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一人の女の墓前に佇む男。中世欧風シリアス掌編。
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見晴らしの良い丘の上の、静かな木陰にひっそりと佇む小さな墓の前に、私は今立っている。
灰色の石に刻まれた名は、『マルタ・バリオーニ』
一年前まで、私の妾だった女の名だ。
灰色の石に刻まれた名は、『マルタ・バリオーニ』
一年前まで、私の妾だった女の名だ。
~~~
マルタは我が伯爵家に仕える家令の娘だった。幼いころより共に過ごし、親しく接した仲だった。彼女の両親は都の大貴族の元から私の両親が引き抜いてきた優秀な家令で、家柄もしっかりしていた。そのため彼女は我が家に仕える身分の娘とはいえ私に媚びへつらうことは決してなく、皆にかしずかれ我儘放題に育った幼い私にその態度は生意気に映り、苛立ちを覚えた。
しかし、私にへりくだらないことから周囲の子供に仲間はずれにされても、私に直接虐げられても、常に凛と胸を張り自分の意を通す彼女の姿に、対等に過ごせる“友達”のいなかった私は次第に興味を覚えるようになった。何かと言うとマルタに声をかけ、あちこちに連れ回した。共に野を駆け、本をながめ、花を摘み、口喧嘩を含む様々なやりとりをするうち、私とマルタは男女の垣根を越えて友情を育んだ。
そんな彼女の両親が流行り病で亡くなり、遠方の親族に引き取られていく彼女を見送ったのは私たちが十二の年を迎えたばかりの時。寂しかった。初めての友達、初めて『伯爵家の若様』としてではない私を見てくれた、初めて私に他人(ひと)を大切だと思う感情を教えてくれた彼女が、私の傍を去ってしまうことが。
「……困ったことがあったら絶対連絡を寄こせ。必ず助けてやるから」
荷馬車に乗り込む彼女の小さな後ろ姿に、私は初めてマルタが自分とは異なる……“女”であることを知った。こくりと頷いたマルタの寂しそうな顔が、しばらく脳裏から離れなかった。
~~~
それから、5年。伯爵家を継ぎ主となった私の元に、マルタの叔父と名乗る男が美しい娘に成長したマルタを伴って現れた。下卑た笑みを浮かべた貧相なその男は、今現在一家が金に困っていること、昔なじみであったこの家にマルタを『奉公に出す』代わりに、一家の借金を肩代わりしてもらえないか、という話を持ち出してきた。男の提示した金額は肥沃な領地を持つ我が伯爵家にとっては端金に過ぎない。何より困窮した家に養われてきた哀れな幼馴染を助けるつもりで、私はその条件を飲んだ。
本邸から少し離れたところに立てたこじんまりとした屋敷の一室でマルタを組み敷いた時、彼女は瞠目し、抵抗を示した。
「これは……っ、どういうおつもりですか!? 私は、昔のご縁を通じて伯爵家にお仕えさせていただけると聞いて参りました。どうして、あなたがっ……!」
「嫌だな。何も聞いていないのか? マルタ。普通の女中奉公だけであれだけの借金を肩代わりし、あまつさえこんな屋敷にそんなドレスを与えられると思ったのか? 愚かだな。お前はあの叔父に売られたんだ、私の妾として。」
伯爵位を継いだばかりの年若い私は、あちこちの娘に手を出して醜聞を起こすくらいなら早いうちに従順な妾を囲え、と父から口を酸っぱくして言われていた。いずれ貰うであろう正妻に子ができなかった際の保険としても、妾は必要だった。かつて我が家に仕えた者の娘で、身寄りもなく、何よりこの辺りではついぞ見かけぬほどの美貌を備えたマルタはまさしく適任だったのだ。
閨の中で、マルタは泣いた。しばらくは絶望の色をその表情(かお)に浮かべ続け、夜伽の際も中々その身を私に預けようとはしなかった。しかし、やがて諦めたのか己の立場を悟ったのか、少しずつ私に対し自ら身体を開くようになり、会話を交わすようになり、いつしか私が屋敷を訪れるときは手ずから夕食を作り待つようになった。素朴で懐かしいその味は私に幸せだった子供時代を思い出させ、そんな夜はマルタに昔のように私の名を呼ばせた。
普段「旦那さま」としか呼ばないマルタの唇から紡ぎだされる己が名は何故だか特別な響きを持って鼓膜を揺らし、私に心地よい安らぎを与えた。昔のように互いを信頼し、友と慕う関係は失われてしまったが、マルタが私の帰りを待ち、私の身体を抱きしめ、私の名を呼んでくれることは確かに私にとって喜びだった。そのことに気付けなかった、己の愚かさが堪らなく口惜しい。
~~~
私が正妻を迎えたのは、マルタを妾として囲ってから二年が過ぎたころのことだった。都の夜会で、格上の侯爵家の娘であるアマーリアと懇意になった私は、華やかで愛らしい彼女とその背景にある絶大な富と権力に魅入られ、周囲の反対を押し切って妻に迎えた。都会暮らししかしたことのない世間知らずの妻にとって田舎の領地での暮らしは刺激に欠けるらしく、彼女は常に何かしらの目新しい趣向を行うことを私に求めた。楽団を呼んだり、舞踏会を開いたり、珍しい宝石を取り寄せたり……アマーリアのご機嫌取りにかまけて、私はすっかりマルタのことを忘れ去っていた。
彼女の妊娠の報が届いたのはその頃であった。妻に妾の存在は告げていなかった。ただでさえ上流貴族の娘で、気位も高く傲慢な面もあるアマーリアだ。もしマルタの存在が知られたら厄介なことになる……。そして、妾である彼女が男児を先に生んでしまったら。私は舌打ちをしたい気分になった。
「生まれるまでは絶対に隠し通せ。産んだら必ず連絡を寄こせ、男児なら色々と処遇を考える必要があるからな」
伝えに来た女中にそれだけ告げると、その女中は何か言いたげに一瞬顔を歪めて
「わかりました」
と頷き去って行った。マルタがその伝言を、どんな気持ちで聞いたのかはわからない。ただ、次に訪ねて行った時、深夜だというのに彼女はいつもと変わらず夕食を用意し、柔らかい笑顔で私を迎えてくれたのだ。
「旦那さま、お疲れ様でございます。今日は……」
ところが私は近づいてきたマルタに冷たい一瞥を下し、妊婦である彼女を冷たい床の上に押し倒したのだ。
「今日の夕食はあちらでアマーリアと食べてきた。それより今は酷く女を嬲りたい気分なんだ。箱入りのお嬢様は我儘でね……優しく丁寧な扱いしか許されないから」
あの時の、引きつったマルタの顔が忘れられない。妊娠初期で子が流れる可能性もあった。ただでさえ線の細いマルタの身体にはどれだけの負担がかかっただろう。それからも、私は妻の目を盗んで夜中にマルタの元を訪れる度、子を宿したその体を乱暴に抱いた。よく無事に生まれてきたものだ、と娘の……マルゲリータの姿を思い浮かべる。
マルゲリータ。マルタ危篤の報が入ったのは、その出産からたった一週間後のことだった。マルタの生んだ子が女児だったことに、私は正直安堵していた。男児ならばどこぞの農家にでも里子に出そうと案じていたが、女児ならば手元に置いてやってもいい。女中を通じて「顔を見て、名前を付けてやってほしい」というマルタからの伝言をもらってはいたが、いかんせんアマーリアの目がある。妾の存在に薄々気付き始めているらしい妻は、近頃とみに私の動きに敏感になった。そんな中、マルタの屋敷に仕えさせていた女中が血相を変えて本邸に飛び込んできたのだ。
「旦那さま! お方様が、マルタ様がご危篤でございます! 旦那さまには黙っているよう言いつかっておりましたが……ご出産からずっと床に伏せられて……もう、もう……!」
女中の言葉を聞くや否や、
「あなた、どちらへ!?」
と叫ぶ妻を無視して馬を駆った。
~~~
焦る勢いのまま小さな屋敷の寝室に飛び込んだとき、マルタは既に虫の息だった。
「だんな、さま……」
うっすらと目を開けて私を見るマルタの瞳がだんだんと光を失っていく様が恐ろしくて、繋ぎ留めるようにその細く痩せた手を強く握った。
「名前で呼べ、マルタ。……昔の、ように」
絞り出すように告げた私に、マルタはくすりと力なく微笑んだ。
「かわら、ないわね、エドモンド……あなたは昔から、泣き虫だった」
言われて初めて、己の目頭に熱いものが滲んでいることに気づいた。その雫を拭うように伸ばされた白い指に、思い出が走馬灯のように蘇る。
初めて他人に言い負かされて悔し涙を流した相手がマルタだった。そしてそれを呆れたように拭ってくれたのも。貴族たちの集まりで田舎育ちを馬鹿にされた時も、父や母に説教をされた時も、いつもいつも、不思議とマルタの前でだけ涙が出た。そしてその涙を拭ってくれた、小さな白い指……。あの白い指が欲しかった。手放したくなかった。あかぎれだらけの指を、滑らかな肉刺一つない指にしてあげたかった。絹の手袋で包んでやりたかった。
だから彼女を、幼いころよりも寂しそうな暗い影を背負い、すっかり痩せてしまった彼女をその叔父の元から引き取った。今度こそ確実に傍に置くために、引き離されないように女中としてではなく妾として囲った。彼女により良い暮らしを、より高い地位をあげたくて、都の貴族と必死に繋がりを持とうとした。
それなのに、何を忘れていたのだろう。どうして、素直になれなかったのだろう。自分を「旦那さま」としか呼ばない彼女に苛立って。敬語でしか接してくれない彼女が悲しくて。そうさせたのは他ならぬ再会したその日の自分。彼女に再会できた喜びと、姪を金で売ろうとするその叔父に対する苛立ちがないまぜになって。彼女を失ったあの日の恐怖が蘇って、もう二度と手放したくなくて。酷いことをした。幼馴染との、“友達”との再会を素直に喜んでいた彼女の気持ちを裏切った。憎まれても仕方がないことをした。それでもマルタは、「旦那さま」としての自分を必死に受け入れようとしてくれたではないか。
それなのに、何を忘れていたのだろう。どうして、素直になれなかったのだろう。自分を「旦那さま」としか呼ばない彼女に苛立って。敬語でしか接してくれない彼女が悲しくて。そうさせたのは他ならぬ再会したその日の自分。彼女に再会できた喜びと、姪を金で売ろうとするその叔父に対する苛立ちがないまぜになって。彼女を失ったあの日の恐怖が蘇って、もう二度と手放したくなくて。酷いことをした。幼馴染との、“友達”との再会を素直に喜んでいた彼女の気持ちを裏切った。憎まれても仕方がないことをした。それでもマルタは、「旦那さま」としての自分を必死に受け入れようとしてくれたではないか。
「マルタ、マルタ……!」
名前を呼ぶことしかできない私に向かって、マルタは全て解っている、というように頷いた。
そういうところが、昔から嫌いだった。いいや、嫌いで、愛しかった。嬉しい時、哀しい時、楽しい時、苦しい時……ただ黙って傍にいてくれたマルタが。全てを理解してくれたわけではなくとも、本当の意味で私を知ろうとしてくれたのは、おそらく彼女だけだった。
「あの子を、お願いね……」
マルタの最期の言葉に、私はようやく隣室で眠る名も無き我が子を思い出した。マルタの葬儀を手配する合間、初めて対面した赤子は私と同じ髪の色をしていた。
「瞳の色は……深い緑が良いな」
呟いた私を、驚いた顔で女中が見る。深緑はマルタの瞳の色。未だ閉じられたままの我が子の瞼の奥に、私は彼女の面影を見出したかったのだ。
~~~
それから、一年。様々なことがあった。私は弟に家督を譲り、それを理由に妻と離縁した。ただ人となった私に妻の贅沢に付き合える余裕は到底なく、田舎での生活に飽き飽きしていた彼女も清々したように邸を去って行った。所詮は都会で見た夢幻。私も、彼女も、互いに夢を見すぎていた、ということなのだろう。
そうして、ただの『エドモンド・バリオーニ』になった私は、ようやくマルタの正式な夫となれる。マルゲリータを、誰にも憚ることなく実の娘として認められる。
「こんな墓を造るのに、一年もの時を費やしてしまって、すまない……」
マルタの墓を花で飾りながら、刻まれた名をそっとなぞる。
「マルゲリータは元気に育っている。その名の通り、花のように可愛らしい子だ……特に瞳が、お前によく似ている」
『マルタ・バリオーニ』
この墓に刻まれた名は、私の妾だった女の名。そして、永遠に私の最愛であり続けるたった一人の妻の名だ。
→後書き
続編『献花』
目次(欧風)
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見晴らしの良い丘の上の、静かな木陰にひっそりと佇む小さな墓の前に、私は今立っている。
灰色の石に刻まれた名は、『マルタ・バリオーニ』
一年前まで、私の妾だった女の名だ。
灰色の石に刻まれた名は、『マルタ・バリオーニ』
一年前まで、私の妾だった女の名だ。
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マルタは我が伯爵家に仕える家令の娘だった。幼いころより共に過ごし、親しく接した仲だった。彼女の両親は都の大貴族の元から私の両親が引き抜いてきた優秀な家令で、家柄もしっかりしていた。そのため彼女は我が家に仕える身分の娘とはいえ私に媚びへつらうことは決してなく、皆にかしずかれ我儘放題に育った幼い私にその態度は生意気に映り、苛立ちを覚えた。
しかし、私にへりくだらないことから周囲の子供に仲間はずれにされても、私に直接虐げられても、常に凛と胸を張り自分の意を通す彼女の姿に、対等に過ごせる“友達”のいなかった私は次第に興味を覚えるようになった。何かと言うとマルタに声をかけ、あちこちに連れ回した。共に野を駆け、本をながめ、花を摘み、口喧嘩を含む様々なやりとりをするうち、私とマルタは男女の垣根を越えて友情を育んだ。
そんな彼女の両親が流行り病で亡くなり、遠方の親族に引き取られていく彼女を見送ったのは私たちが十二の年を迎えたばかりの時。寂しかった。初めての友達、初めて『伯爵家の若様』としてではない私を見てくれた、初めて私に他人(ひと)を大切だと思う感情を教えてくれた彼女が、私の傍を去ってしまうことが。
「……困ったことがあったら絶対連絡を寄こせ。必ず助けてやるから」
荷馬車に乗り込む彼女の小さな後ろ姿に、私は初めてマルタが自分とは異なる……“女”であることを知った。こくりと頷いたマルタの寂しそうな顔が、しばらく脳裏から離れなかった。
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それから、5年。伯爵家を継ぎ主となった私の元に、マルタの叔父と名乗る男が美しい娘に成長したマルタを伴って現れた。下卑た笑みを浮かべた貧相なその男は、今現在一家が金に困っていること、昔なじみであったこの家にマルタを『奉公に出す』代わりに、一家の借金を肩代わりしてもらえないか、という話を持ち出してきた。男の提示した金額は肥沃な領地を持つ我が伯爵家にとっては端金に過ぎない。何より困窮した家に養われてきた哀れな幼馴染を助けるつもりで、私はその条件を飲んだ。
本邸から少し離れたところに立てたこじんまりとした屋敷の一室でマルタを組み敷いた時、彼女は瞠目し、抵抗を示した。
「これは……っ、どういうおつもりですか!? 私は、昔のご縁を通じて伯爵家にお仕えさせていただけると聞いて参りました。どうして、あなたがっ……!」
「嫌だな。何も聞いていないのか? マルタ。普通の女中奉公だけであれだけの借金を肩代わりし、あまつさえこんな屋敷にそんなドレスを与えられると思ったのか? 愚かだな。お前はあの叔父に売られたんだ、私の妾として。」
伯爵位を継いだばかりの年若い私は、あちこちの娘に手を出して醜聞を起こすくらいなら早いうちに従順な妾を囲え、と父から口を酸っぱくして言われていた。いずれ貰うであろう正妻に子ができなかった際の保険としても、妾は必要だった。かつて我が家に仕えた者の娘で、身寄りもなく、何よりこの辺りではついぞ見かけぬほどの美貌を備えたマルタはまさしく適任だったのだ。
閨の中で、マルタは泣いた。しばらくは絶望の色をその表情(かお)に浮かべ続け、夜伽の際も中々その身を私に預けようとはしなかった。しかし、やがて諦めたのか己の立場を悟ったのか、少しずつ私に対し自ら身体を開くようになり、会話を交わすようになり、いつしか私が屋敷を訪れるときは手ずから夕食を作り待つようになった。素朴で懐かしいその味は私に幸せだった子供時代を思い出させ、そんな夜はマルタに昔のように私の名を呼ばせた。
普段「旦那さま」としか呼ばないマルタの唇から紡ぎだされる己が名は何故だか特別な響きを持って鼓膜を揺らし、私に心地よい安らぎを与えた。昔のように互いを信頼し、友と慕う関係は失われてしまったが、マルタが私の帰りを待ち、私の身体を抱きしめ、私の名を呼んでくれることは確かに私にとって喜びだった。そのことに気付けなかった、己の愚かさが堪らなく口惜しい。
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私が正妻を迎えたのは、マルタを妾として囲ってから二年が過ぎたころのことだった。都の夜会で、格上の侯爵家の娘であるアマーリアと懇意になった私は、華やかで愛らしい彼女とその背景にある絶大な富と権力に魅入られ、周囲の反対を押し切って妻に迎えた。都会暮らししかしたことのない世間知らずの妻にとって田舎の領地での暮らしは刺激に欠けるらしく、彼女は常に何かしらの目新しい趣向を行うことを私に求めた。楽団を呼んだり、舞踏会を開いたり、珍しい宝石を取り寄せたり……アマーリアのご機嫌取りにかまけて、私はすっかりマルタのことを忘れ去っていた。
彼女の妊娠の報が届いたのはその頃であった。妻に妾の存在は告げていなかった。ただでさえ上流貴族の娘で、気位も高く傲慢な面もあるアマーリアだ。もしマルタの存在が知られたら厄介なことになる……。そして、妾である彼女が男児を先に生んでしまったら。私は舌打ちをしたい気分になった。
「生まれるまでは絶対に隠し通せ。産んだら必ず連絡を寄こせ、男児なら色々と処遇を考える必要があるからな」
伝えに来た女中にそれだけ告げると、その女中は何か言いたげに一瞬顔を歪めて
「わかりました」
と頷き去って行った。マルタがその伝言を、どんな気持ちで聞いたのかはわからない。ただ、次に訪ねて行った時、深夜だというのに彼女はいつもと変わらず夕食を用意し、柔らかい笑顔で私を迎えてくれたのだ。
「旦那さま、お疲れ様でございます。今日は……」
ところが私は近づいてきたマルタに冷たい一瞥を下し、妊婦である彼女を冷たい床の上に押し倒したのだ。
「今日の夕食はあちらでアマーリアと食べてきた。それより今は酷く女を嬲りたい気分なんだ。箱入りのお嬢様は我儘でね……優しく丁寧な扱いしか許されないから」
あの時の、引きつったマルタの顔が忘れられない。妊娠初期で子が流れる可能性もあった。ただでさえ線の細いマルタの身体にはどれだけの負担がかかっただろう。それからも、私は妻の目を盗んで夜中にマルタの元を訪れる度、子を宿したその体を乱暴に抱いた。よく無事に生まれてきたものだ、と娘の……マルゲリータの姿を思い浮かべる。
マルゲリータ。マルタ危篤の報が入ったのは、その出産からたった一週間後のことだった。マルタの生んだ子が女児だったことに、私は正直安堵していた。男児ならばどこぞの農家にでも里子に出そうと案じていたが、女児ならば手元に置いてやってもいい。女中を通じて「顔を見て、名前を付けてやってほしい」というマルタからの伝言をもらってはいたが、いかんせんアマーリアの目がある。妾の存在に薄々気付き始めているらしい妻は、近頃とみに私の動きに敏感になった。そんな中、マルタの屋敷に仕えさせていた女中が血相を変えて本邸に飛び込んできたのだ。
「旦那さま! お方様が、マルタ様がご危篤でございます! 旦那さまには黙っているよう言いつかっておりましたが……ご出産からずっと床に伏せられて……もう、もう……!」
女中の言葉を聞くや否や、
「あなた、どちらへ!?」
と叫ぶ妻を無視して馬を駆った。
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焦る勢いのまま小さな屋敷の寝室に飛び込んだとき、マルタは既に虫の息だった。
「だんな、さま……」
うっすらと目を開けて私を見るマルタの瞳がだんだんと光を失っていく様が恐ろしくて、繋ぎ留めるようにその細く痩せた手を強く握った。
「名前で呼べ、マルタ。……昔の、ように」
絞り出すように告げた私に、マルタはくすりと力なく微笑んだ。
「かわら、ないわね、エドモンド……あなたは昔から、泣き虫だった」
言われて初めて、己の目頭に熱いものが滲んでいることに気づいた。その雫を拭うように伸ばされた白い指に、思い出が走馬灯のように蘇る。
初めて他人に言い負かされて悔し涙を流した相手がマルタだった。そしてそれを呆れたように拭ってくれたのも。貴族たちの集まりで田舎育ちを馬鹿にされた時も、父や母に説教をされた時も、いつもいつも、不思議とマルタの前でだけ涙が出た。そしてその涙を拭ってくれた、小さな白い指……。あの白い指が欲しかった。手放したくなかった。あかぎれだらけの指を、滑らかな肉刺一つない指にしてあげたかった。絹の手袋で包んでやりたかった。
だから彼女を、幼いころよりも寂しそうな暗い影を背負い、すっかり痩せてしまった彼女をその叔父の元から引き取った。今度こそ確実に傍に置くために、引き離されないように女中としてではなく妾として囲った。彼女により良い暮らしを、より高い地位をあげたくて、都の貴族と必死に繋がりを持とうとした。
それなのに、何を忘れていたのだろう。どうして、素直になれなかったのだろう。自分を「旦那さま」としか呼ばない彼女に苛立って。敬語でしか接してくれない彼女が悲しくて。そうさせたのは他ならぬ再会したその日の自分。彼女に再会できた喜びと、姪を金で売ろうとするその叔父に対する苛立ちがないまぜになって。彼女を失ったあの日の恐怖が蘇って、もう二度と手放したくなくて。酷いことをした。幼馴染との、“友達”との再会を素直に喜んでいた彼女の気持ちを裏切った。憎まれても仕方がないことをした。それでもマルタは、「旦那さま」としての自分を必死に受け入れようとしてくれたではないか。
それなのに、何を忘れていたのだろう。どうして、素直になれなかったのだろう。自分を「旦那さま」としか呼ばない彼女に苛立って。敬語でしか接してくれない彼女が悲しくて。そうさせたのは他ならぬ再会したその日の自分。彼女に再会できた喜びと、姪を金で売ろうとするその叔父に対する苛立ちがないまぜになって。彼女を失ったあの日の恐怖が蘇って、もう二度と手放したくなくて。酷いことをした。幼馴染との、“友達”との再会を素直に喜んでいた彼女の気持ちを裏切った。憎まれても仕方がないことをした。それでもマルタは、「旦那さま」としての自分を必死に受け入れようとしてくれたではないか。
「マルタ、マルタ……!」
名前を呼ぶことしかできない私に向かって、マルタは全て解っている、というように頷いた。
そういうところが、昔から嫌いだった。いいや、嫌いで、愛しかった。嬉しい時、哀しい時、楽しい時、苦しい時……ただ黙って傍にいてくれたマルタが。全てを理解してくれたわけではなくとも、本当の意味で私を知ろうとしてくれたのは、おそらく彼女だけだった。
「あの子を、お願いね……」
マルタの最期の言葉に、私はようやく隣室で眠る名も無き我が子を思い出した。マルタの葬儀を手配する合間、初めて対面した赤子は私と同じ髪の色をしていた。
「瞳の色は……深い緑が良いな」
呟いた私を、驚いた顔で女中が見る。深緑はマルタの瞳の色。未だ閉じられたままの我が子の瞼の奥に、私は彼女の面影を見出したかったのだ。
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それから、一年。様々なことがあった。私は弟に家督を譲り、それを理由に妻と離縁した。ただ人となった私に妻の贅沢に付き合える余裕は到底なく、田舎での生活に飽き飽きしていた彼女も清々したように邸を去って行った。所詮は都会で見た夢幻。私も、彼女も、互いに夢を見すぎていた、ということなのだろう。
そうして、ただの『エドモンド・バリオーニ』になった私は、ようやくマルタの正式な夫となれる。マルゲリータを、誰にも憚ることなく実の娘として認められる。
「こんな墓を造るのに、一年もの時を費やしてしまって、すまない……」
マルタの墓を花で飾りながら、刻まれた名をそっとなぞる。
「マルゲリータは元気に育っている。その名の通り、花のように可愛らしい子だ……特に瞳が、お前によく似ている」
『マルタ・バリオーニ』
この墓に刻まれた名は、私の妾だった女の名。そして、永遠に私の最愛であり続けるたった一人の妻の名だ。
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