×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
同じスペシャル・スノーフレーク症候群でもこっちの方がはるかにマシ(´-`)
『人間失格』がアレ一冊で文庫になるほどのブームを産んで?これが谷崎の数多い短編の一つ、という扱いなのはどういうことか? 世代的な問題? それとも周囲を憐れみ見下しつつも結局はそこへの愛着を捨てられず、己が背徳者にしかなれないというどうしようもない現実への自覚を持ち続けた主人公の姿が、夢見る若者の皆さんには余りにもキツ過ぎたからなのかな? 最終的には「天使のような良い子」と他者から評価してもらえる、ボンボン属性の美青年、女から女へと渡り歩く才を持った遊び人の放蕩と破滅の方が、余りにも哀れな、生々しい「現実」に葛藤し、逃避をはかり、自己をあざむき、友人を裏切り、周囲を悲しませ・・・それでもなお「己は特別だ」という意識にすがらずにはおられない章三郎より同情や共感に値すると?^^#ニコニコビキビキ
おめでたいっすねー。あの一人称がそうさせるわけ? 自分に酔ってんじゃねぇよ、ガチのキチガ○の苦しみを知らないただのロクデナシが!私はこの三人称表記の“自伝小説”にこそ心からの同情と共感を覚えた。親が困窮し、老いていく姿を見るのはやっぱり誰だってツラいですよ。それなのに自分はこうだし、何とかしなきゃ、って考えるのに身動き取れなくてタヒぬしかない、って思ってきた。章三郎の両親の関係性はウチの両親とそっくり。最初ほぼヒモ状態でしたからね、父が(´д`) で、自分が仕事就いたから母が辞めることになって妹弟生まれて、独立して遊び歩いて・・・今のこのザマ\(^o^)/ お恥ずかしい話ぶっちゃけまくりですが、父は今まで何回自己処理未遂や失踪やらかしたか分からないし、親戚にどんだけ借りがあるのかも不明な状態。父が嫌がるから、と仕事や運営状態のキッチリした把握・干渉やソッチ系の勉強を一切してこずに送迎と主婦業にだけ徹してきた母。家族に何も教えようとしなかった父。互いに見て見ぬふりで甘えてきた部分は正直大いにあると思う。私も、初めに「休学したい」と言ってスルーされた時しつこく食い下がって説明していれば良かったのかもしれない、と考えるし。お富じゃないけど、妹や弟が私たちに軽蔑の念を抱き、何を言っても無視されるのはハッキリ言って当然のことなんだよね(-_-;)
暇潰しの道具が少なかったあの時代、家で寝ているしかない十五、六の肺病(まただよ・・・ホント祖父が奇跡なのか?(;゜0゜))患者が母親とのお喋りしかすることなくて必死に「かあちゃん、かあちゃん」って呼ぶくだり、ある意味ヒキってる自分の状況とも被るな、って涙が出た。「二十五、六にもなって学校にも行かず昼まで寝て、一体将来はどうするつもりなんだ!?」って主人公が父親からどやしつけられる言葉も刺さるし><
ただ、私はそういう時きょうだいによっぽどな態度取られない限りカーッとはならずに黙り込むか、ソッコー発作かトイレでゲー(汚くてスミマセンm(__)m)という面倒くさいパターンに陥ってしまうので、「怒り」という極めて人間味のある反応や「この長屋で高尚な問題を考えているのは俺だけ」という阿Qのような精神勝利理論を考え出す主人公のたくましさ、浅ましいまでの、いっそひたむきな人間らしさにある意味強い羨ましさを感じてしまった。やっぱ島国民は自己優越意識が強いんだ・・・!(@_@;) 同時にそれが何の役にも立たない空想同然のもので、自分はひたすら道徳心がなく怠惰でワガママで無気力な生き方しかできないただの背徳者、と自覚した上でそんな「家・家族・そして(本人がどういう認識であろうと)友達」に依存し、確かに執着して生きてきた主人公。彼にとってそれらは生まれ落ちた土と同じように切り離せない大事な存在に、確かになってしまっていたから。この辺の人間の心のどうしようもなさも解りすぎるよー(;_;)
アル中に陥り、娼婦に入れ込む主人公の前で死に際の妹が放つ「死ぬなんてこんなに楽なことなのか知ら……」15,6で死ななければならなかった女の子が、「こんな歳で死ぬなんてつまらない。けれどちっとも苦しくない。」と言った末にですよ(´;ω;`)ブワッ 幸福と捉えれば良いのか、(まだ本当の意味での世の中の幸不幸も精神的な喜びや苦しみも恐らく知らないはずなんだから)当たり前だと捉えれば良いのか。けれどもこの一言によって、章三郎は立ち直った。少なくとも彼の目的としていた、「芸術によって世に出る」という目的のための一歩を踏み出せたのは、哀れな家族、そしてお富の臨終のおかげだったのだ、と。切ない、悲しい、美しい。日/本の純文の魅力が全てここに詰まっている。章三郎は私ではない。全くタイプが異なる別人。だけれども、『人間失格』の主人公よりははるかに似ていて共感できる。現実とかけ離れていない、「どうしてもそうなってしまう」あり得べき人間の姿を、美しく、淡々としていながら生々しく描き出している。こういう現実が、人間が、どうしようもないウチの国の人々が大好きです!ムカムカしていた心を浄化させてもらったような気持ち。
社会復帰の決意を与えてくれた友人の一人が谷崎ファンで、『陰影礼賛』をモチーフに色々助言を与えたくれた思い出もあり、彼女への敬意を表して(笑)今日はコレを読んだのですが、スッキリできて良かったです^^ やっぱり本の世界は良いわ。ありがとう!ちょっと頭が休まるまで谷崎振り返って公房さんに戻ろうと思う。
おめでたいっすねー。あの一人称がそうさせるわけ? 自分に酔ってんじゃねぇよ、ガチのキチガ○の苦しみを知らないただのロクデナシが!私はこの三人称表記の“自伝小説”にこそ心からの同情と共感を覚えた。親が困窮し、老いていく姿を見るのはやっぱり誰だってツラいですよ。それなのに自分はこうだし、何とかしなきゃ、って考えるのに身動き取れなくてタヒぬしかない、って思ってきた。章三郎の両親の関係性はウチの両親とそっくり。最初ほぼヒモ状態でしたからね、父が(´д`) で、自分が仕事就いたから母が辞めることになって妹弟生まれて、独立して遊び歩いて・・・今のこのザマ\(^o^)/ お恥ずかしい話ぶっちゃけまくりですが、父は今まで何回自己処理未遂や失踪やらかしたか分からないし、親戚にどんだけ借りがあるのかも不明な状態。父が嫌がるから、と仕事や運営状態のキッチリした把握・干渉やソッチ系の勉強を一切してこずに送迎と主婦業にだけ徹してきた母。家族に何も教えようとしなかった父。互いに見て見ぬふりで甘えてきた部分は正直大いにあると思う。私も、初めに「休学したい」と言ってスルーされた時しつこく食い下がって説明していれば良かったのかもしれない、と考えるし。お富じゃないけど、妹や弟が私たちに軽蔑の念を抱き、何を言っても無視されるのはハッキリ言って当然のことなんだよね(-_-;)
暇潰しの道具が少なかったあの時代、家で寝ているしかない十五、六の肺病(まただよ・・・ホント祖父が奇跡なのか?(;゜0゜))患者が母親とのお喋りしかすることなくて必死に「かあちゃん、かあちゃん」って呼ぶくだり、ある意味ヒキってる自分の状況とも被るな、って涙が出た。「二十五、六にもなって学校にも行かず昼まで寝て、一体将来はどうするつもりなんだ!?」って主人公が父親からどやしつけられる言葉も刺さるし><
ただ、私はそういう時きょうだいによっぽどな態度取られない限りカーッとはならずに黙り込むか、ソッコー発作かトイレでゲー(汚くてスミマセンm(__)m)という面倒くさいパターンに陥ってしまうので、「怒り」という極めて人間味のある反応や「この長屋で高尚な問題を考えているのは俺だけ」という阿Qのような精神勝利理論を考え出す主人公のたくましさ、浅ましいまでの、いっそひたむきな人間らしさにある意味強い羨ましさを感じてしまった。やっぱ島国民は自己優越意識が強いんだ・・・!(@_@;) 同時にそれが何の役にも立たない空想同然のもので、自分はひたすら道徳心がなく怠惰でワガママで無気力な生き方しかできないただの背徳者、と自覚した上でそんな「家・家族・そして(本人がどういう認識であろうと)友達」に依存し、確かに執着して生きてきた主人公。彼にとってそれらは生まれ落ちた土と同じように切り離せない大事な存在に、確かになってしまっていたから。この辺の人間の心のどうしようもなさも解りすぎるよー(;_;)
アル中に陥り、娼婦に入れ込む主人公の前で死に際の妹が放つ「死ぬなんてこんなに楽なことなのか知ら……」15,6で死ななければならなかった女の子が、「こんな歳で死ぬなんてつまらない。けれどちっとも苦しくない。」と言った末にですよ(´;ω;`)ブワッ 幸福と捉えれば良いのか、(まだ本当の意味での世の中の幸不幸も精神的な喜びや苦しみも恐らく知らないはずなんだから)当たり前だと捉えれば良いのか。けれどもこの一言によって、章三郎は立ち直った。少なくとも彼の目的としていた、「芸術によって世に出る」という目的のための一歩を踏み出せたのは、哀れな家族、そしてお富の臨終のおかげだったのだ、と。切ない、悲しい、美しい。日/本の純文の魅力が全てここに詰まっている。章三郎は私ではない。全くタイプが異なる別人。だけれども、『人間失格』の主人公よりははるかに似ていて共感できる。現実とかけ離れていない、「どうしてもそうなってしまう」あり得べき人間の姿を、美しく、淡々としていながら生々しく描き出している。こういう現実が、人間が、どうしようもないウチの国の人々が大好きです!ムカムカしていた心を浄化させてもらったような気持ち。
社会復帰の決意を与えてくれた友人の一人が谷崎ファンで、『陰影礼賛』をモチーフに色々助言を与えたくれた思い出もあり、彼女への敬意を表して(笑)今日はコレを読んだのですが、スッキリできて良かったです^^ やっぱり本の世界は良いわ。ありがとう!ちょっと頭が休まるまで谷崎振り返って公房さんに戻ろうと思う。
PR
追記を閉じる▲
おめでたいっすねー。あの一人称がそうさせるわけ? 自分に酔ってんじゃねぇよ、ガチのキチガ○の苦しみを知らないただのロクデナシが!私はこの三人称表記の“自伝小説”にこそ心からの同情と共感を覚えた。親が困窮し、老いていく姿を見るのはやっぱり誰だってツラいですよ。それなのに自分はこうだし、何とかしなきゃ、って考えるのに身動き取れなくてタヒぬしかない、って思ってきた。章三郎の両親の関係性はウチの両親とそっくり。最初ほぼヒモ状態でしたからね、父が(´д`) で、自分が仕事就いたから母が辞めることになって妹弟生まれて、独立して遊び歩いて・・・今のこのザマ\(^o^)/ お恥ずかしい話ぶっちゃけまくりですが、父は今まで何回自己処理未遂や失踪やらかしたか分からないし、親戚にどんだけ借りがあるのかも不明な状態。父が嫌がるから、と仕事や運営状態のキッチリした把握・干渉やソッチ系の勉強を一切してこずに送迎と主婦業にだけ徹してきた母。家族に何も教えようとしなかった父。互いに見て見ぬふりで甘えてきた部分は正直大いにあると思う。私も、初めに「休学したい」と言ってスルーされた時しつこく食い下がって説明していれば良かったのかもしれない、と考えるし。お富じゃないけど、妹や弟が私たちに軽蔑の念を抱き、何を言っても無視されるのはハッキリ言って当然のことなんだよね(-_-;)
暇潰しの道具が少なかったあの時代、家で寝ているしかない十五、六の肺病(まただよ・・・ホント祖父が奇跡なのか?(;゜0゜))患者が母親とのお喋りしかすることなくて必死に「かあちゃん、かあちゃん」って呼ぶくだり、ある意味ヒキってる自分の状況とも被るな、って涙が出た。「二十五、六にもなって学校にも行かず昼まで寝て、一体将来はどうするつもりなんだ!?」って主人公が父親からどやしつけられる言葉も刺さるし><
ただ、私はそういう時きょうだいによっぽどな態度取られない限りカーッとはならずに黙り込むか、ソッコー発作かトイレでゲー(汚くてスミマセンm(__)m)という面倒くさいパターンに陥ってしまうので、「怒り」という極めて人間味のある反応や「この長屋で高尚な問題を考えているのは俺だけ」という阿Qのような精神勝利理論を考え出す主人公のたくましさ、浅ましいまでの、いっそひたむきな人間らしさにある意味強い羨ましさを感じてしまった。やっぱ島国民は自己優越意識が強いんだ・・・!(@_@;) 同時にそれが何の役にも立たない空想同然のもので、自分はひたすら道徳心がなく怠惰でワガママで無気力な生き方しかできないただの背徳者、と自覚した上でそんな「家・家族・そして(本人がどういう認識であろうと)友達」に依存し、確かに執着して生きてきた主人公。彼にとってそれらは生まれ落ちた土と同じように切り離せない大事な存在に、確かになってしまっていたから。この辺の人間の心のどうしようもなさも解りすぎるよー(;_;)
アル中に陥り、娼婦に入れ込む主人公の前で死に際の妹が放つ「死ぬなんてこんなに楽なことなのか知ら……」15,6で死ななければならなかった女の子が、「こんな歳で死ぬなんてつまらない。けれどちっとも苦しくない。」と言った末にですよ(´;ω;`)ブワッ 幸福と捉えれば良いのか、(まだ本当の意味での世の中の幸不幸も精神的な喜びや苦しみも恐らく知らないはずなんだから)当たり前だと捉えれば良いのか。けれどもこの一言によって、章三郎は立ち直った。少なくとも彼の目的としていた、「芸術によって世に出る」という目的のための一歩を踏み出せたのは、哀れな家族、そしてお富の臨終のおかげだったのだ、と。切ない、悲しい、美しい。日/本の純文の魅力が全てここに詰まっている。章三郎は私ではない。全くタイプが異なる別人。だけれども、『人間失格』の主人公よりははるかに似ていて共感できる。現実とかけ離れていない、「どうしてもそうなってしまう」あり得べき人間の姿を、美しく、淡々としていながら生々しく描き出している。こういう現実が、人間が、どうしようもないウチの国の人々が大好きです!ムカムカしていた心を浄化させてもらったような気持ち。
社会復帰の決意を与えてくれた友人の一人が谷崎ファンで、『陰影礼賛』をモチーフに色々助言を与えたくれた思い出もあり、彼女への敬意を表して(笑)今日はコレを読んだのですが、スッキリできて良かったです^^ やっぱり本の世界は良いわ。ありがとう!ちょっと頭が休まるまで谷崎振り返って公房さんに戻ろうと思う。
PR
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック