忍者ブログ
ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


感想からの病みトーク

拍手[0回]

PR
裁判のくだり、精神科医の分析に余りにも共感し過ぎて自分が怖くなった。幼い頃に受けた克服できないほどの刺激・衝撃がその後の人生・人格形成を不完全なものにし要するにキ○ガイ化している、という\(^o^)/ 私はそれが他者への攻撃に向かうことはなかったけど、強烈な自己否定意識はずっと持ち続けている。そして自尊心が欠片もない!が、元が違う生き物だと思ってるので劣等感は欠片もないな(´―`) むしろホント生きてて存在しちゃって迷惑かけて申し訳ありません、ってその感情だけ。ペリーについては、こんな自分に愛情と信頼を与えてくれる存在に恵まれたことは心から幸せだったのだ、と。
何度も書いててしつこいですが、ホントは今の状況とか自分のセクシュアリティが、未だに受け入れられなくてすごく苦しいです。親に冗談で結婚ネタ振られるのも、職場のオバサマ方に「ケイトさんも頑張らなきゃ」ってそっち系の話されるのもとてもつらい。キツい。「無理なんです」と笑ってごまかすと「諦めないで!」みたいなこと言われるんだけど、事実言っちゃ波風立てるのわかってるけど苦しい。子供欲しくて自分なりに頑張ったんです、頑張ったけど無理だったんです、身体的な問題というか心理的な問題で、ってどう伝えれば良い? 同性愛者でもトランスジェンダーでもない、女性としての格好を考えるのは好きだし苦じゃない。でも、ただそういうことが男女問わず無理で、苦痛で、気持ち悪くて、そういうものを必要としない恋愛は想像がつかないし意味も感じないから結構。ていうかできない。子供作るまでの過程としか考えてこなかったから。わかんない。恋愛ものの本も映画もヅカだって好きなのに、自分に置き換えることはどうやってもできない。閉じた世界の向こう側の人間様観察の一環として楽しんでいるだけ。だからやっぱり自分は欠陥品なんだと思う。誰かを傷つける前に、これ以上迷惑をかける前にとっとと死にたい。ずっとその気持ちしかない。親不幸だけはしない、というのとまだまだ全然恩返しできてないだろ、って必死に自分に言い聞かせて踏みとどまってる(笑)


追記を閉じる▲

初めてヅカファンの同僚さんとお話できた!(^ω^)b ヅカ不毛の地だから(笑)話通じてめっちゃテンション上がったわー。

以下2/3くらい読んだよ、って感想

拍手[0回]

私はやっぱりまだまだ「不幸」の域にはほど遠いのだとこの作品を読んでいると思う。みんな足るを知るべきなんだよ同期のオバサマ方も・・・(´―`) でもだからこそディックの「平凡」ゆえの哀しみもまた人間なんだろうな、と感じられもする。一度も自分を真っ当な人間だと思えたことのない私には、彼のスペシャル・スノーフレーク症候群や行きすぎた妬み嫉み、成功者を敵と見なす感情は全く理解できないし共感とはかなり遠いキャラクターだけど、だからこそ彼は「一般的な」人間を取り繕うことが上手く、あそこまで姑息でプライドを捨てる行為ができるというかプライドの方向性が違うんだろうなって。そのためにこそ彼とは真逆の環境で育ち、正反対の性質を秘めたペリーはあそこまで惹かれたんだろう。磁石のSとNみたいに、凸と凹がピッタリはまるパズルのように。自身を理解し(少なくとも表面上はそれに近い態度と意思を示し)、近しい気質を感じていたウィリー・ジェイを待つ、あるいは追うのではなく最終的にペリーが「悪友」ディックの話に乗ってしまった、彼を相棒として選んだのは結局そのため。
健気に数年ごしの恋を育んできたナンシーとボビーが本当に可哀想(´;ω;`) ティーンエイジャーの1年は長い。そして突然絶ちきられた初恋は、振られたのでも忘れたのでもない終わりは思春期の若者にとってどれほど大きな、人生観を変えてしまうほどのショックを与えることか。せめてナンシーへの乱暴が防がれたことだけが不幸中の慰め。家族と友人と仕事があることの喜びと感謝を、改めて噛みしめなければ、と思いながら読み進む年の瀬です((-_-;) この後は来月の映画公開に向けて数度目の『沈黙』読み直し(またの名を牛読み)する予定☆あと『ジュリエッタ』見たらハイスミス女史の文章(日本語訳だけど!)で読みたくなったので『太陽がいっぱい』欲しい。でもその前に『ドン・ジュアン』かなー。ムシャアとかっこみたい本が多すぎて((  )´~`) 長いのも読みたいのよね・・・『大地』の続きとか上下巻のやつとか!年末年始ちょっとでも多く読みきれると良いんだけど。



追記を閉じる▲

_| ̄|○ノシノシ(胸をかきみだされ感動に打ち震えながら床をバシバシ叩きたい心中)

拍手[0回]

・・・を堪えながら泣いてないし!って顔でブクオフに直行したけどね☆( ´∀`)←何かをごまかしたい時のいつもの行動。秀逸な点は、もちろん役者の持ち味を最大限に引き出す役回りを与えることもだけど、時間軸の表現の仕方が相変わらず絶妙だなって。時は戻せないし、つまりそれだけ人は経験を積み重ね、変わっていく。考え方、心理状態、それから肉体の老いも病も。それはどうしようもないことで、それがあるからこそ命は命で、尊くて。経験しないとわからないこと、経験したからこそ逃げたいこと、壊したいこと、忘れたいこと、忘れられないこと、忘れたくないこと、逃れられないこと。宿命というか人生の縮図を、小さな、一人の女性のありふれた生き方(たぶんどこにでも彼女程度の不幸や哀しみを背負って生きている人はいるだろうから。批判しているわけではなく、だからこそ言い方は悪いけど「ちょうど良い加減」が共感や同情、身近な人への想いを呼び起こす大切な要素になり得たと考えています)の中に本当に小さなエピソードを羅列することで上手に表現している。『ボルベール』の華やかさ、『オール・アバウト~』のドラマ性に比べれば、正直言って地味で大人しい映画。当の娘も出てこない。ヒロインに劇的な変化や成長が訪れたわけでもない。相変わらず弱くて、ワガママでうじうじした子供のような、それでも娘をどうしようもなく愛している母親。前述の二作品ではどちらかというと娘が主役で、主にそちらに主眼を置いた展開だった。でも今作は母親視点で、母親もただの女性であり人間であること、その脆さや切なさ、どうしようもなさと深い愛情をものすごく感じられたという意味でじんわりと(´;ω;`)やっぱちょっと床バンバンする!@家
次は『湾生回家』がやっと仙台でやるらしいので観に行こうかな、と。あ、もちろん一人で・・・あんな号泣しそうなもの(以下略)他に日程取れなそうなのでイヴに行こうかと思ってるんですけどキツいですかね?(´―`) ネタと場所的に大丈夫やろ、と思ってるんですけど。映画は大手で公開してる笑ったりガヤガヤ話したいネタもの以外は浸りきってじっくり観たいもん。
あと映画館に置いてあったパンフでスコセッシが『太陽』観て『沈黙』にイッセー尾形キャスティングした、ってのにGJ、マジGJさすがマーティン先輩!と拍手喝采を送りたい気持ちでワクテカが止まらない∩((*’∀’∩)) 先輩とは確実に良い酒が呑める・・・(と思ってる映画好きは数限りなくいるよ!)

追記
あとこの映画に共感したのはヒロインのセリフにハッキリと表されるくらい大きなテーマが人間誰しもが何がしか、誰かしらに対して抱いている罪悪感だったことかな。キリスト教で言うところの「原罪」の正体もこれなのかな?とお国柄感じた。だとしたら納得できなくもない。ハタから見ていて「何も悪いことしてないのに何が原罪だよクソヤロー」って思ってしまうような、例えば無垢な子供であったとしても、本人が全く何に対しても罪の意識を覚えていないかと言えばそれは別の問題だから。(例えば親の言いつけに背いたとか宿題サボった程度のことがプレッシャーになる子だっているわけだし)私も、生きていること自体が申し訳ないとずっと考えてきた存在だし、周りの自己処理とか未遂について、身内の死やそれを心から悼めなかったこと、面倒を見られなかったこと、信仰を理解できなかったこと、限りない限りない後悔と罪悪感と、それからまぁ震災後はサハイバーズ・ギルト(笑)に今もなお苛まれ続けています。あーもうこの子が生きてた方が世のため人のためだったのに、何やってんの神様なんかいないねハッハハ( ´∀`)状態ね。代わりに為すべきMIssionがある、というのが一番嫌い。そんなもの背負わされたくないっつの。生き物としての出来が違うのにできるわけねーだろ。代わりに死にたかった、というか生きてるだけで迷惑だしぜひ死にたい、それだけ。そういう重い「使命」背負って生きるくらいなら、一生罪悪感抱えて野垂れ死ぬの待った方が良いですよ。メディアの震災特集ホントうざい。もっと被害にあった人が頑張ってるからこっちも頑張れって? 無理。前を向けない人間も山ほどいて、彼らを肯定とまで行かなくても追いつめるというか「おまえらマイノリティだからいい加減にしろ」みたいな報道の仕方やめろよ。かと言って原発のみにフィーチャリングして自己主張の道具に使うのもやめろ。何かダメだやっぱ床バンバンしてくる。


追記を閉じる▲

ワンピースは無いと思ったがコクーン歌舞伎はアリだな・・・! 笹野さん他、ゲスト俳優さんは化粧薄めだけど違和感なかった。ちゃんと台詞の言い回しや見栄の切り方も馴染んでたし、歳の功というかよく見て研究されてる方なんだなぁ、としみじみ感動(@_@;) 演出も洒落てて、コクーンにふさわしい現代演劇と歌舞伎の伝統芸能としての味わいが失われることなく絶妙に融合してた!吉三は川が一つのキーポイントだから、水の演出と最後の紙吹雪は、江戸時代じゃあそこまでできなかっただろうから(笑)効果的でとっても良いネ☆ちゃんと昔ながらのうちらの「情」的価値観、血と義理と因果の哀しさ、対して万国共通だろう孤独の業、逃れられぬカルマの苦しみが胸に迫ってきてやっぱり黙阿弥先生素晴らしいです!(´;ω;`)と拍手送りたい気持ちで見てました。でもきっと今ならお坊×お嬢で腐女子の餌食だろうな、とかの妄想も繰り広げてしまったんですが、江戸時代だと衆道の範疇で血の盃交わした仲ならフッツーにあることとして受け入れられてたレベルなんかなー、とか(-_-;) これもDVD欲しいなぁ。
あ、そういえばすごいことになってるらしい『君の名は。』今日も並んでたんで新海監督だし用事なければ梯子も考えてたんですけど、ヒット邦画は確実にテレビ入るよな、と(・・;) 海外の掲示板見てて、アニメ映画見るために必死な欧米ファンもいれば、中々公開のないヨーロッパの映画スクリーンで見るために必死で毎日会場探しとスケジュールチェックに明け暮れてる日本人もおりますがな、とちょっと皮肉を感じてしまった。音楽や舞台もそうだよねぇ。仕方ないこととはいえ><;・・・正直恋愛が主題の作品に共感できる自信がなくて。あるいは日本語だと泣きすぎてしまうのも怖いかな。
あとは、コンタクト買いに行った際受診した眼科で、この歳で毎日半日以上コンタクト装着しながらPCの前にいるにも関わらず視力が改善していることが判明、という話など ( ˇωˇ )

拍手[0回]

眼科のお兄さんに「度数強すぎてぼやけますから、下げても運転余裕ですから!」と主張され勢いのままに承諾・・・また福島の方への恩が増えてしまった。ホント手術で変わったんだろうな、ってことが多すぎてねー。宮城の病院すげなく追い出されて救ってもらったんで、翌年の震災はこっちの悲惨さ見てるだけに、もっと大変だっただろうあちらのこと考えると胸が潰れそうになります。だって検診行った時、病院のすぐ傍に仮設がいっぱいあってorz ホント申し訳ない、ごめんなさい生きてて、何もできなくて、沢山たくさん助けてもらったのに、こんな命いらないのに、って代わりに生きなきゃとかいう根性やエネルギー無しにはそういう発想しか湧かなかった。さっきも親と揉めて、「死にたいって言う割には楽しんでる」とか言われたんですが、死にたいけど死んだら色々困るの分かってるからどうにか時期と方法が見つかるまで繋げるようにっつーかぶっちゃけ思い止まれるように必死で趣味探しまくってるわけですが? 多趣味の理由なんてそんなもんだっつの(´―`) 子供生めないんだもん、人間様とその素晴らしき作品ウォッチングくらいしかすることないじゃない。あーもう、ホントうちの親私がどんだけ自分自身嫌いで認めたくなくて現実受け入れるまで時間かかったか、あの引きこもりタイム()経ても全く理解ねぇな! ちなみにとっとと自己処理しないのはあなた方がいるからですよ。ついでに未遂と失敗を繰り返してきた姿を(以下略)


追記を閉じる▲

ラストの『驢馬』が一番面白かった。
※ちょっと病んでたり震災とか仕事に絡むよ!

拍手[0回]

ちょっと魯迅や中島敦にも通じる、大陸と日本のビッミョーな価値観の相違に時代的なお約束?だったのだろう戦争ネタ(^^;私もかなり要領悪いしKY認定されてる精神科通いなんでとても共感致します。特に大陸の人は、異国で最も信用できないのが同胞だって言うし・・・。ホントこっちの何を知ってるってんだよ、いやこっちもそちらのご苦労は存じませんけど? ガン検診とか欠片も受ける気ないね。悪いけどかかったら万々歳、ノー治療でとっとと逝きたい。だからホント生きなきゃいけない人じゃなくて間違って生まれてきちゃった、と死にたがってるヤツに病気も災害も降りかかれば良いのに、心から申し訳ない。さっき見たナベケンさんのドラマも胸に突き刺さったんだが、何みんなたった5年で克服できたと思ってんの? 確かに仙台の街中の子と話してるとそんな感じだし、亡くした人の話は暗黙の了解的にみんな話題に出しませんけど・・・胸中ガンガン引きずりまくってますから!震災のネタ出るだけで未だに一瞬で泣いちゃうから!本当もう生きてるのが申し訳なくてその辺から飛び降り、は迷惑だけどソッコー死にたくなる、ぶっちゃけ。時間が経てば経つほどに、考えるじゃないですか。もう小学生が中学生になる時期やがな!一人一人の、一つ一つの死の意味を、やっと実感として考え出すんですよ。しかもドラマの初っぱなブラバンとか止めてくれる!?それ関連の人多かったんで!(私も妹もやっててご縁があった)何かもうとにかく戦時中の集団狂気については分からんが、近々の某国とか某国とか某国あたりに見せてもらった気もするので、とりあえず「やっと堂々ととっとと死ねる世の中来たイェーイ☆」な気持ちへの共感しか湧かない(笑)異常でしょうか、そうですか((―_―;)
他の私小説系は退屈だって書いたけど、「尋常な死」に驚く気持ちはメッチャ共感できた(;・ω・)  私も人生の初めの頃に出会った「死」は未成年とか自己処理とか・・・まぁ「尋常」とは言えないものばっかりだったので、70過ぎた祖母が病気で亡くなった時正直ビックリしましたもん。葬式ってこんな穏やかであったかいもんなの?とΣ(゜Д゜) 今でもフツーに老いて亡くなった方のお式行くとドギマギする・・・え、こんな社交の場というか世間話しちゃってOKなの? 明るく飲み食いしても良いのか?って信じがたい感じ。その後も震災とか色々あったから。何か布団でもベッドでも良いけど、親不孝せず正しい寝具の上で誰かに看取ってもらいながら死んでいけるのってすごく幸せなことだと思えて仕方ない。それが普通という環境に生まれられた人たちが真に恵まれていると言えるんだろうな、と。「尋常じゃない死」を遂げた肉親たちへの恥の感情を主人公は最も強く書いてますけど、直接の知人だったり身内じゃなくても、知ってしまった者、もしくは居合わせてしまった者にそれがもたらすダメージはでかいですよ。あんまり生きてることに意味なんて無いなー、とかこんなのがおめおめといつまでも生きてて申し訳ない気持ちもそこから生まれてきた面がちょっと無いとは言えないもん。でもそれがあるから、親不孝自己処理だけは辞めとこう、と踏みとどまれてる部分もある。あとどうせまだ死ねなくて何とか食い扶持稼がないといけないなら、もし恩人様に万が一のことがあった場合少しでも恩返しに繋がることをしよう、という考え方も。5年前の諸々は本当に悲惨だったので・・・。
私が転職考えないのは本当はそのため。言ったらバカみたいなんでアレですけど(^^;今の自分の状況で他に確実に繋がる仕事が思いつかないから、研修の時点でその県の客百人くらいは相手するまでしがみつこうと思った。給料や待遇の問題じゃなくて、虫けらなのに救われてしまったから。本当に生きてるだけで申し訳ないですよ。もっともっと助けてほしい人いっぱいいたのに、ってずっと考えてる。何の役にも立たないけど、せめてどっかで制度作ってくれた組織やら中の人やらお医者さん看護師さん育ててくれたとこやらどこか、誰かに何かしらのお返しをしたくて。一番広く繋がり持てそうなのってやっぱ下請けでも偉いとこ関係なんですよねぇ、そもそもそういう制度を確立させて補助金出してくれたのもさ(´―`) だから、どんなに「クソだな、鬼じゃね?」とか感じても私は文句言える立場じゃないし、少しでも役に立つ身になってから言うべきことかな、と。うん、来週もがんばろう(笑)


追記を閉じる▲