×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
トラックバック() | コメント()
無題
U 哀しみには慣れないっていうところに共感した。涙の数だけ強くなれるとか歌があるけど、そう思いたい気持ちもあるけど、何回哀しいことがあっても、それが同じような出来事であっても毎回これ以上はないってくらい哀しくなるのだよね。中学生の時に初めてこの本読んだ時は「はぁ・・・」と「はぁ?」ばかりしか浮かばなかったけど、年月が経つにつれて私なりに消化できるようになって、それでも「死にたい」と言いながら死ねない人間と死ねる人間の差がいまだに分からない。
ノルウェイの森って映画化されたよねー。見てないけど、あれはどうだったのかな。
U 哀しみには慣れないっていうところに共感した。涙の数だけ強くなれるとか歌があるけど、そう思いたい気持ちもあるけど、何回哀しいことがあっても、それが同じような出来事であっても毎回これ以上はないってくらい哀しくなるのだよね。中学生の時に初めてこの本読んだ時は「はぁ・・・」と「はぁ?」ばかりしか浮かばなかったけど、年月が経つにつれて私なりに消化できるようになって、それでも「死にたい」と言いながら死ねない人間と死ねる人間の差がいまだに分からない。
ノルウェイの森って映画化されたよねー。見てないけど、あれはどうだったのかな。
今読んで良かった。
正直ちょっと苦手・・・でずっと避けていたのですが、今改めて読んで良かったな、と。
登場人物・エピソードをごちゃ混ぜにして割るんじゃなく薄めたら自分になる、というくらい近しい話だから、読み進むのは心をえぐるような苦しい作業でした。近いだけに「何で?」ってなるところもあるし・・・特に主人公がキズキのことや直子の症状を自分のせいだと感じないところと、直子の結末が。ラストでずっとそう思ってたけど認めたくなかった、みたいな記述もあるけど。絶対抱いてしまう気持ちだと思う。直子は、ああいうの身近で起きたら「もう自分が同じことするのは許されないな」って考えるもんだと思うから信じられない。でもある意味キズキと主人公に対する復讐だったのかな。自分をいいように解釈して、振り回して、その実“彼女自身”をあんま求めてないように見えた二人への。(二人とも彼女を通して何かを見てる感じであんまり彼ら自身の人生に本当の意味で直子を必要としてはいないように見えた)
永沢さんが一番共通点なくて好きです。「自分に同情するのは下劣」って強烈なセリフ。例え消極的でも生きてくって決めた以上は強くならないといけませんよね。
最後のレイコの一部に直子が溶け込んだようなニュアンス、分かたれた不完全なもの同士がようやく一つになり、完全では無いけど外界に潰されないだけの形というか器?を手に入れた感じは「あぁ良かったな」と思いました。
以前の哀しみで得た経験は新たな哀しみの救いにはならないし、特に今回は人ではなく故郷という替えの利かないものを失くした方が大勢いることと思います。人を亡くした悲しみは思い出の共有や新しい出会いといった交流である程度癒すというか消化することができたけれど、土地に関しては何と言うかスケールが大き過ぎて、それぞれの地域のギャップが新たな傷を生み出したりもするんじゃないかな、と。
そういう、心との向き合い方や整理の仕方を一から作り直さなきゃいけない時期に一番必要で有効なツールが文学なのかな、と改めて考えさせられました。
PR
追記を閉じる▲
正直ちょっと苦手・・・でずっと避けていたのですが、今改めて読んで良かったな、と。
登場人物・エピソードをごちゃ混ぜにして割るんじゃなく薄めたら自分になる、というくらい近しい話だから、読み進むのは心をえぐるような苦しい作業でした。近いだけに「何で?」ってなるところもあるし・・・特に主人公がキズキのことや直子の症状を自分のせいだと感じないところと、直子の結末が。ラストでずっとそう思ってたけど認めたくなかった、みたいな記述もあるけど。絶対抱いてしまう気持ちだと思う。直子は、ああいうの身近で起きたら「もう自分が同じことするのは許されないな」って考えるもんだと思うから信じられない。でもある意味キズキと主人公に対する復讐だったのかな。自分をいいように解釈して、振り回して、その実“彼女自身”をあんま求めてないように見えた二人への。(二人とも彼女を通して何かを見てる感じであんまり彼ら自身の人生に本当の意味で直子を必要としてはいないように見えた)
永沢さんが一番共通点なくて好きです。「自分に同情するのは下劣」って強烈なセリフ。例え消極的でも生きてくって決めた以上は強くならないといけませんよね。
最後のレイコの一部に直子が溶け込んだようなニュアンス、分かたれた不完全なもの同士がようやく一つになり、完全では無いけど外界に潰されないだけの形というか器?を手に入れた感じは「あぁ良かったな」と思いました。
以前の哀しみで得た経験は新たな哀しみの救いにはならないし、特に今回は人ではなく故郷という替えの利かないものを失くした方が大勢いることと思います。人を亡くした悲しみは思い出の共有や新しい出会いといった交流である程度癒すというか消化することができたけれど、土地に関しては何と言うかスケールが大き過ぎて、それぞれの地域のギャップが新たな傷を生み出したりもするんじゃないかな、と。
そういう、心との向き合い方や整理の仕方を一から作り直さなきゃいけない時期に一番必要で有効なツールが文学なのかな、と改めて考えさせられました。
PR
トラックバック() | コメント(1)
無題
U 哀しみには慣れないっていうところに共感した。涙の数だけ強くなれるとか歌があるけど、そう思いたい気持ちもあるけど、何回哀しいことがあっても、それが同じような出来事であっても毎回これ以上はないってくらい哀しくなるのだよね。中学生の時に初めてこの本読んだ時は「はぁ・・・」と「はぁ?」ばかりしか浮かばなかったけど、年月が経つにつれて私なりに消化できるようになって、それでも「死にたい」と言いながら死ねない人間と死ねる人間の差がいまだに分からない。
ノルウェイの森って映画化されたよねー。見てないけど、あれはどうだったのかな。
U 哀しみには慣れないっていうところに共感した。涙の数だけ強くなれるとか歌があるけど、そう思いたい気持ちもあるけど、何回哀しいことがあっても、それが同じような出来事であっても毎回これ以上はないってくらい哀しくなるのだよね。中学生の時に初めてこの本読んだ時は「はぁ・・・」と「はぁ?」ばかりしか浮かばなかったけど、年月が経つにつれて私なりに消化できるようになって、それでも「死にたい」と言いながら死ねない人間と死ねる人間の差がいまだに分からない。
ノルウェイの森って映画化されたよねー。見てないけど、あれはどうだったのかな。
この記事へのコメント
哀しみには慣れないっていうところに共感した。涙の数だけ強くなれるとか歌があるけど、そう思いたい気持ちもあるけど、何回哀しいことがあっても、それが同じような出来事であっても毎回これ以上はないってくらい哀しくなるのだよね。中学生の時に初めてこの本読んだ時は「はぁ・・・」と「はぁ?」ばかりしか浮かばなかったけど、年月が経つにつれて私なりに消化できるようになって、それでも「死にたい」と言いながら死ねない人間と死ねる人間の差がいまだに分からない。
ノルウェイの森って映画化されたよねー。見てないけど、あれはどうだったのかな。
ノルウェイの森って映画化されたよねー。見てないけど、あれはどうだったのかな。
Re:無題
慣れてたまるかあんなもん、って感じだよね。
死ねる人間は究極のところで周囲(世の中)<自分に辿りつけた人間なんじゃないかな。個人的に先にやった人間はズルいと思ってしまう。目の当たりにしたら絶対できることじゃない。だから直子には一生共感できない、と何度読んでも思うし、そういうところがやっぱりフィクションというか文学の世界なんだなぁ、と感じます。
映画は私も観てないや。何でよりによってコレ映画化したんだろうね(^^;
死ねる人間は究極のところで周囲(世の中)<自分に辿りつけた人間なんじゃないかな。個人的に先にやった人間はズルいと思ってしまう。目の当たりにしたら絶対できることじゃない。だから直子には一生共感できない、と何度読んでも思うし、そういうところがやっぱりフィクションというか文学の世界なんだなぁ、と感じます。
映画は私も観てないや。何でよりによってコレ映画化したんだろうね(^^;
2011/07/11(月) 18:05 | ケイト
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック