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「のう蘭丸。そなた、女子(おなご)を抱いてみたくはないかえ?」
小姓として仕える主・信長殿の正室……濃姫様に声をかけられたのは、私が数えで十四の年を迎える頃のことだった。縁の淵に腰掛け、何ということはなしに庭を眺めておいでのその方の前を横切るのはいささか無礼にあたる気がしたが、殿からの急ぎの呼び出しでは仕方がない。頭を下げて通り過ぎようとした私に、不意に投げかけられた言葉。
「御台(みだい)様……何を」
普段人形のように黙して佇んでいるその人の口から、唐突に発せられた余りにも不躾な言葉に戸惑いを露わにすれば、四十を過ぎたというのにどこか少女めいた愛らしい美貌がほころんだ。
「いえね、殿が余りにもそなたにご執心で片時もお傍を離そうとしないものだから、年頃の男子(おのこ)が学ばねばならぬ“正しい”子作りの法を経験する暇(いとま)も無いのではないかと思って」
声を立てて笑う美しい顔(かんばせ)に、己の顔が耳まで朱に染まっていくのが分かる。
「そ、それは……御台様にご心配いただくようなことではございませぬ!」
羞恥に堪えきれず叫んでしまってから、寂しそうに微笑む彼女の表情(かお)を見て、少しだけ胸が痛んだ。数え十五で殿の元に嫁いできた、美濃の蝮の姫君。気位が高く、嫁ぐ際に父から手渡された短刀を常に肌身離さず身に帯びている、と噂される彼女の居室に、殿の訪れは滅多に無い。殿と盟約を交わしていた御父君が亡くなられ、側室の生んだ若君が世継ぎと定められてからは、正室としての権威すら確たる所在を失い、周囲から忘れられたようにひっそりと過ごしている女性。
「ふふ、ごめんなさいね。からかいすぎたわ、蘭丸。もし殿から少しでもお暇をいただく機会ができたなら、またわたくしのところにも顔を出して下さると嬉しいわ」
濃姫様は孤独だ。近くに親族の大勢いる側室たちとは違い、他国から嫁いできた身で、子もなく、殿の寵愛もない。側室たちの誰も、家臣の誰も寄り付かない。そんな彼女に、同情してしまったのかもしれない。久方ぶりに許された余暇に、殿から下賜された異国の菓子を携えてあの庭を訪ねてしまった理由は。
「まぁ、蘭丸。本当に来てくれたのね、嬉しいわ」
にっこりと私を出迎えるその人の顔に、先日のような憂いは欠片も見当たらない。ところが土産に差し出した菓子を見た瞬間、彼女の表情は一瞬強張り、すぐにまた取り繕うような笑顔へと戻った。
「ありがとう、蘭丸。今日はわたくしのところにも珍しい京菓子が届いたのですよ。まずはそちらをいただいてから、こちらの菓子をいただくことに致しましょう」
その時の濃姫様の微妙な態度の変化に気付けなかったことを、私は後々まで後悔することになる。
濃姫様が出して下さった菓子は見目も綺麗で味も美味しく、甘いものが余り得意ではない私でもすんなりと口にすることができる上品な味だった。先日突飛もないことを言われたせいでつい構えてしまっていた彼女との会話も和やかに進み、そろそろ暇を申し出ようかとしたときだった。急に身体から力が抜け、その場に崩れ落ちた私に、濃姫様が妖しい微笑を湛えながら近づいてきたのだ。
「どうかしたのですか? 蘭丸」
「いえ、何でもございまっ……」
必死に姿勢を正そうとする身体が、段々と熱を持っていく。この感覚には覚えがある。あれは、初めて殿のお相手を務めたときの……!
「思ったより効きが遅かったようですね。耐性でもあるのかしら? 憎らしいこと」
私の顎を持ち上げて硝子玉のように感情のこもらぬ瞳でこちらを見る濃姫様の言に、私は予想通り己が一服盛られたことを知る。
「ああ、綺麗な白い肌にこんなに醜い痕が……まったく、殿も趣味がお悪いこと」
自らの吐息だけが漏れる静かな部屋で、濃姫様は次々と私の着物を肌蹴ていく。
「のう蘭丸? そなたも男なら、女を抱いてみたい、と思うじゃろう? わたくしとて同じ。女なればこそ、男の肌を知ってみたいと思う。故に、これは利害の一致。殿への裏切りなどではない、復讐なのじゃ。そなたを抱き続け、わたくしを抱かぬ殿への。だから蘭丸、己を責めるでないぞ? 悪いのは全て殿。殿が、全ての因果を作り出したのだから」
思考がぼんやりと陰り、熱に浮かされたまま温かい体内に迎え入れられる瞬間、濃姫様は苦しそうに眉根を寄せた。そうして私は知ったのだ、濃姫様が一度も殿と褥を共にしたことがないという事実を。濃姫様が私の初めての女子となったのと同じように、私もまた、濃姫様の初めての男子となってしまったのだということを。
「蘭丸、女を抱きとうなったら、またいつでも来るが良い。ここなら滅多に殿には知られぬ。また殿が気付いたとしても、早々簡単に文句は言われぬ場所であろうからな」
ぞっとするほどの色香を纏った彼女の微笑みに、こくりと頷いたのは条件反射のようなものだった。けれどそれから二度、三度と間を置かず、私はその庭に足を運ぶようになってしまった。
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「お濃! お濃はおるか!」
殿が突然足音を荒立てて自らの正室の居室に踏み込んできたのは、それから一月が過ぎたころのことだった。その日の私たちは情事にもつれ込むことはせず、庭を眺めながら静かに茶をいただいているところだった。
「蘭丸……やはりここだったか!」
殿が酷く鋭い眼差しで睨むので、思わず震え上がってしまった私に濃姫様はやんわりと微笑んで、殿へと呼びかけた。
「おやおや、わたくしに用があって参ったのではなかったのですか?」
「……お濃、蘭丸は連れ帰るぞ。今後二度とこの部屋に蘭丸を近づけるな」
殿に袖を引かれて立ち上がらされ、ビクリと怯える私とは反対に、濃姫様は鷹揚に溜め息を吐き出してみせた。
「あらまぁ、随分早く知られてしまったこと。大変ですわね、蘭丸。殿は嫉妬深くていらっしゃるから……」
悪戯に嗤う濃姫様の言葉の裏を少しも気づかぬまま、いきり立つ殿に引きずられ、いつにも増して激しい折檻のような情交を行われた翌朝。枕元には濃姫様からの薬と、以前彼女の元に持参したあの異国の菓子がひっそりと置かれていた。
『昨夜はわたくしのせいでご迷惑をおかけしてしまい、御苦労さまでございました。実はこの菓子、差出人は分かりませねどわたくしの元にも届けられておりましたので、蘭丸殿にお返し致します。明日にはお身体が快方に向かわれますよう、お祈り申し上げております』
菓子に添えられたその文(ふみ)を見た途端、痛む腰も構わずに部屋を飛び出していた。一目散に目指すのは、昨日主から出入りを禁止されたばかりの濃姫様の庭。いつもと変わらずに縁に佇む彼女が私を見つけ、やはりゆったりと微笑んだ。
「あの菓子は……あの菓子を私に下さったのは、」
途切れる息を必死に整えながら紡ごうとした言葉を、濃姫様は唇に人差し指を当てて止めた。
「いいのよ、蘭丸。わかっています。昔からそうなのよ、あの方は。だからわたくし、気になっているの。昨日の殿は……」
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「一体どちらに嫉妬されていたのですか?」
夜の帳も降りた深夜、常のように己の身体を撫で回しながら一つ一つ痕を刻んでいく殿に、昼間の濃姫様の問いを投げかける。
「何故、御台様に触れられないのですか?」
真顔で問いかけた私に、殿は一瞬驚いたように手を止めた。
「そなた……また、お濃に会いに行ったな」
「行きました。私は殿をお慕い申しております。それと同じように、御台様のこともお慕い致しました。ですから正直にお答えいただきたいのです。殿は一体あの方を、どう思っておいでなのですか……?」
「……わからぬ、蘭丸。あれは蝮の娘。その身に毒を宿した女。一度触れてしまえば、身体も、心も全てを丸ごと喰らっていく。のう、そうではなかったか? あれの身体は……」
苛烈な炎を宿した殿の瞳に、私は問いの答えを知った。
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「どうでしたか? 蘭丸。殿には答えていただけた?」
翌日も再び濃姫様の庭を訪れた私に、彼女はまたのんびりとした調子で話しかけてきた。
「直接質問に答えてはいただけませんでした。ですが……」
「答えは解ったと、そういうことね?」
初めから全てを知っていたかのように、濃姫様が笑う。
「あなたはもうこちらに来ない方が良いでしょう、お互いの命のために。あの方は本当に、独占欲の強い方だから」
濃姫様はそう告げて立ち上がり、庭に下りて私の傍まで寄ってきた。
「わたくしは殿のお傍に在ることは叶いません。殿がそう望まれたから。殿がわたくしを“わたくし”のまま、ここに閉じ込めておくことを望まれたから」
それが、殿の濃姫様への愛。哀しくて惨い、殿の愛し方の一つ。
「ですから蘭丸、そなただけはどんなことがあっても殿のお傍に侍り続け、最後の時まで殿をお守りしなさい。いいですか、これはわたくしからの命令で、約束です」
私の手をしっかりと握りしめ、艶然と微笑んだ彼女の言葉に力強く頷く。初めて知った白くまろやかな身体の持ち主、初めて愛した女性、そして永遠を誓った主の正室……それが、濃姫様と私の最後の邂逅であった。
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それから四年が経った京の都、本能寺にて。蘭丸は濃姫との約束を守り、数え十八の若さで主と共にその命を散らすことになる。
→後書き
続編SSS『花ひとひら』(濃姫視点・本能寺の変後)
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「ハンス様、こちらが本日届いたお手紙にございます」
「ああ、そうか。そこへ置いておいてくれ」
「今宵の晩餐のメインディッシュはいつもの通り料理長に任せてしまってよろしゅうございますか?」
「ああ」
「そうそう、言い忘れておりました。昨日、フランスのコンコルド広場においてカペー未亡人が処刑されたそうでございます」
「……そうか」
「間違えて足を踏んでしまった死刑執行人に告げた謝罪が、最期の言葉であったようですよ」
常の通り淡々と用事を済ませ、去って行った家令の消えた扉を見やる。昨年の初め、長らく己に目をかけてくれていた先王陛下が亡くなり、このスウェーデンの国主が代替わりしてからは、政治や社交界の表舞台からすっかり遠ざかり隠居も同然の生活をしていた。
『ごめんなさい。わざと踏んでしまったわけではないのです。お靴は汚れていらっしゃらないかしら……?』
そんな私の凍りついた心の奥に、鼓膜をくすぐる白い羽根のように柔らかな声音が蘇る。簡単に想像がつく、今際の際の彼女の言葉。最後まで、本当に馬鹿な女だった。
「ふふっ……あはははは!」
数か月ぶりに、声を伴う笑いが漏れる。同時に頬を伝う雫には、気づかないふりをして瞼を覆う。季節は既に少し肌寒く、山々の木々が暮れの色に染まりゆく秋。カペー未亡人、元フランス国王妃マリー・アントワネット。彼女と最後に会ったのは何時のことだったか。私の恋が、愛が、夢が永遠の眠りについてしまったのは。
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彼女と初めて出会ったのは、もう二十年近く前の冬のことだった。外気の寒さが嘘のように熱気に溢れた仮面舞踏会の会場で、誰よりも華やかな輝きを放っていた瑞々しい少女。その正体はすぐに知れた。彼女は、私の目の前でその仮面を外してしまったから。その場にいた誰もが気付いていた少女の真の名は、マリー・アントワネット。私が、国王陛下より「籠絡し意のままにせよ」との命を受けたフランス王太子妃、その人だった。ところが私は、情けないことに国王陛下より賜った任務を果たすことが出来ない、とその瞬間に悟ってしまった。彼女を誘惑する前に、虜にする前に、私自身が一目で恋に落ちてしまったから。
スウェーデンの名門貴族の家に生まれ、欧州各地を旅し、沢山の女性に持て囃されてきた私が初めて知ったその想いは、余りにも激しく、苦いものだった。マリー・アントワネットは熱しやすく冷めやすい、そして優しく残酷な女性だった。フランスの宮廷中に醜聞が立つほどに私を求めたかと思えば、時にはそれを恐れ、時には側近たちに唆されて私を遠ざけた。また、私自身も彼女に溺れることを怖れ、彼女を傷つけてしまうことを畏れ、何度も、何度も傍を離れようとした。けれど、私たちは結局いつも、互いの元へ戻ってきてしまう。恋しくて、苦しくて、あの広い宮殿の隅で彼女がたった独り、涙をこぼしているような気がして。彼女は、馬鹿な女だったから。
オーストリア女帝の末娘として、誰からも可愛がられて育った純粋で天真爛漫な皇女。故に疑うことを知らず、耐えることを知らず、そして欺くことを知らなかった。王妃という立場にある彼女を利用するために集まってきた人々を、単純な寂しさゆえに受け入れた。我欲に塗れた彼らの勧めるまま、次々と豪奢なドレスをあつらえ、高価な宝石を集め、危険な賭けごとに興じた。宮廷の喧騒に疲れ果てた彼女が造った小さな隠れ家に、莫大な国家費用が投じられたことを少しも知らぬまま、そこに籠りきってはふざけた芝居を演じ、のどかな歌を歌い続けた。
聞くに堪えない尾ひれのついた噂を立てられても、臣に諌められても、愛人(わたし)との関係を決して断ち切ろうとはしなかった。
革命が起きていることを知っていて、己が一番憎まれていることを知っていて、暴徒の前に姿を現し深々と礼をした。革命の波が押し寄せるにつれ、次々と去っていく側近たちの一人一人に心から名残を惜しみ、恨み言の一つも言わなかった。最初に彼女を助けようとした、ヴァレンヌの時も。確実に逃がすために綿密に計画を練り、国王一家を別々に乗せるための小さな古びた馬車を数台用意したにも関わらず、「夫や子供と一緒でなければ意味がないのだ」と大きな目立つ馬車に乗り換え、結果全員が見つかり、再び捕えられてしまった。最後の手段として幽閉されていた宮殿に忍び込んだ時も、愛するもののために、守りたいもののためにここに残るのだ、と私を拒絶した。
最後まで、欲しいものをくれなかった。欲しがっているものに手を伸ばしてはくれなかった。
彼女は、私を好いてくれた。彼女は、私に恋をしていた。それだけは確かな事実だった。否、ただ“それだけ”が。
だが、私は違った。私が欲しかったものは違うのだ。私は彼女を愛していた。私は、彼女に愛されたかった! そして彼女も、それを望んでくれていたはずなのに――
初めて出会ったあの時、私は確かに恋をした。いつも、いつでも彼女を奪ってしまいたかった。王太子から、フランスから、彼女自身から。彼女を手に入れたくて、手に入れたくて堪らなかった。
出会いから時を経て、彼女が国王と真に結ばれ、待ち望まれた王の子を生み。妻として夫を労り、母親として子供たちを慈しみ、日に日に質素な装いへと移ろっていく彼女の姿を、私は見つめ続けてきた。彼女が国王を、王子たちを、そしてフランスという国を愛していく様を目の当たりにしてきた。そうしていつの間にか私は、彼女の愛するものごと彼女を愛したい、と願うようになっていた。
愛は果てがない。どこまでも一方的で、優しく、そして哀しい。彼女は愛することを知り、愛されることを望んでいた。だから私はそんな彼女の想いに応えようと思った。我儘で身勝手な想いを、馬鹿な女の願いを、叶えてやりたかった。愚かだった。「王妃を操り、革命を利用しろ」との陛下の言を無視し、自国の国益など考えもせず、ただフランスの革命を止めることに必死だった。陛下に見捨てられ、スウェーデンの貴族社会で浮いた存在となっても少しも構わないとすら、真剣に思っていた。
彼女が大声で私に助けを求めてくれたなら、彼女が泣きながら私に愛してほしいと縋ってくれたなら、彼女が今愛している全てのものを投げ捨てて私を、私だけを愛してくれたなら! 例えこの身が民衆に殴打されようと、捕えられてギロチンの餌食となろうと、醜い肉塊と変わり果ててでも彼女の元に駆けつけただろう。それなのに、彼女は最後まで私に、「愛している」とは告げてくれなかった。
『あなたはわたくしの誰よりも大切なお友達よ。ありがとう、フェルセン伯爵』
最後のキスは唇ではなく、薔薇の香りと共にそっと頬を掠めただけ。痛ましげに微笑む彼女の夫が、傍らで見守っていた。そうして私の時間(とき)は止まった。二度と見ることの出来ない、長く儚い夢だった。
スウェーデンに戻ったとき、陛下の傍には既に別の男が侍り、やがては陛下自身も薨去され、私はこの屋敷に籠ったまま、季節の移ろいを感じ取ることもなく人形のように過ごしてきた。一切の感情を排し、美しい夢の形見だけを抱いて死んでいけると、そう信じていたのに。家令の告げたたった一言、貴女の死が、貴女の思い出が、貴女の声が、私を現(うつつ)へと引き戻す。
ああ、憎い。貴女に愛された国王が、王子たちが、フランスが!
ああ、こんなものはちっとも愛ではない。愛ではないではないか、私は少しも貴女を愛せてはいなかった。何故なら私はこんなにも、貴女を……革命から、あの血に飢えたギロチンから、全てから奪いたかった! 守りたかった! 愛したかった! 愛して、愛し続けていたかった! ……最後まで美しく、馬鹿な貴女を。
「本当に愚かだな……この世に、綺麗なだけの愛が存在すると信じていたなんて」
止まらない自嘲に不審を感じた家令が駆け付けるまで、私は独り泣きながら嗤い続けた。愚かな男の、最後の想いの発露だった。
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