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<朝>
明け方の静かな木立の中を、ころりころりと転がる栗の実を追いかけて幼い少女が駆けてゆく。朝の支度で忙しい侍女たちの目を盗み、早起きをして人もまばらな館の外へ脱け出すことは、最も年若い姫の楽しみだった。
「待て、市。そのまま触れては手を痛めるぞ」
制する声にぴくりと動きを止めた彼女は、振り向いた先にいた兄の姿にホッと息を吐き出す。
「兄様!」
大うつけと呼ばれる長兄・信長は乱暴者だと恐れる向きもあるが、お転婆な市を認めてくれる理解者で、こういうことも見逃してくれる。市はこの兄が大好きだった。
パキ、カシリ。
荒っぽい仕草で草履のままイガを踏みつけると、彼は目を丸くする妹の前に綺麗な黄色の中身を差し出した。
「後で煮るか焼くかしろ、生では腹を壊すからな。……物を食うとは手間のいることじゃ。よく覚えておけ、市」
カラカラと笑う兄の足元をよく見れば、泥に塗れた草履の先にほのかに紅が滲んでいる。
「兄様、」
棘が、刺さってしまったのでは? そう聞くことが、何故かためらわれて市は口をつぐんだ。兄のその笑顔は、自分に対して張る虚勢は決して損なってはいけないもののような気がしたから。朝日が昇り切る前の静寂の時間、誰も知らぬ兄との逢瀬。それは確かな夜明けだった。始まりだった、この長い道程の。
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<昼>
いつの間にか、日が高く上ったようだ。涼しくなり始めた昨今でも、この時間帯は少し蒸す――襖を開けることは許されないから。バタバタとうるさい足音がそこここから響く中、市はそっと懐紙を取り出して額の汗を拭った。普段は上品に着物をさばく侍女たちですら、今は足を擦っている場合ではないのだろう。籠められた部屋の中から耳を澄ませるしかないことに、市は静かにため息を吐いた。
「おかあさま、たいくつよ。いまはまだあかるいじかんなのに。おそとへでたいわ」
四つになる長女の茶々が膝の上に纏わりつけば、
「はつもー!」
と一つ下の妹、初が母の袖を引いた。すぐ横に敷かれた布団の上ですやすやと寝息を立てる末娘、江の寝顔を確かめてから、なるべく気丈に見えるよう、娘たちに呼びかける。
「外はとても危ないのよ。もう少し、母様とここで待っていましょうね」
「どなたがくるの? おとうさま? それとも、」
「おじさま? おじさまでしょう、だってきっとお会いできる、っておかあさま、まえにおっしゃってたもの!」
「じゃあおじさまをおむかえするおしたくで、みんなおおいそがしなのね」
嬉しそうに笑い声を上げた初に、茶々は少し気取ってこまっしゃくれた返事をする。市はハッと息を飲んだ。子らの言葉はある意味で、限りなく本当のことだったからだ。全く、子供たちは無邪気なようで実際は誰よりも世界を隅々まで見渡せているものなのかもしれない。夫や義父と市の間の微妙な齟齬も、そんな中で生まれてきた江への憐れみも――二人は隠すことなく遊びや言葉の他愛ないやりとりに織り込んでしまう。
『おめでとうっていわないのね。わたくし、あかさまがうまれるのはたいへんおめでたいことなのだとおもっていたのですけれど』
『どうして? お茶々、お父様もおじい様も、ちゃんとお祝いして下さったでしょう?』
『でも、わらっていなかったわ。うれしそうじゃなかった。おごうがうまれてよろこんでるのは、わたしとおねえさまだけみたい……』
江の七日の祝いが済んだ日、そんな会話を交わしてからいくらも月が経っていない。未だ乳のみ子の、寝返りすら打てぬ赤子を思うと市の胸はしくしくと痛む。睨みつけるような、鋭い義父の眼差しと眉根を寄せて憂いをのせた夫の瞳。もう見ることはないかもしれない、けれど市は、その目が甘く細められ包み込むような温もりを帯びて己を見つめる恍惚を知っている。いつかあの瞳を取り戻せるかもしれない、また明るい日の下で芯から心を寄せ合う時が来るかもしれない――幻想だと分かっている。自分たちはただの男と女ではない。そうであれば出会わなかった二人なのだ。こうであるからこそ出会えた。それを拒むことはしたくない。その果てに生まれてきた子らの命を、そうして生きてきた己自身を。
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<夕>
「お市様」
外から呼びかける声に、市はピクリと身じろいだ。
「今なら……今ならお逃がしできまする。いっそのこと名を変え、髪を下ろしてしまわれればもう浅井に憎まれることも、織田に利用されることもありますまい。ただの女子として、人として生きるのです」
かすかに浮かび上がる影は恐らく織田方の間者だろう、どこか聞き覚えのあるその声の主を、市は探ろうと思わなかった。誰そ彼時――そこに彼が現れた意味を、彼女は確かに解っていた。はっきりと見えぬ方が良いことも、この世の中には沢山あるから。
「……娘たちはどうなります? それにお忘れか、我が兄は神仏の御威光など意にも介さぬ方。髪を下ろしたところで無意味です」
「信長様が疎んじておられるのは己以外の“力”です。武器を持たぬ、静かに暮らす尼寺にもしも踏み込めば臣民の信を失うこと、よく存じておられるはず」
即座に返ってきた答えに、市は思わず笑いをこぼした。
「……そうだとしても、私は名前を変えませぬ。この髪も、この衣(きぬ)も」
夕日に照らされた部屋の中でも一等紅い、その唇をきらめかせ。
「殿がその手にとって梳いて下さったこの髪です。兄様が特別に仕立てて贈って下さったこの衣です。お二人が愛して下さったこの身です。苛立ちも疑いも憎しみも、この狂おしく燃えるような心さえこの私自身でなければ受け止めることはできないのです。私は何一つ捨てたくなどありません」
強い口調で告げる市の言葉に、男は声を震わせた。
「お市様、私はあなたがお可哀想でならないのです。幼い頃から兄君の命じられるままに生きて……それは本当に、あなた自身の人生と言えるのですか?」
影の気配が遠ざかって後、結局彼女は夫の説得により三人の娘と共に城を降りることになった。信長の妹として――織田の女として。市はその名を、その生をどうしても捨てることができなかったのだ。
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<宵>
ほのかに浮かび上がる灯火に照らされた懐かしい面差しは怜悧なまま、消せない疲労を帯びた深い皺を刻んでいた。
「……市」
はっきりと、時に鋭すぎる声音で言葉を口にする兄にしては珍しく、喉の奥から絞り出すような声。
「はい」
眼前に座す妹の目を、うかがうようにチラリと見て、信長はすぐに顔を伏せる。顔を洗い、着替えをして髪を梳った妹の白い面が、送り出した日と同じように、否それにも増して美しく薄闇の中に浮かび上がる。
「おまえは、幸せだったか?」
「……少なくとも、不幸ではございません。今も、そう思っております」
これが自分の選んだ道の果てなのだから――
数年ぶりに目にする兄の姿と向き合い、市は酷く哀しく、そして愛しさで胸がいっぱいになった。瞠目する兄は、今や悪逆非道を極める魔王との異名を馳せる天下に最も近い男は恐らく、そんな訳が無い、或いはその幸せを奪ったのはおまえではないか、となじって欲しかったに違いない。誰よりも可愛がり、大切にしてきたはずの妹の夫を殺し、その骨さえも辱めて。憎しみの眼差しで刺し貫いてほしかったのだろう、他ならぬ血を分けた妹、愛する市自身に。そんな甘えは許すものか。これは市自身のものだ、選択も、経験も、決意も。痛みも、苦しみも、切なさも、悲しみも――誰にだって渡さない。背負わせたりするものか。全て己の血肉なのに。
「私は確かに、兄様のご命令により長政殿の元へ嫁ぎました。兄様のためになることが、お役に立てることが私の望みであり、喜びであったからです」
信長はコクリと息を飲む。
「そして彼を愛したのも、子供たちを生んだのも、全ては私が選んだからです。最後に決めたのは私です。あの時、兄様に小豆をお送りしたのも……今、ここに在ることも」
だから、何も恨まない――笑えるのだ、この闇の中にあってさえ。
「おまえは強いな、市」
信長は苦笑して妹に手を伸ばし、その手を宙に浮かせたまま止めた。
「わしはおまえに、甘え過ぎてしまっていたようじゃ」
腰を上げて立ち上がった兄の姿を、市は静かに座したままじっと見つめる。ずっと昔、幼い時分、市はこの人について行くと決めた。この人のために生きたいと。なりふり構わぬ振る舞いに、不器用なその言葉にただ一つ、確かな真理を見出したから。そうして成長した市は、恋を知り、愛を得た末にようやく思い知らされた――自分はそうとしか生きられないのだという事実を。だから悔やみはしない。その時その時、目の前のことと懸命に闘い、選んだ道が市という一人の女の運命を創り上げてきたのだと、確かに信じられるから。
「兄様、」
あなたがいて初めて、私はこの暗い夜の中で己をかたちどることができたのです――鏡に映した自分自身、己の影を見出した。
ありがとう、と告げるのはきっと侮辱になってしまう。そして誇り高い兄の心を、酷く傷つけてしまうだろう。市は唇を引き結び、ただ真っ直ぐに兄を見つめた。背を伸ばし、凛として艶やかに――兄が、市が求めた姿で。これから兄は、織田家はますます激動の渦に巻き込まれていくことになるだろう。それは妖しい予感であり、確かな予測でもあった。再び朝が来て、眩い光の前に幾筋もの道が開けたとすれば、市が自らの意志で道を違える時は来るだろうか。否、それでも市にはこの道しか選べまい。そう判った以上、後悔だけはすまい。小姓が差し出す蝋燭の明かりが、兄の纏う南蛮の衣の鮮やかな色を照らし出す。その背を見つめて暗い部屋に佇んだまま、市は手を固く握りしめた。
→後書き
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あの落ち着いたお顔はどうだ!」
「あの……王子殿下、お怪我の具合は大丈夫ですか?」
自分はきちんと“王”を演じきれてはいなかったのだろうか? 父から、母から教わった“王の息子”としての態度を取れてはいなかったのか?
「吉と出るか、凶と出るか……」
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その信頼が、まさかこんなかたちで裏切られるとは!
確か最後に覚えているのは、朝食をいただいて……
自分には“覚悟”が足りなかったのだろうか。伊達の当主の正室としての覚悟、田村の唯一の姫としての覚悟が。
とにもかくにも逆らわず、落ち着かれるのを待たなければ。
そのときの自分の選択を、今、愛姫は一生の過ちであったと悔いている。
あのとき、わたくしが名を口にしていなければ!
ふと浮かんだ己の考えを振り払うかのように愛姫はふるふると首を振った。
いつも笑顔を絶やさず、親友のような関係だった同い年のおみち。
時に厳しく、時に優しく己を導いてくれた師のような存在だったおかつ。
女として美しく上品に装うことの大切さを教えてくれた艶やかなおえん。
どうして、どうして彼女たちが自分を裏切るわけがあろうか。殿は思い違いをなさっているのだ。今すぐに真犯人を見つけ出し、わたくしと彼女たちの霊に詫びてしかるべきなのだ……。
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殿の仇討ちも、葬儀も盛大に終わった。正室のわたくしは、常のごとく人形のようにその場に座しているだけ。側室たちのように大袈裟に泣きわめくことも、家臣たちのようにぐっと拳を握りしめ悲しみに堪えてみせることもしなかった。
そんなわたくしを、人は「冷たい」と言うのだろうか。「やはり殿との仲が思わしくなかったから」と陰口を叩くのだろうか。長年住み慣れた居室の庭をぼんやりと眺める。ここは新しい“殿”の正室の居室となる。よって、わたくしはこの城を、この庭を去らねばならない。
殿が初めてわたくしに与えて下さった場所。蘭丸と初めて出会った場所。
わたくしは庭へと降り、その片隅に膝を折った。傍らで見つけた、適当な小石で手ずから土を掘る。殿の墓も、蘭丸の墓もそれぞれ立派な寺に設けられることが決まったと聞く。ならばわたくしはここに、わたくしだけの“墓”を作ろう。
女の細腕で、ようやく出来た小さな穴に、それまで肌身離さず持っていた懐剣を埋めた。この国に嫁いでくる際、父から手渡された短刀。
『もし信長が真のうつけ者であったなら、そなたがこの刃で夫を殺せ』
今となっては懐かしい、しわがれた父の声が耳の奥に木霊する。
『……わかりました。しかし、もしわたくしがその大うつけを愛したなら、この刃、父上に向くことになるかもしれませぬ』
微笑んで答えたわたくしに、父は声を上げて笑ったものだった。
「でもまさか、想像もしませんでしたわ、父上。この刃を自らの胸に向けようと思う日が来るなんて」
苦笑しながら、古びた刀に土をかける。もしわたくしが、この刃を己の胸に突き刺してしまったら。殿の想いにも、蘭丸との約束にも背くことになると、わたくしは痛いほど解っている。
「分かりやす過ぎるのも、困りものね……」
遠い都で最期を遂げた二人の男を思い浮かべながら溜め息を吐く。
「愛しているわ。愛しています。故郷の美濃より、父上さまより……ずっと、ずっと。あなた方の分まで、わたくしが言います。生きている時に伝えられなかった分まで、これからは、わたくしがずっと……」
わたくしは殿を愛していた。わたくしは蘭丸を愛していた。
殿はわたくしを愛していた。殿は蘭丸を愛していた。
蘭丸は殿を愛していた。蘭丸はわたくしを愛していた。
自惚れなどではない、確かな事実。誰も知らない、わたくしたちだけが知る、何よりも苦くて、何よりも甘美な蜜の味。
わたくしは一人、懐剣を埋めた“墓”に向かって合掌し、黙祷を捧げた。
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その後の彼女の行方は、誰も知らない。愛した男たちの後を追うように命を絶ったのか、尼となって彼らの魂を弔う道を選んだのか、“信長の正室”という檻の中に最後まで留まり続けたのか……。
人の想いなど置き去りにして、愛など置き去りにして、歴史は流れゆく。美濃の蝮・斎藤道三の娘、天下人に最も近づきながら夢敗れた男・織田信長の正室、濃姫の姿もまた、その激流の中に呑まれ、消えていった儚きひとひらの花弁であった。
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