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現代掌編。ガチで病んでる話。
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AM 3:59
携帯電話の液晶画面に浮かんだ表示を見て、エリは手にしていた薬の袋を投げ捨てた。タイムリミットから一時間が過ぎようとしている。午前三時以降に強い薬を飲むと、朝には起きられないことを知っていた。窓の外が徐々に明るくなっていく。エリにとって最も苦しい時間だった。
頭まで布団を被り、ベッドに深く潜りこむ。無理にでも寝ている姿勢を取らなければ、また母に余計な世話を焼かれてしまう。眠ろうと思えば思うほど、嫌なことばかり考えてしまう。エリは今日の夕方見たばかりのニュースを思い出して、強く目を瞑った。
キイチ。あれはキイチだった。
殺人事件の被害者としてテロップに流れた名前を、彼女はぼんやりと覚えていた。二十歳という年齢、住んでいる場所からしてもほぼ間違いは無いだろう。エリより少し年上の、少し悪ぶった青年の姿を思い浮かべる。明るい髪色、斜に構えた視線、灰色のスウェットにサンダルを履いた、やる気の無い後ろ姿……衝撃は感じない。ただ虚ろな恐怖だけが、そこにあった。
殺人事件の被害者としてテロップに流れた名前を、彼女はぼんやりと覚えていた。二十歳という年齢、住んでいる場所からしてもほぼ間違いは無いだろう。エリより少し年上の、少し悪ぶった青年の姿を思い浮かべる。明るい髪色、斜に構えた視線、灰色のスウェットにサンダルを履いた、やる気の無い後ろ姿……衝撃は感じない。ただ虚ろな恐怖だけが、そこにあった。
これで本当に、一人になった。
AM 6:28
眠ると言うより疲れ果てて意識を失うという表現に近いかたちで、エリはベッドの上に倒れ込んだ。深い深い眠りが、ようやく彼女の上に訪れる。昇りかけた太陽が、薄明るく窓の外を照らしていた。
PM 0:14
尿意を催してもぞもぞと身動きをすれば、眩しいほどの日の光がカーテンの向こう側からベッドの中の自分を突き刺していることに、エリは気づいた。酷く乾いた口の中が気持ち悪くて、ベッドから出るなり洗面所へと駆け込む。ガラガラと音を立ててうがいをし、それから歯ブラシを手に取る。洗面所の鏡に映ったエリの顔には、消えることの無い真っ黒なクマができている。
「六時間くらい寝たはずなんだけどなぁ……」
俯いて首を振る。“フツウ”の人間が夜の零時に眠って朝六時に目覚めることと、エリの睡眠のリズムは余りにも違いすぎる。エリは自嘲した。薬がもう無くなった。今日は病院に行かなければならない。憂鬱な気分のまま、エリは顔を洗い、メイクを施す。戻してしまったら嫌だから、朝食とも昼食ともつかぬ食事は取らない。
PM 2:07
病院の待合室は意外なことに座る席も無いくらい混み合っている。平日の午後は、エリのような人種でも“外”に出やすい時間だ。毎日決まった時間に決まった服を着て、決まった場所へ向かう人たちのいない時間。エリが腰掛けたテーブルの向かい側のソファでは今日も中年の女性が大音量で陳腐なメロドラマを垂れ流すワンセグ画面を食い入るように見つめているし、その後ろでは母親に付き添われたふくよかな男性がブツブツと何かを喚いている。
「ナイフ持ってこい、ナイフ!」
ナイフはちょっといただけないな。
男性の呟きを聞き咎めたエリは薄ぼんやりとそんなことを思った。ここに通い始めたばかりの頃は恐ろしいと身震いしたような言葉にも、耐性はできるものだ。世の中には色んな人がいる。そして自分もまた、“この人たち”の同類なのだ。名前が呼ばれるまでの長い長い時間を、音楽プレイヤーに繋がれたイヤホンと一冊の文庫本でやり過ごす術を、エリはいつの間にか身に付けてしまった。
男性の呟きを聞き咎めたエリは薄ぼんやりとそんなことを思った。ここに通い始めたばかりの頃は恐ろしいと身震いしたような言葉にも、耐性はできるものだ。世の中には色んな人がいる。そして自分もまた、“この人たち”の同類なのだ。名前が呼ばれるまでの長い長い時間を、音楽プレイヤーに繋がれたイヤホンと一冊の文庫本でやり過ごす術を、エリはいつの間にか身に付けてしまった。
「エリちゃん、最近はどう? ちゃんと眠れてる?」
ニコニコと問いかけてくる医師に、エリは小さく頷いた。
「はい、おかげさまで……」
「嘘ついちゃ駄目だよ。顔見ればわかるんだから」
「…………」
医師の指摘にエリが黙り込むと、彼は真面目な顔でカルテを覗きこむ。
「少し薬を変えてみようね。飲む時間も変えよう。今度は二回に分けて……」
その先の説明にうんざりして、エリは窓の外を見やった。外には明るい日の光に新緑が煌めいていた。その眩さに、思わず視線を逸らしてしまう。変わらないやりとり、変わらない自分の症状、唯一変わるのは薬だけ。
「先生、何も言わなかったな……当たり前か」
待合室の椅子に深く腰掛けて、エリは手にしていた文庫本を開いた。シンゴが死んだ時も、彼は何も言わなかった。シンゴは自殺して、キイチは殺された。エリは二人と、この待合室で出会ったのだった。エリは不眠症、シンゴは鬱病、キイチは薬物依存の末警察に連れられて初めてこの病院を訪れたのだと言っていた。地元では一番の有名大学に通うシンゴと、少年時代から補導歴のあるキイチは対照的な存在。心の病を抱える同世代の三人が、ポツポツと言葉を交わすようになったのはいつ頃のことだっただろう。エリは朝が、シンゴは自分が、キイチは人間が嫌いだった。恐れていた、と言っても良い。三人とも、それを消したがっていた。消すために、自らを消してしまいたがっていた。エリだけが、取り残されてしまった。
PM 4:45
エリはアルバイトのためにバスに乗り込んだ。最寄りのバス停から出るバスは三十分に一本程度。ど田舎という訳でもないのだろうが、欲を言えば駅の近くに住みたかった。エリはマフラーをぐるぐると首に巻き付けて、長い前髪で顔を隠した。
知り合いには会いたくない。
知り合いには会いたくない。
「今何してるの? 私は元気、今度同窓会しようよ……」
そんな社交辞令が、近頃のエリには鬱陶しく感じられるようになっていた。
「今精神科に通ってるの。学校には行ってない。定職にも就いてない。同窓会に行っても、話すことなんか何も無いよ……」
ニートより性質が悪い、とエリは内心で毒づいた。確かに、アルバイトはしている。親を心配させたくないから、“引きこもり”と呼ばれたくないから、どこかで正常な世界と繋がっていたいから。それでも、完璧にこなせている自信は無い、やる気も無い。ただ行って、決められたことを“してみる”だけ。エリより気の利くパートの主婦も、エリより経験豊富な若い学生も山ほどいる中で、言い訳のためだけに時間を潰す自分はどうしようもないという自覚はあるのだ。それでも何となく、今日もバスに乗り込んだ。口から洩れるのは溜息ばかり。憂鬱な一日は、まだ終わらない。
PM 10:36
家に帰り、シャワーを浴びる。シャンプーの匂いが嘔吐の合図。水のような胃液を吐く。これはエリにとって毎日の儀式だ。あらかじめ少しでも吐いておけば、気の進まない夕食も何とか食べられる。空っぽの胃から吐き出される半透明の液体なら、家族に気づかれることも無い。暖かいお湯に溶け去るそれを眺めながら、エリは嗤った。
AM 0:00
エリの闘いが始まる。まずは軽い導入剤を一錠。布団に入り携帯を繰る。友だちのブログは気分が明るい時しか開かない。自分とかけ離れた生活を、自分が送れたかもしれない生活を垣間見てしまうことは、少なからず睡眠前の心を刺激し過ぎてしまう。さして興味も無い芸能人の呟き、無責任な連中の集う掲示板、夢見がちな投稿小説……順繰りにブックマークを巡って睡魔が訪れるのを待ってみても、それは中々やってこない。諦めて目を瞑り、肩まで布団を引っ張ってみるが、その態勢で無理に寝ると必ずと言って良いほど金縛りにかかってしまう。それは魂が身体から引っこ抜かれるような感覚であり、身動きが取れず、噂に聞く幽霊や妖怪の類をイメージすることもあるが、ただの悪夢の一種だと今のエリには分かっている。深い眠りを得るべき時間にそれができない。全ての原因はそこに帰結するのだ。そうしてまた繰り返す。昨日と同じ一日を。
AM 5:15
突然、エリは布団をガバリとめくって飛び起きた。パジャマ姿のままで素足にサンダルをつっかけ、玄関の扉を開けてマンションの外階段を一目散に登り出す。上へ、上へ、ただ逃げたくなったのだ。今いる場所から、自分の存在から。屋上に辿りつき、フェンス越しに暗闇が口を開ける真下を覗きこむ。手がかじかみ、足が震えた。
「無理だよ、無理だ……私、ほんとうに馬鹿」
すがるように見上げたフェンスの高さが、まるでエリを拒んでいるかのようだった。
『それはちげぇーよ、エリ』
どこからか聞こえてきた懐かしい声は、一体誰のものだったか。
『人生は夜明け前の闇なんだ。だから人は、朝が来るその日まで一生懸命火を燃やし続ける』
つっぱっている癖に妙に詩的な物言いをするキイチ。
『朝が怖い君が、夜の中では一番生きやすい人間なんじゃない?』
理屈っぽくて固い喋り方を好むシンゴ。
「知らなかった……知らな過ぎたよ、三人とも。“失うこと”が、こんなに悲しいことだって……!」
エリは泣いた。泣きじゃくった。本当はこんなにも悲しかった。自分の病気が治らないことより何倍も、二人を失ってしまったことが。三人とも、自分だけに捉われ過ぎていた。周りを見る余裕が無かった。“自分”をデリートすれば全てが終わると信じていた。けれど“世界”は、そんなことで消えはしないと、もっとちゃんと知るべきだった。理解するべきだった。二人の火は消えてしまった。朝の光を迎えたから。けれど、自分は――
エリは目の前に広がる暗い景色をじっと見つめた。
エリは目の前に広がる暗い景色をじっと見つめた。
「そうだね、シンゴ……暗がりの中なら、私は生きられる」
エリは瞳を閉じた。そろそろ東の果ての空が、ぼんやりと白く輝き始めるころだろう。瞼の裏に感じる眩さから、もう目を背けることはすまい、とエリは思った。
→後書き
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AM 3:59
携帯電話の液晶画面に浮かんだ表示を見て、エリは手にしていた薬の袋を投げ捨てた。タイムリミットから一時間が過ぎようとしている。午前三時以降に強い薬を飲むと、朝には起きられないことを知っていた。窓の外が徐々に明るくなっていく。エリにとって最も苦しい時間だった。
頭まで布団を被り、ベッドに深く潜りこむ。無理にでも寝ている姿勢を取らなければ、また母に余計な世話を焼かれてしまう。眠ろうと思えば思うほど、嫌なことばかり考えてしまう。エリは今日の夕方見たばかりのニュースを思い出して、強く目を瞑った。
キイチ。あれはキイチだった。
殺人事件の被害者としてテロップに流れた名前を、彼女はぼんやりと覚えていた。二十歳という年齢、住んでいる場所からしてもほぼ間違いは無いだろう。エリより少し年上の、少し悪ぶった青年の姿を思い浮かべる。明るい髪色、斜に構えた視線、灰色のスウェットにサンダルを履いた、やる気の無い後ろ姿……衝撃は感じない。ただ虚ろな恐怖だけが、そこにあった。
殺人事件の被害者としてテロップに流れた名前を、彼女はぼんやりと覚えていた。二十歳という年齢、住んでいる場所からしてもほぼ間違いは無いだろう。エリより少し年上の、少し悪ぶった青年の姿を思い浮かべる。明るい髪色、斜に構えた視線、灰色のスウェットにサンダルを履いた、やる気の無い後ろ姿……衝撃は感じない。ただ虚ろな恐怖だけが、そこにあった。
これで本当に、一人になった。
AM 6:28
眠ると言うより疲れ果てて意識を失うという表現に近いかたちで、エリはベッドの上に倒れ込んだ。深い深い眠りが、ようやく彼女の上に訪れる。昇りかけた太陽が、薄明るく窓の外を照らしていた。
PM 0:14
尿意を催してもぞもぞと身動きをすれば、眩しいほどの日の光がカーテンの向こう側からベッドの中の自分を突き刺していることに、エリは気づいた。酷く乾いた口の中が気持ち悪くて、ベッドから出るなり洗面所へと駆け込む。ガラガラと音を立ててうがいをし、それから歯ブラシを手に取る。洗面所の鏡に映ったエリの顔には、消えることの無い真っ黒なクマができている。
「六時間くらい寝たはずなんだけどなぁ……」
俯いて首を振る。“フツウ”の人間が夜の零時に眠って朝六時に目覚めることと、エリの睡眠のリズムは余りにも違いすぎる。エリは自嘲した。薬がもう無くなった。今日は病院に行かなければならない。憂鬱な気分のまま、エリは顔を洗い、メイクを施す。戻してしまったら嫌だから、朝食とも昼食ともつかぬ食事は取らない。
PM 2:07
病院の待合室は意外なことに座る席も無いくらい混み合っている。平日の午後は、エリのような人種でも“外”に出やすい時間だ。毎日決まった時間に決まった服を着て、決まった場所へ向かう人たちのいない時間。エリが腰掛けたテーブルの向かい側のソファでは今日も中年の女性が大音量で陳腐なメロドラマを垂れ流すワンセグ画面を食い入るように見つめているし、その後ろでは母親に付き添われたふくよかな男性がブツブツと何かを喚いている。
「ナイフ持ってこい、ナイフ!」
ナイフはちょっといただけないな。
男性の呟きを聞き咎めたエリは薄ぼんやりとそんなことを思った。ここに通い始めたばかりの頃は恐ろしいと身震いしたような言葉にも、耐性はできるものだ。世の中には色んな人がいる。そして自分もまた、“この人たち”の同類なのだ。名前が呼ばれるまでの長い長い時間を、音楽プレイヤーに繋がれたイヤホンと一冊の文庫本でやり過ごす術を、エリはいつの間にか身に付けてしまった。
男性の呟きを聞き咎めたエリは薄ぼんやりとそんなことを思った。ここに通い始めたばかりの頃は恐ろしいと身震いしたような言葉にも、耐性はできるものだ。世の中には色んな人がいる。そして自分もまた、“この人たち”の同類なのだ。名前が呼ばれるまでの長い長い時間を、音楽プレイヤーに繋がれたイヤホンと一冊の文庫本でやり過ごす術を、エリはいつの間にか身に付けてしまった。
「エリちゃん、最近はどう? ちゃんと眠れてる?」
ニコニコと問いかけてくる医師に、エリは小さく頷いた。
「はい、おかげさまで……」
「嘘ついちゃ駄目だよ。顔見ればわかるんだから」
「…………」
医師の指摘にエリが黙り込むと、彼は真面目な顔でカルテを覗きこむ。
「少し薬を変えてみようね。飲む時間も変えよう。今度は二回に分けて……」
その先の説明にうんざりして、エリは窓の外を見やった。外には明るい日の光に新緑が煌めいていた。その眩さに、思わず視線を逸らしてしまう。変わらないやりとり、変わらない自分の症状、唯一変わるのは薬だけ。
「先生、何も言わなかったな……当たり前か」
待合室の椅子に深く腰掛けて、エリは手にしていた文庫本を開いた。シンゴが死んだ時も、彼は何も言わなかった。シンゴは自殺して、キイチは殺された。エリは二人と、この待合室で出会ったのだった。エリは不眠症、シンゴは鬱病、キイチは薬物依存の末警察に連れられて初めてこの病院を訪れたのだと言っていた。地元では一番の有名大学に通うシンゴと、少年時代から補導歴のあるキイチは対照的な存在。心の病を抱える同世代の三人が、ポツポツと言葉を交わすようになったのはいつ頃のことだっただろう。エリは朝が、シンゴは自分が、キイチは人間が嫌いだった。恐れていた、と言っても良い。三人とも、それを消したがっていた。消すために、自らを消してしまいたがっていた。エリだけが、取り残されてしまった。
PM 4:45
エリはアルバイトのためにバスに乗り込んだ。最寄りのバス停から出るバスは三十分に一本程度。ど田舎という訳でもないのだろうが、欲を言えば駅の近くに住みたかった。エリはマフラーをぐるぐると首に巻き付けて、長い前髪で顔を隠した。
知り合いには会いたくない。
知り合いには会いたくない。
「今何してるの? 私は元気、今度同窓会しようよ……」
そんな社交辞令が、近頃のエリには鬱陶しく感じられるようになっていた。
「今精神科に通ってるの。学校には行ってない。定職にも就いてない。同窓会に行っても、話すことなんか何も無いよ……」
ニートより性質が悪い、とエリは内心で毒づいた。確かに、アルバイトはしている。親を心配させたくないから、“引きこもり”と呼ばれたくないから、どこかで正常な世界と繋がっていたいから。それでも、完璧にこなせている自信は無い、やる気も無い。ただ行って、決められたことを“してみる”だけ。エリより気の利くパートの主婦も、エリより経験豊富な若い学生も山ほどいる中で、言い訳のためだけに時間を潰す自分はどうしようもないという自覚はあるのだ。それでも何となく、今日もバスに乗り込んだ。口から洩れるのは溜息ばかり。憂鬱な一日は、まだ終わらない。
PM 10:36
家に帰り、シャワーを浴びる。シャンプーの匂いが嘔吐の合図。水のような胃液を吐く。これはエリにとって毎日の儀式だ。あらかじめ少しでも吐いておけば、気の進まない夕食も何とか食べられる。空っぽの胃から吐き出される半透明の液体なら、家族に気づかれることも無い。暖かいお湯に溶け去るそれを眺めながら、エリは嗤った。
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エリの闘いが始まる。まずは軽い導入剤を一錠。布団に入り携帯を繰る。友だちのブログは気分が明るい時しか開かない。自分とかけ離れた生活を、自分が送れたかもしれない生活を垣間見てしまうことは、少なからず睡眠前の心を刺激し過ぎてしまう。さして興味も無い芸能人の呟き、無責任な連中の集う掲示板、夢見がちな投稿小説……順繰りにブックマークを巡って睡魔が訪れるのを待ってみても、それは中々やってこない。諦めて目を瞑り、肩まで布団を引っ張ってみるが、その態勢で無理に寝ると必ずと言って良いほど金縛りにかかってしまう。それは魂が身体から引っこ抜かれるような感覚であり、身動きが取れず、噂に聞く幽霊や妖怪の類をイメージすることもあるが、ただの悪夢の一種だと今のエリには分かっている。深い眠りを得るべき時間にそれができない。全ての原因はそこに帰結するのだ。そうしてまた繰り返す。昨日と同じ一日を。
AM 5:15
突然、エリは布団をガバリとめくって飛び起きた。パジャマ姿のままで素足にサンダルをつっかけ、玄関の扉を開けてマンションの外階段を一目散に登り出す。上へ、上へ、ただ逃げたくなったのだ。今いる場所から、自分の存在から。屋上に辿りつき、フェンス越しに暗闇が口を開ける真下を覗きこむ。手がかじかみ、足が震えた。
「無理だよ、無理だ……私、ほんとうに馬鹿」
すがるように見上げたフェンスの高さが、まるでエリを拒んでいるかのようだった。
『それはちげぇーよ、エリ』
どこからか聞こえてきた懐かしい声は、一体誰のものだったか。
『人生は夜明け前の闇なんだ。だから人は、朝が来るその日まで一生懸命火を燃やし続ける』
つっぱっている癖に妙に詩的な物言いをするキイチ。
『朝が怖い君が、夜の中では一番生きやすい人間なんじゃない?』
理屈っぽくて固い喋り方を好むシンゴ。
「知らなかった……知らな過ぎたよ、三人とも。“失うこと”が、こんなに悲しいことだって……!」
エリは泣いた。泣きじゃくった。本当はこんなにも悲しかった。自分の病気が治らないことより何倍も、二人を失ってしまったことが。三人とも、自分だけに捉われ過ぎていた。周りを見る余裕が無かった。“自分”をデリートすれば全てが終わると信じていた。けれど“世界”は、そんなことで消えはしないと、もっとちゃんと知るべきだった。理解するべきだった。二人の火は消えてしまった。朝の光を迎えたから。けれど、自分は――
エリは目の前に広がる暗い景色をじっと見つめた。
エリは目の前に広がる暗い景色をじっと見つめた。
「そうだね、シンゴ……暗がりの中なら、私は生きられる」
エリは瞳を閉じた。そろそろ東の果ての空が、ぼんやりと白く輝き始めるころだろう。瞼の裏に感じる眩さから、もう目を背けることはすまい、とエリは思った。
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