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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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夏に降りたる』・『夏に溶けゆく』フェリクス編。

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『いけませんよ、お邪魔をなさっては。お二人は将来ご夫婦になられるのですから』
 
並んで語り合う兄と友人の姿を見つけ駆け出して行こうとした少年は、訳知り顔の乳母に袖を引かれ、たしなめられて足を止めた。何故、と問うほど幼くも愚かでもなかった彼が、それでも抑えきれない不満の念に目覚めたのはあの日が最初だったのかもしれない。いつの日か、彼が関わることのできない二人だけの世界を兄と彼女が作り上げてしまうことが嫌だった。雪夏がイーノスに取られてしまう。独り占めされてしまう……最初に手を伸ばしたのは自分なのに。そう考えると堪らなく不快な気分になって、フェリクスは床を蹴った。理由のわからぬ苛立ちを、綺麗に打ち消してしまいたくて。
 
彼には母の記憶が無い。幼い頃に他界したというその人に何の感慨も抱かないフェリクスには、その代わり彼を溺愛する父と面倒見の良い異母兄がいた。妾の遺児を表向き自らの養子として引き取った王妃が、彼の青い瞳を見る度ひそやかに眉を顰めていることを、聡い幼子は知っていた。慈愛深き母の印象を強めるため、実子イーノスに万が一のことがあった際の手駒――彼女が彼を引き取った思惑は様々あったのだろうが、結局王妃自身がフェリクスの手を取るのは公の場のみのことであり、実子イーノスですらその腕に抱かれることは滅多に無いように思われた。小さな弟を抱き上げる兄の壊れ物を扱うような仕草からそれを察したフェリクスは、彼にことさら無邪気な笑顔を向けて見せたものだ。思えば初めから、どうすれば他人(ひと)に好かれるかということに、とても敏感な性質だったのだろう。そうしなければ生きていけない立場だと、本能で常に感じていたから。
 
「おとうさま、ちょうちょ、ちょうちょ!」
 
ふと、パタパタと走り込んできた幼い娘が過去にたゆたっていたフェリクスの意識を現実へ引き戻す。彼の目の前に差し出された小さな虫籠の中には、鮮やかな蝶が懸命に羽をはばたかせていた。
 
「小さなお日様、ダメだろう? そんなことをしちゃ、蝶が可哀想だ」
 
滅多に叱られることのない彼女は、珍しい父親の小言にしょんぼりとうつむいた。その姿を見てフェリクスは思わず自嘲をこぼす―― 一体、どの口が言うのかと。
 
 
~~~
 
 
『ふぇりくす?』
 
初めて雪夏に名前を呼ばれた時の喜びを、彼は今も覚えている。イーノスに対抗する勢力の拡大を恐れて、王妃は他者とフェリクスの接触を余り認めたがらなかった。付けられた家庭教師はたった一人。赤ん坊のころから世話をしてくれている乳母が一人に、異母兄と父王だけの小さな世界で活発な子どもの好奇心が満たされるはずもない。名目上は兄の婚約者でありながら環の献上品のような形でやって来たその少女が、フェリクスにとって初めて出会った同世代の子どもで、ただ一人の友人となるのにそう時間はかからなかった。
 
『セッカ、きょうはリスをつかまえにいこう! はやく、はやく!』
 
毎日、フェリクスは王宮の隅に設けられた雪夏の部屋に押しかけては女官の影に縮こまる彼女を引っ張り出した。すばしこく逃げ回る小さな生き物を追いかけて木に登り、林を抜け、ゼイゼイと息が切れるころ、ようやく手の中に収めた艷やかな毛並みを撫でて彼女が問うたのは、いつのことだったろう?
 
『これ、どう、しますか?』
 
『うーんと……ひもでつないでおこうかなぁ。きっとおもしろいよ!』
 
拙い彼女の言葉を気にする体もなく、少年があっけらかんと返した途端、黒いつぶらな瞳は潤み出し、みるみる内に溢れそうになる――
 
『かわいそう……きっと、しんじゃう』
 
遠い日の少女の声が、青年となったフェリクスの耳にこだました。彼女の言にムキになった彼が宣言通りに繋いだリスは数日と持たず衰弱し、紐に絡まって死んでしまった。
 
「逃がしておいで、できるだろう? 君は優しい子だから」
 
ポンポンと頭を撫でられた冬陽がコクリと頷いて窓へと駆け出し、フェリクスはホウと溜息を吐いた。開け放たれた窓に向かい、大きく口を開けた籠の入り口から、そろりと飛び立っていく一羽の蝶。遠く、広く、見えない空へと――どこにも行けない、彼女の代わりに。
 
「随分優しくなりましたわね」
 
おかしそうに笑う声が響いて振り返ると、湯気の立つ茶を乗せた盆を携えて、たおやかに成長した雪夏が立っていた。差し出された茶碗はウェストのティーカップと違って持ち手の無い、複雑な文様に彩られた彼女の故郷の器。その内を満たす茶は緑色で、草の香りがとても強い。フェリクスはぼんやりと、彼女を撃った日のことを――彼女に射られた、否、射られていると気づいた時のことを思い出していた。
 
 
~~~
 
 
『僕おかしいと思うんだよ……セッカは良い子だけど、父上の後を継いで王冠を戴いたイーノスの隣に、彼女が並ぶのは想像がつかないなぁ』
 
甘えるように父に告げた時、既に少年の苛立ちは頂点に達していた。父に可愛がられれば可愛がられるほど、群がって来る後見は増え、イーノスとの対立軸は鮮明になりつつあった。今にして思えば、父王がフェリクスに向けた愛情は、王妃への当てつけの側面を多分に孕んでいたのだろう。第一王子を儲けた想い人との仲を裂かれ、あてがわれた気位高い妃とその間に生まれた二番目の息子を、父は扱いかねていたのだから。初めはそのように兄と比較され、競うよう仕向けられること自体を厭っていたはずなのに……変わったのは、彼女と出会ってからだった。
乳母に耳元で小言を囁かれて間も無く、兄の母である王妃が倒れた。進みゆく病にその死――引いては彼女が支援する環のオーデン国内での立場の凋落が噂され始めると、太守の娘を許嫁に置くイーノスの求心力は急速に衰えを見せ始めた。かねてより“イースト”への不満がくすぶっていた世情にあって、王子の伴侶に黄色い肌の娘を迎えることへの賛否は、彼を擁する一派の中でも別れていたから。全ては賢しらな少年の思惑通り、容易なことだったのだ、二人の仲を引き裂くことなど。元々国王も、兄の周囲の貴族たちとて、“イースト”の娘に許婚の地位は与えても正式に王家の籍に入れるつもりが無いことは明らかだった。イーノスが成人しても、雪夏が十七の歳を過ぎてもなお、婚儀の準備が行われる気配すら無かったのだから。
彼らの婚約が白紙となり雪夏の帰国が決まった時、フェリクスは内心で快哉を叫んだ。彼女がオーデンを去ることは残念だが、状況が落ち着いたらこちらから会いにいけば良い。たとえ躊躇われたとしても、手を差し出せばきっと応えてくれるだろう、初めて出会った頃のように。そんな幻想を叩き壊したのは一年と経たずに届けられた彼女の結婚の報せ。
 
『……もう十八だ、太守の娘として当然の義務だろう』
 
妙に落ち着きはらった兄の反応が、フェリクスには不思議で仕方なかった。イーノスと雪夏の二人が、己を爪はじきにした世界を作り上げるのを阻みたくて追い詰めたのに、彼女はあっさりと兄でも自分でもない他の人間と異なる世界に旅立ってしまったのだ。それがフェリクスには許せなかった。太子の地位を得ると持ち前のカリスマ性を発揮して対東強硬論の先頭に立ち、父を説得して戦を起こした。不均衡なイーストラインの開放を公平・平等に行い、優れたウェストのシステムで彼の地の人々を統治する――そんな謡い文句を掲げて攻め入った地で、泥と血と硝煙の臭いに塗れている時だった。
 
『敵の大将は由樹、イースト・練国の太守です!』
 
部下の叫び声に、唐突に己が血のたぎる音をフェリクスは聞いた。今彼が攻めている国は、他ならぬ雪夏が嫁いだ場所、彼が向き合っている敵は彼女の夫となった者なのだ。そう思うと戦意は昂り、残虐なまでの殺意が沸く。己が真に嫌悪したものは兄ではなく、寄り添う“二人”の姿ではなく――“彼女”を奪い取ろうとするものなのだと、その時になってようやく気づいた。その感情の名を探し、辿りついた答えにフェリクスは絶望した。恋というのは、愛という感情は、もっと甘やかなものではなかったか。イーノスと雪夏が醸し出していたような、他者には決して立ち入れぬ優しい光景をこそ、彼は理想としていたはずなのだ。撃鉄を引くフェリクスの目から涙が溢れる。もう後戻りはできなかったし、できるとも思えなかった。この狂気は、この欲望はきっと叶うまで止まらない。否、手にした今もなお、
 
『あなた……フェリクス?』
 
重く閉ざされた瞼が次にうっすらと見開かれた時、その瞳に灯った激しい憎しみの火をフェリクスは胸の奥に今も焼き付けている。戦後、まるで贖いのように東の開発に力を入れ、文化を保護し普及をも手助けする己の姿が『イーストかぶれ』と嘲笑われていることは知っていた。兄の元許婚である“イースト”の女にのめり込み、強硬な態度を一変させた若い愚かな国王。それでも、結果としてオーデンの民に益をもたらしたことは確かだ。勝利に沸く民意を背景に、フェリクスは今新たな覇権に手をかけようとしている。

苦みの残る茶を飲み干して、美しく正座した雪夏の膝に頭を乗せると、黒い瞳が戸惑ったように彼を見た。かつてこの両眼は、眩しい光を映したようにきらめいて彼を見つめていたはず――
 
「フェリクス、冬陽の前ですよ」
 
咎めるような声を無視して、フェリクスは問うた。
 
「ねぇセッカ、イーノスのこと、好きだった?」
 
真っ直ぐに見つめた先の瞳は逸らされ、暫し黙り込んだ後に
 
「ええ、好きでしたわ。とても優しくしてくださいましたもの」
 
と卒の無い答えが返って来た。その奥に確かに含まれる憧憬と愛情が、彼と似た己の髪を梳く細い指先から伝わって来るようで、フェリクスは苦々しく唇を噛みしめる。
 
「練の太守のことは……彼のことは、愛してた?」
 
己を追い詰めるような問いを何故重ねてしまうのか、フェリクスにはもう分からなかった。
 
「ええ……とても、とても誠実な方でした」
 
苦しげに吐かれた息が、伏せられた眼差しが、止まった優しい指の動きが堪らなく切ない。
 
「じゃあ、」
 
僕のことは――恨んでいる? 愛している? 愛してくれる? いつか、好きになって……
発することのできない問いを、願うことすら許されぬ言葉を、彼は今日も飲み込んだ。己でも理解できぬこの愛は、きっと伝わらないのだろう。それでも良い、冷えた想いで凍らせた氷室の内で、彼女が消えずにいてくれるなら。どんな熱からも守ってみせよう、高く積み上げた氷の壁で、永遠に雪を囲い込んで。






→ 由樹編:夏に灼かれし

 
 

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『いけませんよ、お邪魔をなさっては。お二人は将来ご夫婦になられるのですから』
 
並んで語り合う兄と友人の姿を見つけ駆け出して行こうとした少年は、訳知り顔の乳母に袖を引かれ、たしなめられて足を止めた。何故、と問うほど幼くも愚かでもなかった彼が、それでも抑えきれない不満の念に目覚めたのはあの日が最初だったのかもしれない。いつの日か、彼が関わることのできない二人だけの世界を兄と彼女が作り上げてしまうことが嫌だった。雪夏がイーノスに取られてしまう。独り占めされてしまう……最初に手を伸ばしたのは自分なのに。そう考えると堪らなく不快な気分になって、フェリクスは床を蹴った。理由のわからぬ苛立ちを、綺麗に打ち消してしまいたくて。
 
彼には母の記憶が無い。幼い頃に他界したというその人に何の感慨も抱かないフェリクスには、その代わり彼を溺愛する父と面倒見の良い異母兄がいた。妾の遺児を表向き自らの養子として引き取った王妃が、彼の青い瞳を見る度ひそやかに眉を顰めていることを、聡い幼子は知っていた。慈愛深き母の印象を強めるため、実子イーノスに万が一のことがあった際の手駒――彼女が彼を引き取った思惑は様々あったのだろうが、結局王妃自身がフェリクスの手を取るのは公の場のみのことであり、実子イーノスですらその腕に抱かれることは滅多に無いように思われた。小さな弟を抱き上げる兄の壊れ物を扱うような仕草からそれを察したフェリクスは、彼にことさら無邪気な笑顔を向けて見せたものだ。思えば初めから、どうすれば他人(ひと)に好かれるかということに、とても敏感な性質だったのだろう。そうしなければ生きていけない立場だと、本能で常に感じていたから。
 
「おとうさま、ちょうちょ、ちょうちょ!」
 
ふと、パタパタと走り込んできた幼い娘が過去にたゆたっていたフェリクスの意識を現実へ引き戻す。彼の目の前に差し出された小さな虫籠の中には、鮮やかな蝶が懸命に羽をはばたかせていた。
 
「小さなお日様、ダメだろう? そんなことをしちゃ、蝶が可哀想だ」
 
滅多に叱られることのない彼女は、珍しい父親の小言にしょんぼりとうつむいた。その姿を見てフェリクスは思わず自嘲をこぼす―― 一体、どの口が言うのかと。
 
 
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『ふぇりくす?』
 
初めて雪夏に名前を呼ばれた時の喜びを、彼は今も覚えている。イーノスに対抗する勢力の拡大を恐れて、王妃は他者とフェリクスの接触を余り認めたがらなかった。付けられた家庭教師はたった一人。赤ん坊のころから世話をしてくれている乳母が一人に、異母兄と父王だけの小さな世界で活発な子どもの好奇心が満たされるはずもない。名目上は兄の婚約者でありながら環の献上品のような形でやって来たその少女が、フェリクスにとって初めて出会った同世代の子どもで、ただ一人の友人となるのにそう時間はかからなかった。
 
『セッカ、きょうはリスをつかまえにいこう! はやく、はやく!』
 
毎日、フェリクスは王宮の隅に設けられた雪夏の部屋に押しかけては女官の影に縮こまる彼女を引っ張り出した。すばしこく逃げ回る小さな生き物を追いかけて木に登り、林を抜け、ゼイゼイと息が切れるころ、ようやく手の中に収めた艷やかな毛並みを撫でて彼女が問うたのは、いつのことだったろう?
 
『これ、どう、しますか?』
 
『うーんと……ひもでつないでおこうかなぁ。きっとおもしろいよ!』
 
拙い彼女の言葉を気にする体もなく、少年があっけらかんと返した途端、黒いつぶらな瞳は潤み出し、みるみる内に溢れそうになる――
 
『かわいそう……きっと、しんじゃう』
 
遠い日の少女の声が、青年となったフェリクスの耳にこだました。彼女の言にムキになった彼が宣言通りに繋いだリスは数日と持たず衰弱し、紐に絡まって死んでしまった。
 
「逃がしておいで、できるだろう? 君は優しい子だから」
 
ポンポンと頭を撫でられた冬陽がコクリと頷いて窓へと駆け出し、フェリクスはホウと溜息を吐いた。開け放たれた窓に向かい、大きく口を開けた籠の入り口から、そろりと飛び立っていく一羽の蝶。遠く、広く、見えない空へと――どこにも行けない、彼女の代わりに。
 
「随分優しくなりましたわね」
 
おかしそうに笑う声が響いて振り返ると、湯気の立つ茶を乗せた盆を携えて、たおやかに成長した雪夏が立っていた。差し出された茶碗はウェストのティーカップと違って持ち手の無い、複雑な文様に彩られた彼女の故郷の器。その内を満たす茶は緑色で、草の香りがとても強い。フェリクスはぼんやりと、彼女を撃った日のことを――彼女に射られた、否、射られていると気づいた時のことを思い出していた。
 
 
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『僕おかしいと思うんだよ……セッカは良い子だけど、父上の後を継いで王冠を戴いたイーノスの隣に、彼女が並ぶのは想像がつかないなぁ』
 
甘えるように父に告げた時、既に少年の苛立ちは頂点に達していた。父に可愛がられれば可愛がられるほど、群がって来る後見は増え、イーノスとの対立軸は鮮明になりつつあった。今にして思えば、父王がフェリクスに向けた愛情は、王妃への当てつけの側面を多分に孕んでいたのだろう。第一王子を儲けた想い人との仲を裂かれ、あてがわれた気位高い妃とその間に生まれた二番目の息子を、父は扱いかねていたのだから。初めはそのように兄と比較され、競うよう仕向けられること自体を厭っていたはずなのに……変わったのは、彼女と出会ってからだった。
乳母に耳元で小言を囁かれて間も無く、兄の母である王妃が倒れた。進みゆく病にその死――引いては彼女が支援する環のオーデン国内での立場の凋落が噂され始めると、太守の娘を許嫁に置くイーノスの求心力は急速に衰えを見せ始めた。かねてより“イースト”への不満がくすぶっていた世情にあって、王子の伴侶に黄色い肌の娘を迎えることへの賛否は、彼を擁する一派の中でも別れていたから。全ては賢しらな少年の思惑通り、容易なことだったのだ、二人の仲を引き裂くことなど。元々国王も、兄の周囲の貴族たちとて、“イースト”の娘に許婚の地位は与えても正式に王家の籍に入れるつもりが無いことは明らかだった。イーノスが成人しても、雪夏が十七の歳を過ぎてもなお、婚儀の準備が行われる気配すら無かったのだから。
彼らの婚約が白紙となり雪夏の帰国が決まった時、フェリクスは内心で快哉を叫んだ。彼女がオーデンを去ることは残念だが、状況が落ち着いたらこちらから会いにいけば良い。たとえ躊躇われたとしても、手を差し出せばきっと応えてくれるだろう、初めて出会った頃のように。そんな幻想を叩き壊したのは一年と経たずに届けられた彼女の結婚の報せ。
 
『……もう十八だ、太守の娘として当然の義務だろう』
 
妙に落ち着きはらった兄の反応が、フェリクスには不思議で仕方なかった。イーノスと雪夏の二人が、己を爪はじきにした世界を作り上げるのを阻みたくて追い詰めたのに、彼女はあっさりと兄でも自分でもない他の人間と異なる世界に旅立ってしまったのだ。それがフェリクスには許せなかった。太子の地位を得ると持ち前のカリスマ性を発揮して対東強硬論の先頭に立ち、父を説得して戦を起こした。不均衡なイーストラインの開放を公平・平等に行い、優れたウェストのシステムで彼の地の人々を統治する――そんな謡い文句を掲げて攻め入った地で、泥と血と硝煙の臭いに塗れている時だった。
 
『敵の大将は由樹、イースト・練国の太守です!』
 
部下の叫び声に、唐突に己が血のたぎる音をフェリクスは聞いた。今彼が攻めている国は、他ならぬ雪夏が嫁いだ場所、彼が向き合っている敵は彼女の夫となった者なのだ。そう思うと戦意は昂り、残虐なまでの殺意が沸く。己が真に嫌悪したものは兄ではなく、寄り添う“二人”の姿ではなく――“彼女”を奪い取ろうとするものなのだと、その時になってようやく気づいた。その感情の名を探し、辿りついた答えにフェリクスは絶望した。恋というのは、愛という感情は、もっと甘やかなものではなかったか。イーノスと雪夏が醸し出していたような、他者には決して立ち入れぬ優しい光景をこそ、彼は理想としていたはずなのだ。撃鉄を引くフェリクスの目から涙が溢れる。もう後戻りはできなかったし、できるとも思えなかった。この狂気は、この欲望はきっと叶うまで止まらない。否、手にした今もなお、
 
『あなた……フェリクス?』
 
重く閉ざされた瞼が次にうっすらと見開かれた時、その瞳に灯った激しい憎しみの火をフェリクスは胸の奥に今も焼き付けている。戦後、まるで贖いのように東の開発に力を入れ、文化を保護し普及をも手助けする己の姿が『イーストかぶれ』と嘲笑われていることは知っていた。兄の元許婚である“イースト”の女にのめり込み、強硬な態度を一変させた若い愚かな国王。それでも、結果としてオーデンの民に益をもたらしたことは確かだ。勝利に沸く民意を背景に、フェリクスは今新たな覇権に手をかけようとしている。

苦みの残る茶を飲み干して、美しく正座した雪夏の膝に頭を乗せると、黒い瞳が戸惑ったように彼を見た。かつてこの両眼は、眩しい光を映したようにきらめいて彼を見つめていたはず――
 
「フェリクス、冬陽の前ですよ」
 
咎めるような声を無視して、フェリクスは問うた。
 
「ねぇセッカ、イーノスのこと、好きだった?」
 
真っ直ぐに見つめた先の瞳は逸らされ、暫し黙り込んだ後に
 
「ええ、好きでしたわ。とても優しくしてくださいましたもの」
 
と卒の無い答えが返って来た。その奥に確かに含まれる憧憬と愛情が、彼と似た己の髪を梳く細い指先から伝わって来るようで、フェリクスは苦々しく唇を噛みしめる。
 
「練の太守のことは……彼のことは、愛してた?」
 
己を追い詰めるような問いを何故重ねてしまうのか、フェリクスにはもう分からなかった。
 
「ええ……とても、とても誠実な方でした」
 
苦しげに吐かれた息が、伏せられた眼差しが、止まった優しい指の動きが堪らなく切ない。
 
「じゃあ、」
 
僕のことは――恨んでいる? 愛している? 愛してくれる? いつか、好きになって……
発することのできない問いを、願うことすら許されぬ言葉を、彼は今日も飲み込んだ。己でも理解できぬこの愛は、きっと伝わらないのだろう。それでも良い、冷えた想いで凍らせた氷室の内で、彼女が消えずにいてくれるなら。どんな熱からも守ってみせよう、高く積み上げた氷の壁で、永遠に雪を囲い込んで。






→ 由樹編:夏に灼かれし

 
 

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