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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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自分も怖い、怖いから痛いことをわかってほしい、と言いながら自分の中の色眼鏡や情けなさを嫌悪する部分もある、という話。

※災害というか非常にデリケートな話題に絡みます。

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妹みたいに思ってる子に去年授かった赤ちゃんが通常より少し多い部分を持って生まれてきた。自分はそれを間接的に聞いて、まだ赤ちゃんに会えてもいないし彼女におめでとうとも言えてない。咄嗟に「でもそういう子って他人より器用なんだよね」くらいしか言えなかったです。そのせいじゃないかもしれない、けど親はずっと不安と、恐怖と、あるいは自分がそこにいた・いるせいかもしれないと思いながら暮らさなきゃいけない。子どもだって“特別”に見られることを免れないだろうと思う。少し体調を崩しても、もしかしたら、って一生本人も家族も囚われて生きていく、ましてや家や財産や故郷を失った苦しみが付加されたら・・・と考えると何も言えません。被災地内でも意識の差が生じている現状、ジョーク文化の違いもあるだろうし遠い国ならなおさら仕方ないのはわかるけど、メディアが発達している時代だけに、やっぱりやるせない気分になってしまう。何もできてない自分が言えることではないですが、必要以上に傷つけることはやめてほしい。


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あの日からちょうど一年が経ちました。被災地出身の人間として、改めてご支援下さった全ての皆様に感謝申し上げます。本当にどうもありがとうございましたm(_ _)m

※以下はちょっとネガティヴなことも書いてます。

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今でも、今だからこそ余計に「夢だったんじゃないか」と感じることが多いです。時間が止まっているように感じることも一度や二度ではないというか、確実に動きを止めてしまった部分が自分の中にあるように思います。
本当に情けなくて申し訳ないことなのですが、正直ギリギリまでこっちにいることに決めた理由の一つに、この日を地元で迎えたくないという気持ちがありました。初めの半年は必死に嚙り付いていた報道からも、8月、12月と帰省の度に何も前進していないように見える郷里の景色がしんどくて、段々と逃げるように遠ざかってしまっている現状です。ずっとそこにおられる方から「直後よりマシになった」と聞かされても、自分が比べてしまうのはどうしても昨年3/10までの景色なんですよね。離れてしまっただけに、何でこうなったのか、何で全然良くならないのかと考えてしまい、うまく受け止めることができずにいます。
未だに家を直せない方もいらっしゃいますし、農業と漁業くらいしか産業が無い土地にも関わらず塩害と放射能汚染は止まず、物理的・精神的ショックのせいか地震の後に亡くなられた方も本当に多いです。
一東北人として、忘れないでほしい、覚えていてほしい、と思います。復興と言う言葉の持つ意味は簡単なものではないですが、せめて一かけらでも希望が見出せるような日が、被災地に早く訪れることを祈っています。


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※災害絡みの呟き。

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今回の帰省は夜でしたので、前回目にした悲惨な景色はそれほどまざまざと見ずに済みました。反対によみがえってきたのは、まさにあの3月の夜の景色。暗いと言うより黒いんです。空港の明かりしか見えない。ずっと奥の山側の灯りが遠く小さく見えてゾッとしました。人間の家が、生活が奪われるってこういうことなんだなぁ、と。仙台の街中はそれでも活気を取り戻しつつあるように感じましたが、ぶっちゃけ地元周辺は8月と何ら変化が無いように見られるし友人はヒールを履かなくなったりとまだまだこれからも現在進行形の災害なんだな、と。街ごとの復興計画が定まっていないのと、ぶっちゃけ瓦礫の処理がどうしようもないからあのままの状態なんだろうな・・・。よく見ると確かに人の生活の一部だったことがうかがえる“モノ”でできた“壁”は圧巻で、時々煙が出る件と相まって本当に恐ろしくなります。とても一つ二つの自治体だけで処理できるものじゃないと思う。
分かっていたことですが、年賀状の数の少なさもやっぱり悲しかったですね。亡くなった方の名前が書かれていない喪中はがき(一人どころではないから)や、転居先不明で戻ってきたものもありました。そして震災の直接的な被害ではなく、震災の後に亡くなられたお年寄りも本当に多かった。年末まで、二ヶ月おきにご不幸の話を聞いていたように思います。年賀状で通っていた保育所が全壊していたことも知りました。それから地味にショックなのが、お世話になっていたお医者さんたちが宮城や福島を離れたという報せ。もちろん残っておられる方も沢山いらっしゃいますが一人ではなく、3.11の後に他ならぬ医療関係の方々がそういう選択をされたという現実に改めて苦い気持ちにさせられます。


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拍手下さった皆様どうもありがとうございました。
各地で災害が続いておりますが、これ以上被害が広がらないことを切に祈っております。

連休、また心のオアシス(笑)に出かけてきてしまいました(-_-;



本拠地はホント別世界でいいです。

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正直に申し上げて、何を話せばいいのか、何を書けばいいのか分からない状態でした。日常雑記すら書けず本当に申し訳なく思いますm(_ _)m
夏に帰省し、浜の方にも行きました。福島にも行きました。何箇所か仮設も見て、知人から話も聞いて。そこにいたと知らなくて正直想定外の方が亡くなられていたり、生き残った方に対しても家族を失うことの意味を自分は全然わかっていなかったな、と改めて思いました。「流された」の一言が耳に慣れ過ぎて、他人に指摘されて初めて気づくというレベルで情けない。一人になったってことなのに、自分は何もわかっていなかったし、かける言葉が見つからなかった。そして同じ日本でも西と東でギャップがあるし、県内・市内ですら沿岸・内陸、農村・漁村と都市で物理的にも精神的にも大きな差があるんだなと感じます。それが物凄く切ない。仕方の無いことだし、自分ごときがどうこう言える立場じゃないのはわかってるんですが。
台風等の災害も続き、どこにいても他人事じゃないんだと、あちこちに大切な方がいて下さるんだと思い知り、胸が痛んだり恐怖を感じる一方、それはある意味とてもありがたいというか大事なことなのかな、とも考えるようになったこの頃です。皆様のご家族とお家とお勤め先と田畑が無事でありますように。


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例えば

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段差付きっぱなし割れっぱなしの道路とか、ブルーシートかかったままの屋根とか、拡大したフォーマルコーナーとか、充実した香典袋のラインナップだとか、一度に数人分の死亡広告を見て地味にショックを受ける。至るところにある「がんばろう宮城!(市町村ver.含)」の文字が少し目につきすぎるようにも感じる。正直このスローガンが辛い方もいるんじゃないかな。実家のベッドだとかテーブルだとかにぶわっと3月の不安や恐怖が蘇ることもある。ずっとそこにいる方に失礼だし情けないと思うけど・・・。離れた人間には離れた人間の、留まる人間には留まる人間の、色んな驚きや悲しみがあるんだな、と思う。とりあえず現実を見て、ちゃんと考えて戻りたいです。


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