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年末年始荒れるネタをドンドン投下するキャンペーン(^ω^)
スプツ○子さんの今年の瀬戸芸展示が気になって仕方ない。いや彼女の作品毎回ちょっと理解できないなー、ってたまに発言とか発想に共感できるものはあっても「何でコレがアートとして評価されるのか?」って価値がイマイチ謎なものばっかりなんですけど(-_-;)←批判ではなく単純に根本的なセンスが違うんだと思う@凡人以下だからさ!
何というか、瀬戸芸作品のテーマに関わるツイートで「この人も一神教と多神教の狭間に生きてきた人なんだ」と気づいたら興味が・・・。彼女の場合は(一神教基盤の)西洋系ハーフで世界中アチコチ行き来しつつ何だかんだ日.本をホームと捉えていること、親からしておそらく不可知論の極まった学問・研究分野に携わっていること等の影響が私なんかよりずっとリアルで生々しく、悩む隙もなく「現実」としてそれぞれの価値観・世界が存在する事実の中に身を浸してきた方だとは思いますが。
初詣行った時も友達と話したんですけど、ホント日/本って宗教に対する感覚や姿勢がカオスで特殊過ぎて混乱するな、って。友達は無神論者(何たって二つ前の記事の悟りきっている子なので、「神は人間が創り出したもの」とまでハッキリ言ってた。笑)だけど留学経験もある子で、大聖堂やミサの雰囲気、懺悔室への人の集まりっぷりを見ているとソレが人類にとって必要な理由、またキリ○ト教とそれを規範とする価値観がここまで絶対的な存在として世界に広まった理由も理解できた、と。そうなんですよね、一神教ではそれ自体が「全て」の規範、罪や道徳を決める元になってしまうから、神様だって罪を犯すし、裁かれたり、新しく「力」のあるもの、人間より上を行く畏怖を備えていたり敬うべき対象としての「カミ」を「発見」したら無限に増やしていける多神教の考え方とは根本的に違う。
神(God)は人が生まれる前から存在し、世界と人を生み出した絶対的な存在であるが故に、その神の定めた掟は決して破られてはならず、基本的にはソレに確実に従って生きなくてはいけない、という明白さはある意味で思考の放棄を肯定するというか、悩み苦しんだ時に祈ることによって心を楽に、もっと直接的な言い方をすれば自らの選択の結果を「神のご意思」として責任から逃れることができる。(嫌な表現だけど、祖母とか見てるとホントそうだな、って(-_-;))また同じ信仰を持つ者同士の価値観の統一や団結を図れるという点で優れていると思う。(宗派対立やE Uの現状見てるとソレもちょっと揺らいできているかなー、と感じたりはするけど(^-^;)
対して日/本は、倫理観を「カミ」に求めることはできない。そもそも祈るに当たっても、「カミ」を選択し自ら足を運ぶところから始まる。そんな世界で日常生活における最低限の規範をどこに求めるか、というと各々のその土地で生きる者としてのプライドというか、よく批判もされる共同体ムラ意識(集団としての評価・責任が重視されるシステムによって育まれた「所属する家や村、国の評判を己のせいで落としてはいけない」という観念)、そして何より「お天道様」(と、ぶっちゃけその子孫とされるTenno)に対して恥ずべきことをしてはいけない、という気持ちや愛着の念(これはキリス○教世界における「神の目」の発想と近いけれども、その信者が「罪と裁き」を恐れるが故にソレを意識する考え方とは違い、日.本人はその存在に対して「恥」をさらすことを怖れる、という点が微妙に異なるところかな?)が大きくて、ヨソ様から「民/族主義・国.家主義」が根強い保守的な国として見えるのはそのためなんじゃなかろうか? 正直始まりが極めて原始的な土着信仰に端を発する、この「日/本人的思想・宗教観・倫理意識」と、それが奇跡的に噛み合わさって作用して千年以上も変わらぬ秩序を形成している社会(しかも中.華思想・儒/教が最優先規範だった近隣諸国とも全く異なるというガラパゴス。笑)というのは圧倒的多数を占める「他者」から見た時に信じがたい、受け入れがたいものなのでは、と思います。
その辺のこととか、初詣のにぎわいっぷりと何だかんだおみくじ気にしてお守り買っちゃう自分や、既に悟りを開いているのに(笑)やっぱり同じことをしている友達の姿に色々考えさせられてしまった。何故ナチュラルに生まれ育った国の宗教や考え方を理解・受容できないのか、何故ウチの家族はそれらを否定してしまったのか、という点にずっとコンプレックスを抱いて悩んできたけど、それはそれで良いことなのかな、とか宗教というものと人間との関わり方や「God」・「カミ」、それから昨日の友人の諸々の発言を参考にどちらとも違う「目覚めた人」の存在(よく考えたら「宗教」と呼んで良いのか「思想・哲学」カテゴリーなのか微妙ですよね仏教・・・孔.子だって中/華圏ではほとんど神や仏と変わらないノリで祀られてたりするし。教義の中で死後の世界に触れるか触れないかで区別されるのかな?(・・;))とその意義についてや、キ○スト教を全力で閉め出した日.本に初めに導入された理由は同じだったはずの仏教がここまで神道と共存して根付いた訳は何か、とか少し色々見えてきたような気もする。
ってことで、多分(お金も気力もないので)瀬戸芸に生で足を運ぶことは無いだろうけど、もしかしたら今度こそ共感できるかもしれない、スプ○ニ子さんの出した「答え」に対してちょっと興味を抱きました、という話が思ったより長引き過ぎて自分にドン引き(笑) 本当どれだけコンプ根深いんだろうね、この辺のネタ(ノ∀`)
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スプツ○子さんの今年の瀬戸芸展示が気になって仕方ない。いや彼女の作品毎回ちょっと理解できないなー、ってたまに発言とか発想に共感できるものはあっても「何でコレがアートとして評価されるのか?」って価値がイマイチ謎なものばっかりなんですけど(-_-;)←批判ではなく単純に根本的なセンスが違うんだと思う@凡人以下だからさ!
何というか、瀬戸芸作品のテーマに関わるツイートで「この人も一神教と多神教の狭間に生きてきた人なんだ」と気づいたら興味が・・・。彼女の場合は(一神教基盤の)西洋系ハーフで世界中アチコチ行き来しつつ何だかんだ日.本をホームと捉えていること、親からしておそらく不可知論の極まった学問・研究分野に携わっていること等の影響が私なんかよりずっとリアルで生々しく、悩む隙もなく「現実」としてそれぞれの価値観・世界が存在する事実の中に身を浸してきた方だとは思いますが。
初詣行った時も友達と話したんですけど、ホント日/本って宗教に対する感覚や姿勢がカオスで特殊過ぎて混乱するな、って。友達は無神論者(何たって二つ前の記事の悟りきっている子なので、「神は人間が創り出したもの」とまでハッキリ言ってた。笑)だけど留学経験もある子で、大聖堂やミサの雰囲気、懺悔室への人の集まりっぷりを見ているとソレが人類にとって必要な理由、またキリ○ト教とそれを規範とする価値観がここまで絶対的な存在として世界に広まった理由も理解できた、と。そうなんですよね、一神教ではそれ自体が「全て」の規範、罪や道徳を決める元になってしまうから、神様だって罪を犯すし、裁かれたり、新しく「力」のあるもの、人間より上を行く畏怖を備えていたり敬うべき対象としての「カミ」を「発見」したら無限に増やしていける多神教の考え方とは根本的に違う。
神(God)は人が生まれる前から存在し、世界と人を生み出した絶対的な存在であるが故に、その神の定めた掟は決して破られてはならず、基本的にはソレに確実に従って生きなくてはいけない、という明白さはある意味で思考の放棄を肯定するというか、悩み苦しんだ時に祈ることによって心を楽に、もっと直接的な言い方をすれば自らの選択の結果を「神のご意思」として責任から逃れることができる。(嫌な表現だけど、祖母とか見てるとホントそうだな、って(-_-;))また同じ信仰を持つ者同士の価値観の統一や団結を図れるという点で優れていると思う。(宗派対立やE Uの現状見てるとソレもちょっと揺らいできているかなー、と感じたりはするけど(^-^;)
対して日/本は、倫理観を「カミ」に求めることはできない。そもそも祈るに当たっても、「カミ」を選択し自ら足を運ぶところから始まる。そんな世界で日常生活における最低限の規範をどこに求めるか、というと各々のその土地で生きる者としてのプライドというか、よく批判もされる共同体ムラ意識(集団としての評価・責任が重視されるシステムによって育まれた「所属する家や村、国の評判を己のせいで落としてはいけない」という観念)、そして何より「お天道様」(と、ぶっちゃけその子孫とされるTenno)に対して恥ずべきことをしてはいけない、という気持ちや愛着の念(これはキリス○教世界における「神の目」の発想と近いけれども、その信者が「罪と裁き」を恐れるが故にソレを意識する考え方とは違い、日.本人はその存在に対して「恥」をさらすことを怖れる、という点が微妙に異なるところかな?)が大きくて、ヨソ様から「民/族主義・国.家主義」が根強い保守的な国として見えるのはそのためなんじゃなかろうか? 正直始まりが極めて原始的な土着信仰に端を発する、この「日/本人的思想・宗教観・倫理意識」と、それが奇跡的に噛み合わさって作用して千年以上も変わらぬ秩序を形成している社会(しかも中.華思想・儒/教が最優先規範だった近隣諸国とも全く異なるというガラパゴス。笑)というのは圧倒的多数を占める「他者」から見た時に信じがたい、受け入れがたいものなのでは、と思います。
その辺のこととか、初詣のにぎわいっぷりと何だかんだおみくじ気にしてお守り買っちゃう自分や、既に悟りを開いているのに(笑)やっぱり同じことをしている友達の姿に色々考えさせられてしまった。何故ナチュラルに生まれ育った国の宗教や考え方を理解・受容できないのか、何故ウチの家族はそれらを否定してしまったのか、という点にずっとコンプレックスを抱いて悩んできたけど、それはそれで良いことなのかな、とか宗教というものと人間との関わり方や「God」・「カミ」、それから昨日の友人の諸々の発言を参考にどちらとも違う「目覚めた人」の存在(よく考えたら「宗教」と呼んで良いのか「思想・哲学」カテゴリーなのか微妙ですよね仏教・・・孔.子だって中/華圏ではほとんど神や仏と変わらないノリで祀られてたりするし。教義の中で死後の世界に触れるか触れないかで区別されるのかな?(・・;))とその意義についてや、キ○スト教を全力で閉め出した日.本に初めに導入された理由は同じだったはずの仏教がここまで神道と共存して根付いた訳は何か、とか少し色々見えてきたような気もする。
ってことで、多分(お金も気力もないので)瀬戸芸に生で足を運ぶことは無いだろうけど、もしかしたら今度こそ共感できるかもしれない、スプ○ニ子さんの出した「答え」に対してちょっと興味を抱きました、という話が思ったより長引き過ぎて自分にドン引き(笑) 本当どれだけコンプ根深いんだろうね、この辺のネタ(ノ∀`)
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