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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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八万打記念。震災絡み、亡くした者とフネの話。
一部の方を不快にさせるような表現がありますのでご注意願います。

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大きな大きな鉄の塊は、日に日に茶色く錆びていく。かつてフネと呼ばれたもの、形は分かるしまだ読み取れる字も残されている。近づくことは許されないが、遠目に見ても俺の身体よりずっと大きい――恐らくは以前住まっていた家よりも、何倍も大きいのだろう。初めてアスファルトの車道の上に乗り上げたそれを見た時の衝撃も、今ではよく思い出せない。いつの間にか溶け込んでしまった。乾いたヘドロの粉塵と共に鼻をつく潮の臭いにも、寄せられただけの瓦礫の山にも。月日は過ぎて、青々とした雑草が家の跡地にも茂っているのだ。ある意味で最近話題のエコロジー、緑地化が進んだじゃないか。コンクリートに固められていた家々が流されて、また自然が本来の姿を取り戻そうと、それであれが起きたのかもしれない。厭世的な気持ちで海を眺める視線の先には、“フネ”の早期撤去を訴える垂れ幕と“遺構”に認定されたことを報せる行政の看板とが並んで掲げられていた。学校でも、皆の意見は割れている。誰もが誰かを、何かを失って。初めての経験、初めての傷、若い俺らに正しいことはわからない。
幼なじみのいのりは毎日、あのフネに花を捧げに行き、時々メディアのインタビューにも答えているようだ。色を脱いていた髪を戻して、きっちり二つに縛ったりして。制服もちゃんと着て毎日学校にやって来る。両親のいない彼女をたった一人で育ててくれたばあちゃんは、今も行方が分からない。反対に優等生だった万起也は、授業をサボりがちになった。垂れ幕と一緒に役場回りと署名集めに忙しいと噂されているのを聞いた。あのフネに潰されたかもしれない伯父さんのことを考えるといても立ってもいられないんだ、って。じゃあ、俺は――? と聞かれても、何とも思わないことは答えられない、どっちでも良いと言うしかない。俺の大事な人はあそこで死んだわけじゃないし、あれがあってもなくても、元あったものが失われたことは、戻ってこないことは同じだから。そんな俺は、冷たすぎるって言うのかな? 未来へのビジョンが無い、って批判されてしまうのかな?
忘れたいという気持ちは忘れられないからこそ生まれ、忘れたくないという気持ちは忘れかけているからこそ強まってしまうと聞いたけれど。じゃあいのりは忘れかけているのかな? 何も残っていないから、怖くて、申し訳なくて残したいと望むんだろうか? 万起也は逆に、忘れられなくて苦しんでいるのだろうか? あの日の雪も、火も、煙も、寒さも、静寂も、底知れぬ恐怖も――何も意味が無いじゃないか、あっても無くても、俺たちは傷ついて、そこに確かに痕は残る。忘れることは癒しではなく、進むことは救いなんかになり得ない。
 
「今度はBKAが来るんだって、八太知ってた?」
 
不自然にはしゃぎながら告げてくるいのりの、すっかり化粧っけのなくなった横顔を見ながら俺はため息を吐いた。
 
「何だ、次の週末もイベントかよ……ホント仮設って休みねぇな」
 
「ちょっと、ちゃんと顔出しなよ? 若い子少なくて自治会長さん困ってるんだから」
 
次々行われる復興支援のイベントは、俺らの心を摩耗させる。大体高齢化の良いだけ進んだ地域だって、ちゃんと分かって来るんだろうか? 小さい子供のいる家族は、それぞれどこか便利なところに適当なアパートを見つけているし。初めは有名人に会えることが嬉しかったりもしたけれど、『頑張って』のオンパレードは正直つらい。そんなことより船と加工場直してもらった方が、することなくてバタバタ寝込んじまってるじいちゃんたちもよっぽど持ち直すと思うんだけどな。復興特需っつっても外の人間が来るだけで、地元のやつらにできることは凄く限られてるんだよなぁ……。
 
「ヤマちゃん、BKA好きだったじゃない? だから八太が代わりにサインもらってくれたら、きっと喜ぶとおも……」
 
「うるせぇ」
 
不機嫌に呟いて俺は薄っぺらな引き戸を開け、ピシャリと閉じた。どうでも良いんじゃない、覚えている、こんなにも――忘れていない。最後に交わした会話、次のシングルを予約した話、今年の総選挙は誰に入れるだとか、街中の店に新しいカードが入ったらしいだとか。あいつホント馬鹿だ、直前まで、当たり前みたいにその先の春も夏も秋も来ると思ってた。“次”の時間が無いなんて、考えもしてなかった。一緒に、逃げろって言ったのに。携帯電話は揺れの直後、ちゃんと繋がったはずなのに。あいつ、裏手の神社に逃げたからって。学校来てたら助かったのに、遅刻してきたいのりみたいに、半狂乱になってばあちゃん助けに行くって叫んで、先生たちに羽交い絞めにされてたいのりみたいに。何であの日に限って腹なんか下すんだよ、だりぃなんて、どうせサボりだったんだろ、なぁ?
 
倉庫みたいな、体育館の空気はいつにも増して冷たくて、乾燥している冬のはずなのにどこか湿ってクサかった。あちこちからすすり泣きが漏れて、そこら辺にいる警察官の姿がドラマみたいで。特に親しくもなかったはずの女子が顔を見れないと泣いていた。じゃあ何で来たんだよ、とイライラしながら覗き込んだ顔は、思ったほど酷くなくて拍子抜け。余り時間が立っていなかったせいか? 寒いから? 長い時間、水に浸からずに済んだから――?
 
『この子ね、すぐに弔ってあげられないの』
 
おばさんが目をハンカチで押さえながら呟いた。
 
『火葬場がいっぱいだからね、一回土に埋めて、後でまた荼毘に付さないといけないのよ。だから……せめて、申し訳なくてっ』
 
わっと泣き伏したおばさんに、俺は気の利いた挨拶の一つもできず、何も言えないまま今日まで来た。あれから、近くの親類の家に移ったと聞くあいつの仏壇を、一度も拝むことができずにいる。親友だった、一番の。一生の。あいつ以上の友達なんてできないだろう――死んだからそうなった。死ななければわからなかった。どっちにしろ無かったことにはできないのだ、あの日、あの出来事、あれから先の時間は今の俺の心にとって。それなら受け止めて、一緒にもがいて苦しんで、抱きかかえて歩いていくしかないだろう? その覚悟はまだ、十分あるとは言えないけれど。“モノ”はあるも無いも同じ。“伝えること”の意味はわからず、ただひたすら、もうこんな思いはしたくない――だから言いたくなくて、でも知ってほしくて、だから捨てたくて、でも棄てたくなくて。
ゴウンゴウン、瓦礫の音、工事の音、壊す音、生まれる音。強い風は磯の香りではなく臭いを運び、それでも冬の日は美しい。凍える海の中顔を出す太陽も、朱に染まる平らな街の骸も――始まり。終わり。あの夕暮れ、帰りがけの会話。繰り返し思い出す、覚えている、こんなにも。消えない、いつか消える日が来たとしても、存在を忘れることはきっと無い。起こったことはなかったことにはできないから。
 
「ごめん!」
 
と外から叫ぶいのりに
 
「いいよ」
 
と言って戸を開けた。
 
「誰が来んの? あいつの推しメン、去年脱けたと思ったけど」
 
何てことない会話に泣きそうになる彼女に向けて苦笑すると、
 
「ワガママだよ、二人とも」
 
とこちらも小さな笑いがこぼれた。小さなことを積み重ねて、俺らは大人になり、確かに“進んで”しまうのだろう。やがてあの日から、この場所から、遠ざかる日がやって来る。それでもきっと――生きている限り、まっすぐに伸びた時間の中に彼は、彼らは、あの日は確かに刻まれて。続いていくのだ、あの日の上に、この先の日々が。
もうすぐ、三年目の春が来る。






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現代掌編。ガチで病んでる話。

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AM 3:59
携帯電話の液晶画面に浮かんだ表示を見て、エリは手にしていた薬の袋を投げ捨てた。タイムリミットから一時間が過ぎようとしている。午前三時以降に強い薬を飲むと、朝には起きられないことを知っていた。窓の外が徐々に明るくなっていく。エリにとって最も苦しい時間だった。
 
頭まで布団を被り、ベッドに深く潜りこむ。無理にでも寝ている姿勢を取らなければ、また母に余計な世話を焼かれてしまう。眠ろうと思えば思うほど、嫌なことばかり考えてしまう。エリは今日の夕方見たばかりのニュースを思い出して、強く目を瞑った。
 
キイチ。あれはキイチだった。
殺人事件の被害者としてテロップに流れた名前を、彼女はぼんやりと覚えていた。二十歳という年齢、住んでいる場所からしてもほぼ間違いは無いだろう。エリより少し年上の、少し悪ぶった青年の姿を思い浮かべる。明るい髪色、斜に構えた視線、灰色のスウェットにサンダルを履いた、やる気の無い後ろ姿……衝撃は感じない。ただ虚ろな恐怖だけが、そこにあった。
これで本当に、一人になった。
 
 
AM 6:28
眠ると言うより疲れ果てて意識を失うという表現に近いかたちで、エリはベッドの上に倒れ込んだ。深い深い眠りが、ようやく彼女の上に訪れる。昇りかけた太陽が、薄明るく窓の外を照らしていた。
 
 
PM 0:14
尿意を催してもぞもぞと身動きをすれば、眩しいほどの日の光がカーテンの向こう側からベッドの中の自分を突き刺していることに、エリは気づいた。酷く乾いた口の中が気持ち悪くて、ベッドから出るなり洗面所へと駆け込む。ガラガラと音を立ててうがいをし、それから歯ブラシを手に取る。洗面所の鏡に映ったエリの顔には、消えることの無い真っ黒なクマができている。
 
「六時間くらい寝たはずなんだけどなぁ……」
 
俯いて首を振る。“フツウ”の人間が夜の零時に眠って朝六時に目覚めることと、エリの睡眠のリズムは余りにも違いすぎる。エリは自嘲した。薬がもう無くなった。今日は病院に行かなければならない。憂鬱な気分のまま、エリは顔を洗い、メイクを施す。戻してしまったら嫌だから、朝食とも昼食ともつかぬ食事は取らない。
 
 
PM 2:07
病院の待合室は意外なことに座る席も無いくらい混み合っている。平日の午後は、エリのような人種でも“外”に出やすい時間だ。毎日決まった時間に決まった服を着て、決まった場所へ向かう人たちのいない時間。エリが腰掛けたテーブルの向かい側のソファでは今日も中年の女性が大音量で陳腐なメロドラマを垂れ流すワンセグ画面を食い入るように見つめているし、その後ろでは母親に付き添われたふくよかな男性がブツブツと何かを喚いている。
 
「ナイフ持ってこい、ナイフ!」
 
ナイフはちょっといただけないな。
男性の呟きを聞き咎めたエリは薄ぼんやりとそんなことを思った。ここに通い始めたばかりの頃は恐ろしいと身震いしたような言葉にも、耐性はできるものだ。世の中には色んな人がいる。そして自分もまた、“この人たち”の同類なのだ。名前が呼ばれるまでの長い長い時間を、音楽プレイヤーに繋がれたイヤホンと一冊の文庫本でやり過ごす術を、エリはいつの間にか身に付けてしまった。
 
「エリちゃん、最近はどう? ちゃんと眠れてる?」
 
ニコニコと問いかけてくる医師に、エリは小さく頷いた。
 
「はい、おかげさまで……」
 
「嘘ついちゃ駄目だよ。顔見ればわかるんだから」
 
「…………」
 
医師の指摘にエリが黙り込むと、彼は真面目な顔でカルテを覗きこむ。
 
「少し薬を変えてみようね。飲む時間も変えよう。今度は二回に分けて……」
 
その先の説明にうんざりして、エリは窓の外を見やった。外には明るい日の光に新緑が煌めいていた。その眩さに、思わず視線を逸らしてしまう。変わらないやりとり、変わらない自分の症状、唯一変わるのは薬だけ。
 
「先生、何も言わなかったな……当たり前か」
 
待合室の椅子に深く腰掛けて、エリは手にしていた文庫本を開いた。シンゴが死んだ時も、彼は何も言わなかった。シンゴは自殺して、キイチは殺された。エリは二人と、この待合室で出会ったのだった。エリは不眠症、シンゴは鬱病、キイチは薬物依存の末警察に連れられて初めてこの病院を訪れたのだと言っていた。地元では一番の有名大学に通うシンゴと、少年時代から補導歴のあるキイチは対照的な存在。心の病を抱える同世代の三人が、ポツポツと言葉を交わすようになったのはいつ頃のことだっただろう。エリは朝が、シンゴは自分が、キイチは人間が嫌いだった。恐れていた、と言っても良い。三人とも、それを消したがっていた。消すために、自らを消してしまいたがっていた。エリだけが、取り残されてしまった。
 
 
PM 4:45
エリはアルバイトのためにバスに乗り込んだ。最寄りのバス停から出るバスは三十分に一本程度。ど田舎という訳でもないのだろうが、欲を言えば駅の近くに住みたかった。エリはマフラーをぐるぐると首に巻き付けて、長い前髪で顔を隠した。
知り合いには会いたくない。
 
「今何してるの? 私は元気、今度同窓会しようよ……」
 
そんな社交辞令が、近頃のエリには鬱陶しく感じられるようになっていた。
 
「今精神科に通ってるの。学校には行ってない。定職にも就いてない。同窓会に行っても、話すことなんか何も無いよ……」
 
ニートより性質が悪い、とエリは内心で毒づいた。確かに、アルバイトはしている。親を心配させたくないから、“引きこもり”と呼ばれたくないから、どこかで正常な世界と繋がっていたいから。それでも、完璧にこなせている自信は無い、やる気も無い。ただ行って、決められたことを“してみる”だけ。エリより気の利くパートの主婦も、エリより経験豊富な若い学生も山ほどいる中で、言い訳のためだけに時間を潰す自分はどうしようもないという自覚はあるのだ。それでも何となく、今日もバスに乗り込んだ。口から洩れるのは溜息ばかり。憂鬱な一日は、まだ終わらない。
 
 
PM 10:36
家に帰り、シャワーを浴びる。シャンプーの匂いが嘔吐の合図。水のような胃液を吐く。これはエリにとって毎日の儀式だ。あらかじめ少しでも吐いておけば、気の進まない夕食も何とか食べられる。空っぽの胃から吐き出される半透明の液体なら、家族に気づかれることも無い。暖かいお湯に溶け去るそれを眺めながら、エリは嗤った。
 
 
AM 0:00
エリの闘いが始まる。まずは軽い導入剤を一錠。布団に入り携帯を繰る。友だちのブログは気分が明るい時しか開かない。自分とかけ離れた生活を、自分が送れたかもしれない生活を垣間見てしまうことは、少なからず睡眠前の心を刺激し過ぎてしまう。さして興味も無い芸能人の呟き、無責任な連中の集う掲示板、夢見がちな投稿小説……順繰りにブックマークを巡って睡魔が訪れるのを待ってみても、それは中々やってこない。諦めて目を瞑り、肩まで布団を引っ張ってみるが、その態勢で無理に寝ると必ずと言って良いほど金縛りにかかってしまう。それは魂が身体から引っこ抜かれるような感覚であり、身動きが取れず、噂に聞く幽霊や妖怪の類をイメージすることもあるが、ただの悪夢の一種だと今のエリには分かっている。深い眠りを得るべき時間にそれができない。全ての原因はそこに帰結するのだ。そうしてまた繰り返す。昨日と同じ一日を。
 
 
AM 5:15
突然、エリは布団をガバリとめくって飛び起きた。パジャマ姿のままで素足にサンダルをつっかけ、玄関の扉を開けてマンションの外階段を一目散に登り出す。上へ、上へ、ただ逃げたくなったのだ。今いる場所から、自分の存在から。屋上に辿りつき、フェンス越しに暗闇が口を開ける真下を覗きこむ。手がかじかみ、足が震えた。
 
「無理だよ、無理だ……私、ほんとうに馬鹿」
 
すがるように見上げたフェンスの高さが、まるでエリを拒んでいるかのようだった。
 
『それはちげぇーよ、エリ』
 
どこからか聞こえてきた懐かしい声は、一体誰のものだったか。
 
『人生は夜明け前の闇なんだ。だから人は、朝が来るその日まで一生懸命火を燃やし続ける』
 
つっぱっている癖に妙に詩的な物言いをするキイチ。
 
『朝が怖い君が、夜の中では一番生きやすい人間なんじゃない?』
 
理屈っぽくて固い喋り方を好むシンゴ。
 
「知らなかった……知らな過ぎたよ、三人とも。“失うこと”が、こんなに悲しいことだって……!」
 
エリは泣いた。泣きじゃくった。本当はこんなにも悲しかった。自分の病気が治らないことより何倍も、二人を失ってしまったことが。三人とも、自分だけに捉われ過ぎていた。周りを見る余裕が無かった。“自分”をデリートすれば全てが終わると信じていた。けれど“世界”は、そんなことで消えはしないと、もっとちゃんと知るべきだった。理解するべきだった。二人の火は消えてしまった。朝の光を迎えたから。けれど、自分は――
エリは目の前に広がる暗い景色をじっと見つめた。
 
「そうだね、シンゴ……暗がりの中なら、私は生きられる」
 
エリは瞳を閉じた。そろそろ東の果ての空が、ぼんやりと白く輝き始めるころだろう。瞼の裏に感じる眩さから、もう目を背けることはすまい、とエリは思った。







後書き


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現代・掌編・少女マンガ風?

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「あの、こちらに上条由紀也先輩はいらっしゃいますでしょうか!?」
 
昼休みの教室の入り口で、顔を真っ赤にして大声で叫んだ一年生。少女漫画のテンプレ的な女がいるなぁ、それが彼女の第一印象だった。
 
「ひゅーひゅー、由紀也やるじゃん」
 
俺が口笛を吹いて囃したてると、由紀也――親友はいかにもうるさそうにこちらを睨んだ。そうして少し面倒臭そうな足取りで立ち上がり、教室の入り口でカチンコチンになっている彼女に向き合った。
 
「悪いんだけど……誰さん?」
 
胡乱気な由紀也の問いかけに、これまた大声で彼女は答えた。
 
「一年C組、田崎ゆめと申します!」
 
由紀也の後に続いた俺は、その余りに思い詰めた表情(かお)に爆笑してしまった。俺の脳内フォルダに新しいテンプレートが追加されたのは、多分その時だったのだろう。
 
 
~~~
 
 
それから彼女は、いっそしつこいくらいに俺たちの前に姿を現すようになった。
 
「か、上条先輩、髪少し切ってみたんですがどうでしょうか?」
 
「上条先輩、お弁当作ってきました!」
 
「上条先輩、ごめんなさい、私、いつも足を引っ張ってばかりで……」
 
普段は茶色のヘアゴムをピンクに変えてみたり、いかにも女の子らしい水玉のバンダナにくるまれた弁当箱を差し入れてみたり、張り切って由紀也も所属する体育祭実行委員に立候補してみたり……傍から見ればうざったいほどの彼女の行動は、健気な努力と一途な姿勢で次第に周囲に受け入れられていった。彼女はいつの間にか俺と由紀也の日常に当たり前のように入り込んでしまったのだ。
二つに結ばれた少し色の薄い癖のある髪がくるくるとよく跳ねる。大きな瞳はまるで小動物のようにきらきらと輝き、リップクリームで潤った口元は開いたり閉じたり上を向いたり下を向いたり、忙しないことこの上ない。思い込んだら一直線で上級生の教室にも気おくれすることなく飛び込んでくるし、例え悪目立ちしても、いじめられても懲りることなく彼を――由紀也を追い続ける彼女。
 
長身に真っ黒な短髪、引き締まった身体にいつもどこか不機嫌そうな、けれど割かし男前、と表現できるくらいの顔立ちをした由紀也も、典型的な少女漫画のヒーローだ。彼女の猛アタックに迷惑そうな素振りを見せながらも何だかんだと相手をしてやり、あからさまなドジは見て見ぬふりをしながらもフォローを欠かさず、ボール意外に興味が無いという表情(かお)でグラウンドを走りながら、密かに――本当にこっそりと、フェンスの向こうの群衆に眼差しを注いでいる親友。
 
知らぬは本人ばかりなり、まさに王道テンプレート。そんな二人をくだらないと言いながらも、俺もその中にしっかりと組み込まれた人物を演じていることに、息苦しさを覚えるようになったのはいつからだろう?

 
 
「ゆーめちゃん、髪型変えた? 可愛いね、似合ってる」
 
「また先越されちゃったの? じゃあ俺が食べてあげるよ」
 
「あの時はよく頑張ったよね、俺はちゃんと見てたよ」
 
色が脱けて傷んだ髪を無造作に後ろへ流し、制服のズボンをだらしなく下げた俺のことを、初め彼女は少し警戒していたようだった。けれど、彼女の想い人の隣にいつもいる俺に、少しずつ、本当に少しずつ笑顔を向けてくれるようになった。
 
「もう~やめて下さいよ高木先輩。いつも冗談ばっかり」
 
彼女が寝坊をして髪を降ろしてきた日、風にたなびく髪から漂う香りにドキリとしたことも、同級生からの嫌がらせで由紀也に渡せなかった調理実習のクッキーの味が少し苦かったことも、体育祭で足をひねりながらも由紀也にバトンを繋ごうと必死に走り抜く姿に感動したことも、言葉にしたところで、態度に表したところで全て、全て彼女の心の奥には届かない。彼女の瞳には由紀也しか映っていないから。彼女は、俺の言葉なんか必要としていないから。由紀也は、何も言わないのに、彼女に、何もしてあげていないのに。
笑わせる、テンプレートは俺の方だ。チャラくて明るいお人好しの先輩、ヒーローの親友、ヒロインに片思いする当て馬。初めは面白そうだから、という理由で引き受けた役回りのはずなのに、今ではとんだ道化師だ。
 
 
~~~
 
 
俺と彼女が一対一で話すことができるのは、大抵青空が広がる屋上の一角だ。元々タバコを吸うためにこっそり通っていたはずの場所なのに、彼女が嫌がるせいで近頃はさっぱりご無沙汰してしまっている。

「ゆめちゃんてさー、いきなり由紀也探しに教室来たけど、最初のきっかけって何だったの?」

聞いたら負けてしまうような気がして中々聞けなかった質問をぶつけると、彼女は恥ずかしそうに少し俯いて話し出した。
 
「私、初めて学校にバスで来た日、緊張しすぎたせいか、料金箱にお金を入れる直前に百円玉を転がしちゃったんです。たまたま予備の小銭も無くて、凄く恥ずかしくて、後ろには沢山人が並んでるしで一人テンパっちゃって……」
 
「そして? そん時由紀也が、無言で自分の財布から百円玉を差し出してくれたって?」
 
俺の相槌に、彼女は力強く何度も頷く。
 
「そうなんです! その時はお名前も存じ上げなかったんですけど、同じ学校の制服だったし何とかしてお礼を言わなきゃ、と思って……」

頬を染め、身ぶり手ぶりを交えながら一生懸命話す彼女は何だかとても幸せそうだ。
 
「俺には、無理だなぁ……」
 
ボソッと呟いた言葉に、彼女はきょとりとして首を傾げた。彼女と由紀也の慣れ染めは拍子抜けするほどシンプルで、だからこそ揺るがないエピソード。本当に、どんだけテンプレ通りだよ。彼女の失敗も、由紀也の行動も。
俺が由紀也なら、イライラしながらとろくさい後輩に罵声を浴びせているかもしれない。それが普通のリアクションだろう、きっと。
 
「あっ、今こいつ馬鹿みたいに単純、とか思ったでしょ……!?」
 
何かに気づいた表情で、彼女が上目遣いにこちらを睨む。
 
「いや、全然?」
 
俺の答えに、彼女は納得がいかない様子ですねたように視線を逸らした。
 
「単純でいいですよ、恋愛なんて一目惚れと思いこみの賜物だ、ってお姉ちゃんが言ってましたもん」
 
「そりゃ真理だな」
 
俺は笑った。彼女をヒロインだと信じなければ、俺はこのテンプレートを保存することは無かったかもしれない。全ては思い込み、“可愛いかもしれない”、“優しいかもしれない”、“運命かもしれない”……その積み重ねが、想いを創る。きっかけは簡単、だけど、嘘じゃない。心の中で呟きながら、唇を尖らせる彼女の柔らかな癖毛に手を滑らせる。
 
「まぁ良かったじゃん? 晴れて両想いになったんだし……」
 
そう告げた途端、音を立てる勢いで林檎色に染まる彼女の頬。彼女をこんな表情(かお)にさせることができるのは由紀也だけだ。でも、その表情(かお)を見た回数なら、きっと俺の方が由紀也に勝ってる。由紀也本人にはできない話を、俺は沢山聞いてきたんだ。彼女の悩み、彼女の喜び、彼女の想い。この場所で、くすぶる痛みを閉じ込めながら。
 
「……ありがとうございます、高木先輩に色々アドバイスしていただいたおかげです」
 
彼女は俺に向かって微笑んだ。くしゃくしゃと頭を撫でると、くすぐったそうに身をよじるその姿が、堪らなく愛しい。
 
「本当に可愛いなぁ、ゆめちゃんは。……由紀也と、いつまでも仲良くしろよ?」
 
俺の言葉に彼女は一瞬動きを止め、窺うようにこちらを見た。もう駄目なんだ、限界だ。俺は固く貼り付けてきたピエロの仮面を、ここらで投げ捨てることにするよ。良いだろ? 親友。どうせ俺は――
 
「ゆめちゃん、俺さ……転校するんだ」
 
ここから先は、俺の手で書き換えられたテンプレート。さぁ、君はどんな答えをくれる? もし俺がいなくなったら、失われた言葉を懐かしんでくれるのかな? 俺の存在を、少しでも思い出してくれるだろうか? ……可哀想な当て馬に、一発逆転ホームランの可能性は何パーセント残されている?
言葉を失った彼女の瞳が丸く見開かれる様子に、俺は満たされた思いで口端を上げた。







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同性愛要素を含みますので苦手な方はご注意下さい。

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私の英雄(ヒーロー)は女の子だった。
小さな私設の託児所からその数倍の規模の公立保育所に移ったばかりのころ、
いじめられていた私をいつも助けてくれたのが彼女だった。
子どもの世界では、“新参者はいじめに遭う”と相場が決まっている。
女の子たちは群れをなし、群れには必ず“リーダー”がいる。
誰よりも目立ちたがりで、誰よりも気の強い女の子が。
そんな女の子が、ただでさえ目立つ“新参者”を疎まないわけがない。
ましてや私は我儘で偏屈な性質だった。
家族も同然の仲間たちの元、甘やかされた一人っ子の私は、
集団の規範に合わせることがとても苦手だったのだ。
 
それでも、初めのうちはまだ良かった。
“思い通りになるお人形”の出現を喜んだ年長の女の子たちが、
よってたかって私に群がり、結果として私を守ってくれたから。
私と同年の他の女の子たちは、“お姉さん”たちのおもちゃになることを嫌がった。
何も知らない私と、“動くお人形”の欲しかった“お姉さん”たちの利害は一致していたのだ。
問題はそれから暫く経ち、“お姉さん”たちが卒業した後にやって来た。
 
庇ってくれる相手のいなくなった私は、当然のごとくいじめの標的になった。
給食の牛乳に鼻糞を混ぜられる、トイレに閉じ込められる、
わざと転ばされることなどしょっちゅうだった。
そんな時、いつも私の前に立ちふさがり、
 
「なんでみんなこんなことするの!? ぜったいおかしいよ!」
 
と怒ってくれる女の子がいた。
長い髪の両端に三つ編みを結い、つぶらな瞳をした可愛らしいその女の子は、
まどか、という名前だった。彼女は群れを外れた“一匹狼”だった。
間違ったことは嫌い、嘘は嫌い、弱い者いじめは嫌い。
みんなが避けがちな軽い障害のある友だちの面倒も、進んで見る子どもだった。
 
私は、すぐに彼女と仲良くなった。
まどかちゃんの隣にいるのは楽だった。まどかちゃんは他人(ひと)を馬鹿にしない。
私が、“子どもの法律(ルール)”から外れるようなことを言ってしまっても、
決してそれを笑ったりはしなかった。
それが私だから、と認めてくれるような女の子だった。
 
まどかちゃんにはお父さんがいなかった。
そのことで、よく“リーダー”の女の子と喧嘩をしていた。
まどかちゃんのお父さんは、まどかちゃんがお母さんのお腹にいる間に
行方をくらましてしまったのだという。
まどかちゃんのお母さんは、十代でシングルマザーとなり、
昼夜働きながら懸命にまどかちゃんを育てていた。
まどかちゃんは、そんなお母さんが大好きだった。
 
「お父さんもいないくせに!」
 
“リーダー”の女の子がよく使っていた捨て台詞である。
普段は決して泣くことの無い気丈なまどかちゃんが、
この時ばかりは必死に涙をこらえていたのを私は知っている。
 
まどかちゃんはいつも言っていた。
 
「自分が“お父さん”の分までお母さんを守るのだ」
 
と。一方の私は、そのころ守られてばかりだった。
お父さんに、お母さんに、まどかちゃんに。
私は初めて、自分を恥ずかしいと思う感情を知った。
 
 
~~~

 
卒業アルバムの“大好きなおともだち”の欄に名が残る彼女とは、その後小学校が別れた。
文通を続けて数年がたったある日、まどかちゃんから一通のハガキが届いた。
 
『今度お父さんができます。弟も生まれます。
ドキドキするけど、とっても嬉しいです。
苗字が変わってお引っ越しもするけど、これからも仲良くしてね』
 
見るからに嬉しそうな字が踊っていた。
私は、その報せを素直に喜べなかった。そしてそんな自分に複雑な思いを抱いた。
 
「“お父さん”が欲しい」
 
と決して口にしなかったまどかちゃんが、本当はどれほどその存在を渇望していたか、
自分の父親に抱きあげられた彼女の紅潮した頬を見て知っていた。
きょうだいを望んでいたのも、同じ立場にあった己を省みて気づいていた。
まどかちゃんの幸せを喜ぶべきだ、と頭では解っていた。
それでも、嫌だった。まどかちゃんの苗字が変わってしまうことが。
自分にとっての英雄(ヒーロー)が、何だか別の人間に変わってしまうようで。
寂しかった。まどかちゃんが遠くに行ってしまうことが。
もう傍にはいられない、助けてもくれない、助けることもできない場所に行ってしまうことが。
 
実のところ、私はまどかちゃんの“お父さん”となる人間に嫉妬していたのだ。
“お父さん”は、きっとまどかちゃんのことも、まどかちゃんのお母さんのことも守れる。
あまつさえ弟という宝物まで与えることが出来るのだ。
まどかちゃんにとっての英雄(ヒーロー)ではないか。
私の英雄(ヒーロー)はまどかちゃんなのに、まどかちゃんの英雄(ヒーロー)は私ではない。
その事実が、たまらなく悔しかった。
私は、私も、まどかちゃんを守りたかった。守られてばかりではなく、恩返しがしたかった。
そうして私がまどかちゃんを求めるのと同じくらい、まどかちゃんに私を必要としてほしかった。
英雄(ヒーロー)になりたかった。
まどかちゃんを、彼女の守るお母さんごと守れる、強い人間になりたかった。
実際は、お父さん(ヒーロー)には大人の男の人しかなれない。
小学生の女の子だった私は、そんな現実から目を背けることしかできなかった。
そのハガキが届いて以降、私はまどかちゃんに手紙を書くことをやめた。
 
 
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恋心というのは、風のように吹き過ぎてから初めて気づくものなのかもしれない。
 
ああ、あれは初恋だったのかもしれないな。
 
ふとそんな思いが浮かんだのは、まどかちゃんと連絡が途切れてから
数年が過ぎ去った高校生の時だった。
私はその時も、同性に恋をしていた。そしてそんな自分に戸惑っていた。
好きな女の子は、やることも言うこともどこか懐かしい存在だった。
 
そうだ、まどかちゃんに似てるんだ――
 
そう思った途端、私は唐突に己の恋心を自覚した。
そのころ、異性への初恋はとうに終えていた。
 
何だ、同じじゃないか。
男の子を好きになる時も、女の子を好きになる時も気持ちは同じ――
 
そんな単純なことにようやく気づけた私の心は、少しだけ軽くなった。
結局最後まで想いを伝えることはなかったけれど、
彼女への想いは大切な思い出として私の中に残った。
 

~~~

 
性別を問わず恋をする私を、「節操なし」と呼ぶ人もあるかもしれない。
同性を好きになることを、理解してくれない人もいるだろう。
けれど私は自分を恥じない。
彼女の、彼の英雄(ヒーロー)になりたいと願った自分を否定することだけはしたくない。
英雄(ヒーロー)になれなかった私でも、その想いだけは本物だったと信じていたいから。
そしてきっとまどかちゃんなら、そんな私を笑って受け入れてくれる気がするのだ。
それが私だから、と。
想いを叶えたかったわけではない、ただ認めてほしかった。
たとえ怪獣のしっぽに弾きとばされても、英雄(ヒーロー)と共に戦うことを。
 
「初恋は叶わない」とは言い得て妙だ。
私の初恋は叶わなかった。否、現在(いま)でも叶わぬ恋は多い。
我ながら厄介な性癖を持ったものだ、と溜息が漏れても、私は後悔していない。
あの時彼女への想いを認めたことを。
長い髪を靡かせて可愛らしく笑う、まっすぐで芯の強い私の英雄(ヒーロー)への想いを。
 
まどかちゃんが行ってしまってから、既に十年以上の月日が流れた。
今の彼女は、OLとして毎日を忙しく過ごしているのだろうか。
早めの結婚をして、お母さんになっているのだろうか。
どちらでも良い、私よりも、“お父さん”よりも数倍素敵な
英雄(ヒーロー)と巡り合ってくれることを、私は心から祈っている。

 
まどかちゃんは、今でも私の大好きな友だち。
そして大切な、大切な初恋の英雄(ヒーロー)だ。
 




後書き
 


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三万打記念掌編。おじさんと“愛人”の別れ話。

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どうせ一口しか飲まないなら、わざわざコーヒーメーカーまで購入して
他人に毎朝コーヒー入れさせることなんてないのになぁ。
いつものようにカップから一口黒い液体を流し込んだだけでテーブルに
コトン、と置き、背広を羽織る“おじさん”の後姿をじっと見つめる。
 
「じゃあ言ってくるよ、万智」
 
「はぁい、いってらっしゃーい」
 
「次に来るのは三日後かな。時間は七時半くらい。
あと、夕食は豚の生姜焼きが食べたい」
 
「……豚肉が安かったらね」
 
「何だい、お金は十分あげているのに」
 
苦笑して頭を撫でるおじさんに、相変わらずこの人の金銭感覚は
どうなっているのだろうか、と呆れてしまう。
九時過ぎの出勤、どんなに遅くとも八時前には帰宅。
何て優雅な重役生活でいらっしゃること!
まぁそれも、この二年ですっかり慣れてしまったが。
 
「じゃあね万智、また後で」
 
頬に触れた髭が、少しだけ痛い。出かける前に、頬への軽いキス。
スキンシップはこれだけなのに、私は何と、
このダンディでお金持ちなおじさんの“愛人”なのだ。
 
 
~~
 
 
おじさんとの出会いは約二年前。ほとんど出席日数分しか登校していない
高校を卒業した直後、当然というか何というか私は職にありつけなかった。
うちの高校は商業系でも工業系でもない普通高校(それもちょっと、いやかなりバカめ)で、
私はもちろん何の資格も取得してはいなかった。
ただでさえ求人募集の少ないこの不景気真っ只中、高卒で就業経験も無い
私ができる仕事なんて、結局おミズくらいしかないだろう……
と夜の歓楽街に足を向けかけた時、私はインターネットでその広告を見つけた。
 
『愛人募集。三食部屋付き、月収100万円』
 
今にして思うとかなり胡散臭い文言だったが、その時の私は藁にも縋る思いで飛びついた。
そうして、送られてきた返事のメールで指定された場所に現れたのが、意外や意外、
腹がメタボっているわけでも頭がハゲているわけでも顔が脂ぎっているわけでもない、
少し枯れた感じの紳士的なおじさんだったのだ。
おじさんは実際には五十を過ぎているらしいが四十代前半と言っても
無理のない若々しさがあるし、顔立ちだって悪くない。
年上好きの私の同級生なんかが見たら羨ましがるだろうな、というのが第一印象だった。
彼は言った。
 
『僕の指定するマンションに、ただ住んでくれたら良いんだ。
それで、たまに僕が訪れる時に、三食ちゃんと用意してくれたらそれでいい。
あ、朝食後には絶対コーヒーを付けてね』
 
優雅な仕草でコーヒーを口に運びながら告げられた言葉に、
私は思わずポカンと口を開けてしまった。
 
『それでひゃ、ひゃくまん!?』
 
『ああ。何かおかしいかい? “愛人”とはそういうものだろう?』
 
愛人業界(そもそもそういう業界が存在するかどうかすら知らないが)
の相場が分からない私に、その申し出はかなり魅力的だった。
 
『分かりました! 喜んでお引き受けします!』
 
当時の彼への後ろめたさなんてちっとも感じずに、私はその話に食いついた。
家族には『良い住み込みの仕事を見つけたから』と言って家を出て、
予想以上に豪華な“部屋”へと移り住んだ。
 
 
~~~
 
 
それから、二年。
不思議なことにおじさんは、私に一切手を触れなかった。
“愛人”というより“親しい親戚のお嬢さん”といった扱いを受けている私には、
この場所が、彼との関係はとても居心地が良い。けれど。
 
『そろそろ結婚しない?俺たち』
 
一年間付き合った今の彼氏――高校時代の同級生から持ちかけられたプロポーズ。
ようやく正社員になれた彼は、“フリーター”と偽っている私のことをとても心配してくれていた。
もちろんおじさんに“住まわせてもらっている”豪華なマンションの一室には
一度も呼んだことが無い。おじさんが私に手を出さないから、愛人というより
ペットのようなものだ、と思ったから、おじさんの薬指に銀の指輪が輝いているから。
だから私は、彼の告白を受け入れた。
真摯に私のことを見つめ、優しく微笑みかけてくれる彼の手を取った。
彼はおじさんのことを知らない。おじさんは彼のことを知らない。
二人とも何も聞かない。何も、詮索したりはしない。それが時々、少し辛い。
 
「どうしよっかなぁ、返事」
 
十八だった私ももう二十歳を過ぎた。
“愛人”というのは若いうちしか出来ない職業だ、とはキャバクラ勤めの友人から聞いている。
おじさんとの間に、きっと未来は無い。彼は結婚しているんだから。私に触れないんだから。
彼が見ているのは“若くて綺麗な女の人”だけであって、
私自身のことなんてきっと何とも思っていないんだから。
 
「よし、決めた」
 
そうして私は、彼に電話をかけた。
おじさんに内緒で出かけたイタリアンレストランで渡された指輪は、
おじさんがその左手に付けているものよりもかなり安っぽく見えた。
けれどまぁ、彼の月収を考えれば頑張った方なのだろうか、と一人苦笑する。
おじさんの前でこれを見せるわけにはいかない。
指から外してまじまじと眺めているところに、
今日は来ると言っていなかったはずの人の足音がカツカツと聞こえた。
チャイムが鳴り、慌てて指輪をポケットにしまい込んで玄関に駆け寄る。
 
「ただいま、万智。お土産と、お祝いだよ。ホラ、君たち、早く運んで」
 
ニコニコと笑いながら入ってきたおじさんの手には、大きな大きな薔薇の花束。
それだけではない、おじさんの背後から現れた花屋のエプロンを付けた
お兄さんたちが次々と運びいれる、色とりどりの薔薇の花。そうだ、
今日は私がこの部屋で暮らすようになってからちょうど三年目の記念日だ!
私がここにやって来た最初の日、
部屋の中は綺麗に棘を抜かれた一万本の薔薇で埋め尽くされていた。
一年後、おじさんは私をホテルのレストランへディナーへと誘い、
帰って来た時には部屋中が二万本の薔薇の色に染まっていた。
そうして、三年目の今年は……。
私は思い出した。おじさんと初めて会ったときに聞かれた質問を。
 
『君は、好きな花とかはあるのかい?』
 
『えっ、花とかはあんまり詳しくないんですけど……。
そうですね、強いて言えば薔薇かなぁ。色んな色があって、見ていて楽しいから。
棘があるのはちょっと苦手だけど』
 
余り深く考えずに告げたその言葉を、おじさんはずっと覚えていてくれたのだ。
私は思わず目頭が熱くなった。
どうしよう。
今日はきちんと、ここを出ていく決意を彼に伝えなければならなかったのに。
 
「おじさん……あの、あの、あたし」
 
せめてお礼だけでもすぐに言わなきゃ、と思うのに、声が震えてしまって言葉にならない。
そんな私に、おじさんは苦笑して頭をポンポン、と頭を撫でた。
 
「結婚おめでとう、万智。出会いがあれば別れもある。
別れは寂しいが、喜ぶべき新たな門出でもあるからね。
君のこと好きだったよ。今まで本当にありがとう」
 
その言葉に、ハッと顔を上げておじさんを見ると、いつものように食えない
余裕の笑みではなく、少し切なそうな、寂しげな瞳をした表情に行きあたった。
初めて見るその表情に、ぎゅっと胸が締め付けられるような心地がし、
後悔という言葉が脳裏を過ぎる。
おじさんは、この(ひと)は全てを知っていた。
全てを知った上で私を暖かく包み込んで、見守っていてくれた。
それなのに、私はそれを彼が“私”を愛してはいないからだと思い込んでいた。
彼は私をただひたすらに、大切にしてくれていただけだったのに。
 
「おじさん、おじさん……!」
 
泣きじゃくって背広にしがみついた私の背中を、大きな骨ばった手が優しく撫でる。
私たちの人生は束の間交差しただけ。
年齢(とし)も、性別も、仕事や学歴だって、何一つ重なったものは無い。
でも、それでも。
おじさんとの奇跡のような出会いは、きっとこれからも私の宝物となる。
好きだった。大好きだった。あなたに奥さんがいたって、私に彼氏がいたって、
私たちが“愛人”とは言えないような愛人関係にあったって。
この気持ちだけは本物だよ。本物なんだよ、おじさん……!
 
「笑って、万智。君は笑顔の方が何倍も魅力的だよ」
 
「……うん、うん、おじさん……本当に、ありがとう」
 
その時の私の不細工な微笑に、大声で笑い出したおじさんの皺くちゃの顔。
それが、私が覚えている最後の彼の姿だった。





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