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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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花に砂』続編。カサルとメイ。中央アジア風。


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メイの記憶にある故郷は緑に満ちていた。壮麗な宮殿でも、絢爛な調度で飾り立てられた局でもない。水は清く澄み渡り、穏やかな木漏れ日が家々の窓に柔らかな光をもたらす。悪意に満ちた嘲笑も、冷たい眼差しもそこには存在しなかった。
メイが故郷を離れたのは五年も前のことだった。少しばかり王族の血を受け継いでしまった少女は、許婚と引き裂かれ人質として華の国へ差し出されることになった。祖国のため、家族のため、許婚のため――と訪れた彼の地で待っていたのは、苦すぎる現実だった。あの頃の彼女は幼さ故に、意地になっていたのかもしれない。最下級の妃として込められた後宮で、何としても皇帝の閨にだけは侍るものかと必死だった。
 
『あなたったら、馬鹿ね。陛下はその美貌に随分と興味を示しておいでだったのに、笑わず、泣かず、目つきばっかり鋭くて。陰気を装って侍女たちとさえ口を利こうとしない。そんなことでは女ばかりのこの場所で、いつか困ったことになってよ』
 
同じ時期に後宮に入り、いち早く皇帝の寵を受けた女はそう言って笑った。皇帝の傍らで送り出される自分に物言いたげな視線を投げかけてきた彼女の顔を思い出し、メイは目を細めた。彼女は先年皇女を生み参らせ、今や皇帝の寵は揺らぐことなくその一身に注がれていると聞く。あの鮮やかな女性には似合いの生き方だ。自分とは、違って――
メイは揺れる馬車の内から、外をそっと覗き見た。視界に映るのは果てしなく広がる草原。どうやら彼女が鈍色の青春を捧げた華の国はもう抜けたようだ。そしてこれから、更なる艱難の待つ場所へ、自分は赴こうとしている。メイの口からは、既に自嘲すらこぼれなかった。
 
 
~~~
 
 
砂の一族族長(ハーン)の実弟であり、その片腕と呼ばれるカサルは焦っていた。長きに渡り領土の境目を巡って小競り合いを続けていた華の国との先日の戦――実際には、無謀な侵攻をしかけてきた一地方領主を兄の命を受けたカサルが牽制しただけのことだが――に敗れた華の国が、詫びとして宮女を遣わす、との書面が届いたのだ。
その意味することは唯一つ。その女をハーンに妾として差し出す代わりに今度(こたび)のことは不問に処せ、ということだ。ハーン・エルベクは妻(ハトン)を娶ったばかりだ。そしてその兄嫁・サキのことを、カサルはとても大切に思っていた。
カサルは元々、砂の一族の人間では無い。カサルの母が砂の一族先々代ハーンであったエルベクの父と死に別れて後、再嫁した別の里(アイマク)で生まれたのがカサルだった。母は一人残してしまった兄のことをとても案じていた。
 
『エルベクと仲良くするのよ。あなたがお兄様を支えてあげて』
 
そんな言葉を託されて、幼いカサルは砂の里へと送り出されたのだ。サキが里へやって来たのは、それから二年ばかりが過ぎたころのことであったか。エルベクとカサルの育ての親とも言える先代ハーン夫妻の養女となった彼女は、彼にとって初めての孤独を分かち合える存在だった。カサルがサキに惹かれたのは当然のことであったのかもしれない。
だが彼女を真に振り向かせることができたのは彼の兄・エルベクだった。今在る場所に背を向け、故郷を見つめ続ける彼女と同じ方向を見ることはできても、その眼差しを己に向けさせることは、カサルにはついに叶わなかったのだ。
それでも、彼は故郷を臨むその場所にたった一人佇み続けた。これで良いのだ、自分はこの場所から時たま背後を振り返り、兄とサキが並んで微笑んでいる様を確かめるだけで満たされるのだから、と。そう己に言い聞かせながら日々を過ごしてきたカサルにとって、華の国からの申し出は迷惑極まりない出来事だった。
 
「きちんと断りの文を出したはずだろう! 何故三日後に女が着くというのだ!?」
 
「それが……あちらは我々が遠慮していると考えたらしく強引に……その、宮廷内での権力闘争も絡んでいるようです」
 
声を荒げるカサルに、華の国へ遣いとして出されていた青年はおどおどと応じた。青年の言葉を聞いたカサルは苦虫を噛み潰したような顔になると、深い溜息を吐きだした。
 
「……全く、人間とは醜いものだな」
 
己の利益を害するもの、それが積極的にしろ消極的にしろ――自らの栄達の邪魔になるものは敵を利用してでも排除する。今回彼らは利用されたのだ。そして彼らの元に掃き捨てられた駒がその宮女。カサルはふとその女を哀れに思ってしまった。大切なサキのためには何としてでも排除しなければならないその女に、本心から嫌悪を感じることはできない……彼は元来が、優しすぎる性格だった。
 
 
~~~
 
 
「メイ、と申します」
 
そう告げて頭を下げた女は、美女三千人と謳われる華の国後宮の名にふさわしく匂い立つような色香と憂いを秘めた美貌の持ち主だった。エルベクの傍らに座す新妻・サキも大きな瞳が愛らしい魅力的な女性だが、二人を比べれば百合と花車(ガーベラ)のように異なる趣が漂った。そのサキは不安げな様子で表情を固くし、カサルは緊張の面持ちで兄の言葉を待った。
 
「遠路はるばるよく参られた。書簡は受け取った故、暫し休まれて後はお国に帰られよ……と言いたいところだが、あなたはそうすることができぬ身なのだろうな」
 
ひれ伏すメイに対しエルベクは笑いながら声をかけた。メイの髪に刺さる銀の簪が微かに揺れ、顔の前に掲げられた腕を包み込む金糸の袖がふるりと震えた。
 
「とはいえ、私には先日ようやく迎えたばかりの妻がいてな……何せ口説き落とすまで十年かかったのだ。あなたもこの地で暮らすならいずれとくと聞かせてやろうと思うが……」
 
「エルベク様! やめてくださいっ!」
 
突然見当違いの惚気を始めたハーンに、ハトンは顔を真っ赤にして手を伸ばした。
 
「と、言う訳で当分他の女は目に入らぬ。皇帝の意向は伝わったが、私はあなたをどうするつもりも無い。どうしても我が一族に縁づきたいというのであれば……そうだな、カサル」
 
唐突に呼ばれた己が名に、ハラハラと事の成り行きを見守っていたカサルは驚いて返事をした。
 
「はい、兄上」
 
エルベクは端正な面ざしを持つ繊細な青年へと成長した弟と、目の前にひれ伏す美しい女とを見比べた。
 
「メイ殿、ここにいるカサルは私の異父弟で優秀な補佐役でもあり、成人を迎えた身でありながら妻がいない。どうだ、メイ殿、このカサルの元で暮らしてみては?」
 
「兄上!」
 
兄の口から紡がれた言葉に、カサルは声を上げて抗議の眼差しを送った。
 
「カサル、おまえもそろそろ身を固めるべきだ。見ての通りこれほど美しい女人を、華の国は砂の一族のためにわざわざ“下さった”のだ。応えねば失礼にあたろう?」
 
どこか面白がるような兄の声音に、カサルは唇を噛んだ。一座を見渡せば羨むような、嘲るような下卑た好奇の視線が、自分とメイとを交互に舐め回しているのが分かる。カサルは心配そうにこちらを見つめるサキに気づき、次いで小さく身を震わせている哀れな女を見やって、一つ息を吐きだした。
 
「……わかりました、兄上。彼女のことは私が引き取りましょう。けれど、面倒を見るというだけです。妻として娶ることも、妾として扱うこともしないでしょう」
 
カサルの言葉に、メイは涼やかな目もとを微かに瞬かせた。
 
「良いだろう、カサル。では彼女の身柄はおまえに預ける。メイ殿、あなたもそれで良いな?」
 
「わたくしに……わたくしに否やはございませぬ」
 
掠れたような声が、メイの唇からこぼれた。蛮賊として恐れられてきた砂の一族の慰み者となるために彼女は送り込まれたのだ。粗野な男たちに嬲り殺されるかもしれぬ、という覚悟は精悍な顔立ちと澄んだ黒い瞳を持つハーンに会った瞬間霧消した。そしてその傍らに佇む美しい青年――憂いを帯びた瞳に藍色に輝く髪、これほど整った容姿の持ち主を、故国でも華でもメイは見たことが無かった。
ハーンを挟んで、青年の反対側に座す愛らしく華やかな輝きを放つ女性を見た時、彼女の中の蛮賊像はついに音を立てて崩れ去ったのだ。張りつめていた糸が途切れて初めて、彼女は自嘲することができた。自分は、ここでも必要とされぬ存在なのだ、と。
 
「何分私も最近居を移したばかりで……まだ手入れが行き届いているとは言い難いのだが」
 
そう呟きながら自らのゲルを案内するカサルの横顔を、メイはじっと見つめた。
 
「わたくしにできることは何でもおっしゃってください。精一杯、旦那様にお仕えさせていただきます」
 
深く頭を下げたメイに、カサルは困ったように溜息を吐いた。
 
「そういうのは止めてくれないか。私は……個人的に嫌なんだ。人間の立場が明確に分かたれてしまうのが。だから君が誰かの妾や奴隷に……従属物になるのも見たくないし、対等の立場でいてほしい。特別なことはできないけれど、君のここでの暮らしに不利益ができないように最大限努力する」
 
「旦那様は……カサル様、は不思議な方ですね」
 
新しい同居人の言葉に、カサルは面食らったような表情で黙り込んだ。メイはその様子に、故郷を離れて以来初めて唇がほころびかけている己に気づいた。そんな風にして、二人の暮らしは始まった。





後編

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メイの記憶にある故郷は緑に満ちていた。壮麗な宮殿でも、絢爛な調度で飾り立てられた局でもない。水は清く澄み渡り、穏やかな木漏れ日が家々の窓に柔らかな光をもたらす。悪意に満ちた嘲笑も、冷たい眼差しもそこには存在しなかった。
メイが故郷を離れたのは五年も前のことだった。少しばかり王族の血を受け継いでしまった少女は、許婚と引き裂かれ人質として華の国へ差し出されることになった。祖国のため、家族のため、許婚のため――と訪れた彼の地で待っていたのは、苦すぎる現実だった。あの頃の彼女は幼さ故に、意地になっていたのかもしれない。最下級の妃として込められた後宮で、何としても皇帝の閨にだけは侍るものかと必死だった。
 
『あなたったら、馬鹿ね。陛下はその美貌に随分と興味を示しておいでだったのに、笑わず、泣かず、目つきばっかり鋭くて。陰気を装って侍女たちとさえ口を利こうとしない。そんなことでは女ばかりのこの場所で、いつか困ったことになってよ』
 
同じ時期に後宮に入り、いち早く皇帝の寵を受けた女はそう言って笑った。皇帝の傍らで送り出される自分に物言いたげな視線を投げかけてきた彼女の顔を思い出し、メイは目を細めた。彼女は先年皇女を生み参らせ、今や皇帝の寵は揺らぐことなくその一身に注がれていると聞く。あの鮮やかな女性には似合いの生き方だ。自分とは、違って――
メイは揺れる馬車の内から、外をそっと覗き見た。視界に映るのは果てしなく広がる草原。どうやら彼女が鈍色の青春を捧げた華の国はもう抜けたようだ。そしてこれから、更なる艱難の待つ場所へ、自分は赴こうとしている。メイの口からは、既に自嘲すらこぼれなかった。
 
 
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砂の一族族長(ハーン)の実弟であり、その片腕と呼ばれるカサルは焦っていた。長きに渡り領土の境目を巡って小競り合いを続けていた華の国との先日の戦――実際には、無謀な侵攻をしかけてきた一地方領主を兄の命を受けたカサルが牽制しただけのことだが――に敗れた華の国が、詫びとして宮女を遣わす、との書面が届いたのだ。
その意味することは唯一つ。その女をハーンに妾として差し出す代わりに今度(こたび)のことは不問に処せ、ということだ。ハーン・エルベクは妻(ハトン)を娶ったばかりだ。そしてその兄嫁・サキのことを、カサルはとても大切に思っていた。
カサルは元々、砂の一族の人間では無い。カサルの母が砂の一族先々代ハーンであったエルベクの父と死に別れて後、再嫁した別の里(アイマク)で生まれたのがカサルだった。母は一人残してしまった兄のことをとても案じていた。
 
『エルベクと仲良くするのよ。あなたがお兄様を支えてあげて』
 
そんな言葉を託されて、幼いカサルは砂の里へと送り出されたのだ。サキが里へやって来たのは、それから二年ばかりが過ぎたころのことであったか。エルベクとカサルの育ての親とも言える先代ハーン夫妻の養女となった彼女は、彼にとって初めての孤独を分かち合える存在だった。カサルがサキに惹かれたのは当然のことであったのかもしれない。
だが彼女を真に振り向かせることができたのは彼の兄・エルベクだった。今在る場所に背を向け、故郷を見つめ続ける彼女と同じ方向を見ることはできても、その眼差しを己に向けさせることは、カサルにはついに叶わなかったのだ。
それでも、彼は故郷を臨むその場所にたった一人佇み続けた。これで良いのだ、自分はこの場所から時たま背後を振り返り、兄とサキが並んで微笑んでいる様を確かめるだけで満たされるのだから、と。そう己に言い聞かせながら日々を過ごしてきたカサルにとって、華の国からの申し出は迷惑極まりない出来事だった。
 
「きちんと断りの文を出したはずだろう! 何故三日後に女が着くというのだ!?」
 
「それが……あちらは我々が遠慮していると考えたらしく強引に……その、宮廷内での権力闘争も絡んでいるようです」
 
声を荒げるカサルに、華の国へ遣いとして出されていた青年はおどおどと応じた。青年の言葉を聞いたカサルは苦虫を噛み潰したような顔になると、深い溜息を吐きだした。
 
「……全く、人間とは醜いものだな」
 
己の利益を害するもの、それが積極的にしろ消極的にしろ――自らの栄達の邪魔になるものは敵を利用してでも排除する。今回彼らは利用されたのだ。そして彼らの元に掃き捨てられた駒がその宮女。カサルはふとその女を哀れに思ってしまった。大切なサキのためには何としてでも排除しなければならないその女に、本心から嫌悪を感じることはできない……彼は元来が、優しすぎる性格だった。
 
 
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「メイ、と申します」
 
そう告げて頭を下げた女は、美女三千人と謳われる華の国後宮の名にふさわしく匂い立つような色香と憂いを秘めた美貌の持ち主だった。エルベクの傍らに座す新妻・サキも大きな瞳が愛らしい魅力的な女性だが、二人を比べれば百合と花車(ガーベラ)のように異なる趣が漂った。そのサキは不安げな様子で表情を固くし、カサルは緊張の面持ちで兄の言葉を待った。
 
「遠路はるばるよく参られた。書簡は受け取った故、暫し休まれて後はお国に帰られよ……と言いたいところだが、あなたはそうすることができぬ身なのだろうな」
 
ひれ伏すメイに対しエルベクは笑いながら声をかけた。メイの髪に刺さる銀の簪が微かに揺れ、顔の前に掲げられた腕を包み込む金糸の袖がふるりと震えた。
 
「とはいえ、私には先日ようやく迎えたばかりの妻がいてな……何せ口説き落とすまで十年かかったのだ。あなたもこの地で暮らすならいずれとくと聞かせてやろうと思うが……」
 
「エルベク様! やめてくださいっ!」
 
突然見当違いの惚気を始めたハーンに、ハトンは顔を真っ赤にして手を伸ばした。
 
「と、言う訳で当分他の女は目に入らぬ。皇帝の意向は伝わったが、私はあなたをどうするつもりも無い。どうしても我が一族に縁づきたいというのであれば……そうだな、カサル」
 
唐突に呼ばれた己が名に、ハラハラと事の成り行きを見守っていたカサルは驚いて返事をした。
 
「はい、兄上」
 
エルベクは端正な面ざしを持つ繊細な青年へと成長した弟と、目の前にひれ伏す美しい女とを見比べた。
 
「メイ殿、ここにいるカサルは私の異父弟で優秀な補佐役でもあり、成人を迎えた身でありながら妻がいない。どうだ、メイ殿、このカサルの元で暮らしてみては?」
 
「兄上!」
 
兄の口から紡がれた言葉に、カサルは声を上げて抗議の眼差しを送った。
 
「カサル、おまえもそろそろ身を固めるべきだ。見ての通りこれほど美しい女人を、華の国は砂の一族のためにわざわざ“下さった”のだ。応えねば失礼にあたろう?」
 
どこか面白がるような兄の声音に、カサルは唇を噛んだ。一座を見渡せば羨むような、嘲るような下卑た好奇の視線が、自分とメイとを交互に舐め回しているのが分かる。カサルは心配そうにこちらを見つめるサキに気づき、次いで小さく身を震わせている哀れな女を見やって、一つ息を吐きだした。
 
「……わかりました、兄上。彼女のことは私が引き取りましょう。けれど、面倒を見るというだけです。妻として娶ることも、妾として扱うこともしないでしょう」
 
カサルの言葉に、メイは涼やかな目もとを微かに瞬かせた。
 
「良いだろう、カサル。では彼女の身柄はおまえに預ける。メイ殿、あなたもそれで良いな?」
 
「わたくしに……わたくしに否やはございませぬ」
 
掠れたような声が、メイの唇からこぼれた。蛮賊として恐れられてきた砂の一族の慰み者となるために彼女は送り込まれたのだ。粗野な男たちに嬲り殺されるかもしれぬ、という覚悟は精悍な顔立ちと澄んだ黒い瞳を持つハーンに会った瞬間霧消した。そしてその傍らに佇む美しい青年――憂いを帯びた瞳に藍色に輝く髪、これほど整った容姿の持ち主を、故国でも華でもメイは見たことが無かった。
ハーンを挟んで、青年の反対側に座す愛らしく華やかな輝きを放つ女性を見た時、彼女の中の蛮賊像はついに音を立てて崩れ去ったのだ。張りつめていた糸が途切れて初めて、彼女は自嘲することができた。自分は、ここでも必要とされぬ存在なのだ、と。
 
「何分私も最近居を移したばかりで……まだ手入れが行き届いているとは言い難いのだが」
 
そう呟きながら自らのゲルを案内するカサルの横顔を、メイはじっと見つめた。
 
「わたくしにできることは何でもおっしゃってください。精一杯、旦那様にお仕えさせていただきます」
 
深く頭を下げたメイに、カサルは困ったように溜息を吐いた。
 
「そういうのは止めてくれないか。私は……個人的に嫌なんだ。人間の立場が明確に分かたれてしまうのが。だから君が誰かの妾や奴隷に……従属物になるのも見たくないし、対等の立場でいてほしい。特別なことはできないけれど、君のここでの暮らしに不利益ができないように最大限努力する」
 
「旦那様は……カサル様、は不思議な方ですね」
 
新しい同居人の言葉に、カサルは面食らったような表情で黙り込んだ。メイはその様子に、故郷を離れて以来初めて唇がほころびかけている己に気づいた。そんな風にして、二人の暮らしは始まった。





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