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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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慌てて観て来ました(笑)
フェルメール展の方は、やはり3月にしばらく電気の無い状態で過ごしたこと、節電の日々からそういうものが最初から無い時代の光のあり方というか存在の大きさをつくづく感じました。生で見ると3Dかと思うほど立体的に見えることに驚いた。
ナショナル・ギャラリー展ではモネとロートレックが見られたことにとりあえず満足^^ 本当にのどかな景色を描ける人はその真逆の景色を知っている人なんだろうなぁ、と。
両方を見て、絵画が極限に辿りついた時に生まれたのが写真なのかな、と考えたり。同時に絵画は描き手や制作依頼者の恣意を織り込むことが可能なものだから、そういうものから解き放たれた“真実”として写真が求められたのかな、とも。そういう意味では“影”の表現を消してしまう電気(照明)もやはり対を為すものなのかも。
今では誰でも簡単に画像をいじれるようになり、恣意的な写真というか写真の絵画化が進んでいて、逆に抽象的ではあるけれど内面的な本質を絵画に求めていく傾向があるんじゃないかな、とかグルグル考えてしまいました。

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拍手ありがとうございます。

凄く今更読感メモ。衝撃的にけがれない話だなぁ、と。

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何かこう、馴染み深く薄めたカフカみたいな(訳がわからん)
寂しくて切なくて苦しくて、根源的な孤独を書いてるんだけど実際には文学があるから孤独じゃないんだな、ってのが筆致からバシバシ伝わってきて胸が痛くなった。一人の作家が神様のような存在で、父親で師匠で本当の意味での心の拠り所がそのたった一つ、でもそれは逆に言うとその一つがあれば満足できる存在、欲を満たすのとは違うかもしれないけど「これがあれば生きていける」、死なない理由でもあって。すごく、物凄く羨ましくなった。そういう生き方ができることが。それでもまだ欲しい、寂しいと欲求を認めて貪欲になれることが。とてもシンプルな、有り得ないほど人間らしい、人間らし過ぎて逆に有り得ない人だなぁと思いました。情景描写が一番綺麗なのが「へど」を吐くシーン、そして嘔吐後の主人公が晴れ晴れとした気持ちになってまた振り出しに戻る(ようでいてそうではないのでしょうけど)幕切れに泣いた。
こんなにツボに入る作家さんの存命中に出会えたのは初めてな気がする。


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今読んで良かった。

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正直ちょっと苦手・・・でずっと避けていたのですが、今改めて読んで良かったな、と。
登場人物・エピソードをごちゃ混ぜにして割るんじゃなく薄めたら自分になる、というくらい近しい話だから、読み進むのは心をえぐるような苦しい作業でした。近いだけに「何で?」ってなるところもあるし・・・特に主人公がキズキのことや直子の症状を自分のせいだと感じないところと、直子の結末が。ラストでずっとそう思ってたけど認めたくなかった、みたいな記述もあるけど。絶対抱いてしまう気持ちだと思う。直子は、ああいうの身近で起きたら「もう自分が同じことするのは許されないな」って考えるもんだと思うから信じられない。でもある意味キズキと主人公に対する復讐だったのかな。自分をいいように解釈して、振り回して、その実“彼女自身”をあんま求めてないように見えた二人への。(二人とも彼女を通して何かを見てる感じであんまり彼ら自身の人生に本当の意味で直子を必要としてはいないように見えた)
永沢さんが一番共通点なくて好きです。「自分に同情するのは下劣」って強烈なセリフ。例え消極的でも生きてくって決めた以上は強くならないといけませんよね。
最後のレイコの一部に直子が溶け込んだようなニュアンス、分かたれた不完全なもの同士がようやく一つになり、完全では無いけど外界に潰されないだけの形というか器?を手に入れた感じは「あぁ良かったな」と思いました。
以前の哀しみで得た経験は新たな哀しみの救いにはならないし、特に今回は人ではなく故郷という替えの利かないものを失くした方が大勢いることと思います。人を亡くした悲しみは思い出の共有や新しい出会いといった交流である程度癒すというか消化することができたけれど、土地に関しては何と言うかスケールが大き過ぎて、それぞれの地域のギャップが新たな傷を生み出したりもするんじゃないかな、と。
そういう、心との向き合い方や整理の仕方を一から作り直さなきゃいけない時期に一番必要で有効なツールが文学なのかな、と改めて考えさせられました。


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積ん読本から発掘!\(^O^)/たぶんノーベル賞取った時に買った。

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こわっ!怖すぎて途中まで完全にエンターテイメントだと思ってました・・・(゜Д゜;)ラストのモヤッとする感じで「あぁ純文だわ」って気づいたけど(笑) イギリスの女性作家の一人称で描かれる心象風景は最強ですね。
チェンジリングという発想がある文化の恐ろしさを思い知らされたような。例え自分の腹を痛めて生んだ子でも受け入れられない、ってなると完全に別の生き物として捉える事ができるようになるんだなぁ、と。何だかんだ言って日本人にその割り切りは無理なんじゃなかろうか。・・・どっちかというと自分が取り替え子側な気がするからかな。この作品ではベン、『変身』では主人公@虫に肩入れしてたし。
視点的にいかにもベンが悪っぽく描かれていて確かにこの話の魅力はその不気味さにあるんだけど、人間というか生物本来の姿は彼の方なんじゃないかなぁとも感じた。彼の方が「先」だってわかるから、ハリエットはベンを「先祖返り」と思ったんじゃないか。
個人的なことで申し訳ないですが、地震直後、明らかに外部の人が来てない時期に近所で水泥棒灯油泥棒が出て。人間も動物と一緒なんだな、と改めて感じてしまったんです。でも状況を考えれば実際被害にあった人以外は責める資格なんてないんじゃないか、と思ったりもするし。
善悪は社会が決めるものだけど、社会の定義は人それぞれの主観によるもので、時には社会に属さない生物になる必要もあるんだと思う。全てが悪でありまたそうではないのが人間なのかな、と考えさせられました。


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ちょっとだけメモ。

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『金閣炎上』水上勉
『金閣寺』、『五番町夕霧楼』とセットで何度も読み返してる。コレほんと現地に行って歩いてみると色々考えさせられて面白いですよー。一風変わった京都観光としてオススメ(笑)同じ題材・土地でここまで捉え方が違うのか、また夕霧楼との対比では一人の作家さんが“フィクションとして”考えた話と“似た環境にあった者として”調べた話で全然違うのも興味深い。

『大尉の娘』プーシキン
うん、ヅカ観て買いました!(^▽^)が、すげーアタリでした。もうグイグイ引きこまれるし歴史とフィクションのナイス融合。私はサヴェーリィチとシヴァープリンがお気に入りです。キャラみんなに味があっていい。

『六蠱の体』三津田信三
このフィクションな感じがいいんだよなー。しかし今更だが主人公イケメンだったのか・・・(゜Д゜)

向こうで買った積ん読本こっちに運べなかったのでちょっとストック尽きてきてます。
忘れてる本とかもありそうなので読み直し期間に入ろうかなー、と思っているところ。


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