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『花と緑』同一世界観。(単品でも読めます)中央アジア風。
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サキの記憶にある故郷は花に溢れていた。ヒュウヒュウと風の吹きすさぶ荒野ではない、小さな家々がひしめくように並び、猥雑な市場からは喧騒が絶えない。獣の咆哮も、乾いた砂塵もそこには存在しなかった。ここに来たのは何時のことであったか、思いだせないほどの時が経ったように思う。どこまでも広がる荒野。蛮賊と呼ばれる砂の一族の治める地。サキは今、そこで暮らしていた。さらりとこぼれゆく砂が、サキの手を離れた。立ち上がり、砂が舞う方角を見やる。その先には、確かに彼女の故郷がある。
砂の一族の長(ハーン)には子が無い。世継ぎには先代の子である甥エルベクがいたが、その妻(ハトン)は養女(むすめ)を育てることを執拗に望んだ。困り果てたハーンは華の国から一人の娘を買うことにした――それがサキである。サキの生まれは老舗の商家だったが、父親の代には没落し、多額の負債を抱えていた。そんな中、役人の目を逃れて密かに物流のやりとりをしていた砂の一族――しかもハーンに小金をちらつかされては断るべくもない。幼いサキは初めて跨る馬の感触に怯えながら、遠ざかる故郷に別れを告げた。ハトンは嬉々として娘を迎え、自らの後のハトンを受け継がせるべく丁寧に躾たが、彼女はこの地の暮らしにも人々にも馴染めず歳月を過ごした。そして今、彼女はここに佇んでいる。
~~~
砂の一族ハーンの世継ぎであるエルベクには毎日定められた務めがあった。誰よりも早く起きて鍛錬に励むこと、馬を駆けて領土の端々を見回ること、叔父であるハーンの講義を受けること、そのついでにサキをハーン夫妻の住居(オルド)まで送り届けること――
華の国から買われてきた少女は形式上ハーン夫妻の養女で、彼の許婚と目されていた。必定、エルベクの務めは二人の距離を近づけようと意図されたハトンからの提案だった。異郷での暮らしに大きな目を見開き、たゆたわせるばかりの少女は、ハトン直々に料理の作り方から裁縫まで……一族の女になるためのあらゆることを学ばせられるのだ。エルベクにはそれが哀れでもあったし、一方で継子を迎えざるを得なかった義叔母の気持ちを慮り、何とかしてその恩に報いたい、と考える節もあった。
とにもかくにも、自分がこの少女を大切にしなければ――
大人しく抱かれるサキを見やり、彼は手綱を握る腕に力を込めた。
とにもかくにも、自分がこの少女を大切にしなければ――
大人しく抱かれるサキを見やり、彼は手綱を握る腕に力を込めた。
「さあ、着いたな。おば上ー! サキを連れて参りました!」
サキのゲルとオルドはそう距離があるわけではない。その短い間にわざわざ世継ぎの君を寄こすのは、ハトンの執念と言うべきか。エルベクとサキの間に会話らしい会話は無いし、サキをオルドに送り届けるとすぐに、エルベクは羊を追いに馬を駆けて出かけてしまう。いつも物寂しい思いで彼の背を見送る日々を、サキは悶々とした思いで過ごしていた。
「まぁサキ、上達したじゃない! それでこそ次代のハトンも務まろうというもの!」
「……ありがとうございます、ハトン」
三十を過ぎてなお艶やかな脂粉を撒き散らすこの義母を、サキは決して嫌いではない。けれど彼女の我儘のせいで己が家族から、郷里から引き離されたことを思えば、どうしてもハーン夫妻に対する感情にはわだかまりが残ってしまうのは仕方のないことだった。
「サキ、あなたは最近カサルと親しくしているらしいけれど……幼い頃ならいざ知らず、そろそろあなたもご自分の立場を自覚していただかなくてはね」
「そんな……ハトンにご心配いただくようなことは」
俯いて首を振るサキを、ハトンは軽い溜息を吐いて眺めていた。
カサルとはエルベクの異父弟で、エルベクやサキと共にハーン家族の子として育てられている少年。エルベクの母が先代ハーンと死別して後、再嫁した里(アイマク)で生まれたのが彼だ。たった一人砂の一族に残した息子を案じた母は、せめてもの慰めにとその弟を砂の里に送り出したのだった。結局、今に至るまでハーン夫妻に実子は生まれていない。先代のハトンが生んだ二人の子と、サキをかろうじて養子に迎えているだけ。先代ハトンと現ハトンとはとても親しい間柄であり、だからこそ子どもを相手に託すということも可能だったのであろうが……実際のハトンの心中はいかばかりであろうか。片方は夫の兄である先代ハーンの血を引く世継ぎとはいえ、いま一人は何の縁も無い他の一族(アイマク)の子なのだから。カサルと実兄エルベクとの仲は良好だったが、砂の一族における彼の地位の不確かさは部外者であるサキにもひしひしと感じられた。
そのカサルに、次代のハトンとして大事に育ててきた義娘(むすめ)を取られては――
早すぎる杞憂に、ハトンの心は焦れていた。サキは未だ、恋を知らない。
カサルとはエルベクの異父弟で、エルベクやサキと共にハーン家族の子として育てられている少年。エルベクの母が先代ハーンと死別して後、再嫁した里(アイマク)で生まれたのが彼だ。たった一人砂の一族に残した息子を案じた母は、せめてもの慰めにとその弟を砂の里に送り出したのだった。結局、今に至るまでハーン夫妻に実子は生まれていない。先代のハトンが生んだ二人の子と、サキをかろうじて養子に迎えているだけ。先代ハトンと現ハトンとはとても親しい間柄であり、だからこそ子どもを相手に託すということも可能だったのであろうが……実際のハトンの心中はいかばかりであろうか。片方は夫の兄である先代ハーンの血を引く世継ぎとはいえ、いま一人は何の縁も無い他の一族(アイマク)の子なのだから。カサルと実兄エルベクとの仲は良好だったが、砂の一族における彼の地位の不確かさは部外者であるサキにもひしひしと感じられた。
そのカサルに、次代のハトンとして大事に育ててきた義娘(むすめ)を取られては――
早すぎる杞憂に、ハトンの心は焦れていた。サキは未だ、恋を知らない。
~~~
「サキ、またここにいたの?」
草原の彼方を見つめてうずくまるサキに、声をかけてきたのは件の少年――カサルだった。
「カサル……」
元々砂の一族の血を引いていない彼もまた、サキと同じようにこの土地に疎外感を覚えている風情であった。サキは異質の者に対する好奇や害意を感じさせないカサルの眼差しに安らいでいたし、カサルの方も初めて出来た年少の“仲間”の存在に寂しさを振り払うことが出来た。
「サキ、寂しいんだね。僕もそうだった。兄上も、ハーンもハトンも優しいけれど……でも、よく里の母様の夢を見た。当たり前のことだよ、里が恋しいのも、寂しいのも……」
「でも、ハトンはお叱りになるわ! 早く忘れなきゃ駄目だ、って。砂の一族の女にならなきゃ駄目だ、って!」
泣き伏すサキの頭を、カサルは優しく撫でた。
「ハトンはそのお立場上、自らのお役目をきっちり果たそうとされる余りつい厳しくなってしまうんだよ。君はそのハトンに後継にと望まれているんだ。君が大事だからこそ、望むものが大きくなってしまうんだよ……」
「そんなの、無理だわ……。大体、エルベク様がわたしなんか選ぶわけないじゃない!」
俯くサキをカサルが更に慰めようとした時、二人の背後から馬のいななきが聞こえた。
「おまえたち、何してるんだ二人で! 先ほどからハトンがお呼びだぞ」
馬上からまっすぐにこちらを見据える強い眼差しは、二人の話題の中心人物・エルベクその人のものだった。
「……ほらサキ、乗れ」
有無を言わさずサキの腕を捉え、馬上に引き上げる兄の姿にカサルの胸は軋んだ。
「カサル、おまえは自分で来れるな?」
「……はい、兄上」
二頭の馬が草原を駆ける。それぞれの背に、それぞれの想いを乗せて。
~~~
「サキ、カサル、また二人で出歩いていたのですね。全く……! サキはエルベクの元へ嫁ぎ、私の次のハトンとなる大事なお役目を背負った身。いくらカサルとはいえ、うかつに親しくし過ぎていてはあらぬ誤解を招きますよ」
帰って来た三人の前で、奥方は溜息混じりの小言を吐く。
「はい、ハトン。今後は気を付けます」
黙り込んだサキの代わりに、返事をしたのはカサルだった。カサルはいつもサキに優しい。サキはいつものように己を庇うカサルの背から、ハトンの顔を窺うだけだった。
「……サキ、だめじゃないか。君は兄上が好きなんだろう?」
「わたし……今はもう、わからない。エルベク様が好きなのか、この土地で生きなければならないからそう思い込もうとしていたのか」
「……帰りたい、のかい?」
カサルの問いかけに、サキは涙を拭ってコクリと首を振った。
~~~
「食糧は五日分ある。何とか草原の領土を抜ければ翠の国に行ける。そこから街道を辿って華の国まで、長い道のりだけど君がどうしても行きたいなら……サキ、僕はいつでも、君の幸せを祈ってる」
旅装束に身を包み、今まさに馬上の人となったサキに、カサルは手を差し出した。
「ありがとうカサル。わたし、何とか頑張ってみせるわ。本当に本当に、ありがとう……」
自らの頬に優しく触れたカサルの手に、サキは、もう一度自分の手を重ねて握りしめた。カサルは気づいていた、この日、どんなかたちにせよ自らの育んでいた淡い恋が終わりを迎えることを。彼女は巣立っていった。草原を、ただひたすらに故郷を目指して――
~~~
ウオーン
ワオーン
走り進めて間もないうちに、草原に狼の鳴き声が轟いた。今は一人、周囲には隠れる場所も無い。サキは一人立ちすくみ、震える。華の国までの道のりは遠い。出奔の身で砂の一族の里へは引き返せない。
「逃げなくちゃ……!」
ふるふると震える身体で、サキは必死に馬を引くが、丘の上では既に狼の群れがこちらを見下ろしていた。
「……っ、誰か、父様、母様……カサル……エルベク様っ!」
最初の一匹が襲いかからんとしたまさにその時、サキは叫ぶ。そしてその言葉に呼応するかのように、背後から放たれた弓が狼の頭に命中していた。
「サキっ! 無事か!?」
颯爽と現れたのはエルベクであった。次から次へと遅い来る獣たちをなぎ倒し、呆然としたままのサキの元へ近寄ってくると、その旅装束を見て小さな溜息を吐いた。
「エルベク……様、どうして?」
「どうしてだと!? 自分の許婚がこんな時間に一人で馬に乗って出て行った、と聞いたら平静でいられるものか! どれほど心配したと思ってるんだ……!」
サキの不在を知るや否や馬に跨ったエルベクは、不慣れな苛立ちと寂寞に襲われながら小さな足跡を追い続けた。若い娘の一人旅、もし盗賊が現れたら、獣に襲われたら、そう考えると居ても立ってもいられぬ心地がした。何故、自分に黙ってカサルなどを頼ったのか、この砂の地に骨を埋めることは、彼の妻となることはそれほどにあの少女に苦痛をもたらすものなのだろうか――そう考えると胸が痛んだ。その胸の痛みを無視できるほどエルベクは大人では無かったし、その痛みの理由が分からぬほど幼くもなかった。故に、丘の下に立ちすくむ少女の姿を認めた瞬間、安堵と喜びと、そして憤りがないまぜになって、彼は大声で怒鳴ってしまったのだった。
「も、申し訳……ありません。エルベク様にも、ハトンにも恥をかかせるような真似をして」
俯いた少女に、エルベクは首を振った。
「違う、そうではない。サキ……おまえは、砂の里が嫌いか? ……俺のことが、嫌いか?」
少し傷ついたように伏せられたエルベクの瞳に、サキは目を瞠った。いつも威風堂々とした世継ぎの君のこのような姿を目にするのは初めてだった。
「エルベク様は……わたしが許婚でよろしいのですか? 元々、ハトンが勝手に申されたことでございましょう。……砂の民にはわたしよりハトンにふさわしい方がいらっしゃいます。わたしより優れた方も、わたしよりエルベク様と親しい方も、わたしより……」
少女の言葉を遮るように、エルベクはその細い身体を強く抱きしめた。黒目がちのサキの瞳が、一層大きく見開かれる。
「他人のことは関係ない。俺は、俺の意思でおまえを拒まなかった。これがどういう意味か、おまえに分かるか?」
「わかりません……わかりません、エルベク様。だってわたしは、あなたのことを知らな過ぎる」
熱い腕の中で、サキは涙をこぼしていた。
自分は知ろうとしていなかった、夫になるはずの相手のことを。そもそも今まで砂の一族の人々を、同じ人間として見ていたと言えるだろうか? 自分が心を閉ざしていたから、何も見えていなかっただけなのかもしれない。
自分は知ろうとしていなかった、夫になるはずの相手のことを。そもそも今まで砂の一族の人々を、同じ人間として見ていたと言えるだろうか? 自分が心を閉ざしていたから、何も見えていなかっただけなのかもしれない。
「おまえが故郷を恋しく思う気持ちも、弟を慕わしく感じていることも知っている。それでも、知ってほしい、見てほしい。砂の一族の人間でも、許婚でも、家族でもない俺のことを。……そして考えてほしい、おまえが、俺の名を呼んだ理由(わけ)を」
一本の矢のように真っ直ぐなエルベクの眼差しがサキの瞳を見つめ、その鼓動を高鳴らせた。
「はい……はい、エルベク様。わたしは、知りたい」
サキは頷き、エルベクの背中に腕を回した。草原を一陣の風が吹き抜ける。風は花を散らし砂を巻き上げる。そうして美しい嵐を、いつかどこかの大地にもたらす――
→砂に緑(カサル編)
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サキの記憶にある故郷は花に溢れていた。ヒュウヒュウと風の吹きすさぶ荒野ではない、小さな家々がひしめくように並び、猥雑な市場からは喧騒が絶えない。獣の咆哮も、乾いた砂塵もそこには存在しなかった。ここに来たのは何時のことであったか、思いだせないほどの時が経ったように思う。どこまでも広がる荒野。蛮賊と呼ばれる砂の一族の治める地。サキは今、そこで暮らしていた。さらりとこぼれゆく砂が、サキの手を離れた。立ち上がり、砂が舞う方角を見やる。その先には、確かに彼女の故郷がある。
砂の一族の長(ハーン)には子が無い。世継ぎには先代の子である甥エルベクがいたが、その妻(ハトン)は養女(むすめ)を育てることを執拗に望んだ。困り果てたハーンは華の国から一人の娘を買うことにした――それがサキである。サキの生まれは老舗の商家だったが、父親の代には没落し、多額の負債を抱えていた。そんな中、役人の目を逃れて密かに物流のやりとりをしていた砂の一族――しかもハーンに小金をちらつかされては断るべくもない。幼いサキは初めて跨る馬の感触に怯えながら、遠ざかる故郷に別れを告げた。ハトンは嬉々として娘を迎え、自らの後のハトンを受け継がせるべく丁寧に躾たが、彼女はこの地の暮らしにも人々にも馴染めず歳月を過ごした。そして今、彼女はここに佇んでいる。
~~~
砂の一族ハーンの世継ぎであるエルベクには毎日定められた務めがあった。誰よりも早く起きて鍛錬に励むこと、馬を駆けて領土の端々を見回ること、叔父であるハーンの講義を受けること、そのついでにサキをハーン夫妻の住居(オルド)まで送り届けること――
華の国から買われてきた少女は形式上ハーン夫妻の養女で、彼の許婚と目されていた。必定、エルベクの務めは二人の距離を近づけようと意図されたハトンからの提案だった。異郷での暮らしに大きな目を見開き、たゆたわせるばかりの少女は、ハトン直々に料理の作り方から裁縫まで……一族の女になるためのあらゆることを学ばせられるのだ。エルベクにはそれが哀れでもあったし、一方で継子を迎えざるを得なかった義叔母の気持ちを慮り、何とかしてその恩に報いたい、と考える節もあった。
とにもかくにも、自分がこの少女を大切にしなければ――
大人しく抱かれるサキを見やり、彼は手綱を握る腕に力を込めた。
とにもかくにも、自分がこの少女を大切にしなければ――
大人しく抱かれるサキを見やり、彼は手綱を握る腕に力を込めた。
「さあ、着いたな。おば上ー! サキを連れて参りました!」
サキのゲルとオルドはそう距離があるわけではない。その短い間にわざわざ世継ぎの君を寄こすのは、ハトンの執念と言うべきか。エルベクとサキの間に会話らしい会話は無いし、サキをオルドに送り届けるとすぐに、エルベクは羊を追いに馬を駆けて出かけてしまう。いつも物寂しい思いで彼の背を見送る日々を、サキは悶々とした思いで過ごしていた。
「まぁサキ、上達したじゃない! それでこそ次代のハトンも務まろうというもの!」
「……ありがとうございます、ハトン」
三十を過ぎてなお艶やかな脂粉を撒き散らすこの義母を、サキは決して嫌いではない。けれど彼女の我儘のせいで己が家族から、郷里から引き離されたことを思えば、どうしてもハーン夫妻に対する感情にはわだかまりが残ってしまうのは仕方のないことだった。
「サキ、あなたは最近カサルと親しくしているらしいけれど……幼い頃ならいざ知らず、そろそろあなたもご自分の立場を自覚していただかなくてはね」
「そんな……ハトンにご心配いただくようなことは」
俯いて首を振るサキを、ハトンは軽い溜息を吐いて眺めていた。
カサルとはエルベクの異父弟で、エルベクやサキと共にハーン家族の子として育てられている少年。エルベクの母が先代ハーンと死別して後、再嫁した里(アイマク)で生まれたのが彼だ。たった一人砂の一族に残した息子を案じた母は、せめてもの慰めにとその弟を砂の里に送り出したのだった。結局、今に至るまでハーン夫妻に実子は生まれていない。先代のハトンが生んだ二人の子と、サキをかろうじて養子に迎えているだけ。先代ハトンと現ハトンとはとても親しい間柄であり、だからこそ子どもを相手に託すということも可能だったのであろうが……実際のハトンの心中はいかばかりであろうか。片方は夫の兄である先代ハーンの血を引く世継ぎとはいえ、いま一人は何の縁も無い他の一族(アイマク)の子なのだから。カサルと実兄エルベクとの仲は良好だったが、砂の一族における彼の地位の不確かさは部外者であるサキにもひしひしと感じられた。
そのカサルに、次代のハトンとして大事に育ててきた義娘(むすめ)を取られては――
早すぎる杞憂に、ハトンの心は焦れていた。サキは未だ、恋を知らない。
カサルとはエルベクの異父弟で、エルベクやサキと共にハーン家族の子として育てられている少年。エルベクの母が先代ハーンと死別して後、再嫁した里(アイマク)で生まれたのが彼だ。たった一人砂の一族に残した息子を案じた母は、せめてもの慰めにとその弟を砂の里に送り出したのだった。結局、今に至るまでハーン夫妻に実子は生まれていない。先代のハトンが生んだ二人の子と、サキをかろうじて養子に迎えているだけ。先代ハトンと現ハトンとはとても親しい間柄であり、だからこそ子どもを相手に託すということも可能だったのであろうが……実際のハトンの心中はいかばかりであろうか。片方は夫の兄である先代ハーンの血を引く世継ぎとはいえ、いま一人は何の縁も無い他の一族(アイマク)の子なのだから。カサルと実兄エルベクとの仲は良好だったが、砂の一族における彼の地位の不確かさは部外者であるサキにもひしひしと感じられた。
そのカサルに、次代のハトンとして大事に育ててきた義娘(むすめ)を取られては――
早すぎる杞憂に、ハトンの心は焦れていた。サキは未だ、恋を知らない。
~~~
「サキ、またここにいたの?」
草原の彼方を見つめてうずくまるサキに、声をかけてきたのは件の少年――カサルだった。
「カサル……」
元々砂の一族の血を引いていない彼もまた、サキと同じようにこの土地に疎外感を覚えている風情であった。サキは異質の者に対する好奇や害意を感じさせないカサルの眼差しに安らいでいたし、カサルの方も初めて出来た年少の“仲間”の存在に寂しさを振り払うことが出来た。
「サキ、寂しいんだね。僕もそうだった。兄上も、ハーンもハトンも優しいけれど……でも、よく里の母様の夢を見た。当たり前のことだよ、里が恋しいのも、寂しいのも……」
「でも、ハトンはお叱りになるわ! 早く忘れなきゃ駄目だ、って。砂の一族の女にならなきゃ駄目だ、って!」
泣き伏すサキの頭を、カサルは優しく撫でた。
「ハトンはそのお立場上、自らのお役目をきっちり果たそうとされる余りつい厳しくなってしまうんだよ。君はそのハトンに後継にと望まれているんだ。君が大事だからこそ、望むものが大きくなってしまうんだよ……」
「そんなの、無理だわ……。大体、エルベク様がわたしなんか選ぶわけないじゃない!」
俯くサキをカサルが更に慰めようとした時、二人の背後から馬のいななきが聞こえた。
「おまえたち、何してるんだ二人で! 先ほどからハトンがお呼びだぞ」
馬上からまっすぐにこちらを見据える強い眼差しは、二人の話題の中心人物・エルベクその人のものだった。
「……ほらサキ、乗れ」
有無を言わさずサキの腕を捉え、馬上に引き上げる兄の姿にカサルの胸は軋んだ。
「カサル、おまえは自分で来れるな?」
「……はい、兄上」
二頭の馬が草原を駆ける。それぞれの背に、それぞれの想いを乗せて。
~~~
「サキ、カサル、また二人で出歩いていたのですね。全く……! サキはエルベクの元へ嫁ぎ、私の次のハトンとなる大事なお役目を背負った身。いくらカサルとはいえ、うかつに親しくし過ぎていてはあらぬ誤解を招きますよ」
帰って来た三人の前で、奥方は溜息混じりの小言を吐く。
「はい、ハトン。今後は気を付けます」
黙り込んだサキの代わりに、返事をしたのはカサルだった。カサルはいつもサキに優しい。サキはいつものように己を庇うカサルの背から、ハトンの顔を窺うだけだった。
「……サキ、だめじゃないか。君は兄上が好きなんだろう?」
「わたし……今はもう、わからない。エルベク様が好きなのか、この土地で生きなければならないからそう思い込もうとしていたのか」
「……帰りたい、のかい?」
カサルの問いかけに、サキは涙を拭ってコクリと首を振った。
~~~
「食糧は五日分ある。何とか草原の領土を抜ければ翠の国に行ける。そこから街道を辿って華の国まで、長い道のりだけど君がどうしても行きたいなら……サキ、僕はいつでも、君の幸せを祈ってる」
旅装束に身を包み、今まさに馬上の人となったサキに、カサルは手を差し出した。
「ありがとうカサル。わたし、何とか頑張ってみせるわ。本当に本当に、ありがとう……」
自らの頬に優しく触れたカサルの手に、サキは、もう一度自分の手を重ねて握りしめた。カサルは気づいていた、この日、どんなかたちにせよ自らの育んでいた淡い恋が終わりを迎えることを。彼女は巣立っていった。草原を、ただひたすらに故郷を目指して――
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ウオーン
ワオーン
走り進めて間もないうちに、草原に狼の鳴き声が轟いた。今は一人、周囲には隠れる場所も無い。サキは一人立ちすくみ、震える。華の国までの道のりは遠い。出奔の身で砂の一族の里へは引き返せない。
「逃げなくちゃ……!」
ふるふると震える身体で、サキは必死に馬を引くが、丘の上では既に狼の群れがこちらを見下ろしていた。
「……っ、誰か、父様、母様……カサル……エルベク様っ!」
最初の一匹が襲いかからんとしたまさにその時、サキは叫ぶ。そしてその言葉に呼応するかのように、背後から放たれた弓が狼の頭に命中していた。
「サキっ! 無事か!?」
颯爽と現れたのはエルベクであった。次から次へと遅い来る獣たちをなぎ倒し、呆然としたままのサキの元へ近寄ってくると、その旅装束を見て小さな溜息を吐いた。
「エルベク……様、どうして?」
「どうしてだと!? 自分の許婚がこんな時間に一人で馬に乗って出て行った、と聞いたら平静でいられるものか! どれほど心配したと思ってるんだ……!」
サキの不在を知るや否や馬に跨ったエルベクは、不慣れな苛立ちと寂寞に襲われながら小さな足跡を追い続けた。若い娘の一人旅、もし盗賊が現れたら、獣に襲われたら、そう考えると居ても立ってもいられぬ心地がした。何故、自分に黙ってカサルなどを頼ったのか、この砂の地に骨を埋めることは、彼の妻となることはそれほどにあの少女に苦痛をもたらすものなのだろうか――そう考えると胸が痛んだ。その胸の痛みを無視できるほどエルベクは大人では無かったし、その痛みの理由が分からぬほど幼くもなかった。故に、丘の下に立ちすくむ少女の姿を認めた瞬間、安堵と喜びと、そして憤りがないまぜになって、彼は大声で怒鳴ってしまったのだった。
「も、申し訳……ありません。エルベク様にも、ハトンにも恥をかかせるような真似をして」
俯いた少女に、エルベクは首を振った。
「違う、そうではない。サキ……おまえは、砂の里が嫌いか? ……俺のことが、嫌いか?」
少し傷ついたように伏せられたエルベクの瞳に、サキは目を瞠った。いつも威風堂々とした世継ぎの君のこのような姿を目にするのは初めてだった。
「エルベク様は……わたしが許婚でよろしいのですか? 元々、ハトンが勝手に申されたことでございましょう。……砂の民にはわたしよりハトンにふさわしい方がいらっしゃいます。わたしより優れた方も、わたしよりエルベク様と親しい方も、わたしより……」
少女の言葉を遮るように、エルベクはその細い身体を強く抱きしめた。黒目がちのサキの瞳が、一層大きく見開かれる。
「他人のことは関係ない。俺は、俺の意思でおまえを拒まなかった。これがどういう意味か、おまえに分かるか?」
「わかりません……わかりません、エルベク様。だってわたしは、あなたのことを知らな過ぎる」
熱い腕の中で、サキは涙をこぼしていた。
自分は知ろうとしていなかった、夫になるはずの相手のことを。そもそも今まで砂の一族の人々を、同じ人間として見ていたと言えるだろうか? 自分が心を閉ざしていたから、何も見えていなかっただけなのかもしれない。
自分は知ろうとしていなかった、夫になるはずの相手のことを。そもそも今まで砂の一族の人々を、同じ人間として見ていたと言えるだろうか? 自分が心を閉ざしていたから、何も見えていなかっただけなのかもしれない。
「おまえが故郷を恋しく思う気持ちも、弟を慕わしく感じていることも知っている。それでも、知ってほしい、見てほしい。砂の一族の人間でも、許婚でも、家族でもない俺のことを。……そして考えてほしい、おまえが、俺の名を呼んだ理由(わけ)を」
一本の矢のように真っ直ぐなエルベクの眼差しがサキの瞳を見つめ、その鼓動を高鳴らせた。
「はい……はい、エルベク様。わたしは、知りたい」
サキは頷き、エルベクの背中に腕を回した。草原を一陣の風が吹き抜ける。風は花を散らし砂を巻き上げる。そうして美しい嵐を、いつかどこかの大地にもたらす――
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