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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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信長とお市。兄妹愛というか・・・?
 


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<朝>
 
明け方の静かな木立の中を、ころりころりと転がる栗の実を追いかけて幼い少女が駆けてゆく。朝の支度で忙しい侍女たちの目を盗み、早起きをして人もまばらな館の外へ脱け出すことは、最も年若い姫の楽しみだった。

 

「待て、市。そのまま触れては手を痛めるぞ」

 

制する声にぴくりと動きを止めた彼女は、振り向いた先にいた兄の姿にホッと息を吐き出す。

 

「兄様!」

 

大うつけと呼ばれる長兄・信長は乱暴者だと恐れる向きもあるが、お転婆な市を認めてくれる理解者で、こういうことも見逃してくれる。市はこの兄が大好きだった。

パキ、カシリ。

荒っぽい仕草で草履のままイガを踏みつけると、彼は目を丸くする妹の前に綺麗な黄色の中身を差し出した。

 

「後で煮るか焼くかしろ、生では腹を壊すからな。……物を食うとは手間のいることじゃ。よく覚えておけ、市」

 

カラカラと笑う兄の足元をよく見れば、泥に塗れた草履の先にほのかに紅が滲んでいる。

 

「兄様、」

 

棘が、刺さってしまったのでは? そう聞くことが、何故かためらわれて市は口をつぐんだ。兄のその笑顔は、自分に対して張る虚勢は決して損なってはいけないもののような気がしたから。朝日が昇り切る前の静寂の時間、誰も知らぬ兄との逢瀬。それは確かな夜明けだった。始まりだった、この長い道程の。

 

 

~~~

 

 

<昼>

 

いつの間にか、日が高く上ったようだ。涼しくなり始めた昨今でも、この時間帯は少し蒸す――襖を開けることは許されないから。バタバタとうるさい足音がそこここから響く中、市はそっと懐紙を取り出して額の汗を拭った。普段は上品に着物をさばく侍女たちですら、今は足を擦っている場合ではないのだろう。籠められた部屋の中から耳を澄ませるしかないことに、市は静かにため息を吐いた。

「おかあさま、たいくつよ。いまはまだあかるいじかんなのに。おそとへでたいわ」

 

四つになる長女の茶々が膝の上に纏わりつけば、

 

「はつもー!」

 

と一つ下の妹、初が母の袖を引いた。すぐ横に敷かれた布団の上ですやすやと寝息を立てる末娘、江の寝顔を確かめてから、なるべく気丈に見えるよう、娘たちに呼びかける。

 

「外はとても危ないのよ。もう少し、母様とここで待っていましょうね」

 

「どなたがくるの? おとうさま? それとも、」

 

「おじさま? おじさまでしょう、だってきっとお会いできる、っておかあさま、まえにおっしゃってたもの!」

 

「じゃあおじさまをおむかえするおしたくで、みんなおおいそがしなのね」

 

嬉しそうに笑い声を上げた初に、茶々は少し気取ってこまっしゃくれた返事をする。市はハッと息を飲んだ。子らの言葉はある意味で、限りなく本当のことだったからだ。全く、子供たちは無邪気なようで実際は誰よりも世界を隅々まで見渡せているものなのかもしれない。夫や義父と市の間の微妙な齟齬も、そんな中で生まれてきた江への憐れみも――二人は隠すことなく遊びや言葉の他愛ないやりとりに織り込んでしまう。

 

『おめでとうっていわないのね。わたくし、あかさまがうまれるのはたいへんおめでたいことなのだとおもっていたのですけれど』

 

『どうして? お茶々、お父様もおじい様も、ちゃんとお祝いして下さったでしょう?』

 

『でも、わらっていなかったわ。うれしそうじゃなかった。おごうがうまれてよろこんでるのは、わたしとおねえさまだけみたい……』

 

江の七日の祝いが済んだ日、そんな会話を交わしてからいくらも月が経っていない。未だ乳のみ子の、寝返りすら打てぬ赤子を思うと市の胸はしくしくと痛む。睨みつけるような、鋭い義父の眼差しと眉根を寄せて憂いをのせた夫の瞳。もう見ることはないかもしれない、けれど市は、その目が甘く細められ包み込むような温もりを帯びて己を見つめる恍惚を知っている。いつかあの瞳を取り戻せるかもしれない、また明るい日の下で芯から心を寄せ合う時が来るかもしれない――幻想だと分かっている。自分たちはただの男と女ではない。そうであれば出会わなかった二人なのだ。こうであるからこそ出会えた。それを拒むことはしたくない。その果てに生まれてきた子らの命を、そうして生きてきた己自身を。

 

 

~~~

 

 

<夕>

 
冷えた空気が忍び寄る、朱に染まった部屋の片隅。疲れて眠った子らの顔を眺めながら、開くことのない障子をじっと眺めていた時。

 

「お市様」

 

外から呼びかける声に、市はピクリと身じろいだ。

 

「今なら……今ならお逃がしできまする。いっそのこと名を変え、髪を下ろしてしまわれればもう浅井に憎まれることも、織田に利用されることもありますまい。ただの女子として、人として生きるのです」

 

かすかに浮かび上がる影は恐らく織田方の間者だろう、どこか聞き覚えのあるその声の主を、市は探ろうと思わなかった。誰そ彼時――そこに彼が現れた意味を、彼女は確かに解っていた。はっきりと見えぬ方が良いことも、この世の中には沢山あるから。

 

「……娘たちはどうなります? それにお忘れか、我が兄は神仏の御威光など意にも介さぬ方。髪を下ろしたところで無意味です」

 

「信長様が疎んじておられるのは己以外の“力”です。武器を持たぬ、静かに暮らす尼寺にもしも踏み込めば臣民の信を失うこと、よく存じておられるはず」

 

即座に返ってきた答えに、市は思わず笑いをこぼした。

 

「……そうだとしても、私は名前を変えませぬ。この髪も、この衣(きぬ)も」

 

夕日に照らされた部屋の中でも一等紅い、その唇をきらめかせ。

 

「殿がその手にとって梳いて下さったこの髪です。兄様が特別に仕立てて贈って下さったこの衣です。お二人が愛して下さったこの身です。苛立ちも疑いも憎しみも、この狂おしく燃えるような心さえこの私自身でなければ受け止めることはできないのです。私は何一つ捨てたくなどありません」

 

強い口調で告げる市の言葉に、男は声を震わせた。

 

「お市様、私はあなたがお可哀想でならないのです。幼い頃から兄君の命じられるままに生きて……それは本当に、あなた自身の人生と言えるのですか?」

 

影の気配が遠ざかって後、結局彼女は夫の説得により三人の娘と共に城を降りることになった。信長の妹として――織田の女として。市はその名を、その生をどうしても捨てることができなかったのだ。

 

 

~~~

 

 

<宵>
 

ほのかに浮かび上がる灯火に照らされた懐かしい面差しは怜悧なまま、消せない疲労を帯びた深い皺を刻んでいた。

 

「……市」

 

はっきりと、時に鋭すぎる声音で言葉を口にする兄にしては珍しく、喉の奥から絞り出すような声。

 

「はい」

 

眼前に座す妹の目を、うかがうようにチラリと見て、信長はすぐに顔を伏せる。顔を洗い、着替えをして髪を梳った妹の白い面が、送り出した日と同じように、否それにも増して美しく薄闇の中に浮かび上がる。

 

「おまえは、幸せだったか?」

 

「……少なくとも、不幸ではございません。今も、そう思っております」

 

これが自分の選んだ道の果てなのだから――

数年ぶりに目にする兄の姿と向き合い、市は酷く哀しく、そして愛しさで胸がいっぱいになった。瞠目する兄は、今や悪逆非道を極める魔王との異名を馳せる天下に最も近い男は恐らく、そんな訳が無い、或いはその幸せを奪ったのはおまえではないか、となじって欲しかったに違いない。誰よりも可愛がり、大切にしてきたはずの妹の夫を殺し、その骨さえも辱めて。憎しみの眼差しで刺し貫いてほしかったのだろう、他ならぬ血を分けた妹、愛する市自身に。そんな甘えは許すものか。これ(・・)は市自身のものだ、選択も、経験も、決意も。痛みも、苦しみも、切なさも、悲しみも――誰にだって渡さない。背負わせたりするものか。全て己の血肉なのに。

「私は確かに、兄様のご命令により長政殿の元へ嫁ぎました。兄様のためになることが、お役に立てることが私の望みであり、喜びであったからです」

 

信長はコクリと息を飲む。

 

「そして彼を愛したのも、子供たちを生んだのも、全ては私が選んだからです。最後に決めたのは私です。あの時、兄様に小豆をお送りしたのも……今、ここに在ることも」

 

だから、何も恨まない――笑えるのだ、この闇の中にあってさえ。

 

「おまえは強いな、市」

 

信長は苦笑して妹に手を伸ばし、その手を宙に浮かせたまま止めた。

 

「わしはおまえに、甘え過ぎてしまっていたようじゃ」

 

腰を上げて立ち上がった兄の姿を、市は静かに座したままじっと見つめる。ずっと昔、幼い時分、市はこの人について行くと決めた。この人のために生きたいと。なりふり構わぬ振る舞いに、不器用なその言葉にただ一つ、確かな真理を見出したから。そうして成長した市は、恋を知り、愛を得た末にようやく思い知らされた――自分はそうとしか生きられないのだという事実を。だから悔やみはしない。その時その時、目の前のことと懸命に闘い、選んだ道が市という一人の女の運命を創り上げてきたのだと、確かに信じられるから。

 

「兄様、」

 

あなたがいて初めて、私はこの暗い夜の中で己をかたちどることができたのです――鏡に映した自分自身、己の影を見出した。
ありがとう、と告げるのはきっと侮辱になってしまう。そして誇り高い兄の心を、酷く傷つけてしまうだろう。市は唇を引き結び、ただ真っ直ぐに兄を見つめた。背を伸ばし、凛として艶やかに――兄が、市が求めた姿で。これから兄は、織田家はますます激動の渦に巻き込まれていくことになるだろう。それは妖しい予感であり、確かな予測でもあった。再び朝が来て、眩い光の前に幾筋もの道が開けたとすれば、市が自らの意志で道を違える時は来るだろうか。否、それでも市にはこの道しか選べまい。そう判った以上、後悔だけはすまい。小姓が差し出す蝋燭の明かりが、兄の纏う南蛮の衣の鮮やかな色を照らし出す。その背を見つめて暗い部屋に佇んだまま、市は手を固く握りしめた。

 




後書き



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掌編。古代エジプト王ツタンカーメンとその正妃アンケセナーメン。

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「まぁ、何てお可愛らしい。まるでお人形のような王(ファラオ)とお妃様でいらっしゃること」
 
わずか九つで即位した夫と、その二つ年上の正妃であるわたくしは、皆によくそう称された。
 
「どうぞ、これをお納め下さい。ファラオと妃殿下のお二人にふさわしく、本物の金と宝石をあしらった玩具にございます」
 
あれはいつのことだったか、重臣の一人が差し出したその“ままごと道具”を、わたくしは怒りに任せて床に投げつけてしまったことがあった。
 
「アンケセナーメン、どうしたの? この女の子の人形、君にとてもよく似ている。こちらの男の子の人形は、僕そっくりだ。本物の金でできた玉座までついて、本当に素敵な贈り物じゃないか」
 
わたくしはファラオよりも二才年長だ。既にそれなりの自我も、誇りも芽生えつつある時期を迎えていた。だから、その贈り物が許せなかったのだ。ニヤニヤと下卑た表情(かお)で他人(ひと)を小馬鹿にした嗤いを浮かべながらわたくしたちにそれを差し出したあの男が。“玩具”と称される、その贈り物自体が!
 
「ファラオは悔しくないのですか!? その人形がわたくしたちに似ているのは当たり前です! あの男はわたくしたちを馬鹿にして、揶揄するためにそれを作らせたのです! この偉大なるエジプトのファラオと妃でありながら傀儡も同然のままごと夫婦、そのように侮辱しているのですよ!?」
 
そう叫んだわたくしに、ファラオはどこか寂しそうに俯き、人形を手に静かに部屋を出て行った。
 
「ファラオ、お待ちください、ファラオ!」
 
少し言葉が過ぎたことに気づき、慌ててその背中を追ったわたくしが辿り着いたのは、王宮の一角にある矢車草の花畑だった。
 
「ああ、アンケセナーメン」
 
ファラオはわたくしの姿を認めると、嬉しそうに顔をほころばせて名を呼んだ。
 
「ファラオ……何をなさっておいでなのですか?」
 
一心に花を摘み、何かをこしらえているらしいファラオの手元をそっと覗きこむと、そこには小さな小さな、可愛らしい花輪が出来上がっていた。
 
「ほら、こうして花で飾ってあげたら、人形の表情がどこか和らいで見えないかい? 君は、人形に魂は宿らないと考えているかもしれないけれど、僕はそうは思わない。人形だって生み出されたその瞬間から、“心”を持つんだ。その“心”さえ忘れずにいれば、いつかは人間になれるかもしれない。だからね、アンケセナーメン、僕は“心”を失いたくない。どんなものにも優しく、思いやりのある王でいたい」
 
そう告げられ、ファラオの手に握られた人形の顔を覗き込むと、花輪を被せられた人形の表情(かお)が冷たさを宿した無表情から、ほんの少しだけ暖かいものに変わっているような気がした。
 
そのとき、わたくしはようやく気付いたのだ。“人形”でいたのはわたくしの方。皆に言われるまま、なすがままに前王(ファラオ)であった父のかたちだけの妻となり、父が死して後(のち)は異母弟である新しい王(ファラオ)の妃となり、信仰も名前も変えてしまった。幼きころより共に過ごしたきょうだいの一人であるツタンカーメン……ファラオも、また同じこと。即位と同時に周囲の指図通り改宗し、改名し、異母姉であるわたくしを妻に娶った。それなのに、昔と変わらぬ笑顔を保っていられるのは、わたくしの名を呼ぶ声がぬくもりを失わぬ理由は、ファラオがその“心”を守り続けているため。“人形”でありながら“心”を抱き続けるのがどれほどの苦痛か。こんなにも長く傍にいながら、今の今までその事実に気付けなかったなんて……。
 
「わたくし、王妃失格ですわね、ファラオ」
 
溜息を吐きながらファラオの傍らに座り込んだわたくしに、ファラオはさも心外そうに大きく目を見開いて首を振った。
 
「とんでもない、アンケセナーメンが妃でなかったら、僕はさっさとファラオの座を放っぽり出して、きっとどこかへ消えてしまうよ」
 
ファラオの真っ直ぐな言葉に胸を打たれ、照れ隠しにわたくしもまた花を摘み出す。
 
「ファラオ、そちらのお人形の分の花輪は、わたくしがお作り致しますわ」
 
「えーっ、そしたらきっと僕よりずっと上手に出来てしまうから、二人を並べたらこちらの人形の花輪が随分と見劣りしてしまうじゃないか!」
 
わたくしの言葉に、慌てて少女の人形を背中に隠そうとするファラオの姿に即位前のあどけなかった異母弟の面影が重なり、思わずクスリと笑みがこぼれる。
 
「駄目ですよ、お隠しになられては。“わたくし”の花輪をファラオが、“ファラオ”の花輪をわたくしが編む、という事実が大切なのですから」
 
「また、アンケセナーメンはお姉さんぶって。小さいころから何も変わっていないんだから」
 
ぶすくれたファラオの呟きが響いた、陽だまりの花畑。わたくし生涯に一筋の明るい日差しが差した刹那。二度と戻ることのない、幸せな時間(とき)。
 
 
~~~
 
 
「それはあなたもですよ、ファラオ。お小さいころから最期のときまで、何一つお変わりになってはおられません」
 
心の奥で、暖かい思い出の中のファラオに呼びかける。目の前には既に冷たく変わり果てたファラオの、全身を亜麻布に覆われた亡骸が横たわっている。静まり返った地の底、これからファラオが永遠の眠りにつくことになる玄室の中。ファラオとの最後の別れを邪魔しないでほしい、と全ての神官や側近・女官たちは下がらせた。
 
あのとき、あの花畑で、わたくしはファラオと自分の“心”を守り抜こうと決めた。そうしていつか二人で、本物の“人間”になろうと。ところが、それは失敗に終わった。ファラオが“人間”になろうとしていることに気づいた者たちは、それを歓迎しなかった。在位わずか九年。未だ“人形”のままのわたくしを置いてファラオは、わたくしの異母弟にして最愛の夫であったツタンカーメンは、十八の若さで逝ってしまった。
 
 
 
「ファラオ、ファラオ……、わたくしが今日まで己が“心”を保ち続けていられたのは、どなたのおかげかお分かりですか?」
 
あのとき作った花輪よりもずっと大きな花輪を、愛しき人の、死してようやく“人間”となったファラオの額にそっと被せる。偉大なるエジプトの王(ファラオ)は太陽神(ラー)の化身。けれどファラオが、ツタンカーメンとわたくしがなりたかったのは、祀られる神でも飾られる人形でもなく、当たり前に息をし、“心”のままに生きることの出来るただの“人間”であったのだから。
 
「ファラオ、ファラオ……ツタンカーメン、あなたがいたから、わたくしは魂を宿した人形でいられたのです。“人形”であったわたくしを大切に慈しみ、暖かく包み込み、優しく名を呼んでくださったあなたがいたから……!」
 
棺の前で泣き崩れるわたくしの身体を、そっと抱き起こして慰めてくれる手はもう無い。もう永遠に、永遠に失われてしまったのだ!
 
「ファラオ……主を亡くした人形が、“心”を持ち続ける意味などもうありませんわよね? ファラオよ、ファラオ……どうかわたくしの“心”を、あなたと共にお連れ下さい。そうすればわたくしはきっと、黄泉の国で“人間”になれます」
 
微笑みながら、愛しきファラオの胸元に今度は大きな花束を捧げる。あの矢車草の花畑で、両手に抱えられる限り、手ずから摘んだありったけの花々。わたくしの最後の思い出、わたくしの最後の幸せ! これからのわたくしの生涯は、ただ“人形”として飾られるだけのままごと遊びとなり果てる。
 
「ファラオ、ファラオ、愛しています。“わたくし”のただ一人の夫、“わたくし”のただ一人の王、わたくしの唯一の“心”の在り処……」
 
 
~~~
 
 
エジプト第十八王朝の若き少年王・ツタンカーメンの棺の蓋が閉じられると共に、王妃アンケセナーメンの“心”は死んだ。
 
アンケセナーメンはその後、ツタンカーメンの後を継ぎ王(ファラオ)に即位した老神官アイを夫に迎えるが、一人の子も生すことはなく、歴史の闇へと消えていった。
 
そうして遥かな時代(とき)を超え、ツタンカーメンの亡骸が再び人々の前に姿を現したとき……儚く崩れ落ちる枯れた花輪に、“人形”の真実はようやく明るみに出ることとなる。





2009/7/2 初出
2009/7/3 一部修正(※詳しくは「『人形の花輪』について」にて)

後書き
 


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アレクサンドロス三世と側近・ヘファイスティオン。(同性愛要素あり)
会話文がメインという形式の掌編です。

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「王子殿下がお転びあそばされたぞ! アレクサンドロス様が転ばれた!」
 
それは二人が六つか七つの年を迎えるころのことであったように思う。街路に転がる小石に躓いて転んでしまったマケドニア王・フィリッポスの嫡子アレクサンドロスは、涙一つこぼさず、呻き声一つ上げず、すっくと立ち上がって声を上げた少年を睨みつけた。
 
「さ、さすがは王子殿下。お転びになられても少しもお泣きにならない」
 
睨まれた少年の兄が慌ててその態度を褒めたたえ、釣られるようにして一部始終を見ていた少年たちもアレクサンドロスを讃え出した。
 
「膝小僧があんなにすりむけて、血を流してらっしゃるというのに
あの落ち着いたお顔はどうだ!」
 
「僕ならきっと泣き出してお母様の膝に縋りついてしまうよ」
 
だがアレクサンドロスはそのような少年たちのざわめきを一切気にすることなく静かにその場を立ち去った。王子の権威を振りかざして最初に囃し立てた少年を罰することもなく、皆に褒められて偉ぶることもしないその態度が、少年たちにまた大きな感銘を与えた。
 
「僕、大きくなったら絶対にアレクサンドロス様にお仕えする!」
 
「いいや、俺だ! どんな場所にも付き従うぞ!」
 
わあわあ、と騒がしくなった街路から、たった一人そっと姿を消した少年がいた。少年の名はヘファイスティオン。マケドニア貴族・アミュンタスの息子であった。
 


「あの……王子殿下、お怪我の具合は大丈夫ですか?」
 
誰にも知られぬ神殿の影にそっと腰を降ろしたアレクサンドロスの元に、一人の少年が近付いてきた。どうせあそこにいた一味の仲間。少しでも次期国王である自分に近づき、将来に有利な関係を築くよう、親に命じられた貴族の子弟の一人。アレクサンドロスは少年に向かって怒鳴った。
 
「大丈夫だからあちらへ行け! 何故ついてくる!?」
 
「だって、その、お怪我が……とても、痛そうにお見受けしたので」
 
そう言って手巾を差し出した少年の言葉に、アレクサンドロスは衝撃を受けた。
自分はきちんと“王”を演じきれてはいなかったのだろうか? 父から、母から教わった“王の息子”としての態度を取れてはいなかったのか?
 
「おまえ、名は何という?」
 
「はい、アミュンタスが息子、ヘファイスティオンと申します、殿下」
 
それが、アレクサンドロスとヘファイスティオン、二人の始まりのときであった。
 
 
~~~
 
 
「覚えているか? ヘファイスティオン。私が初めておまえの名を記憶に刻んだときのことを」
 
「あのとき、殿下は大層慌てておいでのご様子でしたね」
 
「それはそうだ、ヘファイスティオン。私はおまえが私の本心を見抜ける唯一であると、あの頃は知らなかった。そのような存在など、“王”たる者には邪魔なだけ。そう信じていたからな」
 
「お父君の訓示ですか? お母君の説教ですか?」
 
「どちらとも言えるし、どちらとも言えない。両親の姿は私にとって手本でもあり、反面教師ともなり得る。マケドニア王とエペイロス王女の面倒な誇りと誇りのせめぎ合いは、もう見あきた」
 
「そんなことをおっしゃって。高名な哲学者アリストテレス先生を招き、このミエザの学園を開いて下さったのは他ならぬそのお父君であられるのに」
 
「そうだな。彼との出会いをもたらしてくれたことが、父が私に与えてくれた最大にして最後の贈り物となるように感じるよ」
 
「……そのような不吉なことをおっしゃいますな」
 
そのころ、十代も半ばの少年たちは未だ青き春の中にいた。アレクサンドロスとヘファイスティオンは既に誰よりも親しき友であり、またそうではなかった。
 
アレクサンドロスは気づいていた。ヘファイスティオンが己の影となり、安らぎをもたらすことの出来る唯一の存在であることを。また、ヘファイスティオンは知っていた。己の視界に入れるべき唯一のもの、信じるべき神にも等しいたった一人の主、それがアレクサンドロスであることを。二人の間には何人(なんびと)も入れない。このミエザの学園に集められた優秀な若者たちの誰も、アレクサンドロスの友人となれても、部下となれても、決して“唯一”になれはしない。

「吉と出るか、凶と出るか……」
 
寄り添う少年たちを見つめ、その師は呟く。比翼の鳥は、片方を失っては飛び立てない。連理の枝は、片方が折れてしまっては伸びていけない。死んでしまう。枯れてしまう。彼らは、余りに早く出会いすぎてしまったのではないだろうか? 現にヘファイスティオンの目には、既にアレクサンドロスしか映っていない。王子との過度の親密ぶりに、周囲の少年たちから反感や嫉みを買っているのを気づいていながら黙殺している。高名な哲学者は祈る。二人の今後が、少しでも長く、光に満ちたものであることを――
 
 
~~~
 
 
「ヘファイスティオン、あなた、女(わたくし)たちが羨ましくなることはなくって?」
 
「どうしてですか? 義姉(あね)上」
 
「だって女ならばあの方の子供が生めるわ。妃の座にだって堂々と座れる。羨ましくはならないの?」
 
「いいえ、義姉上。男なればこそ、私はどこまでもあの方の傍に在れるのです。この腕を振るい敵将を討ち、あの方をお守りし勝利に貢献する。私にとってこれほどの喜びが、他にありましょうか?」
 
「そう。ならあなたは、今を幸せに感じているわけね」
 
「義姉上……スタテイラ妃殿下、私は逆にあなたにお聞きしたい。私が羨ましくはありませんか? 幼きころより慕い続けた主に仕え、今の今までその傍で望む役目を与えられてきた……。あなたのように祖国を失ったことも、父を殺されたことも、妹ともども仇を伴侶として与えられたこともございません」
 
「ヘファイスティオン、それは難しい質問ね。……わたくしは何かを望んだことが無いのよ。正確に言うと“望むこと”を許されたことがない。だから何がわたくしの願いで、自分がどうすれば幸せと感じるのか、少しも分からないの」
 
「義姉上……」
 
「今度、ロクサネ様の妹君も娶られるそうね。あなた方はどこまで、お互いを重い鎖で縛りつけようとするのでしょう! わたくしには滑稽に思えてならないわ。あのとき、わたくしがアレクサンドロス陛下の妃となり、妹のドリュペティスがあなたの妻となった、あの合同結婚式! あれはまるであなた方お二人の結婚式のようだったわよ。花嫁であるはずのわたくしと妹は置いてけぼりをくって、あなたと陛下だけがいつまでも見つめ合っていた。あのときわたくしは気づいたのよ。わたくしも妹も、あなた方を繋ぐ道具に過ぎない。二人の絆をより強く固めるための鎖の一つに過ぎないのだ、とね」
 
「義姉上、私はあなたを哀れに思います。そして申し訳ないとも……」
 
「いいえヘファイスティオン、わたくしを哀れむことはありません。わたくしはただ愛を知らないだけ。何かを望むということを知らないだけなのだから、何も感じることはない。ですからわたくしと妹のことはお気になさらないで。ただ少しだけ、知りたいのです……あなた方をそこまで互いに執着させるものの正体が、わたくしには少しも理解できない、愛というものが。そうした意味では、わたくしはあなたを羨んでいるのかもしれません」
 
儚く微笑む元ペルシア王女にしてアレクサンドロス大王妃スタテイラは、その後アレクサンドロスのもう一人の妃であるロクサネにより、ヘファイスティオンの妻であった妹・ドリュペティスともども暗殺されることとなる。
 
 
~~~
 
 
「陛下……どうかもう、ここをお離れください。陛下に病をうつしたとあっては、このヘファイスティオン、死んでも死にきれませぬ」
 
「なら死ななければ良い! 嫌じゃ、いやじゃ、ヘファイスティオン。何故よりによっておまえが、この私を置いていく!? 私をただ一人の主と、王と、神にも等しい存在と定めたのではなかったか!? おまえはいつの間にその主を冥府の神ハデスなどにすり替えたのだ!?」
 
「陛下……おそらく神は、冥府がより陛下にとって治め易き場所になるよう、先に私をあちらに遣わすことをお決めになられたのでございましょう。何せあなたはたった一人の偉大なる王・アレクサンドロス陛下! ご案じめさるな。この魂どこにあろうとも、あなたが私のただ一人の主、ただ一人愛するお方! 死してなお、私があなたを想わぬときがございましょうか! ……っ、どうか陛下、それだけはお信じ下さい……アレク、サンドロス、さま……」
 
「ヘファイスティオン、死んではならぬ! ヘファイスティオン、目を覚ませ! 奴を診ていた医師を呼べ、すぐさまこの場で処刑してやる! エジプトに早馬を飛ばせ! 祀らなければ、讃えなければ、このアレクサンドロスの唯一、冥府にて私のためにハデスを討ち滅ぼしているであろう、彼の魂を!」
 
アレクサンドロスは狂っていた。
唯一の心の拠り所、唯一の安らぎ、唯一の愛の在り処!
全てを失った片翼の鳥、死を待つだけの折れた枝、それがヘファイスティオン亡き後のアレクサンドロスの姿であった。
 
 
~~~
 
 
「陛下……アレクサンドロス様、私の顔が見えますか?」
 
「……ああ、そこにいるのか、ヘファイスティオン……冥府の様子はどうだ? 今度こそ、私は世界を手にできそうか?」
 
「陛下、私はヘファイスティオンではございません! 彼はもう一年も前に亡くなりました。どうか、お気を確かに……!」
 
「今、そちらに行くところだ……なに? ハデスは中々手強いと?大丈夫だ。我ら二人がいれば。父上が倒せなかったあのペルシアのダレイオスも、私とおまえでいとも簡単に追い詰めてみせたではないか……。ああ、やっと傍に行ける……ヘファイ、スティオン……」
 
熱病に侵された偉大なる王、アレクサンドロスが最期の瞬間、空に伸ばした手を掴んだのは果たして誰であったのか。それを知る者は誰もいない。


 
かくして二人は旅立った。新たな国、新たな世界を求め続けて。
黄泉の国、死の世界で、比翼の鳥は飛び続け、連理の枝は伸び続ける。
冥府の神ハデスですら永遠に引き裂くことのできない、固い絆に結ばれて。





後書き
 


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掌編。伊達政宗と正室・愛姫の夫婦喧嘩です。

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「……いい加減ここを開けたらどうだ!? ぶち抜いてやっても良いのだぞ!?」
 
「開けませぬ! 殿がわたくしに、皆に謝ってくださるまで絶対に開けませぬ! 皆にどれだけ酷いことを……わたくしの心に、どれだけの傷を負わせたか解っておいでなのですか!?」
 
襖一枚挟んで、もう一月。伊達政宗は正室である愛(めご)姫の部屋に一歩たりとも足を踏み入れることができずにいた。
 
愛姫はもう十年も前、戦国の世の荒波の中で危機に瀕していた小国・田村家の唯一の姫として希望を託され、伊達家の嫡男・政宗の正室に迎えられた。可愛らしくあどけない少女は義父にも、夫にも、義理のきょうだいたちにも暖かく迎えられ、まるで最初から伊達家の姫であったかのように、愛姫は伊達の水に馴染んだ。
 
特に、夫である政宗のことは出会いのときから兄のように慕い、誰よりも信頼していたのだ。
その信頼が、まさかこんなかたちで裏切られるとは!
 
愛姫は一月前の凄惨な出来事を思い出し、溢れ出る涙に両手で顔を覆った。
 
 
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「愛、愛……目を覚ませ!起きろ! ……頼む、起きて、くれ……っ!」
 
耳元で響く聞き慣れた声の悲痛な叫びに、うっすらと目を開けた愛姫は、己の身体が酷くだるく、思うように動かせないことに気づいた。
 
「と、の……?」
 
顔を上げて夫の名を呼ぼうとする愛姫を、ぼんやりとした視界の向こうに映る老人が留めた。
 
「起き上がられてはなりません、奥方様。どうかそのまま、お楽に……ともかく、意識がお戻りになられて良かった」
 
穏やかに言葉を紡ぐその声音に、愛姫は彼が伊達家の侍医を務める優しい老医師であることを知った。
 
「わたくし、どうしてこのような……?」
 
相変わらず頭に靄がかかって記憶が判然としない。
確か最後に覚えているのは、朝食をいただいて……
 
「そなたは毒を盛られたのじゃ! 間諜は何処より紛れ来るか分からぬ。愛、そなたの身を危険にさらした罪、万死に値する。この政宗が何としてでも下手人を見つけ出してやる故、そなたは此処でよく養生せい!」
 
それだけを一気にまくし立てて疾風のように駆け去った夫に、愛姫は呆然として医師を見つめる。
 
「……まことに遺憾ながら、殿の申したことは全て真実にございます。奥方様に害をなした者どもは、必ずや殿によって成敗されることでしょう。どうか奥方様は何もお考えにならず、この離れにてゆっくりとお休み下さい……」
 
落ち着いた医師の言葉に誘われるように眠りに向かいながら、愛姫の心は目まぐるしく揺れ動いていた。
 
毒、暗殺、下手人、成敗……この戦国の世、誰を裏切り、誰に裏切られるか分からないことは愛姫とて、とうに解っていた。実母の生家である相馬家を追い詰めたのは愛姫の夫である政宗だ。そしてその政宗の父・輝宗が畠山に人質として捕えられた際、輝宗ごと畠山を撃ちとったのもまた政宗だ。
あれは、お義父(とう)様の命あってのことだった、と伺っているけれども……。
 
政宗はいつでも、言い訳をしない。大口を叩き、はったりをかましてみせることは幼き日よりよくあったものの、出てしまった結果に対しての嘘は、言い訳は一度も聞いたことがない。だから政宗が自分への“裏切り者”として、毒殺を目論んだ下手人としてどんな人物を見出したのかも、そして彼らにどんな処罰を下したのかも、包み隠すことなく自分に教えてくれるであろうことは予想できた。
自分には“覚悟”が足りなかったのだろうか。伊達の当主の正室としての覚悟、田村の唯一の姫としての覚悟が。
 
わたくしは一体誰を裏切り、誰に裏切られたというのか。
 
愛姫は眠りながら泣いた。目を覚ませば二度と涙を流すことは許されぬ。そう己に言い聞かせて、身体と心を癒すべく眠りについた、はずだった。
 
 
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“毒殺未遂”より一週間が経ち、愛姫がようやく床の上に起き上がり、医師や政宗ともまともに会話を交わせるようになった頃、政宗はそれまでしばらく顔を見ていなかった、奥付きの侍女たちを伴って離れを訪れた。
 
「まぁ、おまえたち、久し振りだこと。殿、わたくしが寂しがっていると思ってわざわざお気を回して下さったのですか?どうせ間もなく奥にも帰れる身体になる、と、お医師もおっしゃっておりましたのに……」
 
夫の計らいに嬉しそうに顔をほころばす愛姫とは違い、侍女たちの顔は皆一様に強張り、青ざめていた。とても慕っている主と一週間ぶりに再会した顔、毒を盛られ寝込んでいた主を一週間ぶりに見舞う顔ではない。そのとき、愛姫の背を悪寒が駆け抜けた。
 
「愛、この中に田村より連れ参った女は何人おる?」
 
政宗のどこまでも静かな声音に、気圧されるように
 
「……乳母のおよしを含め、六人でございます」
 
と答えると、政宗の鋭い眼光が侍女たちの先頭に立つおよしをギラリと捕えた。
 
「残り五人の名を、全員答えてみよ」
 
「殿、それは……「いいから答えよ!」
 
夫の問いかけがどういう意味を持つのか、聞き出そうとした愛姫の言を遮り、政宗は怒鳴った。こうなった政宗はもう手の付けようがないことを、幼い頃より傍で過ごした愛姫はよく知っている。
とにもかくにも逆らわず、落ち着かれるのを待たなければ。
そのときの自分の選択を、今、愛姫は一生の過ちであったと悔いている。

あのとき、わたくしが名を口にしていなければ!
 
 
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「おりょう、おえん、おかつ、おみち、おくにの五人でございますが……」
 
愛姫がそう答えた途端、五人の中で最も年若で、愛姫がまるで妹のように思い、親しく接していたおくにが潤んだ瞳で愛姫の元に取り縋った。
 
「お願いでございます、姫様! どうか、お助け下さい! わたくしは本当に何も存じませぬ! 本当に、姫様を害そうなどと夢にも……っ」
 
バサリッ
 
目の前で上がった血しぶきに、愛姫は己が目を疑った。
 
「この期に及んで白々しい。疑わしきは全て裁く。それが伊達の、この政宗の流儀だ」
 
侍女たちの悲鳴。逃げ惑う足音。その後に離れで起こった有様は、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図であった。
 
そうして血塗れの離れから奥へと戻った愛姫は、残された数少ない……伊達に来てから迎えた侍女たちに、
 
「しばらくはお医師以外誰とも会いとうない」
 
とだけ伝え、夫に対して一切心を閉ざし、鍵を掛けた居室に閉じ籠るようになってしまった。
 
 
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そうして、政宗は毎日毎晩その部屋の前で襖を叩き、「ここを開けろ!」と時に怒鳴り、時に懇願し、時に脅してみせる。
 
本当にわたくしの顔が見たいのならば、迷わずこの襖をぶち抜いてしまえばよろしいのに――

ふと浮かんだ己の考えを振り払うかのように愛姫はふるふると首を振った。
 
駄目だ、わたくしが簡単にそんなことを許してしまったら、生まれたときからわたくしを暖かく見守り、育て、この伊達まで付いてきてくれたおよしは、他の侍女たちの無念はどうなります!?
 
愛姫はもう一度己に言い聞かせ、今にも折れてしまいそうな心を奮い立たせる。
 
年端もゆかぬ少女だった、哀れ極まりないおくにの血しぶき。
いつも笑顔を絶やさず、親友のような関係だった同い年のおみち。
時に厳しく、時に優しく己を導いてくれた師のような存在だったおかつ。
女として美しく上品に装うことの大切さを教えてくれた艶やかなおえん。
母のおよしと共に、乳姉妹として私に付き従って伊達に赴いてくれた姉のようなおりょう。
どうして、どうして彼女たちが自分を裏切るわけがあろうか。殿は思い違いをなさっているのだ。今すぐに真犯人を見つけ出し、わたくしと彼女たちの霊に詫びてしかるべきなのだ……。
 
溢れる涙を拭いながら、愛姫はそんなことを思った。
 
 
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「愛、愛……目を覚ませ」
 
そうして襖を挟んだ攻防が続いて一月以上が経った夜のことだった。いつかと同じく、寝ている愛姫の枕辺に聞き慣れた男の声が響いた。
 
「……! どうして……!? 誰が、入れてしまったのですか!?」
 
「別に誰も。幼き日のように、庭を通って少し、な」
 
悪戯に嘯いてみせる政宗に、これは片倉あたりの者が一肌脱いだのだな、と目星をつける。
 
「伊達の当主ともあろう方が、こんな恥知らずな……!」
 
と褥の上に起き上がり、正座して夫の前に向き直った愛姫が憤慨してみせると、
 
「その伊達の当主の正室ともあろう者がこのような有様ではな……。本当に、しっかりした側室を一人増やしてしまいたくなったくらいだ」
 
と胡坐をかいた政宗に飄々と反論されてしまった。その言葉にムッとして黙り込み、俯いてしまった愛姫の顔を、政宗がそっと覗きこむ。
 
「愛……今度(こたび)のこと、すまなかった。本当はおまえに毒を盛ったのは、我が母ではないかと言う者もおるのじゃ。だが俺はそれだけは……母上だけは、どうしても疑いとうなかった。だから、田村の者が犯人だと耳にし、すぐさま侍女たちを引っ立てておまえの目の前であんなことをしてしまった。詫びて済む話でないことは承知。だが一言、どうしても謝りたいのじゃ、おまえにだけは……。すまぬ、愛」
 
珍しくしおらしい政宗の態度に驚いて夫の顔を見上げる。政宗の母・義姫は伊達家と敵対する最上家の出身であり、いつも小国・田村の姫である愛姫を嫡男の正室に迎えてしまったことを快く思っていない風情であった。政宗自身もその片目の傷のせいか、母親に余り可愛がられたとは言えぬ幼少期を送っており、義姫に関わることは二人のどちらにとってもしこりとして残り、年若い伊達家の当主夫妻にとって最も大きな弊害であると言えた。
 
政宗がどれだけ自分を大切に思ってくれているか、愛姫は知っている。愛姫を害した者ゆえに、そう疑われる者ゆえに誰一人としてこの先息をさせておくのが許せなかったのであろうことも。愛姫を害そうとしたかもしれぬ者がこれから先も彼女の傍近く仕え、彼女が何度も危険にさらされることになれば、それこそ大胆なようで繊細、強いようで脆いこの男の心は日々摩耗され、いつか擦り切れてしまうだろう。だから、彼はあの場で侍女たちを“下手人”と信じて殺すしかなかった。
 
この事件がもっと早くに起きていれば、自分は伊達を飛び出し、田村に逃げ帰って夫の非道を父に訴えることが出来ただろうか。こんなにも長く、兄とも友とも夫とも慕い、誰よりも相手を理解できるような絆が育まれていなかったら……。
 
考えても栓なきこと、と愛姫は頭を振り、溜息を吐いた。愛姫の膝の上で固く握りしめられていた拳が不意に緩んだ様を見て、政宗はその手を取り、じっと愛姫の顔を見つめた。
 
「明日、共に墓に参って下さい。もし誰か一人本物の下手人がいたとしても、全員が全員わたくしを裏切っていたなどとは、わたくしも信じたくないのです。……殿が、どうしてもお義母(かあ)さまだけは疑えぬように」
 
愛姫の言に、政宗は真摯な姿勢で頷いた。片目しかない政宗の、澄んだ漆黒の眼差しが愛姫の心を射る。幼いころより慣れ親しんだ夫であるはずなのに、どこか気恥ずかしくなって再び俯いた愛姫を、政宗はまたじっと覗き込んだ。
 
「どうした、愛?」
 
「それで、その……本当なのですか、側室をお増やしになるという件は?」
 
頬を朱に染めて問いかけてくる妻に堪らず愛しさが込み上げ、政宗は久方ぶりに触れる正室の身体を思いっきり抱き締めた。
 
「そんなもの、冗談に決まっておろう! 当分は今のままで良い。正室のおまえがやはり一番大切だと、今回の件でほとほと身に沁みたからな!」
 
「またそんな調子の良いことばかり……」
 
溜息を洩らしながらも、愛姫の表情(かお)はいささか明るい。
 
およし、皆、本当にごめんなさい……。
 
心の中で命を落とした六人の侍女に謝りながらも、愛姫は政宗の妻としての道を選んだ。乱世に生きる夫を支え、助け、許し、受け入れることを。

 
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その後、政宗との間に四人の子を儲けた愛姫は、夫の存命中は勿論、その死後にあっても伊達家を取りまとめる要としての役割を果たしぬき、『大名の妻の鑑』と讃えられる生涯を過ごすこととなる。





後書き
 


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徒花』続編SSS。拍手ログです。

拍手[1回]


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殿の仇討ちも、葬儀も盛大に終わった。正室のわたくしは、常のごとく人形のようにその場に座しているだけ。側室たちのように大袈裟に泣きわめくことも、家臣たちのようにぐっと拳を握りしめ悲しみに堪えてみせることもしなかった。

そんなわたくしを、人は「冷たい」と言うのだろうか。「やはり殿との仲が思わしくなかったから」と陰口を叩くのだろうか。長年住み慣れた居室の庭をぼんやりと眺める。ここは新しい“殿”の正室の居室となる。よって、わたくしはこの城を、この庭を去らねばならない。

 殿が初めてわたくしに与えて下さった場所。蘭丸と初めて出会った場所。

わたくしは庭へと降り、その片隅に膝を折った。傍らで見つけた、適当な小石で手ずから土を掘る。殿の墓も、蘭丸の墓もそれぞれ立派な寺に設けられることが決まったと聞く。ならばわたくしはここに、わたくしだけの“墓”を作ろう。

女の細腕で、ようやく出来た小さな穴に、それまで肌身離さず持っていた懐剣を埋めた。この国に嫁いでくる際、父から手渡された短刀。

『もし信長が真のうつけ者であったなら、そなたがこの刃で夫を殺せ』

今となっては懐かしい、しわがれた父の声が耳の奥に木霊する。

『……わかりました。しかし、もしわたくしがその大うつけを愛したなら、この刃、父上に向くことになるかもしれませぬ』

微笑んで答えたわたくしに、父は声を上げて笑ったものだった。

「でもまさか、想像もしませんでしたわ、父上。この刃を自らの胸に向けようと思う日が来るなんて」

苦笑しながら、古びた刀に土をかける。もしわたくしが、この刃を己の胸に突き刺してしまったら。殿の想いにも、蘭丸との約束にも背くことになると、わたくしは痛いほど解っている。

「分かりやす過ぎるのも、困りものね……」

遠い都で最期を遂げた二人の男を思い浮かべながら溜め息を吐く。

「愛しているわ。愛しています。故郷の美濃より、父上さまより……ずっと、ずっと。あなた方の分まで、わたくしが言います。生きている時に伝えられなかった分まで、これからは、わたくしがずっと……」

わたくしは殿を愛していた。わたくしは蘭丸を愛していた。
殿はわたくしを愛していた。殿は蘭丸を愛していた。
蘭丸は殿を愛していた。蘭丸はわたくしを愛していた。

自惚れなどではない、確かな事実。誰も知らない、わたくしたちだけが知る、何よりも苦くて、何よりも甘美な蜜の味。

わたくしは一人、懐剣を埋めた“墓”に向かって合掌し、黙祷を捧げた。


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その後の彼女の行方は、誰も知らない。愛した男たちの後を追うように命を絶ったのか、尼となって彼らの魂を弔う道を選んだのか、“信長の正室”という檻の中に最後まで留まり続けたのか……。

人の想いなど置き去りにして、愛など置き去りにして、歴史は流れゆく。美濃の蝮・斎藤道三の娘、天下人に最も近づきながら夢敗れた男・織田信長の正室、濃姫の姿もまた、その激流の中に呑まれ、消えていった儚きひとひらの花弁であった。




 



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