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いてくれて良かった、って存在は本当に貴重。
真剣にボロボロになった時は一人でいたらいかんのや。誰かと一緒にどっか行って、綺麗なものを見て、心地よい空間に浸って、話したり話さなかったり。たぶんAセクの人がカムアウトした親御さんに言われた「パートナーは作りなさい」という言葉の意味も、『侍』の中に描かれていた人がGodを求める意味もそういうことなのかもしれない。犬でも何でも良いから、どんな状態でもそばにいてくれる自分以外の存在を人は本質的に欲している、と。私はそれを「やっぱイマジナリー・フレンドじゃん(;´д`)」としか受け止められなかったけど、それは私に何だかんだ小さい頃からずっと繋がり続けている幼なじみのような絶対的に信用がおける存在がいたからかもしれない。今でさえ不安定な精神状態を、そうと認めることすらできずに父のような結末を辿っていたかもしれない、と彼の最後の交友関係(と某党の薄情さ)を考えると思います。周りの人たちがいなかったら、自分で自分を異常だと認めることすらできなかったかもしれないし、何も考えずに無責任な終わらせ方をしていたかもしれない。何も信じないことは苦しいです。信じられない自分が嫌になることもあります。でも人間様だけは、例え日々の仕事でどんなのに当たろうとも信じようと、好きだと思い続けられるのは周りの人たちのおかげ。死んだらソッコー記憶から消えてなかったことにしてほしいけど、それまでは面倒にグダグダ絡みながら迷惑をかけて何とか死なない努力を続けていくんだと思う。だから私には神様もイデオロギーも必要ないんだと。全てが一つのことで収まるなんてありはしないから、そういう発想自体が信じられないから、この人にはこういう話をして、この人とはこういう場所に行く、そういう付き合い方で十分満たされる。例えば体型が急激に変わった時、親が死んだ時、同じように思いやってくれる相手が複数いるのって全てをわかってくれる唯一の存在がいることよりもずっと大事なことだと感じませんか? それぞれ関係性は少しずつ違うけれど、直接アクションを起こしてくれない神様より、無理やり理屈に当てはめて不合理な解決法を押し付けるイデオロギーよりよっぽど胸にしみるし役に立ちます。
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