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東の果て、日の国。
統べるは帝、祈るは神官、守るは衛士(えじ)。
帝に仕える三貴族。
大臣(おとど)を出すのは無(なし)の家。
神通優れる然(ねん)の家。
歌い踊るは色(しき)の家。
神殿の長は大神官、よりましの要は大巫女(おおみこ)を名乗る。
神に仕え、心安く国の泰平を祈る巫女。
清らかに清らかに……心は凍りゆく。
~~~
音も無く降り積もる雪を、御簾の内から眩しい思いで雪音は見つめた。
きらきらと光る、穢れ無い雪を思わせるその人の顔が、瞼の裏に浮かび上がる。
「雪音! 雪音!」
しかして次の瞬間聞こえてきた声は、雪を通り越して
氷のように鋭い眼差しを持つ青年のものだった。
「はい、蓮水(はすみ)様」
ぼんやりともたれかかっていた脇息から身を起こして、彼女は夫の声に答えた。
「そのような格好でそんなところにいては風邪を引く。こちらに来なさい。
おまえは余り丈夫な身体ではないのだから……」
「はい……申し訳ございません」
人形のように大人しく従った雪音を、蓮水は優しく引き寄せた。
夫婦になって三月。
有能かつ誠実な夫に、雪音は未だ馴染むことが出来ずにいた。
ほんの半年前まで、雪音は巫女として神殿に暮らしていた。
代々神通の道に通じ、神官・巫女を多く輩出する然の家の大姫として育った彼女は、
神殿に入って間もなくその類稀な才を見込まれ、巫女たちの長である大巫女の位についた。
年若く美しい大巫女は人々の信望厚く、
また同じく神官たちを束ねる立場にある大神官――光とは深い絆で結ばれていた。
~~~
「雪音、何を見ているの?」
ちょうど一年前の今頃だったか。
今日のように御簾の内などという窮屈な場所ではなく、
神殿の階に佇んで雪を見ていた雪音に、光が声をかけてくれたことがあった。
「光さま……雪が、降ってきたので」
眩い白銀の衣装を纏う大神官に、雪音は静かに応えた。
「ああ、そうか。君は雪が好きだったね」
柔らかく微笑む光の瞳の奥に、どこか哀しげな色を見つけて、雪音は息を吐いた。
「……帝が、崩御されたのですね?」
彼女の問いに、彼が厳かに頷いた時……二人の時間は永遠に失われてしまった。
帝の代替わりに際し神殿は大神官と大巫女を新しい者に入れ替える。
長く続いた風習に逆らえるわけもない。
雪音と光はそれぞれ俗世に還り、二度と交わらぬ道へと戻る。
一介の衛士の家から神殿に入り、異例の出世を遂げた光。
代々皇家との繋がりも深い然の家に育った雪音。
然の家の大姫として雪音は戻れば婿を取らされるだろう。
大巫女の地位にあった、年若い娘となればなおのこと。
「光さま……、私は」
「それ以上言ってはならぬ、雪音。
ここでの我らは、神に仕えるためだけに存在しているのだから……」
雪音の涙を、光は見て見ぬふりをした。
~~~
そうして半年が経ち、先帝の葬儀と新帝の即位式が執り行われた後、
雪音はこの然の家に戻り、両親が養子として迎えていた蓮水を婿に取ったのだ。
久方ぶりに戻った生家は、雪音を優しく送り出してくれた兄を亡くし、
まるで灯が消えてしまったかのような有様だった。
そんな中に、雪音の知らない青年が一人、父母に紛れて忙しなく立ち働いていた。
「蓮水さま、これはどちらに?」
「蓮水さま、あちらの手配はよろしいでしょうか?」
屋敷の皆が彼を慕い、頼りにしている様に雪音は初め戸惑った。
彼女には、彼が何を考えているのか、どういう人物なのか知らないことが多すぎた。
何よりその切れ長の瞳に、どことなく不安が掻き立てられる。
人の心を全て見透かし、丸ごと切り取ってしまうような眼差し。
何もかもを包み込むように暖かな、光の瞳が恋しかった。
こんなことを考えていてはいけない、と雪音は夫の顔を見やる。
噂ではこの夫にもまた、色の家に許婚がいたのだと聞く。
さる高貴な方がその許婚を望まれたから、彼は身を引き、色の家を離れたのだとも……。
その女性のことは思いきれたのだろうか。
彼は、自分という妻をどう思っているのか。
「あなたにはいずれ話さねばと思っていたことなのだが……、
まだ私が色の家にいた頃、私には大切な許婚がいた」
突然夫の唇から紡がれた言葉に、雪音は驚いて顔を上げた。
「名を奏(かなで)と言う……。そなたも知っての通り、今は皇后と呼ばれている人だ」
雪音はただただ目を見開いて蓮水の顔を見る。
「奏と私は幼い頃から共に育ち、共にあるのが当たり前だと思っていた。
それまでも、それからも……今から思えば、
兄と妹のような関係から生まれた情だったのかもしれないが」
蓮水は自嘲するように嗤った。
「けれど知瀬宮(ちせのみや)さま……今上と出会ってから、何もかもが変わってしまった。
奏は真の恋を知り、私は彼女の幸せを願った……。ただ、それだけのこと。
この家に入ることを決めたのも私の意思。
あなたとの婚儀を望んだのも私の意思だ。後悔はない」
「……お辛くは、ないのですか?
わたくしは……わたくしは、全てが己の意思だと言えるだけの強さを、
未だに身に付けることができずにおります」
決死の覚悟で本心を打ち明けた雪音の頬に、蓮水はそっと触れた。
「然の家に来たばかりの頃は、確かに幾ばくかの虚しさを覚えることもあった。
だが雪音、私はおまえと出会って……ああ、これで良かったのだと、
奏を手放したことが、そうしてここへ来たことが間違いではなかったのだと
信じることが出来るようになった」
「何故……? わたくしは、とてもそのように想っていただくような、」
雪音が瞳を潤ませると、蓮水は困ったように微笑って立ち上がった。
「……春になったら、神殿に詣でないか?帝に願い出て衛士もつけよう」
雪音はハッとして夫を見た。
生家に帰った光が衛士の職に就いたと風の噂で漏れ聞いた。
彼は何もかも知っている、知っているのだ。
雪音が神殿に……光に想いを残していることを。
「有り難いお申し出なれど……ようやくこちらでの暮らしに慣れた身、
遠出の自信もございませんので、この春は遠慮させていただきたく」
俯いた雪音に、蓮水は優しく語りかけた。
「焦らずとも良い……緩やかで良いのだ。いつかここに、
私と共に生きることにあなたが喜びを見出す日を、私は待っている」
しんしんと冷える雪の夜、ただ傍らに寄り添う人の温もりだけが
雪音の心に静かに沁み渡っていった。
~~~
やがて、雪音が里に戻って初めて過ごす春が巡って来た。
既にその腹には第一子が宿り、然の家にも次第に穏やかな灯が戻りつつある。
「雪音、ほらご覧。これは宮中で鏡宮(かがみのみや)様から賜ったものだよ」
「鏡宮様というと……わたくしも神殿にいた頃、
幾度かお目にかかったことがございます。お懐かしいこと」
美しい瑠璃の小箱を取り出した蓮水に、
雪音はあどけない帝の弟宮を思い出し口元をほころばせた。
神殿にいた頃の話を他愛もなく語らえるようになって、まだ日は浅い。
「鏡宮様がお前に子が生まれると知って大層喜ばれて……
是非に、と下さった贈り物なのだよ」
「え……まぁ、わたくしに?」
驚いて箱を受け取り、そっと抱く。
鏡宮の成人の儀式で、雪音は大巫女として祈りを捧げたことがあった。
瞼を閉じれば、昨日のことのように思い出されるその情景に、
雪音は恋しさではなくただひたすらに懐かしさのみを感じている己に気づいた。
「雪音?」
自分を窺う夫の瞳の奥に、今は心からの慈しみを、真実を見出すことができる。
ああ、これで良かったのだ。
私は私の道を、あの人はあの人の道を生きていく。
雪音は顔を上げて微笑んだ。
「いいえ、何でもございませんわ。素敵な贈り物、まことに嬉しゅうございました。
どうぞ蓮水様からも宮様によろしくお伝えくださいまし」
「……あぁ、必ず」
蓮水も微笑んで妻の肩を引き寄せた。
雪はいつか溶ける。けれどそれは消えるのではない。
大地を潤し、新たな生命(いのち)の営みを紡ぐのだ。
ただきらきらと光輝く、純白の美しい思い出だけを残して――
→『月待ち』
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東の果て、日の国。
統べるは帝、祈るは神官、守るは衛士(えじ)。
帝に仕える三貴族。
大臣(おとど)を出すのは無(なし)の家。
神通優れる然(ねん)の家。
歌い踊るは色(しき)の家。
今上には弟御が二人。皇太子(ひつぎのみこ)たる知瀬宮(ちせのみや)、
兵部卿(ひょうぶきょう)たる鏡宮(かがみのみや)。
後宮に数多妃は侍れど、皇子は未だお生まれにならず。
才溢れる帝の元、ただ春の日は虚しく輝く。
実りを知らず、花は散る。
~~~
「あっ、扇が……」
ポチャリ、という音と共に水底に沈んだ舞扇に、彩は溜息を吐いた。
「まぁ、またあなたね、彩の君。本当に何をやっているの?」
「嫌だわ、明日には主上の前で本番を迎えるというのに」
今上の帝の前で舞を捧げる儀式。
色の家の娘として彩は初めてその舞人に選ばれ、
他の四人の姫たちと共に直前の練習をしていたのだった。
御前舞の時にのみ使用される、御所を巡る池の中央に張り出した神聖な舞台。
その場の独特な空気に気圧されてしまったのだろうか、扇は彩の手を滑り、
ひらひらと水の中に舞い落ちた。
「申し訳ありません、皆さま。すぐに新たな扇を用意致しますので……」
結局場の雰囲気は白けてしまい、その日の練習はそれで打ち止めとなった。
与えられた局へと帰り、塞ぎ込む彩の元に、
小さく扉を打つ音が聞こえてきたのはその日の深夜。
「はい、どなた?」
彩が扉を開けると、立っていたのは純白の衣装を纏う美しい神官だった。
「この扇……あなたのものではございませんか?」
驚くべきことに、神官が携えていたのは彩が池に落とした彼の扇。
心なしか、扇に施された桜模様が以前に比べ生き生きと輝きを放って見える。
「はい、確かにわたくしの……! でも、どうしてあなたさまが?」
彩の問いに、神官はゆるりと微笑んだ。
「昼間のあなた方の舞を、私は密かに覗き見ていたのです。
普段は神殿に籠り切りの身なれば、美しい舞姫たちの姿が物珍しくて。
そのうちに、一人の舞姫の手から扇が滑り落ちた……
そうして私の浅ましい心がそうさせたのでしょうか、水の流れの悪戯か、
そちらの扇が私の足元を流れる水辺へと流れきたのです。
私はそれを拾い上げて、あなたの元にお届けした次第」
「まぁ、ご親切に、どうもありがとうございます」
少しも濡れてなどいない扇に、彩はこれが神官の力の成せる業だろうか、と見入る。
「……あなたは不思議な姫君ですね。
私がこうも素直に心を打ち明けても、少しも気に止めては下さらない」
溜息混じりに告げられた言葉に、彩は戸惑いながら顔を上げる。
「私は神に仕える身。そしてあなたはいずれ帝に仕える身となりましょうが、
せめてお名前だけでも教えてはもらえないでしょうか?
これからの生を歩む縁(よすが)に、私はあなたを想いたい」
そこで初めて、彩は気づいた。
この美しい神官殿は、自分に愛の告白をしているのではないか――と。
唐突に理解した感情に、彩は耳まで紅く染めた。
「……彩、と申します白真(はくま)様」
「おや、名を知られていたか」
彩の返事に、神官――白真は額を押さえて笑んだ。
現在の神殿において神通の力は三本の指に入り、いずれは
神殿の長たる大神官の座に就く、と噂される“無の家の変わり者”の
端麗な容姿と類稀な才を知らぬ者は宮中に一人としていなかった。
宮仕えの父兄を持つ彩とて当然その名は耳にしていた。
そして明日の御前舞には、神殿から彼が来るのだということも……。
「彩、また会えるかな?」
白真はそっと彩に伸ばそうとした手を押しとどめた。
神官は、異性との接触が許されてはいない。
「……白真様が、望まれるのであれば」
彩は微笑んで答えた。後に背負う罪を知らずに。
~~~
御前舞は無事終わった。
前日彩が水に落としたはずの桜の扇はやはり他のどの舞姫の扇より輝きを放ち、
彩の姿を華やかに彩った。
その舞姿を気に行った帝は、彩に女官の職を与え、身の近くに侍らすようになった。
優しい帝を彩は慕った。
その心の一方で、遠き神殿に仕える白真の姿が日に日に色濃くなっていく様を、
自覚せざるを得なかった。
そんな彼女に、やがて転機が訪れる。
白真が神殿を辞し、無の家に戻ることを決めたのだ。
「次代の大神官に、とあれほど望まれた男だが……朝廷としては喜ばしい。
これで無の家にも直系の跡取りが帰ってくる。そうは思わんか、彩?」
帝の杯を満たしながら、彩は微笑んで頷いた。
「ええ、本当に……」
白真と見(まみ)えたのは、御前舞以来。
白の衣を脱ぎ鮮やかな青の衣で御所に赴いた彼に、彩の心はときめいた。
ようやく会えた、愛しい人。
二人の視線は絡み合い、彩は白真が神殿を辞した覚悟を知った。
そんな矢先の夜だった。
「彩、桃の君が御所を去るのを、知っているか?」
「……存じ上げております」
彩は小さな声で答えた。同じ色の家出身の桃の君は主上の寵愛深い妃。
心根が優しく、彩も随分と気にかけてもらった姉のような人だ。
その桃の君が流行り病に罹り、遂には明日をも知れぬ命となった。
帝を穢れに触れさせぬため、死期の迫ったものは御所を去らねばならない。
掟に従い、桃の君は御所を辞したのだ。
「彩、朕は彼女を失うのが恐ろしい……寂しくて堪らないのだ。
そなたなら、彩、桃の君をよく知り、彼女が誰よりも可愛がっていたおまえなら、
彼女の代わりに朕の心を埋めてくれはしないだろうか?彩、彩……」
彩は持っていた御酒を取り落とした。
帝の細い、けれども強い腕の力が、彩の身体を包み込む。
彩は抗えなかった。慕う主と、彼の妃に受けた恩義のために。
~~~
彩は妃の一人として後宮に入った。
桃の君亡き後の主上の寵は篤く、周囲の嫉みを買うこともあった。
そんな折には必ず、局の戸口に桜の枝が置かれていた。
夏にも秋にも冬にも枯れぬその枝の持ち主が誰であるのか、
彩は気づき、そして慰められた。
あの人は、今でもわたくしを想っていて下さる――
それだけが、彩の心の救いであった。
やがて彩は、年若くして一度も子の無いまま主上の崩御を迎えた。
墨染の衣を来て踏み出した後宮の外は、眩しい光に包まれ、
桜の舞い散る春の季節を迎えていた。
「……これから、どうなさるおつもりですか?」
里に下がった彩の元を訪れたのは、大臣の位を得ながらも未だ独身、
様々な噂の尽きぬ色男に身を変えた白真だった。
「尼となり、主上の菩提を弔わせていただく心づもりでございます」
彩は静かに答えた。
「……あなたはまだそんなにもお若いのに……
どうしても、私の元には来ていただけませんか?」
白真の悲痛な声に、彩は唇を噛んだ。
「……恐れ多くも帝の妃だった女子が再び嫁ぐなど……前例がございません。
それに、そのようなことが許されては国が乱れる元となります。
国の要(かなめ)たる大臣の白真様……わたくしは、あなたを困らせたくはないのです」
彩のために自ら選んだ神官の道を捨て、心ならず朝廷に戻った白真。
彼を裏切り帝の妃となった自分の元に、枯れぬ想いの証を届けてくれた愛しい人。
「……私はいつでも、あなた故に悩み、あなた故に苦しんできました。
けれどもそれを悔やんだことは、一度として無いのですよ」
白真の言葉に、彩もひととき、涙をこぼした。
「ええ、わたくしもそうです、白真様」
~~~
それからまた、歳月が流れた。
尼となり山深い庵に籠った彩は病の床に臥していた。
「……一目、お会いしたくて参りました」
御簾越しに響いた声に、彩の魂は現へと引き戻される。
「白真様……」
遥々都から庵を訪ね来た男に、彩は戸惑い、そして歓喜する。
「……昔あなたに告げた言葉を、訂正しなければなりません」
今にも消え行こうとする命に取り縋るように、白真は語りかけた。
「かつてあなたのためにしたことを、一度も悔やんだことが無い、と言いましたね。
けれど本当は一つだけ、心から悔やんでいることがあるのです」
「まぁ……それは、」
彩が彼に捨てさせたものは余りにも多い。
愛しい男に対する罪を背負ったまま逝かなければならないのか――
と溜息を吐きだした彼女に、白真は告げた。
「あなたと初めてお会いした時の、あの桜の扇。
御前舞の予行を覗き見た私は、あの扇で舞うあなたに一目で焦がれました。
どうしてもあなたと話したくて、術を使って扇を我が手に引き寄せたのです。
そうして、次の日あなたが一等美しく見えるよう、
あなたに喜んでもらえるように呪(まじな)いをかけて扇を返した。
そしてその結果、あなたは主上や桃の君の近くに召されるようになった……」
やはり、とも思える白真の言に、彩は少しだけ目を瞠り、次に微笑んだ。
「白真様、わたくしは感謝しておりますわ。
あの扇があればこそ、あなたはわたくしを見つけて下さり、
わたくしはあなたに出会うことができたのです。
あの扇は今でも、わたくしの大切な宝物ですわ……」
彩の言葉に、白真は泣いた。
彩は病床から起き上がり、御簾を上げると、白真の手に色あせた桜の扇を手渡した。
「黄泉には持って参れません。
どうぞ、白真様の手でこの花を蘇らせてはもらえませぬか?」
病みやつれた彩の目にもまた、涙が光っていた。
白真は強く頷いて、扇を握りしめた。
~~~
その年の桜が散る頃、色あせた桜の扇は墨色に染まった。
桜吹雪の中、白真は愛する人の最期(おわり)を知った。
涙は出なかった。ただただ哀しみだけが込み上げる。
時経れば桜は色あせる。けれど想いは色あせなかった。
桜に始まり、桜に終わった淡い恋は既に息絶え、桜は喪の色へと変貌を遂げた。
「もう呪いは、使うまいな……」
手にした扇に向かい呟いた男の独り言は、
誰にも聞かれることなく桜の下へと消えていった。
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二人を産み落としてすぐに世を去った。
父である神さえ彼らに近づこうとはしなかった。
何の違和感も持たずにその蝙蝠を招きいれ、あまつさえ甘言に耳を貸してしまった。
非を決して認めることなく、“下界”へと追いやった。
コウが火を起こし、レンがそれを煽ると、
二人に父性や母性を求めるのは到底不可能な話であった。
毛嫌いしている水の里に熱心に通い詰めている理由を。
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風の町に生まれたセイと、空の国に生まれたアメは二歳違いの従兄妹同士であった。
二人の父にあたるキリとウンは仲の良い双子の兄弟であったので、
離れたところに住んでいても二人は幼いころより頻繁に顔を合わせていた。
ところが、二人の仲は極めて悪かった。
あけっぴろげで大雑把な性格のセイと、大人しく繊細なアメ。
正反対の気性と、二人の祖父母より贈られた雪の結晶の存在が、彼らの仲をこじらせていた。
「アメ、早くおまえの結晶を寄こせよ! それで俺の腕輪を作るんだから!」
「嫌よ、セイ。あんたこそ、その雪の結晶を寄こしなさいよ!
あたしはそれで耳飾りを作れるわ!」
それぞれの家に贈られた雪の結晶を取り合って、二人はいつも喧嘩をした。
幼いころから、年ごろを迎えてもそれは全く変わることは無かった。
そんなある日のことだった。
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「アメ、僕と結婚してくれないか? 僕は将来この空の国を治めることになっている。
君のようにしっかりした人に、傍にいてほしいんだ」
空の国の伯父の元を訪れたセイは偶然、アメが求婚されている現場に出くわした。
アメに求婚していたのは、空の王子であるヨウだった。
セイはその光景に、ふつふつと滾るような苛立ちを感じた。
「…………」
黙り込むアメに、ヨウは微笑んで
「返事は急がないから、考えてみてほしい」
と告げて去っていった。俯いて何かを考え込むアメの横顔に、
隠れていたセイは何とも言えぬ焦りを感じ、思わず茂みから飛び出した。
「セイ!?」
驚いてこちらを見るアメに、セイが吐き出せたのはいつものような憎まれ口だけたった。
「フン、わざと見たんじゃないからな。たまたま通りかかったら、聞こえちまっただけだ。
良かったじゃないか、いずれは空の国のお妃様なんて。
まぁ、俺も風の町の長を継がないか、って今の町長様から打診されているけどな」
「覗き見するなんて酷いわ!
私、まだヨウと結婚するって決めたわけじゃないのに……!」
そのとき、気丈なアメの瞳からポロポロと透明な雫が滴った。
その雫は雲を突き抜け、空の下の地上へと降り注ぐ。
初めて見るアメの涙にセイは慌て、何とか言葉を紡ごうとしたが、
乾いた唇からは何の音も出てこなかった。
アメはそのまま踵を返して走り去り、セイが風の町へと帰った後も、
地上にはしばらくアメの涙が降り続けていた。
~~~
「セイったら、アメに今度は何をしたの? 随分長いようだけど」
空から水の雫が降り始めて十日目、
心配そうに問うてきた母・フウの言葉に、セイは憮然として
「別にどうもしない。
アメが空の王子に結婚を申し込まれていたから、お祝いを言っただけだ」
と答えた。フウは息子の返事に驚いて思わず大声を上げた。
「まぁ! あなた、アメが空の王子と結婚してもいいのって言うの!?」
セイが首を傾げて母を見ると、彼女は苦笑して息子の頬を撫でた。
「あなたはどうして自分の雪の結晶を持っているのに、アメの雪の結晶を欲しいと思ったの?
アメだって、自分の分の結晶があるのに、あなたの結晶を欲しがったのは何故かしら?
腕輪や耳飾りは“建前”に過ぎないわ。セイ、もう一度よく考えてごらんなさい」
優しい母の言葉に、セイが普段は深く悩ますことのない頭を悩ませて丸一日。
ようやく出た答えに、彼は急いで空の国へと赴いた。
~~~
「アメ!」
暗雲が垂れこめる空の国では、アメとヨウの結婚の準備が着々と進んでいた。
アメがヨウに求婚されたことは空の国の民皆が知っていたし、
空の王子であるヨウの求婚を断る娘などいるはずがないと、空の民は信じていた。
花嫁衣装を前にしたアメの元に突然現れたセイに、アメは目を見開いて彼を見た。
「セイ! どうしてここに!?」
セイの予想通り、アメの頬からはキラキラと輝く透明な雫が滴り続けていた。
それをセイは初めて、雪の結晶よりも綺麗だと思った。
「空の王妃になるのはやめろ! 俺と一緒に行こう!
俺の雪の結晶をおまえにやるから……おまえの結晶を、俺にくれ」
セイの必死な叫びに、アメは十一日ぶりの笑顔を見せた。
「それならセイ、水の里のおじい様とおばあ様にお願いして、結晶を指輪にしてもらいましょう。
そうして、お互いの薬指に嵌めるのよ!」
可愛らしいアメの答えにセイは自ずから笑みがこぼれ、
二人は手を取り合って空の国を旅立った。
その日、天から地へと降り続けた雨はようやく止み、晴れ渡った空には
二人の未来を祝福するように大きな大きな虹の橋がかかっていた。
~~~
それから、一年の月日が経った。セイとアメは様々な土地を転々とし、
火の社と水の里の狭間の地にようやく腰を据えた。
「セイ、お腹の子の名前は決まったの?」
膨らんだ腹を撫でつつ問うた妻の一言に、セイは笑顔で答えた。
「ああ、“コウ”にしようかと思ってる」
「“コウ”だなんて! それは不吉な火の神の名前でしょう?
私たちもその血を引いていることになるけれど……」
眉根を寄せたアメに、セイは頭(かぶり)を振ってこう告げた。
「いいや、違う。コウは架け橋。火と水を繋ぐように、天と地を繋ぐように、
美しく大きな七色の虹の“コウ”だよ、アメ」
「“コウ”……虹……」
アメが空を見上げると、そこにはアメがセイの手を取り
空の国を出たあの日と同じように、大きな虹がかかっていた。
虹の袂には火の社。虹の果てには水の里。
どちらも、火の神の末である自分たちを快く歓迎してくれた。
昔はいがみ合っていた両者の間でも、近頃では祖父母の尽力もあってか
ポツポツと小さな交流が生まれ始めていると聞く。
「素敵な名前ね、セイ」
アメは微笑んだ。
腹の中の子も、母の内でまるで己が名を誇っているかのように大きく跳ねた。
→シリーズ完結編『紅と蓮』
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そんなある日のことだった。
あなたも一緒に行きましょうよ』
私は自分が騙されたことを知った。
何故、魔女たちの中で最も力の強い私が銀の食器などを用いねばならない!?
何故私が皿ごときで王女に呪いをかけたのか?
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