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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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長くなってしまったので分けます。本当は『花に砂』と対で書きたかった・・・orz

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週に一度、砂の一族の女たちは一堂に会す。族長夫人(ハトン)であるサキを囲み、時には皆で糸を紡ぎ、時には粉を引き、時には髪結いや化粧の仕方について年長の者が若い娘に指導する機会もある。女たちにとって数少ない楽しみは、同時に子女の縁談や小規模の商談が取りまとめられる貴重な社交の場でもあった。男たちは日々野に繰り出し、羊を追い獣を狩るが、里の中のことを決める役割は実のところ女たちに大きな権限があった。
メイもその集まりに招かれてはいたものの、“余所者”であることとハーンの実弟であるカサルの預かりになったことへのやっかみも相まって水に浮いた油のように周囲の者からは敬遠され、一人隅に腰掛けて黙々と針を刺していた。そんな彼女に声をかけたのは、やはり自らも“余所者”であったハトン・サキだった。人の輪を掻き分けてメイの前に進み出たサキは、その手元を覗きこんで一瞬目を見開くと、にこりと笑ってこう告げた。
 
「メイさんは刺繍がお上手ね。この鮮やかな花の文様、とても懐かしい……」
 
メイは驚いてサキを見た。
 
「とんでもない、ハトンこそ、先ほどから遠目にも分かるほど鮮やかなお召し物(デール)を縫われておいでのご様子でしたが……」
 
慌てて応えたメイに、サキは少し寂しそうに微笑んだ。
 
「わたしも、初めはこんな服の作り方なんて知らなかったわ。わたしは元々華の国の生まれだから……でも今は、その文様の刺し方を忘れてしまった」
 
若く雄々しきハーンに愛され、明るく華やいだ印象を持つ彼女の放った言葉が意外で、メイは布地に落としていた顔を上げた。
 
「ねぇ、メイさん。この文様の刺し方をわたしに教えて下さらないかしら? 代わりにわたしは、あなたにデールのことを色々と教えてさしあげることができると思うの。どうかしら? 御迷惑でなければ……」
 
サキの提案に、メイはハッとして彼女の瞳を見返す。ハトンは気づいていたのだ、メイが一族の女たちに爪はじきにされ、所在なげに佇んでいたことを。
 
「はい、ハトン。願っても無いお申し出、ありがたく存じます……」
 
頬を染めながらメイが頷けば、サキの顔には花のような笑みが広がった。
 
それから、メイは毎日のようにハトンから家(オルド)に招かれるようになった。翠の国の人質だったメイと、華の国から売られてきたサキ。互いの立場への共感が、絆となって二人を繋いだ。サキは初めて出来た気兼ねなく付き合える同世代の友人に喜んだし、メイは自分と同じような辛酸を嘗めながら素直さを失わないサキを貴重な存在に感じていた。
 
サキと親しくなればなるほど、メイと共に暮らすカサルとの関係も少しずつ変わっていった。サキの元で新しい料理を覚えて帰れば、それまでは「飯炊き女のようなことをするな」と拒んできた食事をメイと共に食べてくれる。サキから教わった方法で新しいデールを縫いあげてみれば、「気を回すな」と言いながらもそれを身に付けて馬に跨る。初めのころは事務連絡程度だった会話も一つ増え、二つ増え、遂には帰宅の際に「ただいま」の挨拶が帰ってくるまでになったのである。
まるで作り物のように美しい造作の持ち主だが、余り変わることの無い表情が人間的な魅力を損なっている――そんな印象を受ける彼にも、些細な瞳の動きや仕草から心の機微が窺えることにこの頃のメイは気づき、それを好ましく感じるようになっていた。流れ流れてこの地に来たが、自分はどうにか“居場所”を見つけられたのではないか――
そんな風に考えていた矢先のことだった。メイが、それまで目にしたことの無かったカサルの笑顔を見つけてしまったのは。
 
 
~~~
 
 
「……だろう? サキは」
 
「まぁ、嫌ねカサルったら。まだ早いわよ、わたしは……」
 
楽しそうな笑い声に、メイは聞きなれた響きを感じて足を向けた。そこは遥か華の国を臨む小さな丘の上。カサルは笑っていた。メイが一度も目にしたことの無い、朗らかで明るい表情(かお)で。
 
「そういえばカサル、メイさんとはどうなの? もう半年も経って……そろそろ、あの方もきちんとした立場をお望みではないかしら?」
 
ハトンの唇から洩れた己が名に、物陰に佇んでいたメイは思わずどくどくと高鳴る胸を押さえた。
 
「……彼女がそう思っているなら……兄上に頼んで、どこか良い嫁ぎ先を探してやれば良いだろう。一族にも大分馴染んだ……料理や裁縫の腕も、随分上がっているようだし」
 
一瞬、先ほどまで激しく脈打っていたはずの心臓が鼓動を止めてしまったかのような錯覚を感じた。カサルの言葉が氷塊となってメイの全身を包み、全ての動きを凍らせたのだ。
 
「そんな言い方って酷いわ、カサル! メイさんが何のために、誰のために里に馴染み、必死になって私の元に通っていたか……知らないわけではないでしょう!」
 
顔を歪めて叫ぶサキに、カサルは何も応えず俯くだけだった。
 
「もう良いわ、メイさんのことはあなたの言う通りもう一度エルベク様に相談してみます。……あなたは、それで良いのね?」
 
そんな彼に向かい、吐き捨てるようにそれだけを告げてサキが踵を返す様を、メイは微動だにできず見守っていた。
 
「サキ……」
 
囁くようにこぼれたカサルの声。そして、去っていくサキの背中に注がれた切ない眼差し――メイは確信せざるを得なかった。
何故今まで気づかなかったのだろう、彼のハトンへの想いに。彼は、メイ自身に好意をもって料理を食べてくれたわけではない、袖を通してくれたわけではない。その後ろにサキの姿を見たからだ。挨拶を交わしてくれるようになったのも、ゲルに留まる時間が長くなったのも――全て、全て彼女がハトンの元で砂の一族のことを学んでいたからだ。大切な兄の妻であるサキ、決して自分のものにはならない彼女の影を、彼は自分の中に見ていたに過ぎない!
だから彼は自分を正式な家族とする気は無いのだ。その場所には、例え義理の姉と言う形であれ、大切な彼女がいるのだから。偽物は、影は必要ないのだ。メイは一人俯き、頬に手を触れた。冷たい雫が頬を伝っていた。それが翠の国を離れてから何年も流すことの無かった己の涙であることに、彼女は驚き、そして嗤った。
 
「わたくしはまだ、泣くことができたのですね……幹(かん)様」
 
こぼれた名前は、彼女の初恋の男のもの。彼故に、自分は華の国の皇帝に身を許すまいと誓ったのではなかったか。それ故に、この果ての地まで流浪することになったのではなかったか。それを、今更……。メイは静かに泣き続けた。丘の向こうに太陽が沈み、忘れえぬ苦渋でもって彼女を苛む彼の国が、夕闇に姿を消してしまうまで。
 
 
~~~
 
 
「メイさん、あなたにお話があるの」
 
メイがサキからそんな風に声をかけられたのは、その翌日のことだった。前日、夕飯の支度もせずとっぷりと日も暮れてから帰宅したメイを、カサルは叱らなかった。一瞬戸惑うような眼差しを向けた後
 
『今日は、遅かったのだな……』
 
とだけ呟いた彼に、メイは改めて彼と自分の間にあるものの不確かさを思わざるを得なかった。彼と自分は対等な人間である――当初彼が望んだように。けれど今の彼女には、例え主と使用人という関係すら羨ましく思えた。心配してほしいとまでは言わない、ただ、怒りでも失望でも良い、自分の存在に対して何か確かな感情を抱いてほしい。名前が欲しい、自分と彼を繋ぐ確かな証として、この、関係に――
けれど彼の方はそれを望んでいないのだ。自分たちは別個の存在であり、それがたまたま同じ居に暮らしてというだけ。いつでも切り離せる“対等”なその関係に、名前などあろうはずもない。
 
「何でしょうか、ハトン?」
 
メイは顔を上げた。ハトンが今日もたらす報せが何であるか、メイには既に分かっていた。
 
「塵(じん)の里(アイマク)に、先年奥様を亡くされた気の毒な方がいらっしゃるの。奥様の残された赤ん坊を、お一人で育てようと頑張っておいでなのだけど……どうにも、男手一つではね。そこで誰か良い方がいらっしゃれば、お子様の母親代わりに迎えたい、とおっしゃっておいでなのだけど……」
 
「それは……大変なことでしょうね。でも、本当に立派な方ですわ。お子様を一人で育てるなど……」
 
愁いがちなサキにメイがそう応じると、その大きな黒い瞳が真っ直ぐにメイを射抜いた。
 
「そう思ってくださるなら、どうかしら、メイさん? あなたがその方を助けて差し上げては?」
 
来る時が来た――メイは瞼を閉じた。いつかこういう日が来ると分かっていた。予想外だったのは、育った想いと、自らの欲深さだ。凍らせていたはずの心が溶けだした。この地のおかげで、カサルのために。それならば、これ以上想いが深まり、彼の重荷となってしまわぬように。
 
「ハトン、わたくしは砂の一族の人間ではございませんし、元宮女です。それでも、その方はかまわないとおっしゃるのでしょうか?」
 
メイの深い、絶望も諦念も、全てを通り越して前を見据える眼差しに、サキの胸に思わず熱いものがこみ上げた。
 
「……ええ、メイさん。それにあなたはもう十分に、砂の一族の人間ですわ」
 
己の手を握りしめてくるサキの手の温もりに、メイは瞳を潤ませる。この心優しい友人、それだけでメイにとってこの里がもたらした幸福は余りに大き過ぎるように思われた。
 
 
~~~
 
 
「……塵の里に行く、とは本当か?」
 
その日の夜遅く、いつになく険悪な表情で問うてきたカサルに、メイは静かに頷いた。
 
「ハトンが、わざわざご縁を結んで下さったのです。わたくしのような女を必要として下さる方がおいでになるとは、望外の喜びと……」
 
「何故私に一言の断りも入れなかった!? 私のゲルに起居している身でありながら、何故勝手にハトンからの申し出を受けたのか!?」
 
これまで一度も声を荒げたことの無いカサルの激昂に、メイはきょとんとして彼を見つめた。
 
「……カサル様は、ご承知のことと思っておりました。申し訳ございません」
 
メイの言葉に、カサルは目を見開いた。メイの縁談について――正確には、カサルがメイをどう思っているか、という話をサキとしたのはつい先日のことだ。あの時、メイがその場に居合わせていたとしたら……そう考えてしまうのは道理だ。確かに自分は、サキにメイを他の男に嫁がせるよう告げたのだから。それが今、この事態になって何故自分の了解を取らずに話を進めた、と責めるのは筋違いだ。分かっている、だが苛立ちは止められない。これは違う、これは、サキに向けていたような淡く優しい感情ではない。
 
「私はあなたを……あなたに……その、上手く言えないが対等な人間でいたいと言った。けれど今は違うのだ。あなたが目の届かない場所に行くのが嫌だし、私の知らないところで里に馴染んでいくのも嫌だった。そんな自分が恐ろしかった。あなたを召使どころか奴隷のように縛りつけようとする自分が。私は奢っていたのだ。この地であなたの孤独を理解できるのも……癒せるのも、己だけだと思っていた」
 
吐き出してしまった心の恐ろしさに、カサルは口を手で覆った。目の前のメイは彼の言葉に瞳を瞬かせ、そうして、震える声でこう告げた。
 
「わたくしは……わたくしは名前をいただきとうございました。それがこの身を縛るものであっても、わたくし自身の個を損なうものであってもかまいません。“翠の国の贄”でも“華の国の宮女”でもなくわたくしだけの名が、わたくしを、わたくしだけを受け入れてくれる居場所が……」
 
カサルは思わずメイの細い体を抱き寄せる。後から後から涙が溢れる。抱き合いながら二人は泣いた。濡れた頬を拭い、唇を寄せた。長い孤独の果て、乾いた砂の大地に、緑は確かに根を張ったのだった。





後書き
 

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週に一度、砂の一族の女たちは一堂に会す。族長夫人(ハトン)であるサキを囲み、時には皆で糸を紡ぎ、時には粉を引き、時には髪結いや化粧の仕方について年長の者が若い娘に指導する機会もある。女たちにとって数少ない楽しみは、同時に子女の縁談や小規模の商談が取りまとめられる貴重な社交の場でもあった。男たちは日々野に繰り出し、羊を追い獣を狩るが、里の中のことを決める役割は実のところ女たちに大きな権限があった。
メイもその集まりに招かれてはいたものの、“余所者”であることとハーンの実弟であるカサルの預かりになったことへのやっかみも相まって水に浮いた油のように周囲の者からは敬遠され、一人隅に腰掛けて黙々と針を刺していた。そんな彼女に声をかけたのは、やはり自らも“余所者”であったハトン・サキだった。人の輪を掻き分けてメイの前に進み出たサキは、その手元を覗きこんで一瞬目を見開くと、にこりと笑ってこう告げた。
 
「メイさんは刺繍がお上手ね。この鮮やかな花の文様、とても懐かしい……」
 
メイは驚いてサキを見た。
 
「とんでもない、ハトンこそ、先ほどから遠目にも分かるほど鮮やかなお召し物(デール)を縫われておいでのご様子でしたが……」
 
慌てて応えたメイに、サキは少し寂しそうに微笑んだ。
 
「わたしも、初めはこんな服の作り方なんて知らなかったわ。わたしは元々華の国の生まれだから……でも今は、その文様の刺し方を忘れてしまった」
 
若く雄々しきハーンに愛され、明るく華やいだ印象を持つ彼女の放った言葉が意外で、メイは布地に落としていた顔を上げた。
 
「ねぇ、メイさん。この文様の刺し方をわたしに教えて下さらないかしら? 代わりにわたしは、あなたにデールのことを色々と教えてさしあげることができると思うの。どうかしら? 御迷惑でなければ……」
 
サキの提案に、メイはハッとして彼女の瞳を見返す。ハトンは気づいていたのだ、メイが一族の女たちに爪はじきにされ、所在なげに佇んでいたことを。
 
「はい、ハトン。願っても無いお申し出、ありがたく存じます……」
 
頬を染めながらメイが頷けば、サキの顔には花のような笑みが広がった。
 
それから、メイは毎日のようにハトンから家(オルド)に招かれるようになった。翠の国の人質だったメイと、華の国から売られてきたサキ。互いの立場への共感が、絆となって二人を繋いだ。サキは初めて出来た気兼ねなく付き合える同世代の友人に喜んだし、メイは自分と同じような辛酸を嘗めながら素直さを失わないサキを貴重な存在に感じていた。
 
サキと親しくなればなるほど、メイと共に暮らすカサルとの関係も少しずつ変わっていった。サキの元で新しい料理を覚えて帰れば、それまでは「飯炊き女のようなことをするな」と拒んできた食事をメイと共に食べてくれる。サキから教わった方法で新しいデールを縫いあげてみれば、「気を回すな」と言いながらもそれを身に付けて馬に跨る。初めのころは事務連絡程度だった会話も一つ増え、二つ増え、遂には帰宅の際に「ただいま」の挨拶が帰ってくるまでになったのである。
まるで作り物のように美しい造作の持ち主だが、余り変わることの無い表情が人間的な魅力を損なっている――そんな印象を受ける彼にも、些細な瞳の動きや仕草から心の機微が窺えることにこの頃のメイは気づき、それを好ましく感じるようになっていた。流れ流れてこの地に来たが、自分はどうにか“居場所”を見つけられたのではないか――
そんな風に考えていた矢先のことだった。メイが、それまで目にしたことの無かったカサルの笑顔を見つけてしまったのは。
 
 
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「……だろう? サキは」
 
「まぁ、嫌ねカサルったら。まだ早いわよ、わたしは……」
 
楽しそうな笑い声に、メイは聞きなれた響きを感じて足を向けた。そこは遥か華の国を臨む小さな丘の上。カサルは笑っていた。メイが一度も目にしたことの無い、朗らかで明るい表情(かお)で。
 
「そういえばカサル、メイさんとはどうなの? もう半年も経って……そろそろ、あの方もきちんとした立場をお望みではないかしら?」
 
ハトンの唇から洩れた己が名に、物陰に佇んでいたメイは思わずどくどくと高鳴る胸を押さえた。
 
「……彼女がそう思っているなら……兄上に頼んで、どこか良い嫁ぎ先を探してやれば良いだろう。一族にも大分馴染んだ……料理や裁縫の腕も、随分上がっているようだし」
 
一瞬、先ほどまで激しく脈打っていたはずの心臓が鼓動を止めてしまったかのような錯覚を感じた。カサルの言葉が氷塊となってメイの全身を包み、全ての動きを凍らせたのだ。
 
「そんな言い方って酷いわ、カサル! メイさんが何のために、誰のために里に馴染み、必死になって私の元に通っていたか……知らないわけではないでしょう!」
 
顔を歪めて叫ぶサキに、カサルは何も応えず俯くだけだった。
 
「もう良いわ、メイさんのことはあなたの言う通りもう一度エルベク様に相談してみます。……あなたは、それで良いのね?」
 
そんな彼に向かい、吐き捨てるようにそれだけを告げてサキが踵を返す様を、メイは微動だにできず見守っていた。
 
「サキ……」
 
囁くようにこぼれたカサルの声。そして、去っていくサキの背中に注がれた切ない眼差し――メイは確信せざるを得なかった。
何故今まで気づかなかったのだろう、彼のハトンへの想いに。彼は、メイ自身に好意をもって料理を食べてくれたわけではない、袖を通してくれたわけではない。その後ろにサキの姿を見たからだ。挨拶を交わしてくれるようになったのも、ゲルに留まる時間が長くなったのも――全て、全て彼女がハトンの元で砂の一族のことを学んでいたからだ。大切な兄の妻であるサキ、決して自分のものにはならない彼女の影を、彼は自分の中に見ていたに過ぎない!
だから彼は自分を正式な家族とする気は無いのだ。その場所には、例え義理の姉と言う形であれ、大切な彼女がいるのだから。偽物は、影は必要ないのだ。メイは一人俯き、頬に手を触れた。冷たい雫が頬を伝っていた。それが翠の国を離れてから何年も流すことの無かった己の涙であることに、彼女は驚き、そして嗤った。
 
「わたくしはまだ、泣くことができたのですね……幹(かん)様」
 
こぼれた名前は、彼女の初恋の男のもの。彼故に、自分は華の国の皇帝に身を許すまいと誓ったのではなかったか。それ故に、この果ての地まで流浪することになったのではなかったか。それを、今更……。メイは静かに泣き続けた。丘の向こうに太陽が沈み、忘れえぬ苦渋でもって彼女を苛む彼の国が、夕闇に姿を消してしまうまで。
 
 
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「メイさん、あなたにお話があるの」
 
メイがサキからそんな風に声をかけられたのは、その翌日のことだった。前日、夕飯の支度もせずとっぷりと日も暮れてから帰宅したメイを、カサルは叱らなかった。一瞬戸惑うような眼差しを向けた後
 
『今日は、遅かったのだな……』
 
とだけ呟いた彼に、メイは改めて彼と自分の間にあるものの不確かさを思わざるを得なかった。彼と自分は対等な人間である――当初彼が望んだように。けれど今の彼女には、例え主と使用人という関係すら羨ましく思えた。心配してほしいとまでは言わない、ただ、怒りでも失望でも良い、自分の存在に対して何か確かな感情を抱いてほしい。名前が欲しい、自分と彼を繋ぐ確かな証として、この、関係に――
けれど彼の方はそれを望んでいないのだ。自分たちは別個の存在であり、それがたまたま同じ居に暮らしてというだけ。いつでも切り離せる“対等”なその関係に、名前などあろうはずもない。
 
「何でしょうか、ハトン?」
 
メイは顔を上げた。ハトンが今日もたらす報せが何であるか、メイには既に分かっていた。
 
「塵(じん)の里(アイマク)に、先年奥様を亡くされた気の毒な方がいらっしゃるの。奥様の残された赤ん坊を、お一人で育てようと頑張っておいでなのだけど……どうにも、男手一つではね。そこで誰か良い方がいらっしゃれば、お子様の母親代わりに迎えたい、とおっしゃっておいでなのだけど……」
 
「それは……大変なことでしょうね。でも、本当に立派な方ですわ。お子様を一人で育てるなど……」
 
愁いがちなサキにメイがそう応じると、その大きな黒い瞳が真っ直ぐにメイを射抜いた。
 
「そう思ってくださるなら、どうかしら、メイさん? あなたがその方を助けて差し上げては?」
 
来る時が来た――メイは瞼を閉じた。いつかこういう日が来ると分かっていた。予想外だったのは、育った想いと、自らの欲深さだ。凍らせていたはずの心が溶けだした。この地のおかげで、カサルのために。それならば、これ以上想いが深まり、彼の重荷となってしまわぬように。
 
「ハトン、わたくしは砂の一族の人間ではございませんし、元宮女です。それでも、その方はかまわないとおっしゃるのでしょうか?」
 
メイの深い、絶望も諦念も、全てを通り越して前を見据える眼差しに、サキの胸に思わず熱いものがこみ上げた。
 
「……ええ、メイさん。それにあなたはもう十分に、砂の一族の人間ですわ」
 
己の手を握りしめてくるサキの手の温もりに、メイは瞳を潤ませる。この心優しい友人、それだけでメイにとってこの里がもたらした幸福は余りに大き過ぎるように思われた。
 
 
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「……塵の里に行く、とは本当か?」
 
その日の夜遅く、いつになく険悪な表情で問うてきたカサルに、メイは静かに頷いた。
 
「ハトンが、わざわざご縁を結んで下さったのです。わたくしのような女を必要として下さる方がおいでになるとは、望外の喜びと……」
 
「何故私に一言の断りも入れなかった!? 私のゲルに起居している身でありながら、何故勝手にハトンからの申し出を受けたのか!?」
 
これまで一度も声を荒げたことの無いカサルの激昂に、メイはきょとんとして彼を見つめた。
 
「……カサル様は、ご承知のことと思っておりました。申し訳ございません」
 
メイの言葉に、カサルは目を見開いた。メイの縁談について――正確には、カサルがメイをどう思っているか、という話をサキとしたのはつい先日のことだ。あの時、メイがその場に居合わせていたとしたら……そう考えてしまうのは道理だ。確かに自分は、サキにメイを他の男に嫁がせるよう告げたのだから。それが今、この事態になって何故自分の了解を取らずに話を進めた、と責めるのは筋違いだ。分かっている、だが苛立ちは止められない。これは違う、これは、サキに向けていたような淡く優しい感情ではない。
 
「私はあなたを……あなたに……その、上手く言えないが対等な人間でいたいと言った。けれど今は違うのだ。あなたが目の届かない場所に行くのが嫌だし、私の知らないところで里に馴染んでいくのも嫌だった。そんな自分が恐ろしかった。あなたを召使どころか奴隷のように縛りつけようとする自分が。私は奢っていたのだ。この地であなたの孤独を理解できるのも……癒せるのも、己だけだと思っていた」
 
吐き出してしまった心の恐ろしさに、カサルは口を手で覆った。目の前のメイは彼の言葉に瞳を瞬かせ、そうして、震える声でこう告げた。
 
「わたくしは……わたくしは名前をいただきとうございました。それがこの身を縛るものであっても、わたくし自身の個を損なうものであってもかまいません。“翠の国の贄”でも“華の国の宮女”でもなくわたくしだけの名が、わたくしを、わたくしだけを受け入れてくれる居場所が……」
 
カサルは思わずメイの細い体を抱き寄せる。後から後から涙が溢れる。抱き合いながら二人は泣いた。濡れた頬を拭い、唇を寄せた。長い孤独の果て、乾いた砂の大地に、緑は確かに根を張ったのだった。





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