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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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【2024/05/10 (金) 17:55】 |
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長くなってごめんー
U
宗教っていう概念があると争いも起きるけど、それを中心に社会が団結したりもするよね。欧州の建造物ですごいものは宗教関連の物が多いし、それだけ求心力も集金力もあったのだなぁって圧倒されちゃう。神秘的で穏やかな空間は宗教関係なく居心地が良くて好きだけど。
中絶反対や死刑廃止という意見も宗教の考えが背景の一つにあるけど、現代日本は宗教色が薄いから日本人のそういう問題に対するマジョリティの考えはどこからきてるんだろう、と不思議に思う。別に批判的に思ってるわけじゃなくて、ただ不思議だなぁって。
私も無宗教であることに特にコンプレックスを感じる必要はないと思っているほうだけど、宗教を持ちたくなる気持ちも分かるかな、というか神様にすがりたくなる気持ちが分かる。それだけが信仰の理由じゃないと思いますが。
あ、『聖☆おにいさん』、大英博物館に展示され
ているらしいよ!表現の自由と信教の自由は学界でも大きなトピックの一つなので、どういう風に受け止められるか気になるところです。


なるほど。
U
情かぁ・・・情はどこからくるのだろう・・・。日本のマスコミは左右とか話題とか関係なく偏っているんじゃないかと思うことがしばしばあるよ。考えを押し付ける報道の仕方が残念だなぁと思うこともしばしば。日本人はマスコミに対してだけじゃなくNOをあまり突きつけない風潮があるからね。
宗教について言えば、きっと内側の人も外側の人の考えは分からないのだろうね。どちらの視点も存在する以上、同じくらい尊重されてしかるべきだと思うよ。私みたいな中途半端も含めて。
とりあえずは漫画をきっかけに笑いの輪が広まってくれると良いなぁと思う次第です☆


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ちょっと宗教っぽい小ネタ。信仰をお持ちの方はご注意ください。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 いのらせてください。祈らせて下さい。あなたを信じぬ私に、祈ることをお許し下さるならば。あの人の神よ、彼らの信じ給う神よ。どうかあの人に安らぎを、どうか彼らに平和を。祈らせて下さい。あなたが最も憎んだものを、あなたがあの人に、彼らにもたらすこと無きように。
 
 
~~~
 
 
 砂塵舞う町の片隅で、シスター・マリアは祭壇に祈りを捧げていた。だが彼女が祈るのは、その祭壇に掲げられるべき神ではない。彼女が洗礼を受けた教えの中では邪と称される“異教”、この国の“神”に向かってだった。礼拝堂の扉の外からは、絶え間なき銃声と爆音がこだましている。マリアの見つめる先にあるものも、祭壇とは名ばかりの砕かれた石の塊。引き裂かれた布がその上に情けなく垂れ下がり、燭台は折られて床に転がっていた。木の枝で作られた小さな十字架が、かろうじて石の鎮座する部屋の目的を明確にしている。幾度押し入られ、破壊され、虐げられたことか。脳裏に過ぎる凶悪な暴徒の顔は、瞳を輝かせた純朴な青年のそれと重なる。彼らほど一途な心を持った信徒たちを、マリアは知らない。
 
 国教とは異なる洗礼をマリアが受けた理由は、彼女が“神”を信じられなかったせいだった。神を信じる者と信じぬ者の境界は“死後”にあるのだとマリアは思う。彼女の想像は死後の世界に及ばない。死んでしまえば人は無に帰す。仮に輪廻転生などというものがあるにしても、記憶も受け継がず育った環境も違う“魂”とやらを同一の存在とは見なせない。加えてマリアは神の“力”にも興味が持てなかった。世界を創り、人を導き、自然を操る。全てを統べる存在などありえない。一つの国の中でさえ、完璧な王などいないのだから。
 人々が祈りを捧げる時間、マリアは目を閉じたままそんなことばかり考えていた。人々が食を断つあいだは、人目につかぬ高い木の上でその実を貪った。人々が戒律に反した者を罰する光景に際しては、罵声を浴びせる周囲に同調することもせずぼんやり冷めた眼差しを注いでいた。水に浮いた油のような少女は留学の名目で外へ飛び出す。そこで初めて彼女は“異教徒”――日々の祈りすら捧げず掟の一つも持たぬ者たちに出会った。
 恐ろしくないのか? 全てを見通し裁く者の存在を信じながら自由気ままに、欲望のまま生を貫くことは。問うたマリアに、彼らは告げた。神を信じることそれ自体が救いを得る所以なのだと。強い衝撃を受けた彼女は自らの意思で洗礼を望んだ。知りたくなったのだ、彼らの“神”の慈悲深さを。修道院に入り、誓願を立てたマリアと家族の絆は断たれた。それでも彼女は、危険を押して懐かしい故郷に帰って来た。この地に在っては“異端”とされる教会に仕えるために。
 
 周囲の反発は凄まじかった。飛んでくる石つぶてに教会の窓は割れ、道を歩けば唾を吐きかけられる日々。時には室内に幾人もの男たちが押し入り、祭壇もオルガンも、机も椅子も滅茶苦茶に壊された。それでも、ひっそりと足を運び、賛美歌に耳を傾けてくれる人々がいた。美しい少女の二人連れ。薄汚れた服を纏った孤児。気の良い八百屋の青年……現在(いま)の国に、そこに根づく教えに、掟に少なからぬ息苦しさを感じていた彼らは、新しい空気を教会に求めたのだった。マリアは彼らに寄り添い、糧を与え、語りかけながらその内に己の姿を見出すようになった――彼女が真に望んだものの答えを、自らが誓いを立てた理由(わけ)を。
 同時に、国に帰って初めて気づけたこともあった。人々の“神”に対する頑ななまでの一途さ。口先だけで神に祈り怠惰を貪る者たちよりも、日々戒律を満たすことだけを考え生きる故郷の人々にマリアは共感と憧憬を覚え、そんな己に驚いたのだ。彼女が最も厭ったはずの、馴染めなかった信仰の情景。それを羨み、愛しく思う気持ちを素直に受け止める自分自身に。真っ直ぐな瞳、屈託のない笑顔。ありふれた営みの中に当たり前のように息づく祈り。マリアが二度と手にすることができぬもの。信ずるものの存在はこれほどまで人の心を潤し、そしてまた一瞬で干あがらせてしまうこともできる――
 
 マリアは今、以前とは違う理由で“神”を信じられなくなっていた。この国の神のみならず、彼女が誓いを立てた神も同様に。そんな己の心を、マリアは何よりも疑わしく感じてしまう。内にくすぶる澱んだ思いは囁きかける――神は誰の魂も救わない。戒律を守って戦いに斃れゆく若者たちも、最後まで信仰を貫いた青年たちも。彼らは引き裂かれ、虐げられ、傷つき、そして滅んでいった。彼らは天の国で祝福を得たというのだろうか? 人は死ななければ幸せになれぬというのか? 現実は、生は確かに余りに惨い。では“神”を、“天の国”を求めることは、生きて在る世からの逃避ではないのか?
 澱を払うように、マリアは扉を振り返る。騒がしい銃声は鳴りやまず、人々の怒号と悲鳴が合間に響く。信ずるものを否定された時、人間は寛容を失う。砂漠に見出した唯一つのオアシスが幻だと告げられたら、旅人はどんな感情を抱くのだろうか。彼の行き来た荒野の果てを指差して、あれこそが真の泉だと告げられたとしたら。水の無い砂漠でいつまでも辿り付けぬ蜃気楼を作り出しては人を惑わす存在が神だとしたら、余りに虚しいではないか。先の見えぬ砂嵐に、ただただ翻弄される旅人の道行きは。
 辿りついた“神”への答えは、乾ききった彼女の胸に鋭く重い痛みを生んだ。ドン、ドンと扉を穿つ音が聞こえる。終わりの時は近いのかもしれぬ。天国にも地獄にも行けぬ己の“死後”を思い、マリアは嗤った。
 
「くだらない……本当に、馬鹿みたい」
 
 ふと見上げた窓から差し込む光に、マリアは幼き日の夢想を思い起こす――触れられぬ幻を追う道行きよりなら、立ち止まって砂の一粒を握りしめることの方を確かに選んだ己だった。修道女の黒いベールがなだらかな肩を滑り落ちた瞬間、教会の扉は音を立てて開いた。















~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『聖☆おにいさん』がヨーロッパ圏で出るとか(゜Д゜)と驚いたので書いてみた。
日本人でもガチ無宗教でそのことにコンプレックス持ってる人間は少ないんじゃないかと思う。『Sin』→『映らない真実』→コレで自分の中では何となく繋がったような。一応ぼかして混ぜて創ってるので既存宗教とは別物とお考えくださいm(_ _)m

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 いのらせてください。祈らせて下さい。あなたを信じぬ私に、祈ることをお許し下さるならば。あの人の神よ、彼らの信じ給う神よ。どうかあの人に安らぎを、どうか彼らに平和を。祈らせて下さい。あなたが最も憎んだものを、あなたがあの人に、彼らにもたらすこと無きように。
 
 
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 砂塵舞う町の片隅で、シスター・マリアは祭壇に祈りを捧げていた。だが彼女が祈るのは、その祭壇に掲げられるべき神ではない。彼女が洗礼を受けた教えの中では邪と称される“異教”、この国の“神”に向かってだった。礼拝堂の扉の外からは、絶え間なき銃声と爆音がこだましている。マリアの見つめる先にあるものも、祭壇とは名ばかりの砕かれた石の塊。引き裂かれた布がその上に情けなく垂れ下がり、燭台は折られて床に転がっていた。木の枝で作られた小さな十字架が、かろうじて石の鎮座する部屋の目的を明確にしている。幾度押し入られ、破壊され、虐げられたことか。脳裏に過ぎる凶悪な暴徒の顔は、瞳を輝かせた純朴な青年のそれと重なる。彼らほど一途な心を持った信徒たちを、マリアは知らない。
 
 国教とは異なる洗礼をマリアが受けた理由は、彼女が“神”を信じられなかったせいだった。神を信じる者と信じぬ者の境界は“死後”にあるのだとマリアは思う。彼女の想像は死後の世界に及ばない。死んでしまえば人は無に帰す。仮に輪廻転生などというものがあるにしても、記憶も受け継がず育った環境も違う“魂”とやらを同一の存在とは見なせない。加えてマリアは神の“力”にも興味が持てなかった。世界を創り、人を導き、自然を操る。全てを統べる存在などありえない。一つの国の中でさえ、完璧な王などいないのだから。
 人々が祈りを捧げる時間、マリアは目を閉じたままそんなことばかり考えていた。人々が食を断つあいだは、人目につかぬ高い木の上でその実を貪った。人々が戒律に反した者を罰する光景に際しては、罵声を浴びせる周囲に同調することもせずぼんやり冷めた眼差しを注いでいた。水に浮いた油のような少女は留学の名目で外へ飛び出す。そこで初めて彼女は“異教徒”――日々の祈りすら捧げず掟の一つも持たぬ者たちに出会った。
 恐ろしくないのか? 全てを見通し裁く者の存在を信じながら自由気ままに、欲望のまま生を貫くことは。問うたマリアに、彼らは告げた。神を信じることそれ自体が救いを得る所以なのだと。強い衝撃を受けた彼女は自らの意思で洗礼を望んだ。知りたくなったのだ、彼らの“神”の慈悲深さを。修道院に入り、誓願を立てたマリアと家族の絆は断たれた。それでも彼女は、危険を押して懐かしい故郷に帰って来た。この地に在っては“異端”とされる教会に仕えるために。
 
 周囲の反発は凄まじかった。飛んでくる石つぶてに教会の窓は割れ、道を歩けば唾を吐きかけられる日々。時には室内に幾人もの男たちが押し入り、祭壇もオルガンも、机も椅子も滅茶苦茶に壊された。それでも、ひっそりと足を運び、賛美歌に耳を傾けてくれる人々がいた。美しい少女の二人連れ。薄汚れた服を纏った孤児。気の良い八百屋の青年……現在(いま)の国に、そこに根づく教えに、掟に少なからぬ息苦しさを感じていた彼らは、新しい空気を教会に求めたのだった。マリアは彼らに寄り添い、糧を与え、語りかけながらその内に己の姿を見出すようになった――彼女が真に望んだものの答えを、自らが誓いを立てた理由(わけ)を。
 同時に、国に帰って初めて気づけたこともあった。人々の“神”に対する頑ななまでの一途さ。口先だけで神に祈り怠惰を貪る者たちよりも、日々戒律を満たすことだけを考え生きる故郷の人々にマリアは共感と憧憬を覚え、そんな己に驚いたのだ。彼女が最も厭ったはずの、馴染めなかった信仰の情景。それを羨み、愛しく思う気持ちを素直に受け止める自分自身に。真っ直ぐな瞳、屈託のない笑顔。ありふれた営みの中に当たり前のように息づく祈り。マリアが二度と手にすることができぬもの。信ずるものの存在はこれほどまで人の心を潤し、そしてまた一瞬で干あがらせてしまうこともできる――
 
 マリアは今、以前とは違う理由で“神”を信じられなくなっていた。この国の神のみならず、彼女が誓いを立てた神も同様に。そんな己の心を、マリアは何よりも疑わしく感じてしまう。内にくすぶる澱んだ思いは囁きかける――神は誰の魂も救わない。戒律を守って戦いに斃れゆく若者たちも、最後まで信仰を貫いた青年たちも。彼らは引き裂かれ、虐げられ、傷つき、そして滅んでいった。彼らは天の国で祝福を得たというのだろうか? 人は死ななければ幸せになれぬというのか? 現実は、生は確かに余りに惨い。では“神”を、“天の国”を求めることは、生きて在る世からの逃避ではないのか?
 澱を払うように、マリアは扉を振り返る。騒がしい銃声は鳴りやまず、人々の怒号と悲鳴が合間に響く。信ずるものを否定された時、人間は寛容を失う。砂漠に見出した唯一つのオアシスが幻だと告げられたら、旅人はどんな感情を抱くのだろうか。彼の行き来た荒野の果てを指差して、あれこそが真の泉だと告げられたとしたら。水の無い砂漠でいつまでも辿り付けぬ蜃気楼を作り出しては人を惑わす存在が神だとしたら、余りに虚しいではないか。先の見えぬ砂嵐に、ただただ翻弄される旅人の道行きは。
 辿りついた“神”への答えは、乾ききった彼女の胸に鋭く重い痛みを生んだ。ドン、ドンと扉を穿つ音が聞こえる。終わりの時は近いのかもしれぬ。天国にも地獄にも行けぬ己の“死後”を思い、マリアは嗤った。
 
「くだらない……本当に、馬鹿みたい」
 
 ふと見上げた窓から差し込む光に、マリアは幼き日の夢想を思い起こす――触れられぬ幻を追う道行きよりなら、立ち止まって砂の一粒を握りしめることの方を確かに選んだ己だった。修道女の黒いベールがなだらかな肩を滑り落ちた瞬間、教会の扉は音を立てて開いた。















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『聖☆おにいさん』がヨーロッパ圏で出るとか(゜Д゜)と驚いたので書いてみた。
日本人でもガチ無宗教でそのことにコンプレックス持ってる人間は少ないんじゃないかと思う。『Sin』→『映らない真実』→コレで自分の中では何となく繋がったような。一応ぼかして混ぜて創ってるので既存宗教とは別物とお考えくださいm(_ _)m

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【2011/02/07 (月) 22:56】 | SSS(小ネタ)
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長くなってごめんー
U
宗教っていう概念があると争いも起きるけど、それを中心に社会が団結したりもするよね。欧州の建造物ですごいものは宗教関連の物が多いし、それだけ求心力も集金力もあったのだなぁって圧倒されちゃう。神秘的で穏やかな空間は宗教関係なく居心地が良くて好きだけど。
中絶反対や死刑廃止という意見も宗教の考えが背景の一つにあるけど、現代日本は宗教色が薄いから日本人のそういう問題に対するマジョリティの考えはどこからきてるんだろう、と不思議に思う。別に批判的に思ってるわけじゃなくて、ただ不思議だなぁって。
私も無宗教であることに特にコンプレックスを感じる必要はないと思っているほうだけど、宗教を持ちたくなる気持ちも分かるかな、というか神様にすがりたくなる気持ちが分かる。それだけが信仰の理由じゃないと思いますが。
あ、『聖☆おにいさん』、大英博物館に展示され
ているらしいよ!表現の自由と信教の自由は学界でも大きなトピックの一つなので、どういう風に受け止められるか気になるところです。


なるほど。
U
情かぁ・・・情はどこからくるのだろう・・・。日本のマスコミは左右とか話題とか関係なく偏っているんじゃないかと思うことがしばしばあるよ。考えを押し付ける報道の仕方が残念だなぁと思うこともしばしば。日本人はマスコミに対してだけじゃなくNOをあまり突きつけない風潮があるからね。
宗教について言えば、きっと内側の人も外側の人の考えは分からないのだろうね。どちらの視点も存在する以上、同じくらい尊重されてしかるべきだと思うよ。私みたいな中途半端も含めて。
とりあえずは漫画をきっかけに笑いの輪が広まってくれると良いなぁと思う次第です☆


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この記事へのコメント
長くなってごめんー
宗教っていう概念があると争いも起きるけど、それを中心に社会が団結したりもするよね。欧州の建造物ですごいものは宗教関連の物が多いし、それだけ求心力も集金力もあったのだなぁって圧倒されちゃう。神秘的で穏やかな空間は宗教関係なく居心地が良くて好きだけど。
中絶反対や死刑廃止という意見も宗教の考えが背景の一つにあるけど、現代日本は宗教色が薄いから日本人のそういう問題に対するマジョリティの考えはどこからきてるんだろう、と不思議に思う。別に批判的に思ってるわけじゃなくて、ただ不思議だなぁって。
私も無宗教であることに特にコンプレックスを感じる必要はないと思っているほうだけど、宗教を持ちたくなる気持ちも分かるかな、というか神様にすがりたくなる気持ちが分かる。それだけが信仰の理由じゃないと思いますが。
あ、『聖☆おにいさん』、大英博物館に展示され
ているらしいよ!表現の自由と信教の自由は学界でも大きなトピックの一つなので、どういう風に受け止められるか気になるところです。
2011/02/09(水) 01:35 |   | U #6c6ffd1db0[編集]
[管理者用 返信]
コメントありがとう
個人的な話をすると、うちは親が宗教完全否定な人間なので逆に“信仰を持たない状態”を意識するようになったのかも。好きな本や映画もほとんど神の存在を前提に書かれているのに、自分は根本的なところでそこに出てくる社会や人物について理解できないジレンマみたいなものが昔からあって。外側からシステムについて考えることはできても内側の気持ちを知ることは無理なんだよね。
日本人は宗教や思想よりも情で動いてる気がする。メディアにも影響されやすいし(これはどこの国でもそうかな?)余りにも流されやすいので、本当は日本に完全なるマジョリティなんて存在しないんじゃないか、と思う時もあるし。
さすが大英博物館!作者さんはやっぱ抵抗あったみたいだけど、説き伏せた編集さんの熱意パネェと思いました(^^;
2011/02/09(水) 18:44 | ケイト

なるほど。
情かぁ・・・情はどこからくるのだろう・・・。日本のマスコミは左右とか話題とか関係なく偏っているんじゃないかと思うことがしばしばあるよ。考えを押し付ける報道の仕方が残念だなぁと思うこともしばしば。日本人はマスコミに対してだけじゃなくNOをあまり突きつけない風潮があるからね。
宗教について言えば、きっと内側の人も外側の人の考えは分からないのだろうね。どちらの視点も存在する以上、同じくらい尊重されてしかるべきだと思うよ。私みたいな中途半端も含めて。
とりあえずは漫画をきっかけに笑いの輪が広まってくれると良いなぁと思う次第です☆
2011/02/11(金) 02:10 |   | U #6c6ffd1db0[編集]
[管理者用 返信]
Re:なるほど。
某番組で大相撲の八百長問題が取り上げられた際、「昔は人情相撲だったのに今じゃ金でやりとりするなんて・・・」という流れになったんだよね。そこであるタレントさんが「人情相撲なら八百長してもいいんですか?」ってツッコんだらスタジオがシーンとなってしまい、それが日本人の“情”的価値観を象徴しているように感じました。個人的には日本の特にテレビ局があんだけの数あるのに一つの事件に関してどの局も同じ捉え方しかしてないように見えるところが気になる。
宗教に限らず立場が違えばお互いに疑問や不安が生まれるもんだよね。根本的なことを見逃してました、ありがとう(-_-;
少しでも裾野が広がって盛り上がれる相手が増えたら楽しいよね!万が一見かけた際は是非レポよろしくお願いしますm(_ _)m
2011/02/11(金) 19:13 | ケイト

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