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素晴らしかった・・・!
リーザ編で、彼が前半に独白してきたことの真意が、根源的理由が全て顕わにされているような気がした。そしてここでも出てくる「肺病」・・・ホントちょっと後の時代だったとはいえ、ウチの祖父よく普通に長生きできたよ(((´Д`;))) でも娼婦で怖いのってぶっちゃけソッチより性病じゃね? あ、もうペニシリンはあったんだっけ? けど「病院かかれない」表現とか出てくるしなぁ。いやーしかし主人公の矛盾っぷりが冴えわたってるなこの章は!「人間ひとりの生命がかわいそう」とか「どんな暮らしでも世の中で生きていくのは良いもの」この辺はまさにドストエフスキーの人道主義的側面の代弁者。かーらーの、一言すら交わさずにヤることヤって「人間としてこんな醜悪な愛し方があるか!」って娼婦相手に同意を促す場面。「似たもの同士」だと分かった途端に彼女に同情と惹かれる気持ちと嫌悪を覚え始め、結果的に隠された本心と歪んだ他者に対する感情の向け方をさらけ出す行為に至ってしまう。彼はそれを「人をたぶらかす行為は感傷的だ」と自分自身に言い訳し、「家庭を知らないから情なしに育った」なんて責任転嫁もしておきながら、親に売り飛ばされたリーザに対して「愛情が無ければ分別というものもなくなってしまう」と偉そうに講釈を垂れる。この時点で酷い自己矛盾に気づいて傷ついているだろうに(>_<) でも「人間というものは不幸の方だけを並べ立てて幸福の方は数えようとしないもの」という点には同意するかな。そういうタイプの人、リアルでも結構いるしね。
本人がリーザを「たぶらかす」ために語っている長ゼリフの中の「だいたい愛があるなら、愛情で結ばれた間柄なら、どうして愛をなくしたりできるんだ!」ってのは愛情や人間同士の絆・信頼に長年飢えてきたであろう主人公自身の臆面もない本音じゃないのか、と切なくなった(´・ω・`) あと子供についてのくだりで、どんな貧しくてつらい暮らしだろうと「いつか子供たちから必ず愛してもらえるから、そのために貯金をしているのも同じ道理」というのも世の中の子供を持とうとする全ての夫婦二人の真理じゃないのか、と感じた。そして「純情で羞恥心の強い人間が他者に内心に踏み込んでこられた時、誇りの気持ちから自身の本心をさらけ出すのを恐れる余り嘲笑して虚勢を張る」というリーザの態度にもとても共感の気持ちを覚えます・・・。似たような失敗で相手を傷つけたことが何度あったかorz
で、そんな彼女の意を汲み取ることなく激昂した「ぼく」がリーザに「おまえが借金のカタに肉体と一緒に売ったものは魂だ。愛こそすべてじゃないのか、乙女の宝、ダイアモンド、それをおまえは差し出したんだ!」って罵るくだりも双方共に痛々しくて(つД`) 彼の罵りはますます止まらずに苛烈さを増していき、「これ以上につらい労役のような仕事はない、涙を流しつくして心は干上がってしまう」という言葉には、やはり彼に残る人間性というか他者への愛情が失われていないこともまた感じられる。でも、最後にリーザを絶望の淵へと追いやる部分「その死に際して涙にも供養にも縁がなく、この世で誰ひとり墓を訪れる者もない、元々この世界にいなかったみたいに」ってところは正直心底そうなりたいんですかどうすれば?としか・・・(病んでてすみま(以下略))更に絶望した彼女に「その魂をひっくり返し打ち砕いてしまった確信を得れば得るほど、その目的を少しでも早く、また力強く達成したくなった。演技がぼくを夢中にさせた、もっとも演技だけではなかったが・・・」って独白が!もーこのヒネクレ卑劣漢!o(´皿`;)ギギギ 彼が初めて目の当りにしたという深い絶望の光景、「家の誰にも、ただ一人にも自分の苦しみと涙を知られたくなかった」というのは大変よく分かる心情。イヤもう隠しきれなくなって大分経つけど、家族は本気でその原因が分からなくて戸惑い苛立っているともさ!(^^)b 未だに自分でもよく分かんないもんね、このどうしようもない絶望というかホントどうして生まれてきちゃっ(以下略)という感情の根源・なぜ生きるというかポジティヴな意欲が全く湧かないのか、という理由が。
リーザが売られる前の最後の青春の思い出、「ちゃんとした」学生から受け取った愛の告白の手紙を後生大事に持っていて、帰る間際の主人公に見せる有様ったら(´;ω;` )ブワッ 目に浮かぶようだよ、彼女の生き生きとした瞳の輝きや表情が。
下男のアポロンは主人公の写し鏡のような存在ですね。「ぼく」自身がそう考えているから、彼の姿や態度がそのように見える。「内部の心と良心の奥深いところに何か死にきれずに残っているもの」その感覚が主人公に「リーザへ語ったことは真心だった」と、「感情は本物だった」と言い聞かせる動機を持たせる。そのくせ臆病で彼女に本心の片鱗を見せてしまったことや、彼女が訪ねてくるかもしれないという行為への期待と怯え、またその存在自体への恐怖と嫌悪の感情をも抱かせる。そしていつものように自身を納得させ心の均衡を保つために(笑)「人間の魂なんて苦もなくこっちの思い通りに向け変えられる。・・・おれは言ってみればリーザを救っているわけで、彼女を教育し、知能をのばしてやる」なんて強がりを心の中で吐いたりして(^^; ホントこいつの自意識・自尊心は私とは違った方向で救いようがないな!と改めて思うわー。
あーしかしアポロンの聖/書詩篇朗読が耐えられない気持ちはよっく分かるよ!(´Д`;) でも何か存在自体が家と融合しちゃって追い出せない感覚とかも。・・・ウチの場合はソレやってたのが身内なわけだし。今でもそっちこっちに貼ってある「御言葉」だの何だの剥がせてないですよ、目につく度どんなにイライラ来てもね。「ぼくの住居は、いわば城であり殻でありぼく自身のケースであり、その中に全人類を逃れて閉じこもっていた」ってやっぱりまさに私か!σ(^∀^)ヒャッハー
そしてとうとうリーザが(最悪の場面で)現れた時、彼女に対して思いっきり八つ当たりのような本音をぶつける場面も切ねぇ!(;_;) 「(スヴェルコフたちとの宴会で)自分が踏みつけにされたから、今度は他人を踏みつけにしてやりたかった」に始まり、「本心ではきみの破滅を望んでいた」だの「世界なんか破滅したって、ぼくが茶を飲めれば良い」と悪ぶった上での、「ぼくにはわかっていたんだ、ぼくがならず者で、卑劣漢で、利己主義者のなまけ者だってことが。・・・ぼくがいちばん醜悪で滑稽でつまらなくて愚劣な、この世の中のどんな虫けらよりもいちばん嫉妬深い虫けらだってことがいけない」と涙をこぼしながら打ち明けるくだり。そしてそんな彼の不幸を理解してしまったリーザに対して芽生えた愛情と憎悪。「彼女が注意を向けたのは、ぼく自身、この一切を口にすることがさぞかし辛かっただろう、ということだった」私コレ元日に例のブッダ嬢に言われたばっかですがなー/(^O^)\ ドギツい上に周囲も巻き込む最低の自己セラピーだよ、正直言って。ブログに吐き出すのはその予行練習です、ぶっちゃけ(ホント繰り返しすみませんm(__)m)「ぼくはならしてもらえないんだよ・・・なれないんだよ、善良な人間には!」ってセリフにもう大号泣。・゜・(ノД`)・゜・。方向性は真逆でもその一点の、最も深い苦しみだけは全く同じだ、主人公と私は、と感じざるを得なかった。
最後の章、「ぼくは人を好きになることももうできなくなった男なのだ」「ぼくは安らぎがほしかった。地下室に一人きりになりたかったのだ」という箇所にも大いに共感を覚えましたが、「女性にとっては愛のうちにこそ一切の復活が、あらゆる破滅からの救いと新生が秘められている」という部分は否定したいというか、男女で括んないでくれる?と思った。何、女は子供生めるからか?当時の時代やロ○アの民族・社会的価値観を免れない考え方だからしょうがないって? まぁ私SEXとして無性を志向する人間だし、確かに子ども生んだ友達の様子を見ていると、特に男性視点ではそう感じちゃうのも無理はないかな、って分からなくはないけど(´-`) リーザが去る場面での紙幣のやりとりで「ぼくはあまりにもエゴイストで、現実に人間を尊敬するということがまるでなかった」と主人公が認めたのは良いことなんじゃないか、と思いました。彼女を通して、そして彼女への本心の吐露によって「自分の真の価値を思い知らされ」、家に帰った後で「空想にふけることで、生きた心の痛みを忘れようとした」彼は初めてやっと正確な自己認識、それがどんなに惨めで哀れで情けないものであったとしても、しっかりとした自分自身の形を掴むことができたんですね。
そして最後の書物への思い、この部分に私は一番、心底感動した。「ぼくらから書物を取り上げて裸にしてみたら、ぼくらはすぐさま途方に暮れ、指針を失ってしまうだろう。何を愛し、憎み、尊敬し、軽蔑すべきかもわからなくなってしまうのではないか? ぼくらは人間であることをわずらわしく思っている。本物の、固有の肉体を持った人間であることをさえ。それを恥辱だと考えて、これまで存在したことのない人間一般とやらになり変わろうとねらっている。ぼくらはとうの昔に生きた父親から生まれることをやめてしまった死産児で、それがいよいよ気に入ってきている始末」という表現。19世紀のロ○アという国が置かれていた状況、ヨーロッパから流れ込んでくる新しい科学と思想の潮流、その全てへの危惧と、結果的に彼の祖国が辿ることになった未来すら予測するような文章じゃないですか?(((゜Д゜;)))gkbr 脳、つまり知性が発達した人間では絶対に起こり得ない一般化、それを押し付けようとする思想や体制は間違っていると、ドストエフスキーはこの作品を通して懸命に主張し通したんじゃないか、と。別個の体と「心」を持って生まれてくる人間には土台不可能なんですよ。あり得ない「国=民族」という発想やらも同様にな!「人間」を生むのはどうやったって、あくまで固有の生きた人間だし(つーか人間である以上そうであるべきだろ。工場のように生んですぐ「党」にでも預けろってか?『1984』の理想みたいに?)、民族を育むのは国家や体制なんかじゃなくて風土やそこに根付く文化だ。
あと彼は同じ文章によって人間を導くのは神ではない、ということを暗に認めているんじゃないか、と思えた。カラマーゾフのイワンの原形を見たというか。倫理の規範は宗教によって定められるのではなく、人間の知恵の集積である書物によって表される。だから大多数の宗教が何らかの「教典」を持ち、それに基づいて説法や宣教が行われる。やっぱり神を生み出したのは人の側だな、と。狐狸庵先生は作中の葛藤を経つつも最後はムリにでも神の存在の肯定に持っていく方向だけど、ドストエフスキーの物語は幾度も神という言葉を登場させ、それに囚われていることを強烈に感じさせつつも最後には否定する、という真逆の方向性に向かう。非キ○スト教社会に生き、自らの属する社会における価値観と信仰の矛盾に苦しんだクリ○チャンと、キリ○ト教社会(ロシ○正教は少し独特だけど)に在って、信仰の虚しさのようなものに目覚めざるを得なかったという立場の違いのせいだろうか? 何か改めて、あの大地で起こった悲劇やそこに生きてきた人々のこと、しち面倒くさいけど同時に魅了させられる人間というものについて考えさせられる作品でした(-m-)
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リーザ編で、彼が前半に独白してきたことの真意が、根源的理由が全て顕わにされているような気がした。そしてここでも出てくる「肺病」・・・ホントちょっと後の時代だったとはいえ、ウチの祖父よく普通に長生きできたよ(((´Д`;))) でも娼婦で怖いのってぶっちゃけソッチより性病じゃね? あ、もうペニシリンはあったんだっけ? けど「病院かかれない」表現とか出てくるしなぁ。いやーしかし主人公の矛盾っぷりが冴えわたってるなこの章は!「人間ひとりの生命がかわいそう」とか「どんな暮らしでも世の中で生きていくのは良いもの」この辺はまさにドストエフスキーの人道主義的側面の代弁者。かーらーの、一言すら交わさずにヤることヤって「人間としてこんな醜悪な愛し方があるか!」って娼婦相手に同意を促す場面。「似たもの同士」だと分かった途端に彼女に同情と惹かれる気持ちと嫌悪を覚え始め、結果的に隠された本心と歪んだ他者に対する感情の向け方をさらけ出す行為に至ってしまう。彼はそれを「人をたぶらかす行為は感傷的だ」と自分自身に言い訳し、「家庭を知らないから情なしに育った」なんて責任転嫁もしておきながら、親に売り飛ばされたリーザに対して「愛情が無ければ分別というものもなくなってしまう」と偉そうに講釈を垂れる。この時点で酷い自己矛盾に気づいて傷ついているだろうに(>_<) でも「人間というものは不幸の方だけを並べ立てて幸福の方は数えようとしないもの」という点には同意するかな。そういうタイプの人、リアルでも結構いるしね。
本人がリーザを「たぶらかす」ために語っている長ゼリフの中の「だいたい愛があるなら、愛情で結ばれた間柄なら、どうして愛をなくしたりできるんだ!」ってのは愛情や人間同士の絆・信頼に長年飢えてきたであろう主人公自身の臆面もない本音じゃないのか、と切なくなった(´・ω・`) あと子供についてのくだりで、どんな貧しくてつらい暮らしだろうと「いつか子供たちから必ず愛してもらえるから、そのために貯金をしているのも同じ道理」というのも世の中の子供を持とうとする全ての夫婦二人の真理じゃないのか、と感じた。そして「純情で羞恥心の強い人間が他者に内心に踏み込んでこられた時、誇りの気持ちから自身の本心をさらけ出すのを恐れる余り嘲笑して虚勢を張る」というリーザの態度にもとても共感の気持ちを覚えます・・・。似たような失敗で相手を傷つけたことが何度あったかorz
で、そんな彼女の意を汲み取ることなく激昂した「ぼく」がリーザに「おまえが借金のカタに肉体と一緒に売ったものは魂だ。愛こそすべてじゃないのか、乙女の宝、ダイアモンド、それをおまえは差し出したんだ!」って罵るくだりも双方共に痛々しくて(つД`) 彼の罵りはますます止まらずに苛烈さを増していき、「これ以上につらい労役のような仕事はない、涙を流しつくして心は干上がってしまう」という言葉には、やはり彼に残る人間性というか他者への愛情が失われていないこともまた感じられる。でも、最後にリーザを絶望の淵へと追いやる部分「その死に際して涙にも供養にも縁がなく、この世で誰ひとり墓を訪れる者もない、元々この世界にいなかったみたいに」ってところは正直心底そうなりたいんですかどうすれば?としか・・・(病んでてすみま(以下略))更に絶望した彼女に「その魂をひっくり返し打ち砕いてしまった確信を得れば得るほど、その目的を少しでも早く、また力強く達成したくなった。演技がぼくを夢中にさせた、もっとも演技だけではなかったが・・・」って独白が!もーこのヒネクレ卑劣漢!o(´皿`;)ギギギ 彼が初めて目の当りにしたという深い絶望の光景、「家の誰にも、ただ一人にも自分の苦しみと涙を知られたくなかった」というのは大変よく分かる心情。イヤもう隠しきれなくなって大分経つけど、家族は本気でその原因が分からなくて戸惑い苛立っているともさ!(^^)b 未だに自分でもよく分かんないもんね、このどうしようもない絶望というかホントどうして生まれてきちゃっ(以下略)という感情の根源・なぜ生きるというかポジティヴな意欲が全く湧かないのか、という理由が。
リーザが売られる前の最後の青春の思い出、「ちゃんとした」学生から受け取った愛の告白の手紙を後生大事に持っていて、帰る間際の主人公に見せる有様ったら(´;ω;` )ブワッ 目に浮かぶようだよ、彼女の生き生きとした瞳の輝きや表情が。
下男のアポロンは主人公の写し鏡のような存在ですね。「ぼく」自身がそう考えているから、彼の姿や態度がそのように見える。「内部の心と良心の奥深いところに何か死にきれずに残っているもの」その感覚が主人公に「リーザへ語ったことは真心だった」と、「感情は本物だった」と言い聞かせる動機を持たせる。そのくせ臆病で彼女に本心の片鱗を見せてしまったことや、彼女が訪ねてくるかもしれないという行為への期待と怯え、またその存在自体への恐怖と嫌悪の感情をも抱かせる。そしていつものように自身を納得させ心の均衡を保つために(笑)「人間の魂なんて苦もなくこっちの思い通りに向け変えられる。・・・おれは言ってみればリーザを救っているわけで、彼女を教育し、知能をのばしてやる」なんて強がりを心の中で吐いたりして(^^; ホントこいつの自意識・自尊心は私とは違った方向で救いようがないな!と改めて思うわー。
あーしかしアポロンの聖/書詩篇朗読が耐えられない気持ちはよっく分かるよ!(´Д`;) でも何か存在自体が家と融合しちゃって追い出せない感覚とかも。・・・ウチの場合はソレやってたのが身内なわけだし。今でもそっちこっちに貼ってある「御言葉」だの何だの剥がせてないですよ、目につく度どんなにイライラ来てもね。「ぼくの住居は、いわば城であり殻でありぼく自身のケースであり、その中に全人類を逃れて閉じこもっていた」ってやっぱりまさに私か!σ(^∀^)ヒャッハー
そしてとうとうリーザが(最悪の場面で)現れた時、彼女に対して思いっきり八つ当たりのような本音をぶつける場面も切ねぇ!(;_;) 「(スヴェルコフたちとの宴会で)自分が踏みつけにされたから、今度は他人を踏みつけにしてやりたかった」に始まり、「本心ではきみの破滅を望んでいた」だの「世界なんか破滅したって、ぼくが茶を飲めれば良い」と悪ぶった上での、「ぼくにはわかっていたんだ、ぼくがならず者で、卑劣漢で、利己主義者のなまけ者だってことが。・・・ぼくがいちばん醜悪で滑稽でつまらなくて愚劣な、この世の中のどんな虫けらよりもいちばん嫉妬深い虫けらだってことがいけない」と涙をこぼしながら打ち明けるくだり。そしてそんな彼の不幸を理解してしまったリーザに対して芽生えた愛情と憎悪。「彼女が注意を向けたのは、ぼく自身、この一切を口にすることがさぞかし辛かっただろう、ということだった」私コレ元日に例のブッダ嬢に言われたばっかですがなー/(^O^)\ ドギツい上に周囲も巻き込む最低の自己セラピーだよ、正直言って。ブログに吐き出すのはその予行練習です、ぶっちゃけ(ホント繰り返しすみませんm(__)m)「ぼくはならしてもらえないんだよ・・・なれないんだよ、善良な人間には!」ってセリフにもう大号泣。・゜・(ノД`)・゜・。方向性は真逆でもその一点の、最も深い苦しみだけは全く同じだ、主人公と私は、と感じざるを得なかった。
最後の章、「ぼくは人を好きになることももうできなくなった男なのだ」「ぼくは安らぎがほしかった。地下室に一人きりになりたかったのだ」という箇所にも大いに共感を覚えましたが、「女性にとっては愛のうちにこそ一切の復活が、あらゆる破滅からの救いと新生が秘められている」という部分は否定したいというか、男女で括んないでくれる?と思った。何、女は子供生めるからか?当時の時代やロ○アの民族・社会的価値観を免れない考え方だからしょうがないって? まぁ私SEXとして無性を志向する人間だし、確かに子ども生んだ友達の様子を見ていると、特に男性視点ではそう感じちゃうのも無理はないかな、って分からなくはないけど(´-`) リーザが去る場面での紙幣のやりとりで「ぼくはあまりにもエゴイストで、現実に人間を尊敬するということがまるでなかった」と主人公が認めたのは良いことなんじゃないか、と思いました。彼女を通して、そして彼女への本心の吐露によって「自分の真の価値を思い知らされ」、家に帰った後で「空想にふけることで、生きた心の痛みを忘れようとした」彼は初めてやっと正確な自己認識、それがどんなに惨めで哀れで情けないものであったとしても、しっかりとした自分自身の形を掴むことができたんですね。
そして最後の書物への思い、この部分に私は一番、心底感動した。「ぼくらから書物を取り上げて裸にしてみたら、ぼくらはすぐさま途方に暮れ、指針を失ってしまうだろう。何を愛し、憎み、尊敬し、軽蔑すべきかもわからなくなってしまうのではないか? ぼくらは人間であることをわずらわしく思っている。本物の、固有の肉体を持った人間であることをさえ。それを恥辱だと考えて、これまで存在したことのない人間一般とやらになり変わろうとねらっている。ぼくらはとうの昔に生きた父親から生まれることをやめてしまった死産児で、それがいよいよ気に入ってきている始末」という表現。19世紀のロ○アという国が置かれていた状況、ヨーロッパから流れ込んでくる新しい科学と思想の潮流、その全てへの危惧と、結果的に彼の祖国が辿ることになった未来すら予測するような文章じゃないですか?(((゜Д゜;)))gkbr 脳、つまり知性が発達した人間では絶対に起こり得ない一般化、それを押し付けようとする思想や体制は間違っていると、ドストエフスキーはこの作品を通して懸命に主張し通したんじゃないか、と。別個の体と「心」を持って生まれてくる人間には土台不可能なんですよ。あり得ない「国=民族」という発想やらも同様にな!「人間」を生むのはどうやったって、あくまで固有の生きた人間だし(つーか人間である以上そうであるべきだろ。工場のように生んですぐ「党」にでも預けろってか?『1984』の理想みたいに?)、民族を育むのは国家や体制なんかじゃなくて風土やそこに根付く文化だ。
あと彼は同じ文章によって人間を導くのは神ではない、ということを暗に認めているんじゃないか、と思えた。カラマーゾフのイワンの原形を見たというか。倫理の規範は宗教によって定められるのではなく、人間の知恵の集積である書物によって表される。だから大多数の宗教が何らかの「教典」を持ち、それに基づいて説法や宣教が行われる。やっぱり神を生み出したのは人の側だな、と。狐狸庵先生は作中の葛藤を経つつも最後はムリにでも神の存在の肯定に持っていく方向だけど、ドストエフスキーの物語は幾度も神という言葉を登場させ、それに囚われていることを強烈に感じさせつつも最後には否定する、という真逆の方向性に向かう。非キ○スト教社会に生き、自らの属する社会における価値観と信仰の矛盾に苦しんだクリ○チャンと、キリ○ト教社会(ロシ○正教は少し独特だけど)に在って、信仰の虚しさのようなものに目覚めざるを得なかったという立場の違いのせいだろうか? 何か改めて、あの大地で起こった悲劇やそこに生きてきた人々のこと、しち面倒くさいけど同時に魅了させられる人間というものについて考えさせられる作品でした(-m-)
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