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何故もっと早く読んでおかなかったのか、と心から悔やんでいる。
途中からありきたりな(ハリウッド映画化できそうな方向の)愛と冒険ものになるのかな、と感じたところもあったんですよ。さすがイギリスの名著、裏切らない・・・!いつも通り鬱な方向に発揮される意外性!残酷なまでに人間の真理を抉ってくる描写に言葉に展開。そして真実を最後までハッキリさせずとも読者に「そう」と「解らせてしまう」、この絶妙な幅と余韻を残したラストね。やべー「病んでるぅ(;´д`)」と共感()できるのは独・露語圏文学で、「かっ飛んでるけどオサレ過ぎて理解できない・・・!」って楽しむ()のが大体おフレンチ系なんですけど。(あ、でも変態的方向性でウチと一番似通っているのは彼らなのかもしれない、とも。マンガも好きだしさー。独系のフェティシズムにスラヴ圏の鬱要素、イギリ○の孤立志向+仏の耽美的妄執が合わさるとウチの諸々に到るかもしれない)ちなみにアメリカは大体いつもオチが綺麗すぎて自分の中では娯楽枠認識です。ヘミングウェイもフィッツジェラルドも好きで名作だと思うけど、何つーか必ずヒーロー要素があって物語として美しいじゃん? えっげれす様はひたすら「上手いなー!」と映画もドラマも毎度毎度感心しちゃいますよね(;゜Д゜) イヤお前ソレ考え過ぎだよ、ってくらいのひねくれっぷりオット、深い思索(笑)、それをどこで出していくかという構成の緻密さ、そーしーてズダーンとぶちかますラスト!あぁもうお見それしましたm(__)m
結局ブラザー同盟とゴールドスタインの存在自体が「異分子」を炙り出すために党が作り出した架空の餌だったってことか・・・そして思考警察の罠の張りようといったら(((-_-;)))gkbr
ジュリアとウィンストンの最後の逢瀬が物悲しい。人間の本来の在り方を、記憶を、絆を断ち切って、そこまでして求めるものが絶対不変の「党」という集団の権力、と言い切れる点には正直ある種の清々しさを感じてしまった。・・・そしてやっぱりこの理想に一番近いかたちで「権威」を手に入れたのが日/本のTennoではないか、と(・・;) 確かに直接の「権力」を握っていた期間こそ短いものの、神社と全く関わらずに生きている日.本人はほとんどいないよね?その頂点がそうと定められている以上、無意識に私たちは彼らへの信奉というか、行動原理のなかに「お天道様=天.照」が見ている→最低限その子孫とされる一族への敬意と服従(というとアレだけど、キリス○教の神の目と同じで侵してはいけない倫理規範のようなもの)を示さなくては、という理念が働いているように感じるんだよね。
中.国K産党は正直ここまで開き直れていないし(だから今必死で抗日宣伝強化中)、余りに広大な土地と膨大な人口に揉まれて育った民族的特性なのか、ぶっちゃけ集団の権力を存続することより個人の利権を追求して、エライさんほどサッサと外国に身内と資産移しちゃうよね。この点でも真の共産国家・全体主義には向かない隙があったことが、『1984』の究極形を読んだ後ではある意味ラッキーだったのかもしれない、とも感じた。あ、でもそのせいで逆にウチをはじめ西側諸国が油断して彼らの増長を放置・あるいは支援する形になり、内側で抑圧される立場の人々にとってはより酷い状態をもたらしてしまった面もあるのかな・・・? 北に対しても、総/連を通じてウチから流れていったモノはどこでどう使われてしまったのだろう、と日.本人として責任を感じるべきところはあるかもしれない。実際に中/国と北の軍拡やミサイルはウチにとって直接的な脅威になってしまっているわけだし。
でも、ウィンストンがプロールの中に希望を見出だしたように、今の時代にはその膨大な「プロール」同士が繋がれる壁を越えた世界、インターネットの存在があるから。例え罵詈雑言の応酬になったとしても、金の盾を越えて、あるいはゴモーさんの一人としてでも外部の意見を聞ける、ガチで戦争しちゃう前に思いっきり口(カキコミ?)喧嘩したり、連行される前に公開の場で自分の意見を表明(あるいは表明を委託)することができたり、またそれに対する他者の反応も、基本的には全ての情報が自動的に公開・記録されることになる。例え検閲があっても、バカみたいなプロパガンダが混じっていても、少なくとも私たちは情報を得て、それについて考えることができるんだから、何て幸せな時代・素晴らしい世界か、と改めて考えてしまいました(つд`) 確かにネットはN○Aにも城/管にも見張られていて、ある意味では『1984』におけるテレスクリーンのような役割を果たしている部分もあるかもしれない。でも、ネットがあるから私たちの世界は完全に閉じきらず、「相手」も自分と同じ感情を持った人間であることを理解できる可能性を秘めていると言えるんじゃないか、と、今のこの現実をオーウェルさんにも見せてあげたいと思った。
人間から人間性を奪い去ることなんか、どんな独裁者にも組織にも国にだって出来ないよ。WW2期の日/本人がそうだった、みたいに語られる度に、田舎の神社に掲げられた平和祈願の奉納板のことを考えるんです。アメ○カ人が必死に「原爆は大勢の人々を救った」って主張するのは許されるのに、ウチの片隅で確かに平和を祈る人間がいた事実は無視されてしまうのか、と。オブライエンの言葉を借りるなら、大日○帝国の掲げた「動機のごまかし」は大東○共栄圏だったのだろう。けれど全ての人間がそのスローガンを信じ、そのために戦っていたとは思えない。・・・何か上手くまとめられないけど、それだけ。中には本当にその「理想」に含まれる「アジアの解放」を叶えるべく敗戦後も戦った人たちがいたことも、残されるべきではない記録・記憶として忘れ去られていってしまうんでしょうね(・_・)
歴オタだから、この党が全てを支配する世界では「過去は存在しない」という言葉が一番胸に刺さったかな? 過去を知りたいがために何とか今まで人生踏みとどまってこられた自分にはとても生きられそうもない。ソッコー自殺か愛情省送りだなぁ、と(^-^; でも、さっきも書いたけどナ○スも日/帝も、シベ○ア抑留者の記録を見る限りソ.連ですら完全な思想の統制、人間性の排除が叶わなかったように、私もウィンストンと同じく恐怖と裏切りと拷問によってオブライエンの語る世界の純化が実現できるとは思えない。人間の精神がいつかそれを打ち破る、ってウィンストンのセリフには泣いてしまった・゜・(つД`)・゜・ そして彼にとってはその「人間の精神」の拠り所であったジュリア、遂に彼女を裏切ってしまう101号室のくだりと、哀しすぎる再会からの怒濤のラストシーン、「<ビッグ・ブラザー>を愛していた」・・・これでやっと彼は射殺される権利を得たわけですねorz 何て哀しくて鬱で真に迫った結末なんだろう。と、何か心から撃ち抜かれたというかハッピーエンドより逆にむしろ感動してしまった。
でも本当、人間の現実はもう少しマシだよ、そう感じせてほしい、と昨今の情勢に改めて涙が(´;ω;`) 『1984』の世界よりは、代理戦争でもどれだけ残酷でも直接殺し合い憎み合うことを隠さない世の中の方が良いのかな・・・とか夜中のテンションも相まって訳わかんなくなってくるな。とにかくあと三回くらい読み直してから改めて考えたい、と思わせる作品でした。出会えたことに感謝(-人-) せめて10年くらい前に読んでおかなかった自分を殴りたい。『変身』と『沈黙』最初に読んだ時並みのインパクトだった。10代の頃に読んでたら完全に信者化してただろうなぁ(´-`)
追記:
ビッグ・ブラザー、あるいはオブライエンの描写についてはモデルはヒ○ラー+スター○ンでつまりナ○スとソ/連がヨー○ッパの人々にとっての全体・共産主義への恐怖の象徴だったんだろうな、とうかがえたけど、薬剤を用いてまでの拷問というか徹底的な精神の洗脳(改造?)を施すというくだりはロボトミー手術みたいやな、と。「ウチをモデルにしてるんだー!o(>皿<)o」と一部の皆様()が騒ぐ『猿の惑星』みたいな? ヨー○ッパ人が捉えたファ○ズムへの恐怖の凝縮形がコレであるなら、アメ○カ人が抱いたウチの訳わからん統治・思考体系や行動原理への恐怖の結実がアレ、と考えても確かにおかしくはないな。
アメリ○は歴史が浅く、ウチは長いこと鎖国というか限られた国以外との交流を断ってきた。見た目も違う、倫理的規範の根幹を成す宗教も違う、食べ物も作法も文化や歩みが全く異なる国の人間同士が、海挟んで隣だからっていきなり上手くやれるわけないんですよ。近くだって、近くだからこそ余計に対立し合い殺し合ってきたのが人間の、いや生物的な本能に基づく自然界の歴史だから。戦時中ウチが彼らに対して掲げていたスローガンやプロパガンダも大概酷かったし(まぁ実際大規模かつ無差別な都市への空襲・原爆・ドクロでサッカーや兵士の遺品剥ぎ取り、降伏した捕虜を容赦なく撃ち殺した記録が残っているにも関わらず、コッチの捕虜の扱いについてはいつまでもネチネチ言ってくる辺りの所業はまさに鬼畜としか考えられないけれども。自分たちの食糧さえマトモに確保できてない状況だったんだぞ・・・って言ったら「早く降伏しないのが悪い」って反論されるかもしれないけど、戦後も結構長く食糧難続いちゃってましたヨネー?┐(-。-;)┌ ハイハイ負けたら全て悪い、戦争始めたのもウチでそれが全ての原因なんだから、ってことでしょーがないか)。
イヤまぁ、だから世の中結局は進歩してるんだな、って。例え東西に陣営が別れてしまったことが和解のキッカケであったとしても、ここまで互いの文化が混ざり合い、影響し合い、完全な理解ではなくとも「知ろう」とする、接する機会を持つことが増える日が来ることを、昔のウチや向こうの人間は果たして想像ができただろうか。いくらジャポニズムの流行があり、移民や木の交換が行われていたところで戦争への流れが止められなかった時代の人々が。
インターネットで多国籍混じりあって制限はあるかもしれないけど自由な議論がある程度交わすことができるようになった今、恐らく国家としてのロシ○や彼らの指導者・政府について文句を付けたいアメ○カ人は一定数いるだろうと思うけど(逆に自国の指導者より支持してる人もいそう^^)、彼らが一個人としてのロシア人に接した時、頭ごなしに拒絶したりソレを理由に隔離措置や差別をすることはないんじゃないかなー、って感じるわけですよ。
だからいつか、今かつての日系人のような扱いを受けているムス○ムさんたちとの間にも、そういう憎しみや恐怖が薄れて互いに人間として接する、解ろうとする機会を与えてくれる時代が訪れると良いな、って。インターネットやSNS、交流の場が増えることは、確かに過激な思想の拡大やコミュニティの増加、犯罪を実行する方法の示唆にも寄与してしまうかもしれないけど、パンドラの箱のように最後に人間が人間であるための希望が残ってるもんなんじゃないか、と。そのためにウチらは技術を積み重ねてきた、それは進歩なんだって信じたい・・・ですよね、と何か改めて思った(´・ω・`)
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途中からありきたりな(ハリウッド映画化できそうな方向の)愛と冒険ものになるのかな、と感じたところもあったんですよ。さすがイギリスの名著、裏切らない・・・!いつも通り鬱な方向に発揮される意外性!残酷なまでに人間の真理を抉ってくる描写に言葉に展開。そして真実を最後までハッキリさせずとも読者に「そう」と「解らせてしまう」、この絶妙な幅と余韻を残したラストね。やべー「病んでるぅ(;´д`)」と共感()できるのは独・露語圏文学で、「かっ飛んでるけどオサレ過ぎて理解できない・・・!」って楽しむ()のが大体おフレンチ系なんですけど。(あ、でも変態的方向性でウチと一番似通っているのは彼らなのかもしれない、とも。マンガも好きだしさー。独系のフェティシズムにスラヴ圏の鬱要素、イギリ○の孤立志向+仏の耽美的妄執が合わさるとウチの諸々に到るかもしれない)ちなみにアメリカは大体いつもオチが綺麗すぎて自分の中では娯楽枠認識です。ヘミングウェイもフィッツジェラルドも好きで名作だと思うけど、何つーか必ずヒーロー要素があって物語として美しいじゃん? えっげれす様はひたすら「上手いなー!」と映画もドラマも毎度毎度感心しちゃいますよね(;゜Д゜) イヤお前ソレ考え過ぎだよ、ってくらいのひねくれっぷりオット、深い思索(笑)、それをどこで出していくかという構成の緻密さ、そーしーてズダーンとぶちかますラスト!あぁもうお見それしましたm(__)m
結局ブラザー同盟とゴールドスタインの存在自体が「異分子」を炙り出すために党が作り出した架空の餌だったってことか・・・そして思考警察の罠の張りようといったら(((-_-;)))gkbr
ジュリアとウィンストンの最後の逢瀬が物悲しい。人間の本来の在り方を、記憶を、絆を断ち切って、そこまでして求めるものが絶対不変の「党」という集団の権力、と言い切れる点には正直ある種の清々しさを感じてしまった。・・・そしてやっぱりこの理想に一番近いかたちで「権威」を手に入れたのが日/本のTennoではないか、と(・・;) 確かに直接の「権力」を握っていた期間こそ短いものの、神社と全く関わらずに生きている日.本人はほとんどいないよね?その頂点がそうと定められている以上、無意識に私たちは彼らへの信奉というか、行動原理のなかに「お天道様=天.照」が見ている→最低限その子孫とされる一族への敬意と服従(というとアレだけど、キリス○教の神の目と同じで侵してはいけない倫理規範のようなもの)を示さなくては、という理念が働いているように感じるんだよね。
中.国K産党は正直ここまで開き直れていないし(だから今必死で抗日宣伝強化中)、余りに広大な土地と膨大な人口に揉まれて育った民族的特性なのか、ぶっちゃけ集団の権力を存続することより個人の利権を追求して、エライさんほどサッサと外国に身内と資産移しちゃうよね。この点でも真の共産国家・全体主義には向かない隙があったことが、『1984』の究極形を読んだ後ではある意味ラッキーだったのかもしれない、とも感じた。あ、でもそのせいで逆にウチをはじめ西側諸国が油断して彼らの増長を放置・あるいは支援する形になり、内側で抑圧される立場の人々にとってはより酷い状態をもたらしてしまった面もあるのかな・・・? 北に対しても、総/連を通じてウチから流れていったモノはどこでどう使われてしまったのだろう、と日.本人として責任を感じるべきところはあるかもしれない。実際に中/国と北の軍拡やミサイルはウチにとって直接的な脅威になってしまっているわけだし。
でも、ウィンストンがプロールの中に希望を見出だしたように、今の時代にはその膨大な「プロール」同士が繋がれる壁を越えた世界、インターネットの存在があるから。例え罵詈雑言の応酬になったとしても、金の盾を越えて、あるいはゴモーさんの一人としてでも外部の意見を聞ける、ガチで戦争しちゃう前に思いっきり口(カキコミ?)喧嘩したり、連行される前に公開の場で自分の意見を表明(あるいは表明を委託)することができたり、またそれに対する他者の反応も、基本的には全ての情報が自動的に公開・記録されることになる。例え検閲があっても、バカみたいなプロパガンダが混じっていても、少なくとも私たちは情報を得て、それについて考えることができるんだから、何て幸せな時代・素晴らしい世界か、と改めて考えてしまいました(つд`) 確かにネットはN○Aにも城/管にも見張られていて、ある意味では『1984』におけるテレスクリーンのような役割を果たしている部分もあるかもしれない。でも、ネットがあるから私たちの世界は完全に閉じきらず、「相手」も自分と同じ感情を持った人間であることを理解できる可能性を秘めていると言えるんじゃないか、と、今のこの現実をオーウェルさんにも見せてあげたいと思った。
人間から人間性を奪い去ることなんか、どんな独裁者にも組織にも国にだって出来ないよ。WW2期の日/本人がそうだった、みたいに語られる度に、田舎の神社に掲げられた平和祈願の奉納板のことを考えるんです。アメ○カ人が必死に「原爆は大勢の人々を救った」って主張するのは許されるのに、ウチの片隅で確かに平和を祈る人間がいた事実は無視されてしまうのか、と。オブライエンの言葉を借りるなら、大日○帝国の掲げた「動機のごまかし」は大東○共栄圏だったのだろう。けれど全ての人間がそのスローガンを信じ、そのために戦っていたとは思えない。・・・何か上手くまとめられないけど、それだけ。中には本当にその「理想」に含まれる「アジアの解放」を叶えるべく敗戦後も戦った人たちがいたことも、残されるべきではない記録・記憶として忘れ去られていってしまうんでしょうね(・_・)
歴オタだから、この党が全てを支配する世界では「過去は存在しない」という言葉が一番胸に刺さったかな? 過去を知りたいがために何とか今まで人生踏みとどまってこられた自分にはとても生きられそうもない。ソッコー自殺か愛情省送りだなぁ、と(^-^; でも、さっきも書いたけどナ○スも日/帝も、シベ○ア抑留者の記録を見る限りソ.連ですら完全な思想の統制、人間性の排除が叶わなかったように、私もウィンストンと同じく恐怖と裏切りと拷問によってオブライエンの語る世界の純化が実現できるとは思えない。人間の精神がいつかそれを打ち破る、ってウィンストンのセリフには泣いてしまった・゜・(つД`)・゜・ そして彼にとってはその「人間の精神」の拠り所であったジュリア、遂に彼女を裏切ってしまう101号室のくだりと、哀しすぎる再会からの怒濤のラストシーン、「<ビッグ・ブラザー>を愛していた」・・・これでやっと彼は射殺される権利を得たわけですねorz 何て哀しくて鬱で真に迫った結末なんだろう。と、何か心から撃ち抜かれたというかハッピーエンドより逆にむしろ感動してしまった。
でも本当、人間の現実はもう少しマシだよ、そう感じせてほしい、と昨今の情勢に改めて涙が(´;ω;`) 『1984』の世界よりは、代理戦争でもどれだけ残酷でも直接殺し合い憎み合うことを隠さない世の中の方が良いのかな・・・とか夜中のテンションも相まって訳わかんなくなってくるな。とにかくあと三回くらい読み直してから改めて考えたい、と思わせる作品でした。出会えたことに感謝(-人-) せめて10年くらい前に読んでおかなかった自分を殴りたい。『変身』と『沈黙』最初に読んだ時並みのインパクトだった。10代の頃に読んでたら完全に信者化してただろうなぁ(´-`)
追記:
ビッグ・ブラザー、あるいはオブライエンの描写についてはモデルはヒ○ラー+スター○ンでつまりナ○スとソ/連がヨー○ッパの人々にとっての全体・共産主義への恐怖の象徴だったんだろうな、とうかがえたけど、薬剤を用いてまでの拷問というか徹底的な精神の洗脳(改造?)を施すというくだりはロボトミー手術みたいやな、と。「ウチをモデルにしてるんだー!o(>皿<)o」と一部の皆様()が騒ぐ『猿の惑星』みたいな? ヨー○ッパ人が捉えたファ○ズムへの恐怖の凝縮形がコレであるなら、アメ○カ人が抱いたウチの訳わからん統治・思考体系や行動原理への恐怖の結実がアレ、と考えても確かにおかしくはないな。
アメリ○は歴史が浅く、ウチは長いこと鎖国というか限られた国以外との交流を断ってきた。見た目も違う、倫理的規範の根幹を成す宗教も違う、食べ物も作法も文化や歩みが全く異なる国の人間同士が、海挟んで隣だからっていきなり上手くやれるわけないんですよ。近くだって、近くだからこそ余計に対立し合い殺し合ってきたのが人間の、いや生物的な本能に基づく自然界の歴史だから。戦時中ウチが彼らに対して掲げていたスローガンやプロパガンダも大概酷かったし(まぁ実際大規模かつ無差別な都市への空襲・原爆・ドクロでサッカーや兵士の遺品剥ぎ取り、降伏した捕虜を容赦なく撃ち殺した記録が残っているにも関わらず、コッチの捕虜の扱いについてはいつまでもネチネチ言ってくる辺りの所業はまさに鬼畜としか考えられないけれども。自分たちの食糧さえマトモに確保できてない状況だったんだぞ・・・って言ったら「早く降伏しないのが悪い」って反論されるかもしれないけど、戦後も結構長く食糧難続いちゃってましたヨネー?┐(-。-;)┌ ハイハイ負けたら全て悪い、戦争始めたのもウチでそれが全ての原因なんだから、ってことでしょーがないか)。
イヤまぁ、だから世の中結局は進歩してるんだな、って。例え東西に陣営が別れてしまったことが和解のキッカケであったとしても、ここまで互いの文化が混ざり合い、影響し合い、完全な理解ではなくとも「知ろう」とする、接する機会を持つことが増える日が来ることを、昔のウチや向こうの人間は果たして想像ができただろうか。いくらジャポニズムの流行があり、移民や木の交換が行われていたところで戦争への流れが止められなかった時代の人々が。
インターネットで多国籍混じりあって制限はあるかもしれないけど自由な議論がある程度交わすことができるようになった今、恐らく国家としてのロシ○や彼らの指導者・政府について文句を付けたいアメ○カ人は一定数いるだろうと思うけど(逆に自国の指導者より支持してる人もいそう^^)、彼らが一個人としてのロシア人に接した時、頭ごなしに拒絶したりソレを理由に隔離措置や差別をすることはないんじゃないかなー、って感じるわけですよ。
だからいつか、今かつての日系人のような扱いを受けているムス○ムさんたちとの間にも、そういう憎しみや恐怖が薄れて互いに人間として接する、解ろうとする機会を与えてくれる時代が訪れると良いな、って。インターネットやSNS、交流の場が増えることは、確かに過激な思想の拡大やコミュニティの増加、犯罪を実行する方法の示唆にも寄与してしまうかもしれないけど、パンドラの箱のように最後に人間が人間であるための希望が残ってるもんなんじゃないか、と。そのためにウチらは技術を積み重ねてきた、それは進歩なんだって信じたい・・・ですよね、と何か改めて思った(´・ω・`)
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