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八万打記念にしようとして数字入れる余地もない別物になってた件。
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緑の瞳には魔が宿るのだと言う。それを教えてくれたのは、いったい誰の声音であったか――
パチリと目を見開いた赤子に手を伸ばそうとしたレスターのこめかみに、一瞬鋭い痛みが走る。
「何だ……?」
音と色と光の洪水、怒涛のように押し寄せる記憶と感情の波。
「あなた、どうかして?」
心配そうに彼の腕に触れた妻を
「大丈夫だ」
と振り返ろうとして――レスターは気づいてしまった。妻の瞳は青だ、緑ではない、彼が愛した、この赤子と同じ色を持つ瞳の主は。
「レスター! クレア! よく来てくれたね、嬉しいよ」
ドクン、ドクン、心臓が酷く脈打ち鼓動が増す。明るく笑いながらこちらへ手を差し出す男ぶりの良い青年は無二の親友、そして彼は今日その赤ん坊の誕生祝いのために屋敷を訪れたのだ。何故ならば――
「義兄さま、姉さま、わざわざ足をお運びいただきありがとうございます。この子も、お二人にお会いできてとても喜んでいると思いますわ」
緑の瞳、艶やかなブルネットの髪を流して、レスターを義兄(あに)と呼んだ彼女こそが、彼の愛する人のはずだった。本当に心から、二人は愛し合っていたはずだった――何故だ? ヴァイオラ? レスターの目に込められた必死の問いに、彼女はわずかに目を瞠り、ふと赤子に視線を逸らして息を吐いた。魔法が、解けてしまったのね――その後に向けられた苦笑のような表情(かお)に、レスターは絶望しながら黙りこまざるを得なかった。
クレアとヴァイオラの姉妹の実家であるメルヴィル家とレスターのリヴァーモア家はかねてより深い付き合いがあった。物心ついた時には両家の子女を結婚させようという計画があり、年の近いリヴァーモアの跡取りレスターとメルヴィルの長女クレアの婚約が暗黙の了解のごとく進んでいた。けれど人の心とはうまく行かないもので――年に幾度か互いの家を訪ね、社交界にデビューを果たして夜会で顔を合わせる内、レスターは姉のクレアではなく妹のヴァイオラの方に惹かれるようになってしまった。クレアより二つ年下のヴァイオラの反応も満更ではなく、やがて彼女はレスターの気持ちに応えるようになった。晴天の空のような美しい金の巻き毛に鮮やかな青の瞳を持つ姉とは違い、深すぎるブルネットに緑の瞳を持つ彼女のことを、暗い森の沼と揶揄する輩も周囲にはいた。思ったことをハッキリと口にし、年かさのレスターにも物怖じせずに振る舞う姉を羨んでいた彼女だからこそ、憧れの幼なじみ、姉と想い合うはずのレスターが自身を選んでくれたことに歓喜したのだ。
『私は分かりにくいでしょう? 目立たないし、いつも上手く自分の気持ちを伝えられないの……。大事にしようと思うほど、どの立場に立てば良いのか、どうすればお互いを傷つけずに済むか悩んでしまうのよ』
『それはおまえが優しいからだ、ほかの人間には無いヴァイオラのそういうところが、私は好きだ』
触れる唇の熱が愛しく、肩に回る柔らかな腕と甘い匂いに目もくらみそうなほど――彼らは想い合っていた、深く、確かに。
『ヴァイオラ、私と結婚してくれ。クレアと私の婚約は親同士の取り決めだ、おまえだってメルヴィルの娘だろう? 変更して不都合なことは無いはずだ』
『レスター、待って。あなたと姉さまは、幼い頃から……長い間、ずっとフィアンセとして過ごしてきたわ。時間が要ると思うの、余り急いて事を荒立てては……』
早期にクレアとの婚約解消とヴァイオラとの結婚を望むレスターに対し、ヴァイオラは曖昧に言葉を濁しながら、頑なに二人の仲を周囲に打ち明けることを拒み続けた。彼女は知っていた――気位の高い姉が、いつも憎まれ口ばかり叩く婚約者を本当は好ましく思っていることを。姉と似ても似つかない自分の実母が本当は当主の妹で、屋敷の下男と駆け落ちの挙句うらぶれた街で命と引き換えに産み落とした赤子が己なのだということを。家の体面のためだけに引き取られた立場のヴァイオラと、大事な取引相手であるリヴァーモア家の縁など誰も喜びはすまい。そしてまたその複雑な立場で育まれたいささか自虐的な歪んだ不信を、彼女は恋人に対しても向けてしまっていたのだ。
『一つ、約束をしましょう。レスター、あなたは私を好きだと言うわ。姉さまよりも愛していると。私といることが幸せだと。でもそれが本当かどうか……試してみたいの』
あれは彼とクレアの婚約披露の夜だった。辛抱の限界に達したレスターは人目につかない薔薇の茂みにヴァイオラを引き込み、この機会に彼女との関係と新たな婚約を公にしたいと強く恋人に訴えた。すると彼女は困ったように微笑んで人差し指をレスターの唇にあて
『私の目を見て、レスター。あなたは今から、私とのこと、私を愛したことも、愛されたことも全ての記憶を忘れるわ。……思い出すのは、そうね、あなたが本当に“私”を忘れてしまった時、私と過ごすのではないこの先の世界で、幸せを感じた瞬間にきっとすべてを思い出すのよ』
それは彼女の賭け、祈り、呪い。己のいない時間の中で彼が幸せになれるはずがない――なってほしくない。猜疑と執着の果て、ヴァイオラは深く澄んだ瞳で男を見た。
『何を……言っているんだヴァイオラ?』
『緑の瞳には魔が宿るのよ……だからこれは魔法。お願い、レスター、私の魔法にかけられて?』
深く暗い沼の底に突き落とされるように、レスターの記憶は沈んだ。ほどなく彼とクレアの婚約は正式に披露目され、翌年二人は結婚する。今では立派な跡取りさえ生まれているのだ、レスターは
「とうさま、ぼくもごあいさつ!」
と駆けてくる幼い子供の身体を受け止めながら震えそうになる腕を必死に止めた。
一体どこで間違ったのか――ヴァイオラに最後まで自分の気持ちを、認めさせることができなかったから? 妻が己に向ける慕情のこもった眼差しを、無視しきることが叶わなかったからだろうか? ヴァイオラ、ヴァイオラ、緑の魔女よ――おまえは何を、望んでいた?
~~~
キースがヴァイオラと初めて出会ったのは親友の婚約披露の席だった。華やかな宴のテーブルから離れた薔薇の茂みの中で、彼女は一人うつむいて涙を流しているように彼の目には見えた。
『どうしたの? 君、大丈夫?』
慌てて駆け寄ったキースに彼女は首を振って
『ちょっと……失恋しちゃったの』
と懸命に微笑んでみせた。その潤んだ緑の瞳に、彼は一目で恋に落ちた。親友レスターの婚約者、クレアの妹であるヴァイオラに。大学で知り合ったレスターは名家の出でありながら気取ったところがなく、貧しい育ちのキースとも対等に向き合ってくれた。自ら事業を起こしそれなりに豊かになった今でも、気兼ねない付き合いのできる大切な親友で尊敬する男。彼女が泣いたのが彼の婚約に対してなら、悔しいが納得できる、とキースは思った。濃い栗色の髪、理知的な瞳、整った鼻梁――どこから見ても文句のつけようがない魅力的な男だ。それも彼女の姉が相手だというのなら、幼い頃からそう見られてきた二人だというのなら余計にどうしようもないだろう。キースは彼女を慰めようと必死に手紙を書き、忙しい日程を調整してはささやかな土産を携えて彼女の家を訪ねるようになった。
『お優しいのね、ラムゼイさん。もう大丈夫だと言っているのに……』
『キースって呼んでくれよ。それにこれは、優しさなんかじゃなくて……』
大きく見開かれた緑の瞳に、そっと上からキスを落として。真っ赤に染まった滑らかな頬に、彼はもう一度唇で触れた。嫌がられはしなかった。そのことが、キースに大きな自信を与えた。二人の交際にヴァイオラの家族から強く反対されることは無かったし、キースは根なし草も同然、親友の恋をヴァイオラの義兄となったレスターもまた苦笑まじりに見守ってくれていたように思う。かくて二人は先年結ばれ、初めての子宝に恵まれて、祝福の中幸せの絶頂にあるはずなのだが――
「レスター?」
目の前の親友から漂う、この酷く重い、澱んだ空気は何だろう? 強い怒りを孕んだような、何かを激しく責め立てるような――混乱と慟哭、そして燃える嫉妬の眼差しが、キースと家族に向けられていた。
「……ご気分がお悪いのでしたら、木陰でお休みになられては?」
そんな空気を意に介する素振りもなくニコリと微笑む妻の顔にもどこか禍々しいものを感じ、彼の背にじわりと冷たい汗が滲んだ。まさか、自分は間違っていたというのだろうか――? レスター夫妻が初めから愛し合っていたように見えたのも、彼女の恋が片思いに終わったというのも、どうして、どうしてこの緑――穏やかな木漏れ日の影が眩い反射光へ姿を変える瞬間に、惹かれぬ者がいるだろうか。……それでももう、後戻りはできなかった。
「いや、レスターは薔薇の香りに酔ったんじゃないか? 返って日のあたらない家の中に入った方が良いかもしれない」
妻の腰を強く抱き寄せて、キースはじっとレスターを見すえる。かつて向けられたことが無いほど飢えた憎しみの眼差しでこちらを射抜く親友からは、確かに同種の想いを感じた。そしてその傍らに立つ彼の妻は、すがるように不安げな目で夫を見ている。彼女は知っていたのかもしれない、夫と妹と“魔法”のことを。それ故に恐れているのか、だからこそ縛れるのか。しがらみに囚われた彼らの魔法は、そう簡単に解けはしない。解かせはしないだろう――きっと自分が、そうはさせない。
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緑の瞳には魔が宿るのだと言う。それを教えてくれたのは、いったい誰の声音であったか――
パチリと目を見開いた赤子に手を伸ばそうとしたレスターのこめかみに、一瞬鋭い痛みが走る。
「何だ……?」
音と色と光の洪水、怒涛のように押し寄せる記憶と感情の波。
「あなた、どうかして?」
心配そうに彼の腕に触れた妻を
「大丈夫だ」
と振り返ろうとして――レスターは気づいてしまった。妻の瞳は青だ、緑ではない、彼が愛した、この赤子と同じ色を持つ瞳の主は。
「レスター! クレア! よく来てくれたね、嬉しいよ」
ドクン、ドクン、心臓が酷く脈打ち鼓動が増す。明るく笑いながらこちらへ手を差し出す男ぶりの良い青年は無二の親友、そして彼は今日その赤ん坊の誕生祝いのために屋敷を訪れたのだ。何故ならば――
「義兄さま、姉さま、わざわざ足をお運びいただきありがとうございます。この子も、お二人にお会いできてとても喜んでいると思いますわ」
緑の瞳、艶やかなブルネットの髪を流して、レスターを義兄(あに)と呼んだ彼女こそが、彼の愛する人のはずだった。本当に心から、二人は愛し合っていたはずだった――何故だ? ヴァイオラ? レスターの目に込められた必死の問いに、彼女はわずかに目を瞠り、ふと赤子に視線を逸らして息を吐いた。魔法が、解けてしまったのね――その後に向けられた苦笑のような表情(かお)に、レスターは絶望しながら黙りこまざるを得なかった。
クレアとヴァイオラの姉妹の実家であるメルヴィル家とレスターのリヴァーモア家はかねてより深い付き合いがあった。物心ついた時には両家の子女を結婚させようという計画があり、年の近いリヴァーモアの跡取りレスターとメルヴィルの長女クレアの婚約が暗黙の了解のごとく進んでいた。けれど人の心とはうまく行かないもので――年に幾度か互いの家を訪ね、社交界にデビューを果たして夜会で顔を合わせる内、レスターは姉のクレアではなく妹のヴァイオラの方に惹かれるようになってしまった。クレアより二つ年下のヴァイオラの反応も満更ではなく、やがて彼女はレスターの気持ちに応えるようになった。晴天の空のような美しい金の巻き毛に鮮やかな青の瞳を持つ姉とは違い、深すぎるブルネットに緑の瞳を持つ彼女のことを、暗い森の沼と揶揄する輩も周囲にはいた。思ったことをハッキリと口にし、年かさのレスターにも物怖じせずに振る舞う姉を羨んでいた彼女だからこそ、憧れの幼なじみ、姉と想い合うはずのレスターが自身を選んでくれたことに歓喜したのだ。
『私は分かりにくいでしょう? 目立たないし、いつも上手く自分の気持ちを伝えられないの……。大事にしようと思うほど、どの立場に立てば良いのか、どうすればお互いを傷つけずに済むか悩んでしまうのよ』
『それはおまえが優しいからだ、ほかの人間には無いヴァイオラのそういうところが、私は好きだ』
触れる唇の熱が愛しく、肩に回る柔らかな腕と甘い匂いに目もくらみそうなほど――彼らは想い合っていた、深く、確かに。
『ヴァイオラ、私と結婚してくれ。クレアと私の婚約は親同士の取り決めだ、おまえだってメルヴィルの娘だろう? 変更して不都合なことは無いはずだ』
『レスター、待って。あなたと姉さまは、幼い頃から……長い間、ずっとフィアンセとして過ごしてきたわ。時間が要ると思うの、余り急いて事を荒立てては……』
早期にクレアとの婚約解消とヴァイオラとの結婚を望むレスターに対し、ヴァイオラは曖昧に言葉を濁しながら、頑なに二人の仲を周囲に打ち明けることを拒み続けた。彼女は知っていた――気位の高い姉が、いつも憎まれ口ばかり叩く婚約者を本当は好ましく思っていることを。姉と似ても似つかない自分の実母が本当は当主の妹で、屋敷の下男と駆け落ちの挙句うらぶれた街で命と引き換えに産み落とした赤子が己なのだということを。家の体面のためだけに引き取られた立場のヴァイオラと、大事な取引相手であるリヴァーモア家の縁など誰も喜びはすまい。そしてまたその複雑な立場で育まれたいささか自虐的な歪んだ不信を、彼女は恋人に対しても向けてしまっていたのだ。
『一つ、約束をしましょう。レスター、あなたは私を好きだと言うわ。姉さまよりも愛していると。私といることが幸せだと。でもそれが本当かどうか……試してみたいの』
あれは彼とクレアの婚約披露の夜だった。辛抱の限界に達したレスターは人目につかない薔薇の茂みにヴァイオラを引き込み、この機会に彼女との関係と新たな婚約を公にしたいと強く恋人に訴えた。すると彼女は困ったように微笑んで人差し指をレスターの唇にあて
『私の目を見て、レスター。あなたは今から、私とのこと、私を愛したことも、愛されたことも全ての記憶を忘れるわ。……思い出すのは、そうね、あなたが本当に“私”を忘れてしまった時、私と過ごすのではないこの先の世界で、幸せを感じた瞬間にきっとすべてを思い出すのよ』
それは彼女の賭け、祈り、呪い。己のいない時間の中で彼が幸せになれるはずがない――なってほしくない。猜疑と執着の果て、ヴァイオラは深く澄んだ瞳で男を見た。
『何を……言っているんだヴァイオラ?』
『緑の瞳には魔が宿るのよ……だからこれは魔法。お願い、レスター、私の魔法にかけられて?』
深く暗い沼の底に突き落とされるように、レスターの記憶は沈んだ。ほどなく彼とクレアの婚約は正式に披露目され、翌年二人は結婚する。今では立派な跡取りさえ生まれているのだ、レスターは
「とうさま、ぼくもごあいさつ!」
と駆けてくる幼い子供の身体を受け止めながら震えそうになる腕を必死に止めた。
一体どこで間違ったのか――ヴァイオラに最後まで自分の気持ちを、認めさせることができなかったから? 妻が己に向ける慕情のこもった眼差しを、無視しきることが叶わなかったからだろうか? ヴァイオラ、ヴァイオラ、緑の魔女よ――おまえは何を、望んでいた?
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キースがヴァイオラと初めて出会ったのは親友の婚約披露の席だった。華やかな宴のテーブルから離れた薔薇の茂みの中で、彼女は一人うつむいて涙を流しているように彼の目には見えた。
『どうしたの? 君、大丈夫?』
慌てて駆け寄ったキースに彼女は首を振って
『ちょっと……失恋しちゃったの』
と懸命に微笑んでみせた。その潤んだ緑の瞳に、彼は一目で恋に落ちた。親友レスターの婚約者、クレアの妹であるヴァイオラに。大学で知り合ったレスターは名家の出でありながら気取ったところがなく、貧しい育ちのキースとも対等に向き合ってくれた。自ら事業を起こしそれなりに豊かになった今でも、気兼ねない付き合いのできる大切な親友で尊敬する男。彼女が泣いたのが彼の婚約に対してなら、悔しいが納得できる、とキースは思った。濃い栗色の髪、理知的な瞳、整った鼻梁――どこから見ても文句のつけようがない魅力的な男だ。それも彼女の姉が相手だというのなら、幼い頃からそう見られてきた二人だというのなら余計にどうしようもないだろう。キースは彼女を慰めようと必死に手紙を書き、忙しい日程を調整してはささやかな土産を携えて彼女の家を訪ねるようになった。
『お優しいのね、ラムゼイさん。もう大丈夫だと言っているのに……』
『キースって呼んでくれよ。それにこれは、優しさなんかじゃなくて……』
大きく見開かれた緑の瞳に、そっと上からキスを落として。真っ赤に染まった滑らかな頬に、彼はもう一度唇で触れた。嫌がられはしなかった。そのことが、キースに大きな自信を与えた。二人の交際にヴァイオラの家族から強く反対されることは無かったし、キースは根なし草も同然、親友の恋をヴァイオラの義兄となったレスターもまた苦笑まじりに見守ってくれていたように思う。かくて二人は先年結ばれ、初めての子宝に恵まれて、祝福の中幸せの絶頂にあるはずなのだが――
「レスター?」
目の前の親友から漂う、この酷く重い、澱んだ空気は何だろう? 強い怒りを孕んだような、何かを激しく責め立てるような――混乱と慟哭、そして燃える嫉妬の眼差しが、キースと家族に向けられていた。
「……ご気分がお悪いのでしたら、木陰でお休みになられては?」
そんな空気を意に介する素振りもなくニコリと微笑む妻の顔にもどこか禍々しいものを感じ、彼の背にじわりと冷たい汗が滲んだ。まさか、自分は間違っていたというのだろうか――? レスター夫妻が初めから愛し合っていたように見えたのも、彼女の恋が片思いに終わったというのも、どうして、どうしてこの緑――穏やかな木漏れ日の影が眩い反射光へ姿を変える瞬間に、惹かれぬ者がいるだろうか。……それでももう、後戻りはできなかった。
「いや、レスターは薔薇の香りに酔ったんじゃないか? 返って日のあたらない家の中に入った方が良いかもしれない」
妻の腰を強く抱き寄せて、キースはじっとレスターを見すえる。かつて向けられたことが無いほど飢えた憎しみの眼差しでこちらを射抜く親友からは、確かに同種の想いを感じた。そしてその傍らに立つ彼の妻は、すがるように不安げな目で夫を見ている。彼女は知っていたのかもしれない、夫と妹と“魔法”のことを。それ故に恐れているのか、だからこそ縛れるのか。しがらみに囚われた彼らの魔法は、そう簡単に解けはしない。解かせはしないだろう――きっと自分が、そうはさせない。
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