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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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ごはん食べるのマジでキツイ。お腹空いた、とか美味しそう、って感覚はあるんだけど胃が受け付けないというか消化できなくて上から出そうになるわ\(^O^)/ どうすりゃ良いんだろーなー・・・情けない。

以下また宗教ネタカテゴリーになるかもしれない話。特にカト○ック信者の方はご注意願いますm(__)m

何回か言ってるけど「神は乗り越えられる試練しか与えない」って言葉が大っ嫌いです。まぁ私が無宗教者で死んだら霊魂もクソも残らず完全消滅、って考え方の人間だからかもしれないけど、一番の試練=死だよ、終わりだよ乗り越えることもできないよ!って震災の時にな・・・本当に心からギリギリと歯ぎしりするくらい悔しく感じてしまったから。もし生きていられたら、どんなことでもいくらでも乗り越えられたよこの子は、この人は、って命が沢山、その可能性すら奪われてしまったから。
例えば外国人の神父様。カ○リックだからもちろん結婚や家族を持つこともせず、こんな遠い国の田舎で何十年もひたすら神と信者のために尽くしてきた。一方ではとっとと地位上げた連中が年端もいかない少年弄んだり権力争いにいそしんでいる中にあって。そんな彼がこんな場所でこんな終わりを迎えないといけないなんて、その信仰は本当に正しいって言えるの?「死」という最も大きな試練を乗り越えて祝福と共に天の国に迎えられたから、喜ぶべきことだって? ふざけんなよカト○ック、滅びよバ○カン!とアジア歴訪スルー時にも正直思ってしまいましたね。確かにうちの国に信者は少ないし、身内は宗派も違う上に日.本人としても別に来てほしいと思っていたわけではないけど。常に弱い立場や苦しむ人に寄り添うことを是とし、神を信じる者・仕える者に祝福あれ、と謳う宗教であるならば。異国の地での宣教に生涯を捧げた一人の神父の死と向き合い、その意味を世界最大級の信者を抱える宗派として、もっと重く受け止めても良かったんじゃないか。考えるべきだったんじゃないか、彼が信仰によって得たものと失ったもの、「試練」という言葉や教会とは何か、って在り方自体を。彼を慕い、教えを請うていた信者たちに自らの信仰への疑念は生まれなかったのか、とか気になって仕方ありません。
結局は訪問先の決定とか教皇庁の立ち回りとかも信者の数(まぁこの辺お金も絡みますな)とか政治の問題で(あれだけの組織だから当たり前のことなんだけど)、たった一人の心から教会に、神の教えに真心から尽くした神父の死はスルーされてしまうのか、と虚しくなってしまったんですよ。私は彼を直接知らないし、カ○リック信者ともほぼ関わりないのに。今あっちの業界で彼がどういう扱いになっているのか、今後どう位置付けられていくのか、という可能性については無知だから、現段階では偏って間違った見方をしてしまっているのかもしれないけれど(-_-;)
・・・後に誰か『沈黙』みたいな感じで、彼を主題にした救いの持てる小説でも書いてくれないかな。(ボソッ)

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何回か言ってるけど「神は乗り越えられる試練しか与えない」って言葉が大っ嫌いです。まぁ私が無宗教者で死んだら霊魂もクソも残らず完全消滅、って考え方の人間だからかもしれないけど、一番の試練=死だよ、終わりだよ乗り越えることもできないよ!って震災の時にな・・・本当に心からギリギリと歯ぎしりするくらい悔しく感じてしまったから。もし生きていられたら、どんなことでもいくらでも乗り越えられたよこの子は、この人は、って命が沢山、その可能性すら奪われてしまったから。
例えば外国人の神父様。カ○リックだからもちろん結婚や家族を持つこともせず、こんな遠い国の田舎で何十年もひたすら神と信者のために尽くしてきた。一方ではとっとと地位上げた連中が年端もいかない少年弄んだり権力争いにいそしんでいる中にあって。そんな彼がこんな場所でこんな終わりを迎えないといけないなんて、その信仰は本当に正しいって言えるの?「死」という最も大きな試練を乗り越えて祝福と共に天の国に迎えられたから、喜ぶべきことだって? ふざけんなよカト○ック、滅びよバ○カン!とアジア歴訪スルー時にも正直思ってしまいましたね。確かにうちの国に信者は少ないし、身内は宗派も違う上に日.本人としても別に来てほしいと思っていたわけではないけど。常に弱い立場や苦しむ人に寄り添うことを是とし、神を信じる者・仕える者に祝福あれ、と謳う宗教であるならば。異国の地での宣教に生涯を捧げた一人の神父の死と向き合い、その意味を世界最大級の信者を抱える宗派として、もっと重く受け止めても良かったんじゃないか。考えるべきだったんじゃないか、彼が信仰によって得たものと失ったもの、「試練」という言葉や教会とは何か、って在り方自体を。彼を慕い、教えを請うていた信者たちに自らの信仰への疑念は生まれなかったのか、とか気になって仕方ありません。
結局は訪問先の決定とか教皇庁の立ち回りとかも信者の数(まぁこの辺お金も絡みますな)とか政治の問題で(あれだけの組織だから当たり前のことなんだけど)、たった一人の心から教会に、神の教えに真心から尽くした神父の死はスルーされてしまうのか、と虚しくなってしまったんですよ。私は彼を直接知らないし、カ○リック信者ともほぼ関わりないのに。今あっちの業界で彼がどういう扱いになっているのか、今後どう位置付けられていくのか、という可能性については無知だから、現段階では偏って間違った見方をしてしまっているのかもしれないけれど(-_-;)
・・・後に誰か『沈黙』みたいな感じで、彼を主題にした救いの持てる小説でも書いてくれないかな。(ボソッ)

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