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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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近代風?異世界掌編。同性愛要素あり。

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林檎のように赤い唇が自分のそれに触れた瞬間、僕は驚いて目を見開いた。アダムの、綺麗なきれいな緑の瞳が、僕をじっと見つめていた。僕はゆっくりと瞼を降ろした。拒むという選択肢は、その時の僕には無かった。僕には、君が全てだったから。君しか、いなかったから――
 
今思うと、君もそうだったのだと思う。君には僕しかいなかった。僕だけが、君を受け入れ、君に寄り添える存在だった。そう信じたいだけなのかもしれない。そうなりたかっただけなのかもしれない。でもね、アダム。僕はあの時、確かに幸せだったんだ……ううん、今でも。
 
閉じていた瞳を開けた。目の前には冷たい灰色の壁。遥か上方に位置する小さな窓から、申し訳程度に微かな光が漏れている。吐き気を催すほどの臭気にはもう慣れた。ただこの沈黙にだけは――君の声が聞こえない静けさにだけは耐えられない。アダム。君はどうしている? 僕はただ、君に会いたい。
 
アダム――美しい人だ、と僕は思う。そう言うと君は少し照れて、すぐに話題を逸らしてしまうけれど。初めて会ったのは八百屋の裏口だったろうか。やせ細り、薄汚れた少年が、ゴミ箱の傍にぼんやりと佇んでいた。
 
「これ、今から捨てるんだけど……いるかい?」
 
我ながら酷い台詞だったと思う。僕は君に、腐りかけの林檎を差し出した。君は枯れ枝のような手を伸ばして、ところどころ傷んで変色したそれを奪い取った。腐臭と芳香の狭間をたゆたう果汁に汚れた自分の手と、その汁を撒き散らしながら硬度を失った果実を貪る君の唇を見比べて、僕は頬を染めた。それから僕は、毎日のゴミ出しを自ら進んで引き受けるようになったんだ。
 
「……怒られないのか?」
 
初めて君の口から洩れた言葉は、その一言であったように思う。気まぐれに顔を見せる君を、ゴミの袋を抱えたまま裏口に佇んで待っていた僕に、現れた君は一瞬戸惑ったように立ちつくし、そう呟いた。
 
「そうだね、そろそろ気づかれているかも。でも、誰に迷惑をかけているわけでもないし……」
 
肩をすくめて応えた僕に、君は眉根を寄せた。
 
「そういう問題じゃないだろう。おまえと、店の評判が落ちる」
 
はっきりとした発音の、美しい声は少し意外だった。
 
「じゃあもう君はここには来ないの?」
 
焦るように問いかけた僕に、君は俯いた。
 
「それは……」
 
「ねぇ、名前は?」
 
返事に窮す君に向かって、話の流れからはほとんど関係の無い、けれどずっと聞きたかった問いを発すると、君は窺うようにこちらを見上げて、答えた。
 
「……アダム」
 
「僕はシンだよ。よろしく、アダム」
 
微笑んで手を差し出すと、君は真っ黒に汚れた自分の手を見て、一瞬躊躇したようだった。そんな君の様子に気づいていながら、僕は手を伸ばして君の右手を無理やり握った。もう八百屋には戻れない。そんなことを思いながらも、握り返してくれた感触が嬉しくて、僕は笑ったんだ。ねぇ、アダム。僕はあの瞬間知ったんだ。君が、僕の魂のもう半分を分け合って生まれた、大切な片割れだってことを――
 
僕が八百屋の丁稚を辞めて、この町で君と暮らし始めるまで、それほど多くの時間はかからなかったように思う。汚れを落として、清潔な衣服を纏った君は整った目鼻立ちをした美しい少年で、初めてその姿を見た時は息を飲んだ。一緒に食事をして、一緒に洗濯をして、一緒に眠るようになって。君は笑うようになった。泣くようになった。固く、艶やかな林檎を食む君の唇がその皮と同じくらい赤く色づいているのを見た時――僕はふと、泣きたくなった。ここに漂っているのは腐臭ではない、爽やかな、未だ瑞々しい果実の香り。僕にとって何よりも貴重で、かけがえのないもの。
アダム、僕はね。君が今でもあの香りの中で笑っていてくれるなら、後悔なんかしないよ。
 
 
~~~
 
 
目の前にある薄い唇に、燃えるような衝動を感じて口づけた。おまえは一瞬驚いたように黒い目を見開いたけれど、やがて瞼を閉ざして俺を受け入れた。その瞬間、俺は泣きたくなるような安堵と、深い絶望を感じたんだ。馬鹿じゃないのか、シン。拒んでくれればよかったのに。俺しかいないなんてそんな世界、おまえに与えたいわけじゃなかったのに――
 
今思えば、俺はおまえを楽園から深い闇の底に引きずり込んでしまったのだと思う。俺には何もなかった。両親も、生きる糧も、希望も。だけどおまえは違う。おまえには夢があった。生活があった。家族があった。それなのに、俺は全てをおまえに失わせてしまった。どうしてこんなことになった? 分かっている。俺が孤児で、おまえと同じ性に属しているからだ。
 
初めて出会った八百屋の裏口、あそこからやり直せたら。おまえは、黒い瞳に憐れみでも蔑みでもない表情を湛えて俺に林檎を差し出したけれど。俺は、あの林檎を受け取るべきじゃなかった。例え、寒空の下で野垂れ死んでいたとしても。
 
間違いはいくつもある。あの林檎を食べたこと、ひもじさに耐えかねて、二度、三度とあの八百屋に行ったこと。一番の過ちは、おまえに声をかけたことだ。餌付けをする馬鹿がいるから困るのだと、八百屋の主人に怒鳴られた時点でもうあそこを訪れるべきじゃなかった。それなのに、おまえが座り込んでいるから。赤くかじかんだ手で、袋を携えて佇んでいるから。声をかけてしまった。名前を告げてしまった。そうしたらもう――離れられなくなった。
 
「僕の家へおいでよ」
 
その言葉がどれほど嬉しかったか、きっとおまえには分からない。どこの馬の骨とも知れない俺と二人きりで暮らすことが、おまえにとって良い影響を及ぼすわけも無いことは知っていた。それでも、俺はおまえの手を取らずにはいられなかった。
 
「イヴになりたいな……。僕が、イヴなら良かったのに」
 
初めて他人と一緒に潜り込んだ、清潔なベッドの中でおまえは呟いた。
 
「シンは……シンでなきゃ意味がない」
 
ふるふると首を振った俺に、おまえは笑って俺の頭を撫でた。シン、おまえは何て沢山のものを、俺に与えてくれたんだろう。言葉も、感情も、思い出も、人として大切にしたいと思う全てのものを、おまえが、おまえだけが与えてくれた。おまえといるのは楽しかった。人生で初めての満ち足りた日々だった。そうしていつしか俺は、その優しい黒い瞳に、暖かな手に、不思議な胸の高鳴りを覚えるようになってしまった。
 
あの日、俺たちの関係が決定的な変化を起こした日。おまえは幸せそうに笑っていて、俺は哀しくて泣いていた。なぁ、シン。何で俺を受け入れた? 俺にはおまえだけだから、おまえを失うことを恐れたのに、おまえは俺のために自身が失われることを是としてしまった。そのことが、哀しいほどに分かりすぎて、切なくて、俺は――
 
 
~~~
 
 
「同性同士の姦淫は国教と国法において忌むべき大罪である。神を冒涜し、風紀を乱し、国に害為す異端者は即刻死罪に処すべし」
 
僕は顔を上げた。黒い服を着たいかめしい老人が何やらぼそぼそと呟いていた気がしたけれど具体的な内容は余り耳に入らなかった。国の掟なら知っている。今となっては馬鹿げたルールだ。僕の心は縛れない。僕の心を縛れるのは、アダム、君だけだ。君に出会って僕はそう感じるようになったけれど、君は違ったみたいだね、アダム。あの日から君は恐れるようになった。僕のこと、自分のこと、それから二人のことを。
 
ねぇ、アダム。だから君は、僕から離れていったの? だから君は、僕を――
 
 
~~~
 
 
「死刑は間も無く執行されます。被害者の立ち会いは許可されていますが、どうなされますか?」
 
無機質な印象を与える銀縁の眼鏡をかけた女が機械的に紡ぎ出した言葉に、黙ったまま頷いた。“被害者”という言葉が嗤える。被害者はシンの方だ。此処に佇む俺こそが、本当は死刑台に上るべきだった。どうでも良いと思っていたはずの国の掟が、重大な意味を持って俺にのしかかって来たのはシンと出会ってから。何にも縛られなかったはずの俺が、初めてルールを破ることへの恐怖を感じるようになった。シンを失うこと、その原因となる自分の想いと、この関係性への恐怖を――
 
いつか失うものなら、目の前で、今、俺の手によって……そう、思ったんだ。
 
 
~~~
 
 
ガラス越しに、君の顔が見える。相変わらず美しい、緑の瞳が僕を見つめる。幸せだよ、アダム。君に見送ってもらえる。最後まで君の、君のことだけを想って逝ける。愛してる、愛してるアダム。君に林檎を渡して良かった。君が飢えなくて、良かった。 
 
 
~~~
 
 
「シン……シンッ!」
 
黒い瞳が一瞬緩み、そうして光を失った。取り乱してガラス窓に縋る俺を、憲兵たちが両側から抑え付ける。
 
「俺も殺せ! おまえたちだって気づいてるんだろう! 彼一人で罪は成立しない。……俺だって死刑だ!」
 
愛してる、愛してるシン。俺には、おまえしかいなかった。……おまえしか、いなかったんだ。どうしてそれが罪なんだ? あの林檎を食べなかったら、俺は飢えて死んでいた。それを正しいと言う神なんか、俺を救ってくれるわけ無いじゃないか。
 
 
 
銃声が響く。世界は異分子を排除した。国は罪人を裁いた。愛する対象に満ちみちた人々の決めたルールが、愛する対象を一つしか見出せなかった少年を殺した。






後書き
  関連作:『映らない真実』・『Unexsist』・『その花の名は


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(一応)五万打記念。和中折衷異世界物、悲恋・・・?

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雲雀の鳴く声に、万凛(まりん)は目を覚ました。鉄格子の向こうに覗く空からは、一筋の光が差し込んでいる。
 
「また、朝が来た……」
 
どんな時も日は昇るものだ。自嘲するように微笑むと、肌蹴た夜着の前を合わせる。視界の隅に映る痣を、黒い瞳は無表情に見つめていた。連綿と続く五万(ごうま)の国の、第二十代皇帝にして初の女帝である彼女は、今囚われの身であった――
 
万凛は元々第十八代皇帝万樹(まんじゅ)の三女として生を受けた。運命が最初の転換点を迎えたのは、彼女が七つの年。父が死んだ。宴の席で突然血を吐いて斃れた理由は、彼の後を継いで第十九代皇帝に即位した弟・万貴(ばんき)により盛られた猛毒だったと言われている。
そうしてその万貴は、彼女の母まで奪っていった。好色で名を馳せた彼は前皇帝の妃たちに後宮を辞すことを許さなかった。ことに、美貌で名高かった万凜の母、深朱(みあけ)は慰留を求められ、皇女という地位を失った娘を泣く泣く手放さざるを得なかった。前皇帝の子女はことごとく辺境の地への流転を強いられ、万凜自身も貴族とは名ばかりの許婚を与えられてその領地へ赴くことになった。
 
「万凜、万凜、生きるのですよ、強く、強く……。母は、いつでもお前のことを思っています……」
 
涙ながらに己を抱きしめた母の細い腕の温もりを胸に、万凜は都を離れた。そうして、遥か果ての地で彼女に、一つの出会いが訪れる。紅橋(こうきょう)伯開唯(かいい)と名乗ったその少年は、彼女の許婚として用意された相手だった。穏やかな物腰に真摯な眼差し、誠実な態をもって皇女であった少女に仕えた彼は、その信頼と愛情を勝ち取った。
幼い万凜にとって開唯はただ一人の友であり、味方であった。また少年にとっても、突如現れた愛らしい少女はこの世でたった一つ守るべき宝となった。二人は想い合い、支え合い、共に野望を抱く同志となった。いつの日か万凛の父の仇を討ち、母を取り戻すという野望を――
 
「夢は所詮夢、か……」
 
呟いて空を見上げた万凜の表情(かお)が曇る。彼女の野望は現実となった。第十九代五万皇帝万貴はその姪によって皇位を追われ、万凜は女帝として即位した。だが、その時――彼女の傍らにいるはずだった開唯は、既に冷たい土の下に眠っていた。開唯は彼女を庇ったのだ。飛びかかってくる万貴の手から、彼女をその背に守って太刀を受けた。溢れ出るその血を、万凜は今でも忘れられない。
 
「開唯……」
 
愛したひと。決して忘れることのできない、失うべからざるひと。万凜は片時も手放すことのできない守り袋を握りしめた。幼き日、母と別れて都を出る際、母が持たせてくれたそれには母の髪と、そして今では故人となった開唯の遺髪が納められていた。
 
「此処でその名を呼ぶのはやめていただきたいと、何度も申し上げたはずですが」
 
人の気配のほとんどしないその牢獄のような部屋に、低い声が響いた。万凛は振り返る。視界の端に映ったのは、鷹のように鋭い目をした一人の男だった。彼こそが万凛をこの牢獄に閉じ込めた奸臣・左将軍五貞(いつさだ)。万凜が紅橋の地に開唯と共に在った頃から、彼女に仕え、その即位に一方ならぬ貢献を示してくれた有能な武人だ。その彼が何故このような暴挙に出たのか、万凜には負い目を感じるところもある。
 
「宮からの便りはまだか。皆が案じておろう」
 
それでも顔を上げて真っ直ぐにその瞳を見れば、五貞は鼻で笑った。
 
「何を今更。そのようなもの、届いていたところで私があなたにお見せするとお思いか?」
 
万凜は彼を睨んだ。傷つくことを知らぬ、強い、深い眼差し。五貞が真に忠誠を誓っていたのは、或いは亡き開唯であったかもしれぬ。初めはその開唯の臣として許婚の万凜を助け、その死後よるべなき忠義を万凜に捧げざるを得なかったのかもしれぬ。開唯の妻になるはずだった女として、彼の新しい主として、万凜は彼の理想通り凛としてたくましく、正しき皇帝のあるべき姿を示さねばならなかった。
だが万凜は……彼の期待を裏切ったのかもしれなかった。彼の課した試練に、施した罠に墜ちたのかもしれなかった。開唯が亡くなって以後、度々……万凜は、この忠臣と褥を共にするようになっていたのだから。
 
初めは無理やりであったのかもしれない。悲しみに堪え切れず、夜が来る度酒に溺れる万凜の元へ、五貞がしのんで来たあの日。
 
「こんなことをなさって亡き伯が喜ばれるとお思いですか、早くご自身のお幸せをお考えください――」
 
お決まりの科白を吐かれるものと思っていた万凜を、青年は無言のまま押し倒した。武人とは思えぬ優美な物腰を誇る五貞の周囲に艶聞の絶えぬこと、宮の女官たちがこぞって彼の出仕にさざめき立つことは知っていたが、万凜は目の前の現実に混乱し抗った。
 
「やめろ、嫌じゃ、五貞! わらわはあの方だけを愛しているのじゃ……他の者に身を許すなど耐えられぬ!」
 
「そこまでの覚悟がおありなら、一分の隙も見せられますな。あなたは余りに美しく、余りに脆い。一度だけでも私を、最後まで拒んでみると良い」
 
己の知らぬ力強い腕の中で、万凜は涙をこぼした。そうして、そんな夜が幾度か重なったその日、万凜が行幸した蓮華公荘で、左将軍は乱を起こしたのである。左将軍の軍は公荘を取り囲み、皇帝である万凜の身柄は五貞の手に落ちた。皇帝の身を人質に取られた皇宮は身動きが取れず、皇朝の実権は左将軍が握ったも同然の状態になっていた。
 
万凜はいつ殺されるとも分からぬ身、だが一方で五貞が決して己を殺すはずはない、と疑いもせず信じていた。矛盾である。五貞は確かに万凜を捕えた。謀反の後、万凜は皇宮への連絡は愚か誰とも――五貞以外の誰とも、口を利いてはいない。五貞は万凜をこの部屋へ閉じ込め、厳重な見張りを付けている。そうしてまた毎日欠かすことなくその部屋を訪れ、戯れのようにその腕に抱く。万凜はそんな日々に慣れつつある。
 
艶やかな美貌を謳われ、覇気に富んだ野心家でもあったはずの女がこうして囲い者のような扱いに甘んじるのか――人は嗤うだろう。或いは五貞は、そんな彼女の自尊心に火を付けたいのかもしれない。そう思うことすら自惚れだろうか。万凜は視線を宙に漂わせた。
 
「何を考えておいでですか……?」
 
かさついた武人の手が肌を滑る。嫌悪は感じなかった。開唯への想いは、少しも変わることなく万凛の胸の内に宿り続けている。だが五貞に対してもまた、理性で割り切れぬ感情が芽生えている。そうでなければとうにここから逃げ出していることを、女帝は確かに自覚していた。
 
「そなたの目的は何か、と思うての。わらわの過ちは何か、という問いでも良い。もしかしたら何も、間違ってなどおらぬのかもしれぬが……」
 
「あなたにとって最大の過ちは、紅橋伯(あのかた)を死なせたことだ」
 
俯いた女帝の震える唇を、五貞は捉えた。切れ長の目に激情が宿り、己れでも御しきれぬそれを誤魔化すかのように、五貞は紅い唇を貪った。救われぬことを、彼も彼女も解っていた。
 
事態が動いたのは、万凜が公荘に捉われて二月が過ぎたころのことだった。皇従兄万佳(まさよし)と、右将軍滝清(そうしん)の連合軍が蓮華公荘に侵攻したのである。数の上では無論、ましてや不当に皇帝を勾留している、との認識がある五貞軍の士気は低く、戦況は日に日に左将軍にとって不利なものと変化していった。当然、五貞が万凜の元を訪れる機会も減っていった。今や見張りは、思いつめた彼の部下から彼女を守るために五貞が残していったもののように、万凜には思われた。そんな哀れな見張りの断末魔の声が、彼女の耳に響く。もはやこれまで、と覚悟を決めた彼女の前に現れたのは、懐かしい従兄だった。
 
「陛下、よくぞご無事で……」
 
涙ぐむ万佳に、万凜は白い手を差し出した。我が身を省みず彼女を助けに来た彼に、皇帝として応えるべき道は他に無かったのだ。万佳の手に引かれながら、万凜は一度だけ振り向いた。二月――彼女が何も知らない、何も手にしていないただの女のように過ごしたその部屋を、感慨を込めて漆黒の双眸が射抜いた。苦楽を共にした忠臣との別れを、女帝は本能で感じていた。
 
反乱軍は右将軍により壊滅し、奸臣は公荘の広間にて斃れた。
 
「陛下、裏切るな。万凜さま、囚われてはならぬ」
 
それが、最後の言葉だった。誰に対して、何に対しての言葉なのか。矛盾は、余りにも大きすぎた。
 
「皇帝に望むものと、わらわに求めるものが乖離している。厄介な男だった……」
 
一度ならず情を交わした男に向けられた女帝の言は、或いは冷たいものであったのかもしれない。けれどその瞳が熱く潤む様を、傍らにいた皇従兄は見ていた。
 
「万佳、あなたに一つ頼みがある……酷な願いじゃ。我が子の父に、なってほしい」
 
美しい女帝は、静かな眼差しをその従兄に向けていた。皇族の中で只一人彼女の側についてくれた、亡き婚約者にも似た穏やかな眼差しを持つ清廉な若者に。万佳は頷いた。真実は必要ではなかった。彼自身が、少年の日から宿した想いに、誓った誠に嘘をつくことを厭うたから。
 
その後、第二十代五万皇帝万凜は皇従兄万佳を夫に迎え、一子を生した。だが玉のような男子を産み終えて後、女帝は産褥の床につき間もなく崩御してしまう。亡骸は、遺言により紅橋伯開唯の傍らに、ひっそりと葬られることになった――
 
「あなたの愛は、どこにあったのでしょうか、陛下……」
 
女帝の唯一の夫となった男は、許婚であった男と共に眠る妻に向けて呟いた。彼に残されたものは、父の役目と、後継の位。彼は今まで、正義の存在を信じていた。彼の愛の赴く先、彼の誠の証とそれが同一のものだと信じていた。だが溢れ出づる哀しみは、彼にそれが真実ではないことを教えていた。必要としなかったはずの真実の重みを、青年はそのとき初めて知ったのだった。






後書き
  番外編『真と誠


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やっとこさ遅ればせながらの四万打記念。百合、アンハピ・・・orz

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四万(しま)の一族は独特の風習を持っている。
それは、四万一族が女だけで構成された民族だということ。
恋愛も結婚も、男と交わることは一切が禁止されている。
ならば何故一族が続いてゆけるのか……? 
答えは簡単だ。連れてくるのだ。棄て子に孤児、お金があれば買うのも良い。
時には攫ってくることさえある。見目の良い、女の赤ん坊ばかりを。
 
「ただいま、美四(みよ)」
 
扉を開けて入って来たのは私の配偶者。
癖っ毛に大きな瞳が愛らしい万莉(まり)だ。
 
「おかえりなさい。ごはんは? 外で食べてきたの?」
 
「うーん……実はまだなんだけど……先にシャワーを浴びてくるわ」
 
食卓に上がった冷えた夕食をチラリと見て、万莉は私を通り過ぎて行った。
鼻先をかすめたのは仄かな煙草の残り香。万莉も私も、煙草なんて吸わない。
私たちの一族が住まうこの里に、煙草を置いている店は無いのだ。
私はそっと、万莉の消えていったバスルームへと続く廊下の暗がりを見つめる。
一族には男と交わることの他に禁じられている掟がもう一つ。
それは、配偶者以外の者と交わること。
私の配偶者である万莉は、きっと二重に罪を犯している。
罪人は長老の元で裁かれねばならない。罪人を庇った者は、等しく重い罰を受ける。
私はどうしたら良いのだろうか。
 
万莉は昔から、外の世界に憧れていた。
 
『お姫様を助け出す王子様は、いつも男の人なんだって!』
 
交易により持ち込まれた希少な異国の絵本を眺めながら、
彼女はよく私に言ってきかせたものだった。
私と万莉は幼い頃よりの許嫁だった。私の母と万莉の母が親しかったためである。
 
『いいなぁ、私も王子様に会ってみたいなぁ。
ねぇ美四、美四は外に行って、男の人を見てみたいと思ったことは無いの?』
 
『私? 私は無いわ……外の世界って怖いもの』
 
『美四は意気地なしねぇ。私はいつかここを出たいわ。
そうして本物の王子様を見つけるの!』
 
許嫁の私に向かい、そんなことを宣言していた万莉だ。
商売上知り合った男と、いつ駆け落ちしてもおかしくない。
私が万莉の裏切りを明かせば、万莉は処刑されてしまうだろう。
私が万莉と男の関係に目を瞑り続ければ、いつか彼女は行ってしまう。
私は幼い頃から万莉が好きだ。失いたくない……けれど、傍にいたい。
単純な我儘だ。こんなことのために、私の思考は堂々巡りを続けている。
 
「……美四、話があるの」
 
ぐるぐると考えを巡らせているうちに、万莉がシャワーを終えてバスルームから出てきた。
首に引っかけたタオルの上に雫が滴る、濡れた髪が艶めかしい。
 
「なに、万莉?」
 
告げられたセリフは、私に大きな衝撃を与えるものだった。
 
「できちゃったの、子どもが。どうしよう……!」
 
泣き崩れる万莉に、私は言葉を失った。
驚きに悲しみ、怒りに嫉妬、ありとあらゆる感情が、私の中を駆け抜けた。
 
『どうしよう美四、助けて。何とかしてよ……!』
 
幼き日の万莉の声が耳の奥で木霊する。
考えてみればこんな風に彼女に縋られるのはもう何度めだろう。
私たちは生まれてから二十を過ぎる今日まで、いつも一緒だった。
万莉はいつも私の先を行き、私が彼女を追いかける。
かと思えば万莉は進んだ先の道でつまずき、或いは惑い私を振り返って泣き縋る。
どちらが追っているのか……どちらが、愛しているのか。
そんなもの、とっくに答えは明白だった。彼女を縛り付けてきたのは、他ならぬ私自身。
一族の慣習、村の掟を言い訳にして――
 
「万莉、万莉はその子を産みたいの? 産んで、その子の父親と一緒に暮らしたい?」
 
私が真っ直ぐに万莉を見ると、万莉は泣きじゃくりながら顔を拭った。
 
「そんなの、分かんないよ……産んだら殺されるし、あたし死にたくないし……
でも彼とは、離れてるのもうやだ……!」
 
「大丈夫、私が何とかしてあげる。十月十日、とにかく万莉は外に出ないで。
無事に赤ちゃんを生むことだけ考えて……。皆には私が、話を付けておくから」
 
 
~~~
 
 
万莉の妊娠が判ってから七カ月目、彼女が産んだのは玉のような男の子だった。
赤子の泣き声が響き渡れば、当然周囲の家々にも出産が知れる。
村の者には絶対にあってはならぬ、異性との交わりの証が。
 
「万莉と美四の家から赤子の声が聞こえた」
 
「裏切り者はどちらか!」
 
「赤子諸共、殺さねば!」
 
家を取り巻く村人たちの中に、家中から姿を現したのは美四だった。
 
「一族の掟に背き、男と交わったのは私です。子どもは男子でありましたので、
たった今、私の配偶者である万莉が山へ捨てに行っているところでございます。
どうぞこの隙に、私の処罰をお決め下さいませ」
 
皆に向かって頭を下げる美四の視線は真剣そのもの、何者も異論を唱え難い気迫に満ちていた。
本当は皆知っていた。配偶者の不実に耐える美四の姿を。
十月十日、誰ひとりとして見かけることの無かった万莉のことを。
その間美四が、懸命に妊婦の好みそうな貴重な果実を集め、
「体調が悪い」万莉を必死に労わっていたことを。
それでも、それが彼女の望みと言うなら――
 
「良かろう、そなたを裁く。男との交わり、配偶者への裏切り、そして出産……
三重の、極めて重い罪ぞ? 良いな? 美四」
 
群衆の背後から現れた長老の厳かな声に、美四は涙を流して頷いた。
 
「はい、はい長老様。私はこれで幸せです。……ですから、どうか」
 
「皆まで言うな。仮にお前の赤子を捨てに行った万莉が道に迷い返ってこなかったとしても、
それは仕方のないこと。お前の裁判で忙しい村の衆は構っている場合ではない。
それは当然、了承していただけような?」
 
「はい……はい、ありがとうございます、長老様」
 
美四は手の平を合わせて長老を拝んだ。
ああ、これで万莉はこの村から解放される! 彼女の願いを叶えられる!
私の誰よりも愛する人が、幸せを手に入れるのだ!
裁判で取り決められた火刑の台にくくりつけられるその瞬間も、美四は幸せに酔いしれていた。
配偶者に裏切られ、濡れ衣を着せられながらも微笑む女の死の間際を、
村の女たちは気味悪げに見守っていた。
 
 
~~~
 
 
「どうして……美四?」
 
美四の手筈通り村を抜け出し、赤子を連れて恋人と落ち合った万莉は、
故郷に最後の別れを告げるため恋人の反対を押し切って村のすぐ傍の木陰に潜んでいた。
何という巡りあわせか、折しもその日は美四の処刑当日であった。
かつて己が愛でた美四の白い肌が汚れ、
粗末なボロ布を巻いた細い身体が火刑台に縛り付けられている。
何故だ――? 本来あそこにいるべきは自分だった。
美四は言ったではないか、『上手くやる』と。
その時になって初めて、万莉の中にどうしようもない美四への想いが溢れた。
嫌いだったわけではない。恋人とも腹を痛めて産んだ我が子とも違う。
ただこの世で一番に、己を解ってくれる存在だと思っていた。信じていた。甘えていた。
では美四は……どうだったのだろう?
初めて“外”の世界に忍んだ時、安請け合いで受けた喧嘩、そして妊娠――
全て全て、『どうしよう』と瞳を潤ませてみせれば美四は必死に尻拭いをしてくれた。
揚句の果てに命を張って――
美四が一体自分にどんな気持ちを向けてくれていたか何て、気づかない方が馬鹿だった。
美しく聡明な許婚。本当は自慢だった。王子様に憧れると同時に、
いつか王子様が美四を見つけ出して己の前から攫って行ってしまうことが不安だった。
だから、自分が先に王子様を見つけてしまえば寂しくないと思った。
美四の王子様と、万莉の王子様と、四人で仲良く――
そんなこと、出来るわけがないと解っていた。
 
だって私は、美四を独占したかった!

万莉の内から叫びがこぼれる。
 
許婚になったのだって、私の方から美四のお母様に頼みに行ったのだ。
正式な婚儀が済んだ後は、毎日家にいてくれる美四の存在が嬉しくて堪らなかった。
どうして忘れていたんだろう。どうして伝えなかったんだろう。
ああ待って、その台に火を付けないで!
美四が死んでしまう、耐えられない、私の心が壊れてしまう!
酷い、酷いわ美四、ずっと私の傍にいてくれるって、四万回の指切りをしたじゃない!
どうして私を裏切るの!? どうして私から離れていくの!?
火に巻かれた美四は微笑っている。心なしか、こちらを見つめて。
 
「裏切り者は、あなたの方でしょう? 万莉」
 
どこか遠くで、そんな声が聞こえた。





後書き


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和風?領主と側室の話。

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津志国の領主、忠信には寵愛する側室がいた。
お幸という名のその娘は、領主の家に代々仕えた重臣の娘で
忠信の幼馴染であった。お幸は父親を亡くしていた。
家は断絶となり、行き場を失くしたお幸を忠信は側室として城に迎えた。
二人が数えで十五の年を迎えるころのことであった。
忠信は思った。「お幸が誰の元にも嫁がず私の側室となることを
承諾した訳は、残された家人の窮状を救うために違いない」と。
お幸は考えた。 「殿がわたくしを引き取って下さったのは、
家を失った友を哀れんでのことに違いない」と。
すれ違う想いは消えること無き負い目となり、二人の心を苛んだ。
 
やがて、二人の間に一人の娘が生まれた。
お夕と名付けられたその娘は、生まれつき目が見えなかった。
元より身体の弱かったお幸は、その出産により二度と子を生めぬ身体に
なってしまった。けれども忠信は、その娘を溺愛した。
たった一人の側室と、たった一人の不具の娘。
二人のみを寵愛し、いつまでも正室を持とうとしない主に臣たちは業を煮やした。
 
「お幸様からも殿に一言ご意見を」
 
城中を取りまとめる長老からそう告げられ、お幸は涙ながらに訴えた。
 
「お願いです、ご正室を娶られて、一刻も早くお世継ぎを生されませ。
そうでなくては、わたくしもお夕も、とても心穏やかには過ごせませぬ」
 
忠信は迷っていた。正室に害された側室の例は数多くある。
もし迎えた正室がお幸と娘のことを快く思わなかったなら……。
けれどお幸の涙を見て、彼はようやく重い腰を上げることに決めた。
長年敵対していた隣国の姫君との見合いを受けることにしたのである。
 
 
~~~
 
 
「あなた様には随分と大切になさっているご側室と娘御がおられるとか。
お一方を大切に出来るお心は素晴らしゅうございます。おそらくは余程
美しく賢い女人なのでしょう。わたくしも是非お会いしてみたいものですわ」
 
隣国の姫は、ほがらかに笑って忠信に告げた。月のように清廉な輝きを
放つお幸とは違い、花がほころんだように微笑む可愛らしい姫だった。
 
「結婚が成った暁には両国の間に戦も無くなり、民草にも平穏な日々が訪れましょう。
わたくしは末永き和平を望んでいるのです。あなた様もそうお思いになりませんこと?」
 
忠信の師でもあったお幸の父は戦場で死んでいた。
忠信も、お幸も戦の無い世を願っていた。
何よりは、愛しい娘を戦の道具として使わぬために。
志を同じくする姫の言に、忠信は彼女を正室として受け入れることを決めた。
 
 
~~~
 
 
正室としてやって来た隣国の姫は、その華やかな微笑みと快活な態で城中を虜にした。
側室であるお幸やその娘にも少しも辛く当たることなく、和やかに接した。
忠信は、次第に正室へ惹かれていった。お幸や娘への愛情が衰えたわけでは
なかったが、「子を生さねばならぬ」手前どうしても正室への訪いが増えていった。
お幸と娘は城の隅でひっそりと日々を過ごすことになった。
 
そんなある日のことだった。
お幸が偶然通りかかった城の廊下で、忍に文を渡す正室の姿に出会ったのは。
 
「わたくしが殿の子を生んだ後に殿が亡くなれば、この国は我が一族のもの。
最も、それ以前に父上が攻め込まれるというのならば話は別ですが……」
 
お幸は全身に震えが走った。焦りに任せて忠信にことのあらましを伝えたお幸に
返って来たのは非情な返事だった。
 
「御台を妬む気持ちは解るが……あれは気の優しい娘だ。そなたとて知っておろう?」
 
「けれど、わたくしは本当に……!」
 
「くどい! 父を亡くし、子も生せぬそなたが此処で暮らしていけるのは誰のおかげだ!?
私自ら迎えた正室を愚弄しようというのか!?」
 
忠信の激昂に、お幸はそれ以上言葉を紡げなくなった。
その後城中では側室の元に主の訪れはほとんど無くなり、
正室の権威のみが日に日に上がっていった。
お幸は盲目の娘と二人、日々を部屋に閉じこもって過ごした。
 
「おかあさま、おゆうはおとうさまにおあいしとうございます。
ちかごろはおしごとがおいそがしいのでしょうか?」
 
幼い娘の言に、お幸は哀しく笑って額を撫でた。
 
「ええ、お父様はお忙しくていらっしゃるから……。
でも大丈夫、お夕が良い子にしていたら、きっと会いに来て下さいますよ」
 
 
~~~
 
 
そんな日々が続いて半年。正室が念願の懐妊を迎えた。
腹の子が男児であれば、殿は殺されてしまうのではないか……?
お幸が戦々恐々としながら日々を過ごしている頃、正室より茶の招きがあった。
 
「儂もあの御台様は好きませぬ。お幸様、いざという時にはこれをお使い下され」
 
家臣の一人から渡された薬を懐に、お幸は茶の席へと出向いた。
 
「お幸様は母としてわたくしよりも経験が豊富でいらっしゃる。
分からないことがあれば、何かと頼りにさせていただきとうございます」
 
ゆったりと微笑む正室の姿に、お幸は懐の薬を取り出すことは出来なかった。
ところが。
お幸が何も混ぜることの無かった茶碗に一口口を付けて、正室が倒れた。
血を吐いて事切れた彼女の身体を抱きかかえて、お幸に薬を渡した男が叫んだ。
 
「お幸殿、茶の中に一体何を混ぜられた!? いくらご自分のお立場が
危ういからと言って……御台様は殿のお子を身ごもられていたのですぞ!?」
 
お幸は己が謀られたことを知った。彼女の身は薄暗い牢獄へと移され、
娘とも引き離された。姫を殺された隣国はお幸の処刑を望んだ。
そうしなければ己が国への裏切りと捉え、津志国へ攻め込むと。
けれど忠信はそれだけは出来なかった。彼は、その鬱屈をお幸へとぶつけた。
 
「何故御台を殺したのだ!? お前があのようなことさえ起こさなければ、
全てはお前とお夕のためであったものを!何故だ、何故……!?」
 
己を責め苛む主に、お幸は何も答えなかった。お幸は絶望していたのだ。
己を信じてはくれぬ忠信に……主に、友に、夫に。
 
 
~~~
 
 
津志国は滅びの時を迎えようとしていた。
姫を殺されたことを大義名分に攻め入って来た隣国に、ひとたまりも無かった。
いよいよ城にも戦火が及ぼうかという時、忠信は娘を連れて牢獄を訪れた。
 
「お夕は臣下に頼んで逃がすことにした。
おそらくはこれが最後であろう。……そなたも、共に逃げよ」
 
お幸は目を見開いた。
 
「何をおっしゃいます……この戦の因果を生みだしたのは一体誰かおわかりですか!?」
 
お幸の言に、忠信はふと微笑んだ。
 
「巷の噂では……そなたは傾国と呼ばれておる。そなた一人を処刑すれば、
我が国の民はこのような戦に巻き込まれることは無かったのだから」
 
「それが解っていて、どうして……!」
 
お幸は俯いて唇を噛んだ。
 
「気づいたのだ。私は、何があってもそなただけは殺せぬ。
そなたは私が唯一人愛した女。私が愛した女が、私に嘘など付くはずが無い。
……いいや、例え欺かれていたとしても、私にお前を憎めるはずが無い。
だから、私は信じることにしたのだ。おまえが、他人を殺して平気でいられる訳が無い。
私を、お夕をこれほどに愛してくれたそなたが、私たちを裏切ることなど有り得ない、とな」
 
「殿……」
 
頬に当てられた骨太の手に、お幸は白い指をそっと重ねた。
 
「そなたには何も罪は無い。全ては私の愚かさ故。本当に守りたかった
ものを見失った濁った瞳の故。だからそなたは、そなたと夕は生きろ。
お前たち二人は、私に唯一残された守るべきものなのだから……」


~~~
 
 
城を落ち行く二人の姿を見送って、忠信は天守へと登った。
全てが見渡せるその高みで、己が罪をその瞳に焼きつけながら最期を迎えるために。
しかして天守の上には一人の女の姿があった。
女は、先刻愛娘と共に送り出したはずのお幸だった。
 
「何故……何故そなたが此処にいるのだ!? お幸!」
 
「殿……忠信様。わたくしは大切なことを伝え忘れておりました」
 
呆然として叫ぶ忠信にお幸は儚げに微笑んだ。
 
「愛しております、忠信様。幼き日より今日まで、片時もお傍を離れたくないほどに
わたくしはあなたを想い続けてまいりました。
あなたがいらっしゃらない世界で、どうしてわたくしが生きていけるとお思いですか?
お夕は信頼できる乳母に預けてまいりました。どうか“今度こそ”わたくしを共にお連れ下さい」
 
頬に触れる柔らかな指に、忠信の脳裏に幼き日の出来事が過ぎった。
 
幼い忠信は山奥の洞穴に咲く美しい花を、お幸のために持って帰った。
喜んだお幸は、「もっと沢山この花を見たい」と洞穴への案内を望んだ。
けれど忠信は、決してその場所にお幸を連れ行くことは無かった。
危険な山道、獣や崖、どんなことで大切なお幸が傷つくか分からない。
だから、お幸に頼まれるたびに自ら洞穴に赴き一輪だけ花を持ち帰った。
お幸がすぐに枯れてしまうその花を、病床の母のために望んでいた、
と知ったのは彼女の葬儀に出てからだった。
お幸のうなだれる姿に、忠信は初めて後悔という言葉を学んだ。
どれほど危険な道でも、彼女が望むなら連れて行けば良かった。
自分が、守ってやれば良かったのに。
 
忠信は瞳を閉じて、記憶の中の己の叫びを聞いた。
 
「お幸……そなたを信じきれなかった私だ。共に逝くことに、後悔は無いか?」
 
「ございません。殿は……最後にはわたくしを信じて下さいました。
それに、わたくしも気づいたのです。わたくしが殿を愛していることに。
信じていることに。愛することとは信じることではございませんか?
わたくしは殿に身をもって教えていただきました。
ですから、生も死も、全てをあなたと共にしとうございます。
これはわたくしの身勝手な願いです。けれど……叶えては、いただけませぬでしょうか?」
 
「お幸……」

首を傾げて微笑むお幸に忠信はただ俯いて一筋の涙を流した。
その瞬間、彼は女の願いを叶えることに決めたのだ。
たった一人信じた、たった一人愛した傾国の女の願いを。


 
そうして、主に首を切られた『傾国』と
その傍らで腹を裂いた『色狂い』の醜聞は生まれた。
やがて醜聞は伝説となり、人から人へと流れ行く。
盲目の女領主が治める彼の地に息づく、悲しき恋の物語へと姿を変えて。





後書き


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江戸末期風掌編。悲恋です。
以前デンパンブックス様『あのひと』に掲載していたものを加筆修正致しました。

拍手[8回]


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青天に浮かぶ、真白な雲。雲の如く透き通り、雲の如く儚い。
そんな想いを、私は知っている。


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「高江の方様には何と?」

「子らを立派に養育せよ、と」

「お鶴様には何と?」

「今後については万事手配したゆえ安堵いたせ、と」

「……透宮(とうのみや)様には何と?」

「……何と言えば、良いのだろうな」
 
薄暗い牢獄の中、寂しそうに呟いた横顔が、私の中に残る主の最後の面影。
西の帝との長きに渡る戦に破れ、己の命をもって過去を清算しようとする主と、
その最期の言葉を承るという名誉とも屈辱ともつかない役目を申し付けられた私。
それでも、幕府(こちら)側の者に最期の遺言を託すことを許したのは
敵であった西の帝の最後の温情と捉えるべきなのだろうか。
鉄の格子を挟んで己が主と向かい合うことになろうとは、夢にも思わなかった。
上様のお言葉を、書き留めることは許されていない。
そのため私は必死に上様のお声を、お姿を、仕草の一つですら
決して忘れることのなきよう、遺言を残される方々に寸分違わず
お伝えすることが出来るよう、しっかりと脳裏に焼き付ける。
思えば下級武士の一人に過ぎない己が真に主の役に立ったと言えるのは、
この瞬間だけであるかもしれない。後々私はその時のことを思い返し、自嘲した。

重臣たち、側仕えの小姓、嫡子の生母、一番の寵妾。
それらの人々に向けて、滑らかに紡ぎ出された言葉を、一言、一言反芻する。
上様は、まるでそれで全ての言葉は託したとばかり、
口をつぐんだまま黙り込んで俯いておられた。
朝廷(あちら)側より制限された時間が迫り、私の額に汗が滲む。
まさか、あの方(・・・)にご遺言を残されぬまま逝かれるわけにはゆくまい……。
最後にたった一人残されたご遺言の相手、上様の正室・透宮静子(しずこ)姫。
東と西の争いを鎮めるため、東の将軍である上様の元に嫁いできた、西の帝の姫。
お二人の夫婦仲は、『極めて悪い』とされている。
透宮様が上様の正室として迎えられてから、既に七年。
その間、彼は側室達との間に五人の子を生し、また身分の低い娘を城に招いて寵愛した。
正室の元に上様の訪いは無く、また公の場で将軍夫妻が並ぶ時も、二人の間に会話は無かった。

「上さ……」

「お時間でございます」

焦れた私が主の背中に呼び掛けた声は、看守の無情な声音に掻き消されてしまった。


~~~

 
西の(みやこ)の牢獄を追い出され、竹の柵越しに主の最期を見届けてから、急いで馬を駆った。
目指すは、上様と私の故郷である東の都。
上様が誰よりも大切に想っておられた方が、
きっと今もじっと堪えて主のお言葉を携えた私を待っているであろう、東の城。

きっと、上様は。
町娘を母に生まれ、将軍家の縁の端に連なるだけの、僻地の分家で育てられたあのひとは。
“生粋の姫宮”である透宮様への接し方が、分からなかっただけだったのだろう。
だってあのひとはあんなにも。
看守に追い立てられる私に向かい、愛しそうに、切なそうに呟いたのだ。

『……すまぬ、幸せに、と』

それが誰に向けられた言葉であるのか、分からぬほどの野暮ではない。
あの方の元に、行かなければ。誰よりもまず先に、伝えなくては。
その一心で、私は必死に馬を駆けた。


~~~


やっとの思いで東の城に帰りついてみれば、既に城中は人影もまばらであり、
上様の側室も寵妾たちも、皆城を去った後だった。このようなとき、女子(おなご)は冷たい。
面倒事に巻き込まれぬよう、あっという間に手の平を翻し、
また新たな養い手の元へと姿を消してしまうのだ。
そんな中で、不安を抱えながら窺い見た将軍正室の離れのみが、閑散とした城の中で
ただ一つ穏やかな輝きを放っていることに、私は小さな安堵を覚えた。
透宮様は西の帝の姫。例え西の軍勢に攻め入られても、手荒な扱いを受けることは決してない。
その関係性を考えれば、そうして彼女が城に残っている事実に何ら不思議は無かったとしても。

 
~~~


存外に質素な風情の部屋の中で、傍らに一人の若い侍女を従え、
ゆったりと脇息にもたれる透宮様の姿は、一幅の絵のように美しい。
まるでそこだけが、戦とは無関係の別世界であるかのように。

「上様の、ご最期は……?」

快く私を迎え入れた透宮様が真っ先に尋ねてきたのは、
己が父の命じた夫の最期の様子だった。

「ご立派な最期でした。
上様は最後のときまで真っ直ぐに、前を見据えておられました」

と答えれば、彼女は安心したようにゆったりと息を吐いた。

「それはようございました」

人の生死の話をしているとは思えない、優雅で柔らかな西の姫の物腰。

「透宮様に、『すまぬ』と。『幸せに』と、おっしゃっておいででした」

震える唇で言葉を紡げば、透宮様は涼しげな目元を見開いてこちらを見つめ直した。

「……上様は、透宮様を、深く想われておいでだったのですね」

と告げる私に、透宮様は静かに笑ってみせた。
今にも泣き出しそうな、どこか嬉しそうな、優しく哀しい微笑みだった。


~~~


『透宮様自害』の報を受けて同じ離れに駆け入ったのは、その翌日のこと。
前日透宮様の脇に控えていた侍女がたった一人、
褥の上に横たえられた美しい亡骸の傍に呆然と座していた。

「姫様はいつも、上様は良い方だ、とおっしゃっていました」

侍女は一瞬私の姿を認めると、すぐに元の如く視線を虚空に逸らし、
誰に言うともなしにぽつりぽつりと語り出した。
まだ年の若い、小奇麗な印象の娘の憔悴しきった姿が、胸に沁みた。

「私が『仮にもご正室というお立場でお迎えしておきながら、全くこちらへの
お渡りがないのは失礼ではありませんか!』と上様の陰口を叩くと、
いつも私を窘められて、『いいえ、良い方よ。私の旦那様ですもの』と」

侍女は声を震わせてすすり泣く。

「姫様は、馬鹿です。『妻が夫につき従うは当然のこと』と。
私がいくらお止めしても、お聞き下さらなくて。最初から、決まっていたのに。
姫様が嫁ぐ前から、帝は将軍を追い込むおつもりであられたのに。ご自身の
降嫁ですら、幕府を油断させるための策略に過ぎないと知っておられたのに。
西の京に、上様亡き後の再嫁先も、お決まりでいらしたのに……!」

くず折れる女の言葉に、口の中がカラカラと乾いてゆくのが分かった。

上様が七年もの間、透宮様に手を触れなかった理由。
不器用だっただけではない。知っていたのだ。
彼女がいずれ、西に帰るであろうことを。己と、幕府が迎えるであろう最期を。

何と言う想いだったのだろう、二人の間に生まれたものは。


~~~


「幸四郎様、いってらっしゃいまし」

「ちちうえ! いってらっしゃいましぃ!」

手を振る妻と子を振り返り、微笑みを返す。
一歩外に出れば、無限に広がる青空に、寄り添う雲が二つ。
眩しい思いで、それを見上げた。


~~~


あの日、透宮様の亡骸の前で、彼女は己の喉元に懐剣を突き立てようとしていた。
気がつけば私は必死に、女の手から懐剣を振り払っていた。

「……死んではならぬ。死んではならぬ!」

叫ぶ私を、女が鋭く睨みつける。

「私は姫様に拾われて育ったのです! 幼き日よりずっと、
ずっと姫様のお傍近く仕えさせていただいたおかげで、今があるのです!
……っ、姫様がおられなくては、生きていく意味がございませぬ!」

「ならば私と夫婦(めおと)になろう。上様と透宮様、
お二人がこの世で得られなかった幸せを……我らが、代わりにっ……!」

泣きじゃくる女を抱き締めながら、己の頬も涙で濡らしながら、
知らず叫んでいた言葉が、互いの主に届いたのだろうか。

共に暮らし始めて十年。穏やかで優しい時が、今の私を暖かく包みこんでいる。

祈りは、天へ。白き雲に手を合わせ、私は道を急ぐ。想いが、幸せに変わるように。




 
後書き
 


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