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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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お葬式の留守番。
ラッキーなんだか嫌なもんなんだか。
寒い中長い説教を聞くのも憂鬱だけど、一人で待つのも心細い。
暇だからってそう不謹慎なことはできないし。(十分してるだろオマエ)
家庭の事情で、私は三つの宗教のお葬式を体験できるんですが・・・。
仏式と違うと周囲は戸惑うことが多いですよね。
うちの親や私自身は完全無宗教なんですけど。
親戚一同が宗教で揉めてるのを散々見てきてるからなんでしょうね。

宗教って何なんでしょう?
普段お寺や神社を巡るのは好きだし、行くと何となく落ち着く。
お葬式に出ると、やっぱりこういう時は必要だな、とも思う。
でも時々物凄く醜いものにかたちを変える。
「信じること」の意味は何だろう?
「信じること」は時に「盲目」に姿を変える。
何をどこまで信じたら「救い」になるのか。
それは自我を失うこととは違うのか。

祖父は数年前から食前の祈りを止めました。
体調が悪化してから日曜日の礼拝にも行けなくなり、
最期の一年はボケてしまってイ〇ス様の「イ」の字も出てこなかった。
それでも、教会で教徒として葬られる。
果たしてそれで本当に天国まで行けるのだろうか。
洗礼を受けた頃の祖父が、晩年の祖父を見たら何と思うのか。
私は彼と、彼の信仰についての話をしたことがない。
だから彼の信仰がどれほど深いものだったのか、というのは分からない。
親兄弟になじられてまで彼がその信仰を選んだ理由を、
一度きちんと聞いておけばよかった。

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