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ほぼ対自分向けメモ録。ブックマーク・リンクは掲示板貼付以外ご自由にどうぞ。著作権は一応ケイトにありますので文章の無断転載等はご遠慮願います。※最近の記事は私生活が詰まりすぎて創作の余裕が欠片もなく、心の闇の吐き出しどころとなっているのでご注意くださいm(__)m
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やっと半分くらいまで来たかな?読んでいて現実の諸々が過りすぎてつらい・・・極端な誇張もあるとはいえ、書かれてから70年近く経つのにまだそういう体制の国が一ヶ所じゃなく存在するとか、そのこと考えちゃったり関連する記事漁り出したりしちゃって(´;ω;`)

※以下かなり病み混じり、かつ後半ハルキ(のエロ描写。笑)批判なのでご注意願います。

ウィンストンとジュリアの生きる抑圧された世界、愛し合う自由すらない苦しみの中で、逃げることなど不可能な現実に二人が選べる唯一の手段が心中しかないと分かっている。けれども二人はその選択肢を選ばない、なぜなら例え未来を持てない状況であっても、現在を引き伸ばしてしまうのが克服しえない本能だから、ってところがまさに今の自分の状態を表しているようで心底共感した(笑) いや私そこまでハードモードな世界に放り込まれてる訳じゃないけど、全く未来について考えられないし見通せない(自分のような存在があと何十年のうのうと生きながらえるとかゾッとするし意味がないとしか思えない)という点で(^-^;

ウィンストンが母親の記憶を取り戻すくだりでは、「愛する」という行為が最も素朴な人間性の原点で、彼はそれすらも、その感情や記憶や在り方すらも党によって奪われてしまっていたのか、って(つд`) 与えるものが何もなくてもただ愛を与える、それこそが高潔な母親の人間性だったんだ、ってジュリアとの出会いでやっと眠っていた人としての心を蘇らせることができたんだなぁ、と。

ついに出てきたブラザー同盟、明確な組織も同志愛もなく、ただ共有できるのは思想だけ、それだけは党にも誰にも奪うことができない、ってなー。世界中で反政府運動を闘ってる人が陥りがちな「組織の罠」を否定する、原点のような発想が良いと思った。全/体・共/産・社/会主義といった「大きな政府」に立ち向かうには、それらを否定する運動を繰り広げるにはまず第一に抵抗する側が「個人」であることを忘れてはいけない、と考えるから。一人一人違う考え方と記憶を持ち、「同じ」記憶や思考を押し付けられることを嫌う。そこを出発点にしていかないとダメだよね。(だから私、全く同一文体のキャッチコピー掲げてるデモ隊とかは生ぬるい目で見ちゃうし、まだ資本主義の方が支持できる。金持ちになるのも貧乏人になるのも建前上個人の選択の結果だし、下から上に這い上がれる正規のルートも一応あるから。色んな所得層ごとの商売が生まれたり、自由と多様性が感じられる社会の方が、党の区分で生活レベル振り分けられて永遠にそれに従って生きないといけない状態よりはずっとマシ。下から巻き上げた税金や賄賂で良い暮らししてるエリートより、どんな手段を使ってでも自分で稼いだ金でブイブイ言わしてる成金の方が好感持てるし)

あと最終的にハルキ苦手なのってその性描写のせいもあるな、とコレを読んでて気づいたかも・・・。抵抗・闘争の手段として、あるいは本能や欲望に基づく必死なセッ○スというものが、戦後の日.本人の感覚からは消え失せてしまったのかもしれない。だから戦後生まれの彼には文学の中に織り込む価値があるだけのソレが描写できないのかな、と。昨今の低出生率を見ても(もちろん子育てにかける時間やお金が足りないという問題はあるでしょうが)、現代の日/本人にとって、交わりは死ぬ前に子供(跡継ぎ)を残すための不可欠な儀式でもなければ、恋人や夫婦といった関係に互いを繋ぎとめる手段としての役割も失い、ただの「戯れ」に過ぎないものになってしまったんじゃないか? 三島や団○六世代ではそれを超える必死さが、どうしてもこの要素、エロスを組み込まなければ登場人物の生きる世界や相手への感情や屈折、作品として表現したいことが伝わらないのだ、というほとばしる情熱のようなものが感じ取れたんだけど。(あ、私Aセクですけどソッチ系のフィクション読んだり見たりは平気です(^^)b)
ハルキのはダメだ。訳しやすいんだか何だか知らないけど直接的過ぎて、個人的に淫ら故の興奮を内包する美も、それが故の虚無に伴う儚さや哀しさを全く感じられず気持ち悪いだけ。ただの好奇心から生じる「遊び」の延長線上の性に関するトラウマ持ちなので(とココでぶっちゃける\(^o^)/)余計にかもしれないけど、純文学の世界でエロスを持ち出すならトコトンその本能・美・罪を追求するか、登場人物にとって、あるいは物語の流れの上でどうしてもそれが必要だった、という情熱がきちんと伝わるように描いてほしい。元ネタ読む限り、ハルキVer.は今のとこ何で名前借りちゃったの?ってレベルの酷いパチモンとしか思えないなぁ(´・ω・`)

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ウィンストンとジュリアの生きる抑圧された世界、愛し合う自由すらない苦しみの中で、逃げることなど不可能な現実に二人が選べる唯一の手段が心中しかないと分かっている。けれども二人はその選択肢を選ばない、なぜなら例え未来を持てない状況であっても、現在を引き伸ばしてしまうのが克服しえない本能だから、ってところがまさに今の自分の状態を表しているようで心底共感した(笑) いや私そこまでハードモードな世界に放り込まれてる訳じゃないけど、全く未来について考えられないし見通せない(自分のような存在があと何十年のうのうと生きながらえるとかゾッとするし意味がないとしか思えない)という点で(^-^;

ウィンストンが母親の記憶を取り戻すくだりでは、「愛する」という行為が最も素朴な人間性の原点で、彼はそれすらも、その感情や記憶や在り方すらも党によって奪われてしまっていたのか、って(つд`) 与えるものが何もなくてもただ愛を与える、それこそが高潔な母親の人間性だったんだ、ってジュリアとの出会いでやっと眠っていた人としての心を蘇らせることができたんだなぁ、と。

ついに出てきたブラザー同盟、明確な組織も同志愛もなく、ただ共有できるのは思想だけ、それだけは党にも誰にも奪うことができない、ってなー。世界中で反政府運動を闘ってる人が陥りがちな「組織の罠」を否定する、原点のような発想が良いと思った。全/体・共/産・社/会主義といった「大きな政府」に立ち向かうには、それらを否定する運動を繰り広げるにはまず第一に抵抗する側が「個人」であることを忘れてはいけない、と考えるから。一人一人違う考え方と記憶を持ち、「同じ」記憶や思考を押し付けられることを嫌う。そこを出発点にしていかないとダメだよね。(だから私、全く同一文体のキャッチコピー掲げてるデモ隊とかは生ぬるい目で見ちゃうし、まだ資本主義の方が支持できる。金持ちになるのも貧乏人になるのも建前上個人の選択の結果だし、下から上に這い上がれる正規のルートも一応あるから。色んな所得層ごとの商売が生まれたり、自由と多様性が感じられる社会の方が、党の区分で生活レベル振り分けられて永遠にそれに従って生きないといけない状態よりはずっとマシ。下から巻き上げた税金や賄賂で良い暮らししてるエリートより、どんな手段を使ってでも自分で稼いだ金でブイブイ言わしてる成金の方が好感持てるし)

あと最終的にハルキ苦手なのってその性描写のせいもあるな、とコレを読んでて気づいたかも・・・。抵抗・闘争の手段として、あるいは本能や欲望に基づく必死なセッ○スというものが、戦後の日.本人の感覚からは消え失せてしまったのかもしれない。だから戦後生まれの彼には文学の中に織り込む価値があるだけのソレが描写できないのかな、と。昨今の低出生率を見ても(もちろん子育てにかける時間やお金が足りないという問題はあるでしょうが)、現代の日/本人にとって、交わりは死ぬ前に子供(跡継ぎ)を残すための不可欠な儀式でもなければ、恋人や夫婦といった関係に互いを繋ぎとめる手段としての役割も失い、ただの「戯れ」に過ぎないものになってしまったんじゃないか? 三島や団○六世代ではそれを超える必死さが、どうしてもこの要素、エロスを組み込まなければ登場人物の生きる世界や相手への感情や屈折、作品として表現したいことが伝わらないのだ、というほとばしる情熱のようなものが感じ取れたんだけど。(あ、私Aセクですけどソッチ系のフィクション読んだり見たりは平気です(^^)b)
ハルキのはダメだ。訳しやすいんだか何だか知らないけど直接的過ぎて、個人的に淫ら故の興奮を内包する美も、それが故の虚無に伴う儚さや哀しさを全く感じられず気持ち悪いだけ。ただの好奇心から生じる「遊び」の延長線上の性に関するトラウマ持ちなので(とココでぶっちゃける\(^o^)/)余計にかもしれないけど、純文学の世界でエロスを持ち出すならトコトンその本能・美・罪を追求するか、登場人物にとって、あるいは物語の流れの上でどうしてもそれが必要だった、という情熱がきちんと伝わるように描いてほしい。元ネタ読む限り、ハルキVer.は今のとこ何で名前借りちゃったの?ってレベルの酷いパチモンとしか思えないなぁ(´・ω・`)

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