忍者ブログ
ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


夏に降りたる』イーノス編。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





西の地では明らかに異彩を放つ、紅に金糸を織り込んだ民族衣装の女を見た時、イーノスの心臓は蘇った死者と対面しているかのような、おぞましさと懐かしさに凍りついた。何故彼女がここにいる――? 手酷い傷を負ったのではなかったか、と思案した後、すぐに美しく化粧を施された顔の下、鮮やかな衣に覆い隠されている事実に気づいた。あの弟のやりそうなことだ。
 
「イーノス殿下、あの者は……」
 
側近が耳打ちする声を、一瞬聞かなかったことにしたいと感じた己を叱咤する。薄々勘づいてはいたのだ、自ら傷つけた彼女を元許婚であるイーノスに引き渡すこともなく手元に置き続ける……否、彼の目を避けるかのように囲い込み、現状を問うさりげない問いですらはぐらかすフェリクスの真意に。彼女の手を離さざるを得なくなった時、彼の表情に浮かんでいたのは喜悦と強い嫉妬の念。自分に比べて真っ直ぐに、大らかに育ったはずの弟を歪ませてしまったのは雪夏であり、またイーノスだったのかもしれない。
 
 
~~~
 
 
『にいさま?』
 
父の妾が亡くなったため、慈悲深い王妃である母がその息子を引き取ることになったのだ――首を傾げてこちらを見上げる幼子について、乳母は耳元でそう囁いた。明るい金の髪に青い瞳。手を伸ばせばニコリと笑って飛びついて来た。体型が崩れる、ドレスが汚れる、品位に傷がつく。そんなくだらない理由でイーノスを抱きしめてはくれなかった母とは真逆の、初めての肉親としての温もりを分け与えてくれた小さな弟は、彼にとってすぐに堪らなく可愛い宝物になった。
 
 
 
『セツカ、と申しますイーノス様。以後何卒お見知りおきを……』
 
それから数年後に現れた少女の初めの印象は、イーノスにとって決して芳しいものではなかった。着慣れないドレスの裾に足を取られ、奇妙な発音で頭を下げる彼女の黄色い肌も黒い髪も、到底己と並び立つにふさわしいものとは思えなかったのだ。自我が活発に伸びゆく時期、母から植えつけられた玉座を継ぐ者としての誇りと地位への執着の狭間で彼自身も葛藤していた。
 
『言葉も通じぬ奴と、話なんかできるか』
 
早口で吐き捨てて立ち去るイーノスに、意味はわからずともすっかり怯えてしまったのだろう、少女は震え出し、同じ黒髪の女官の衣にすがった。仮にも一国の身分ある者だというのに、その情けない様は何だ――と少年の苛立ちは更に増し、彼が足音荒く室を去ってからしばらく。その少女は何故か破天荒な異母弟の手に引かれ、王宮の庭を懸命に駆けていた。
 
『ふぇりくす、まって、とまって、おねがい。……わたし、はしる、つかれた』
 
たどたどしい使い方ではあるが、幼いフェリクスと過ごす内に少しずつこちらの言葉を覚えてきたらしい。ゼイゼイと息を切らした雪夏の艶やかな黒髪は、束ねるリボンがゆるんでほつれ、どこを通り抜けてきたものか緑の葉があちこちに絡んでいた。ベンチの上で読書をしていたイーノスはそれを見て立ち上がり、一つ溜息を吐いて彼女の元へと歩み寄る。
 
『……髪が乱れているぞ、許婚の身なりは俺の評判にも影響する、気を付けろ』
 
丁寧に葉を取り除き、リボンを結び直すイーノスの指先に、雪夏はギュッと瞼を閉じて身を竦ませた。そんな彼女の態度に呆れ顔をする彼を、恐る恐るといった体で彼女が見上げる。
 
『ついていけない時はきちんと言え。……無理をするな』
 
ぶっきらぼうに告げられた言葉に、雪夏は目を見開いた。その呆気に取られたような表情に、イーノスの瞳が自然と細まる。それから彼は幼い二人の姿が見える場所で午後を過ごすようになり、侍女にテーブルを用意させては手ずから茶を入れてやるようになった。少しずつウェストの文化に馴染み、オーデンの言葉を滑らかに操るようになった少女が花の蕾のような瑞々しさを滲ませるようになった頃には、指をすりぬける長い黒髪の感触も、巴旦杏の形をした黒い瞳の静けさも、日の色を溶かしたような肌の象牙色でさえすっかり親しみと愛しさを覚えるようになっていた。それなのに――
 
『イーストラインが開かれたせいで我が地の民が困窮しております。殿下はいかがお考えか』
 
直訴に来た貴族の一人に迫られ、イーノスはこめかみを押さえた。訴えが増える理由は、彼の許婚が“イースト”の出だからだろう。ただでさえ、彼女を招いた母が病に倒れ胸を痛めていると言うのに――その母の親族ですらも、近ごろは一族の娘と彼との見合いのような席を次々設けたがっている。彼らは手を組む相手として環を選び、イーノスの許婚に太守の娘を据えはしたが、本音では玉座の後継を“イースト”の娘などに生んでほしくはないのだろう。利用するだけしたら後は用済み。だから余り距離を詰め過ぎ、対抗勢力に付け入られては困る。
 
『ねぇ、僕おかしいと思うんだよ……セッカは良い子だけど、父上の後を継いで王冠を戴いたイーノスの隣に、彼女が並ぶのは想像がつかないなぁ』
 
子どものような口調で父に囁く異母弟は、既に少年の域に差し掛かりつつある。父の寵愛を受け己を脅かす存在と目されてはいたが、天真爛漫なその様はとても権力を握ることなど望んでいないように見えた。信じていた、弟も自分を慕い敬ってくれていると。彼がイーノスを蹴落とすことなどないのだと――例え己がフェリクスに敵うものを持たずとも、彼を愛している限り、裏切ることなど決して無いと。
 
『フェリクス、ですか? この頃は私のところへも余り……彼の周囲が、望まれていないからではないでしょうか』
 
寂しそうにうつむいた許婚は、イーノスと同じように彼を信じたいと思っているようだった。彼女との仲を近づけてくれた弟の真実を伝えることができぬまま、そっと抱き寄せた腕の中で雪夏は安堵したような笑みを浮かべる。やがて来る別れの予感を受けとめながら、彼にはどうすることもできなかったのだ。
 
 
~~~
 
 
ヒュン、と飛んできた紙の鳥を、イーノスは咄嗟に避けてつかんだ。三角形を組み合わせたような、立体に折られた白い紙が、彼の手の中でくしゃりと形を崩していく。
 
「あー、潰しちゃったの? 酷いなぁ、折角セッカが教えてくれたのに」
 
その名に眉をピクリと上げ、苦々しげに手の中の紙屑を見つめたイーノスに、仕掛けた張本人のフェリクスは肩をすくめながら溜息を吐いた。
 
「オリガミって言うんだよ。鳥とか花とか色んなものを作れるんだ。僕は手先が器用じゃないから、これくらいしかできないけど……環の文化なんだ、素敵だと思わない?」
 
「時間と手間をかけて作る意味がわからないな、紙なんてすぐに破けて燃える。水にだって弱い」
 
憎々しげに吐き捨てた兄を面白そうに見やって彼は告げた。
 
「だからイーノスは駄目なんだよ、セッカと婚約していた時ですら何も学ぼうとしなかったじゃないか。与うべき、守られるべき“イースト”の者としてしか彼女を見ていなかった。他ならぬ君がそんな調子じゃ、周りが侮ったり反発するのも当たり前だったよね」
 
それを利用したくせに――昂る感情のままぶつけてしまいそうになる言葉を、イーノスは飲み込んだ。図星をつかれ、己の弱さと醜さをさらけ出されて何も言えない。余りの情けなさに握りしめられた拳を、フェリクスが嗤う。
 
「自業自得だってわかったなら、もうセッカに近づかないで。今度彼女に触れたりしたら……どうなるか分かってるだろ?」
 
向けられた言葉と鋭い視線がイーノスの心を抉る。知られていたのだ――束の間の、庭先の邂逅ですら許す気が無いことを、弟がそれほどに溺れ余裕を失くしていることに、彼が受けた衝撃と口惜しさと羨望は、きっと誰にも理解できない。


 
ふと、視界の端を過ぎった藍の衣。裾を踏んで転びかけた身体に、気がつけば駆け寄っていた。弟は愚かだ、と幾度となく繰り返したよしなしごとが、また彼の口をついて出る。この深い緑の庭に、大股で歩けぬ彼の地の装束はそぐわない。
 
『おかあさま? どうしたの?』
 
彼女が追いかけていたであろう幼子が、茂みの内から顔を出す。彼女によく似た目をしたその娘は、果たして父親に近い性質の持ち主らしかった。
 
『フェリクスも昔、鳥やウサギを追いかけては飛び出していったものだった……』
 
二人きりで顔を合わせれば、もっと凶暴な気持ちに襲われるだろうと思っていた。聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせてしまうのではないかと恐れていた。そんな己の口からこぼれた存外に柔らかな思い出に、イーノスは思わず顔を歪め視線を逸らす。
 
『わたしはちょうちょをおいかけていたのよ、おじさま。おそとをとんでいたのが、とってもきれいだったから!』
 
舌足らずに紡がれる言葉は、出会った頃の少女をどことなく思わせた。あの頃も小さいと、華奢過ぎると感じていた――けれど今腕の中に捉えた身体は、目の前の子どもの母として余りにも頼りないほどに、
 
『……イーノス、殿下、どうもありがとうございます。ご迷惑をお掛け致しました』
 
胸板に手をついて、サッと身を離した雪夏からは、彼の知らない香りがした。切なさにたわんだ心が、また鋭い苛立ちを取り戻す――異なるベクトルで想う二人が寄りそう様が、フェリクスの思い通りになる彼女が、彼女に執着するフェリクスが気に入らない。己を軸に回るはずだった世界が覆され、彼一人が弾き出されてしまったような感覚にイーノスは陥っているのだ。
憮然として黙り込んだ彼の表情をどう受け止めたものか、雪夏は娘の手を引いて、足早にその場を立ち去った。或いはどこからか彼らを見つめる“目”に気づいていたのかもしれない。それほどに、弟の“愛”は――“支配”は徹底していたのだから。


 
「イーノス? 聞いてるの? 僕はもう君を完全に潰すことだってできるんだ、そんな風にね」
 
ぐしゃりと丸められ放られた紙の鳥の成れの果てを、冷たく眺めてフェリクスが言う。
 
「それを、王兄として認めてあげてるんだ。まぁ感謝もしているしね……君がいなければ、セッカとは出会えなかった」
 
クッと声を上げて嗤う弟の瞳に背筋を過ぎった戦慄を忘れたくて、イーノスはすがるように彼を見た。夏に降る雪の輝きに魅せられ、大事に大事に温め過ぎて、その手の熱で溶かしてしまった。ぬるい水と化したそれが干上がって初めて、いかに貴重なものであったか気づくのだ。本当に蔑みたいのは、愚かだと叫びたいのは他ならぬ己自身に対してなのだと、イーノスは震える唇を噛みしめた。





→フェリクス編『夏に凍れる

拍手[3回]

PR


追記を閉じる▲

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





西の地では明らかに異彩を放つ、紅に金糸を織り込んだ民族衣装の女を見た時、イーノスの心臓は蘇った死者と対面しているかのような、おぞましさと懐かしさに凍りついた。何故彼女がここにいる――? 手酷い傷を負ったのではなかったか、と思案した後、すぐに美しく化粧を施された顔の下、鮮やかな衣に覆い隠されている事実に気づいた。あの弟のやりそうなことだ。
 
「イーノス殿下、あの者は……」
 
側近が耳打ちする声を、一瞬聞かなかったことにしたいと感じた己を叱咤する。薄々勘づいてはいたのだ、自ら傷つけた彼女を元許婚であるイーノスに引き渡すこともなく手元に置き続ける……否、彼の目を避けるかのように囲い込み、現状を問うさりげない問いですらはぐらかすフェリクスの真意に。彼女の手を離さざるを得なくなった時、彼の表情に浮かんでいたのは喜悦と強い嫉妬の念。自分に比べて真っ直ぐに、大らかに育ったはずの弟を歪ませてしまったのは雪夏であり、またイーノスだったのかもしれない。
 
 
~~~
 
 
『にいさま?』
 
父の妾が亡くなったため、慈悲深い王妃である母がその息子を引き取ることになったのだ――首を傾げてこちらを見上げる幼子について、乳母は耳元でそう囁いた。明るい金の髪に青い瞳。手を伸ばせばニコリと笑って飛びついて来た。体型が崩れる、ドレスが汚れる、品位に傷がつく。そんなくだらない理由でイーノスを抱きしめてはくれなかった母とは真逆の、初めての肉親としての温もりを分け与えてくれた小さな弟は、彼にとってすぐに堪らなく可愛い宝物になった。
 
 
 
『セツカ、と申しますイーノス様。以後何卒お見知りおきを……』
 
それから数年後に現れた少女の初めの印象は、イーノスにとって決して芳しいものではなかった。着慣れないドレスの裾に足を取られ、奇妙な発音で頭を下げる彼女の黄色い肌も黒い髪も、到底己と並び立つにふさわしいものとは思えなかったのだ。自我が活発に伸びゆく時期、母から植えつけられた玉座を継ぐ者としての誇りと地位への執着の狭間で彼自身も葛藤していた。
 
『言葉も通じぬ奴と、話なんかできるか』
 
早口で吐き捨てて立ち去るイーノスに、意味はわからずともすっかり怯えてしまったのだろう、少女は震え出し、同じ黒髪の女官の衣にすがった。仮にも一国の身分ある者だというのに、その情けない様は何だ――と少年の苛立ちは更に増し、彼が足音荒く室を去ってからしばらく。その少女は何故か破天荒な異母弟の手に引かれ、王宮の庭を懸命に駆けていた。
 
『ふぇりくす、まって、とまって、おねがい。……わたし、はしる、つかれた』
 
たどたどしい使い方ではあるが、幼いフェリクスと過ごす内に少しずつこちらの言葉を覚えてきたらしい。ゼイゼイと息を切らした雪夏の艶やかな黒髪は、束ねるリボンがゆるんでほつれ、どこを通り抜けてきたものか緑の葉があちこちに絡んでいた。ベンチの上で読書をしていたイーノスはそれを見て立ち上がり、一つ溜息を吐いて彼女の元へと歩み寄る。
 
『……髪が乱れているぞ、許婚の身なりは俺の評判にも影響する、気を付けろ』
 
丁寧に葉を取り除き、リボンを結び直すイーノスの指先に、雪夏はギュッと瞼を閉じて身を竦ませた。そんな彼女の態度に呆れ顔をする彼を、恐る恐るといった体で彼女が見上げる。
 
『ついていけない時はきちんと言え。……無理をするな』
 
ぶっきらぼうに告げられた言葉に、雪夏は目を見開いた。その呆気に取られたような表情に、イーノスの瞳が自然と細まる。それから彼は幼い二人の姿が見える場所で午後を過ごすようになり、侍女にテーブルを用意させては手ずから茶を入れてやるようになった。少しずつウェストの文化に馴染み、オーデンの言葉を滑らかに操るようになった少女が花の蕾のような瑞々しさを滲ませるようになった頃には、指をすりぬける長い黒髪の感触も、巴旦杏の形をした黒い瞳の静けさも、日の色を溶かしたような肌の象牙色でさえすっかり親しみと愛しさを覚えるようになっていた。それなのに――
 
『イーストラインが開かれたせいで我が地の民が困窮しております。殿下はいかがお考えか』
 
直訴に来た貴族の一人に迫られ、イーノスはこめかみを押さえた。訴えが増える理由は、彼の許婚が“イースト”の出だからだろう。ただでさえ、彼女を招いた母が病に倒れ胸を痛めていると言うのに――その母の親族ですらも、近ごろは一族の娘と彼との見合いのような席を次々設けたがっている。彼らは手を組む相手として環を選び、イーノスの許婚に太守の娘を据えはしたが、本音では玉座の後継を“イースト”の娘などに生んでほしくはないのだろう。利用するだけしたら後は用済み。だから余り距離を詰め過ぎ、対抗勢力に付け入られては困る。
 
『ねぇ、僕おかしいと思うんだよ……セッカは良い子だけど、父上の後を継いで王冠を戴いたイーノスの隣に、彼女が並ぶのは想像がつかないなぁ』
 
子どものような口調で父に囁く異母弟は、既に少年の域に差し掛かりつつある。父の寵愛を受け己を脅かす存在と目されてはいたが、天真爛漫なその様はとても権力を握ることなど望んでいないように見えた。信じていた、弟も自分を慕い敬ってくれていると。彼がイーノスを蹴落とすことなどないのだと――例え己がフェリクスに敵うものを持たずとも、彼を愛している限り、裏切ることなど決して無いと。
 
『フェリクス、ですか? この頃は私のところへも余り……彼の周囲が、望まれていないからではないでしょうか』
 
寂しそうにうつむいた許婚は、イーノスと同じように彼を信じたいと思っているようだった。彼女との仲を近づけてくれた弟の真実を伝えることができぬまま、そっと抱き寄せた腕の中で雪夏は安堵したような笑みを浮かべる。やがて来る別れの予感を受けとめながら、彼にはどうすることもできなかったのだ。
 
 
~~~
 
 
ヒュン、と飛んできた紙の鳥を、イーノスは咄嗟に避けてつかんだ。三角形を組み合わせたような、立体に折られた白い紙が、彼の手の中でくしゃりと形を崩していく。
 
「あー、潰しちゃったの? 酷いなぁ、折角セッカが教えてくれたのに」
 
その名に眉をピクリと上げ、苦々しげに手の中の紙屑を見つめたイーノスに、仕掛けた張本人のフェリクスは肩をすくめながら溜息を吐いた。
 
「オリガミって言うんだよ。鳥とか花とか色んなものを作れるんだ。僕は手先が器用じゃないから、これくらいしかできないけど……環の文化なんだ、素敵だと思わない?」
 
「時間と手間をかけて作る意味がわからないな、紙なんてすぐに破けて燃える。水にだって弱い」
 
憎々しげに吐き捨てた兄を面白そうに見やって彼は告げた。
 
「だからイーノスは駄目なんだよ、セッカと婚約していた時ですら何も学ぼうとしなかったじゃないか。与うべき、守られるべき“イースト”の者としてしか彼女を見ていなかった。他ならぬ君がそんな調子じゃ、周りが侮ったり反発するのも当たり前だったよね」
 
それを利用したくせに――昂る感情のままぶつけてしまいそうになる言葉を、イーノスは飲み込んだ。図星をつかれ、己の弱さと醜さをさらけ出されて何も言えない。余りの情けなさに握りしめられた拳を、フェリクスが嗤う。
 
「自業自得だってわかったなら、もうセッカに近づかないで。今度彼女に触れたりしたら……どうなるか分かってるだろ?」
 
向けられた言葉と鋭い視線がイーノスの心を抉る。知られていたのだ――束の間の、庭先の邂逅ですら許す気が無いことを、弟がそれほどに溺れ余裕を失くしていることに、彼が受けた衝撃と口惜しさと羨望は、きっと誰にも理解できない。


 
ふと、視界の端を過ぎった藍の衣。裾を踏んで転びかけた身体に、気がつけば駆け寄っていた。弟は愚かだ、と幾度となく繰り返したよしなしごとが、また彼の口をついて出る。この深い緑の庭に、大股で歩けぬ彼の地の装束はそぐわない。
 
『おかあさま? どうしたの?』
 
彼女が追いかけていたであろう幼子が、茂みの内から顔を出す。彼女によく似た目をしたその娘は、果たして父親に近い性質の持ち主らしかった。
 
『フェリクスも昔、鳥やウサギを追いかけては飛び出していったものだった……』
 
二人きりで顔を合わせれば、もっと凶暴な気持ちに襲われるだろうと思っていた。聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせてしまうのではないかと恐れていた。そんな己の口からこぼれた存外に柔らかな思い出に、イーノスは思わず顔を歪め視線を逸らす。
 
『わたしはちょうちょをおいかけていたのよ、おじさま。おそとをとんでいたのが、とってもきれいだったから!』
 
舌足らずに紡がれる言葉は、出会った頃の少女をどことなく思わせた。あの頃も小さいと、華奢過ぎると感じていた――けれど今腕の中に捉えた身体は、目の前の子どもの母として余りにも頼りないほどに、
 
『……イーノス、殿下、どうもありがとうございます。ご迷惑をお掛け致しました』
 
胸板に手をついて、サッと身を離した雪夏からは、彼の知らない香りがした。切なさにたわんだ心が、また鋭い苛立ちを取り戻す――異なるベクトルで想う二人が寄りそう様が、フェリクスの思い通りになる彼女が、彼女に執着するフェリクスが気に入らない。己を軸に回るはずだった世界が覆され、彼一人が弾き出されてしまったような感覚にイーノスは陥っているのだ。
憮然として黙り込んだ彼の表情をどう受け止めたものか、雪夏は娘の手を引いて、足早にその場を立ち去った。或いはどこからか彼らを見つめる“目”に気づいていたのかもしれない。それほどに、弟の“愛”は――“支配”は徹底していたのだから。


 
「イーノス? 聞いてるの? 僕はもう君を完全に潰すことだってできるんだ、そんな風にね」
 
ぐしゃりと丸められ放られた紙の鳥の成れの果てを、冷たく眺めてフェリクスが言う。
 
「それを、王兄として認めてあげてるんだ。まぁ感謝もしているしね……君がいなければ、セッカとは出会えなかった」
 
クッと声を上げて嗤う弟の瞳に背筋を過ぎった戦慄を忘れたくて、イーノスはすがるように彼を見た。夏に降る雪の輝きに魅せられ、大事に大事に温め過ぎて、その手の熱で溶かしてしまった。ぬるい水と化したそれが干上がって初めて、いかに貴重なものであったか気づくのだ。本当に蔑みたいのは、愚かだと叫びたいのは他ならぬ己自身に対してなのだと、イーノスは震える唇を噛みしめた。





→フェリクス編『夏に凍れる

拍手[3回]

PR

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック