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「真(まこと)と誠は重ならないのだと、そなたは知っているか?」
女帝万凜の花のような唇からこぼれ落ちた言葉に、跪いていた皇従兄万佳は顔を上げた。
「正しいことが常に正しいとは限らない……いや、正確に言えば、己が正しいと信じていることが相手にとっての最善ではない、ということか。昔、よくわらわはそう諭されたものじゃ……」
今や皇冠を戴く身となった従妹を諭すことが出来る唯一人の男を、万佳は知っていた。紅橋伯開唯。万凜の許婚だった男。その身を守って凶刃に倒れた、哀れな若者。万佳が眼前に座す美しい従妹と深く関わりを持つようになったのは彼女が即位してからのことで、その頃には既に故人となっていた開唯に対し、彼自身の面識はほとんどなかった。それが、故人の思い出を語るには返って気安かったのかもしれない。
紅橋時代から女帝に仕える者たちは、不自然なまでに開唯の名に触れない。皆が皆、知っているし、傷ついている。女帝と婚約者が如何に睦まじかったか、尊敬に値する主の片割れを失ったことがどれほどの悲しみか――だからこそ、万凜は彼を知らない従兄の前で唯一、彼を偲ぶことができるのかもしれなかった。
「わらわが何故正しいことをしているのに駄目なのか、と問うと生真面目な表情(かお)で
『姫様はいつも正しくていらっしゃいます。けれど、正しさが時に鋭い刃となって心を抉ることをお知りおき下さい。姫様にとって真であることが、その者にとっての誠ではないことが、往々にして在るのです』
と偉そうに講釈を垂れられたものじゃ」
女帝は哀しそうに微笑んだ。
「けれど陛下はそれが、お嫌ではなかったのでございましょう?」
少し目尻を下げた従兄の問いに、彼女は苦笑混じりに頷いた。
「聞けなくなってしまってから、初めて思い出すこともある。今になってようやくわらわは、その意味を知れた気がする」
真っ直ぐに心を射る、漆黒の双眸に、万佳は唐突に胸が苦しくなった。これほどに強く、艶やかに成熟した万凜の姿を、故人は二度と見ることができないのだ。彼がいたから、彼女の現在(いま)がある。彼の助け、彼の愛、彼の誠……そして、彼の死。全てが女帝の覇と美をかたちづくり、彩る素材であり、肥しであった。
「……もしかすると、万佳、わらわはあの方を真の意味で愛してなどおらぬのかもしれぬ」
無造作に頬杖をつきながらこぼれ落ちた言葉は、一人夢想していた万佳を驚愕させた。
「陛下!」
目を見開いたまま、思わず声を出すと、万凜は視線を逸らし、自嘲した。
「だがあの方を愛することが……愛していると信じることが、わらわの誠なのじゃ。幼い頃より今に至るまでずっと……それだけが、わらわをわらわとして立たせてくれた。誠とは、そうしたものでは無いのか……?」
否と告げる権利は、万佳には無かった。またその勇気も、彼は有していなかった。万佳は恐ろしくなったのだ。もし、開唯への愛を否定することで万凜が万凜でなくなってしまったら――彼が敬う賢しき主も、彼が愛する美しき女性も、全て幻と消え失せてしまうのではないか、との埒も無い不安の嵐が、彼の胸の内に急速に生まれたのだった。
「境目が判らぬもの、いえ、存在すらしないものが、世の中にはいくらもございます。答えを出す必要のない問いも、あってしかるべきものと私は考えますが……」
かろうじてそれだけを紡いだ従兄の穏やかな瞳を、万凜は遠く離れたものを懐かしむような目で見やった。
「ありがとう、万佳。あなたは、優しいな……」
告げられたその言葉が、万佳の胸に深く刺さった。
正しいことは刃になる。それと同様に、偽りもまた。それでも、目の前の女性(ひと)に束の間の慰めを与えられるのであれば――己が傷つくことは厭わない。この唇は何度でも、嘘を紡ごう。この瞳は何時でも、瞼を閉ざそう。
固く決意した彼のそれは、間違うかたなき彼自身の誠であった。
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「真(まこと)と誠は重ならないのだと、そなたは知っているか?」
女帝万凜の花のような唇からこぼれ落ちた言葉に、跪いていた皇従兄万佳は顔を上げた。
「正しいことが常に正しいとは限らない……いや、正確に言えば、己が正しいと信じていることが相手にとっての最善ではない、ということか。昔、よくわらわはそう諭されたものじゃ……」
今や皇冠を戴く身となった従妹を諭すことが出来る唯一人の男を、万佳は知っていた。紅橋伯開唯。万凜の許婚だった男。その身を守って凶刃に倒れた、哀れな若者。万佳が眼前に座す美しい従妹と深く関わりを持つようになったのは彼女が即位してからのことで、その頃には既に故人となっていた開唯に対し、彼自身の面識はほとんどなかった。それが、故人の思い出を語るには返って気安かったのかもしれない。
紅橋時代から女帝に仕える者たちは、不自然なまでに開唯の名に触れない。皆が皆、知っているし、傷ついている。女帝と婚約者が如何に睦まじかったか、尊敬に値する主の片割れを失ったことがどれほどの悲しみか――だからこそ、万凜は彼を知らない従兄の前で唯一、彼を偲ぶことができるのかもしれなかった。
「わらわが何故正しいことをしているのに駄目なのか、と問うと生真面目な表情(かお)で
『姫様はいつも正しくていらっしゃいます。けれど、正しさが時に鋭い刃となって心を抉ることをお知りおき下さい。姫様にとって真であることが、その者にとっての誠ではないことが、往々にして在るのです』
と偉そうに講釈を垂れられたものじゃ」
女帝は哀しそうに微笑んだ。
「けれど陛下はそれが、お嫌ではなかったのでございましょう?」
少し目尻を下げた従兄の問いに、彼女は苦笑混じりに頷いた。
「聞けなくなってしまってから、初めて思い出すこともある。今になってようやくわらわは、その意味を知れた気がする」
真っ直ぐに心を射る、漆黒の双眸に、万佳は唐突に胸が苦しくなった。これほどに強く、艶やかに成熟した万凜の姿を、故人は二度と見ることができないのだ。彼がいたから、彼女の現在(いま)がある。彼の助け、彼の愛、彼の誠……そして、彼の死。全てが女帝の覇と美をかたちづくり、彩る素材であり、肥しであった。
「……もしかすると、万佳、わらわはあの方を真の意味で愛してなどおらぬのかもしれぬ」
無造作に頬杖をつきながらこぼれ落ちた言葉は、一人夢想していた万佳を驚愕させた。
「陛下!」
目を見開いたまま、思わず声を出すと、万凜は視線を逸らし、自嘲した。
「だがあの方を愛することが……愛していると信じることが、わらわの誠なのじゃ。幼い頃より今に至るまでずっと……それだけが、わらわをわらわとして立たせてくれた。誠とは、そうしたものでは無いのか……?」
否と告げる権利は、万佳には無かった。またその勇気も、彼は有していなかった。万佳は恐ろしくなったのだ。もし、開唯への愛を否定することで万凜が万凜でなくなってしまったら――彼が敬う賢しき主も、彼が愛する美しき女性も、全て幻と消え失せてしまうのではないか、との埒も無い不安の嵐が、彼の胸の内に急速に生まれたのだった。
「境目が判らぬもの、いえ、存在すらしないものが、世の中にはいくらもございます。答えを出す必要のない問いも、あってしかるべきものと私は考えますが……」
かろうじてそれだけを紡いだ従兄の穏やかな瞳を、万凜は遠く離れたものを懐かしむような目で見やった。
「ありがとう、万佳。あなたは、優しいな……」
告げられたその言葉が、万佳の胸に深く刺さった。
正しいことは刃になる。それと同様に、偽りもまた。それでも、目の前の女性(ひと)に束の間の慰めを与えられるのであれば――己が傷つくことは厭わない。この唇は何度でも、嘘を紡ごう。この瞳は何時でも、瞼を閉ざそう。
固く決意した彼のそれは、間違うかたなき彼自身の誠であった。