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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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散々ご心配をおかけして申し訳ないのですが、改めて。暗いですし一部の方を不快にさせてしまう内容も含まれるかもしれないのでご注意願います。

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今回の震災で私の地元は震度6強を記録し、1/3が浸水してしまいました。実家は被害を免れた地区ですが、失われたもののことを思うと今も心が痛みます。

あの日は妹の大学合格お祝いの日でした。昼はお世話になった方のお宅でささやかなランチパーティ、夜は家族で食事に行き、その後私は幼なじみと飲みに行く予定でした。

地震が起きたのは知人宅でお茶をいただいている時だったと思います。テーブルにしがみつくことしかできなかった。倒れて来た食器棚の風が頬を掠め、耳元で物凄い音が鳴り響きました。私が一番取り乱してしまっていたと思います。長かった。本当に長く怖ろしい揺れでした。
うちの地区は地盤が固いと言われていた地区だったので、揺れている最中から「ここでこんなに揺れるなら仙台のビルが無事なはずはない、みんながいなくなったらどうしよう、どうしよう」とそればかり考えていました。治まったと思ったらまた大きな揺れ、一体何度、何分間続いたのでしょう。
最初の一報は「東京がヤバイらしい」とのこと。「東京が酷いなら絶対にここまで支援が届かない」まず考えたのはそれでした。本当に自己中ですみません。何が起きたのかわからないまま家に戻り、直後は出ていた水道の水を貯めて蝋燭等の準備をした後、降り出して来た雪に凍えながらラジオを付けました。
「○○は壊滅です」「△△地区は水没しています」
意味がわからなくて、一緒にいた妹と顔を見合わせました。「使ってる言葉おかしいよね」「あんなとこまで波被るわけないじゃんね」と。アナウンサーの気が違ったのかと思った。信じられなかった。
夜は星空が怖いくらい綺麗でした。手術の時以上に苦しくて寒くて不安な夜でした。

海の方まで見渡せる場所へ足を運んだのは翌朝のこと。変わり果てた景色を眺めながら、涙ぐんでおられる方がいました。避難されてこられている方がいました。うまく状況が理解できませんでした。私は波の瞬間を見ていないので、「何かのロケかアトラクションに見なれた場所が使われてるんじゃないか」と不謹慎にもぼんやり思ってしまいました。
「こんなとこまで田んぼだったか?」と問いかけてくる親に「そうだよ、田んぼだったよ」と答えてすぐ目を逸らしました。じっくり見て、何がなくなっているかとか確かめたくなかったんです。怖かった。とにかく怖かった。

電気が復旧するまで、どうやって過ごしていたのか余り思い出せません。物を集め、片付けをし、買い出しに並び・・・そんなことを繰り返していたと思います。電気がついてからはひたすら情報探し、GS並び、買い出しで一日が潰れました。毎日祈るような気持ちで携帯とPCに向かっていました。テレビに地元の名前が出ることに驚いて、映し出された映像が信じられなくて、あるはずのものがなくなっている現実を受け止められなくて。
4月になったらさすがにこちらに戻らなくては、ということで何とか飛行機のチケットを取りましたが、心細さと申し訳なさで落ち着かない気持ちでした。「行く前に一目だけでも会いたかったね」と後ろ髪引かれる思いで。

こちらに来てからは何を見ても泣きそうになり、笑うのが難しい状態が続いておりましたが、最近は少し落ち着いてきたように感じます。直接的な震災に関する話題は苦手ですが、何とか関係のないことも考えられるようになってきました。忘れてはいけないと思いますが、ぐるぐる思い悩む時間を少しでも減らして、目の前のことに集中していかなくては、と。向こうの方々はもっと苦しい中、皆さん必死に踏ん張っておられるので、私も何とかそうしなくてはと考えています。

亡くなられた方々が安らかな眠りを得られますよう、心からお祈り申し上げます。そして一人でも多くの方がご家族の元に帰れますように。

私は東北が大好きです。故郷の宮城はもちろん、八戸・宮古・浄土ヶ浜・田老・大船渡・陸前高田・相馬・いわき、思い出の無い土地がありません。知人から分けていただく飯館牛も大好きでした。
福島県の病院で手術を受けた際、本当に沢山の方に助けていただきました。あの時、この体に血を分け与えて下さった方がどうしているかと思うと苦しいです。どうか放射能の流出が一刻も早く治まりますように。
一日も早い復興と、皆様とご家族のご無事を願っています。頑張らなくていいので、生きていて下さい、とそれだけを切にお願い申し上げます。


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あちらにいた友人との会話で「死を覚悟した」ってフレーズが何度も出てきて、被災地と非被災地の一番のギャップってやっぱりそういうことなんだろうな、とちょっと思ってしまいました。揺れの瞬間、波の瞬間、やっぱりみんな「ここで死ぬんだな」って思わざるを得ない状況があったと思うんですよ。そして不思議とそういう覚悟はその瞬間ある程度定まった。
一番できてなかった覚悟は他人の死を受け入れること。自分だけが生き残ること。そういう意味でも、今二人で、この土地で生きて再会できたことは嬉しい。「また戻りたいよ」って出身地でもないのに言ってくれて、私のしょーもない話にも茶々を入れずに付き合ってくれて、本当に嬉しかった。
生きていて申し訳ないと思うことも沢山あるけど、やっぱり生きていて、生きていてくれて良かったと思う瞬間も確かにあります。大好きだから復興を信じて立ち上がりたい。頑張ります。頑張りましょう。今はそれしか言えません。すみません。

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初めて向こうにいた子と再会できました。ここで会えることが夢みたいだ。二人で泣いてしまったけど、本当に幸せだと思う。ありがとう。ありがとう。彼女は実家が地元にあるわけではないので、凄く労ってくれたけれども、やっぱり知人が大変な状況にある苦しみ、あそこにいた人間の悲しみというのは存在するので分かち合えて良かったです。また会って発散するんだ!頑張って生きて、頑張って発散させていかなきゃ。

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吐き出しですm(_ _)m

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初めは出てこない方が「どっかで生きていてくれるかも」って希望持てるとか考えてたけど、今はきちんと弔ってあげたいと思う。何で行方不明者の数が減らないんだ。見つかってほしい。でも生きてるかもって思いたい。

他人との会話が怖い。「はじめまして→出身地どこですか?」がアウトな上に地震ネタがNGワード過ぎる。募金とかに遭遇するのもつらい。涙とか感情がバーッと押し寄せてきてしまう。色々わかってくれてる昔の友達と会える週末が待ち遠しいけど、ちょっとでも予定の無い時間があると怖い。避難してきたわけではないから、普段通りの生活を送らないといけないし、そうできることは幸せだとも思うけど、記憶とか現在進行形での不安をどう処理すればいいか分からなくてつらい。


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ちょっと重めの呟き。

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今一番心配なのは、被災地の方とそうでない地域の方が憎み合ってしまわないか、ということ。避難されている方は関東の電力を作っていたせいで故郷を失った、と償ってほしい気持ちを受け入れて下さる地域の方に向けるかもしれないし、受け入れる側の方もただでさえ節電や物不足でフラストレーションが溜まっている中、避難されてきた方々をお荷物のように感じることもあるかもしれない。これから増税や景気悪化でどんどんその種が広まっていかないか、ということが凄く心配。

人間が本当に「憎い」という感情を抱く時は、その気持ちを目の前の対象に集約できるほど単純な話では済まない事態が背景にあるものなんだ、と今回つくづく考えました。原発の事故は許せないけど東電を憎めるかというとそこにお勤めの方の顔が浮かぶし、津波さえなければ、と思いながらも海を嫌えるかというとそんなことはできない。東北に実家があり、現在は関東在住の友人も沢山います。みんな本当に苦しいと思う。

私は今まで愛憎ものを結構書いてきたけれど、憎しみって実際一つのものや人間にぶつけられるような簡単なものでも軽いものでもないんだなぁ、と改めて感じます。そうできたら楽なのかもしれないけど。凄く苦しくて重いです。


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