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※災害絡みの呟き。
今回の帰省は夜でしたので、前回目にした悲惨な景色はそれほどまざまざと見ずに済みました。反対によみがえってきたのは、まさにあの3月の夜の景色。暗いと言うより黒いんです。空港の明かりしか見えない。ずっと奥の山側の灯りが遠く小さく見えてゾッとしました。人間の家が、生活が奪われるってこういうことなんだなぁ、と。仙台の街中はそれでも活気を取り戻しつつあるように感じましたが、ぶっちゃけ地元周辺は8月と何ら変化が無いように見られるし友人はヒールを履かなくなったりとまだまだこれからも現在進行形の災害なんだな、と。街ごとの復興計画が定まっていないのと、ぶっちゃけ瓦礫の処理がどうしようもないからあのままの状態なんだろうな・・・。よく見ると確かに人の生活の一部だったことがうかがえる“モノ”でできた“壁”は圧巻で、時々煙が出る件と相まって本当に恐ろしくなります。とても一つ二つの自治体だけで処理できるものじゃないと思う。
分かっていたことですが、年賀状の数の少なさもやっぱり悲しかったですね。亡くなった方の名前が書かれていない喪中はがき(一人どころではないから)や、転居先不明で戻ってきたものもありました。そして震災の直接的な被害ではなく、震災の後に亡くなられたお年寄りも本当に多かった。年末まで、二ヶ月おきにご不幸の話を聞いていたように思います。年賀状で通っていた保育所が全壊していたことも知りました。それから地味にショックなのが、お世話になっていたお医者さんたちが宮城や福島を離れたという報せ。もちろん残っておられる方も沢山いらっしゃいますが一人ではなく、3.11の後に他ならぬ医療関係の方々がそういう選択をされたという現実に改めて苦い気持ちにさせられます。
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今回の帰省は夜でしたので、前回目にした悲惨な景色はそれほどまざまざと見ずに済みました。反対によみがえってきたのは、まさにあの3月の夜の景色。暗いと言うより黒いんです。空港の明かりしか見えない。ずっと奥の山側の灯りが遠く小さく見えてゾッとしました。人間の家が、生活が奪われるってこういうことなんだなぁ、と。仙台の街中はそれでも活気を取り戻しつつあるように感じましたが、ぶっちゃけ地元周辺は8月と何ら変化が無いように見られるし友人はヒールを履かなくなったりとまだまだこれからも現在進行形の災害なんだな、と。街ごとの復興計画が定まっていないのと、ぶっちゃけ瓦礫の処理がどうしようもないからあのままの状態なんだろうな・・・。よく見ると確かに人の生活の一部だったことがうかがえる“モノ”でできた“壁”は圧巻で、時々煙が出る件と相まって本当に恐ろしくなります。とても一つ二つの自治体だけで処理できるものじゃないと思う。
分かっていたことですが、年賀状の数の少なさもやっぱり悲しかったですね。亡くなった方の名前が書かれていない喪中はがき(一人どころではないから)や、転居先不明で戻ってきたものもありました。そして震災の直接的な被害ではなく、震災の後に亡くなられたお年寄りも本当に多かった。年末まで、二ヶ月おきにご不幸の話を聞いていたように思います。年賀状で通っていた保育所が全壊していたことも知りました。それから地味にショックなのが、お世話になっていたお医者さんたちが宮城や福島を離れたという報せ。もちろん残っておられる方も沢山いらっしゃいますが一人ではなく、3.11の後に他ならぬ医療関係の方々がそういう選択をされたという現実に改めて苦い気持ちにさせられます。
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