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『しかして、真に地球市民(コスモポリタン)の地位を勝ち得た我々に理想の自由は訪れなかった。一つの巨大な政府の前に、逃れる“他国”を失った自由主義者(リベラリスト)は死んだのである。彼らの生み出した混沌の中、無政府主義者(アナーキスト)はとうの昔に忌むべき遺物となり果てた』
3000年 ワン・ワールド連合樹立。世界平和宣言――真に一つの世界を築き平和を実現するために我々は人種・宗教・思想の壁を乗り越えなければならない。すべての人々は混じり合い“融和”すべきである。故に、特例として認められるべき不測の事態を除き、同人種間での婚姻・出産は禁じることを理想的原則とす。
3005年 婚姻法制定――男女間の婚姻、または養子縁組の取り決めは旧出身国の異なる者同士で行われることを推奨する。三年の期間を経て推奨より義務化。
3015年 婚姻法改正――ヨーロッパ/中東/アフリカ/東南アジア/南アジア/東アジアの「地域区分」が確定。同一地域内での婚姻が制限されるが、アメリカ・オセアニア地区のみ既に「融和」が進んでいる地域として例外措置を受ける。
3026年 戸籍法制定――出生届提出時、両親の出身地域、三代前までの祖先の人種・母語・宗教が明確に異なることを証明することが義務付けられる。
『ワン・ワールドはやり遂げた! 法治の元に、むべなるかな、差別主義(レイシスト)の純血主義者たち! さらば、さらば高らかに!』
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全ては、西の海の端で上げられた一つの政党の産声から始まる。ワン・ワールド、多文化社会の確立と差別の撤廃を掲げて立ったこの党は“グローバル”という時代の潮流に乗り世界中に支持を広げ、やがて彼らの理想とする一つの世界――ワン・ワールド連合の樹立を達成する。与党、つまり連合中央政府の主な取り決めを行う立場になった彼らは悲願としてきた法の制定を26年の歳月をかけて成し遂げたのだった――だから、俺はこんな風に生きなきゃならない。
フェルスは頭に巻きつけていたターバンを目深に下げ、うつむいたまま足早に市場を脱けた。黒ずくめの大きなマントに、極力肌の露出を避けるための手袋と長いブーツ。それでもわずかに覗いてしまう首や手首には土と草を混ぜて作った茶色の塗料を塗りつけていた。この服装も、はるか昔の世界ではどこかの宗教の慣習として大切にされていたものだったらしい。彼らは自分のような肌の色をした人たちと信仰を巡って争った、と聞いたこともある。全てが混じり合ってしまった現在では、それぞれが持っていたはずの宗教や信仰なんて残っていないし、ただ前時代の名残として“それを着用する権利”が認められているというだけのものだ。今日は久々にジャガイモと少しの砂糖、それに小麦粉が手に入った。父と二人、裏のルートで回ってきた難解な機械の修理を何とかやり終え、二束三文と言っても無いよりはずっとマシな臨時収入を得た甲斐があった。バターが無いのは残念だが、いつものパンとは違う味の、甘いクッキーかケーキを食べられるかもしれない――とは言え、匂いで居場所が気取られては大変だから、とフェルスの母はわざわざ余所で焼いてきた冷たいパンを持って帰ってくるのが常なのだが。
とその時、背に背負った袋の中身に思いを巡らせていた少年のターバンが、急に激しく引っ張られた。
「おい見ろ、こいつやっぱり“純血(ユニ)”だ!」
乱暴にむしり取られた布の内から現れた明るい色の髪と、ごまかしようのないフェルスの鮮やかな瞳を指さしてはやし立てるごろつき共に呼応するように、市場の周囲は騒然となった。
「へぇ、近親相姦の犯罪者野郎、何しにのこのこ出てきやがった?」
「一発殴らせろ、捕まえてやる!」
獰猛な唸り声を上げる人々から逃れようと走り出したフェルスに向かってくるのは鼻白む目、ささやかれる侮蔑の言葉、激しい憎悪。今さっき手に入れたばかりの食糧が、少年の肩に酷く重たく肩に食い込んだ。まずい、このままでは……!
「こっち!」
甲高い声と共に細い路地へと少年を引き込んだ手は白かった。彼が驚いて見上げれば、その持ち主は彼以上に厳重な、目だけを出した装束で顔をすっかり覆った姿。カンカンと音の鳴る錆びた階段を駆け上がる。昇り切った先、古いアパートの屋上で彼女はようやくヴェールを外した。
「久しぶりね、フェルス」
「おまえ……エミュー?」
明るい榛色の瞳。にこりと笑う表情の中に、フェルスは懐かしい面差しを見出す。今よりもっと幼い頃、彼が生まれた“隔離地区(ゲットー)”でいつも遊んでいた女の子。子供たちには自分たちのように苦しい日々を送ってほしくない、という親心からそこに住まう“純血”の人々はどんどん数を減らしてゆき、知り合った時近所に同じくらいの年の子供はほとんど二人だけであったと思う。必然的に、彼らはいつも一緒にいたし、誰よりも親しい存在だったと言えるだろう。
「今この近くに隠れてるのよ、ゲットーが閉鎖されてから色々あってね……。今はとある親切な方の屋根裏を貸してもらっているの」
言葉の裏に込められた皮肉に、フェルスは苦い笑みを返した。彼の家族だって似たようなものだ。ゲットー……懐かしい場所。一度そこに追いやられたはずの彼らは、法に背く存在に衣食住を与えるなど税金の無駄遣いではないか、“ユニ”同士で暮らしていたらまた新たなユニが増える危機が増す、との世論の高まりによって集団での居住が禁じられた。一部の女性たちは強制的に他人種や“融和者(ハイブリッド)”との婚姻を強いられたりもしたという。純血の人々は各自治体に何人までと制限を設けられた上で分散され、それきりフェルスとエミューも離れ離れになってしまった。地方に行けば行くほど悪目立ちし迫害される彼らの中には住民の私刑を受けて命を落とした者もいれば、生きるためにその地を逃げ出して都会の闇に身をやつす者たちもいる。フェルスの家族も、そうやってこの街に逃げてきた。ただでさえ法に抗う存在だ。社会のシステムから外れてしまえば戸籍すら無い、まともな仕事など得られない。ひっそりと息を殺すように、母の内職と“一つの世界”であっても未だわずかに存在する父の翻訳の仕事、フェルスがゴミ拾いや靴磨きで稼ぐ駄賃によって、あるいはごくたまに回ってくる、後ろ暗い裏の仕事――たとえば、“知られてはいけない”現場の処理や道具の手入れなどで、どうにか日銭を稼ぐ暮らしだ。不法移住者を取り締まる警察の目も厳しい。
「全く、酷い話よね。私たちの送られたところは豊かな村で、父は牧場の下働きに就かせてもらったしゲットーより飢えるってことは無いくらいだったの。……でも、でもね」
言葉を区切って、エミューは喉を震わせる。
「私、乱暴されそうになったの。その牧場の主の息子が、『このまま“ユニ”なんかでいるより良いだろう』って。ご主人だって良い人だったのに、その息子の言い訳を当然だろう、って聞いてるのよ? 『何なら正式に結婚できるよう役場にかけあってやっても良い』なんて!」
それが現実だ。いくら、当時まだ十代半ばの少女が“ハイブリッド”――正しく融和した国民に乱暴され身ごもったところで彼らは決して罰せられない。むしろユニという宿業から彼女を救った存在として称えられるのだ。ハイブリッドの子供を産めば、女性はその母として同等の権利を得られる。過ちから目覚めた市民として。
「本当に、バカにしてやがる。おまえの家族もさすがにキレたんだな、だからここに……」
怒りを露わにしたフェルスに、エミューは口元を奇妙に歪ませて泣き伏した。
「お父さんは、怒ってくれたわ。ふざけるな、って。もうこんなところでは働けない、って。でも……でもお母さんは」
フェルスは目を見開いて彼女を見た。
「そうした方が幸せになれる、って。私が彼と結婚して子供を産めばお父さんだって仕事を失くさないし、みんなが飢えずに済む、って。とっても良い話だ、って」
エミューは涙を拭って起き上がる。
「そのことでお父さんとお母さんは毎日ケンカばかりしていたわ……それで、ある日言われたの。おまえが言うことを聞かなければ今すぐユニ嫌いの連中を焚き付けて一家もろとも焼き討ちしてやる、って例の息子にね。それでお母さんも震え上がって、一見親切な村でもあっという間にこんなことになるならハイブリッドは信用できない、って逃げてきたのよ。ああ嫌い、本当にもう二度とこりごりだわ。嫌いよ、嫌い、思い上がった混ざり者の奴らなんて大嫌い!」
叫んだ彼女の瞳は鋭く、激しい憤りが滲んでいた。
「エミュー……つらかった、つらかったな」
思わず、小さな頭を抱き寄せて癖のある金の髪をそっと撫でる。声を上げて泣きじゃくる幼なじみは下卑た奴らにそんな欲望を抱かせるほど美しい少女に成長していたのだ。それなのに、彼女が送らなければならない青春は、彼らの今は何と残酷でほの暗いものか。俺たちはまだ、こんなにも若いのに――幼いのに、知らないのに、分からないはずなのに。どうしてこんなにも憎いんだろう。たった一つの、いやたくさんの誰かを殺したいと、消し去りたいと願う気持ちを抱く羽目になんかなったんだろう。
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続きは少し書いてるけど現実の諸々とかで迷ってるので未定。
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「兄上」
その呼び名を聞いたのは、何年ぶりのことだろう。
「髪を、切ったのですか」
闖入者は、皇帝の震える声に微笑みで応えた。
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桜雷は記憶の片隅にほのかに甘い梅の香が匂っていたことを覚えている。風に流れる長い黒髪の艶やかさに、幼心にもこれほど見事な髪の持ち主には初めて出会った――きっとこの先も出会うまい、と感じた。だからその人が振り向いた時、その瞳の紅さに慄いたのだ。血のように深い紅――この国の民が持たぬ色の眼(まなこ)。
『殿下、いけませぬ!』
袖を引く女官の険を含んだ声に、彼はようやく気が付いた。これがあの忌み子なのか、と。
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黒い瞳を丸く見開いて己を見つめる幼子は、梅風の姿に少し驚いたようだった。目と目が合うと怯えたように眉尻を下げる宮中の人間は彼にとっては見慣れたものだったけれど。身なりの良い女官が顔を引きつらせて子供の絹の衣の袖を引く様に、そうか、これが太子に就いたばかりの后の子か、と少年は得心した。己と同じ血を分けた弟だと思えば、スッと通った鼻筋も涼やかな一重の目元すら、この国の誰より己と似通って見えるではないか。
『梅風だ。よろしく、桜雷』
皇太子の名を呼び捨てた脇腹の皇子を女官は無礼を咎めるような顔つきで睨んだが、幼い弟は黙って兄の差し出した手を握りしめた。あの梅の木の下で、確かに通う血の温もりを二人は感じとったはずだ。
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「まぁ、梅の花が咲きましたわ。良い香りですこと」
傍らを歩く妃の甲高い声に、即位を翌日に控えた皇太子はピクリと眉を上げて視線を移した。宮殿の中庭では見事に紅色の花が咲き匂っている。
「桜が咲くのが待ち遠しゅうございますわね、殿下」
こちらを見上げる黒いつぶらな瞳は、同意の返事を疑っていない――愛らしくいじらしいもの。王者の伴侶となる誇りと幸福を表すかのように、ゆるやかな微笑を浮かべる口元もまた。
「……そうだな、春は私の季節だ」
己に言い聞かせるように紡いだ言葉に、彼の母と同じく名門貴族の出である可憐な妃は
「本当に、陛下とお呼びするのが楽しみでございますこと」
と明るい笑い声を響かせた。そう――桜はいつも待っている、梅の花が散る時を。共に咲くことは叶わないから、決して。
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「梅はいつも風を待たれているな」
夕闇に浮かぶ白い花を見ながら梅風が呟いた言葉に、傍らにいた白い肌の女は
「鶯にでもなりましょうか?」
とからかうように忍んで笑った。細く縮れた鼠色の髪に海を凍らせた色の瞳を持つ彼女のことを、間もなく皇帝となる弟は酷く疎んでいるようだ。彼の目には、黒い髪に黒い瞳をした華奢な身体の女しか美しく映り込まないのだろう。
「灰園、冗談はよせ」
女の真の名は知らないし、聞いたところで脳裏に刻むつもりも梅風には無い。彼女を拾った――あるいは略奪した場所の侘しい景色から取った名を呼べば、するりと柔らかな手が彼の日に焼けた頬を撫ぜる。
「梅風さま、桜の花はどこにでも美しく咲きましょう。どこにでもあり、どこにあっても美しいのです。けれど散った後はどうでしょう? 薄紅の彩りを欠いたその場所を、いっそう寂しく見せるだけ……けれど梅の花は違います。咲く場所を選ぶからこそ、梅の香の似合うところはいつだって、その地そのものが絶対的に美しい」
口端を上げる女の顔は、いっそ冷たく凄絶なまでに美しかった。梅風はその手をとって引き寄せる。いささか乱暴な腕の力にも、女は抗わず愉快そうに声を上げた。
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かつて皇帝が征服した辺境の異族から召し上げた卑女(はしため)に孕ませた男子は、その民の長にのみ受け継がれる特質を持って生まれてきた。血のように紅い瞳、髪も目も黒く象牙の色の肌をしたこの国の人々とは少しだけ異なった容姿――同じ父の血を引くはずなのに、あの鮮やかな兄と自分の共通点は唯一髪の色だけではないか、と桜雷はひそかに唇を噛んだ。あの日から、彼は髪の手入れを怠らなくなった。それまでは嫌がっていた洗髪も、油をつけて丁寧にくしけずり整えることも、まるで女のように欠かさず行うようになった。梅の木の下で見た、あの見事にたゆたう兄の黒髪。紅の花の香はそこから匂っているのではないかと思えたのだ、それほどに眩かった、彼の姿が、存在が。
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「灰園」
新帝の即位式を明日に控えたその日、皇族の地位を退いて久しい将軍は気に入りの妾を呼んで告げた。
「髪を、切ってくれ」
「……よろしいのですか?」
艶めいて嗤う女の問いに、彼は苦笑とも自嘲ともつかぬ顔で頷いた。長い髪が高貴な身分の証であり、それを美しく結い上げることが嗜みとされるこの国で髪を切り落とすことは大きな侮辱であり、死にも等しい行為であり――自らそれを行うことは、天に与えられた命と果たすべき義務を投げ出すということ。既存の秩序を打ち壊し、その頂点にある皇帝にすら抗う行為だ。
梅風はいつも、小さな頭に重い冠を載せられ、多くの者にかしずかれて宮中を行く弟の姿を遠くから眺めていた。その立場ゆえに宮殿の外に出ることを許されず、青白く痩せ細っている弟の姿を。太子の位を逸れた梅風は桜雷の災いとならぬよう臣籍に下り、自ら志願して遠征に赴いては都を脅かす朝敵と戦い滅してきた。けれど彼が戦えば戦うほど、勝てば勝つほど弟は弱っていくのだ。戦勝報告に赴く梅風のたくましく勇ましい様に沸き立つ兵たちと相反し、皇太子と彼を擁する貴族と文官は鼻白んだ。それよりも何よりも、どこか恨みがましい、それでいて羨むような彼の眼差しに梅風は堪えられなかった――あるいはその奥に潜む切なさに。
『あにうえ、あにうえ――』
白い梅の花を己の紅い瞳で見つめ続けていたら、花びらはこんな色に染まってくれたのだろうか。彼を快く扱わない女官の目をかいくぐり、こっそりと己を訪う弟の唇を見ながら梅風は考えた。ふくふくとして愛らしい唇はその名と同じ花の彩りを載せて、懸命に彼の意識を引きつける言葉を紡ごうと開かれている。闇雲な好奇も侮蔑も嫌悪も全てを孕んだ淀みのような瞳の色が、桜雷の目に宿れば美しい月と星の輝く夜の空の色に見えた。豊かな黒髪から香る優しい匂いに和らいだ心。誰の内にも入り込むこの温もりこそが天子の証だと、それを守り助けることこそを望んでいたというのに。“誰”が、“何”が変えてしまったのか。あるいは彼自身の本質ゆえであったのだろうか。
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今二人の間にあるのは穏やかな花の香りではない。むせぶような濃い血と塵と煙の気配だ。この日玉座に就いたばかりの弟に――目の下に隈を滲ませ眉根と口元に深い皺を刻んでしまった彼の小さな花に向かって、梅風は剣先を突きつけた。
「兄上……髪を、切ったのですか」
その声の震えに同じ想いの在り処を知る。否、初めから気づいていた、そうであると信じていた。長い間離れていながら、こんなにも共鳴し反響し惹かれ合う存在は、きっと互いに互いだけだ。たった一人、同じ木から分かたれた相手――本当は別の木ではなく、ただ紅と白に別たれていただけの。
「いっそおまえが、女であれば良かった」
梅風は笑みを消してそう呟いた。その言を拾い、桜雷は顔を歪める。嫡出の彼が女として生まれていればあるいは、男である梅風が太子として認められる道もあったのかもしれない――
「……女なら、此処からおまえを奪えたのに」
続いて聞こえた兄の声に、身構えた桜雷は大きく目を見開いた。初めてその紅い瞳を目にした時と同じくらい大きく。おまえから此処をではなく、此処からおまえを――
桜雷が驚いたのはその言葉の意外さにではない。己を襲った、どうしようもなく確かな歓喜ゆえだ。そして次の瞬間鋭い刃が彼を貫き、その腕はそのまま彼を抱いた硬い胸をも突き刺した。何故、思ったと同時にすぐさま彼は察してしまった。二人の間にドクドクと流れ出る血が混じり合い、倒れる体が重なってゆく。確かに――ああ、まだ“同じ”紅(あか)があったのだ、これで一つに還れると。
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チー。可哀想な、独りぼっちの女の子。長寿を願って付けられた僕の名前、万(ワン)よりずっと少ない数の名を持つ、たった一人の僕の“義妹(いもうと)”。
もし、本当にチーが7万の星を数え終える時が来れば、彼女も、彼女の故郷の人々も願いが叶って、幸せになれるのだろうか? もしチーの願いが故郷への帰還だったとしたら、僕は果たしてそれを受け入れることができるだろうか?
埒も無いことを考えながら見上げた星の輝きは、やはり僕には眩し過ぎる。すぐ傍にいる彼女の中に決して分かち合うことの叶わぬ孤独を感じる今、取り巻く闇が哀しみで、星の光が涙であるかのような錯覚が込み上げ、心臓をかきむしられるような衝動に襲われてしまうのだ。
ああ、僕がもう少し早く大人になっていたら、そうでなければあと少し長く、子どもでいることができたなら。大切なものを傷つけることも、自分自身が傷つくことも、この宙を恐れることも無かったのかもしれない。
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庭を挟んでちょうど真向かい、本殿へと続く長い廊下に、滑りゆく鮮やかな打ち掛けの姿を見出し、春雪(しゅんせつ)は思わず頭を下げた。それに気づくことなく歩みを進める彼女の横顔は、美しいが憂いに満ちている。横顔の主の名は波津(はつ)――いや、お波津の方様、春雪にとっては年下の従妹にあたる女性だ。五年前、他ならぬこの氷水社(ひみのやしろ)で春雪の兄・領主道雪(みちゆき)に見染められた彼女は、その側室となって男児を生し、更に二人目の子を宿した。その頃には道雪の寵愛も一身に注がれていたものと聞く。ところが昨年女児を死産し、続けて可愛い盛りの若君すら、流行り病で失ってしまった。産後より体調を崩していた波津はすっかり塞ぎ込み、子を育めぬ側室の元に主の足も遠のいた。そうしてとうとう、“療養”という体の良い名目で、厄介払いも同然に春雪が宮司を務めるこの氷水社へ送り込まれてきたのである。
春雪は先代領主の末子であり、氷水社は彼の母の一族が代々宮司を務めてきた社である。先代領主には既に正妻腹の嫡男・道雪がいたこと、更に先の宮司であった伯父に男子が生まれなかったことから、春雪は新たな宮司として氷水社に入った。彼を迎えて間も無く先代の宮司が亡くなり、春雪は残された幼い従妹――波津と、兄妹のように寄り添い、慈しみ合いながら生きてきた。本音を言えば大名家の跡目争いに巻き込まれたくなかった、という気持ちもある。悪く言えば臆病で意気地なしの春雪を、
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「真(まこと)と誠は重ならないのだと、そなたは知っているか?」
女帝万凜の花のような唇からこぼれ落ちた言葉に、跪いていた皇従兄万佳は顔を上げた。
「正しいことが常に正しいとは限らない……いや、正確に言えば、己が正しいと信じていることが相手にとっての最善ではない、ということか。昔、よくわらわはそう諭されたものじゃ……」
今や皇冠を戴く身となった従妹を諭すことが出来る唯一人の男を、万佳は知っていた。紅橋伯開唯。万凜の許婚だった男。その身を守って凶刃に倒れた、哀れな若者。万佳が眼前に座す美しい従妹と深く関わりを持つようになったのは彼女が即位してからのことで、その頃には既に故人となっていた開唯に対し、彼自身の面識はほとんどなかった。それが、故人の思い出を語るには返って気安かったのかもしれない。
紅橋時代から女帝に仕える者たちは、不自然なまでに開唯の名に触れない。皆が皆、知っているし、傷ついている。女帝と婚約者が如何に睦まじかったか、尊敬に値する主の片割れを失ったことがどれほどの悲しみか――だからこそ、万凜は彼を知らない従兄の前で唯一、彼を偲ぶことができるのかもしれなかった。
「わらわが何故正しいことをしているのに駄目なのか、と問うと生真面目な表情(かお)で
『姫様はいつも正しくていらっしゃいます。けれど、正しさが時に鋭い刃となって心を抉ることをお知りおき下さい。姫様にとって真であることが、その者にとっての誠ではないことが、往々にして在るのです』
と偉そうに講釈を垂れられたものじゃ」
女帝は哀しそうに微笑んだ。
「けれど陛下はそれが、お嫌ではなかったのでございましょう?」
少し目尻を下げた従兄の問いに、彼女は苦笑混じりに頷いた。
「聞けなくなってしまってから、初めて思い出すこともある。今になってようやくわらわは、その意味を知れた気がする」
真っ直ぐに心を射る、漆黒の双眸に、万佳は唐突に胸が苦しくなった。これほどに強く、艶やかに成熟した万凜の姿を、故人は二度と見ることができないのだ。彼がいたから、彼女の現在(いま)がある。彼の助け、彼の愛、彼の誠……そして、彼の死。全てが女帝の覇と美をかたちづくり、彩る素材であり、肥しであった。
「……もしかすると、万佳、わらわはあの方を真の意味で愛してなどおらぬのかもしれぬ」
無造作に頬杖をつきながらこぼれ落ちた言葉は、一人夢想していた万佳を驚愕させた。
「陛下!」
目を見開いたまま、思わず声を出すと、万凜は視線を逸らし、自嘲した。
「だがあの方を愛することが……愛していると信じることが、わらわの誠なのじゃ。幼い頃より今に至るまでずっと……それだけが、わらわをわらわとして立たせてくれた。誠とは、そうしたものでは無いのか……?」
否と告げる権利は、万佳には無かった。またその勇気も、彼は有していなかった。万佳は恐ろしくなったのだ。もし、開唯への愛を否定することで万凜が万凜でなくなってしまったら――彼が敬う賢しき主も、彼が愛する美しき女性も、全て幻と消え失せてしまうのではないか、との埒も無い不安の嵐が、彼の胸の内に急速に生まれたのだった。
「境目が判らぬもの、いえ、存在すらしないものが、世の中にはいくらもございます。答えを出す必要のない問いも、あってしかるべきものと私は考えますが……」
かろうじてそれだけを紡いだ従兄の穏やかな瞳を、万凜は遠く離れたものを懐かしむような目で見やった。
「ありがとう、万佳。あなたは、優しいな……」
告げられたその言葉が、万佳の胸に深く刺さった。
正しいことは刃になる。それと同様に、偽りもまた。それでも、目の前の女性(ひと)に束の間の慰めを与えられるのであれば――己が傷つくことは厭わない。この唇は何度でも、嘘を紡ごう。この瞳は何時でも、瞼を閉ざそう。
固く決意した彼のそれは、間違うかたなき彼自身の誠であった。
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