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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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Summer Snow』関連作。『秋に漂う』で触れられた燐の王女の話。

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「面を上げよ」
 
初めに響いた声は通詞のそれより随分と若い。顔を上げた春椛と弟の春光は、そこで彼らより幾らか年かさに見えるはずの西の王の姿に目を見張った。背後には今や忌々しい仇と化した、隣国の女が控えている。お笑い草だ――悪趣味な“東洋趣味”に覆われた部屋の中には、彼らの国のそれよりもいささか控えめに香の匂いが漂っている。それがまた、この場の異様さを増していた。正式な謁見など認められぬ彼らが頼らざるを得なかった唯一の糸は、屈辱的なことにかの女の情けだった。環と組んだ、否、強引に巻き込まれた戦に敗れて後、燐の地には動乱が続いた。環・帝国・西の勢力の三すくみに対する見解の食い違いからただでさえ揉めていた王子たちの内、環との結び付きを積極的・肯定的に進めていた王太子・春藍は戦死。その悲しみに憔悴し斃れた王の後継を巡って第二王子・春光と未だ幼い第三王子・春寒を要する一派が争う中、突如進攻してきた北方の羅須族に燐の北部は占拠された。慌てて帝国に訴え出ようとした燐の王城に届いたものは、
 
『北燐を羅須族の領土と認め、これに従う統治者として旧燐国第三王子・春寒を任じる』
 
という都からの手酷い報復だった。帝国にとっては己を裏切った燐への制裁であり、徐々に力を増す北の蛮族への“砦”の構築をも目的としていたのだろう。だが長兄が亡くなった以上、次に燐を支配すべきは己だと信じてきた第二王子・春光はそれを許しがたい暴挙と捉えた。
 
「我が国を分断するだと!? 環のために戦に巻き込まれ……たかが“太守”の奴隷のように扱われ、その果てがこれか! 兄上は本当に何と愚かな過ちを……! だが最早こうなれば、帝国には頼れまい」
 
屈辱を飲み、彼は覚悟を決めて西の地へ赴く――かつて血で血を洗うほどの激しい戦をした敵の元へ、燐が被害を被った証としての姉を連れて。
 
「我らは環に組することも戦を起こすことも、何も望んではおりませんでした。気づけば無理に組み込まれ、虐げられて……挙句国土を奪われるとは、余りのことにございませぬか。どうか貴国の優れた正義と平等の名の元に、我が国にご助力いただきたいのです」
 
憎々しげな鋭い眼差しが、国王であるフェリクスを通り越して背後の女――雪夏へと注がれた。それを遮るように、年若い王の白く大きな手が舞う。
 
「南燐の権益は認めよう。あなた方は他のどの国からも独立した存在として我がオーデンが味方につく。自治領である環と共に、誤った慣習を続ける国々への砦として邁進してもらいたい」
 
牽制の込められた言質を受け取り、春光は嗤った。なるほど確かに“彼ら”にとって果ての地は、己が手の中に確かに掴んでおきたい玉なのだろう。だが――
 
「陛下には随分と“東”の女がお気に入りのご様子。傷があっても構わないとおっしゃるなら、ここにおります我が姉も、お役に立つかと存じますが……」
 
春椛自身が弟の揶揄に気づく前に、西の王は不愉快そうに顔を歪めて立ち上がった。
 
「……僕は別に、黄色が好きなわけじゃない」
 
初めて見せた年相応の王の表情と共に吐き捨てられた言葉の意味を解さぬまま、彼女は顔を上げた。
 
「待って!」
 
立ち去ろうとする青年の太い腕に抱かれた背中に、春椛は声を張り上げた。
 
「夏月は……あの人はどこにいるの?」
 
わずかに振り向いた黒の瞳が、みるみる内に大きく見開く。
 
「……最後まで父と共に城に在ったと、そう聞いております」
 
絞り出すようなその声に、雪夏は主の腕をそっと払い、真っ直ぐに震える女へ歩み寄った。
 
「死んだって言うの? そんなの嘘! ならば何故、骨の一つも見つからないの? 辞世の句も、遺言だって残っていやしない。許せない……許せないわ、私は言ってやりたいことが沢山あるのに」
 
すっと伸びた目じりから滴った雫が、女の衣をかすめて落ちる。幼い頃から見知った彼女の嘆きに雪夏はそっと目を細め、痛ましげに瞼を閉じた。言いたいことも、言えないことも――複雑に絡み合う感情が、二人の間を行き来する。何て変わってしまったのだろう、手を繋いで花輪を編んだ娘たちは。
 
「セッカ、もう良い。彼女には環が手厚い償いをするだろうし、僕らも助けるよ。さぁ行こう、身体に障る……」
 
身重の“妻”を慮るように優しく手を引く青年の姿を見て、春光は反吐を吐きそうな唇を懸命に噛みしめ、体を小さく震わせた。元々帝国へ反旗を翻すことに否定的だった彼の立場からすれば燐をそちら側へと追い込んだ環の所業は完全なる悪であり、実際に戦の結果は惨憺たる有様で、西の夷に頭を下げるような事態にまで陥ってしまった。全ての因果を作り出した憎い隣国の、更には夫の仇の妾に身を落とすような輩を不快に思わずにいられようか。あまつさえ彼らの価値観の何もかもを壊しておきながら、雪夏は泰然とその立場に甘んじているように見えるのだ。
一方で姉の春椛はそのような弟の苛立ちなど気にも留めず、うつむき静かにその場に佇んでいた。恥辱も打算も憤りもなく――いや恐らくはそれすら超えて、彼女はただ一人の男のことを考えていた。彼の行方を聞くためだけに、春椛ははるばる西の地へとやってきたのだから。
 
「夏月……」
 
呟きが響いた途端、弟の顔は奇妙に歪む。
 
「姉上、いい加減にいたしませぬか! オーデンの王の前でいらぬ恥をかいた!」
 
春光の怒りは当然のことだ。夏月、それは春椛の夫であった男の名。彼女が強いて縁付けられた、環の国の兵士の名。婚姻を以て環と燐の融合を図り、間に生まれた子を王にする――その約定を環が裏切った、燐にとっての屈辱の象徴。彼は太守の家筋でも貴族の血を引く訳でもない、ただの兵、ただの男だったのだ。だからこそこれほどに、春椛は執着するのだろうか。“王族”としてではない“春椛”という女ただ一人が手に入れた、たった一つのものだったから。この地の青く冷えた空は、慣れ親しんだ白い花の季節を、どこか思い起こさせる。
 
 
~~~
 
 
東の果てでは夏の日差しが段々と弱まっていき、空気が澄んで冷えていく頃が最も過ごしやすい時期とされる。普段は思うように外出もままならない春椛が久しぶりに連れ出された街の外では、無窮花が盛りと花を付けていた。この地にも故郷と同じ花が咲くのか、と思わず母国の名を口にした春椛の肩を、あの日の夫は強く引きつかんで止めた。
 
『ここは環だ、それは木槿と呼ぶ』
 
しかつめらしい顔をした彼の言葉にうつむく彼女の耳元に、夏月は
 
『申し訳ありません……けれど自分は、軍人なのです』
 
と小さく、流暢な西の言葉で囁いた。二人の傍には、常に“影”の気配があったから――
 
幼かった昔、春椛の夢は天子様の後宮に上ることだった。彼女が生を受けた燐の国は東の帝の血を引く“王”の統べる国であり、元々帝の臣として遣わされてきた“太守”や現地の民から選ばれた長が任じられる“首長”の治める近隣の国・環や練とは異なるという自負が培われてきたからだ。王家の姫だけが立つことのできる后の位に昇ることを、少女はいつも夢見てきた――例え“帝国”の権威が形だけのものになりつつある中でも、顔見知りの太守の娘が婚約し西に旅立ってしまっても。己だけは違う、燐だけは異なるのだ、最後まで天子様に忠義を尽くし、決して西に迎合などしない。そう考えてきた春椛の思いを裏切ったのはあの日の兄のたった一言。
 
『そなた、環へ嫁げ。我が国は今日より帝国から独立した環と行動を共にする』
 
寄せられた眉に、低い声音。いつになく厳しい態度だった。
 
『お待ち下さい、兄上! 我が国は天子様の血を引く由緒正しい王の血筋ではございませぬか。西に媚びへつらい、その色に染まったあのような国に、何故姉上を……!』
 
ガタリと立ち上がり声を上げた第二王子・春光をたしなめるように、今度は父王が大きく咳払いをした。
 
『環はその王の血を望んでおる。よく聞け、春椛。これはかねてより環と協議していたことなのだ。環側は我が国と統合した暁におまえの子(・・・・・・)を王に据えても良いと言うてきておる。否、むしろ“そうするため”に儂はこの案を呑んだのだ』
 
驚きにピクリと跳ねた娘の瞳を、王は真っ直ぐに覗き込んだ。
 
『環には西の知恵と技術がある……何、所詮は夷、完全に取り入ることは叶わなかったようだが、西と通じたことで帝国の反感を買い、この地で孤立した環を取りこんでおくに悪いことは無い』
 
『それのみならず、帝国は今、北の羅須にも脅かされている。北とも境を接する我が国が環と羅須、双方に責め立てられたとて……都が救いの手を差し伸べるとは思えぬ。そんな余裕があるとは、な』
 
父の言を継ぐように重ねられた兄の言葉が、その場を静まりかえらせる。世継ぎとして都に遣わされ、学問と知見を得るため三年の時を彼の地で過ごした彼の言は重く不気味に鼓膜を揺らした。
 
『ですが……ですが兄様、雪夏は、環の太守の娘はこちらに戻ってきたのではありませぬか? それは……それは』
 
環は独立の後ろ盾であったはずの西の大国と決別し、帝国だけでなく彼らまで敵に回したのでは――? 円満な結末であるならともかく、戻ってきた彼女はすぐに他国へ嫁ぎ、環は軍備の増強を急ぎつつあるとのきなくさい噂が、女たちの口端にまで上がっている。ならばその隣に位置し、帝国の中でもさほど大きいとは言えない立場の燐が環と結ぶことは、果たして得策と言えるのか。
 
『仕方あるまい……望むと望まざると、いずれこの地は戦場になる』
 
それは不吉な予言。避けられない運命だと、兄は考えていたのだろうか。誰かを――何かを責めたくなる弟の思いは嫌と言うほどわかる。けれど、今となっては……。吹きすさぶ風に紅い葉の舞う姿が視界の端に過った気がして、春椛は窓の外へ目を凝らした。かの木はこの地の土では育ちにくいものだろうに、よもや彼女が持ち込んだものだろうか。それとも”彼”が、この不自然に歪んだ空間と同じ意図で――?
瞳を閉じれば鮮やかによみがえる、紅と白の鮮やかな対比。やはり自分はあの花を思い出さずにはいられない、と彼女は目を瞬かせる。染まりゆく山際、冷えて澄みゆく風に、白い花と紅の椛。完成された世界であったように思う、決して混じり合えない、それでいて全てが共存していたあの一瞬は。どちらにしろ失われてしまったもの、後に残るのは一文字の感情のみ。憎しみと似ていて違う、ただひたすらに面影を、消えることなど、忘れることなど許さないと想う気持ち――例え何が相手でも、己自身に対してさえ。







後書き
  関連作:夏に灼かれし

 
 


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Summer Snow』雪夏の夫・由樹編。

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「来るぞ! 東を守れ!」
 
深い森の茂みに身を潜め、恐らくは最後になるであろう攻防――最早一方的に攻められているだけではあるが、の中、由樹は声を張り上げた。上を見れば木立の隙間からギラギラと燃えるような日が降り注いでいる。汗は止めどなく鎧の内を蒸して濡らし、携えた刀がいやに重い。先ほど銃弾に掠められた左足からの出血はまだ収まっていないようだ。霞みそうになる意識の中ふと、己を陣へと送り出す妻の真剣な瞳が脳裏を過る。
 
『ご武運を。もし……もしもあなたとこの国が救われるのなら、私は』
 
酷く思いつめた雪夏の眼差しに、由樹は細い肩にそっと手を置き首を振った。その先を告げてはならぬと。確かに練を戦に巻き込んだのは環だろう。環を裏切れば――帝国であれ西であれ、どちらに下るにせよ彼の命と民の名誉は保障されるのかもしれない。環の太守の娘、只今の敵・オーデンの王子のかつての許嫁であり、かの地で育った彼女がそれを口にすることは許されていないのだ。静かな深い黒の瞳は、涙をこぼすまいと懸命に見開かれていた。
 
「余り、惨い仕打ちはしてくれるなよ……」
 
そう、今己が向き合っている敵軍の大将が妻の元許婚を押しのけて太子の位を得た者なのだと思い出し、思わず密かな呟きが漏れた。
東では西とは異なり、一つの巨大な帝国の中に分かたれた小さな国々を帝国から太守の任を認められた長が統治する、という制度が長く続いてきた。月日と共に制度は崩れ、ただでさえ上辺を取り繕うに過ぎぬものと見られた帝国の権威は、都から遠ざかれば遠ざかるほど薄れ、地に落ちて行った。自治権を強めた諸国は各々が独自の道を模索し、互いに小競り合いを繰り返すようになる。そこに浸けこんできたのが、オーデンを含む西の国々だった。彼らは果ての国である環に海から近付き、貿易や学問の功をもって彼らを取り込むとしきりに東の体制の“異常”を吹聴し帝国からの独立を促した。その一方で帝国には毒にも等しい枯れた草の葉を高値で売り付け、内側の腐敗をますます深刻なものにした。両者の対立を煽り、武器を売り付けて、荒稼ぎした結果が今度(こたび)の戦だ。初めから、東の地を奪い取る口実を得ることが目的だったのだろう、環を利用し、足がかりとして彼らは帝国に手を伸ばす――
 
「このような時勢の中で、我らが国を名乗るようになるとはな」
 
皮肉な言と苦笑がこぼれる。潮の匂いを孕んだ風が、血に汚れた由樹の頬を荒く撫ぜた。
練は元々帝国の南の海に浮かぶ小さな島であり、帝国の諸国の一部というわけではなく、けれど帝国と全く関わりを持たぬわけではない、という曖昧な立場にあり続けた。島の統治者は首長と呼ばれ、代替わりをすれば大陸に出向き近くの国の太守に目通りし、また商いや漁においても帝国の名の元に大きな庇護を受けてきた。何代か前の首長の中には、都に赴き直接皇帝の拝謁を賜った者もいると聞く。けれど近頃西の輩が大洋を超えるようになり、島を取り巻く環境は大きな変化を遂げたのだ。
良くも悪くも帝国の支配は、己に従う姿勢を見せる限りは放っておき、政のやり方は現地の者に丸投げするというものである。仇為すものが入ってきたとて、都に害が及ばなければ――むしろ都が穢されるくらいであれば、容赦なく周囲の土地を身代りに差し出す、そのような考え方が中心だった。南に浮かぶ小さな島、格好の貿易拠点である練はそう見なされ、続々と訪れる西の蛮族の横暴をいくら訴えても、家財を奪われ畑を毒の葉の畑に変えられていく島民の窮状に助けを求めても“帝国”からの反応はなしのつぶてだった。
 
『何という酷い有様だ……何という、』
 
“帝国”に属していた人間で唯一島を訪れ、そう嘆いてくれたのは遠い環の国の太守。彼らが急速に西に接近しつつあることは既に広く知られた事実であり、初めは警戒感を隠せなかった由樹の心を、その一言はいささか緩め、温めた。
 
『我らは我らの国を、土地を、民たちを守りたいのだ。帝国にはそれができぬ。今のままでは、全てが西に奪われる。……ならばせめて、東の地に我ら在りと、示せる立場にならなければ』
 
いっそ悲壮な覚悟を帯びて輝く瞳に差し出された手を握ったのは、純粋な共感と子供じみた憧憬のせい故ではなかった。既に西の植民地も同然の地であればこそ、東と西の戦にならば真っ先に切り捨てられる地は練だろう。国とすら認められず、未開の島として扱われてきた練は、古くからの家筋である太守が治め、西から最新の学を得た環からも対等に見られることは無いかもしれない。それでも、彼らはきっと共に戦うことができる。一方的に見捨て、あるいは搾取するような関係ではなく、彼らに与え、また彼らが与えるであろう(・・・・・・・)何かが、それを構築し得る関係が未来のこの地のためになるのではないか――? そうして由樹は、環の太守より与えられた“練”の国号と太守の地位を受け入れた。
 
『……娘がいる。名を雪夏、間もなくこちらに戻ってくる。……オーデン、西の地よりな』
 
それから時を経ずして、環の首都。向かい合う相手のいつになく顰められた眉からは、彼がこの特殊な状況で帰ってくる年頃の娘を心から案じていることが見て取れた。何故その日自分が呼ばれたのか、それを悟れぬほど由樹は愚かではなかったから。
 
『暫し時間をいただきたい、両国の絆を固めることに異存は無いが、私の一存で済む話とは思えませぬ』
 
従順な臣のように答える己の声を、どこか遠い場所で紡がれた言葉であるかのように彼の耳は拾っていた。
 
『西の夷の手垢のついた女子を伴侶に迎えるとおっしゃるか!』
 
東の地にいつの間にか入り込み、諸国への圧力を増す西に対する民の感情は甚だ悪い。ことに直接西の者どもの蹂躙を受け、島民たちが奴隷のように扱われた、生々しい記憶の残る練では尚更だ。太守がオーデン王子の許婚として数年をかの地で過ごした妻を娶ることに、臣たちの論議は白熱した。それでも結局、練が戦に巻き込まれることを避けられない以上、東においては最も西の理に精通した環との同盟を深めることはやむを得ないと判断されたのだ。それに加えて、由樹自身には一国を預かる者としての打算の側面も大いにあった。いくら鬼と称される西の人間であっても、五年の歳月を共にした許嫁に全く情が生まれていない訳がなかろう、と――まして今となって考えるに、雪夏は美しく気だても良い。……それともそれは、身内となった彼女へ向ける彼自身の欲目だろうか。
 
『はじめまして、由樹様。雪夏と申します、末永くよろしくお頼み申し上げます』
 
つつましやかな微笑と共に床へ手をついた女は彼の想像とは違い、穏やかで控えめな風情をまとう小柄な少女だった。西から来た女は派手好みのあちらの文化に染まり、目にも眩い洋装をして傲岸不遜に振る舞うのだろう、といつの間にか狭量な偏見に己が囚われていたことを、由樹は初めて自覚した。
東で育った彼には西で言うところの“愛”と言う概念が根づいているとは言い難いが、共に過ごす内、できる限り彼女に幸せであってほしいという思いが由樹の胸に湧いてくるようになった。南海育ちの彼は話にしか知らぬ、静かに降り注ぐ白い雪とは、このように優しい景色を作るのだろうか――雪夏の背後に浮かぶものを見るような心地で、彼はよく目を細めたものだ。国へ向ける愛着とも、民へ向ける庇護欲とも違う。彼女自身を欲したわけでも、彼女が望んで嫁いできたわけでもなく、燃え上がるような激しい感情は二人の間に存在しない。それでも確かに、同じ目線で同じものを見ているのだと、守りたいのだ、と共有できる思いがあった。それだけで、夫婦として、一つ家に住まう家族としては十分だと由樹は思った。

「思えば初めから、勝ち目の無い戦だったのだ……」
 
飛んでくる砲弾を見て、苦々しげに由樹は吐き捨てる。撃つ対象を定めるでもなく、死に行く者の顔も見えぬまま敵を屠る相手のやり方は、彼の目に到底好ましいとは映らなかった。許せないとすら感じるが、味方の身を守り敵を数多く殺す、と言う意味で確かに彼らは優れている。その技術力・資源力――妻から聞いた話だけでも、西は東を圧倒する。果ての国として見下され、それが故に西との細い繋がりを保ってきたかの国はきっと気づいていたのだろう、受け入れねばならぬ現実を。それでも、それに抗いたかった。だからあれほど愚かなことをしでかしたのだ、帝国を裏切り、西に迎合するように見せかけて彼らを取り込まんと立った。全ては己が地を、己が地として残したいという願い故に。西に暮らしたと言う妻が頑なに守る慣習を目の当たりにし、由樹はそう思わざるを得なかった。本当は誰もがそう願い、そのために争っているのかもしれない。戦わなければ奪われる、奪わなければ失ってしまう――あるいは西の輩もそんな観念に支配され、これほど惨い仕打ちができるのではないか。初めに掲げた理想はどうあれ、今の環とて同じこと。練の文化を、燐の言葉を、環は“一つ”にしようとした――全てを“同じ”にしてしまえば、奪われることはなくなるから。失うこともなくなるから。
 
「それでも、私は……」
 
おまえを娶ったことを悔やむことも、おまえの国を恨むこともないだろう。幸いあれ、この祈りを“愛”と呼ぶのなら――
猛烈な爆音とともに激しい土煙が由樹を襲う。既に音を発することもできない唇から苦しい息を吐きながら、どこか冷静に醒めゆく頭の片隅で彼は妻に呼びかけた。今、倒れゆく東に在るのはただ人々と土地だけだ。貧しく痩せ衰えた彼らと、腐り果て疲弊した社会。彼自身とて初めから負ける日を考え、利用するつもりで妻を娶った。滲む切なさと悔恨を押し込めて、由樹は静かに自嘲する。せめて王籍に留まっているという彼女のかつての許婚が、仁ある者であることを祈るしか、今の彼にはできなかった。その男と雪夏を引き裂いた眼前の敵が、東への強硬論を唱えついに彼らを打ち破らんとする目的に過った一抹の悪寒と共に、由樹の身体はグラリと傾く。眩しい夏の日差しが燦々と照りつける、蒸し暑い午後のことだった。








→関連作:秋に漂う春に恨みし


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Summer Snow』関連作。東アジア風。薬物・近親間の恋愛を想起させる描写があります。

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ふう、と白い煙を吐きだして、秋櫻は卓子の上に煙管を置いた。魂がゆうるりと、煙と共に漂い出ていくようだ。西から来たという枯れた草の葉がもたらしてくれるものは、甘い香りと酩酊感、そして強い快楽とその果てのとめどなく堪え難い虚無。それでも彼女は手放せない、束の間の夢を見るための道具を。
 
「それで、兄上様はどうなさるおつもりなの?」
 
至高の位に座す者の方を見ずして、秋櫻は薄い唇を釣り上げた。切れ長の目はぼんやりと、その黒い光を曇らせている――もう幾年も。
 
「環の隣国、燐から妃を召そうかと思っている。小国の田舎者だが、仮にも我らの血を分け与えた“王”の一族であるからな。仕方あるまい」
 
苦虫を噛み潰したような顔で溜息を吐く兄、皇帝であるその人の言に秋櫻は目を瞬かす。
 
「なぁんだ、たったそれだけ?」
 
同母妹の遠慮の無い言い草に、年若い皇帝は顔を赤らめ立ち上がった。
 
「環は果ての国ぞ! 燐が“帝国”に従うことを明白にすれば奴らは孤立し、いずれ自滅しよう。王の娘を差し出す誉れを得た燐は我らと環の間で揺らぐこともなくなり、その妃を人質として圧することもできよう。最良の判断ではないか!」
 
唾を飛ばして叫び捨て、到底優雅とは言えない足取りで去って行く兄の背を見送り、公主は口端を上げた。
 
「さすがは陛下、面白い方」
 
彼らの暮らす“帝国”――この世に唯一つの国であるのだから名など持つ必要は無い、西の夷どもは“イースタン・エンパイア”等と呼ぶようだが――が形骸化しつつあることは誰の目にも明らかだ。皇帝が世界の中心であり、支配する国々に服従を誓わせて権威を誇示するという仕組みがとうに崩れ去ったことは。個々の国への影響力は弱まり、太守や王すら時を重ね都の血は大分薄められてしまっている。彼らから忠誠心や帰属意識が失われていくのは避けがたいことなのだ。今や腐敗と因習に満ちた、沈みゆく存在なのだから――その帝国に公主として生まれた己を省みながら秋櫻は嗤った。
都から遠く離れた辺境の国・環が帝国に反旗を翻し、西の蛮族と通じたという。かの地の太守は“帝国”に属するはずの臣や民を続々と西へ送り込み、あまつさえ東の地への居住を禁じている西の民をも招き入れてその知識や技術を学んでいるという話だ。皇帝を激怒させたのはそれだけではない。環は船と武器を大量に西の国より譲り受けた。本来ならば貨幣を鋳造する都を介さなければならないはずのそのやりとりを、自国から取れる金銀をもって直接、皇帝に無断で行ったのだ。絹や毛皮、茶や香料といった他愛ない交易であるならば、これまでにも目こぼしをしてきたこと。けれど大量の輸送手段、兵器、そして学問となれば話は別だ。環は帝国に抗しようとしているのではないか――西から持ち込まれた、邪悪な思想の名の元に。そんな懸念が高まる頃、環の太守が初めて公の場で次のような宣言を出した。曰く、
 
『我らは帝国の一部として皇帝に従うものではなく、太守を君とし環の法に則って政(まつりごと)を行う独立国家である』
 
と。都は深い衝撃を受け、皇帝は激怒した。我も我もと束ねる小国全てに同様の宣言を出されれば、臣民の信を失い帝国は瓦解する。既に内側が溶け腐っていることを嫌と言うほどに自覚していた役人たちも、否、認めていたからこそ表面の権威が剥がれ落ちることを何よりも恐れたのは、当然の反応と言えるだろう。
 
『環を攻めよ! 小さき鼠が虎の尾に噛みついてどういう目に遭うか、思い知らせてやらねばならぬ!』
 
勇んで出兵した帝国側は、事態を予測した上で独立を宣言し、西の大国オーデンと結び周到に迎撃体勢を整えていた環の前に虚しく破れ去ることになる――毒の効用は知っていても太刀の切れ味は知らぬ貴族たち、金を得ることと貯めること、そのための地位を得る戦いしか知らぬ官僚たち、都人は刃の交え方も弓の射方も忘れ、また銃と砲弾の威力に全く興味を示すことなく余りにも長い時を過ごしてきた。
帝国の誇りは大いに傷つき、人々は何かを忘れたがるように――直視することを恐れるかのように、束の間の幸福を求め、まどろみに夢を追うようになった。付け入ったのは強欲な蛮族、西の者ども。夢を見られる魔法の薬、これさえあれば決して負けない。この高価な草をこれほど大量に買うことができるのは帝国だけ、帝国であったればこそ。環の地には全くと言って良いほど流通していないその草に人々はあっという間に夢中になり、公主たる秋櫻さえも何の抵抗も持たず、少しも悪びれること無く女官に勧められたそれを吸い、今も身体の一部であるかのように煙を吐き出しているわけだ。
 
「どうでもよろしいではないですか、皇帝陛下(あにうえ)。環も燐も……どうして、」
 
また新たに妃など迎えようとおっしゃるのですか、と吐き出しかけて公主は口をつぐんだ。気短でありながら小心者、幼き頃より幾度となく命を狙われ、生き延びなければ、今在る地位を維持しなければ殺される、と身を持って教え込まされ育った兄。己とよく似た細面に青白い肌、いつも固く引き結ばれている紫色の薄い唇を持つ兄をそこまで怯えさせるのは、あるいは自分の存在ゆえだったのかもしれない、と彼女は時に考える。父は女色に溺れ、その果てに生まれた子どもたちの跡目争いには一切の関心を示さずに、良くも悪くも放っておかれた。母はといえば病弱の上に酷い癇癪持ちで、伏せっているか、甲高い叫び声を上げて女官や幼子を折檻するかのどちらかだったのだ。小さな手で兄の袖を掴む妹だけが、彼にとって真実向き合い、笑顔を向けることのできる無二となってしまっても、誰が責めることができようか。
 
『あなた様が失脚なされば、お妹君が――』
 
成長するにつれ、秋櫻本人の耳にもそのようなことを兄に吹き込む輩の囁き声が届くようになった。それほど皇帝は、彼女を大事にしていたのだ。同じ腹から生まれた、けれど直接に跡目を争う必要の無い妹という存在を。皇帝が公主を降嫁させないのは、その夫が己の地位を脅かすことを恐れるためだ、と陰口を叩く者もある。臆病で怠惰な皇帝――西への弱腰も、今に至るまで環に復讐を果たせずにいるのもそのせいだと。けれど秋櫻は愛しく思う、そんな愚かで哀れな、分かち難い絆で結ばれた兄という男を。
 
「燐の件はどうなりました?」
 
卓子の向こう、金が張られた屏風の奥に向かって問いかけると、
 
「既に主に伝えてございます」
 
と静かに答える声がある。
 
「環の忍は本当に、身を隠すのが上手いこと」
 
公主はころころと、鈴を転がすように笑った。
現皇帝の手が最初についた女は、入内から半年後、湯治に出かけた先で行方知れずになった。最初の子を生むはずだった女は不幸な事故に遭い、皇帝の眼前で石の柱に潰され死んだ。皇后の地位にある者は時を経ても身籠らず、肌と爪が黄色く染まる原因不明の病に長く悩まされ続けている。その全ての偶然に関わる者を、後宮に住む者――否、都の闇に身を浸す者が気づいていない訳もない。
 
「かの姫君は、我が国が丁重にお迎えすることになろうかと存じますが……」
 
言い淀む声の主に、秋櫻はパチンと扇を鳴らして応えた。
 
「それは良かった、生き永らえる良い道ですわ」
 
妖しく笑う公主の顔に、影は黙って頷いた。兄への執着、依存、その果てに何があるのかなど秋櫻は考えない。ただ彼に、あの男に己より大切なものができることが気に食わない。彼が己ではない何かに夢中になることは、それが国であれ人であれ政であれ――長らく彼女が占めてきた部分を他の存在に奪われ、兄の視界に己が映らなくなってしまうことは、秋櫻に取って許しがたいことだった。
 
「帝国は滅びません、皇帝(あにうえ)そのものが“帝国”なのですから。愚能な臣どもが主張するのはただの木箱、とうの昔に朽ちている。本当に大切なのはその内、輝く玉たる我々だけよ。何物にも代えがたい、誰にも滅ぼせない、“血”を持つ私たちだけが……」
 
卓子に置かれた長い煙管に、再び白い手が伸びた。吐き出される煙の流れから逸れるように、影が小さく身じろぎする気配を感じ、公主は鼻で笑ってみせた。得られるものは甘い夢などではなく、ただのごまかしなのだと彼女とてよく解っている。それでも、一時であれ現(うつつ)に還る日を遅らせることができるなら――この手に取って口にするまで。例え己が身を蝕む毒であろうとも、彼女の知ったことではない。後宮の実力者、皇帝の溺愛する妹、嫁き遅れの煙管中毒――仄暗い噂が様々に囁かれる女の望みを測りかねたまま、影は室を後にする。確かな病巣、引けぬ決意。連綿と続く地の平穏が、今音を立てて引き裂かれようとしていた。







→関連作:夏に灼かれし春に恨みし


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夏に降りたる』・『夏に溶けゆく』フェリクス編。

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『いけませんよ、お邪魔をなさっては。お二人は将来ご夫婦になられるのですから』
 
並んで語り合う兄と友人の姿を見つけ駆け出して行こうとした少年は、訳知り顔の乳母に袖を引かれ、たしなめられて足を止めた。何故、と問うほど幼くも愚かでもなかった彼が、それでも抑えきれない不満の念に目覚めたのはあの日が最初だったのかもしれない。いつの日か、彼が関わることのできない二人だけの世界を兄と彼女が作り上げてしまうことが嫌だった。雪夏がイーノスに取られてしまう。独り占めされてしまう……最初に手を伸ばしたのは自分なのに。そう考えると堪らなく不快な気分になって、フェリクスは床を蹴った。理由のわからぬ苛立ちを、綺麗に打ち消してしまいたくて。
 
彼には母の記憶が無い。幼い頃に他界したというその人に何の感慨も抱かないフェリクスには、その代わり彼を溺愛する父と面倒見の良い異母兄がいた。妾の遺児を表向き自らの養子として引き取った王妃が、彼の青い瞳を見る度ひそやかに眉を顰めていることを、聡い幼子は知っていた。慈愛深き母の印象を強めるため、実子イーノスに万が一のことがあった際の手駒――彼女が彼を引き取った思惑は様々あったのだろうが、結局王妃自身がフェリクスの手を取るのは公の場のみのことであり、実子イーノスですらその腕に抱かれることは滅多に無いように思われた。小さな弟を抱き上げる兄の壊れ物を扱うような仕草からそれを察したフェリクスは、彼にことさら無邪気な笑顔を向けて見せたものだ。思えば初めから、どうすれば他人(ひと)に好かれるかということに、とても敏感な性質だったのだろう。そうしなければ生きていけない立場だと、本能で常に感じていたから。
 
「おとうさま、ちょうちょ、ちょうちょ!」
 
ふと、パタパタと走り込んできた幼い娘が過去にたゆたっていたフェリクスの意識を現実へ引き戻す。彼の目の前に差し出された小さな虫籠の中には、鮮やかな蝶が懸命に羽をはばたかせていた。
 
「小さなお日様、ダメだろう? そんなことをしちゃ、蝶が可哀想だ」
 
滅多に叱られることのない彼女は、珍しい父親の小言にしょんぼりとうつむいた。その姿を見てフェリクスは思わず自嘲をこぼす―― 一体、どの口が言うのかと。
 
 
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『ふぇりくす?』
 
初めて雪夏に名前を呼ばれた時の喜びを、彼は今も覚えている。イーノスに対抗する勢力の拡大を恐れて、王妃は他者とフェリクスの接触を余り認めたがらなかった。付けられた家庭教師はたった一人。赤ん坊のころから世話をしてくれている乳母が一人に、異母兄と父王だけの小さな世界で活発な子どもの好奇心が満たされるはずもない。名目上は兄の婚約者でありながら環の献上品のような形でやって来たその少女が、フェリクスにとって初めて出会った同世代の子どもで、ただ一人の友人となるのにそう時間はかからなかった。
 
『セッカ、きょうはリスをつかまえにいこう! はやく、はやく!』
 
毎日、フェリクスは王宮の隅に設けられた雪夏の部屋に押しかけては女官の影に縮こまる彼女を引っ張り出した。すばしこく逃げ回る小さな生き物を追いかけて木に登り、林を抜け、ゼイゼイと息が切れるころ、ようやく手の中に収めた艷やかな毛並みを撫でて彼女が問うたのは、いつのことだったろう?
 
『これ、どう、しますか?』
 
『うーんと……ひもでつないでおこうかなぁ。きっとおもしろいよ!』
 
拙い彼女の言葉を気にする体もなく、少年があっけらかんと返した途端、黒いつぶらな瞳は潤み出し、みるみる内に溢れそうになる――
 
『かわいそう……きっと、しんじゃう』
 
遠い日の少女の声が、青年となったフェリクスの耳にこだました。彼女の言にムキになった彼が宣言通りに繋いだリスは数日と持たず衰弱し、紐に絡まって死んでしまった。
 
「逃がしておいで、できるだろう? 君は優しい子だから」
 
ポンポンと頭を撫でられた冬陽がコクリと頷いて窓へと駆け出し、フェリクスはホウと溜息を吐いた。開け放たれた窓に向かい、大きく口を開けた籠の入り口から、そろりと飛び立っていく一羽の蝶。遠く、広く、見えない空へと――どこにも行けない、彼女の代わりに。
 
「随分優しくなりましたわね」
 
おかしそうに笑う声が響いて振り返ると、湯気の立つ茶を乗せた盆を携えて、たおやかに成長した雪夏が立っていた。差し出された茶碗はウェストのティーカップと違って持ち手の無い、複雑な文様に彩られた彼女の故郷の器。その内を満たす茶は緑色で、草の香りがとても強い。フェリクスはぼんやりと、彼女を撃った日のことを――彼女に射られた、否、射られていると気づいた時のことを思い出していた。
 
 
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『僕おかしいと思うんだよ……セッカは良い子だけど、父上の後を継いで王冠を戴いたイーノスの隣に、彼女が並ぶのは想像がつかないなぁ』
 
甘えるように父に告げた時、既に少年の苛立ちは頂点に達していた。父に可愛がられれば可愛がられるほど、群がって来る後見は増え、イーノスとの対立軸は鮮明になりつつあった。今にして思えば、父王がフェリクスに向けた愛情は、王妃への当てつけの側面を多分に孕んでいたのだろう。第一王子を儲けた想い人との仲を裂かれ、あてがわれた気位高い妃とその間に生まれた二番目の息子を、父は扱いかねていたのだから。初めはそのように兄と比較され、競うよう仕向けられること自体を厭っていたはずなのに……変わったのは、彼女と出会ってからだった。
乳母に耳元で小言を囁かれて間も無く、兄の母である王妃が倒れた。進みゆく病にその死――引いては彼女が支援する環のオーデン国内での立場の凋落が噂され始めると、太守の娘を許嫁に置くイーノスの求心力は急速に衰えを見せ始めた。かねてより“イースト”への不満がくすぶっていた世情にあって、王子の伴侶に黄色い肌の娘を迎えることへの賛否は、彼を擁する一派の中でも別れていたから。全ては賢しらな少年の思惑通り、容易なことだったのだ、二人の仲を引き裂くことなど。元々国王も、兄の周囲の貴族たちとて、“イースト”の娘に許婚の地位は与えても正式に王家の籍に入れるつもりが無いことは明らかだった。イーノスが成人しても、雪夏が十七の歳を過ぎてもなお、婚儀の準備が行われる気配すら無かったのだから。
彼らの婚約が白紙となり雪夏の帰国が決まった時、フェリクスは内心で快哉を叫んだ。彼女がオーデンを去ることは残念だが、状況が落ち着いたらこちらから会いにいけば良い。たとえ躊躇われたとしても、手を差し出せばきっと応えてくれるだろう、初めて出会った頃のように。そんな幻想を叩き壊したのは一年と経たずに届けられた彼女の結婚の報せ。
 
『……もう十八だ、太守の娘として当然の義務だろう』
 
妙に落ち着きはらった兄の反応が、フェリクスには不思議で仕方なかった。イーノスと雪夏の二人が、己を爪はじきにした世界を作り上げるのを阻みたくて追い詰めたのに、彼女はあっさりと兄でも自分でもない他の人間と異なる世界に旅立ってしまったのだ。それがフェリクスには許せなかった。太子の地位を得ると持ち前のカリスマ性を発揮して対東強硬論の先頭に立ち、父を説得して戦を起こした。不均衡なイーストラインの開放を公平・平等に行い、優れたウェストのシステムで彼の地の人々を統治する――そんな謡い文句を掲げて攻め入った地で、泥と血と硝煙の臭いに塗れている時だった。
 
『敵の大将は由樹、イースト・練国の太守です!』
 
部下の叫び声に、唐突に己が血のたぎる音をフェリクスは聞いた。今彼が攻めている国は、他ならぬ雪夏が嫁いだ場所、彼が向き合っている敵は彼女の夫となった者なのだ。そう思うと戦意は昂り、残虐なまでの殺意が沸く。己が真に嫌悪したものは兄ではなく、寄り添う“二人”の姿ではなく――“彼女”を奪い取ろうとするものなのだと、その時になってようやく気づいた。その感情の名を探し、辿りついた答えにフェリクスは絶望した。恋というのは、愛という感情は、もっと甘やかなものではなかったか。イーノスと雪夏が醸し出していたような、他者には決して立ち入れぬ優しい光景をこそ、彼は理想としていたはずなのだ。撃鉄を引くフェリクスの目から涙が溢れる。もう後戻りはできなかったし、できるとも思えなかった。この狂気は、この欲望はきっと叶うまで止まらない。否、手にした今もなお、
 
『あなた……フェリクス?』
 
重く閉ざされた瞼が次にうっすらと見開かれた時、その瞳に灯った激しい憎しみの火をフェリクスは胸の奥に今も焼き付けている。戦後、まるで贖いのように東の開発に力を入れ、文化を保護し普及をも手助けする己の姿が『イーストかぶれ』と嘲笑われていることは知っていた。兄の元許婚である“イースト”の女にのめり込み、強硬な態度を一変させた若い愚かな国王。それでも、結果としてオーデンの民に益をもたらしたことは確かだ。勝利に沸く民意を背景に、フェリクスは今新たな覇権に手をかけようとしている。

苦みの残る茶を飲み干して、美しく正座した雪夏の膝に頭を乗せると、黒い瞳が戸惑ったように彼を見た。かつてこの両眼は、眩しい光を映したようにきらめいて彼を見つめていたはず――
 
「フェリクス、冬陽の前ですよ」
 
咎めるような声を無視して、フェリクスは問うた。
 
「ねぇセッカ、イーノスのこと、好きだった?」
 
真っ直ぐに見つめた先の瞳は逸らされ、暫し黙り込んだ後に
 
「ええ、好きでしたわ。とても優しくしてくださいましたもの」
 
と卒の無い答えが返って来た。その奥に確かに含まれる憧憬と愛情が、彼と似た己の髪を梳く細い指先から伝わって来るようで、フェリクスは苦々しく唇を噛みしめる。
 
「練の太守のことは……彼のことは、愛してた?」
 
己を追い詰めるような問いを何故重ねてしまうのか、フェリクスにはもう分からなかった。
 
「ええ……とても、とても誠実な方でした」
 
苦しげに吐かれた息が、伏せられた眼差しが、止まった優しい指の動きが堪らなく切ない。
 
「じゃあ、」
 
僕のことは――恨んでいる? 愛している? 愛してくれる? いつか、好きになって……
発することのできない問いを、願うことすら許されぬ言葉を、彼は今日も飲み込んだ。己でも理解できぬこの愛は、きっと伝わらないのだろう。それでも良い、冷えた想いで凍らせた氷室の内で、彼女が消えずにいてくれるなら。どんな熱からも守ってみせよう、高く積み上げた氷の壁で、永遠に雪を囲い込んで。






→ 由樹編:夏に灼かれし

 
 


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夏に降りたる』イーノス編。

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西の地では明らかに異彩を放つ、紅に金糸を織り込んだ民族衣装の女を見た時、イーノスの心臓は蘇った死者と対面しているかのような、おぞましさと懐かしさに凍りついた。何故彼女がここにいる――? 手酷い傷を負ったのではなかったか、と思案した後、すぐに美しく化粧を施された顔の下、鮮やかな衣に覆い隠されている事実に気づいた。あの弟のやりそうなことだ。
 
「イーノス殿下、あの者は……」
 
側近が耳打ちする声を、一瞬聞かなかったことにしたいと感じた己を叱咤する。薄々勘づいてはいたのだ、自ら傷つけた彼女を元許婚であるイーノスに引き渡すこともなく手元に置き続ける……否、彼の目を避けるかのように囲い込み、現状を問うさりげない問いですらはぐらかすフェリクスの真意に。彼女の手を離さざるを得なくなった時、彼の表情に浮かんでいたのは喜悦と強い嫉妬の念。自分に比べて真っ直ぐに、大らかに育ったはずの弟を歪ませてしまったのは雪夏であり、またイーノスだったのかもしれない。
 
 
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『にいさま?』
 
父の妾が亡くなったため、慈悲深い王妃である母がその息子を引き取ることになったのだ――首を傾げてこちらを見上げる幼子について、乳母は耳元でそう囁いた。明るい金の髪に青い瞳。手を伸ばせばニコリと笑って飛びついて来た。体型が崩れる、ドレスが汚れる、品位に傷がつく。そんなくだらない理由でイーノスを抱きしめてはくれなかった母とは真逆の、初めての肉親としての温もりを分け与えてくれた小さな弟は、彼にとってすぐに堪らなく可愛い宝物になった。
 
 
 
『セツカ、と申しますイーノス様。以後何卒お見知りおきを……』
 
それから数年後に現れた少女の初めの印象は、イーノスにとって決して芳しいものではなかった。着慣れないドレスの裾に足を取られ、奇妙な発音で頭を下げる彼女の黄色い肌も黒い髪も、到底己と並び立つにふさわしいものとは思えなかったのだ。自我が活発に伸びゆく時期、母から植えつけられた玉座を継ぐ者としての誇りと地位への執着の狭間で彼自身も葛藤していた。
 
『言葉も通じぬ奴と、話なんかできるか』
 
早口で吐き捨てて立ち去るイーノスに、意味はわからずともすっかり怯えてしまったのだろう、少女は震え出し、同じ黒髪の女官の衣にすがった。仮にも一国の身分ある者だというのに、その情けない様は何だ――と少年の苛立ちは更に増し、彼が足音荒く室を去ってからしばらく。その少女は何故か破天荒な異母弟の手に引かれ、王宮の庭を懸命に駆けていた。
 
『ふぇりくす、まって、とまって、おねがい。……わたし、はしる、つかれた』
 
たどたどしい使い方ではあるが、幼いフェリクスと過ごす内に少しずつこちらの言葉を覚えてきたらしい。ゼイゼイと息を切らした雪夏の艶やかな黒髪は、束ねるリボンがゆるんでほつれ、どこを通り抜けてきたものか緑の葉があちこちに絡んでいた。ベンチの上で読書をしていたイーノスはそれを見て立ち上がり、一つ溜息を吐いて彼女の元へと歩み寄る。
 
『……髪が乱れているぞ、許婚の身なりは俺の評判にも影響する、気を付けろ』
 
丁寧に葉を取り除き、リボンを結び直すイーノスの指先に、雪夏はギュッと瞼を閉じて身を竦ませた。そんな彼女の態度に呆れ顔をする彼を、恐る恐るといった体で彼女が見上げる。
 
『ついていけない時はきちんと言え。……無理をするな』
 
ぶっきらぼうに告げられた言葉に、雪夏は目を見開いた。その呆気に取られたような表情に、イーノスの瞳が自然と細まる。それから彼は幼い二人の姿が見える場所で午後を過ごすようになり、侍女にテーブルを用意させては手ずから茶を入れてやるようになった。少しずつウェストの文化に馴染み、オーデンの言葉を滑らかに操るようになった少女が花の蕾のような瑞々しさを滲ませるようになった頃には、指をすりぬける長い黒髪の感触も、巴旦杏の形をした黒い瞳の静けさも、日の色を溶かしたような肌の象牙色でさえすっかり親しみと愛しさを覚えるようになっていた。それなのに――
 
『イーストラインが開かれたせいで我が地の民が困窮しております。殿下はいかがお考えか』
 
直訴に来た貴族の一人に迫られ、イーノスはこめかみを押さえた。訴えが増える理由は、彼の許婚が“イースト”の出だからだろう。ただでさえ、彼女を招いた母が病に倒れ胸を痛めていると言うのに――その母の親族ですらも、近ごろは一族の娘と彼との見合いのような席を次々設けたがっている。彼らは手を組む相手として環を選び、イーノスの許婚に太守の娘を据えはしたが、本音では玉座の後継を“イースト”の娘などに生んでほしくはないのだろう。利用するだけしたら後は用済み。だから余り距離を詰め過ぎ、対抗勢力に付け入られては困る。
 
『ねぇ、僕おかしいと思うんだよ……セッカは良い子だけど、父上の後を継いで王冠を戴いたイーノスの隣に、彼女が並ぶのは想像がつかないなぁ』
 
子どものような口調で父に囁く異母弟は、既に少年の域に差し掛かりつつある。父の寵愛を受け己を脅かす存在と目されてはいたが、天真爛漫なその様はとても権力を握ることなど望んでいないように見えた。信じていた、弟も自分を慕い敬ってくれていると。彼がイーノスを蹴落とすことなどないのだと――例え己がフェリクスに敵うものを持たずとも、彼を愛している限り、裏切ることなど決して無いと。
 
『フェリクス、ですか? この頃は私のところへも余り……彼の周囲が、望まれていないからではないでしょうか』
 
寂しそうにうつむいた許婚は、イーノスと同じように彼を信じたいと思っているようだった。彼女との仲を近づけてくれた弟の真実を伝えることができぬまま、そっと抱き寄せた腕の中で雪夏は安堵したような笑みを浮かべる。やがて来る別れの予感を受けとめながら、彼にはどうすることもできなかったのだ。
 
 
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ヒュン、と飛んできた紙の鳥を、イーノスは咄嗟に避けてつかんだ。三角形を組み合わせたような、立体に折られた白い紙が、彼の手の中でくしゃりと形を崩していく。
 
「あー、潰しちゃったの? 酷いなぁ、折角セッカが教えてくれたのに」
 
その名に眉をピクリと上げ、苦々しげに手の中の紙屑を見つめたイーノスに、仕掛けた張本人のフェリクスは肩をすくめながら溜息を吐いた。
 
「オリガミって言うんだよ。鳥とか花とか色んなものを作れるんだ。僕は手先が器用じゃないから、これくらいしかできないけど……環の文化なんだ、素敵だと思わない?」
 
「時間と手間をかけて作る意味がわからないな、紙なんてすぐに破けて燃える。水にだって弱い」
 
憎々しげに吐き捨てた兄を面白そうに見やって彼は告げた。
 
「だからイーノスは駄目なんだよ、セッカと婚約していた時ですら何も学ぼうとしなかったじゃないか。与うべき、守られるべき“イースト”の者としてしか彼女を見ていなかった。他ならぬ君がそんな調子じゃ、周りが侮ったり反発するのも当たり前だったよね」
 
それを利用したくせに――昂る感情のままぶつけてしまいそうになる言葉を、イーノスは飲み込んだ。図星をつかれ、己の弱さと醜さをさらけ出されて何も言えない。余りの情けなさに握りしめられた拳を、フェリクスが嗤う。
 
「自業自得だってわかったなら、もうセッカに近づかないで。今度彼女に触れたりしたら……どうなるか分かってるだろ?」
 
向けられた言葉と鋭い視線がイーノスの心を抉る。知られていたのだ――束の間の、庭先の邂逅ですら許す気が無いことを、弟がそれほどに溺れ余裕を失くしていることに、彼が受けた衝撃と口惜しさと羨望は、きっと誰にも理解できない。


 
ふと、視界の端を過ぎった藍の衣。裾を踏んで転びかけた身体に、気がつけば駆け寄っていた。弟は愚かだ、と幾度となく繰り返したよしなしごとが、また彼の口をついて出る。この深い緑の庭に、大股で歩けぬ彼の地の装束はそぐわない。
 
『おかあさま? どうしたの?』
 
彼女が追いかけていたであろう幼子が、茂みの内から顔を出す。彼女によく似た目をしたその娘は、果たして父親に近い性質の持ち主らしかった。
 
『フェリクスも昔、鳥やウサギを追いかけては飛び出していったものだった……』
 
二人きりで顔を合わせれば、もっと凶暴な気持ちに襲われるだろうと思っていた。聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせてしまうのではないかと恐れていた。そんな己の口からこぼれた存外に柔らかな思い出に、イーノスは思わず顔を歪め視線を逸らす。
 
『わたしはちょうちょをおいかけていたのよ、おじさま。おそとをとんでいたのが、とってもきれいだったから!』
 
舌足らずに紡がれる言葉は、出会った頃の少女をどことなく思わせた。あの頃も小さいと、華奢過ぎると感じていた――けれど今腕の中に捉えた身体は、目の前の子どもの母として余りにも頼りないほどに、
 
『……イーノス、殿下、どうもありがとうございます。ご迷惑をお掛け致しました』
 
胸板に手をついて、サッと身を離した雪夏からは、彼の知らない香りがした。切なさにたわんだ心が、また鋭い苛立ちを取り戻す――異なるベクトルで想う二人が寄りそう様が、フェリクスの思い通りになる彼女が、彼女に執着するフェリクスが気に入らない。己を軸に回るはずだった世界が覆され、彼一人が弾き出されてしまったような感覚にイーノスは陥っているのだ。
憮然として黙り込んだ彼の表情をどう受け止めたものか、雪夏は娘の手を引いて、足早にその場を立ち去った。或いはどこからか彼らを見つめる“目”に気づいていたのかもしれない。それほどに、弟の“愛”は――“支配”は徹底していたのだから。


 
「イーノス? 聞いてるの? 僕はもう君を完全に潰すことだってできるんだ、そんな風にね」
 
ぐしゃりと丸められ放られた紙の鳥の成れの果てを、冷たく眺めてフェリクスが言う。
 
「それを、王兄として認めてあげてるんだ。まぁ感謝もしているしね……君がいなければ、セッカとは出会えなかった」
 
クッと声を上げて嗤う弟の瞳に背筋を過ぎった戦慄を忘れたくて、イーノスはすがるように彼を見た。夏に降る雪の輝きに魅せられ、大事に大事に温め過ぎて、その手の熱で溶かしてしまった。ぬるい水と化したそれが干上がって初めて、いかに貴重なものであったか気づくのだ。本当に蔑みたいのは、愚かだと叫びたいのは他ならぬ己自身に対してなのだと、イーノスは震える唇を噛みしめた。





→フェリクス編『夏に凍れる


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