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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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ヒミコが山泰国の女王に即位して一つ季節が巡った。女王となっても彼女の日常は巫女の社で修行に明け暮れていた日々とそう変わるものではない。日夜神に祈りを捧げ、神の意を問われれば託宣を行う――ただ一つ違うのは、毎日のように館を訪れる弟・サオの存在だ。
十にもならぬ年で一人にしてしまった弟のことを、ヒミコは五年間案じ続けていた。一人前の巫女としての披露目の儀式で再会したサオは記憶にあるよりはるかに背も伸び、肩幅も広く――立派に育った彼の姿にどれほど安堵し喜んだことか。大臣アシナよりいずれは娘婿に、との話を聞かされた時は心から誇らしく思い、婚儀の日を待ち遠しく思ったものだが、結局彼の家には先年の神事で白羽の矢が立ち、娘トツカが贄となったためその夢は叶わぬまま消えた。職を辞したアシナはサオに後継を託そうとしたが、彼は若年であることを理由に任に就くことを拒み、一途にヒミコの傍に――女王と要人たちの橋渡し役を務めている。彼女の力が衰えぬための“儀式”を施すのもまた彼なのだ。
 
「あんな恥ずかしいこと、サオじゃなければとても……」
 
女王となったその夜から始まった“儀式”のことを思うと、ヒミコの頬は火で焼かれたように熱を持ってしまう。大任に慄く彼女を慰めるように、優しく、そして激しく触れ回る手の感触に不思議な安堵と快楽を覚える自分の心と身体を、清涼な空気に包まれて育った巫女であるヒミコは訝しく思うのだった。その時、小さく戸を叩く音が室に響いた。
 
「ヒミコ様、失礼致します。夕餉の支度ができましたが、お持ちしても?」
 
扉の向こうから呼びかける声に、ヒミコは火照った頬に手を当てたまま背後を振り向く。
 
「良いわ、ヤサカ。いつもありがとう」
 
声の主――サオ以外で彼女が唯一接触できる男性・ヤサカは、女王の世話役を申しつけられた青年であり、人好きのする穏やかな物腰と柔和な光を宿す瞳が印象的な好漢である。扉を開け室内に歩み入った彼は、微笑みながら女王の御前に膳を差し出した。ところが――
 
「うっ……!」
 
湯気の立つ椀を前にした途端、ヒミコは咳き込み、苦しそうに胃の腑のものを吐き出してしまった。
 
「ヒミコ様、どうなされました、女王様!」
 
慌てて声を上げ、背に腕を伸ばすヤサカに、ヒミコは俯いて首を振った。
 
「ごめんなさい、ヤサカ……近ごろ胸がむかむかして、いつも気分が悪いの。折角用意してくれたのに……」
 
「ヒミコ様……もしや」
 
女王の言葉に、ヤサカの脳裏を最悪の予感が過ぎる。前々から気にしてはいた。火急の用とは思えぬ口実を申し立て、毎夜のように館を訪れるサオの姿――いくら姉と弟とは言え、女王であり巫女である人の館に、仮にも臣の立場にある人間の過度に頻繁な訪れが許されて良いものだろうか。時には朝まで女王の部屋に籠ることもある。ヒミコの美しく結いあげられた黒髪が一筋ほつれ、整えられた純白の装束にわずかな乱れが見える朝――紙のように白いあの方の頬はほのかに朱を帯び、かすかに触れる指先はしっとりと湿り気を帯びている。そしてそんな朝には、必ずサオが共にいる。ヤサカは意を決して、彼の忠誠と憧憬の対象に向き合った。
 
「もしやあなたは、身籠られておられるのではございませんか……? それも、実の弟君の子を」
 
悲痛な世話役の声に、ヒミコは目を見開いた。
 
「そんなはずはない。実の弟の子を身籠るなど、聞いたことも無い話だわ」
 
「ではいつもサオ様がこの館をお訪ねになる時、お二人は一体何をなさっておいでなのです? 乱れた着物も、汚れた床も……私は全てを知っております」
 
押し殺したように紡がれた言葉に、ヒミコは呆然としたまま口を開いた。
 
「サオが……サオが私の“力”を高めるために必要な儀式だと……だから、だから私は」
 
「ヒミコ様……あなた方がなさっていたのは、夫婦(めおと)が子を生すための儀式です。同じ父母から生まれた者たちに、許された儀式ではございません!」
 
ヤサカは叫びながらヒミコを抱きしめた。焦がれた女王の身体は余りに細く、ヤサカの目からはとめどなく涙がこぼれた。
 
「女王様……ヒミコ様、館を……この国を出ましょう。私はあなたをお慕いしております。あなたがいつまでもこの国に、弟君に縛られることはありません」
 
「ヤサカ……」
 
初めて感じる弟以外の男の温もりに、ヒミコは虚ろな心のまま首肯した。信じていた弟の裏切りを眼前に突き付けられたことへの衝撃と、心の奥底で感じながらも見て見ぬふりをしてきた“罪”を断じられたことへの恐怖が、彼女を捉え、引き裂いたのだった。
 
 
~~~
 
 
ヤサカとヒミコは話し合い、長老たちが会合を開く日に館を抜け出すことを決めた。話し合いは大抵朝にまで及び、女王と彼らとの中継ぎ役であるサオは席を外せない。女たちが寝静まった深夜に、ヤサカがヒミコを密かに連れ出す計画だった。そうしてやって来たその日の夜、ヒミコは銅鏡の前に座し、静かに彼を待っていた。傍らに置いた燭台の明りが鏡を照らし、そこに映るおぼろな影を眺めながら、ヒミコは瞳を閉じた。その時――
 
「ぎゃああああああっ!」
 
木霊した恐ろしい悲鳴に女王はビクリと肩を震わせ、背後の扉を振り返る。カツカツと響く足音は、確実に女王の室に近づいていた。再び前に向き直れば、銅の鈍い輝きの中に青ざめ引きつる己の顔を見出し、ヒミコは唇を噛んで俯いた。考えたくない、けれどどこかでこうなることが分かっていた――否、己はそれを期待していたのかもしれぬ。気づいてしまった最悪の可能性に、ヒミコは愕然として己の身体を抱きしめた。ギイィ、と音を立てて扉が開かれる。果たして、鏡の向こうに映ったのは。
 
「ひっ……!」
 
「おや姉上、まだ起きておいででしたか」
 
淡々とした様子で断りも無く部屋の内に踏み行ってきたのはサオ、そしてその手の先に掲げられた血の滴る生首は、今宵彼女を連れ出すはずだった世話役のもの! ヒミコは言葉を失った。
 
「ぐ……うっ……サオ……おまえは、おまえは何と言うことをしたのですか!」
 
込み上げる吐き気に口元を押さえ蹲る姉に、サオは静かに歩み寄った。
 
「我らを裂こうとする不埒者を成敗していたのです。至極当然のことではございませんか」
 
「サオ、サオやめて……もうやめましょう。おかしいのよ、こんなことは。彼が、ヤサカが教えてくれたわ。あれは、あんなことは許されないと。これは……神にしか許されない行為だわ」
 
弱々しく腹を押さえながら泣き続けるヒミコの身体に、ヤサカの首を投げ捨てたサオは血まみれの手を回した。
 
「ならば神になれば良い……姉上が神でなければこの世の何者を神と呼べるというのです?」
 
ヒミコの背をゾクリと悪寒とも快楽とも言えぬ痺れが這い上がる。そのまま頬に手が伸ばされ、触れ合わされた唇に感じた鉄の味。視界の端に映った男の首に、ヒミコは身を捩らせてサオの腕を振り払い、渾身の力でその頬を打った。
 
「おまえは……おまえはっ!」
 
涙をいっぱいに溜めた瞳で己を睨みつけるヒミコを、サオは頬を押さえたまま呆然と見返した。
 
「私は神に仕える巫女です。倫(のり)を超えることなどできません。しばらく禊の社に籠り……おまえには会いません」
 
それだけを告げると、ヒミコは居室の奥の寝室へと素早く駆け込み、掛金をかけてしまった。
 
「何故です……何故ですか、姉上! 姉上っ!」
 
取りすがり叫ぶサオに、扉は無情な冷たさを返すだけだった。ヒミコとサオの、二度目の別離の始まりであった。








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歴史・神話モチーフ。近親相姦・残酷描写がございますので苦手な方はご注意ください。

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松明が燃えている。ゆらゆらと揺れる炎の向こうで、うずくまる影が震えていた。か細い泣き声が部屋の隅に響く。影を抱き寄せるように、長い手がそっと伸ばされた。
 
「姉上、姉上泣かないで……我らはついにやりました。姉上は女王になった。これでもう二度と、離れ離れにならずに済む」
 
影はこの国――山泰国(やまたいこく)の主の地位に就いたばかりの年若い娘、名をヒミコ。そして彼女を抱きしめた腕の持ち主はサオ――ヒミコの実の弟に当たる少年だった。
 
「姉上はこれから、ずっとこの館でこの国の安寧を祈っていて下されば良い。醜いものを見ることも、悲しいことを聞く必要も無い。……外のことは私に任せて。姉上の心を煩わせることも、我らを引き裂こうとするものも、みんな、みんな、私が取り除いてさしあげます」
 
だから、誰にも会わないで――この狭い世界に、囚われたままでいて。
ヒミコの長い黒髪を、愛しげに撫でながら紡がれる言葉には狂気が混じっていた。けれど、幼い頃よりこの弟と社という特殊な囲いに生きる巫女たちしか知らぬ彼女はそれに気づかない。カタカタと震えながら、少年と青年の狭間をたゆたう弟の背中に腕を回して訴えた。
 
「サオ、私怖いの。みんなが私を崇めるし、私の力を恐れるわ。でも本当の私はただの娘。特別な力なんて何もない……誰の願いも、叶えてあげられない!」
 
サオの肩に顔を埋め、子どものようにヒミコは叫んだ。そんな姉の肩を掴み、サオは黒曜石の輝きを放つ瞳を真っ直ぐに射抜く。
 
「いいや、姉上、姉上は類稀なる力を持つ巫女でこの国の王です。少なくとも私の願いは……姉上、あなたが叶えてくれた」
 
「サオ……サオ!」
 
弟の口から洩れた言の葉の真意も問わず、ヒミコはその胸にすがりついた。その身体を再び強く抱きながら、サオは誰にも見せぬ歪んだ笑みを虚空に向けていた。手に入れた、実の姉を。縛り付けた、ヒミコを。閉じ込めた、誰よりも愛しい女を――
 
 
~~~
 
 
ヒミコとサオの姉弟は山泰国の小さな村に生まれた。隣国・九那国(くなこく)と境を接するその村は二人が生まれる以前から戦が絶えず、遂には戦火の中に燃え尽きてしまった。両親と故郷を失った幼い二人は方々をさすらい――やがて一人の巫女が姉・ヒミコを見染め弟子として引き取るまで、乞食のような暮らしを余儀なくされた。姉の背に負われて見た焼けゆく村、無残に切り落とされた父の首、手酷く凌辱された母の亡骸、翡翠の飾りをその耳ごと引きちぎられた祖母の死に様……それらが、サオの記憶に残る最後の家族の姿だった。
幼い弟を連れてヒミコは長い道のりを旅した。汚い格好(なり)をしたみなしごなどどこの村へ行っても白眼視され、時には犬をけしかけられて追い出されることもあった。それでも姉は気丈に弟の手を引き、山に分け入っては木の実を探し、冷たい川に身体を浸しながら魚を採り、必死でサオを守り続けた。サオにとって、黒い瞳に暖かな情愛を湛えて己を見つめてくれる唯一の存在であった姉が世界の全てと化してしまうのは、ごく自然の成り行きと言えただろう。彼の家族は、彼にとっての人間は、彼にとっての女はヒミコ一人であったのだから。
 
ヒミコが山泰国の中枢である中村(なかつむら)の巫女・ナミに見染められたのは彼女が十二の年を迎えるころのことであった。ようやく九つになったばかりの弟を案じ、初めはその申し出に躊躇していた彼女も、ナミの強い説得とサオを引き取るという大臣(おおおみ)・アシナの申し出により、正式に社に入り本格的に巫の修行を始めることとなった。社に入った者は例え肉親であっても一人前の巫女となるまで異性と顔を合わせることはできず、二人きりで寄り添い生きてきた姉弟にとってそれは今生の別れにも近しい別離の時であった。
 
「姉さん、姉さん、どうしてなの!? 僕がワガママだから……だから嫌になったの? だから僕を捨てるの!?」
 
アシナの養子となることに最後まで頷かず泣きすがる小さな弟に、少女は涙を堪えて語りかけた。
 
「……馬鹿ね、サオ。あなたが嫌になったなんて、そんなことあるわけないじゃない。……私にとってもおまえにとっても、これが一番良い道なのよ。大臣様の家では、お腹いっぱいご飯が食べられる。私も頑張って立派な巫女様になるわ。おまえの幸せを、いつだって祈ってる。サオ、サオ、どうか元気で……」
 
「僕いい子になるよ! もう二度と姉さんを困らせたりなんかしないから、だからお願い、行かないで姉さん……姉さん……っ!」
 
しずしずと社の扉の向こうへ姿を消すヒミコの背に手を伸ばしたサオの身体は背後から強い力で抑えつけられ、先に踏み出すことは叶わなかった。こうして睦まじい姉弟の絆は一度途絶えたかに見えた――それから五年後、再び運命は動き出す。
 
 
~~~
 
 
 
「義父上(ちちうえ)、九那国が年内にも再び攻勢をかけてくると言うのはまことのことにございましょうか?」
 
生木を裂くような別れの日から五年。姉の背に向かい泣き叫んだ少年は十四の年を迎え、背丈は伸び、顔立ちは精悍に整い、黒い瞳に秘めた野心を感じさせる青年へと成長を遂げつつあった。
 
「海から来る者も山から来る者も皆そう脅かすが……まず、間違いなかろう」
 
成長著しい養い子を頼もしく見やりながら、大臣アシナは重苦しい溜息を吐く。昔なじみの巫女・ナミからのたっての頼みで迎え入れた少年は初め薄汚れ、敵意に満ちた目で周囲を威嚇していたが、ある日急に悟りを得たかの如く大人びて従順になった。家の中のことを一通りこなせるようになると師をねだり、文字から弓に至るまで貪欲に学び、果ては政(まつりごと)の会合にまで積極的に参加したがるようになり――『大臣殿の元には優秀な後継ぎがいて羨ましい』と周囲の者に声をかけられるまでになった。元々彼には男子が無い。ゆくゆくは娘トツカの婿とし、大臣の位を継がせたいもの……老境にさしかかりつつあるアシナは、若干の打算を含んだ眼差しでこの雄々しさを身に付けつつある少年を眺めていた。
 
「……やはり。義父上、若輩者ではございますが、私に一つ戦について考えがございます」
 
「ほう……どのような策じゃ? 申してみよ」
 
少年の口から飛び出した思いも寄らぬ言葉に、大臣は少し目を見開きながら、からかい混じりに問うた。
 
「巫女を使うのです。そして我が国に勝利の神託を……彼の国には滅びの託宣を下す」
 
「そのようなこと、昔からやっていることだろう」
 
アシナが呆れたように告げると、サオはにやりと笑んで義父を見据えた。
 
「これまでの巫女が持たぬ未知の力――未来を読み、天を操り、地を癒す――そんな力を持った巫女の登場を華々しく披露すれば、敵は慌てるのではございませんか? 全てが真実(まこと)である必要はございません。ただ“演出”すれば良いのです」
 
「そなた、まさか」
 
うろたえるアシナに、サオは淡々と続けた。
 
「我が姉ヒミコが社へ入って五年……そろそろ巫女としての披露目の時が参りましょう。彼女ならば、きっと」
 
「民を謀り、実姉を利用し……“神威”を創り上げようと言うのだな」
 
「そう人聞きの悪い話ではございません。神とは元々利用されるべき“力”……私はそう考えておりますが」
 
言いきるサオに、アシナは大声で笑い出した。
 
「ハッハッハ、良かろう! 七日後、ヒミコの披露目式を執り行う。そこで盛大に神託と、ついでに雨乞いの舞でも派手に舞ってもらおうか? 今年は日照り続きだ……九那の奴らも、水欲しさに戦なんぞしかけてくるのだろうからな」
 
 
~~~
 
 
あの日から更に三年歳を重ねた。ヒミコは艶やかに舞い踊り、乾いた大地に恵みの雨をもたらし……そして、高らかに山泰国の勝利を宣言した。そしてその神託通り山泰国は九那国を打ち破り、ヒミコの力とサオの才は、民に広く認められるところとなった。サオはその後も同じ手を用いて近隣の国々を次々と攻略し、そうして遂に姉を女王の位に押し上げたのだ。ヒミコに会える唯一の要人となった彼に、逆らえる者は誰もいない。巫女の社への出入りは禁じられても、女王の館には入り浸れる。望みを叶えたサオの暗く激しい想いが、新たな欲望を燃え上がらせる。
 
「姉上……姉上、私はこの時を待っていました。目を閉じて……私の願いを聞いて下さいますか?」
 
優しく頬を辿る弟の指先にヒミコは窺うように顔を上げたが、すぐに彼の望みを受け入れて瞳を閉じた。
 
「なぁに? サオ……あなたには苦労も、寂しい思いも沢山させてしまった。私にできることなら何でも言ってちょうだい」
 
閉じられた瞼の先の長い睫毛をなぞりながら、サオは小さく息を吐き出して禁断の呪文を口にした。
 
「では、姉上……姉上を、私にください」
 
思わず震えたヒミコの瞼に、サオの熱い吐息がかかる。
 
「姉上、大丈夫です。我らは同じ父母より生まれし姉弟。これは姉上の“力”を高めるために必要なこと……全て私に、お任せ下さいますね?」
 
柔らかな唇の感触に、ヒミコは抗うこともできず頷いた。







 
目次(その他)
 


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日の国シリーズ第四弾。

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東の果て、日の国。
統べるは帝、祈るは神官、守るは衛士(えじ)。
帝に仕える三貴族。
大臣(おとど)を出すのは無(なし)の家。
神通優れる然(ねん)の家。
歌い踊るは色(しき)の家。
国の主が変わりし時、神殿もまた長を改む。
墨の衣を脱ぎ捨てて、装い新たに星輝けり。
 
 
~~~
 
 
「ええっと……あれがひしゃく星で、ええと……子の星はどこだったかしら?」
 
「あそこだよ、朱香(しゅか)」
 
背後から響いた通りの良い声に、朱香はびくりと身体を震わせて振り向いた。
 
「透季(とうき)様……すみません、もう星占(ほしうら)の式まで日が無いと言うのに」
 
どこか中性的な、整った容姿を持つ大神官の姿に、朱香はうなだれた。
新帝即位に伴って行われる星占の式は、朔の夜に皇族が大神殿に集い、その御前で大神官と大巫女が星を読み来る御代の行く末を占うという催しで、新しい大神官と大巫女の披露目の意味も含む大切な儀式だ。これを終えて初めて大神官は新帝に号を授け、皇太子は正式に新たな帝として認められるのである。
 
「大丈夫だよ、私もいる。少しくらいはこちらに頼ってくれないと、立つ瀬が無いというものさ」
 
透季は苦笑しながら朱香の頭を撫でるが、朱香はうつむいたまま首を横に振った。
 
「透季様のお優しさには感謝しております。けれど、わたくしは新参者ですから……推挙して下さった雪音様のためにも、甘えるわけにはまいりません」
 
朱香は元々、各地の神殿の中でも最下層に位置する果ての神殿に仕える一巫女に過ぎなかった。とても次代の大巫女に取り沙汰されるはずも無かった彼女の立場が急激な変化を遂げたのは、巫女となる前の修行時代、淡い友情を育んだ先の大巫女・雪音が強く彼女を推したことが理由だった。雪音と、次期大神官となることが既に決まっていた透季が彼女を高く評価し、周囲に働きかけてくれたがために朱香はこの任に就けたのだ。
眩しいほどの光に満ちた大神殿の中を歩く度、己よりずっと美しく神々しい巫女たちを見る度、朱香は今、己がいるのは夢の中なのではないか、と考えてしまうことがある。
 
「自分に厳しいのは君の良いところだと思うけれど、そう気を張ることも無い。大丈夫、君は才も努力も人より勝っているのだから」
 
「透季様、そんな言い方……」
 
「重圧かい?」
 
朱香が呆れたように溜息を吐くと、透季は悪戯めいた表情で朱香の顔を覗き込んだ。
 
「私は本当のことしか言わないよ。私だって努力しているし、君もそうだ。天賦の才とたゆまぬ努力を合わせて“実力”と言う。それがあるから、私たちはこの地位にある。そうだろう?」
 
仮にも神に仕える職を、一種の権威のように扱う透季の不遜な物言いに、朱香は眉を顰めた。彼の言動には、初めて会った時から戸惑わされることが多い。朱香のいた果ての地では到底目にすることのできない洗練された物腰の透季は、神職を奉じながら俗世の価値観を未だ手放してはいないらしい。新たな大巫女として大神殿に入った時から、幾度このような場面が繰り返されてきただろう。近ごろでは、彼はそんな朱香を面白がっている節さえあるのだ。
 
「透季様には確かに力も実績もございますわ。けれど私は違います」
 
長い年月、後継候補として先の大神官・光の補佐を務めてきた彼は、果ての地でくすぶっていた朱香にとってはるかに遠い存在だった。
 
「そういう捉え方が、良くないと思うんだけどねぇ……」
 
かたくなに背を向ける朱香に向かい、透季はボソリと呟いた。見上げた先には満点の星空。眩しい星々を見つめ続ける朱香の姿に、透季は胸の奥にしまわれた一つの記憶を思い出していた。
 
 
~~~
 
 
「ご覧下さいお二方、あれが噂の然の姫君・雪音様ですよ」
 
正式な巫女となる前の初々しい少女たちの群れの中から一人を指し示し、密やかに囁いたのは、今は俗世に帰った白真――懐かしい友だった。
 
「……美しいな。触れれば溶ける六花のようだ」
 
彼に答えたのは、珍しくどこか浮ついた光――敬うべき先達の声。
 
「詩人ですね、光殿。……私は、あの隣の娘が少し気になるが」
 
笑いながら己が視線を向けた先には、件の姫君と微笑み合う一人のあどけない少女がいた。
 
「あれは……ああ、朱香と申しましたか。どうやら果ての地に赴くことが決まっているようですよ」
 
耳の早い白真の答(いら)えに、透季はぼんやりと、けれど確かにその名を噛みしめた。
 
「しゅか……朱(あけ)の、香り」
 
美しさから言えば雪音に劣り、おろおろと周囲を見渡す様はいささか挙動不審のきらいがあるものの、強いて目立つところもない彼女を気にかけたのは何故だったのか。己と対となる大巫女候補として雪音の口からその名を聞いた時、その存在を一瞬にして思い起こすことができたのはどうしてなのか、透季自身にも分からない。仮にも神に仕える身ゆえ、気づきたくないこと、知らない方が良いことを山ほど抱えてきた彼だった。
 
「秘密は多い方が楽しいものだ。朱香、おまえもそう考えることができれば……」
 
いっそ怖いほど真剣に儀式の稽古に励む朱香を見つめ、透季はひっそりと溜息を吐いた。
 
 
~~~
 
 
「大変です大神官様! 大巫女様が……朱香様がどこにもいらっしゃいません!」
 
朱香の世話役を務める巫女がそう叫びながら透季の元に飛び込んできたのは、まさに星読みの儀式を迎える日の朝、彼が白銀の衣に袖を通している最中のことだった。
 
「何? 昨日は夜遅くまで稽古をしていたようだが……」
 
普段は穏やかな透季の険を帯びた声音に巫女は一瞬ひるみ、おずおずと折りたたまれた文を取り出した。
 
『今更ではございますが、私にはとてもこの大任を果たす自信がございません。貴き方々に鄙つ女の姿をお目にかけて不快な思いをさせるわけにもまいりませんので、在るべき場所に帰ろうと考えました次第です。大変、申し訳ございませんでした。
朱香』
 
「あの……馬鹿やろうっ!」
 
一読した途端、透季は文をぐしゃりと握り、思わず怒鳴っていた。目の前の巫女がいよいよ怯えたように後ずさる。大神官のこのような姿を目にするのは、彼女にとって初めてのことだった。
 
「大巫女は私が探す。儀式までには間に合わせたいが……少しくらいは待たせておけ。いざとなったら日を改める」
 
「しかし透季様! 相手は皇族の方々です、そのようなこと、不敬に……」
 
今にも駆けだしそうな透季の不遜な物言いを巫女は慌てて咎めたが、帰って来たのは鋭い一瞥。
 
「儀式を行うのは我らだ。我らの託宣無しに帝は即位できぬ。違うか?」
 
それだけを告げて、大神官は立ち去った。残された巫女は蒼白な面持ちで後を追おうとし、やがてへなへなと座り込んだ。他にどうすることもできぬ彼女だった。
 
 
~~~
 
 
神殿の外れ、殯(もがり)の宮の地下へと続く階段を、透季はたいまつを片手に進んでいた。先帝の喪が明け、役目を終えたばかりのこの薄暗い黄泉と現世を繋ぐ場所に、彼女は逃げ込むと信じていた。黄泉にも現世にも属さない、“存在しない娘”であるはずの彼女は――
 
「朱香」
 
透季の呼びかけに、うずくまっていた影がビクリと揺れる。
 
「何故こんなことをした。儀式は今日だ。今更、いなくなられては困る」
 
振り向いた朱香の顔は涙に濡れていた。
 
「私……私は、皇族の方々の前に姿を見せてはいけないんです。
いくら修行を積んでも、力だって全然足りないし……こんな姿」
 
「一品宮(いっぽんのみや)様に見られたくない、というわけか?」
 
溜息と共に吐き出された透季の言葉に、朱香は目を見開いた。
 
「どうして……? どうして、それを」
 
「一品の位を得た唯一人の君、今上の姉宮、誰よりも高貴なる麗しき皇女(ひめみこ)……彼女はかつてこの神殿で、殯の宮で一人の赤子を生み落とした――未婚の姫宮が、決して身籠るはずのない娘を」
 
淡々と紡がれる過去に、朱香は震え出す。
 
「あ……あ、やめて、やめて!」
 
「彼女は赤子を自らの子どもだと認めなかった。存在しないもの、死者に等しきものとしてこの地下に打ち捨て――そして娘は、神殿に拾われて巫女となった」
 
「そこまで知っていて、どうして私を追ってきたのです!? 放っておいて……お願い、だから」
 
透季に掴みかかり、朱香はくず折れた。その身体を支えながら、透季は優しく背を撫でる。
 
「朱香、私は……私はね、とにかく成り上がりたかった。身分を問わぬことが建前とされている神殿に入り、地位を得るために使えるものは何でも使った。媚びも、世辞も、後ろ暗い手で得た“情報”もね。力では光殿に、人望では白真に到底敵わなかったから……」
 
透季の囁きに、朱香は顔を上げた。
 
「だから、私のことも?」
 
ハッとして口を押さえた彼女の問いに答えぬまま、透季は彼女に問いを返した。
 
「朱香、君は何故ここに来た? 望まれぬ子だと分かっていて、それ故に果ての地へ送られたことを知っていて、何故雪音の招きに応じたんだ? 必ずこの日を迎えること、知らぬわけではなかったろうに」
 
真っ直ぐに己を見つめる強い眼差しと、余りにも率直に紡がれた言葉に朱香は唇を噛んだ。
 
「……分かっていました、受けるべきではないと。いいえ、本当はもっと早くに、皇家に連なる神殿という場所を辞すべきでした。それでも……それでも、私は、お会いしたかった。例え母と呼ぶことが叶わずとも、子と名乗ることが許されずとも、あの方がどんな顔をなさっておいでなのか……一目、だけでも」
 
こぼれ落ちた本音に、朱香は放心したようにくず折れた。
 
「ならば、朱香……もう、逃げるのは寄せ」
 
朱香はゆっくりとした動作で己を支える彼の顔を見上げる。深い眼差しに強い決意を見出し、彼女は一つ確かに頷いた。柔らかなその頬には未だ雫が伝っていたが、透季の手がそこに伸ばされることは無い。それで良かった。静かに身を離すと、透季の目が宮の入り口から洩れる光へと動いた。その眼差しを追って、朱香も歩き出す。一歩、一歩、胸を張って、懸命に背筋を伸ばしながら。
 
 
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「皇太子(ひつぎのみこ)知瀬宮の即位を神の名の元に認め、“暁”の号を授ける」
 
大神官が高らかにその託宣を発した瞬間、その眼前に立った帝は戸惑うような表情を浮かべた。
 
「いつか光殿が言っていた、あなたは眩く輝きだす前の光だと。
日継ぎの御子よ、今こそ高く昇る時だ」
 
若き頃より見知った彼に透季が苦笑混じりに囁くと、帝は一瞬目を見開き、そして力強く首肯した。大神官の傍らには大巫女が皇冠を捧げ持つ。向けられる数多の視線の中に酷く暖かな――柔らかな光を宿すものがあることに、彼女は気づいていただろうか。帝の後方に座す気高き女人と朱香の姿を交互に見やり、透季は小さく笑みをこぼした。四つの瞳は確かに繋がり、口元には緩やかな綻びが見えたから――
広い空の下、交わることは叶わずとも、光は遠く果てまで届き、一筋の線を紡ぐのだ。
星は今、地の果てより昇る。






 


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『源氏物語』モチーフSSS。今上帝と明石中宮と六条院(源氏)。

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「ちい姫」
 
ふと耳に木霊した声に、脇息にもたれてまどろんでいた少女――明石の中宮と呼ばれるその人は目を開いた。起き上がって振り向けば、今上の位に就く青年が、悪戯を成功させた子どものような顔で笑っていた。
 
「何です、主上(おかみ)。どこでその名をお耳に入れられましたの?」
 
少し怒ったように頬をふくらますと、そのふくらみを潰すように彼の手が伸びた。
 
「六条院(ろくじょうのいん)が教えて下さった」
 
クスクスと笑いながら悪戯を繰り返す手をつかみ、中宮は溜息を吐いた。
 
「全く、お父様はいらぬことばかり……」
 
「本当にそうかもしれぬ」
 
突然、真顔でそう呟いた夫に、中宮は目を瞠ってその面を見返した。
 
「中宮、実は……藤壺が懐妊した」
 
「まぁ、それは……おめでとうございます」
 
藤壺女御――かつて麗景殿に居を構えていたその人は、中宮の父である六条院の呼びかけに応じ、彼女とほぼ時を同じくして入内した妃であった。とはいえ、今上が梨壺に在った東宮時代から彼の寵をほぼ独占していたのは今の中宮であり、皇子や皇女たちの全てが彼女の腹から生まれていた。彼女以外の妃が帝の子を身ごもるのは初めてのことなのだ。中宮の表情(かお)に、祈るような思いで動揺の色を探していた帝は、常と変らぬ穏やかな態で祝いの言葉を返した彼女にいささか落胆した。

いつもこうなのだ。新しい妃を迎えても、暫し夜離(よが)れてみても中宮は少しも変わらず、和やかな微笑を湛えて帝を迎える。里に帰れば帰ったで、こちらがどれほど「恋しい、会いたい」と文を書き送ってもてんで無視して“この世の楽園”と言われる六条院に籠ってしまう。自分はこの人から真の意味では愛されていないのではないか、未だ年若い帝は時たまそんな不安に襲われる。それでも、目の前の彼女は母となった女性(ひと)とは思われぬほどに愛らしくて――結局、想うことを止められはしないのだ。この女性を后として得られたこと、その一点において、彼は心から己が帝の位に在ることに感謝していた。少なくとも傍に置いておくためには、至高の位に在る者とその伴侶というのはこの上ない理由付けになる。幾ばくかの虚しさや惨めさは取るに足らないこと、帝はそう己に言い聞かせた。
 
 
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「六条院は朕の心を中宮に縛るためにあのような手を打ったのだ、と感じてしまう時があるぞ」
 
四十を越えるというのに艶やかさを失わぬ叔父の姿に、帝の口からは思わず恨み事が漏れた。
 
「おや、これは心外な。どういう意味にございましょう?」
 
六条院――かつて光源氏と呼ばれた、中宮の父たるその人は余裕綽々といった態で仏頂面の甥に応じた。
 
「あなたが他の妃の入内を勧めるから、朕は中宮以外の元へも通わねばならなくなる。けれど中宮ではない女子(おなご)と逢った後は……必ず、中宮に会いたくなる」
 
顔を真っ赤にした青年の様子に、壮年の色男は驚いたように目を見開き、そして微笑った。
 
「それはそれは、あの娘(こ)の父としてこれほど嬉しいことはございませんな」
 
「また……あなたは朕をからかうのだな!」
 
悔しそうに己を睨みつける帝の言葉に、六条院は目を細めた。
 
「いいえ主上……私はただ、あなた様が羨ましくなってしまっただけなのです。主上にはちゃんと、帰る場所がおありになる。それはとても幸せなことです」
 
いつに無く真面目な調子で語りかける院に、今度は帝の方が目を瞠った。
 
「帰る場所を持たぬ男は、いいえ、帰りたい場所に帰ることができない人間は永遠に旅を続けるしかありません。自分の帰りを待ち望んでいる人の存在を知りながら、ね……」
 
哀しい声音で紡がれた言葉が、帝の胸を強く打った。
 
「中宮はまだ幼い。お心を悩ますこともおありでしょうが、いつか気づくでしょう。己の元に帰る存在のあることが、いかに幸福なことか……」
 
私は、愛する人にその幸福を与えてあげられなかったから――
 
途切れた言葉の向こうにそんな囁きを聞いた気がして、帝は俯いた。
 
「約束する。朕は、あなたの娘を不幸にはしない」
 
決然とした声に、六条院はわかっている、と言うように頷いた。心を得たいなどと言うのは傲慢だが、彼女を幸せに導く権利は既に彼一人の手に託されてしまったのだ。栄耀栄華を手にしながら真に求めたものを得られなかった男の、身勝手な願いによって。それに気づいたことがこんなにも悲しいのは、目の前の男の瞳が余りにも切ないから。自分を、父を、それから祖父を心から羨む彼の想いに気づいてしまったから。目頭の熱に気づかれぬよう、帝は顔を伏せたまま六条院の退出を待った。消えること無き想いに後ろめたさを覚えたのは、それが初めてのことだった。







後書き


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日の国シリーズ第三弾。
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東の果て、日の国。
統べるは帝、祈るは神官、守るは衛士(えじ)。
帝に仕える三貴族。
大臣(おとど)を出すのは無(なし)の家。
神通優れる然(ねん)の家。
歌い踊るは色(しき)の家。
即位を控えた皇太子(ひつぎのみこ)・知瀬宮(ちせのみや)には妃が一人。
色の歌姫・奏(かなで)の君。
澄み渡る歌声は月の光と称されど、雲居に上りて月隠れたり。
 
 
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「一人寝る夜の薄闇に月の光を待ち望む……」
 
「雲居を避けて我が元へ、夢にも逢えぬ君の代わりに……」
 
回廊の端で一人口ずさんでいた奏は、重ねられた声に驚いて顔を上げた。
 
「先ほど終わった月待ちの歌じゃないか。何故宴に出なかった? それほど美しい声をしているのに」
 
声の持ち主は薄紫の直衣に身を包み、瀟洒な香りを漂わせた青年だった。皇族しか纏うことの許されていない紫――皇弟知瀬宮。奏は思わず手で胸を押さえた。
 
「本当は、出るはずだったのです。けれど……」
 
震える声に、知瀬宮は呆れた様子で溜息を吐いた。
 
「大体の察しはつく。あの者、中納言の許婚と聞いたな」
 
「わたくしは、鄙(ひな)の出の若輩者でございますので」
 
俯いた奏に、知瀬宮は舌打ちをした。
 
「いつまでも来ない恋人を雲居に隠れた月に例えて、恋人の代わりに光の訪いを待ち続ける、おまえもそんな人間か?」
 
宮の物言いに、奏は胸を突かれる思いで彼を見つめた。
 
「俺ならば、待つのはごめんだ。雲を散らして月を掴む」
 
どこか子どもっぽく、苛立たしげに吐き捨てられた言葉に、奏は思わず微笑んだ。
 
「宮様らしいおっしゃりようです」
 
二人の始まりは、秋の宴の夜だった。
 
 
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「姿を変える月なれど、清き光は永久(とわ)に変わらじ……」
 
「そこに光のある限り、我は待ちなむ、いついつまでも……」
 
いつかと同じように重ねられた声に奏が振り返れば、昔と変わらぬ夫の姿がそこにあった。
 
「その歌は哀しいな。奏には余り似合わない」
 
おどけたように言って、自らの身体に回された腕に、奏は微笑んで
 
「あら、でも宮様とわたくしを出会わせてくれた歌ですわ。わたくしにとっては大切な歌です」
 
と告げた。宮の兄である春雅帝の崩御からまもなく一年。遠からず二人は住み慣れたこの屋敷を離れ、皇宮に居を移さねばならない。
 
「後宮において后の位に就けば、おいそれとおまえの歌を聴くこともできなくなろうな……」
 
子どものように肩に顎を埋めてくる夫に、奏は物思わしげな視線を彷徨わせた。色の家でも傍流にあった奏は、妃の一人とはなれても后に立てる身分では無い。いくら皇太子時代の唯一の妻であり、男子を儲けているからと言って必ずしもその地位が保証されているとは言い難いのだ。
 
「歌はおまえそのもので、おまえにとって歌うことは息を吸うことに等しい行為だとわかっている。それを奪うような場所におまえを伴う俺を、許してくれるか?」
 
叱られた子どものように頼りなげに自らに縋る夫の手を、奏は一つ息を吐いて握った。
 
「宮様の傍だけがわたくしの居場所です。宮様がいらっしゃってこそわたくしは生きて、歌うことができるのですよ」
 
にこりと笑った奏の言葉は本心だった。宮がいる限り、奏は声を出さずとも歌えるのだ。心から、彼のためだけに奏でられる節を――
 
 
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「皇后には安芸宮家の萩の君様か、無の家の柳の君を据えられたし」
 
即位早々の御前会議でその議題が出された時、新帝は憤怒の形相で臣下を見据えた。
 
「朕には既に一子を生した妃があること、そなたらも承知のはずだが?」
 
「恐れながら主上(おかみ)、太子の妃と帝の后では違うのです。身分も器も、ふさわしくあらねば国の要が乱れまする」
 
平伏する大臣に、ぎりりと唇を噛みしめて、帝は黙り込んだ。
 
 
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その晩、足音荒く局を訪れるなり寝台に身を投げ出した夫に、奏はいささか戸惑いながら眼差しを向けた。
 
「わかってはいたが、俺は駄目な男だ、奏。とても兄上のようには立ちまわれない。あと少しでいい、兄上が生きていて下さったら……。なぁ奏、兄上が太陽なら俺は月のようなものだな……兄上無しには輝けない」
 
ここまで自信を失い、項垂れた夫の姿を奏はかつて見たことが無かった。
 
「……宮様、いいえ主上、月が無ければ夜は照らせませんから……ですから、大丈夫です。宮様はきっと立派な帝になられますよ」
 
優しく告げる妃の手を、横たわったままの帝の腕が引き寄せた。そのまま自らの胸に倒れ込むかたちとなった奏の身体を抱き込んで、帝は耳元で囁いた。
 
「……おまえはどんな時でも傍にいてくれるな? 俺が皇太子になろうと、帝になろうと、どんなことがあっても此処にいると約束してくれ……」
 
ひそめた声に宿る哀願のような響きに、奏は一瞬目を瞠り、そして頷く。
 
「奏、奏……俺はおまえの他に、妃を迎えることになった」
 
泣く寸前のような掠れた声で、帝はその事実を告げた。暫く忘れていた苦い記憶が、奏の脳裏をゆるりと過ぎる。
 
 
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「え、出番が無い?」
 
「ええ、そうよ奏の君。今宵の月待ちはわたくしと風の君が歌わせていただくことになりましたから、あなたは下がって休んでいて結構。風の君はほら……その、中納言殿とのご縁談が持ち上がっていらっしゃるから……」
 
「……わかりました」
 
年かさの歌姫の言葉に、奏は黙って頷いた。才に溢れた身であっても、未だ年若く本家から遠く離れた血筋である彼女は色の家の中でそれほど高い地位を得てはいなかった。それに加えて一族の出世頭と目される蓮水(はすみ)の許婚であることが嫉みを買い、嫌がらせのような仕打ちを受けることがままあった。今回も、風の君の縁談にかこつけてそのような意図が張り巡らされていたのだろう。三月も前から準備し、練り上げた歌を披露する機会を直前に奪われるとは――宴の場から遠ざかり、人影の絶えた回廊の端で、奏は一人俯いた。
 
「歌いたかった、な……」
 
独りでに漏れた呟きに苦笑しながら顔を上げれば、藍色の夜空には丸い月が輝いていた。うっすらと聞こえる宴のざわめきに、耳を澄ませ、そうして口を開く。桃色の唇からこぼれた旋律は、三月に渡って親しんできた月待ちの歌のものだった。
 
「声が聞こえるぞ……美しい女の歌声だ。どこからだろう?」
 
他方、当時皇太子の位にも就いていなかった知瀬宮は、色男として浮名を流しており、手近な女房を見染めて宴を抜け出してきたところであった。若い女の歌声を気にし始めた恋人に女房は気分を害してその場を去り、彼は一人で歌声の源を辿ったのだ。
 
そうして二人は出会った。やるせなさに満ちた宴が奏にとってかけがえの無い恋をもたらしてくれたのである。蓮水――懐かしい幼馴染。彼は、彼ならば今の自分を見てどう思うだろうか。結局、奏は夫の裏切りを受け入れた。受け入れざるを得なかった。二人の妃を入内させる代わりに奏の立后を認める……夫が貴族たちに決死の覚悟で求めた条件を無為にしてしまうことは出来なかった。それでも、本当は――
 
「皇后になりたかったわけじゃない。国母と呼ばれたいわけでもない。わたくしは、ただ……」
 
言葉にできないことを承知で、奏は御簾の内から夜空を見上げた。安芸宮家の姫が後宮に入ったその日、空は曇り、月は一度も姿を見せることはなかった。
 
 
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「奏、奏。起きぬか。主の帰還だぞ」
 
薄暗い夜空を見つめたまま寝入ってしまったのか……不自然な姿勢で脇息にもたれていた奏が身を起こすと、そこにはいるはずの無い人が呆れた面持ちでこちらを見やっていた。
 
「宮……主上(うえ)様、どうして?」
 
「どうしても、おまえに会いたかった。会って、自分が変わったわけではないことを確かめたかった」
 
ぼんやりと彼を見上げる己の身を強く抱きしめてくる腕の温もりに、奏は胸の内にそれまでは感じられなかった仄かな、そして確かな熱い想いが込み上げてくるのを感じた。
 
「清き光は永久に変わらじ……。主上、月を待つことは、そう哀しいことばかりとは限りませんわ」
 
雲を散らすことはできずとも、光注ぐ雲居の狭間を探し求めることはできるのだから。
奏がそう告げると、帝は少し身を離して彼女を見つめ、そして頷いた。
 
「奏、歌ってくれ。誰にも文句は言わせない。おまえの歌が無いと……俺は、雲を散らせないんだ」
 
奏は覚悟を決め、夫の望みに応えるべく口を開いた。
変わらないものなど、この世には無い。それでも、自分は――自分だけは、この人が望むままの姿であり続けたい。
 
控えめながら透き通った歌声が宮殿の一角に木霊した瞬間、一陣の風が雲を散らし、その夜初めて待ち望まれた光が空を照らした。






明け星
 


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