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タイトルが小難しいので深夜更新系のネタだよ(・∀・)b
一つ目はハフポの記事読んでペギー○と在.特会の本質はもしかしたら同じなのかもしれない、と感じた話。
もっと掘り下げると、欧州において長く差別されてきたロ/マやユダ○人も元々は「難民」と呼ばれるカテゴリーに含まれる人々だったんだろうな、って。(暮らしてきた土地を追い出され、さすらいの民族と化した点が)在.日もそう、たまたま戦時中本土(当時の半島の人の何割が「朝/鮮」という国のアイデンティティを残していたか分からないので向こうの方の怒りを招く表現かもしれないけれど、個人的には北海道・九州・沖縄辺りの人が本州を見る感覚に近かったのでは?と思っているのでこう記します)に留学、あるいは出稼ぎからの徴用なり、で滞在してたらいつの間にか光/復して日.本人じゃなくなってた上、帰るべき故郷が分断国家化してたでござる、という何とも可哀想な・・・(´Д`;) 戦後、政治的弾圧に巻き込まれて命からがら逃げてきた韓/国や台.湾出身の方々も、まさに「難民」と呼んで良い存在ではないかと考えます。
ぶっちゃけ戦後間もなくのウチは政府も個人も、こうした人々について国際的にどう分類されるべきなのか判断がつかなかった(けれどもちろん仮にもついこの間まで同じ「帝国」の一員だった彼らを追い返すという心情的な選択肢も湧きにくかっただろうし、実際彼らが熱心に事業を起こしたり復興の戦力に化けた面もある)+ウチが行った全ての「他国」への支配や徴兵・徴用などの行為が罪である、という方向へのG H Qの指導・統制・教育により彼らを否定的に見ること、彼らの置かれた立場やあるべき位置を客観的に捉えることが時が経ち世代を経るごとにとても難しくなってしまった。結果として戦後70年も経ち、分断した片方の国と国交が回復してから半世紀経た今もなお、日/本国籍を取得せず、韓.国民の義務である徴兵も免れ、どちらの国の人たちからも生ぬるい目で見られてしまう彼らの子孫が存在する、という特殊な状態が続いている。2世や3世にもなって、日/本語しか話せないのに祖国は半島、と主張しつつ何故かそちらには帰らない、大切なはずの祖国の若者が皆やらされている兵役の義務も果たさない、出身による差別云々以前に「こりゃどう見てもおかしいだろ」と感じる人が出てくるのは正直当然の成り行きだったのでは?
今回の欧州の難民騒ぎは余りに急激な増加のせいで問題の表面化が早く、それがある程度ペギー○という団体の主張をただの差別ではないものとして認めさせる要素にもなっているのかもしれない。かつての難民、ロ.マは未だに物乞いやスリをして暮らしていたり(子どもも!)、ユダ○系はやっと国を得たものの、今度は「虐げられてきた」反動のせいかナショナリズムが行き過ぎて周りは敵だらけ、欧州に残った人々も新世代の移民・難民であるイス○ム系テロの第一の標的にされてしまっていますよね。本当、不幸の連鎖や・・・と虚しくなる(-_-;)
私、昨日触れた言葉に関してもそうなんだけど人間が「意図的に」滅ぼしたり殺したり、っていうのは余計な反発や反動を生むだけで、絶対にやっちゃいけないことだと考えている節があって。ある言葉が気に食わないなら、自分は絶対にその言葉を使わないようにする、そうすると自分の周囲の人も余り使わなくなり、いつの間にか社会全体の死語になる、そういう方向性を目指していくべきなんじゃないの? 英でも日でも、古文読んでると消えていった表現や意味の変わった言葉がどれだけ多いか、ということに気づかされるから。気に食わない言葉があるなら、「運動」で社会的に即封じることを目指すんじゃなくて、まず仲間内から「ウチらの間では使わないようにしよう」って少しずつ意識を変えていくところから始めるのが正しいやり方なんじゃないかな? 他人に対して表現の在り方を強制することが例えその場で叶ったとしても、FやNワードって登場するとか、それに替わるスラングがまたすぐに出てくるだけ。完全に意味のないことだし、返って過激な歪みを生んでしまう危険があるのでは? 戦争・政策といった人間による作為的行動で大勢の人を追い出したり受け入れたり、動かしてしまう行為も結局は同じことですよね。そういうことが起きてしまえば誰も何も救われない。絶対にポジティヴな効果は出ないし、プラスの結末に到ることは難しい、と個人的には考えてます。
あともう一個、自分と親はこの分野において真っ向から意見が分かれる立場だけど、イデオロギーに対する絶望という点では近い感情を共有しているのかもしれない、と感じた件。
彼の理想とする主義を掲げた代表的な国家が、彼らが最も否定すべき(したはずの)全.体・軍/国主義そのものの国になってしまったこと。それは自.由主義に憧れた私にとって、今の「リベラリスト」が掲げる信条が「言論統制・封殺」の大きな政府・全.体主義に近い社会にしか思えないことと似ているんじゃないか、って(^^;
国家に全てを捧げよ、そうすれば国が「平等の権利」を守ってくれる、自分たちを西側に負けない強い立場へと導いてくれる、と信じる国民が、その中で生み出される凄まじい格差が憐れで・・・。一方でリベラリストを名乗る勢力は「とにかく国に逆らえ、国のやることを信じるな、だが表現の自由は政府の法律で規制させよ、可哀想な外国人は政府に訴えて無条件に受け入れろ」という非常に矛盾した、むしろアナーキスト寄りなんじゃないか、でも法律云々変えたがってるから一応国の枠組みというか政府の存在は欲しているのね?(´Д`;)といった方向に舵を切りつつあるという。何なん・・・何なんウチらが信じてた初めの理想って?という失望の気持ちがね!もしかしたら似てるのかもなー、なんて\(^O^)/
結論として人間に平等と自由は向かないというか、本質的にソレを望まない生き物だったりするのかな、と。歴史見ても、世界中で最も広く分布し、一番長く安定して継続できたシステムはまさに封建制だったじゃないですか。それの否定から入った近代、人類は進歩したと言えるのだろうか・・・とか考えてしまった。戦争のスパンが短くなる、ってことは無かったな。(一部先進国は戦場を他に移すことで最近までは割と安穏を享受できてたけど、テロの登場でそれも終了^^)医療の発展と飢えによって死ぬ率は確かに減ったかも。でも正直、そのことも含め技術の向上にはやっぱり戦争が欠かせなかったし、領主が宗主国や資本家や政治・宗教的指導者に変わっただけ、領土拡大目的が資源の確保や簒奪に変わっただけ、でやっぱり人はどんな統治形態であっても結局どこかで争いに駆り出されることに変わりはないよね、と。日/本は70年関わらずに済んでるけど、ほとんどの人が「社畜」って言葉が当たり前に通じるくらい企業様の奴隷状態に置かれているも同然なわけだし。
個人的にはどの場所でも封建時代の歴史が一番好きだったりするし、何も考えなくて良くて楽そうだな、と妄想することもあるんだけどさ・・・。何か、それでも人間が、私たちが安定よりも欲しがった自由って何だったんだ、そもそも自由を求めるくらいの感情をもたらした理由について考えた時、すっごく切ない気分になっちゃうんですよ今のリベラル派見ると(´-`)
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一つ目はハフポの記事読んでペギー○と在.特会の本質はもしかしたら同じなのかもしれない、と感じた話。
もっと掘り下げると、欧州において長く差別されてきたロ/マやユダ○人も元々は「難民」と呼ばれるカテゴリーに含まれる人々だったんだろうな、って。(暮らしてきた土地を追い出され、さすらいの民族と化した点が)在.日もそう、たまたま戦時中本土(当時の半島の人の何割が「朝/鮮」という国のアイデンティティを残していたか分からないので向こうの方の怒りを招く表現かもしれないけれど、個人的には北海道・九州・沖縄辺りの人が本州を見る感覚に近かったのでは?と思っているのでこう記します)に留学、あるいは出稼ぎからの徴用なり、で滞在してたらいつの間にか光/復して日.本人じゃなくなってた上、帰るべき故郷が分断国家化してたでござる、という何とも可哀想な・・・(´Д`;) 戦後、政治的弾圧に巻き込まれて命からがら逃げてきた韓/国や台.湾出身の方々も、まさに「難民」と呼んで良い存在ではないかと考えます。
ぶっちゃけ戦後間もなくのウチは政府も個人も、こうした人々について国際的にどう分類されるべきなのか判断がつかなかった(けれどもちろん仮にもついこの間まで同じ「帝国」の一員だった彼らを追い返すという心情的な選択肢も湧きにくかっただろうし、実際彼らが熱心に事業を起こしたり復興の戦力に化けた面もある)+ウチが行った全ての「他国」への支配や徴兵・徴用などの行為が罪である、という方向へのG H Qの指導・統制・教育により彼らを否定的に見ること、彼らの置かれた立場やあるべき位置を客観的に捉えることが時が経ち世代を経るごとにとても難しくなってしまった。結果として戦後70年も経ち、分断した片方の国と国交が回復してから半世紀経た今もなお、日/本国籍を取得せず、韓.国民の義務である徴兵も免れ、どちらの国の人たちからも生ぬるい目で見られてしまう彼らの子孫が存在する、という特殊な状態が続いている。2世や3世にもなって、日/本語しか話せないのに祖国は半島、と主張しつつ何故かそちらには帰らない、大切なはずの祖国の若者が皆やらされている兵役の義務も果たさない、出身による差別云々以前に「こりゃどう見てもおかしいだろ」と感じる人が出てくるのは正直当然の成り行きだったのでは?
今回の欧州の難民騒ぎは余りに急激な増加のせいで問題の表面化が早く、それがある程度ペギー○という団体の主張をただの差別ではないものとして認めさせる要素にもなっているのかもしれない。かつての難民、ロ.マは未だに物乞いやスリをして暮らしていたり(子どもも!)、ユダ○系はやっと国を得たものの、今度は「虐げられてきた」反動のせいかナショナリズムが行き過ぎて周りは敵だらけ、欧州に残った人々も新世代の移民・難民であるイス○ム系テロの第一の標的にされてしまっていますよね。本当、不幸の連鎖や・・・と虚しくなる(-_-;)
私、昨日触れた言葉に関してもそうなんだけど人間が「意図的に」滅ぼしたり殺したり、っていうのは余計な反発や反動を生むだけで、絶対にやっちゃいけないことだと考えている節があって。ある言葉が気に食わないなら、自分は絶対にその言葉を使わないようにする、そうすると自分の周囲の人も余り使わなくなり、いつの間にか社会全体の死語になる、そういう方向性を目指していくべきなんじゃないの? 英でも日でも、古文読んでると消えていった表現や意味の変わった言葉がどれだけ多いか、ということに気づかされるから。気に食わない言葉があるなら、「運動」で社会的に即封じることを目指すんじゃなくて、まず仲間内から「ウチらの間では使わないようにしよう」って少しずつ意識を変えていくところから始めるのが正しいやり方なんじゃないかな? 他人に対して表現の在り方を強制することが例えその場で叶ったとしても、FやNワードって登場するとか、それに替わるスラングがまたすぐに出てくるだけ。完全に意味のないことだし、返って過激な歪みを生んでしまう危険があるのでは? 戦争・政策といった人間による作為的行動で大勢の人を追い出したり受け入れたり、動かしてしまう行為も結局は同じことですよね。そういうことが起きてしまえば誰も何も救われない。絶対にポジティヴな効果は出ないし、プラスの結末に到ることは難しい、と個人的には考えてます。
あともう一個、自分と親はこの分野において真っ向から意見が分かれる立場だけど、イデオロギーに対する絶望という点では近い感情を共有しているのかもしれない、と感じた件。
彼の理想とする主義を掲げた代表的な国家が、彼らが最も否定すべき(したはずの)全.体・軍/国主義そのものの国になってしまったこと。それは自.由主義に憧れた私にとって、今の「リベラリスト」が掲げる信条が「言論統制・封殺」の大きな政府・全.体主義に近い社会にしか思えないことと似ているんじゃないか、って(^^;
国家に全てを捧げよ、そうすれば国が「平等の権利」を守ってくれる、自分たちを西側に負けない強い立場へと導いてくれる、と信じる国民が、その中で生み出される凄まじい格差が憐れで・・・。一方でリベラリストを名乗る勢力は「とにかく国に逆らえ、国のやることを信じるな、だが表現の自由は政府の法律で規制させよ、可哀想な外国人は政府に訴えて無条件に受け入れろ」という非常に矛盾した、むしろアナーキスト寄りなんじゃないか、でも法律云々変えたがってるから一応国の枠組みというか政府の存在は欲しているのね?(´Д`;)といった方向に舵を切りつつあるという。何なん・・・何なんウチらが信じてた初めの理想って?という失望の気持ちがね!もしかしたら似てるのかもなー、なんて\(^O^)/
結論として人間に平等と自由は向かないというか、本質的にソレを望まない生き物だったりするのかな、と。歴史見ても、世界中で最も広く分布し、一番長く安定して継続できたシステムはまさに封建制だったじゃないですか。それの否定から入った近代、人類は進歩したと言えるのだろうか・・・とか考えてしまった。戦争のスパンが短くなる、ってことは無かったな。(一部先進国は戦場を他に移すことで最近までは割と安穏を享受できてたけど、テロの登場でそれも終了^^)医療の発展と飢えによって死ぬ率は確かに減ったかも。でも正直、そのことも含め技術の向上にはやっぱり戦争が欠かせなかったし、領主が宗主国や資本家や政治・宗教的指導者に変わっただけ、領土拡大目的が資源の確保や簒奪に変わっただけ、でやっぱり人はどんな統治形態であっても結局どこかで争いに駆り出されることに変わりはないよね、と。日/本は70年関わらずに済んでるけど、ほとんどの人が「社畜」って言葉が当たり前に通じるくらい企業様の奴隷状態に置かれているも同然なわけだし。
個人的にはどの場所でも封建時代の歴史が一番好きだったりするし、何も考えなくて良くて楽そうだな、と妄想することもあるんだけどさ・・・。何か、それでも人間が、私たちが安定よりも欲しがった自由って何だったんだ、そもそも自由を求めるくらいの感情をもたらした理由について考えた時、すっごく切ない気分になっちゃうんですよ今のリベラル派見ると(´-`)
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