忍者ブログ
ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


散々ご心配をおかけして申し訳ないのですが、改めて。暗いですし一部の方を不快にさせてしまう内容も含まれるかもしれないのでご注意願います。
今回の震災で私の地元は震度6強を記録し、1/3が浸水してしまいました。実家は被害を免れた地区ですが、失われたもののことを思うと今も心が痛みます。

あの日は妹の大学合格お祝いの日でした。昼はお世話になった方のお宅でささやかなランチパーティ、夜は家族で食事に行き、その後私は幼なじみと飲みに行く予定でした。

地震が起きたのは知人宅でお茶をいただいている時だったと思います。テーブルにしがみつくことしかできなかった。倒れて来た食器棚の風が頬を掠め、耳元で物凄い音が鳴り響きました。私が一番取り乱してしまっていたと思います。長かった。本当に長く怖ろしい揺れでした。
うちの地区は地盤が固いと言われていた地区だったので、揺れている最中から「ここでこんなに揺れるなら仙台のビルが無事なはずはない、みんながいなくなったらどうしよう、どうしよう」とそればかり考えていました。治まったと思ったらまた大きな揺れ、一体何度、何分間続いたのでしょう。
最初の一報は「東京がヤバイらしい」とのこと。「東京が酷いなら絶対にここまで支援が届かない」まず考えたのはそれでした。本当に自己中ですみません。何が起きたのかわからないまま家に戻り、直後は出ていた水道の水を貯めて蝋燭等の準備をした後、降り出して来た雪に凍えながらラジオを付けました。
「○○は壊滅です」「△△地区は水没しています」
意味がわからなくて、一緒にいた妹と顔を見合わせました。「使ってる言葉おかしいよね」「あんなとこまで波被るわけないじゃんね」と。アナウンサーの気が違ったのかと思った。信じられなかった。
夜は星空が怖いくらい綺麗でした。手術の時以上に苦しくて寒くて不安な夜でした。

海の方まで見渡せる場所へ足を運んだのは翌朝のこと。変わり果てた景色を眺めながら、涙ぐんでおられる方がいました。避難されてこられている方がいました。うまく状況が理解できませんでした。私は波の瞬間を見ていないので、「何かのロケかアトラクションに見なれた場所が使われてるんじゃないか」と不謹慎にもぼんやり思ってしまいました。
「こんなとこまで田んぼだったか?」と問いかけてくる親に「そうだよ、田んぼだったよ」と答えてすぐ目を逸らしました。じっくり見て、何がなくなっているかとか確かめたくなかったんです。怖かった。とにかく怖かった。

電気が復旧するまで、どうやって過ごしていたのか余り思い出せません。物を集め、片付けをし、買い出しに並び・・・そんなことを繰り返していたと思います。電気がついてからはひたすら情報探し、GS並び、買い出しで一日が潰れました。毎日祈るような気持ちで携帯とPCに向かっていました。テレビに地元の名前が出ることに驚いて、映し出された映像が信じられなくて、あるはずのものがなくなっている現実を受け止められなくて。
4月になったらさすがにこちらに戻らなくては、ということで何とか飛行機のチケットを取りましたが、心細さと申し訳なさで落ち着かない気持ちでした。「行く前に一目だけでも会いたかったね」と後ろ髪引かれる思いで。

こちらに来てからは何を見ても泣きそうになり、笑うのが難しい状態が続いておりましたが、最近は少し落ち着いてきたように感じます。直接的な震災に関する話題は苦手ですが、何とか関係のないことも考えられるようになってきました。忘れてはいけないと思いますが、ぐるぐる思い悩む時間を少しでも減らして、目の前のことに集中していかなくては、と。向こうの方々はもっと苦しい中、皆さん必死に踏ん張っておられるので、私も何とかそうしなくてはと考えています。

亡くなられた方々が安らかな眠りを得られますよう、心からお祈り申し上げます。そして一人でも多くの方がご家族の元に帰れますように。

私は東北が大好きです。故郷の宮城はもちろん、八戸・宮古・浄土ヶ浜・田老・大船渡・陸前高田・相馬・いわき、思い出の無い土地がありません。知人から分けていただく飯館牛も大好きでした。
福島県の病院で手術を受けた際、本当に沢山の方に助けていただきました。あの時、この体に血を分け与えて下さった方がどうしているかと思うと苦しいです。どうか放射能の流出が一刻も早く治まりますように。
一日も早い復興と、皆様とご家族のご無事を願っています。頑張らなくていいので、生きていて下さい、とそれだけを切にお願い申し上げます。

拍手[2回]

PR


追記を閉じる▲
今回の震災で私の地元は震度6強を記録し、1/3が浸水してしまいました。実家は被害を免れた地区ですが、失われたもののことを思うと今も心が痛みます。

あの日は妹の大学合格お祝いの日でした。昼はお世話になった方のお宅でささやかなランチパーティ、夜は家族で食事に行き、その後私は幼なじみと飲みに行く予定でした。

地震が起きたのは知人宅でお茶をいただいている時だったと思います。テーブルにしがみつくことしかできなかった。倒れて来た食器棚の風が頬を掠め、耳元で物凄い音が鳴り響きました。私が一番取り乱してしまっていたと思います。長かった。本当に長く怖ろしい揺れでした。
うちの地区は地盤が固いと言われていた地区だったので、揺れている最中から「ここでこんなに揺れるなら仙台のビルが無事なはずはない、みんながいなくなったらどうしよう、どうしよう」とそればかり考えていました。治まったと思ったらまた大きな揺れ、一体何度、何分間続いたのでしょう。
最初の一報は「東京がヤバイらしい」とのこと。「東京が酷いなら絶対にここまで支援が届かない」まず考えたのはそれでした。本当に自己中ですみません。何が起きたのかわからないまま家に戻り、直後は出ていた水道の水を貯めて蝋燭等の準備をした後、降り出して来た雪に凍えながらラジオを付けました。
「○○は壊滅です」「△△地区は水没しています」
意味がわからなくて、一緒にいた妹と顔を見合わせました。「使ってる言葉おかしいよね」「あんなとこまで波被るわけないじゃんね」と。アナウンサーの気が違ったのかと思った。信じられなかった。
夜は星空が怖いくらい綺麗でした。手術の時以上に苦しくて寒くて不安な夜でした。

海の方まで見渡せる場所へ足を運んだのは翌朝のこと。変わり果てた景色を眺めながら、涙ぐんでおられる方がいました。避難されてこられている方がいました。うまく状況が理解できませんでした。私は波の瞬間を見ていないので、「何かのロケかアトラクションに見なれた場所が使われてるんじゃないか」と不謹慎にもぼんやり思ってしまいました。
「こんなとこまで田んぼだったか?」と問いかけてくる親に「そうだよ、田んぼだったよ」と答えてすぐ目を逸らしました。じっくり見て、何がなくなっているかとか確かめたくなかったんです。怖かった。とにかく怖かった。

電気が復旧するまで、どうやって過ごしていたのか余り思い出せません。物を集め、片付けをし、買い出しに並び・・・そんなことを繰り返していたと思います。電気がついてからはひたすら情報探し、GS並び、買い出しで一日が潰れました。毎日祈るような気持ちで携帯とPCに向かっていました。テレビに地元の名前が出ることに驚いて、映し出された映像が信じられなくて、あるはずのものがなくなっている現実を受け止められなくて。
4月になったらさすがにこちらに戻らなくては、ということで何とか飛行機のチケットを取りましたが、心細さと申し訳なさで落ち着かない気持ちでした。「行く前に一目だけでも会いたかったね」と後ろ髪引かれる思いで。

こちらに来てからは何を見ても泣きそうになり、笑うのが難しい状態が続いておりましたが、最近は少し落ち着いてきたように感じます。直接的な震災に関する話題は苦手ですが、何とか関係のないことも考えられるようになってきました。忘れてはいけないと思いますが、ぐるぐる思い悩む時間を少しでも減らして、目の前のことに集中していかなくては、と。向こうの方々はもっと苦しい中、皆さん必死に踏ん張っておられるので、私も何とかそうしなくてはと考えています。

亡くなられた方々が安らかな眠りを得られますよう、心からお祈り申し上げます。そして一人でも多くの方がご家族の元に帰れますように。

私は東北が大好きです。故郷の宮城はもちろん、八戸・宮古・浄土ヶ浜・田老・大船渡・陸前高田・相馬・いわき、思い出の無い土地がありません。知人から分けていただく飯館牛も大好きでした。
福島県の病院で手術を受けた際、本当に沢山の方に助けていただきました。あの時、この体に血を分け与えて下さった方がどうしているかと思うと苦しいです。どうか放射能の流出が一刻も早く治まりますように。
一日も早い復興と、皆様とご家族のご無事を願っています。頑張らなくていいので、生きていて下さい、とそれだけを切にお願い申し上げます。

拍手[2回]

PR

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック