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和風? 領主とその弟と兄の側室となった従妹。神社が舞台。
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庭を挟んでちょうど真向かい、本殿へと続く長い廊下に、滑りゆく鮮やかな打ち掛けの姿を見出し、春雪(しゅんせつ)は思わず頭を下げた。それに気づくことなく歩みを進める彼女の横顔は、美しいが憂いに満ちている。横顔の主の名は波津(はつ)――いや、お波津の方様、春雪にとっては年下の従妹にあたる女性だ。五年前、他ならぬこの氷水社(ひみのやしろ)で春雪の兄・領主道雪(みちゆき)に見染められた彼女は、その側室となって男児を生し、更に二人目の子を宿した。その頃には道雪の寵愛も一身に注がれていたものと聞く。ところが昨年女児を死産し、続けて可愛い盛りの若君すら、流行り病で失ってしまった。産後より体調を崩していた波津はすっかり塞ぎ込み、子を育めぬ側室の元に主の足も遠のいた。そうしてとうとう、“療養”という体の良い名目で、厄介払いも同然に春雪が宮司を務めるこの氷水社へ送り込まれてきたのである。
今、春雪の瞳に映る彼女の姿は、以前とはすっかり異なるものへと変わってしまっていた。五年前の飾らない純朴さは哀愁を帯びた色香へと転じ、きらきらと輝いていた大きな瞳は伏せられて雫を宿し、愛らしい口元には微笑の名残が見えるだけ。
あの快活な少女は城でどれほどの痛みを覚えてきたのだろう。どれほどの悲しみを、苦しみを与えてしまったというのだろう――あの日、兄と彼女を引き合わせ、彼女の城入りを止めることすらできなかった自分は。
己を責めながら俯いた春雪の脳裏に、五年前の秋の情景が浮き上がる。
~~~
「春雪様、ご覧下さい。これ全部、私が一人で拾ってまいりましたのよ」
波津――当時は未だ十五の乙女だった彼女が、ニコニコと笑いながら差し出した袋からは強烈な秋の香りが漂っていた。
「ご苦労さま。全く、お波津には負けるよ。後で一緒に焼いて食べよう」
「本当に? 嬉しい!」
少し顔を引きつらせながらも頭を撫でてやると、春雪の手の下で櫛通りの悪い波津の髪は揺れて弾んだ。銀杏は波津の大好物。春雪は実を言えば苦手としていたのだが、それでも毎年彼女に付き合って食していた。それが何故か、考える必要を感じぬほどに睦まじく過ごしてきた二人だった。
「……その娘、この社の者か?」
唐突に響いた声に、春雪が驚いて振り返れば、そこには彼の兄・道雪が佇んでいた。道雪は領主の地位にありながら時たまこうして気まぐれに姿を現すのだが、人目を忍ぶ様子であることが多いためすぐに人払いをかけ、社の者たちと顔を合わせる機会はほとんど無かった。
「そうですが……兄上」
戸惑いつつ応じた春雪とその背後に立つ波津を、道雪はまじまじと見比べた。
春雪は先代領主の末子であり、氷水社は彼の母の一族が代々宮司を務めてきた社である。先代領主には既に正妻腹の嫡男・道雪がいたこと、更に先の宮司であった伯父に男子が生まれなかったことから、春雪は新たな宮司として氷水社に入った。彼を迎えて間も無く先代の宮司が亡くなり、春雪は残された幼い従妹――波津と、兄妹のように寄り添い、慈しみ合いながら生きてきた。本音を言えば大名家の跡目争いに巻き込まれたくなかった、という気持ちもある。悪く言えば臆病で意気地なしの春雪を、
春雪は先代領主の末子であり、氷水社は彼の母の一族が代々宮司を務めてきた社である。先代領主には既に正妻腹の嫡男・道雪がいたこと、更に先の宮司であった伯父に男子が生まれなかったことから、春雪は新たな宮司として氷水社に入った。彼を迎えて間も無く先代の宮司が亡くなり、春雪は残された幼い従妹――波津と、兄妹のように寄り添い、慈しみ合いながら生きてきた。本音を言えば大名家の跡目争いに巻き込まれたくなかった、という気持ちもある。悪く言えば臆病で意気地なしの春雪を、
『おまえには人の心の澱を打ち消す力があるな……穏やかに澄み、全てを映し顕わにする。得難い力だ』
と褒めてくれたのは兄・道雪ただ一人。彼は何くれとなく氷水社を気にかけ、弟の元を訪れては他愛も無い愚痴や相談事を持ちかけた。己にも他人にも厳しい兄が春雪にだけ見せる弱みや優しさに、ほんの少し胸が暖かくなるような思いで、彼は兄との関わりを誇りにすら思っている。そんな道雪が彼のもう一人の大切な存在――波津に目を止めた事実に、春雪の心はざわめいた。
「この社に仕えているということは、おまえの親戚か?」
「母方の従妹に当たる者です。父は先代の宮司で……」
言い知れぬ不安が渦巻きながらも、領主を謀ることは出来ず問いに答えれば、道雪は我が意を得たり、というようにニヤリと笑った。
「相分かった、不足は無い。娘、そなた名は何と言う?」
兄弟のやりとりを訝しげに見つめていた波津の身体がビクリと震え、小さな唇がおずおずと開かれる。
「波津、と申します」
「ではお波津、城に仕えよ。そなたを今日より側室とする」
「兄上!」
春雪が驚いて声を上げれば、道雪は不満げに唇を尖らせた。
「何だ、何か不服でも?」
「お波津はまだ十五です。この社のことしか知りませんし……兄上には既にご正室も、幾人かの側室の方々もおられましょう! せめて今少しの猶予を……」
「ならぬ、春雪。“もう”十五じゃ。村の娘なら子の一人は生んでいてもおかしくない。気に入ったのだ、良いであろう? どうせおまえは結婚などしないつもりでいるのだろうから、波津が子を生めば氷水社の後継にやる。二代続けて主家と縁を繋ぐのだ。のう、お波津、冥土の親御も喜ぼう?」
「…………はい、殿さま」
真っ青な顔で震えるばかりだった波津が小さく頷いた瞬間、それまでの自分の世界が、“自分たち”の世界が風塵の彼方に消え去った音を、春雪は確かに聞いた。
~~~
「……ほんに懐かしい、久しぶりでございますこと」
社殿を見て回りたい、との波津の意向を組み、彼女と並んで歩き出せば、見なれたはずの建物の奥を小さな、小さな思い出の影がそこかしこに過ぎり、春雪の胸に不思議な切なさを呼び起こさせた。
「お波津の方様には……里と申し上げても良い社でございましょうか。実に五年ぶりに……」
堅苦しい春雪の言に、波津はくすりと小さく笑った。
「やめてください、春雪様。私は波津です。何も変わってなどおりませんわ」
にこりと笑ったその表情(かお)が、五年ぶりに見たその顔が、哀しくて愛しくて、胸が締め付けられるような思いで、春雪は波津を見つめた。
「お波津……体調はどうなんだ? 無理はしていないか? 兄上は良くしてくれる?」
まるで小さな妹に問いかけるように、矢継ぎ早に彼女が本心から答えられるはずもないことばかり問いかけてしまう彼を、少し困ったように波津が見上げる。潤んだ瞳の奥に変わらぬ親愛の光を見つけ、春雪が思わず微笑みを向ければ、同じように桜色の口元がほころんだ。
「もう大分良いわ、大丈夫。殿も……そうね、基本的には優しいのではないかしら? 何たって春雪様の兄君ですもの」
苦笑混じりに髪に触れようとして、そっと引かれた春雪の手の先を、波津の黒い双眸が追う。かすかな空白を埋めるように、春雪は優しく囁いた。
「本当に……大変な目にあったね、お波津。ここは静かだ……癒えるまで、気のすむまでいたら良い。ここには私も……私が、いるから」
その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、波津は少女に還り、目の前の腕の中に飛び込んでいた。泣きじゃくる彼女を抱きしめながら、春雪は天を仰ぐ。封じ込めた痛み、願い、叫び――全てが己の罪だと、彼は思った。
~~~
「迎えに来たぞ、お波津」
「あら、もう……? と言ってもよろしいかしら?」
いつぞやと同じく唐突に姿を現した主に向かい、波津は起き上がって顔を上げた。傷つき項垂れていた幸薄き女の姿は、そこには無かった。
「お沫(まつ)がうるさくてかなわぬ。多少見目が良いほどで奢りおって……あの女をどうにかしてくれ」
「でも、あの方を孕ませたのは殿ですわ。ご自身のことはご自身で責任を取らなくては」
数ヶ月前、己が城から出るきっかけを作った女の名に、波津はうそぶいた。
「……春雪の胸に泣きついたそうじゃないか――もう満足しただろう? 今度こそ希望を入れて、この社に、春雪の元に帰してやったのだから」
唇に弧を描いたまま、険のある眼差しを己に向ける主を、波津は鋭く睨み返した。視線と視線が激しくぶつかり、閃光がひらめく。
「殿は……殿はずるい。分かってらっしゃったのでしょう? 私が、あの方を汚すことなどできないと」
波津の問いに、道雪は答えない。
「可哀想な春雪様……こんな風に、閉じ込められて、ずっと、一生……」
「そなたも共犯だ、お波津。あの時そなたは頷いた――春雪を誰とも娶せず、この社に縛り付けることに」
顔を覆って伏した波津に、容赦の無い主の言葉が突き刺さる。あの日、二人が作り上げた残酷な檻。道雪と波津だけの世界に春雪を閉じ込め続けるための牢獄へ、氷水社は姿を変えた。
内も外も敵に囲まれ、戦に明け暮れた道雪にとって、幼き日より神域に入り、訪ねる度に何のてらいもない日だまりのような笑顔を向けてくれる春雪は安らぎだった。彼を汚さぬために、守るために道雪は社への道を塞ぎ続けた。孤立させた。彼が変わらぬように。いつまでも、永遠に自分だけが――あの穏やかな微笑みを眺めていられるように。
社の一人娘と言う特殊な環境に生まれ、両親を早くに亡くした波津にとって山のせせらぎのように清らかな愛情を注いでくれる春雪は救いだった。兄代わりとしての態度を決して崩さぬ彼の気を引きたくて、波津は社の扉を閉ざし続けた。孤立させた。彼が変わるように。いつか、永遠に自分だけを――情熱に燃えた眼差しで見つめてくれるように。
正反対の二人の望みは、果たして奇妙な一致を見た。運命の日、波津の願いを道雪は悟り、彼女を排除し、取り込んだ。そして道雪の祈りを、波津は受け入れ、妥協し、飲み込んだのだ。
「今更約を違えるな、お波津。春雪は我らの子を待っておろう? せいぜい励もうではないか。この社を、より強固な……心地よき檻にするために」
酷薄に笑う道雪の瞳には狂気が宿っていた。その瞳に映る己の表情(かお)にもまた、近しい狂気が見えることに波津は絶望し、俯いた。敵わぬことを知っている。一人では抱えきれぬ切なさを知っている。唯一、想いを分かち合える相手を知っている。何重にも縛られた目に見えぬ鎖が、氷水社と春雪のみならず彼ら二人をも深く結びつけていた。
愛する人、愛される人、かわいそうな、ひと――
“誰”が“どれ”と言えるのか、見当もつかぬことに嗤いながら、波津は主の手を取った。
→後書き
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庭を挟んでちょうど真向かい、本殿へと続く長い廊下に、滑りゆく鮮やかな打ち掛けの姿を見出し、春雪(しゅんせつ)は思わず頭を下げた。それに気づくことなく歩みを進める彼女の横顔は、美しいが憂いに満ちている。横顔の主の名は波津(はつ)――いや、お波津の方様、春雪にとっては年下の従妹にあたる女性だ。五年前、他ならぬこの氷水社(ひみのやしろ)で春雪の兄・領主道雪(みちゆき)に見染められた彼女は、その側室となって男児を生し、更に二人目の子を宿した。その頃には道雪の寵愛も一身に注がれていたものと聞く。ところが昨年女児を死産し、続けて可愛い盛りの若君すら、流行り病で失ってしまった。産後より体調を崩していた波津はすっかり塞ぎ込み、子を育めぬ側室の元に主の足も遠のいた。そうしてとうとう、“療養”という体の良い名目で、厄介払いも同然に春雪が宮司を務めるこの氷水社へ送り込まれてきたのである。
今、春雪の瞳に映る彼女の姿は、以前とはすっかり異なるものへと変わってしまっていた。五年前の飾らない純朴さは哀愁を帯びた色香へと転じ、きらきらと輝いていた大きな瞳は伏せられて雫を宿し、愛らしい口元には微笑の名残が見えるだけ。
あの快活な少女は城でどれほどの痛みを覚えてきたのだろう。どれほどの悲しみを、苦しみを与えてしまったというのだろう――あの日、兄と彼女を引き合わせ、彼女の城入りを止めることすらできなかった自分は。
己を責めながら俯いた春雪の脳裏に、五年前の秋の情景が浮き上がる。
~~~
「春雪様、ご覧下さい。これ全部、私が一人で拾ってまいりましたのよ」
波津――当時は未だ十五の乙女だった彼女が、ニコニコと笑いながら差し出した袋からは強烈な秋の香りが漂っていた。
「ご苦労さま。全く、お波津には負けるよ。後で一緒に焼いて食べよう」
「本当に? 嬉しい!」
少し顔を引きつらせながらも頭を撫でてやると、春雪の手の下で櫛通りの悪い波津の髪は揺れて弾んだ。銀杏は波津の大好物。春雪は実を言えば苦手としていたのだが、それでも毎年彼女に付き合って食していた。それが何故か、考える必要を感じぬほどに睦まじく過ごしてきた二人だった。
「……その娘、この社の者か?」
唐突に響いた声に、春雪が驚いて振り返れば、そこには彼の兄・道雪が佇んでいた。道雪は領主の地位にありながら時たまこうして気まぐれに姿を現すのだが、人目を忍ぶ様子であることが多いためすぐに人払いをかけ、社の者たちと顔を合わせる機会はほとんど無かった。
「そうですが……兄上」
戸惑いつつ応じた春雪とその背後に立つ波津を、道雪はまじまじと見比べた。
春雪は先代領主の末子であり、氷水社は彼の母の一族が代々宮司を務めてきた社である。先代領主には既に正妻腹の嫡男・道雪がいたこと、更に先の宮司であった伯父に男子が生まれなかったことから、春雪は新たな宮司として氷水社に入った。彼を迎えて間も無く先代の宮司が亡くなり、春雪は残された幼い従妹――波津と、兄妹のように寄り添い、慈しみ合いながら生きてきた。本音を言えば大名家の跡目争いに巻き込まれたくなかった、という気持ちもある。悪く言えば臆病で意気地なしの春雪を、
春雪は先代領主の末子であり、氷水社は彼の母の一族が代々宮司を務めてきた社である。先代領主には既に正妻腹の嫡男・道雪がいたこと、更に先の宮司であった伯父に男子が生まれなかったことから、春雪は新たな宮司として氷水社に入った。彼を迎えて間も無く先代の宮司が亡くなり、春雪は残された幼い従妹――波津と、兄妹のように寄り添い、慈しみ合いながら生きてきた。本音を言えば大名家の跡目争いに巻き込まれたくなかった、という気持ちもある。悪く言えば臆病で意気地なしの春雪を、
『おまえには人の心の澱を打ち消す力があるな……穏やかに澄み、全てを映し顕わにする。得難い力だ』
と褒めてくれたのは兄・道雪ただ一人。彼は何くれとなく氷水社を気にかけ、弟の元を訪れては他愛も無い愚痴や相談事を持ちかけた。己にも他人にも厳しい兄が春雪にだけ見せる弱みや優しさに、ほんの少し胸が暖かくなるような思いで、彼は兄との関わりを誇りにすら思っている。そんな道雪が彼のもう一人の大切な存在――波津に目を止めた事実に、春雪の心はざわめいた。
「この社に仕えているということは、おまえの親戚か?」
「母方の従妹に当たる者です。父は先代の宮司で……」
言い知れぬ不安が渦巻きながらも、領主を謀ることは出来ず問いに答えれば、道雪は我が意を得たり、というようにニヤリと笑った。
「相分かった、不足は無い。娘、そなた名は何と言う?」
兄弟のやりとりを訝しげに見つめていた波津の身体がビクリと震え、小さな唇がおずおずと開かれる。
「波津、と申します」
「ではお波津、城に仕えよ。そなたを今日より側室とする」
「兄上!」
春雪が驚いて声を上げれば、道雪は不満げに唇を尖らせた。
「何だ、何か不服でも?」
「お波津はまだ十五です。この社のことしか知りませんし……兄上には既にご正室も、幾人かの側室の方々もおられましょう! せめて今少しの猶予を……」
「ならぬ、春雪。“もう”十五じゃ。村の娘なら子の一人は生んでいてもおかしくない。気に入ったのだ、良いであろう? どうせおまえは結婚などしないつもりでいるのだろうから、波津が子を生めば氷水社の後継にやる。二代続けて主家と縁を繋ぐのだ。のう、お波津、冥土の親御も喜ぼう?」
「…………はい、殿さま」
真っ青な顔で震えるばかりだった波津が小さく頷いた瞬間、それまでの自分の世界が、“自分たち”の世界が風塵の彼方に消え去った音を、春雪は確かに聞いた。
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「……ほんに懐かしい、久しぶりでございますこと」
社殿を見て回りたい、との波津の意向を組み、彼女と並んで歩き出せば、見なれたはずの建物の奥を小さな、小さな思い出の影がそこかしこに過ぎり、春雪の胸に不思議な切なさを呼び起こさせた。
「お波津の方様には……里と申し上げても良い社でございましょうか。実に五年ぶりに……」
堅苦しい春雪の言に、波津はくすりと小さく笑った。
「やめてください、春雪様。私は波津です。何も変わってなどおりませんわ」
にこりと笑ったその表情(かお)が、五年ぶりに見たその顔が、哀しくて愛しくて、胸が締め付けられるような思いで、春雪は波津を見つめた。
「お波津……体調はどうなんだ? 無理はしていないか? 兄上は良くしてくれる?」
まるで小さな妹に問いかけるように、矢継ぎ早に彼女が本心から答えられるはずもないことばかり問いかけてしまう彼を、少し困ったように波津が見上げる。潤んだ瞳の奥に変わらぬ親愛の光を見つけ、春雪が思わず微笑みを向ければ、同じように桜色の口元がほころんだ。
「もう大分良いわ、大丈夫。殿も……そうね、基本的には優しいのではないかしら? 何たって春雪様の兄君ですもの」
苦笑混じりに髪に触れようとして、そっと引かれた春雪の手の先を、波津の黒い双眸が追う。かすかな空白を埋めるように、春雪は優しく囁いた。
「本当に……大変な目にあったね、お波津。ここは静かだ……癒えるまで、気のすむまでいたら良い。ここには私も……私が、いるから」
その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、波津は少女に還り、目の前の腕の中に飛び込んでいた。泣きじゃくる彼女を抱きしめながら、春雪は天を仰ぐ。封じ込めた痛み、願い、叫び――全てが己の罪だと、彼は思った。
~~~
「迎えに来たぞ、お波津」
「あら、もう……? と言ってもよろしいかしら?」
いつぞやと同じく唐突に姿を現した主に向かい、波津は起き上がって顔を上げた。傷つき項垂れていた幸薄き女の姿は、そこには無かった。
「お沫(まつ)がうるさくてかなわぬ。多少見目が良いほどで奢りおって……あの女をどうにかしてくれ」
「でも、あの方を孕ませたのは殿ですわ。ご自身のことはご自身で責任を取らなくては」
数ヶ月前、己が城から出るきっかけを作った女の名に、波津はうそぶいた。
「……春雪の胸に泣きついたそうじゃないか――もう満足しただろう? 今度こそ希望を入れて、この社に、春雪の元に帰してやったのだから」
唇に弧を描いたまま、険のある眼差しを己に向ける主を、波津は鋭く睨み返した。視線と視線が激しくぶつかり、閃光がひらめく。
「殿は……殿はずるい。分かってらっしゃったのでしょう? 私が、あの方を汚すことなどできないと」
波津の問いに、道雪は答えない。
「可哀想な春雪様……こんな風に、閉じ込められて、ずっと、一生……」
「そなたも共犯だ、お波津。あの時そなたは頷いた――春雪を誰とも娶せず、この社に縛り付けることに」
顔を覆って伏した波津に、容赦の無い主の言葉が突き刺さる。あの日、二人が作り上げた残酷な檻。道雪と波津だけの世界に春雪を閉じ込め続けるための牢獄へ、氷水社は姿を変えた。
内も外も敵に囲まれ、戦に明け暮れた道雪にとって、幼き日より神域に入り、訪ねる度に何のてらいもない日だまりのような笑顔を向けてくれる春雪は安らぎだった。彼を汚さぬために、守るために道雪は社への道を塞ぎ続けた。孤立させた。彼が変わらぬように。いつまでも、永遠に自分だけが――あの穏やかな微笑みを眺めていられるように。
社の一人娘と言う特殊な環境に生まれ、両親を早くに亡くした波津にとって山のせせらぎのように清らかな愛情を注いでくれる春雪は救いだった。兄代わりとしての態度を決して崩さぬ彼の気を引きたくて、波津は社の扉を閉ざし続けた。孤立させた。彼が変わるように。いつか、永遠に自分だけを――情熱に燃えた眼差しで見つめてくれるように。
正反対の二人の望みは、果たして奇妙な一致を見た。運命の日、波津の願いを道雪は悟り、彼女を排除し、取り込んだ。そして道雪の祈りを、波津は受け入れ、妥協し、飲み込んだのだ。
「今更約を違えるな、お波津。春雪は我らの子を待っておろう? せいぜい励もうではないか。この社を、より強固な……心地よき檻にするために」
酷薄に笑う道雪の瞳には狂気が宿っていた。その瞳に映る己の表情(かお)にもまた、近しい狂気が見えることに波津は絶望し、俯いた。敵わぬことを知っている。一人では抱えきれぬ切なさを知っている。唯一、想いを分かち合える相手を知っている。何重にも縛られた目に見えぬ鎖が、氷水社と春雪のみならず彼ら二人をも深く結びつけていた。
愛する人、愛される人、かわいそうな、ひと――
“誰”が“どれ”と言えるのか、見当もつかぬことに嗤いながら、波津は主の手を取った。
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