初めて出会った――きっとこの先も出会うまい、と感じた。だからその人が振り向いた時、その瞳の紅さに慄いたのだ。血のように深い紅――この国の民が持たぬ色の眼(まなこ)。
 
『殿下、いけませぬ!』
 
袖を引く女官の険を含んだ声に、彼はようやく気が付いた。これがあの忌み子なのか、と。


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黒い瞳を丸く見開いて己を見つめる幼子は、梅風の姿に少し驚いたようだった。目と目が合うと怯えたように眉尻を下げる宮中の人間は彼にとっては見慣れたものだったけれど。身なりの良い女官が顔を引きつらせて子供の絹の衣の袖を引く様に、そうか、これが太子に就いたばかりの后の子か、と少年は得心した。己と同じ血を分けた弟だと思えば、スッと通った鼻筋も涼やかな一重の目元すら、この国の誰より己と似通って見えるではないか。
 
『梅風だ。よろしく、桜雷』
 
皇太子の名を呼び捨てた脇腹の皇子を女官は無礼を咎めるような顔つきで睨んだが、幼い弟は黙って兄の差し出した手を握りしめた。あの梅の木の下で、確かに通う血の温もりを二人は感じとったはずだ。
 
 
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「まぁ、梅の花が咲きましたわ。良い香りですこと」
 
傍らを歩く妃の甲高い声に、即位を翌日に控えた皇太子はピクリと眉を上げて視線を移した。宮殿の中庭では見事に紅色の花が咲き匂っている。
 
「桜が咲くのが待ち遠しゅうございますわね、殿下」
 
こちらを見上げる黒いつぶらな瞳は、同意の返事を疑っていない――愛らしくいじらしいもの。王者の伴侶となる誇りと幸福を表すかのように、ゆるやかな微笑を浮かべる口元もまた。
 
「……そうだな、春は私の季節だ」
 
己に言い聞かせるように紡いだ言葉に、彼の母と同じく名門貴族の出である可憐な妃は
 
「本当に、陛下とお呼びするのが楽しみでございますこと」
 
と明るい笑い声を響かせた。そう――桜はいつも待っている、梅の花が散る時を。共に咲くことは叶わないから、決して。
 
 
~~~
 
 
「梅はいつも風を待たれているな」
 
夕闇に浮かぶ白い花を見ながら梅風が呟いた言葉に、傍らにいた白い肌の女は
 
「鶯にでもなりましょうか?」
 
とからかうように忍んで笑った。細く縮れた鼠色の髪に海を凍らせた色の瞳を持つ彼女のことを、間もなく皇帝となる弟は酷く疎んでいるようだ。彼の目には、黒い髪に黒い瞳をした華奢な身体の女しか美しく映り込まないのだろう。
 
「灰園、冗談はよせ」
 
女の真の名は知らないし、聞いたところで脳裏に刻むつもりも梅風には無い。彼女を拾った――あるいは略奪した場所の侘しい景色から取った名を呼べば、するりと柔らかな手が彼の日に焼けた頬を撫ぜる。
 
「梅風さま、桜の花はどこにでも美しく咲きましょう。どこにでもあり、どこにあっても美しいのです。けれど散った後はどうでしょう? 薄紅の彩りを欠いたその場所を、いっそう寂しく見せるだけ……けれど梅の花は違います。咲く場所を選ぶからこそ、梅の香の似合うところはいつだって、その地そのものが絶対的に美しい」
 
口端を上げる女の顔は、いっそ冷たく凄絶なまでに美しかった。梅風はその手をとって引き寄せる。いささか乱暴な腕の力にも、女は抗わず愉快そうに声を上げた。 


~~~

 
かつて皇帝が征服した辺境の異族から召し上げた卑女(はしため)に孕ませた男子は、その民の長にのみ受け継がれる特質を持って生まれてきた。血のように紅い瞳、髪も目も黒く象牙の色の肌をしたこの国の人々とは少しだけ異なった容姿――同じ父の血を引くはずなのに、あの鮮やかな兄と自分の共通点は唯一髪の色だけではないか、と桜雷はひそかに唇を噛んだ。あの日から、彼は髪の手入れを怠らなくなった。それまでは嫌がっていた洗髪も、油をつけて丁寧にくしけずり整えることも、まるで女のように欠かさず行うようになった。梅の木の下で見た、あの見事にたゆたう兄の黒髪。紅の花の香はそこから匂っているのではないかと思えたのだ、それほどに眩かった、彼の姿が、存在が。
 
 
~~~
 
 
「灰園」
 
新帝の即位式を明日に控えたその日、皇族の地位を退いて久しい将軍は気に入りの妾を呼んで告げた。
 
「髪を、切ってくれ」
 
「……よろしいのですか?」
 
艶めいて嗤う女の問いに、彼は苦笑とも自嘲ともつかぬ顔で頷いた。長い髪が高貴な身分の証であり、それを美しく結い上げることが嗜みとされるこの国で髪を切り落とすことは大きな侮辱であり、死にも等しい行為であり――自らそれを行うことは、天に与えられた命と果たすべき義務を投げ出すということ。既存の秩序を打ち壊し、その頂点にある皇帝にすら抗う行為だ。
 
梅風はいつも、小さな頭に重い冠を載せられ、多くの者にかしずかれて宮中を行く弟の姿を遠くから眺めていた。その立場ゆえに宮殿の外に出ることを許されず、青白く痩せ細っている弟の姿を。太子の位を逸れた梅風は桜雷の災いとならぬよう臣籍に下り、自ら志願して遠征に赴いては都を脅かす朝敵と戦い滅してきた。けれど彼が戦えば戦うほど、勝てば勝つほど弟は弱っていくのだ。戦勝報告に赴く梅風のたくましく勇ましい様に沸き立つ兵たちと相反し、皇太子と彼を擁する貴族と文官は鼻白んだ。それよりも何よりも、どこか恨みがましい、それでいて羨むような彼の眼差しに梅風は堪えられなかった――あるいはその奥に潜む切なさに。
 
『あにうえ、あにうえ――』
 
白い梅の花を己の紅い瞳で見つめ続けていたら、花びらはこんな色に染まってくれたのだろうか。彼を快く扱わない女官の目をかいくぐり、こっそりと己を訪う弟の唇を見ながら梅風は考えた。ふくふくとして愛らしい唇はその名と同じ花の彩りを載せて、懸命に彼の意識を引きつける言葉を紡ごうと開かれている。闇雲な好奇も侮蔑も嫌悪も全てを孕んだ淀みのような瞳の色が、桜雷の目に宿れば美しい月と星の輝く夜の空の色に見えた。豊かな黒髪から香る優しい匂いに和らいだ心。誰の内にも入り込むこの温もりこそが天子の証だと、それを守り助けることこそを望んでいたというのに。“誰”が、“何”が変えてしまったのか。あるいは彼自身の本質ゆえであったのだろうか。
 
 
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今二人の間にあるのは穏やかな花の香りではない。むせぶような濃い血と塵と煙の気配だ。この日玉座に就いたばかりの弟に――目の下に隈を滲ませ眉根と口元に深い皺を刻んでしまった彼の小さな花に向かって、梅風は剣先を突きつけた。
 
「兄上……髪を、切ったのですか」
 
その声の震えに同じ想いの在り処を知る。否、初めから気づいていた、そうであると信じていた。長い間離れていながら、こんなにも共鳴し反響し惹かれ合う存在は、きっと互いに互いだけだ。たった一人、同じ木から分かたれた相手――本当は別の木ではなく、ただ紅と白に別たれていただけの。
 
「いっそおまえが、女であれば良かった」
 
梅風は笑みを消してそう呟いた。その言を拾い、桜雷は顔を歪める。嫡出の彼が女として生まれていればあるいは、男である梅風が太子として認められる道もあったのかもしれない――
 
「……女なら、此処からおまえを奪えたのに」
 
続いて聞こえた兄の声に、身構えた桜雷は大きく目を見開いた。初めてその紅い瞳を目にした時と同じくらい大きく。おまえから(・・・・・)此処をではなく、此処からおまえを(・・・・)――
桜雷が驚いたのはその言葉の意外さにではない。己を襲った、どうしようもなく確かな歓喜ゆえだ。そして次の瞬間鋭い刃が彼を貫き、その腕はそのまま彼を抱いた硬い胸をも突き刺した。何故、思ったと同時にすぐさま彼は察してしまった。二人の間にドクドクと流れ出る血が混じり合い、倒れる体が重なってゆく。確かに――ああ、まだ“同じ”紅(あか)があったのだ、これで一つに還れると。






後書き


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七万打記念。SFっぽい。成人を控えた少年と義妹の少女。
 
※災害・事故を想起させる描写がありますのでご注意願います。

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「星を700個数えたら、幸せになれるんだって」
 
首が痛くなるほどまっすぐに真上を見上げながら少女―― チーが呟く。長い髪が地面の砂に塗れるのを少しも気にする様子はなく、無邪気に顔を仰向ける彼女の隣に腰を降ろして同じ態勢を取れば、視界の先には満天の星々――無数に、無限に散りばめられた光に背筋がゾクリと泡立つ。自分は何て小さいんだろう。世界は何て広いんだろう。そんな得体のしれない“もの”に飲み込まれそうになるから、星空は嫌いだ。チーはどうして昔から、こんな“もの”が好きなんだろう? 
 
「うさんくさい話だなぁ。大体何でそんな中途半端な数なんだ?」
 
チラリと傍らの彼女を見やりながら返事を返すと、チーは嬉しそうに微笑んでこう告げた。
 
「北斗七星は7個でしょ? その倍数なんだから全然おかしくないじゃない」
 
無茶苦茶な理屈に唇を尖らせる彼女。チーが故郷での慣習をポツポツと話してくれるようになったのは、つい最近のことだ。あの日から時が経って、ようやく少しずつチーの中で思い出の整理が行われつつあるらしい。もう7年―― 彼女がここへやって来て、僕と出会ってから。
 
「7つの星で成り立つ星座って他にあるわけ? 1ダース12個じゃあるまいし」
 
年下の女の子に自分の知らない話を持ち出されるのが何となく悔しくて、僕がポソリとケチをつければ、
 
「もう、ワンは黙ってて!」
 
チーは怒ったように唇を尖らせそっぽを向いてしまった。
 
「……それで、チーはどこまで数えたの?」
 
このまま放っておくと厄介なことになる――自らの失態を取りつくろうべく話を逸らした僕に、彼女は一瞬考え込むようにうつむいた後、
 
「今は777個よ。道のりはまだまだ」
 
と肩をすくめてみせた。
 
「えっ、もう700を超えてるじゃないか!」
 
目を丸くした僕の言葉に、チーの顔には不思議な、大人の女の人のような寂しい色が浮かび上がり、一本、一本折り出した細い指がその表情(かお)に更に深い影を添えた。
 
「父さんの分。母さんの分。兄さんの分。姉さんの分。弟の分。妹の分。友達の分。友達の父さんの分。友達の母さんの分……」
 
僕が初めて目の当たりにしたその表情と声音が、あんまり綺麗で切なくて――幼い頃から知っているはずの小さな少女に置いてけぼりにされているような、吹き抜ける淋しさに堪え切れず声を上げた。
 
「分かった、もういい!」
 
僕の制止に、チーは寂しそうに微笑んでもう一度宙(そら)を見上げた。
 
「私の里には、100人の人が暮らしていたの。だから100人分数えるの、あの星にいるみんなの分まで。……他にできることがないから」
 
遠く、かすかに見える青い光――北斗七星が、本に描かれた星座がクッキリと見えるのだというあの星の土を彼女が踏むことは、恐らくもう二度と無いのかもしれない。僕にとってはおとぎ話のように遠い昔、祖先が暮らしていたという伝説の星。チーにとっては幼いころを過ごした故郷、愛する家族の残るはずの星。何が起きたのか誰も分からぬまま、突然飛んできた沢山のロケットと、それから一瞬銀河を駆けた眩い光と猛烈な轟音に、あの星からの声は途絶えた。
僕の村の近くに流れ着いた一台の白いロケットから、人の波に押されて転がり落ちるように出てきた女の子……それがチーだった。本当の名前は何と言うのか、僕も家族も分からない。ただ、一言も口を利かない彼女が、年齢(とし)を聞かれて指し示した数字――右手の五本の指をいっぱいに広げて、その上に鋏のような形を作った左手を重ねる――それが、“七(チー)”を意味しているものだと分かったから。唯一意思の通じたその数字が、なしくずしに少女を押しつけられた僕らが彼女を呼ぶ名となった。そうして長い月日が経ち、可愛らしい声を耳にすることが叶ってからも、とうとう本当の名が口に上ることは無く。彼女の名前は“チー”として、いつの間にか定着してしまったのだ。
チー。可哀想な、独りぼっちの女の子。長寿を願って付けられた僕の名前、万(ワン)よりずっと少ない数の名を持つ、たった一人の僕の“義妹(いもうと)”。
 
「ワンはもうすぐ、お嫁さんをもらうんでしょ? パーパとマーマがどこの村からもらうのが良いか話をしてた」
 
悪戯な眼差しをこちらに向ける彼女に、近ごろ何かと頬を上気させては親戚の間を忙しそうに走り回る両親の姿を思い出し、げんなりと溜息が漏れる。
 
「もうすぐ十八になるからね。仕方ないさ」
 
十八――この村の成人の年齢(とし)。一人息子である僕には、一刻も早く妻を娶って跡取りを作り、両親を安堵させる義務がある。今、父親は四十を過ぎたばかりだが、この村の寿命はチーの故郷のものより幾らか短いそうだ。五十を迎える前に、大半の村人が病や過労に斃れてしまう。だから僕は、早く父母に孫の顔を見せてやらなければならない……自分に言い聞かせるように、ギュッと手の平を握りしめた僕の顔を、チーは心配そうに覗きこんだ。
 
「お嫁さん、もらいたくないの?」
 
彼女のくりくりとしたつぶらな瞳が、小さな星のように可愛らしく瞬いて僕を映す。
 
「……だってうちには、チーがいるじゃないか」
 
すねたような呟きに、チーは一瞬目を見開いて、しょんぼりと眉尻を下げた。
 
「あたしのせい?」
 
「そうじゃなくて、チーがいればいいや、って思うんだよ。本当に」
 
投げやりのつもりで吐き出した言葉の意味に、彼女は果たして気づいただろうか。口に出して初めて分かる、嘘偽りの無い己の本心。彼方の宙へ視線を彷徨わせていた彼女が、しんみりと小さな声で呟いた。
 
「ねぇ、ワン……私が、ワンのお嫁さんになれたら良かったね」
 
その瞬間、僕はチーの方を見ることができなかった。彼女は、“ロケットから出てきた子”だから。この村の人間と結婚することは許されていない。だから僕らは、“きょうだい”になるしかなかった。こうして夜、明るい星空の下で――くだらなくも清らかな語り合いをすることだけが、僕たちに許された精いっぱいのこと。僕もチーもよく分かっている。だから、今まで決して口にしなかった。
 
「チー、僕はお嫁さんをもらうけど……チーがずっとこの村にいられるように、故郷に帰ることができなくてもここにいられるように、ずっと守るよ」
 
残酷だと思いつつも止められぬ口の動きに任せて告げた言葉。チーは不意に僕の身体に抱きついてきた。小刻みに震える柔らかな温もりと、すぐ傍から香る瑞々しい匂いに僕は目を見張った。
 
「守らなくていいから……傍にいてよ、ワン」
 
天真爛漫で気丈な彼女の口から漏れた掠れ声が、どうしようもなく僕の胸を締め付ける。
 
「……ちゃんと、いるよ」
 
やっとの思いでそれだけを答えて、華奢な身体を受け止めた僕を真っ直ぐに見上げ、チーは
 
「うそつき」
 
と言った。両目いっぱいに涙を溜めて、その雫が星のように綺麗で、怖かったから――僕は何も言えなくなった。うつむいて泣き出した彼女の代わりに、今度は僕が宙を見上げる。遠く、遠く隔たろうとしている僕らの頭上に広がる、途方も無い満天の星空。
もし、本当にチーが7万の星を数え終える時が来れば、彼女も、彼女の故郷の人々も願いが叶って、幸せになれるのだろうか? もしチーの願いが故郷への帰還だったとしたら、僕は果たしてそれを受け入れることができるだろうか? 
埒も無いことを考えながら見上げた星の輝きは、やはり僕には眩し過ぎる。すぐ傍にいる彼女の中に決して分かち合うことの叶わぬ孤独を感じる今、取り巻く闇が哀しみで、星の光が涙であるかのような錯覚が込み上げ、心臓をかきむしられるような衝動に襲われてしまうのだ。
ああ、僕がもう少し早く大人になっていたら、そうでなければあと少し長く、子どもでいることができたなら。大切なものを傷つけることも、自分自身が傷つくことも、この宙を恐れることも無かったのかもしれない。





後書き


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和風? 領主とその弟と兄の側室となった従妹。神社が舞台。

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庭を挟んでちょうど真向かい、本殿へと続く長い廊下に、滑りゆく鮮やかな打ち掛けの姿を見出し、春雪(しゅんせつ)は思わず頭を下げた。それに気づくことなく歩みを進める彼女の横顔は、美しいが憂いに満ちている。横顔の主の名は波津(はつ)――いや、お波津の方様、春雪にとっては年下の従妹にあたる女性だ。五年前、他ならぬこの氷水社(ひみのやしろ)で春雪の兄・領主道雪(みちゆき)に見染められた彼女は、その側室となって男児を生し、更に二人目の子を宿した。その頃には道雪の寵愛も一身に注がれていたものと聞く。ところが昨年女児を死産し、続けて可愛い盛りの若君すら、流行り病で失ってしまった。産後より体調を崩していた波津はすっかり塞ぎ込み、子を育めぬ側室の元に主の足も遠のいた。そうしてとうとう、“療養”という体の良い名目で、厄介払いも同然に春雪が宮司を務めるこの氷水社へ送り込まれてきたのである。
今、春雪の瞳に映る彼女の姿は、以前とはすっかり異なるものへと変わってしまっていた。五年前の飾らない純朴さは哀愁を帯びた色香へと転じ、きらきらと輝いていた大きな瞳は伏せられて雫を宿し、愛らしい口元には微笑の名残が見えるだけ。
あの快活な少女は城でどれほどの痛みを覚えてきたのだろう。どれほどの悲しみを、苦しみを与えてしまったというのだろう――あの日、兄と彼女を引き合わせ、彼女の城入りを止めることすらできなかった自分は。
己を責めながら俯いた春雪の脳裏に、五年前の秋の情景が浮き上がる。
 
 
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「春雪様、ご覧下さい。これ全部、私が一人で拾ってまいりましたのよ」
 
波津――当時は未だ十五の乙女だった彼女が、ニコニコと笑いながら差し出した袋からは強烈な秋の香りが漂っていた。
 
「ご苦労さま。全く、お波津には負けるよ。後で一緒に焼いて食べよう」
 
「本当に? 嬉しい!」
 
少し顔を引きつらせながらも頭を撫でてやると、春雪の手の下で櫛通りの悪い波津の髪は揺れて弾んだ。銀杏は波津の大好物。春雪は実を言えば苦手としていたのだが、それでも毎年彼女に付き合って食していた。それが何故か、考える必要を感じぬほどに睦まじく過ごしてきた二人だった。
 
「……その娘、この社の者か?」
 
唐突に響いた声に、春雪が驚いて振り返れば、そこには彼の兄・道雪が佇んでいた。道雪は領主の地位にありながら時たまこうして気まぐれに姿を現すのだが、人目を忍ぶ様子であることが多いためすぐに人払いをかけ、社の者たちと顔を合わせる機会はほとんど無かった。
 
「そうですが……兄上」
 
戸惑いつつ応じた春雪とその背後に立つ波津を、道雪はまじまじと見比べた。
春雪は先代領主の末子であり、氷水社は彼の母の一族が代々宮司を務めてきた社である。先代領主には既に正妻腹の嫡男・道雪がいたこと、更に先の宮司であった伯父に男子が生まれなかったことから、春雪は新たな宮司として氷水社に入った。彼を迎えて間も無く先代の宮司が亡くなり、春雪は残された幼い従妹――波津と、兄妹のように寄り添い、慈しみ合いながら生きてきた。本音を言えば大名家の跡目争いに巻き込まれたくなかった、という気持ちもある。悪く言えば臆病で意気地なしの春雪を、
 
『おまえには人の心の澱を打ち消す力があるな……穏やかに澄み、全てを映し顕わにする。得難い力だ』
 
と褒めてくれたのは兄・道雪ただ一人。彼は何くれとなく氷水社を気にかけ、弟の元を訪れては他愛も無い愚痴や相談事を持ちかけた。己にも他人にも厳しい兄が春雪にだけ見せる弱みや優しさに、ほんの少し胸が暖かくなるような思いで、彼は兄との関わりを誇りにすら思っている。そんな道雪が彼のもう一人の大切な存在――波津に目を止めた事実に、春雪の心はざわめいた。
 
「この社に仕えているということは、おまえの親戚か?」
 
「母方の従妹に当たる者です。父は先代の宮司で……」
 
言い知れぬ不安が渦巻きながらも、領主を謀ることは出来ず問いに答えれば、道雪は我が意を得たり、というようにニヤリと笑った。
 
「相分かった、不足は無い。娘、そなた名は何と言う?」
 
兄弟のやりとりを訝しげに見つめていた波津の身体がビクリと震え、小さな唇がおずおずと開かれる。
 
「波津、と申します」
 
「ではお波津、城に仕えよ。そなたを今日より側室とする」
 
「兄上!」
 
春雪が驚いて声を上げれば、道雪は不満げに唇を尖らせた。
 
「何だ、何か不服でも?」
 
「お波津はまだ十五です。この社のことしか知りませんし……兄上には既にご正室も、幾人かの側室の方々もおられましょう! せめて今少しの猶予を……」
 
「ならぬ、春雪。“もう”十五じゃ。村の娘なら子の一人は生んでいてもおかしくない。気に入ったのだ、良いであろう? どうせおまえは結婚などしないつもりでいるのだろうから、波津が子を生めば氷水社の後継にやる。二代続けて主家と縁を繋ぐのだ。のう、お波津、冥土の親御も喜ぼう?」
 
「…………はい、殿さま」
 
真っ青な顔で震えるばかりだった波津が小さく頷いた瞬間、それまでの自分の世界が、“自分たち”の世界が風塵の彼方に消え去った音を、春雪は確かに聞いた。
 
 
~~~
 
 
「……ほんに懐かしい、久しぶりでございますこと」
 
社殿を見て回りたい、との波津の意向を組み、彼女と並んで歩き出せば、見なれたはずの建物の奥を小さな、小さな思い出の影がそこかしこに過ぎり、春雪の胸に不思議な切なさを呼び起こさせた。
 
「お波津の方様には……里と申し上げても良い社でございましょうか。実に五年ぶりに……」
 
堅苦しい春雪の言に、波津はくすりと小さく笑った。
 
「やめてください、春雪様。私は波津です。何も変わってなどおりませんわ」
 
にこりと笑ったその表情(かお)が、五年ぶりに見たその顔が、哀しくて愛しくて、胸が締め付けられるような思いで、春雪は波津を見つめた。
 
「お波津……体調はどうなんだ? 無理はしていないか? 兄上は良くしてくれる?」
 
まるで小さな妹に問いかけるように、矢継ぎ早に彼女が本心から答えられるはずもないことばかり問いかけてしまう彼を、少し困ったように波津が見上げる。潤んだ瞳の奥に変わらぬ親愛の光を見つけ、春雪が思わず微笑みを向ければ、同じように桜色の口元がほころんだ。
 
「もう大分良いわ、大丈夫。殿も……そうね、基本的には優しいのではないかしら? 何たって春雪様の兄君ですもの」
 
苦笑混じりに髪に触れようとして、そっと引かれた春雪の手の先を、波津の黒い双眸が追う。かすかな空白を埋めるように、春雪は優しく囁いた。
 
「本当に……大変な目にあったね、お波津。ここは静かだ……癒えるまで、気のすむまでいたら良い。ここには私も……私が、いるから」
 
その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、波津は少女に還り、目の前の腕の中に飛び込んでいた。泣きじゃくる彼女を抱きしめながら、春雪は天を仰ぐ。封じ込めた痛み、願い、叫び――全てが己の罪だと、彼は思った。
 
 
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「迎えに来たぞ、お波津」
 
「あら、もう……? と言ってもよろしいかしら?」
 
いつぞやと同じく唐突に姿を現した主に向かい、波津は起き上がって顔を上げた。傷つき項垂れていた幸薄き女の姿は、そこには無かった。
 
「お沫(まつ)がうるさくてかなわぬ。多少見目が良いほどで奢りおって……あの女をどうにかしてくれ」
 
「でも、あの方を孕ませたのは殿ですわ。ご自身のことはご自身で責任を取らなくては」
 
数ヶ月前、己が城から出るきっかけを作った女の名に、波津はうそぶいた。
 
「……春雪の胸に泣きついたそうじゃないか――もう満足しただろう? 今度こそ希望を入れて、この社に、春雪の元に帰してやったのだから」
 
唇に弧を描いたまま、険のある眼差しを己に向ける主を、波津は鋭く睨み返した。視線と視線が激しくぶつかり、閃光がひらめく。
 
「殿は……殿はずるい。分かってらっしゃったのでしょう? 私が、あの方を汚すことなどできないと」
 
波津の問いに、道雪は答えない。
 
「可哀想な春雪様……こんな風に、閉じ込められて、ずっと、一生……」
 
「そなたも共犯だ、お波津。あの時そなたは頷いた――春雪を誰とも娶せず、この社に縛り付けることに」
 
顔を覆って伏した波津に、容赦の無い主の言葉が突き刺さる。あの日、二人が作り上げた残酷な檻。道雪と波津だけの世界に春雪を閉じ込め続けるための牢獄へ、氷水社は姿を変えた。
 
内も外も敵に囲まれ、戦に明け暮れた道雪にとって、幼き日より神域に入り、訪ねる度に何のてらいもない日だまりのような笑顔を向けてくれる春雪は安らぎだった。彼を汚さぬために、守るために道雪は社への道を塞ぎ続けた。孤立させた。彼が変わらぬように。いつまでも、永遠に自分だけが――あの穏やかな微笑みを眺めていられるように。
 
社の一人娘と言う特殊な環境に生まれ、両親を早くに亡くした波津にとって山のせせらぎのように清らかな愛情を注いでくれる春雪は救いだった。兄代わりとしての態度を決して崩さぬ彼の気を引きたくて、波津は社の扉を閉ざし続けた。孤立させた。彼が変わるように。いつか、永遠に自分だけを――情熱に燃えた眼差しで見つめてくれるように。
 
正反対の二人の望みは、果たして奇妙な一致を見た。運命の日、波津の願いを道雪は悟り、彼女を排除し、取り込んだ。そして道雪の祈りを、波津は受け入れ、妥協し、飲み込んだのだ。
 
「今更約を違えるな、お波津。春雪は我らの子を待っておろう? せいぜい励もうではないか。この社を、より強固な……心地よき檻にするために」
 
酷薄に笑う道雪の瞳には狂気が宿っていた。その瞳に映る己の表情(かお)にもまた、近しい狂気が見えることに波津は絶望し、俯いた。敵わぬことを知っている。一人では抱えきれぬ切なさを知っている。唯一、想いを分かち合える相手を知っている。何重にも縛られた目に見えぬ鎖が、氷水社と春雪のみならず彼ら二人をも深く結びつけていた。
 
愛する人、愛される人、かわいそうな、ひと――
 
“誰”が“どれ”と言えるのか、見当もつかぬことに嗤いながら、波津は主の手を取った。






後書き


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拍手ログ。『五万の真実』番外編。万佳視点。

拍手[6回]


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「真(まこと)と誠は重ならないのだと、そなたは知っているか?」

女帝万凜の花のような唇からこぼれ落ちた言葉に、跪いていた皇従兄万佳は顔を上げた。

「正しいことが常に正しいとは限らない……いや、正確に言えば、己が正しいと信じていることが相手にとっての最善ではない、ということか。昔、よくわらわはそう諭されたものじゃ……」

今や皇冠を戴く身となった従妹を諭すことが出来る唯一人の男を、万佳は知っていた。紅橋伯開唯。万凜の許婚だった男。その身を守って凶刃に倒れた、哀れな若者。万佳が眼前に座す美しい従妹と深く関わりを持つようになったのは彼女が即位してからのことで、その頃には既に故人となっていた開唯に対し、彼自身の面識はほとんどなかった。それが、故人の思い出を語るには返って気安かったのかもしれない。
紅橋時代から女帝に仕える者たちは、不自然なまでに開唯の名に触れない。皆が皆、知っているし、傷ついている。女帝と婚約者が如何に睦まじかったか、尊敬に値する主の片割れを失ったことがどれほどの悲しみか――だからこそ、万凜は彼を知らない従兄の前で唯一、彼を偲ぶことができるのかもしれなかった。

「わらわが何故正しいことをしているのに駄目なのか、と問うと生真面目な表情(かお)で
『姫様はいつも正しくていらっしゃいます。けれど、正しさが時に鋭い刃となって心を抉ることをお知りおき下さい。姫様にとって真であることが、その者にとっての誠ではないことが、往々にして在るのです』
と偉そうに講釈を垂れられたものじゃ」

女帝は哀しそうに微笑んだ。

「けれど陛下はそれが、お嫌ではなかったのでございましょう?」

少し目尻を下げた従兄の問いに、彼女は苦笑混じりに頷いた。

「聞けなくなってしまってから、初めて思い出すこともある。今になってようやくわらわは、その意味を知れた気がする」

真っ直ぐに心を射る、漆黒の双眸に、万佳は唐突に胸が苦しくなった。これほどに強く、艶やかに成熟した万凜の姿を、故人は二度と見ることができないのだ。彼がいたから、彼女の現在(いま)がある。彼の助け、彼の愛、彼の誠……そして、彼の死。全てが女帝の覇と美をかたちづくり、彩る素材であり、肥しであった。

「……もしかすると、万佳、わらわはあの方を真の意味で愛してなどおらぬのかもしれぬ」

無造作に頬杖をつきながらこぼれ落ちた言葉は、一人夢想していた万佳を驚愕させた。

「陛下!」

目を見開いたまま、思わず声を出すと、万凜は視線を逸らし、自嘲した。

「だがあの方を愛することが……愛していると信じることが、わらわの誠なのじゃ。幼い頃より今に至るまでずっと……それだけが、わらわをわらわとして立たせてくれた。誠とは、そうしたものでは無いのか……?」

否と告げる権利は、万佳には無かった。またその勇気も、彼は有していなかった。万佳は恐ろしくなったのだ。もし、開唯への愛を否定することで万凜が万凜でなくなってしまったら――彼が敬う賢しき主も、彼が愛する美しき女性も、全て幻と消え失せてしまうのではないか、との埒も無い不安の嵐が、彼の胸の内に急速に生まれたのだった。

「境目が判らぬもの、いえ、存在すらしないものが、世の中にはいくらもございます。答えを出す必要のない問いも、あってしかるべきものと私は考えますが……」

かろうじてそれだけを紡いだ従兄の穏やかな瞳を、万凜は遠く離れたものを懐かしむような目で見やった。

「ありがとう、万佳。あなたは、優しいな……」

告げられたその言葉が、万佳の胸に深く刺さった。
正しいことは刃になる。それと同様に、偽りもまた。それでも、目の前の女性(ひと)に束の間の慰めを与えられるのであれば――己が傷つくことは厭わない。この唇は何度でも、嘘を紡ごう。この瞳は何時でも、瞼を閉ざそう。
固く決意した彼のそれは、間違うかたなき彼自身の誠であった。 


 

 



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