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「セッカ!」
声を上げて抱きついてきた主――彼は“夫”と呼んでほしいのだと主張するが、に雪夏はゆるゆると首を回して振り向いた。正しく発されないその音は、『烈夏にあっても、熱を和らげ民たちを潤し癒す雪の如くなれ』と思いを込められた文字で表されるはずだ。けれど今はその意味が、まるで場違いな己を嘲笑う名のようではないか、と花弁のような唇から自嘲がこぼれた。
「フェリクス、また抜け出していらしたの?」
二人きりの時、彼のことを“陛下”と呼んではいけない。謁見や国議という言葉も出してはならない。ただの“フェリクス”として、年若い彼を甘やかす恋人になりきらなければいけないのだ。彼がそう求めた……否、定めたから。
「良いんだ、一休み。僕がいないと意見の一つもまとまらないなんて、そんな無能な手足は欲しくないよ。勝手に動かれても困るけどね。あぁ、僕の小さなお日様はよく眠ってるな……さあ、顔を見せて」
雪夏の膝の上で寝息を立てる幼子が、無理に抱きあげられたせいでぐずり声を上げた。真っ黒な雪夏の髪より少し明るい、栗色の髪を持つ娘の名も、彼は上手く発音することができない。フユヒ――冬陽、“雪夏”の字の持つ意味を知ったフェリクスが請うて、対となるように付けた名だ。彼女の故郷から遠く離れたこの地の王が我が子に与えたその名前に、周囲はことごとく反発した。文字に意を持つ異なる文化、耳慣れない音の響き――何よりその母親、異郷の女であり、先立って滅ぼした敵の妻であり、国内における王の最大の対抗勢力となり得る異母兄の許婚であった女への王の耽溺ぶりが、人々の心を苛立たせたのだ。
「あぁ、起こしてしまって……仕方ありませんね、私にお貸し下さい」
戸惑う主の腕から娘を抱きとり、雪夏は小さな声で歌い始めた。彼女の郷里の子守唄の物悲しくも優しい響きに、冬陽だけでなくフェリクスもまた穏やかな表情(かお)で寝転んだ。この部屋は雪夏の文化に合わせ、外履きを脱いで床を裸足で歩けるよう厚い絨毯が敷かれている。寝室にはイグサを編んだ緑の畳までが、わざわざ彼女の故郷から取り寄せられているのだった。娘の名を『小さなお日様』と言いかえる彼は、間違いなく彼女のことを愛してくれているのだと思う――思うからこそ、許せない。
「幸せだよ、僕は……君とずっと、こうしていられたら良いのに」
主の言葉にあどけない少年の姿が重なり、思わず喉が震えそうになって、雪夏は歌を止めた。フェリクスはそれを咎めない。泣き止んだ子どものために歌われた唄であることを疑っていないから。幼い娘は既にパチリと目を開き、父親の光輝く金の髪に小さな丸みを帯びた手を伸ばしていた。冷たい氷の内に垣間見える幸せが、この王宮の箱庭にある。
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イーストラインの果て、辺境の地の小国・環の太守の家に生まれた雪夏と、ミドルウェストの大国・オーデンの王子として生まれたフェリクスの運命は、本来ならば交差するものではなかったはずだ。西への反感が高まる東にあって、初めて彼の地との繋がりを模索したのが雪夏の父だ。西の王族との縁を求める彼に興味を示したのが、今は亡き前オーデン国王妃だった。王の寵は彼女の生んだ第二王子イーノスより利発な異母弟フェリクスへと偏り、誇り高い王妃とその生家には翳りが忍び寄りつつあった。我が子を王位に就けるため、見下してきた“イースト”の力を借りてでも、という王妃の意地と、東における自国の影響力と交易範囲を広げることを望んだ国王の思惑が一致し、イーノスと雪夏の婚約は成った。
『きみはだれ? なんでそんなところにかくれているの? ぼくはフェリクス、いっしょにあそぼうよ!』
許婚に見えるため、十をいくらか出たばかりの少女は過酷な長旅の果てに言葉も分からぬ西の地へとやって来た。目に映るもの全てが眩すぎる世界、大きな体に血が透けるほど白い肌、天狗のように高い鼻を持った人々は雪夏にとって恐怖でしかなく、全てに怯え縮こまっては女官の衣の影に隠れた。己は鬼の巣穴に紛れ込んでしまったのか、と絶望し泣くばかりの彼女をそこから引っ張り出したのは、鮮やかな金の髪に抜けるような青の瞳を持つ子どもの鬼。暗闇に突然差した光に驚いて瞬きをしている内に、雪夏は強い力で腕を引かれ、戸惑いながら見慣れぬ庭に駆け出すことができたのだ。
『言葉も通じぬ奴と、話なんかできるか』
と彼女を拒んだ許婚のイーノスも、異母弟に引きずりまわされ、泥だらけになる少女を眺める内に心配になったのか、己の面子を潰されることを恐れたためかいつの間にか二人の後をさりげなく追いかけ、徐々に近づくようになった。ハンカチーフを取り出して手ずから汚れた頬を拭ってやったり、疲れ果てた雪夏のために茶を用意して待っていたりする彼の不器用な優しさと時折見せる柔らかな仕草は少女の心を慰め、捕らえた。硬い蕾がほころぶように、瑞々しく花開いてゆく雪夏の成長と共にイーノスが彼女を伴侶として認め、二人が想いを寄せ合うようになっていくのは極めて自然な流れであった。フェリクスは彼らを繋ぐ、小さな天使のような存在だったのに――
『“イースト”の者は王位を継ぐ者の妃としてふさわしくない』
そんな声が囁かれるようになったのはいつのころだったか。急先鋒に立っていたのは他ならぬ第三王子フェリクスを推す一派だった。初めは、彼の立場を少しでも有利に見せるためイーノスの弱点を主張したいだけだと考えていた環側も、最大の庇護者であった王妃の死去と共に事態の深刻さを憂うようになった。開かれたイーストラインから流入する“モノ”に権益を奪われたと主張する人々は、東と西を繋ぐ場として発展する環にその鬱屈を向けた。
『すまない、セツカ……俺にはもう、どうすることもできない』
涙をこぼして頭を下げたイーノスに、首を横に振って
『良いのです、ありがとうございました、イーノス様……どうぞお健やかに』
と別れを告げた時、雪夏は既に滑らかな西の言葉を話せるようになっていた。新たなオーデンの太子にフェリクスが立ったことを聞いたのは帰国の翌年、彼女が同じ東の太守である由樹に嫁いだ後のことだった。口数は少ないが誠実で、許婚と別れ西から戻ったばかりの雪夏のことを慮ってくれる夫に、彼女は精いっぱいの信頼と尊敬を寄せた。それが二度目の恋に変わっていることに気づいたのは、彼を打ち破ったフェリクスがその城を攻め落とした時――
『ここを通りたければ、私を撃ちなさい! そうでなければ通しません……この地は、あの方が愛した場所です!』
半狂乱になって叫ぶ雪夏に、躊躇いなく引き金を引いたフェリクスの銃から放たれた弾丸に貫かれた痛みを、どうして忘れることができようか。
『セッカ、セッカ、セッカが悪いんだよ……僕はなるべく傷つけたくなかったのに。イーノスにも怒られちゃった、何で撃ったんだ、って』
苦痛に目覚めた雪夏の青い頬をなぞりながら、愛しげに紡ぐ“敵”の声に彼女は戦慄した。
『ねぇ、僕は今王太子なんだ。君たちの国を討ち落としたことで……イーストラインの向こう側に領地を得たことで父上は僕への譲位を真剣にお考え下さっている。もうすぐ僕は王になるんだ。そうしたらもう、誰にも君を奪えないよね?』
記憶の中にあるよりいくら大人びた顔つき、骨ばった手の平、広くなった肩――そして落とされた口づけに、雪夏の頬を涙が伝った。信じられない、あの全身に木漏れ日を浴びて育ったはずの、柔らかな温もりを宿した少年が。自分とイーノスを引き裂いたのが彼を擁する勢力だったとしても、彼自身の意思ではないと疑いもなく信じていた。例え己の国を攻めてきたとしても……夫の命を奪ったとしても、フェリクスその人は悪くないのだと。恨みたくなかった、信じていたかった、大切な初めての友としての彼を。
『“イースト”の文化は壊さないよ。荒れた土地を耕せるように援助もしてあげる。雪夏の育った場所だもの、僕も大好きだから守れるように全力を尽くす。ねぇ、だからその代わり……君は絶対、何があっても僕の傍にいてくれるよね?』
フェリクスの国王即位のその日、愛妾として式典の片隅に姿を現した雪夏を見て、オーデンの人々は目を見開き、そして鼻白んだ。
『まるで誇りを捨てた娼婦も同然だ、あんな女と婚約を結んでいたとはな』
元許婚イーノスとその取り巻きが吐き捨てる声を、雪夏は眉ひとつ動かさずに聞いていた。人々から注がれる好奇と嫌悪の入り雑じった視線に、やがて彼女は自室から出ることを厭うようになる。必定、数少ない侍女を除いた唯一の他者、“外”との繋がりである主に――彼女をこの現状に追い込んだ憎い仇であるはずの男に、逆説めいた依存、愛情にも似た執着を抱くことになるとは、おかしな話だと自身でも思う。
『西には以前のおまえの許婚がいよう。王族に連なる者ならば、おまえだけでも取り成しを頼めるのではないか?』
出陣の前、己の目を真っ直ぐに見すえて告げた夫の黒い瞳を思い出し、雪夏はそっと瞼を閉ざす。敗国の民が勝者の妾になることはよくあること――それでも夫はよもや、彼女がこれほど複雑な立場に置かれることになるとは考えてもみなかったに違いない。フェリクスよりは少しくすんだ、灰色がかった碧の瞳のイーノスの顔を思い浮かべる。今や侮蔑に彩られて己を射抜く両眼は、かつて甘やかな慈しみに満ちていた。今更懐かしく思うことは、きっと許されないのだろう。
「セッカ……」
何かに気づいたように、主が名を呼ぶ。常には強い自信を秘めて輝いている眼差しが不安に揺れる様をさらすのは彼女に対してだけなのだと、今頃になって気づいてしまった。本当に問いたいことを決して聞けぬ彼はきっと、雪夏の憎しみを知っている。
「お疲れですわね、余り眠られていないでしょう」
白い肌に滲んだ隅をなぞる指先にこもる想いを、見て見ぬふりをするのがつらい。何故己の指はそのまま眼球を抉ることができないのか、爪を立てることができないのか。彼によく似た温もりを持つ我が子に、子守唄を歌って聴かせるひとときに安らぎを感じるのか。子どものように己を求める腕に、必死に名前を呼ぼうとする声に、彼のしてきた非道な仕打ちにすらも仄暗い胸の高鳴りを覚えるようになってしまった――クニノタメニ、シカタナイカラ、だからここにいるのだという“理由”が“言い訳”に、偽りになりつつある現実は、少なからず雪夏を打ちのめし責め苛む。
「ごめんなさい……」
由樹、お父様、イーノス、そしてあなた。
「何で謝るの? 妃を迎えたくないのも、“イースト”を盛り立てたいのだって僕自身の望みだよ。結局はオーデンのためにもなるって言うのに、皆頭が固いんだ……だから、セッカは悪くない」
故意にだろうか、見当違いの返事を返す彼のことを、未婚の貴族という慣例から大きく外れ決して妃にはなれぬ彼女一人を守り続ける彼のことを、雪夏は間も無く愛してしまう。愛したくないのに、憎んでいるのに、憎みたくなくて、愛したいのだ。もうすぐその矛盾が溶けて一つに混ざり合って――そして最後に残るのは愛だろう。それが正しいのだ、でも許せない。だからこそ、許せない。腕の中の娘を嬉しそうに撫でるフェリクスの姿を見て、雪夏は唇を噛んだ。憎しみごと彼女を包み込もうとする彼は、しかしその奥の葛藤には気づくまい。気づかせまい、永遠に。それが雪夏の、最後の意地だ。
→イーノス編『夏に溶けゆく』
フェリクス編『夏に凍れる』
由樹編『夏に灼かれし』
関連作『秋に漂う』・ 『春に恨みし』
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